第二十八章 エドモンの帰郷

「オーレリー!」
 工場へ向かう馬車の中で、そのように叫ぶ工女の声が聞こえ、ビルフランはさりげなくそちらの方に顔を向けた。
 馬車の窓に、二人の工女が話しながら工場へ向かっている様子がちらりと横切った。
 それからビルフランは馬車の中で一人、ため息をついた。
 妻が亡くなってから、かれこれ十七年が経つ。彼はその悲しみを仕事に没頭することで忘れようとした。しかしここにきて自らの体力の衰えを実感するにすれ、悲しみとはまた別の、喪失感を感じるようになっていた。
 そのためか、妻の名前を耳にすると、その人物をさりげなく確認する癖がついた。特に自社の工場で働くものだった場合、不自然にならず、また他人に気づかれない範囲で、賃金や待遇の面で優遇することもあった。
 しかしそれらも、所詮は彼の自己満足に過ぎない話である。それを分かっているビルフランは、自嘲した。

 工場は順調すぎるほど順調である。リュックが独立してから五年が過ぎたが、その影響などなかったかのようであった。すでにビルフランも、すべての社員の名前と顔を覚えることが難しくなっていた。
 ただしビルフランが社員の顔を覚えきれなくなった理由はそれだけではない。体調を崩して二ヶ月程出社できない時期があった上に、最近、目もよく見えなくなってきたのである。
 もうひとつ、彼を悩ませていたのが、親族であった。姉も義姉も、頻繁に彼の元にお金を借りに来るのである。一度の金額はさほどではなかったが、しかしその金が返ってきたことは一度もなかった。
 それでもお金を貸すのは、仕事の上で彼女の夫たちの会社を優遇することはしていない分、彼女らの願いを聞くことで親戚としての親切を示しているにすぎなかった。実際、彼女らはそれなりのもっともらしい理由をつけてお金を借りに来ていたし、貸すお金の額もビルフランの収入と比較したなら、微々たる物に過ぎないのである。
とはいえ、彼女らが口では感謝しながらも、当然のように借りて行くのを見るのは、気持ちの良いものではないも事実であった。
 順調な工場とは対照的に、ビルフラン自身には多くの苦難が降りかかりつつあったのである。
 しかしそんな彼にも、いくつかのうれしい話があった。
 ひとつには、アランの会社を辞めたセバスチャンが、彼の屋敷で働き始めたことである。
本当であれば、自分の秘書として働いてほしいという思いがあったが、しかし屋敷で長年働いていた執事がまもなく辞める上に、セバスチャン自身もそれを望んでいたため、彼の代わりとしてセバスチャンが屋敷で働くことになったのである。
 もうひとつ、ビルフランにとっての楽しみは、今日の午後、学校の休暇でエドモンが帰ってくることであった。
 季節ごとの休みに帰ってくるとはいえ、家を空ける時間のほうが長いことは事実であり、だからこそ息子の帰郷はなによりも待ち遠しかった。
 昼過ぎには家に戻っているはずである。とはいえ仕事はいつも通りに行うため、会うのは夕方である。
 会社では、いつもと変わらず仕事をするだけであった。

「おはようございます、ビルフラン様」
 ビルフランが出社すると、いつも彼よりも早くタルエルが待っており、社長に恭しく挨拶をした。
「おはよう、タルエル君」
 ビルフランが返す挨拶もいつも同じである。しかし、続いてタルエルが口にしたのは、いつもどおりではなかった。
「今日はエドモン様がお帰りになる日だと記憶しておりますが」
 それを聞いて、自然とビルフランの顔が緩んだ。
「ああ、その予定だ」
「お仕事はいつもどおりでよろしいですか?」
「それで構わん。エドモンもそれくらいはわきまえておる」
「わかりました。それでは失礼します」
 タルエルは一礼して自分の部屋へと戻った。

 タルエルは五年前に幹部となって以来、瞬く間にパンダボアヌ工場の副工場長に出世した。すでにビルフランの右腕として存分にその手腕を発揮し、工場長になるのも時間の問題と目されている。
 しかしタルエルは、自分のこの地位を当然のものと考えていた。
 実際のところ、彼はこの工場が稼動し始めたときから勤めている、数少ない人物であった。しかも彼の勤勉さについては、多くの者が証言するところである。
 そしてタルエル自身が一番、そのことを理解していた。自分の今の地位は、自分の身を粉にした働きの末に獲得したものであり、誰にもとやかく言われるものではない。
「そう、俺は働きに見合うものを手に入れたに過ぎない。それなのに・・・」
 タルエルはビルフラン・パンダボアヌという偉大な人物の一人息子のことを思い浮かべていた。
 ――それなのに奴は、ただ社長の息子というだけで、俺が汗水流して手に入れた地位よりも上の地位を手に入れようとしている。
 口にこそしなかったが、それはタルエルの本心であった。
――エドモンという人物に、一体どのような能力があるというのか?ビルフランさまは自分の兄弟とでさえ、商取引の上で優遇することはなかった。それなのに、ただ彼の息子というだけで、海のものとも山のものとも付かない若造に、俺は仕えなければいけないのか?
 ――とはいえ、二人の親子の絆は強い。何事もなければ社長の椅子はスムーズにエドモンに引き継がれるであろう。そう何事もなければ・・・。
 そう考えたとき、タルエルは身震いした。
先に進むには自ら行動を起こさなければいけない。そう、社長とその息子の間に亀裂をいれるのである。しかしそんなことを企んでいたことが知られたなら、すべてを失うことになるのもまた間違いなかった。
 今の立場を保つことだけを考えるなら、余計な波風を立てず、むしろエドモンの好意も繋ぎとめておくことの方が大事である。
 進むべきか、それともとどまるべきか、タルエルは思案をしつつ、朝の会議の席へと向かった。

「ここがお前の故郷か」
 駅に到着した汽車から降りた若者は、先に降りていた友人にそういった。
「ここから少しある。歩くのは構わないだろう?」
「ああ、問題ない。だが本当に悪いな。折角の休みに邪魔して」
「いいんだよ。急な話だったから父さんに連絡できなかったけど、追い返しはしないさ」
「ま、たとえ追い返されても最初の予定通りになるだけだ。噂のパンダボアヌ工場の社長を間近で見に来たと思えばいいさ」
 おどけて言う若者に、その友人も笑って返した。
「馬鹿、父さんを見たって腹の足しにもならないぞ。ギョームは頭がいいんだ。父さんも気に入ってくれるよ」
 その言葉に、ギョームと呼ばれた若者はわざと難しい顔をした。
「なるほど、気に入られたならパンダボアヌ工場の工員に紛れ込むことぐらいはできるかもしれないな」
 それを聞いた友人エドモンは、彼の頭を小突いた。
「工員なんて、気に入られなくたっていつでも雇ってもらえるよ。わたしは君がその程度の野心しか持っていないとは思わないよ」
「ほう、君はわたしの野心を知っているというのかい」
 難しい顔のままギョームがエドモンを睨み付けると、彼は笑って答えた。
「そうさ。君は大きな会社に入り、そこで瞬く間に出世をし、十分なお金を稼いで引退するんだ。そして残りの人生を酒に囲まれて過ごすんだろう?」
 それを聞いて、ギョームは笑った。
「うん、それはいいかもしれない。酒に囲まれて過ごすというのが気に入った」
「だけど、父さんの前ではこういう話はしないほうがいいな。父さんは酔っ払いが嫌いだから」
「そうなんだ。それならば酔いは老後の楽しみにとっておくことにしよう」
 ギョームが再び顰め面でそういうと、エドモンはまたもや大笑いした。
 それから二人はマロクールへ向かって歩き出した。
 若い二人があれこれと無駄話をしながら歩けば、多少の距離でもあっという間に過ぎる。気が付けばすでにマロクールの街に入っていた。
「やあ、こんな田舎町なのに活気があるなあ」
「田舎町はないだろう。否定もできないけどね」
 苦笑しながらエドモンが言い返すと、道路の向こうから彼を呼ぶ声がした。
「エドモン様じゃありませんか!」
 エドモンが声のほうを向くと、そこには懐かしい顔があった。
「フランソワーズ、ただいま」
 エドモンが笑いながら挨拶をすると、フランソワーズは駆け寄ってきて彼を抱擁した。
「また大きくなったねえ。そちらはお友達かい?」
「ええ。友人のギョームですよ。こちらはわたしの乳母だったフランソワーズだ」
「そうかいそうかい、ようこそマロクールへ」
 フランソワーズはギョームにも歓迎の言葉をかけ、さらにエドモンに尋ねた。
「昼食はもう食べたのかい?」
「いえ、家に帰ってから食べる予定です」
「それならちょうどいい、わたしの店によっていきなさい。久しぶりにわたしの料理を食べさせてあげるから」
 そういって、フランソワーズは二人を無理やり自分の店へと連れ込んだ。
「ゼノビ、昼食を二人分用意しておくれ」
 フランソワーズは娘にそう告げると、すぐに奥の部屋へと二人を案内し、そして夕方まで二人を離そうとしなかった。

 ビルフランが一日の仕事を終えて屋敷へと帰ると、ちょうど玄関のところで帰ってきた息子と出会った。
「ただいま、父さん」
「おかえり、エドモン。」
 ビルフランは相好を崩してエドモンを迎えながらも、到着したばかりであることを不審に思った。
「昼には到着すると聞いていたが、汽車が遅れたのか?」
「いえ、フランソワーズに捕まっていました」
 エドモンの返事に、ビルフランは再び笑った。
「そうか、フランソワーズもお前がいないと寂しいのだろうな」
 そういってから、彼の後ろにいる若者に注意を向けた。
「そちらは?」
「学友のギョームです。休みに戻る場所がないというので、うちに招いたんですよ」
 エドモンに紹介されてギョームも挨拶をした。
「ギョームといいます。フランス一の紡績工場の社長にお会いできて光栄です」
「彼は両親を失っていますが、優秀な学生で奨学金をもらっているんですよ。休みの間、うちに泊めても構わないでしょう」
 エドモンの頼みに、ビルフランも異存はなかった。
「ギョーム君、自分の家だと思って寛いでもらって構わない」
 その言葉に、ギョームは再び礼を言った。
 その日から、ギョームはエドモンの友人として、パンダボアヌ邸の客人となった。

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