第二十九章 エドモンを巡る人々

 その週の日曜日、タルエルの家を訪れた一人の初老の男がいた。人目を気にするように彼の家の扉を叩くと、すぐにその中に招き入れられた。
「いつもすまないな、マチュー」
「いえいえ、私のほうこそ、いつもお世話になっておりまして」
 マチューと呼ばれた初老の男は、そういってタルエルに礼を言った。
「それで、ビルフラン様の様子にお変わりはないかね」
 いかにも親切な口調で尋ねるタルエルに、マチューも丁寧に答えた。
「はい。体調もあまりお変わりもなく。お食事もいつもどおり召し上がっております」
「そうか、それはよかった。エドモン様もお元気かね」
「はい。そのエドモン様がお連れになったギョーム様という御学友が、非常に知識も豊富でして、最近は夕食後にはビルフラン様の話し相手などをしております」
「ほう、そのギョームという男は、パンダボアヌ家で厄介になっているのかね」
「そのとおりでございます」
 タルエルの問いに、マチューは頷いた。
「そのギョームという男は、信用できるのかね」
 確認するようにタルエルが聞くと、マチューは首をかしげた。
「もしかしたなら、その男はエドモン様を利用してビルフラン様に取り入り、うまい汁を吸おうとしているのではないかね」
「それは・・・ないと思いますが」
 マチューが思案しながら答えると、タルエルは難しい顔をした。
「もしもということもあるが、まあいいでしょう。それでマチューはいつまでビルフラン様のところで働くのかね」
「はい、あとひと月ほどで、セバスチャン殿にすべての仕事を引き継ぎ終わりますので、それをめどに辞すことになっています」
「そうか。今までご苦労だったな」
 タルエルが労をねぎらうと、マチューはさらに重ねて尋ねた。
「セバスチャン殿にも、タルエル様との連絡を取るよう、わたしから伝えましょうか?」
 しかしタルエルは首を振った。
「こういうことは、互いの信頼が必要なのだよ。君を間に挟んだのでは、わたしの真意が伝わりにくくなる。機会を見てわたしから説明するから、君は心配しなくていい」
 タルエルはいかにも人のよさそうな微笑を持って、マチューの申し出を断わった。

 タルエルがマチューと親しくなったのは、ビルフランが病気で倒れたときのことである。
 彼はその知らせを聞くと、すぐにビルフランの屋敷へと向かった。そこで出てきた執事のマチューに、自分がいかに社長のことを心配しているかを説明したのである。
 もちろんタルエルは口だけで済ましたわけではない。毎日のように屋敷に通い、病床のビルフランのために、いろいろと贈り物を持ってきて、彼に預けたのである。こうして地道に活動した結果として、タルエルはマチューを自分の味方とすることに成功した。
 ただしここでマチューのために弁護するなら、彼は決してビルフランを裏切ったつもりも、タルエルのためにスパイをしようという気もなかった。ただ仕事で無理をしがちなビルフランのことを心配し、そのことについてタルエルに相談しているうちに、いつしか自宅でのビルフランの様子を話すようになっていたのである。
 彼にとっては、自分の主人の自宅での様子を、会社の人にも知って欲しいという純粋な気持ちであったにすぎない。
 それでもマチューは、事情を知らない他人が自分の行為を知ったなら、ビルフランを裏切っていると思うかもしれないことは分かっていた。また実際にそのことをタルエルにも話したことがある。そのときタルエルは、他人にどう思われようと、あなたがビルフラン様のためを思って行うのであれば、それを行うべきではないか、と言ってマチューを納得させたのだった。
 ただしマチューの最大の誤算は、タルエルが自分と同じように、個人としてのビルフランを気遣っている、と思っていたことである。
 もちろん、タルエルも彼なりの仕方でビルフランのことを気遣ってはいた。しかしそれはあくまでもパンダボアヌ工場の社長という人物に対するものであり、同時に彼が自分に与える影響の故であった。
 そのため、マチューから聞き出す社長に関する話――何を好み、何を嫌い、何を考え、何を行おうとしているかといったことは、おおむね彼が社長に信頼され、より重要な仕事を任されるために用いられていた。
 だからこそそのマチューが辞めると聞いたとき、顔にこそ出さなかったが、タルエルは落胆した。新しい執事が、果たしてマチューのように自分を信頼するかが分からなかったからである。
 もちろん、新しい執事とも面識は得ておき、また信頼を勝ち得る努力はする。だがマチューのように今回もうまくいくとは限らない。
 大切なのは、ビルフランの信用を失わないことであった。そのためには慎重に事を運ばねばならない。時間がかかることは、今のタルエルにとってはそれほど問題ではなかったのである。

 パンダボアヌ家の居候となったギョームは、エドモンと連れ立って近辺を散歩したり、近くの湖沼で猟をしたりして過ごしていた。
「いや、こうして改めてみると、パンダボアヌ工場っていうのは本当にすごいな」
 丘の上からマロクールを見たギョームは、感嘆の声を上げた。
「そうかな?わたしは昔から観ているからそうも思わなかったけど」
 エドモンの返事に、ギョームは呆れたように答えた。
「おまえはやっぱりお坊ちゃんだな。これだけ大きな工場で、しかもまだ拡張している。フランス一の紡績工場というだけのことはあるよ。いつかはこれが全部お前のものになるんだぞ?」
 手を広げてマロクールを見渡しながら言うギョームに対して、エドモンはその横に並んで、やはりマロクールを眺めながら答えた。
「余りぴんとこないな。父さんはお金には厳しいから、そんなに多くの小遣いを貰っているわけでもないし。まあ卒業後はここで働くことになるだろうけどね」
「覇気のない言葉だなあ。どうせなら俺がここを世界一にする、ぐらいのことを言ったらどうだ?」
 挑発するような言葉に、エドモンは笑って答えた。
「わたしにそれほどの才能があるかな?まあ、潰さないようにはしたいと思っているけどね」
「潰さないように、ね。ずいぶんと消極的な二代目だな。いっておくが、そんなことじゃあ会社の経営なんて到底無理だぞ」
 ギョームはそう言いながらエドモンの顔を覗き込んだが、エドモンは寂しげにマロクールの街を見つめたまま返事をした。
「パンダボアヌ工場を受け継ぐということは、ここの街の人たちの生活を支えるということだ。そう生易しくは考えられないさ」
 その答えに、ギョームも再びマロクールに目を向けた。
「この街の人の生活か。確かにそれは責任重大だな」
「そうだ。だから私は確かにここで働くつもりだけど、工場を引き継ぐかどうかはその後の話だと思っている」
「そうか・・・。お前は偉いよ」
 ギョームはただそう答えるだけであった。

 フランソワーズは久しぶりにエドモンが帰ってきていることで、心が弾んでいた。
「ゼノビ、これをビルフラン様の屋敷に届けておくれ」
 そういっては、下の娘に自分の作った料理をビルフランの屋敷に届けさせた。
 ビルフランも、エドモンの乳母だったフランソワーズの気持ちがわからないでもない。届けられる料理は必ず受け取り、夕食に並べられた。
 そして今日も、フランソワーズはゼノビに料理を持たせてビルフランの屋敷へと届けさせていた。
 ゼノビはエドモンよりも少し早く生まれたため、エドモンと共に育ったいわば乳姉弟である。幼いころはエドモンともよく遊んだ。
 しかしいつのころからか、自分とエドモンは立場が違うのだということを意識させられるようになった。母親がパンダボアヌ家で乳母をしていたとはいえ、やはりマロクールを発展させた大工場の跡取り息子と、しがない下宿屋の娘とでは比べられるはずもない。
 それが分かるようになっても、一時期は屋敷の中で同じように遊んだこともあるんだ、という思いは、ゼノビの心から抜けることがなかった。
 そして彼女にとって、このようにしてビルフラン様の屋敷を伺うことができるのも、その特権のひとつであった。
 ゼノビがパンダボアヌ家の屋敷を訪れたとき、エドモンは留守であり、出てきたのはセバスチャンであった。
「これ、母からの差し入れです」
 ゼノビがそれを手渡すと、セバスチャンは礼をして受け取った。
「フランソワーズさんはお元気ですか」
「ええ。母は元気です。エドモンはどこに行っているのかしら」
「エドモン様はギョーム様と一緒に、散歩に行くといっていました。もう帰るころだと思います」
 セバスチャンの言葉に、ゼノビは待たせてもらおうかとも思ったが、待ったところで何かあるわけではない。
「そう、それでは失礼します」
 そう言って、ゼノビは屋敷を後にしたが、ちょうど門を出たところで帰ってきたエドモンと鉢合わせになった。
「やあ、ゼノビじゃないか。どうしたんだい」
 話しかけてきたエドモンに対して、ゼノビはそっけなく返した。
「私のほうが年上なのよ。呼び捨てないでよ」
 その言い方に、エドモンは笑って訂正した。
「これはすみませんでした、ゼノビさん」
 それからエドモンは、ギョームとゼノビをそれぞれに紹介した。
「こちらはわたしの友人のギョームだ。彼女はわたしの乳姉弟のゼノビさん」
「はじめまして。ギョームといいます。あなたのことはエドモンからも聞いていましたよ」
 ギョームがそういうと、ゼノビは鼻を鳴らした。
「どうせ悪口でも言っているんでしょう?」
「さあ、どうかな?」
 はぐらかすような返事をするので、エドモンは慌てて否定した。
「別に悪口なんていわないさ。ただ食卓に乗る料理に、フランソワーズ母さんのものがあれば、そのときに君の話をするというだけさ」
「別に言い訳なんてしなくてもいいのよ。それでパリでの生活は楽しい?」
「そうだね。あちらは人も多いし遊ぶ場所も多いな。だけどやっぱりわたしはマロクールが一番合っている気がするよ」
「へえ。いろんな所にも行った?」
「友人たちの付き合いでね。だけどこれは父さんには内緒だ。父さんはあんまりそういう事は好きじゃないからね。それにわたしもそんなに行きたいと思わないし」
 エドモンの返事に、ギョームも相槌を打った。
「こいつは真面目だからな。三回誘われて一回行けばいいほうさ」
「そうなんだ。それじゃあギョームさんは良く行くのかしら」
 話が自分に振られて、ギョームは生真面目な顔をした。
「俺か?俺はエドモンが行かなければ行かないよ」
「へえ。あなたも真面目なんじゃない」
 感心するゼノビに、エドモンが笑って否定した。
「こいつは自分で金を払えないから行かないんだよ」
「そういうことは黙って胸のうちにしまっておくのが紳士じゃないのか?」
 ギョームが顔を顰めると、ゼノビは呆れた。そして、呆れると同時に笑いがこみ上げてきて、大声で笑った。

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