第三十章 タルエルとギョーム

 ゼノビはパンダボアヌ家の屋敷前で、エドモンたちと暫くの間、会話を交わしてから、自宅へと戻っていった。
 彼女が十分遠ざかり、声も届かなくなった頃、ギョームは横にいるエドモンに話し掛けた。
「なあ、あの娘はお前に気があるんじゃないか?」
 それを聞いたエドモンは、そんなはずはないと笑った。
「ゼノビは同い年の姉みたいなものだよ。彼女だってわたしのことは弟くらいにしか思っていないさ」
 それはどうかな、と思いつつ、ギョームもそれ以上は言わなかった。身分がどうこうという時代ではないとはいえ、やはり宿屋の娘と大工場の跡取り息子では釣り合わないと思ったからである。
 二人が屋敷に入ると、セバスチャンが出迎えた。
「お帰りなさいませ、エドモン様」
「ただいま、セバスチャン。今そこでゼノビに会ったよ」
「さようでございましょう。つい先ほど、フランソワーズからの使いで来ましたから」
「そう、夕食が楽しみだよ」
 笑ってそういいながら、エドモンとギョームはそれぞれの部屋へと向かった。

 その日の夕食時、ビルフランはエドモンに、今度の日曜日にタランベール家へ挨拶に行くので、一緒に来るように言った。
「お前もタランベール家に行くのは久しぶりだろう。大人になったのだから、改めてお前も挨拶に行ったほうがいい」
 もちろん、エドモンもタランベールの名前がパンダボアヌ家にとって疎かにできないものであることは承知している。
「わかりました。ご一緒します。ギョーム、そういうことだから、今度の日曜日は独りで過ごしてくれないか」
 エドモンがギョームの方を向いて詫びたが、ギョームは別に構わない、といった。
「ただでさえわたしはこちらに厄介になっている身分だからね。そんなことで我侭は言わないよ」
 ギョームはそういってから、ビルフランに尋ねた。
「よろしければ、その日は書斎の本をお借りしてもいいでしょうか」
「ああ、構わんよ。好きなだけ見るがいい」
 ビルフランは鷹揚に頷いた。

 日曜日、ビルフランとエドモンは朝食を取るとすぐに予定通りタランベール家へと向かった。エドモンは学校の寮に入ってからは、行くこともなくなっていたので、実に十年ぶりの訪問となる。
 屋敷に到着し、部屋へ通されると、さすがにエドモンは緊張した。
 まず父親がジュリアン・タランベール氏と挨拶し、次に自分が紹介されてからエドモンは挨拶をした。
「お久しぶりです、タランベールさん。エドモン・パンダボアヌです」
 その様子にジュリアンは微笑んだ。
「立派になったね。ビルフランもこんな立派な跡継ぎに恵まれて、鼻が高いだろう」
「いやいや、まだ半人前に過ぎません。立派な跡継ぎになれるかは、これからです」
 そう言って謙遜するビルフランは、ジュリアンの顔を見た。
――ここ数年でめっきりと老け込まれた。
 ビルフランは改めてその思いを強くした。
 ジュリアンはビルフランよりも十近く年上であったが、少なくとも数年前までは、その年の差を感じさせないほど若々しかった。
 しかしここ数年、タランベール家には不幸が相次いだ。病気で妻を亡くし、さらに事故で長男を失った。
 さらに残った息子の一人が、投資に失敗をしてかなり大きな損失をタランベール家にもたらしたという噂も、最近耳にする。ジュリアン自身の口から聞いたわけではないが、火のないところに煙は立たぬとも言う。それに近いことがあったのではないかとビルフランも考えていた。
 そしてそれらの心労が、ジュリアンを蝕んでいることは明らかであった。
 それでもジュリアンは、ビルフランの前で弱音を吐くことは決してしなかった。
 ビルフランのほうも、ジュリアンが自分の苦労を口にしない以上、必要以上に彼を気遣うことはしなかった。そうすることは、何か彼を侮辱しているような気になったからである。
 そしてその日もいつもどおりに工場経営についての報告と、今後の計画について話し合うのだった。

 パンダボアヌ家に残ったギョームは、特にすべきこともないので、午前中はビルフランの書斎の本を借りてきて部屋で読んでいた。
 しかし昼食を食べながら、天気が良いのに家の中に篭っているのももったいないと感じて、散歩に出ることにした。
「午後からは少し街を歩いてくるよ。そんなに遅くはならないと思うけど、もしもエドモンが先に帰ってきたら、そう伝えてもらえないか」
 ギョームはセバスチャンにそう言うと、屋敷を出てマロクールの方へと向かった。

 マチューはこの日もタルエルの元へと来ていた。
 そしてタルエルの家を出ようとしたとき、すぐに扉を閉めて中に入った。
「どうした?」
 タルエルが尋ねると、マチューは扉の隙間から外を窺いながら答えた。
「ギョームが歩いてきます。今日は屋敷で本を読んでいると聞いていたのですが」
 すぐにタルエルも隙間から外を見た。
「あのこちらに歩いてくる、若い男だな?」
 マチューが頷くと、タルエルは少し考え込んだ。それからマチューに裏から帰るようにと言った。
「わたしは少し彼と話をしてみたい。さりげなく近づくようにするし、お前には迷惑をかけないようにする」
 マチューが言われたとおり裏に行くと、タルエルは改めて扉を開いて外に出た。
 それからさも今気付いたかのように、歩いてくるギョームを見た。
 そうして暫く見続けていると、向こうもそのことに気付き、彼を見返してきた。
「ああ、そこの方、間違っていたら申し訳ないが、もしかしてビルフラン様の屋敷の客人ではないかな」
 声をかけられて驚いたギョームは、訝しげにタルエルを見詰めた。
「怪しいものではないよ。わたしは工場で、ビルフラン様の近くで働いている者だ。最近、客人が泊まられているという話を聞いていたので、あなたがその人かと思ったのだが、違ったかな?」
 ギョームは、相手の丁寧な物腰と、貧しい工員では住めないような家から出てきたことに気付き、それまでの警戒する態度を解いた。
「いいえ、わたしは確かにパンダボアヌ家に厄介になっている者です。エドモンの友人で、ギョームといいます」
 それを聞いて、タルエルは顔を綻ばせた。
「やはりそうでしたか。わたしは副工場長のタルエルと言います。どうぞお見知りおきを」
 それを聞いて、ギョームは驚いた。副工場長といえば、パンダボアヌ工場でもかなりの有力者であろうことは、想像に難くない。
 何と返事をしようか困惑していると、さらにタルエルが自宅に来るように招いた。
「折角だから、すこし寄ってお行きなさい。たいした物はありませんが」
 ギョームは逡巡したが、なおもタルエルが招くので、恐る恐る彼の屋敷に入っていった。
 こざっぱりとした居間に通されると、タルエルは自らグラスとワインを持ってきた。
「わたしはこう見えても一人暮らしでしてね。召使を雇ってもいいんだが、一人のほうが気楽な性質なんだよ」
 そう言い訳をしながらタルエルはワインをグラスに注いでギョームに勧めた。
 ギョームは喉を鳴らしたが、それでもすぐに手を出すことはせず、慎重に質問をした。
「タルエルさんは、なぜ私のようなものに関心を持ったのですか」
 その問いに、タルエルは人の良さげな笑顔を見せながら答えた。
「関心を持つも何も、私は工場のことに多少は責任を持っているからね。エドモン様のご学友で、しかもパンダボアヌ家の客人となられた方に、関心を持たないはずがないでしょう」
 その言葉にもギョームは不審さを拭えなかったが、とりあえず目の前のグラスのワインに口をつけた。
「いいワインです」
 その飲み方を見て、タルエルは彼がかなりの酒飲みであることを見破った。
「それはよかった。もう一杯、飲むかね」
 タルエルが勧めると、ギョームはグラスを前に出そうとしたが、しかし思いとどまった。
「飲み過ぎて酔って帰っては、パンダボアヌさんの不興を買いますからね。気持ちだけありがたく受け取っておきます」
 その言葉にタルエルは目を光らせたが、しかし相変わらず微笑みながらギョームに話し掛けた。
「それは残念。ところでギョーム殿は将来、パンダボアヌ工場で働く気はあるのかね」
 その話題に、今度はギョームが目を光らせた。
「こちらの会社は成長著しいと聞いておりましたが、実際、非常に活気のある工場だと思いました。このような会社で働くことができるなら光栄ですね」
「なるほど、それでそのことはビルフラン様かエドモン様には話されたのかね」
「エドモンは知っていますが、パンダボアヌさんはまだご存じないと思います」
「そうか。ところでビルフラン様は最近、体調が優れない様子で、以前は何でもご自分でされていらっしゃったが、近頃ではなかなかそうも行かず、信頼できる秘書を欲しがっているようなのだ」
「秘書、ですか」
「そう、それでエドモン様が学校を卒業されるのを待っておられるのだよ。エドモン様をご自分の身近に置くことで、工場の経営についても教えようと思われているようだ」
 そこでタルエルは言葉を区切り、ギョームを見詰めた。
 そのギョームは然程関心がない素振りを見せようとしながらも、それに失敗していた。タルエルはそれに満足しながら再び話を続けた。
「エドモン様がこの工場の跡を継ぐことは、誰の目から見ても明らかだ。当然、秘書と言っても長い時間じゃないだろう。そうなれば他にも社長を助ける人が必要になる」
「そうでしょうね」
「・・・それに、もしもエドモン様に会社を任せるだけの器量がなければ、仕事の点では妥協を許さない方なので、社長はエドモン様に会社を譲ることも見合わせるかもしれない」
 タルエルはギョームの暗い感情を掘り起こすかのように、そういった。
 そしてギョームはまんまとそのタルエルの言葉に乗ってしまった。
「パンダボアヌさんはそんなに厳しいお方なのですか」
「ええ、たとえ自分の身内であっても、仕事の上では贔屓をなさることはない。特に無駄遣いには厳しい方だ」
 そういわれると、ギョームにも幾つか思い当たる節があった。
 エドモンは大学でもさほど贅沢な生活はしていない。確かに着ている物や持ち物は高価で上品なものだったが、他の学生のように遊び歩くことはまずなかった。
 屋敷も驚くほど立派ではあるが、フランス一の紡績工場の社長であれば、当然地元の名士や得意先の重役など、様々な客人を迎えることもある以上、それだけの体裁を整える必要はあるだろう。そう考えると決して無駄遣いとは言えない。
 そこまで考えたとき、ギョームはなぜタルエルがこんな話を自分に話すのか、という疑問が生じた。そして同時に彼の中にその答えも浮かんだ。
 その答えにギョーム自身が一瞬身震いした。しかしその身震いが恐れからか感動からかは彼にも分からなかった。

目次へ
前の章へ
次の章へ
トップページへ