第三十一章 工場訪問

 タルエルはその時、ギョームに対して、具体的に何かを指示したわけではなかった。この時点でギョームが本当に自分に味方するかどうか、確信がなかったからである。
 そのため、タルエルはギョームに対して、あくまでも雑談をしている、というスタイルを崩さなかった。
 一方、ギョームとしては、タルエルが自分に何をして欲しいのか、彼の表情や話題から推測した。そしてそれはタルエルにとって邪魔なエドモンの排除に協力するようにと言う要請であった。
 ギョームにとってエドモンは学友である。少なくとも今は対等の立場であり、相手の優位性はただパンダボアヌ工場の跡を継ぐ権利があるということである。そしてそれは今すぐに彼の益になるわけではなかった。
 方やタルエルは既にパンダボアヌ工場の実力者である。ギョームを取り立てようと思えばそれが可能な地位におり、しかも彼は野心家のようであった。彼の役に立つなら、すぐに見返りが得られるであろう。
 結局その日、二人の間になにか具体的な話し合いがあったわけではない。しかし二人の間に密約が交わされたのは、確かにその日であったのである。

 ギョームはその日のタルエルとの邂逅をエドモンにもビルフランにも話さなかった。ただ、エドモンが屋敷に帰ってきたときに、こう言っただけだった。
「今日は随分天気がよかったのでね。本ばかり読んでいるのも勿体無い気がして少し街を散歩したよ」
「へえ、何か面白いものでもあったかい」
「ふらふらと歩いただけだからね。工場も門の外から見たけど、近くで見るとまた違うな。見学なんかはできないのかな」
「大丈夫だと思うよ。後で父さんに言っておくよ。明日にでも見に行くかい」
「そうだな、休みもそろそろ開けるから早いほうがいい」
 ギョームのその返事で、翌日はパンダボアヌ工場の見学をすることが決まった。

 翌日、ビルフランが馬車で先に出発した後、エドモンとギョームの二人は後から歩いて工場へ向かった。
 エドモンにとっても、工場に顔を出すのは久しぶりであった。
 学生になる以前は、ビルフランが工場は子どもの遊び場ではないと考えていたため、特に用事がない限りは彼が会社に来ることを許さなかったし、学生になってからはパリにいる時間のほうが長く、会社に寄る暇もなかったからである。
 とはいえビルフランも、エドモンが大学を卒業したなら自分の会社で働かせるつもりであった。だから彼が友人と一緒に工場の見学をしてもよいかと尋ねたときも、別に理由を聞くこともなく頷いた。

 エドモンたちが工場に到着すると、すでにそのことを伝えてあったのか、門番が入り口で待ち構えており、仰々しく門を通された。
 エドモンは気さくに門番に挨拶をすると、まっすぐ事務所へと向かった。
 彼の後ろについて歩きながら、その様子を観察していたギョームは、改めて自分の友が大会社の御曹司であることを実感した。
 彼らが事務所につくと、やはりビルフランから聞かされていたらしいタルエルが素早く顔を出し、恭しく挨拶をしてきた。
「エドモン様、ようこそいらっしゃいました。さ、どうぞ中にお入りください」
「タルエルさん、お久しぶりです。こちらは私の学友のギョームです」
 エドモンがそう紹介すると、タルエルは人のよさそうな笑みを浮かべて、ギョームに手を差し出した。
「始めまして、ギョームさん。ここの工場の副工場長をしておりますタルエルといいます」
 喰えない人だと思いながらも、ギョームも同じように初対面のものとして挨拶を返した。
「ギョームといいます。よろしくお願いします」
「ギョームは我が校でも優秀な学生なんですよ」
 エドモンがそう付け加えて紹介すると、タルエルは頼もしそうに頷いた。
「それは素晴らしい。ぜひ将来はこの会社に来ていただきたいものです」
 そういうと、彼は改めて二人を社長室へと通した。

 ギョームは、自分がタルエルのために働く上で、何をすべきかを考え続けていた。そしてそのためにはまず、できるだけ早いうちに、公の場でタルエルとごく自然な仕方で知り合っておいた方が都合がよいと結論した。
 今のところ、彼と自分の結びつきを知るものはいないはずであった。このままの方がタルエルにとっては都合がよいであろうが、しかしそれではエドモンが父親の不興を買った後、自分とパンダボアヌ工場を結びつけるものがなくなってしまう。
 たとえ普通にこの工場に入ることができたとしても、タルエルが自分を引き立てる公の理由がそこにはないため、骨折り損とまでは行かないとしても、割に合わなくなる可能性がある。
 しかし公の場で前もって会っていれば、タルエルが自分を引き立てることの不自然さはかなりの程度、軽減されるはずであった。
 そしてギョームは急に工場見学を希望したのは、そのためであった。
 パンダボアヌ工場の社長の家に泊まっている自分が、工場を一度見学したいと言ったとしても、誰も不審には思わないだろうし、工場に行けば、当然そこの人々にも会えるわけで、そうなれば副工場長であるタルエルにも紹介してもらえるに違いない、という計算があったのである。
 そしてその目論見はまんまと成功したのであった。

 一方、タルエルのほうも、ギョームが工場の見学に来て、正式に自分の面識を得たことに満足していた。
 彼は社長に近いところで、自分の手足となれる人物を探していた。その候補としてパンダボアヌ家の客として留まっているギョームに目をつけたのである。先日出会えたのは偶然であるが、そのときに使える男だという感触をもった。
 ギョームが社長の近くで働けるよう取り計らうなら、その恩を感じて自分の言うことを聞くに違いないと考えたが、そのためにも、なんとしても社長かエドモンから、あらかじめギョームを紹介してもらいたかったのである。そうしておけば、自分から社長に推薦することもしやすいからである。
 そのための第一段階を、ギョームがこちらの思惑通りに動いてくれたことで、無事に進むことが出来た。タルエルはギョームの抜け目のなさに満足したのである。
 あとの見学は、ギョームにとってもタルエルにとってもおまけに過ぎず、しいて言えば二人が意気投合する機会となっただけであった。

 見学を終えて帰路に着いたエドモンとギョームは、途中でゼノビに会った。
「やあ、ゼノビ。どこに行くんだい」
 エドモンが声をかけると、ゼノビは少し驚いた顔をした。
「買い物から帰るところよ。それよりも、私のほうが年上なんだから、呼び捨てにしないでっていっているでしょう!」
 取り繕うようにそうゼノビが声を上げると、エドモンは笑って謝った。
「そうだったね、ゼノビさん。そうそう、この間のフランソワーズ母さんの料理、とても美味しかったよ。パリに帰る前に、一度は顔を出すつもりだけど、先に伝えておいてもらえるかな」
「そう、母さんに伝えておくわ。きっと喜ぶでしょうね」
 それからゼノビはふと思いついたように尋ねた。
「そういえば、あなたはいつまでこっちにいるの?」
「今度の日曜日にはパリに帰る予定だ」
「ふうん、分かったわ。それまでにはうちに来るわね。母さんにもそう言っておく」
「頼んだよ。それじゃあ、また今度会おう」
 エドモンはそう言ってゼノビと別れた。

 ギョームは二人が会話している間、傍らで黙って聞いていた。
 自分の方から積極的に話しかけるほど、彼女と親しいわけではないこともその理由であったが、むしろ二人の関係をもっとよく知りたいと言うことが本音であった。もっと言うと、彼女を利用することは出来ないか、ということであった。
 ギョームとしては、何としてもタルエルの意向に沿いたいという思いがある。しかしそのためにあまり表立った動きをして、エドモンやビルフランにその意図が知られたなら元も子もない話でもあった。
いかにさりげなく二人の間に亀裂を入れるかが問題であり、そのためにエドモンに影響を及ぼせる人物のことをよく知りたいと思っていのである。
 その中でも乳姉弟であるゼノビという女性については、初めて会った時はタルエルに出会う前であったこともあり、余り意識していなかったが、改めて思い返したときに、なにか利用できるのではないかと思い、もう一度会ってみたいと考えていたのである。
 しかし今日改めて観察して、ゼノビでは役不足であろうと思い直した。
 まず基本的にエドモンはゼノビを幼馴染以上には考えていない。だからゼノビから何か言われても、適当に笑って受け流すだけであり、彼女からなにがしかの影響を受けているとは言い難かった。
 一方のゼノビについて言えば、ギョームは最初、エドモンに対して恋愛感情を抱いているのではないかと疑っていた。しかし改めてそういう目で観察すると、そういう感情が皆無とは言えないにしても、むしろ社長の息子と自分が親密であることに自尊心を満足させている様であった。
 今の状態では、彼女を適当に言いくるめて、エドモンに散財させるように仕向けるのは難しいだろう、というのが彼の出した結論であった。
 ゼノビに対する興味を薄れさせつつも、ギョームは話の接ぎ穂として、いつ彼女の家に行くのかをエドモンに尋ねた。
「急用が入らなければ、明日にでも行きたいな。多分、そうするよ」
 エドモンは家への道を歩きながら、そう返事をした。

 ビルフランが会社から戻ると、マチューが彼に一通の電報を差し出した。
「パリのスタニスラス様からでございます」
 差出人の名前を聞いて、ビルフランは少し眉を顰めた。
 その場で封を切り内容を確かめると、明日伺う、ということであり、ビルフランは軽く溜め息をついた。
「明日、スタニスラスがこちらに来るそうだ。マチュー、部屋と晩餐の準備をしておいてくれ」
「承知いたしました。晩餐会に他の方はお呼びいたしますか」
 マチューが確認すると、ビルフランは首を横に振った。
「今回は必要ない」
 その返事を確認すると、マチューは一礼してその場を去った。
「全く・・・いつものこととはいえ・・・」
 ビルフランはそう呟きながら、自分の部屋へと向かった。

 その日の夕食時、ビルフランはエドモンに、パリの伯母が明日、こちらに来ると伝えた。
「明日、おまえが駅まで迎えに行ってもらえないか」
 あまり機嫌の良くない声で父親からそう頼まれたため、エドモンはむしろ快活な調子で引き受けた。
「わかりました。迎えにいってきます」
「わたしは夕方までいつもどおり仕事をしてから帰る。それまでの相手もお前がしておいてくれ」
「はい、わたしに任せてください」
 それだけ言葉を交わすと、その後、ビルフランは黙ってしまった。
 ギョームはその一部始終を観察していた。そしてどうやら明日来ると言う伯母は、ビルフランにとってあまり望ましい客ではないのだろうと判断した。

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