第三十二章 スタニスラス夫人の訪問

 ギョームが夕食時に行った観察は、おおむね間違っていなかった。

 ビルフランのこれまでの経験からすると、義姉が急に訪ねてくる理由は、大抵、金を融通して欲しいときであった。
 兄のフレデリックは今も自分の会社を経営しており、普通に生活する上で困ることはないはずであった。しかしその妻は、夫の収入だけでは物足りないらしく、こうして時々、金持ちの義理の弟へに無心にくるのである。
 もちろん、義姉もただ金をせびる訳ではない。そんなことをしても、しっかり者の義理の弟が財布の紐を緩めることはないと知っているからである。そのため毎回、何かしらの理由をつけて、その金がどうしても必要なのだと訴えてきた。
 曰く、夫の取引先とのパーティーに出席するためにふさわしいドレスを準備しなければいけない、日頃お世話になった方々を招いて晩餐会を開きたい、子どもの学費が入用なのだが丁度手持ちが足りない等々・・・。
 ちなみにこのことを知った実姉のパトリシアは大いに憤慨し、義姉に貸すことなどはないと弟に忠告した。しかし同時に彼女自身も、度々ビルフランの元を訪れ、彼からお金を借りるようになった。
 彼はその度に二人に対して、無駄遣いを控えるように忠告をしたが、結局はそのようにして求められる金を姉たちに貸し続けた。

 ビルフランは仕事上の取引に関しては、身内に対しても決して贔屓はせず、他の取引先と同じように扱っていた。
 しかしその一方で彼は、兄や姉との兄弟関係を悪化させたくはないと考えていた。それは亡き母の望んだことではないからである。母は死の直前まで、兄弟三人が仲良く暮らすことを望んでいた。その願いを無下に退けることは出来なかった。
 このために、仕事上のことは厳格に取り扱う分、普段の個人的な親戚付き合いに関しては、多少のことを多めに見ることで、彼なりにバランスを取っていたのである。
 実際、ビルフランは親戚に金を貸す場合でも、必ずその理由を聞き、それに見合った額しか貸すことはしなかったとはいえ、貸した金についてうるさく取り立てるような真似はしなかった。
 そして相手もそのことを理解していた。弟とはいえ、相手はフランス一の紡績工場の社長であり、また頑固者でもある。余り頻繁に金を借りに行って、愛想をつかされては元も子もない。
 少なくとも、それなりの理由があれば借りられる上に、返すことを考えなくて良いという現状は、彼女たちにとっても都合の良いものであった。このため彼女たちは、時々ビルフランに金を借りると言う現状に満足せざるを得なかったのである。

 夕食の後、ギョームは、部屋に戻ってから、ビルフランの機嫌が悪かったことについてさりげなくエドモンに尋ねた。
「会社では、忙しそうではあったけど、別に機嫌は悪くなかったよな」
 首を傾げながらそういうギョームに対して、父が機嫌を悪くした理由を知っていたエドモンは苦笑した。
「伯母さんが急に来るって言ってきたからね」
「なんだい、兄弟仲が悪いのかい」
「そういう訳でもないんだけどね。まあこれは身内の話だから」
 エドモンはそうはぐらかした。ギョームもこの時点ではそれ以上、無理に聞きだそうとはしなかった。それでも、やはり親戚との関係に多少の問題があるらしい、ということは心の中に留め置いた。

 翌日、エドモンが駅まで問題の伯母を迎えに行くのに、ギョームも付き合った。
「本当なら今日はフランソワーズ母さんのところへ行きたかったけど、こればかりは仕方がないな」
「そういえば昨日はそんな話もしていたよな。パリに戻るまでに行けるのかい」
「まあ、伯母さんは今晩泊まっても明日の昼には帰るだろうから、伯母さんを駅まで送り返した帰りに寄れるよ」
 そこで会話が途切れた。しばらくの沈黙の後、ギョームが訊ねた。
「なあ、おまえの伯母さんって、どんな人だい」
 ギョームが気軽さを装って尋ねたその質問に、エドモンは少し考え込んだ。
「え、そうだな・・・。父さんの兄の奥さんなんだけど、時々、マロクールに父さんを訪ねてくるんだ」
 どんな人かという質問に対する答えになっていないな、とギョームは思ったが、敢えてそのことを指摘はしなかった。
 答えられないと言うことは、この場合、知らないと言うよりも答えにくいということだろう。それはエドモンも、その伯母のことをあまり良い印象を持っていないことを意味しているように思えた。
 どちらにしろ、ギョームはその伯母に興味を持った。

 二人が駅に到着した時点で、汽車の到着予定時刻が、当初より十五分ほど遅れているとの連絡が入っていた。結局、二人は三十分ほど待ってから、やっと伯母を乗せた汽車が駅に到着した。
 プラットホームで待っていたエドモンは、客車から降りてきたスタニスラスを見つけると、すぐに近づいて挨拶をした。
「こんにちは、伯母さん。お久しぶりです」
 スタニスラスは、近づいてきた若者が自分の甥だと気付いたとき、一瞬、驚きの表情を浮かべたが、すぐに微笑みに変えた。
「まあ珍しい、今日はエドモンが迎えに来てくれたのね。暫く観ないうちに、随分と立派になったこと」
 スタニスラスは、久しぶりに会う親戚が必ずいう言葉を口にした。

 少し離れた場所に立っていたギョームは、エドモンが自分を紹介のを待っていた。同時にそこでエドモンの伯母を観察していた。
 背はそれほど高くなく、エドモンの肩ほどしかなかったが、少し太めの体格のゆえか小さくは見えなかった。エドモンとの会話に笑っているが、自然な笑いと言うよりもお愛想笑いと言う感じである。
 ――金持ちにたかる親戚というところか。
 僅かな時間の観察で、ギョームはスタニスラスという女性をそう見抜いていた。

 やがてエドモンに紹介されて、ギョームもスタニスラスに近づいて挨拶をした。
 スタニスラスは一瞬、顔を引きつらせたが、すぐに口元に貼り付けたような笑みを浮かべて彼に挨拶を返した。
「私の可愛い甥に、こんな立派な学友がいるなんて頼もしいわね」
 歯の浮くようなお世辞に、ギョームは内心で苦笑した。
「パリにお住まいだそうですね。私はエドモンの親友だと思っていましたが、彼は一度も伯母がパリにいるという話をしてくれませんでしたよ」
「あら、そうでしたの。私どもがパーティーを開くときには、いつも誘うのだけど、大抵は断わられるのよ」
 スタニスラスが少し恨めしそうな目をエドモンに向けつつそう言うと、ギョームは笑いながら頷いた。
「エドモンは学生仲間の開くパーティーにもあまり出ないんですよ」
「ああいう場所は慣れないので、疲れるんですよ」
 エドモンがそう言い訳するのを聞いて、スタニスラスは首を振った。
「そんなことで、パンダボアヌ工場を背負っていけますか。社会に出たなら、いろんな場所に顔を出して、名前を覚えてもらう必要があるのですよ」
「伯母さん、こんな場所で長話もなんですから、とりあえず馬車に乗りましょう。荷物は私が持ちますよ」
 さらに小言が続きそうなことを察したエドモンは、素早く話をそらした。
 荷物を持って歩き出したエドモンの後姿を見て、スタニスラスは小さく溜め息をついて、彼の後についていった。
 駅を出て、馬車の後ろに荷物を置いたエドモンは、御者台に乗ろうとしたが、ギョームがそれを押しとどめた。
「俺が御者をやるから、おまえは後ろに乗れよ」
 ギョームはそう言って素早く御者台に滑り込んだが、エドモンは彼の腕をつかんで自分がやるといった。
「君の腕を疑うわけじゃないけど、私の伯母さんを送るんだ。わたしが御者をする」
 しかしギョームは首を振り、御者台から降りようとはしなかった。
「俺が後ろに乗るわけにもいかないし、かといって二人とも御者台に座ってはおかしいだろう。おまえが後ろに乗って、伯母さんの相手をしろ」
 エドモンは少し躊躇したが、確かにギョームの言うとおりだと観念した。
「どうかしましたか」
 スタニスラスが前で話している二人に声をかけると、素早くギョームが返事をした。
「いえ、私が御者をするのを、エドモンが不安に思って声をかけてくれたのですよ」
 しかしその言葉を聞いたスタニスラスも、顔を不安げに歪ませた。
「あなたは、御者の経験があるのかしら?」
「当然です。お任せください。何と言ってもパンダボアヌ工場の跡取り息子に何かあっては大変ではないですか」
 冗談めかして言うギョームのわき腹を、エドモンが肘で小突いた。
「馬鹿、こういうときは伯母さんの無事を優先するんだよ」
「冗談だよ。安心してください。私はこう見えても腕は良いんです。さあ、エドモンも早く乗り込んでくれ」
 そう言って馬車に急き立てると、ギョームは馬車を走らせた。

 実際、馬車を駆るギョームの腕は悪くなかった。しかし車内ではスタニスラスがすっかり黙り込んでしまっていた。
 エドモンは、やはり先ほどのギョームの軽口を聞いて、機嫌を悪くしたのだろうと思ったが、しかしその前に話していた話を蒸し返されずに済んだことで、内心ではほっとしていた。

 エドモンがそんなことを考えていたとき、スタニスラスの頭の中には、ギョームの軽口が巡っていた。
"跡取り息子に何かがあっては・・・"
 それは今まで、敢えて思い浮かべることをしなかった考えである。
 しかし改めてその言葉を他人から聞いたとき、彼女の脳裏から、それが離れなくなってしまった。
 ビルフランとエドモンは傍目から見ても仲睦まじい親子である。
 しかしエドモンに万が一の――そう考えたとき、自分が考えていることの恐ろしさに思わず身震いした――事があったなら、パンダボアヌ工場は誰が引き継ぐのか?ビルフランには他に子どもがいない以上、親戚の誰かが引き継ぐしかない。
 そしてそれにもっとも相応しいのは、実兄の子、つまり私の子どもではないか?
 そこまで考えて、再びスタニスラスは身震いした。
 そのようなことを考えるべきではない。
 彼女の良心はそう警鐘を鳴らしていたが、しかし自分の息子にも、パンダボアヌ工場の社長の椅子が回ってくる可能性がある、という考えを振り払うことはできなかった。
 そう、万が一の事と言っても、必ずしも生死に関わる事とは限らない。要はエドモンがパンダボアヌ工場を継げないような状況になればよいのである。
 それはたとえば、なにか大きな失敗か、または大喧嘩をして勘当されることだって、ないとは言えない。

 スタニスラスは自分の考えに没頭し、結局、屋敷に到着するまで一言も発しなかった。

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