第三十三章 スタニスラス夫人の訪問(その2)

 御者台にいたギョームは、道中、スタニスラスが一言も口を利かなかったことに気付き、先ほどの自分の一言で、機嫌を損なわせたかと心配になった。
 彼がスタニスラスの前で"跡取り息子云々"という発言をしたのは計画的なものであった。軽口を叩く振りをして、エドモンの伯母にそういう可能性もあることを気付かせようとしたのである。
 もとより自分がエドモンの近くにいることについて、彼女が好ましく思っていないだろうという事は、ギョームにも分かっていた。
 ――おそらく彼女の目には――彼女自身が、自分では思わずともそうであるように――俺がパンダボアヌ家の財産目当てで近寄るハイエナのように見えるのだろう。
 別にそのこと自体は構わなかった。彼女に好意をもたれたところで、彼にとって何か得することがあるわけではない。
 とはいえ、これからもさり気なく彼女の心にいろいろ吹き込もうと考えていた矢先である。はっきりと嫌われて話も出来なくなるのは問題だった。
 とりあえず、この沈黙が自分に対する憤慨が原因なのかどうか、なんとかして確認しなければいけない。ギョームはそう考えていた。
「さあ、到着しましたよ」
 玄関前に馬車をつけると、ギョームは後ろを振り向いて、極力明るい声でそう呼びかけた。
 するとスタニスラスは、一瞬、驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「あら、もうついたのね。全然気付かなかったわ。腕がよろしいんですね」
 その言葉を聞いて、ギョームは心の中でほっと息をつき、次いでほくそ笑んだ。

 エドモンたちがスタニスラスと共に屋敷に到着したのは、ようやく日が傾きかける頃であった。当然、ビルフランは工場でまだ仕事をしており、彼が帰るにはまだ時間があった。
 スタニスラスは弟が帰るまで休んでいると言い、召使の案内で部屋へと下がった。
 エドモンとギョームは夕食まで時間が出来たが、外に出るほどの時間の余裕があるわけでもなく、書斎で寛ぐことにした。
 二人は互いに話すでもなく、それぞれ本を手に取っていたが、ギョームは本を開いただけで、思考はスタニスラスのことへ向かっていた。
 彼女が自分の発言に腹を立ててはいないのは、間違いなかった。ああいう女性は、一度腹を立てると、そう簡単に許しはしないからである。もちろん、淑女のたしなみとして騒ぎ立てはしないだろうが、相手を無視し、口も聞かないことで自分が怒っているという意思表示をするはずである。
 ではなぜ馬車の中で一言も発しなかったのか?。
 元々無口な性格だというのであればともかく、ギョームの第一印象としては、彼女はそのようには見えなかった。むしろ多くの女性と同じく、話し好き、噂好きな方であろう。
 それなのに、馬車の中では隣に座るエドモントすら会話を交わさなかった。
 久しぶりに会った親戚、しかもこれから金を借りる相手の息子である。口を閉ざす理由はない。
 そう考えると、彼女は話さなかったというよりも、何かを考えるのに忙しくて口を訊く暇がなかったに違いなかった。
 では何を考えていたのか?
 それはエドモンにもしものことがあった時のことに違いなかった。
 もしそうであれば、ギョームの思う壺である。
 彼は再び内心でほくそ笑んだ。

 ビルフランが帰ってきて間もなく、晩餐の準備も整い、皆が食堂に集まった。
 といっても、総勢四人である。
「あら、今回は少ないのですね」
 スタニスラスは食堂に入ってくるなり、そう言った。
「今は皆忙しい時期なのですよ。丁度、エドモンも帰ってきていることですし、今回は身内だけでいいでしょう」
 ビルフランが答えると、スタニスラスは軽い溜め息を吐いた。
「そのことも含めて、あなたに少しお話したいことがあります」
「話は後もよろしいでしょう。とりあえず食事にしようじゃありませんか」
 彼女が話そうとするのを押しとどめて、ビルフランはマチューに食事を持ってくるよう合図をした。

 食事が運ばれてきて、晩餐が始まった。
 ギョームは運ばれてくる料理の豪勢さに驚いた。この屋敷での普段の食事も美味しいことは美味しかったが、どちらかというと簡素な食事が多かった。むしろ味を除けば、彼自身が普段食べている物と大きな違いはなかったため、余計に今夜のメニューの豪華さが際立って感じたのである。
 しかも、何日もかけて準備したわけではなく、一日でこれだけの食材を取り寄せて調理するのは、並みの労力ではないはずであった。
 ビルフランがフランス一の紡績工場の社長であることを、改めて思い知らされた瞬間でもあった。
 ギョームが料理に夢中になりそうになったとき、再びスタニスラスが口を開いた。
「エドモンは学業のほうはどうなのかしら?」
 突然、話を振られたエドモンは驚いた顔で伯母を見た。
「私ですか?まあなんとか卒業は出来ると思いますよ」
「何とか卒業なんて、パンダボアヌ工場を引き継ぐ方がそんなことでは困りますよ」
 眉を顰めて言う伯母に対して、ただ苦笑するだけのエドモンを見て、ギョームは助け舟を出すことにした。
「エドモンは学校でも優秀な生徒ですよ。先生からも一目置かれています」
「お前にはテストで一度も勝てたことがないのに、そんなことを言われては、こっちが恥ずかしくなるよ」
 エドモンが呆れたような顔でギョームに言い返すと、スタニスラスが再び会話に割り込んだ。
「あら、それではギョームさんは随分と優秀なのですね」
「私のような者は、地道に勉強でもしないと、前途が開かれないのですよ」
 ギョームが真面目そうに答えると、エドモンは難しい顔を彼に向けた。
「お前はよく、講師に口論を吹っかけているが、あれで地道といえるのかい」
「それとこれとは別の話だろ」
 そこで睨み合った二人は、一拍の間を置いて同時に吹き出した。
「お二人が仲の良いことはよろしいですが、エドモンは他の友達ともうまくやっているのかしら?」
「もちろんですよ」
 笑いながらエドモンが答えたが、スタニスラスは心配そうに言葉を続けた。
「それならいいんですけど、先ほどもパーティーなどにもあまり出ないと聞きましたからね。たとえ苦手でも、そうした場にはきちんと顔を出したほうがよろしいと思いますよ。ビルフランもそう思うでしょう?」
 ビルフランは自分に話が向けられても、動じることなくフォークに刺していた肉片を口に運び、それを十分咀嚼して飲み込んでから返事をした。
「エドモンが出たくないのであれば、出なくてもいいでしょう」
 しかしその返事に彼女は満足しなかった。
「あら、そうかしら。エドモンはあなたの息子として、この工場を受け継ぐのですよ。そういう立場の者が、人ごみが苦手だとか言って、パーティーに参加しないのは問題があると思いますけど」
 スタニスラスは堰を切ったように、ビルフランに話し出した。
「もちろん、全部のパーティーに出ろとは言いませんけど、学校の友人たちだって将来は社会に出られて、いろいろなお仕事に就かれる訳ですから、今からそういう場で交流しておくことも大切なことですわよ」
「ああ、確かにそうかもしれませんね」
「それにエドモンは私からのパーティーの招待も断わるのですよ。こちらだって、パリでのいろんなお付き合いの中で開くパーティーですから、エドモンにもその方々を紹介したいんですよ」
 それがエドモンにとっても得になるのだ、ということを強調して、彼女はビルフランに不平を言った。
 本当は、自分がパンダボアヌ工場の跡継ぎと親しいことを、アピールしたいのが本音だろうと、横で聞いていたギョームは思ったが、もちろんそんなことは、おくびにもださずに、黙って食事をし続けた。
「パリに甥がいるのに、いつもパーティーを欠席されては、なんだか私たちの仲が悪いように思われてしまいますのよ。もちろん、全てに出席しろとは言いませんけど、もう少しこちらのことも考えて欲しいものですわ。エドモンは確かにまだ学生ですけど、同時にあなたの跡継ぎという立場でもあるのですから、それに相応しい対応をしていただきたいと、私は望んでいるのです。そうでなければ、私たち夫婦の面目が丸つぶれですわ」
 まさにギョームが思っていた通りのことをスタニスラスは口にしたが、彼女は至って真面目であった。それはビルフランに対しては、身内であることを持ち出すのが、一番効果的であることを知っていたからである。
 そして彼女の思惑通り、ビルフランは食べる手を少し休めてから、彼女の言い分を認めた。
「エドモン、お前の伯母の言葉も一理ある。あまり断わらずに、偶には顔を出したほうがよいだろう」
 その言葉に、エドモンは父親に気付かれないように、ギョームに向かって軽く肩を竦めてみせながらも、同意の返事をした。
 それを聞いたスタニスラスは、非常に喜び、さらに話を続けた。
「早速ですけどね、二週間後に夫の取引先の方々をご招待するパーティーを開く予定なんですよ。その席にエドモンにも来てもらいましょう。それでビルフラン、そのパーティーの件で、あなたに相談したいことがあるのよ。最近は何かと物入りでしてね・・・」
 彼女は如何に自分が苦労して遣り繰りしているかを、たっぷり時間をかけて説明しだした。ビルフランは少しうんざりした顔をしながらも、黙ってその話に付き合っていた。
 その様子を見て、エドモンとギョームは再び顔を見合わせて、目で笑いあった。

 実際のところエドモンは、口で言うほどには、パーティーが嫌いというわけではなかった。むしろ、ごく普通の若者と同じ程度には好きであった。パーティーに参加するたびに、『パンダボアヌ工場の跡継ぎ』という立場が、自分について回るのに、少々閉口していただけである。
 といっても、別に『パンダボアヌ工場の跡継ぎ』という立場を厭わしく思っているわけではない。しかし学生として生活している間だけでも、そういう肩書きとは無縁に過ごしたいというのは、彼のような立場にあるものの多くが抱く幻想であった。
 気心の知れた仲間内でなら、まだエドモンのそうした心情を察してくれていたが、初対面の人も多く参加するパーティーの席ではそうはいかないため、結局、エドモンはパーティーから足を遠のかせたのである。
 それでも、それが自分の我侭であるということは自覚していた。
 それこそ父親から勘当でもされない限り、今の自分から『パンダボアヌ工場の跡継ぎ』という肩書きが消えることはないわけであり、それは今のエドモンにとっては考えられない話である。
 結局、パーティーへの出席云々ということは些細なことであり、父親に抵抗してまでそれを拒む理由はない、というのが、エドモンの心境であった。

 一方、ギョームのほうは、スタニスラスがただエドモンにパーティーの出席を勧めただけで終わってしまったことに、多少拍子抜けした。
 彼女をそれと気付かれないようにけしかける事に成功した感触はあった。だからもう少しなにかリアクションを取るのではないかと期待していたのである。
 とはいえ、あまりあからさまに動かれても困るのも事実であった。彼はひとまず静観を決め込むことにした。

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