第三十五章 終幕と開幕

 最初にその話を聞いたとき、ビルフランはたちの悪い冗談かと思った。しかしそれが厳然たる事実であるとの証拠が提出されるに及び、彼は唖然とし、次に激しく怒った。
『エドモンが家の金を勝手に持ち出して、何かにつぎ込んでいる。』
 その事実はビルフランにそれほどの衝撃を与えたのである。
 彼はすぐに自分の息子をパリから呼び戻すことにした。

 エドモンはパリに戻る前、すでに祭りを行うかどうか決定するための期限が迫っていたため、タルエルの助言に従って、先に執事のマチューに頼んで必要なお金を用意し、村のものに渡していた。
 父親に対しては事後承諾になるが、タルエルが折を見て伝えることを約束してくれたこともあり、それでも問題はないと考えたのである。
 そしてパリに戻ると、すぐにスタニスラス夫人からパーティーの誘いがあり、そこで更に数件のパーティーに誘われたりしたため、先借りした金のことはすっかり忘れてしまっていた。
 そのため、父親からマロクールにすぐ帰ってくるようにとの連絡を受けたとき、何のことを言われているのか、最初はわからなかった。
 しかし同時に届いたタルエルからの知らせで、彼が父に話す前に、家の金を持ち出したことがばれたのだと判った。
 エドモンは過ぎたことは仕方がないと思い、ビルフランの命令どおり、一度家に戻ることにした。
 ギョームはその話を聞くと、首を振りながらエドモンに助言をした。
「言わなくても判っていると思うが、お前は社長の息子だ。余程のことがない限りは追い出されることなんてない。だが他のものは違うということを忘れるなよ。お前が余計なことを言わなければ、それで丸く収まることもあるということだ」
「分かっているさ。決めたのは私自身だ。他の者に迷惑をかけるような真似はしないよ」
 実際、エドモンは他人に迷惑はかけなかった。ビルフランは彼が家から持ち出した金を何に使ったのか、厳しく問い詰めたが、エドモンは自分のために使ったとしか答えなかった。
「何のためにそんな金が必要だった!」
「パーティーに出るように言ったのは父さんでしょう。そのためにいろいろと入用だったんですよ」
「わしの渡している金だけでは不足だったというのか」
「一度パーティーに出ると、他を断わりにくいんです。とりあえず一通りのパーティーに出席しないと、角が立ちますから」
「そうであっても、あのような額が必要だとは思えん。何か隠してるだろう」
「何もありません」
 そんなやり取りを繰り返した挙句、ビルフランは息子から真相を聞きだすことを諦めざるをえなかった。
 そしてエドモン自身が使い込んだと言っている以上、何らかの罰を与えねばならない。ビルフランはエドモンに、大学を休学してインドへ行くよう命じた。
「お前はお金を稼ぐということが、どれだけ大変なことなのか、分かっていないのだ。だから軽々しく使い込みをすることになる。少しあちらで苦労してこい」
 そう言って、工場で使う麻などの買い付けの仕事を与えたのである。
 エドモンはそれに対しても、一言も反論することなく、命令に従ってインドへと旅立っていった。

 実際のところ、ビルフランはごく早い段階で、エドモンの使用した金が、マロクールの祭りのために使ったという情報をつかんでいた。それでもビルフランは、その事実をエドモン自身の口から聞くことに拘ったのである。
 結局、意外なところで似ていた性格が災いして、お互いに譲れなくなった、というのが真相である。しかし人々はそんなことを知る由もない。エドモンがなにかビルフランの気に触る散財をして不興を買ったと見られていた。そしてそのこともビルフランをいらだたせた。
 心労は体調にも影響する。ビルフランは喘息がひどくなり、時として工場へ行くことを諦めねばならなかった。それでも仕事そのものを休もうとはせず、自宅から指示を出して経営に携わり続けた。
 そんな時、もう一つの悲報がビルフランの元に届いた。工場の創設前より世話になってきたジュリアン・タランベールの死である。
 しかも葬儀の際に、彼の息子が投資に失敗していたという噂が事実であったことも明らかになった。
 名家タランベール家ももはやこれまで、と噂された。
 この時、ビルフランは積極的にジュリアンの息子たちを助けようとはしなかった。彼らは既に成人して自分たちの道を歩んでおり、ここで安易にこちらから手を差し伸べるのは良くないと考えたからである。
 それでもまったく彼らのことを無視したわけではなかった。実を言えばジュリアンがまだ生きていたときに、折を見て持ち出そうと思っていた話があり、結局、彼が生きているうちに話すことは出来なかったが、それでもビルフランは意を決してそれを持ち出すことにしたのである。

 ビルフランがタランベール家の屋敷を伺うと、ジュリアンの息子二人が彼を出迎えた。
「突然どうしましたか、パンダボアヌさん」
 次男のアンリが尋ねると、ビルフランは用件を切り出した。
「実は以前から考えていた話があるのです。本当なら御父上にお願いしようと思っていたのだが、話す前に亡くなられてしまった」
「どんなことでしょう」
「実は私の息子のエドモンの嫁に、あなた方の妹さんをいただけないかと思ったのです」
 その話に、アンリと三男のブノアは顔を見合わせた。
「確か、エドモンさんよりもベロームの方が年上だったと思いますが」
「息子は親の目から見ても悪い男ではないが、しかしどこか頼りないところがある。ベローム嬢のようなしっかりしたお嬢さんがエドモンの嫁になってもらえると、こんな心強いことはないのです」
「エドモンさんは、その話を承知しているのですか」
「話してはいない。だが断わる理由などないでしょう」
 ビルフランは断言したが、アンリ達の方がもう少し慎重であった。とはいえ、今この時に、伸張著しいパンダボアヌ家と親戚関係を築けるのは、何より心強いことである。アンリはブノアと短く相談してから、ビルフランに返事をした。
「それでは、私から妹にその気があるかを確認します。パンダボアヌさんも、ご子息に一応、確認していただいてよろしいでしょうか」
「わかりました。エドモンは今、インドにいるので、手紙で知らせておきましょう。良い返事をお待ちしています」
 実際、ビルフランはエドモンがこの話を断わる可能性については、全く考えていなかった。

 アンリはすぐに、妹のベロームにビルフランから持ちかけられた縁談を伝えた。
 それを聞いたベロームは、来るべきものが来た、という思いであった。
 父が生きていたときも、時折縁談が持ち上がってはいた。しかし今の彼女にとっては、子供を教えるという教師の仕事が楽しくて仕方がなかった。このためそうした縁談は全て断わっていたのである。
 しかし今回の縁談はこれまでとは違うものだということを、ベローム自身も理解していた。タランベール家はいまや昔日の輝きを失いつつある。とはいえ、彼女が教師を続けていく上で、そのことが大きな問題となることはない。しかし兄たちにとっては、フランス一の紡績工場の持ち主であるパンダボアヌ家と血縁関係になることは、大きな意味を持っているのである。
 それは彼らがビルフランに直接頼れるということではない。たとえば銀行などに融資を頼む場合、パンダボアヌ家の親戚ということだけで、条件に天地の差が出るということである。
 昔のように、一族の決めた相手以外との結婚など論外、という時代ではないとはいえ、やはり相応の相手でなければ、という風潮は強い。
 もちろん、相手が嫌な人物であればベロームも同意はしなかっただろう。しかしエドモン・パンダボアヌとは屋敷で数回、会ったこともあり、異性として意識したことはないにしても、悪い印象は持っていなかった。さらに言うと、彼女はビルフラン・パンダボアヌという人物が好きであった。
 今まで自分の我侭で結婚を拒んできたが、今回は自分の事情よりも家庭の事情を優先すべきであろう。ベロームは自分の内でそう結論した。
「わかりました。パンダボアヌさんでしたら、わたしも異論はありません。そのかわり、正式に婚約が決まるまでは教師としての仕事を続けます」
「構わない。どちらにしても正式な婚約はエドモンが帰ってきてからだ。早くても半年先になるだろう」
 どうやって説得するか悩んでいたアンリは、妹が思いのほかすんなりと同意したことに多少の訝しさを感じながらも、肩の荷が下りた気分であった。

 ビルフランは手紙でベローム・タランベール嬢との縁談についてエドモンに伝えるつもりであった。しかし彼が息子に手紙を送るよりも早く、当の息子から一通の手紙が届いた。
 いつもの近況報告だろうと思ったビルフランだったが、読み進めていくうちに表情を強張らせていった。
「あの馬鹿息子め!なにが結婚だ!」
 そこにはインドで知り合ったドルサニ家の娘との結婚を許して欲しい、と記されていたのである。
 当然、こんな話を認められるはずもない。ビルフランは手紙にはっきりとそう書き、さらにタランベール家の末娘との縁談が上がっていることを記して、すぐにフランスに戻ってくるように伝えた。
 しかしそれに対するエドモンの返事は、ベローム嬢との結婚は出来ない、父の許しをもらえないとしても結婚する意志は変わらない、というものであった。
 その返事にビルフランはショックを受けた。エドモンがそこまで頑固に逆らってくるとは思わなかったのである。しかも息子の結婚相手が外国人であるというのは、彼自身の父親の経緯もあり、彼にとって決して受け入れられるものではなかった。
 ビルフランは、もしもその娘と結婚するというのであれば、勘当すると伝えたが、それでもエドモンは自分の意思を曲げることはしなかった。
 このやり取りを最後に、あれだけ仲の良かった親子の関係は決定的に決裂したのである。

 ビルフランはタランベール家に行き、ベローム嬢との縁談が流れたことを詫びた。さらにベローム自身にも会い、彼女に頭を下げた。
「あの馬鹿の一時の気の迷いでこのようなことになってしまい、申し訳なかった」
「パンダボアヌさん、そのように頭を下げていただくことはありませんわ。まだ内々の話で正式に決まっていたわけではありませんから」
 実際、パンダボアヌ家とタランベール家の縁談については、一部の耳の早いものは知っていたが、まだ正式に発表してはいなかった。更に言えば、今回の話は彼女自身が積極的に望んだものではない。
「わたしは子供たちに良い教育を与えることを、生涯の目標としたいと思っておりました。今度の結婚でそれを一時的でも諦めなければいけないと思っていましたが、そうしなくて済むと、ほっとしていたのですよ」
 ビルフランは、そのように自分の本心を漏らしてくれたベロームに感謝した。今回の破談で彼女自身も傷ついたはずである。それでも彼女が別の目標を持って歩いていけると言ってくれたおかげで、ビルフランは必要以上にそのことを悔やむ必要はなくなったからである。
「あなたがそうした高邁な目標を持っておられるのであれば、私も全面的に協力しよう」
 ビルフランはベロームの手を取って、そう約束した。

 結局、エドモンは愛する父親に逆らう形で、自らの家庭を持つこととなった。
 しかし彼自身は父親に対する愛を失ったわけではない。ただそれよりもマリ・ドルサニ嬢を愛しただけである。だからいつの日か、父親に妻のことを認めてもらいたいという願いを持っていた。
 そしてその願いは、二人の間に生まれた娘につけた名前に現れた。
「この子の名前はペリーヌだ」
「ペリーヌ、良い名前ね。あなたのお母様のお名前?」
「いいや、祖母の名前だよ。祖母は、わたしの父と母が結婚する前に亡くなったんだ。父さんは、祖母のことを深く愛していたと乳母から聞いたことがある。だから、私が母の名前ではなく、祖母の名前を娘につけたことを知ったなら、きっと父さんはわたしが今でも父さんを忘れていないということを判ってくれると思うんだ。そしてきっとこの子のことも愛してくれる。だからマリ、君もこの子を大事に育ててほしい。そうしたなら、父さんは君のことも認めてくださるだろう」
「もちろんですわ。この子はわたしとあなたの間の子供ですもの。きっと立派に育てて見せます」
 とはいえ、勘当されているエドモンは、そのことを父に直接伝えることはしなかった。マロクールを管轄する教区のポワレ神父に手紙を何度か書いただけである。
 事情が許さなかった、ということもある。丁度インド各地で飢きんが続けてあり、エドモンはマリの父親と共に飢えに苦しむ人々を助けようと奔走した。そしてそれが遠因となってドルサニ・ベルシェ工場は破産してしまったのである。
 エドモンは家族を養うためにこれまで以上に働かざるを得ず、父親との和解はさらに先送りとするしかなかった。

 それから十年後・・・。

 ビルフランはヨーロッパでも有数の工場主として、そして無類の成功者として名を成した。しかし実生活では病気のために視力を失い、息子は行方が知れず、身内は自分の財産を虎視眈々と狙っているという、決して恵まれているとはいえない状況にあった。
 そのため、彼はますます気難しくなっていた。
 せめて息子が帰ってきてくれたなら、という思いから、最近になって密かに息子の行方を捜させていたが、そちらも捗捗しくなかった。
 先の短い老人に、これから先、後どれだけの喜びが残されているのか?
 ビルフランは自嘲気味にそう思いながら、いつもと同じように会社へと向かった。
 すでに彼の待ち焦がれる人物がこの世には存在しないことを、彼はまだ知らない。
 そしてその彼の絶望を救い、このマロクールまでも変えてしまう存在が、すでにこのマロクールで生活を始めていることも、まだ知らなかった。
 運命の出会いまで、あと数刻・・・。

 To be En Famille

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