第八章 失意と悲嘆

 母親の葬式を済ませ、ビルフランは再び自分の仕事へと戻っていた。
 しかしその仕事振りは以前のような意欲にかけ、どこか投げやりな雰囲気があった。
「パンダボアヌさん、母親を亡くして失意を感じるのは判りますが、仕事は仕事です。もう少しやる気を出してください」
 一緒に仕事をすることになったリュック・アヴリーンも、ビルフランにそう忠告したが、彼はただうなずくだけで、なかなか以前のようにはいかなかった。
 セバスチャンもビルフランの落胆振りを心配している一人であった。しかし、彼は自分にビルフランを立ち直らせる力はないことを知っていた。
「ビルフラン様を力づけることができるのは、オーレリー様しかいない」
 それがセバスチャンの結論である。しかし肝心のオーレリーが、葬式以来、家から出てこないと言う話であった。
 セバスチャン自身、仕事の忙しさでその噂の真偽を確かめる時間はなかったが、少なくとも彼女がビルフランの家に来なくなったのは事実である。
 そしてただそれだけの事実を元に、無責任な人々は根も葉もない噂を話していた。
 つまり、ビルフランとオーレリーは婚約を解消するのではないか、というものである。
「それはありません。お二人は結婚されます」
 セバスチャンはその噂話を聞いたとき、そう断言した。二人が愛し合っている以上、婚約を解消する必要はないではないか。


 もう一人、二人のことを本気で気にかけている人がいた。フランソワーズである。
 そしてフランソワーズの心配はよりオーレリーに対して向けられていた。そして、婚約解消の噂を聞いたとき、このままではそれもありえると考えた。
 とにかく、オーレリーの真意を聞いてやらなければならない。本来ならビルフランが行うべき役目であるが、あの気の利かない男に任せておいては、手遅れになってしまう。
 フランソワーズは仕事を亭主に任せて、オーレリーの家を訪ねた。


「フランソワーズ、会いたかったわ!だけどあなたも忙しいと思って、会いにいけなかったの」
 オーレリーはフランソワーズを見ると、涙を流して喜んだ。
「もっと早く来たいと思っていたのだけど、こんなに遅くなってしまったわ」
「いいえ、あなたが私のことを忘れないでいてくれただけで嬉しいわ」
「忘れるものですか!さあさあ、そんなに泣くことはないのよ。少しお菓子も焼いてきたわ。一緒に食べましょう」
 フランソワーズはバスケットの中のお菓子を取り出し、テーブルの上に置いた。本心を知るには、くつろいだ気分が一番である。
 お茶を入れ、お菓子を食べながら、フランソワーズは世間話をした。そしてオーレリーの気持ちが落ち着いてきた頃を見計らって、ビルフランの話題を持ち出した。
「オーレリー、最近、ビルフランに会っているのかい」
 彼女はビルフランの名前を聞くと、俯いて首を横に振った。
「何で会いに行かないんだい。なにか、酷いことでも言われたのかい」
 フランソワーズの質問に、暫く黙っていたが、やがてぽつりと話し出した。
「ビルフランは私のことを怒っているのよ」
「彼がそういったの?」
「だって、あの人からお母様を看病するよう頼まれたのに、その役目を果たせなかったのですもの」
 俯き、少ししゃがれた声でオーレリーはそう答えた。
「あなたはきちんと役割を果たしたわ。そのことであなたが気にすることなんて、なにもないのよ」
 フランソワーズは励ましたが、オーレリーは再び首を振った。
「ビルフランはそう思っていないわ。だって、あれ以来、一度も声をかけてくれないもの」
「だけど、会いに行った訳ではないのでしょう」
「行ったわ。だけど留守だったの。その帰り道で、あの人の駆る馬車とすれ違ったのだけど、あの人は私を無視したわ」
「本当かい?それは酷いねえ」
 おそらくビルフランは、オーレリーとすれ違ったことに気付かなかったのであろう。
 フランソワーズはそう考えたが、ここはあまり彼女の話の腰を折るべきではないと考えた。実際、気付かないのも酷い話である。
 オーレリーはフランソワーズが自分に同情してくれたので、堰を切ったように自分の思いを吐露し始めた。
「私は十年待ったのよ。もし、ビルフランがもう少し待てと言うのなら、あと十年だって待って見せるわ。だけどビルフランに嫌われたら、私はどうすればいいの?」
「そうよね。あなたはよく待ったわ」
「本当はねフランソワーズ、私だってもっと早く彼と結婚したかったのよ。結婚して、彼をもっと身近で助けたかったのよ。だけどビルフランが今日まで先延ばしにしたのよ」
「知っているわよ。あなたの気持ちはみんな知っているわ」
「だからあの人が正式に結婚の申し込みをしてくれたときは、本当に夢のようだったわ」
「ほんと、あれは突然だったものね。わたしもびっくりしたわ」
「あなたもビルフランのことを好きだったのは、私も知っていたのよ、フランソワーズ。だけど、あの人は私を選んでくれた。だから私はとても嬉しかったのよ」
 このときだけは、フランソワーズは曖昧に頷くだけであった。まさか、オーレリーに自分の感情を気付かれていたとは思わなかったのである。おそらくオーレリー自身、このような状況でなければ、けして口にはしなかったであろう。
「だけどきっと、ビルフランは私を選んだことを後悔したのよ。だから私のことなんて、もうどうでもいいに違いないわ」
 そう言うと、オーレリーはすすり泣いた。フランソワーズは彼女の横に回り、肩を抱いて慰めた。
「あなたがそのことで気に病むことはないのよ。それに、まだそうと決まったわけではないのだし。今までだって、一、二週間、顔も見せに来ないことがあったって、あなたもいっていたじゃない」
「それはそうだけど…」
「それにオーレリー、あなた、ビルフランが自分の考えを口にもせずに、いつまでも放っておくと思う?」
 オーレリーはそれを聞くと、少し考えてから小さく首を振った。
「そうでしょう。ビルフランだって、母親を亡くして気が動転しているのよ。それで、あなたのことまで気が回らなくなっているだけよ。落ち着けば、またあなたのことを思い出すわ」
 フランソワーズはさらに暫くオーレリーの話を聞いた。すっかり自分の感情を吐き出したことで、オーレリーもいくらか気が楽になったようであった。
 フランソワーズが帰るとき、オーレリーはドアのところで見送った。
「今日はありがとう、フランソワーズ。私、もう少しビルフランのことを待ってみるわ」
「そうね。もしできるなら、自分で会いに行ってみるといいかもね」
「…考えてみるわ」
 フランソワーズは手を振って、オーレリーと別れた。


 オーレリーの家を出たフランソワーズは怒っていた。
 ビルフランの気持ちもわからないではない。しかしだからといって、オーレリーがあそこまで思いつめるまで、放っておいて良いわけがないであろう。
 少し遅くなったが、フランソワーズはビルフランに会いに行くことにした。会って、ひとこと言ってやりたいと思ったのである。
 彼女はまっすぐビルフランの家へと向かった。


「なんだフランソワーズか。何の用だ」
 家の中から出てきたビルフランは、どこか投げやりな雰囲気であった。
「なんだとは失礼ね。元気がないと聞いたから、励ましに来てあげたのに」
「ふん。励まして欲しいなどと頼んだ覚えはない。だが折角来たんだ。少し上がっていくか」
「ええ、そのつもりよ」
 フランソワーズはそう言うと、さっさと家の中に入った。
「新しい人を雇ったんだってね。何て言ったっけ?」
 本当なら、すぐにでもオーレリーのことを切り出したいと思っていたが、少し前に彼女のことで、フランソワーズはビルフランを引っ掛け損ねている。今、正面から彼女の名前を出しても、まともに取り上げてもらえないことは目に見えていた。
 そこでフランソワーズは、遠まわしに仕事のことから切り出そうと、ここに来るまでに考えていたのである。
「リュック・アヴリーンだ。彼はしっかりした男だ」
「そうでしょうね。あなたみたいな人が会社を起こすんだから、しっかりした人がいないと困るものね」
 とげのある言葉が、ビルフランの癇に障った。
「わたしみたいな、とはどういう意味だ」
 少しきつい口調でビルフランは聞きとがめたが、フランソワーズは全く気にせずに返事をした。
「あら、そのとおりの意味よ。あなた一人では、周りのことが見えないでしょ」
「わたしがいつ、周りが見えなくなったというのだ」
「現に今、あなたは仕事が手についていないんじゃないの」
 そう言われて、ビルフランは言葉に詰まった。
「別に、あなたがあなたのお母様のことで悲しむのを責めているわけではないのよ。ただ、あなたが自分で仕事を起こしている以上、あなたの行動は雇っている人みんなに影響することを忘れないで」
 ビルフランは目を大きく見開いたまま、俯いていた。何かを我慢しているようにも見えた。
 彼の様子を見て、フランソワーズは内心で怯えた。昔から一人で麻の苧の積み下ろしをしていただけに、ビルフランは力が強い。もしも激高して殴りかかってこられたなら、彼女には止めようがない。
 それでも気を張って、ビルフランを見据えていた。
 やがて、ビルフランはため息をついてフランソワーズに答えた。
「お前の言うことはわたしもわかっていた。だがどうすればよいか、わたしにもわからないんだ」
 ビルフランはそう言うと頭を抱えた。
 その様子を見て、フランソワーズも彼に同情を覚えた。それでも、いや、それだからこそ、自分はここに来た目的を果たさなければならない。彼女はそう考えた。
「そういう時は、まず行うべきことを行いなさい」
 フランソワーズは諭すように話した。
「私が行うべきこと?何を行えと言うんだ?」
 頭を抱えたまま、ビルフランは突き放すように答えた。
 それでもフランソワーズは、ビルフランに考える時間を与えた。しかし、彼はそれ以上答えようとしなかった。あるいは考えてすらいないのかもしれない。
 フランソワーズは小さくため息をつき、ビルフランに尋ねた。
「あなた、お母様を看病していたオーレリーにお礼を言った?」
 思わぬ質問に、ビルフランは顔を上げた。
「お礼?した…いや、どうだったかな?あのときの事は良く覚えていない…」
「覚えていないの?なら教えてあげるわ。あなたはあれ以来、オーレリーとは一言も口を利いていないわよ」
「そういえば、そんな気もする。どうしてオーレリーは私のところへ来てくれないのだろう?」
 その言葉にフランソワーズは呆れたが、その感情は押し殺して、辛抱強く話を続けた。
「オーレリーは、とても悩んでいるのよ」
「オーレリーに何かあったのか?」
「あなたのお母様の看病を任されたのに責任を果たせなかったって」
「なに?なぜそんなことを?誰かがそういったのか?オーレリーは良くやってくれた。彼女に責任はない」
「それなら、それを彼女に言ってあげて!あのこは、あなたに無視されて、それであなたが怒っていると思っているの。あなたに嫌われたと思っているのよ!」
 それを聞いて、ビルフランはショックを受けた。
「オーレリーが…わたしが怒っていると…嫌っていると…」
「わたしは、そんなことはないだろうと思ったわ。だけどあなたが母親を亡くしたように、あのこも自分の義理の母になる人を目の前で亡くしたの。それであなたと同じように動揺しているのよ。だからわたしが違うと言っても、たぶん信じられないと思うの。お願い、オーレリーのところへ行って、彼女と悲しみを分け合って。そうすれば、きっとあなたも立ち直れるわ」
 ビルフランはフランソワーズの話を聞いて、再び顔を覆った。
「そうか…わたしは悲しみの余り、もう一人の大切な人を失うところだった…なんという愚か者だ…」
「まだ遅くはないのよ。だけど今、何もしないなら、本当の愚か者になるわ」
「そうだ…わたしはオーレリーに会わなければならない!今すぐに!彼女に礼を言い、彼女の誤解を解かなければならない!」
 そういうと、ビルフランは立ち上がってフランソワーズに礼を言った。
「心配をかけてすまなかった。もう大丈夫とはいえないが、少なくとも、今、行うべきことは判ったよ。ありがとう、フランソワーズ」
 その言葉を聞いて、フランソワーズも微笑んだ。
「わたしはいつでも、オーレリーの味方なのよ。さあ、早くオーレリーの所へ行ってあげて」
 ビルフランは、フランソワーズが最後まで言い終わらないうちに、家を飛び出していた。
「これで…きっと二人とも元気になるきっかけをつかめるだろうね」
 フランソワーズは、難しい仕事をやり終えた時の疲れを感じながらも、二人の幸せを祈りながら家路へついた。

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