川村史記 文筆活動 
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 東日本大震災の惨禍に心を痛めながらも世間の関心は、3月ともなれば幼稚園から小中高・大学に至るまで、“お受験”の成り行きに移り、親子して一喜一憂する季節となっています。毎年繰り返される年中行事とはいえ、年ごとに親(特に母親)の喜怒哀楽が受験生を包み込む霧のように濃くなり、子どもそのものの存在を朧(おぼろ)にしているのは、光化学スモッグなみに害が大きいように思えます。

 こうした傾向が最近とみに加速してきた結果、大学受験はもとより、子どもの就職や結婚にまで母親の果てしない関与が津波のように押し寄せ、我が子の自立心を死滅させつつあるのはまことに憂慮すべき事態です。かかる過干渉の子育てと、点数の評価だけが重視される教育を経て、身体だけ大きくなった子ども達は、受験や通信簿のような単純な点数評価には馴染まない社会活動の現場で、評価されないことえの苛立ちをつのらせたり、職場の人間関係にいともたやすく挫折したり、哺乳類としての母性の未熟さゆえに、育児に励む本能を十分発揮できず、ノイロゼーになったり、我が子に暴力を振るったりと、殺伐とした事件を起こす例が多いようです。

 そして、かくもひ弱な時代を反映してか、最近、病院へ行くと、心療内科に多くの若い男女が群れをなしています。この群がる人物達を観ていると、その健康そうな体形から、『これがどうして病人なのか』と、いぶかる風景が多いのに愕然とします。しかも彼等は父とか母とかを同伴者にして来院している者も多く、ここでも親達が“子育て”に大活躍という図式があります。誤解を恐れずにいえば、もし仮病を使うことさえも心の病と定義するならば、最近の巷には健康な人などいなくなりそうな勢いです。しかし、こうした考え方は世の中に普及する心理学的発想の悪しき運用であり、なにかあるとすぐに自分は病気であるかのように錯覚する人間の在り様は原子力平和利用の詭弁と同じように日本の危険な未来を暗示しているように思われてなりません。

 筆者はこれまでも、ことあるごとに述べてきましたが、人間の一生はある場面を切り取ってみれば、『自分が勝者である』ように見える画像があります。そしてまた別の場面を切り取ってみれば、『自分が敗者である』ように見える画像もあります。しかし、そうした画像は無常を生きる人間にとって、永続的なものであるはずがありません。結局、一人の人間の全人生を俯瞰すれば、最後には勝ちも負けもないプラス・マイナス・ゼロの道筋があるばかりです。しかもそれは、生まれ、生き、そして死ぬというこの世の生物に平等の一貫性であるわけです。親の過干渉が過ぎれば、子ども達は宇宙の一部である人間のこうした荘厳な摂理に気づかぬまま、そしてそうした摂理を受け入れることができないまま、哺乳類の中で“生きることに素直さのない”最もレベルの低い生き物としてその命を終わることになるのです。ですから、勝ち負けにこだわる親達は、まさにそうした煩悩の地獄に子ども達を突き落とす手助けをしているのではないでしようか。

 また最近、教育を論ずる一部の人間達が『将来食える子ども達を育てる教育』などということをいいだしていますが、これとてもやはり、その言葉の背後にあるものは『勝ち組・負け組の思想』であることに変わりはありません。大震災で多くの国民が難渋している今日、『将来食える子ども達を育てる教育』などということを、いたずらに誇張してはなりますまい。今日的政治状況の腐敗のなかで、民主主義の非能率さに業を煮やした教育への異常な行政介入も含め、勝ち組思想の氾濫はおぞましき限りです。



明けましておめでとうございます。
 東日本大震災や大型台風の重なる来襲等々で多くの人々が亡くなり、多くの家屋が破壊され、今後の人生設計や生計の目処がたたない人々が日本国中に満ち満ちた西暦2011年を通過して、我々は西暦2012年に生きることとなりました。しかし、政治・経済・社会・教育等々、我々の生活を担うあらゆる分野には希望よりも絶望の色が濃い新年です。

 自称どじょうの日本国首相の“民意を無視した”ナルシスティックな独断専行、信楽焼きの狸のような経団連会長がどじょう首相と歩調をあわせてポンポコポンと打ち続けるTPP狸囃子、マニフェスト全滅をこれまでの自民党政治のつけと嘯く民主党議員、自分達の政治的大罪を棚に上げ、政局ばかりを演出する自民党議員、自己満足の一人芝居に終始する弱小野党、日蓮上人が怒っているのではないかと呆れる法華の太鼓政治集団。まともに基地問題に腹を立てているとは思えない日和見主義の沖縄県知事、橋下大阪知事と橋下大阪市長を誕生させた大阪市民のタレント依存症、そこに湧き上がる政治屋小泉2世のような“橋下オンステージ”の大阪都構想と教育改悪論。はたまた原子力発電の恐怖をこれほど味わった後でも、“原子力の恩恵”詭弁にすがりつく経済神話依存の人、人、人・・・・・。なにがあっても怒らない国民となにがあっても上昇しない選挙投票率等々、まだまだあげればテンプラ“かす”のようにわいてでる“社会の動脈硬化を助長するコレステロール因子”群。嗚呼!この国はどうなっちまうんだろう?

 上記のごとく諸事万端に、今は亡き人類学者・梅棹先生が予見した“人類転落の道筋”がまさに現実となりつつある今日、我々はただただぺシミステックにしか生きられないのでしょうか。・・・・いやいやそうではありますまい。先人の洞察にすがりついてでも我々がまだまだ検証すべきことはあるようです。例えば、梅棹先生の予見する“『理性』を主体とした人間の活動が生み出す悲惨な未来”・・・。これを回避しうるわずかな光明としてこれまた梅棹先生が提示した『英知』の正体を、我々一人ひとりは今こそ見極めなければならないのではないでしょうか。

 NHK教育テレビが2011年6月5日にオンエアーした番組『暗黒のかなたの光明〜文明学者梅棹忠夫がみた未来』の中で、あるノンフィクション作家が理性とは左脳的世界(理論や理屈)であるとし、その対極にある右脳的世界を『英知』と推測していましたが、これはなかなか洞察力に飛んだ視点であると感じます。例えば、アメリカ的な思考や評価、行動はコンピュータ(デジタル)と共存できる“理性や理屈で構築されたサイエンスの所産”とみることもできるでしょう。しかし、それは人間能力の一面にしかすぎません。我々はこれとは対照的なよりアナログ的世界をもう一度見直す必要があるのです。言い換えれば、20世紀には軽視されがちであった“心”とか“ひらめき”とか“情念”とか“夢”といった感性が機能する『曖昧模糊たる感受性を司る頭脳領域』に着目せよということです。そうすればデジタルパワー(理性・合理性・理屈)で疲弊した社会の傷口を治癒し、左脳と右脳のバランスを保ちながら人間を再生し、日本社会を復興へと導く新たな世界観や人間観が復活してくるように思えるのです。


禁煙についての笑い話に「禁煙なんて簡単だよ、ボクなんかもう何度も禁煙しているよ!」というのがあります。あほらしいといってしまえば、それまでのことですが、この笑い話はなかなかに笑い飛ばせない側面をもっているように思います。例えば、最近の話題でいうなら、福島第一原子力発電所の放射能漏れ大事故で高まる原子力平和利用への拒否反応と、それを意識した産業界や行政による原子力利用の必要悪論の台頭です。そこにはどうやら、くだらない『禁煙話』に通ずる臭いを感じます。

ちなみに、822日発表されたあるマスメディアの世論調査によると、『原発の段階的廃止』を75%の人々が支持しているといいいます。「将来は原発から撤退すべきであるが、急には無理だよ!」という発想です。

ここで禁煙に話しを戻してみましょう。禁煙に取り組む際、少しずつ減らす禁煙を目標に掲げる人が多いようです。つまり、12箱吸っていたタバコを1箱にする。1箱吸っていたのを10本にするといった調子での禁煙からの段階的撤退です。しかし、その健気な取り組みは、3日で・・・、1週間で・・・、1ヶ月で・・・・挫折に追い込まれた照れ話をよく耳にします。一方、禁煙を宣言したその日から、1本も吸わないという荒行に取り組む人は思いのほか、禁煙に成功する場合が多いようです。つまり、タバコに未練を残さない取り組みの方がニコチン依存から抜け出しやすいということです。かくいう筆者も、30年以上前に禁煙を志したおり、即座に喫煙を断つ荒行で3ヶ月を過ごし、いまでは喫煙者の傍にいるのもいやな人間になっています。正直のところ、少しずつ減らす取り組みにもチャレンジしたことがありますが、これはものの見事に失敗しました。そして不思議なもので、一度やめてしまえば、何であんなものにあれほど依存していたのかまったくわかりませんし、なにも不自由していません。

おそらく、いやまちがいなく、人間のメンタルな面からいえば、原発依存症も同じようなものでしょう。少しずつ段階的に原発を利用しないようにするなどという発想は、原発利用は今後もやめない、やめられないという症状を加速していくだけです。そして、十分な電力確保ができなければ日本の産業が衰退し、雇用も確保できないなどという『国民に向けた脅し』のような主張が際限もなく増幅されていくでしょう。我々は今回の原発大事故を契機に、日本をこれまでのような経済を中心に構築される社会ではなく、国民の幸福を最優先に発想する社会に造り替える強固な意志とビジョンをもつべきです。そうして、脱原発をチャンスと捉え、代替エネルギー開発等の課題に勇気を持って取り組めば、世界に先駆けた新たな産業モデルを提示し、世界の平和と安定に貢献できる可能性は十分にあるはずです。

そのためには、マスメディアも本来の使命感に立ち戻り、勇気ある言論・行動に踏み出してもらいたいものです。今や、国家に放送の許認可権を握られ、多くの大手産業からの膨大な広告収入で金儲けすることしか頭にないように見える大手マスメディアのわけのわからぬ“庶民感覚から乖離した取材自主規制”は、エリート意識ばかりが際立つ時代劇のお代官様みたいなお主も悪よのう!のお先棒を担いでいるようにしかみえないことが多々あります。そんなわけでマスコミ各社は先日行われた6万人規模の脱原発デモ取材にも自主規制が存分に発揮された“通り一遍の記事扱い”に終始したようです。これでは戦前のマスメディアとどこに違いがあるというのでしょうか。猛省を求めたいゆえんです


【日本人よ、冷静を装うなかれ!】

 今年3月11日に発生した東日本大震災を引き金とする人災『福島第一原子力発電所の崩壊』とその結果としての放射能汚染が、深刻化する最中、日本国中に原子力発電反対の叫びは大きくなりません。1年を通じて大小の地震が頻発する国の地下いたるところに地震を引き起こす活断層があるというのに、合計54基もの原発を設置してしまった愚かさを、マスメディアも真正面から報道しようとはしないのです。それどころか自己抑制の効いた筆致で、『今後の課題は原子力発電を維持するにせよ、脱原発へと舵しを切るにせよ、将来のエネルギー政策をどちうするかというマクロな視点で、国民も含めて議論すべきだ』などといった調子の日和見をきめこんでいる始末です。

 おりしも、夏の節電を呼びかけてきた東京電力の電力消費は毎日、ピーク電力消費が70%台で推移し、大雨災害で水力発電の供給能力が落ちた東北電力へ電力を融通できるほどの節電実績をあげています。このちくはぐさを国民は・・・メディアは・・・疑問に思わないのでしょうか。また、原子力発電が停止したことによる影響の甚大さをことさら大げさに演出するための節電であったりする行政や業界のプロパガンダの臭いを、嗅ぎ取らずにすましてよいのでしょうか。

 我々が国外から褒められる『自制心が効いたよい国民』を演じている間に、ここのところ、保守政治家とそれを擁護し活用することに徹してきた経済業界トップ達が、我々庶民を巧みな話術で脅す手法を積極的に打ち出してきています。その武器は『このままで、いくと産業界の電力需要をまかなえなくなり、製造業の多くは海外に移転していかざるをえなくなり、日本の産業空洞化が進み、いまでも厳しい雇用がまかなえなくなる』という論調です。しかし、こうしたいかさまな論調は、これまで日本がたどってきたとおりの経済を基軸とした社会展開を前提とする想定内の脅しです。日本国民がこうした脅しに屈しているかぎり、高齢者の生きがいクラブになりはてた財界老人パワーの詭弁に振り回され続けるでしょう。経済の発展という側面では資本主義の成熟期に入ってしまった日本が、中国、韓国、印度、ベトナム等々の新興国の目覚しい発展に負けじと頑張るのは、中高年が競走で青少年の体力に競り勝ち、過去の栄光を再び手にしたいと希求するようなものです。そのような勝ちパターンはありえません。日本がこれからなすべきは原子力発電も含め、成熟した国家が陥った負の現実とどのようにしっかり向き合うかということです。民主党政権下の仕分け作業のスパコン研究予算獲得の攻防ではありませんが、なぜ我々が経済を優先したNo.1をめざす道筋を今後もたどらなければならないのでしょうか。経済という視点で世界をみるとアメリカもヨーロッパもがたがたにみえますが、人としての社会生活あるいは人生の価値という視点から世界をみれば、絶頂期を過ぎた欧米にも、発展途上から抜け切れないといわれているアジア諸国にも、日本よりはるかに心豊かな人生や社会生活を送っている人々はたくさんいます。

 視点を変えていえば、経済の発展を基軸に、限りなく発展(あるいは暴走)し続ける科学技術を牽引力に、社会構成や国家経営を考えるかぎり、現在の成熟した日本社会の閉塞感を打ち破る方向性は切り開けないというのが実感です。むしろ筆者はこうした日本国の最大ピンチを転機とみなし、原発に依存しないエネルギー技術や産業構造を提案できる国家を創造することこそ、我が国が『東日本大震災』から復興し、世界の安定と平和に寄与する最善のシナリオだと考えるのです。そして、このようなシナリオを描くためには今こそ、原子力技術平和利用といううさんくさい『新興宗教』からの脱皮が必要なのです。広島市で開催された平和記念式典で菅首相は脱原発路線を明言しましたが、地方行政の長が明確な脱原発宣言をだせなかったのはまことに“従来からの現実にすりよる地域・地方の姿”であり、多くの市民にとっての悲劇です。

 なお、このように述べたからといって、筆者は菅直人びいきではありません。がしかし同時に、彼の評価が今のマスコミや政界、そして世間の低レベルな論調の枠におさまるものでもないとも思っています。我々は次の原発事故に直面する前に、選挙民たる国民のしてきたこと(例えば、一つの保守党を60年間以上も無批判に支持し続けた過去の不始末や地域住民をも巻き込んだ原発設置への異常な寛容さ等々)もひっくるめて、この国の『来し方』を冷厳に評価し、“経済というファウストの悪魔”と取引しない『行く末』の指針をみいださなければならないのです。


 東日本大震災を格好の材料に、政治家(や)の社会は権力闘争に明け暮れています。あらゆる発言が国民のため、国家のための行動だそうです。守る(民社党)も攻める(自民党)もレベルが低すぎてついてゆけません。戦前の大政翼賛会になれとはいいませんが、震災の対応ではいましばらく心を一つにして呉越同舟で国政を運営し、近未来への展望を開いて欲しいものです。

 それにしても、政治家は謝りませんね。誰一人率直に今回の東日本大震災に関連した各種の人災がこれまでの政治や、目下進行中の政治の結果であるという認識で、国民に反省の言葉を述べようとしません。もちろん、民主党が政党の未熟ぶりをさらけだし、内紛で自滅の道をたどっているのは醜態ですが、戦後60年以上も政権担当の座にあった自民党も、菅内閣を口汚く罵倒するばかりで、今回の大人災の責任が厳しく問われる側にいるという認識がまったくありません。ひどいものです。

 また、そうした政党政治の表と裏で活躍してきた官僚も、知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいます。そしてまた、大新聞・大テレビ局も政治家や官僚およびその組織の犯してきた過ちについて、小沢一郎追及に見せた異常かつ過剰な情熱をもって、追求・論説することもありません。テレビ放送等の許認可権を国家ににぎられているので、政変が起こった後の利害を考え、民社党ばかりか、自民党にもはっきりものが言えない組織になっているかのようで、高いのは志ではなくプライドばからです。第二次世界大戦時の責任をほうかむりして、戦後から今日に至るまで、自らを総括してこなかった覚悟のなさが、今日的社会状況でも鳴かず飛ばずの報道をしている遠因でしょう。

 復興はやはり、国民相互の連帯と地域の努力の積み重ねが一番正直に役立っているようです。大震災被害にも冷静・沈着に、勇気を持って対応している日本国民に海外諸国の賞賛が集まっているそうですが、歴史的に災害の多いこの国の人々は『無常観』と『諦念』を体質の中にもっているのではないでしょうか。日本人自身はこの点を明確に認識しなければなりません。そうした『無常観』と『諦念』が強力に機能して、平静を装っているのです。そして、政治屋や行政の仕組みはそうした国民の特性の上に胡坐をかいて、反省と指針なき無秩序、いいかえれば国政なきカオスを生み出しているのです。

 情け無いことではありまが、当面は日本国に生を受けた一人ひとりの覚悟のなかから、地道にかつ勇敢に奮闘し、復興の道筋を切り開いていくほかなさそうです。弱小政党から大所帯政党まで、現在、政治がリーダーシップをとれる状況にはありません。彼等は国民の努力のあとから、急ぎ足でついてこさせる他しかたのない存在です。もちろん、罰当たりな連中です。


 今日、我々の日常生活に溢れている飲料水等についていえば、アルミ缶が電気の缶詰などといわれているように、1製品につき、中身の液体原価は1円〜2.5円で、人件費と製造コストが大半を占めているといわれています。そしてペットボトルも似たりよったりの大量電力消費製品です。他にも大量電力消費を天井知らずに拡大し続けているものの象徴としては、マンションやオフィス用の高層ビル群、オール電化住環境、さらには24時間満艦飾の眠らない都市機能やテレビ・ラジオの24時間営業等々があります。

 人間の生活にとって『便利』という言葉に集約される、こうした際限なき欲望の肥大が電力需要の不必要な拡大を助長しました。そして、こうした欲望を満たす電力需要の確保は“低価格でクリーンな原子力発電によりはじめて可能になる”という理屈が、原発に懐疑的であったり、明確に反原発を表明する相当数の“国民の意見”を無視し、電力会社を手先に、国策として一方的に罷り通ってきました。

 世界で初めて原子爆弾を投下された惨状を体験した反省に立つはずの日本が、戦後長期化した実質的な自民党の一党支配のもとで、『科学の進歩と原子力の平和利用』というプロパガンダと地域への恩恵(地域への莫大な金銭投下)を組み合わせた懐柔策により、原発設置の全国展開を促進しえた理由は一体なんだったのでしょうか。

 もちろん、米国主導のグローバル化戦略(すなわち、アメリカ化)に歩調を合わせて科学技術立国を謳い上げた日本の先端技術に原子力利用が位置していたのは確かでしょうが、その他に、日本の将来における核武装化の可能性を担保したい保守政治(現民主党も大同小異です)の覇権主義が根強くも“安全性に目をつむった原子力平和利用の裏の顔”となってきた事実を我々は見逃すべきではないでしょう。

 そしてその結果が東日本大震災による大津波を起点とする福島原発の大事故です。しかし、いまだ混乱の最中とはいえ、福島県民から目立って明確な『反原発』の主張は聞こえてきません。また、近い将来の東海地震を踏まえた予防的措置として政府から要請された浜岡原発停止について中部電力は、時間をかけることで政府からなにがしかの有利な条件を引き出そうとする駆け引きでもあったのか、即答を避け、正式回答までの数日間は、『最終的には首相の要請を受け入れることになるにせよ、原発停止による電力需給の問題点や火力発電にシフトする際のコスト高、燃料確保への対応等を検討してから返答する』といった旨のフェイント発言に終始しました。また、浜岡原発が存在する地域住民のなかも賛否両論にわかれているようで、原発の足元からの『反原発』宣言が大きく聞こえてきそうにもありません。

 おそらく地域のインフラが思いがけず夢のように整備され、地元の雇用にも大きく貢献し、個人の家々まで新築できてしまったような例が含まれる“原発誘致サマサマ”の棚ボタ恩恵と決別するのは現実に自分の地域で原発災害が発生するというリアリティーがない限り、なかなかに難しいのでしょう。TVのニュース番組に登場した住民の「原発で働けなくなったら、政府が仕事をちゃんと斡旋してくれるのだろうか」といった趣旨のコメントに、人間がぬるま湯に浸かることの危険性といただき物の処世術、そして自立的に物事を考えられなくなっている地方行政の疲弊と諦めにも近い他力本願を垣間見み、この国の社会に潜む蛸壺的なけだるい深層心理を実感せずにはおられませんでした。

 しかし、国民として次世代の未来を見つめるとき、自然災害が日常的に多発する国土に原発が50基以上もあることの不見識および危険を国民レベルでしっかり認識することは当然のことです。そして、地方選挙や国政選挙の場で原発推進に賛成する議員候補者を全員落選させ、原子力発電とは異なる電力確保の新たな道筋を切り開いていくことが子々孫々への重い責任であると認識すべきでしょう。もちろんそれは、ペットボトル、アルミ缶、高層ビル群、オール電化住環境、24時間眠らない都市機能、テレビ・ラジオの24時間営業等々との“過剰なライフスタイル”と決別することでもあります。なにしろ今回の原発人災は『喉元過ぎれば熱さ忘れる』ではすまされない未来再考の一大事なのですから。


【鎮魂合掌】

 歴史的な大災害となった東日本大震災は、地震が多発する国“日本”に暮らす人間の宿命を、筆者をも含めた一人ひとりの国民に痛感させました。東北地方から関東地方にかけた太平洋沿岸地域に壊滅的な打撃を与えたこの災害はその死者および行方不明者の数においても悲劇という言葉意外に表現のしようがありません(合掌)。そして、その悲惨を思い、友人や知人と語るのが胸苦しいほどです。さらに、地震が引き起こした巨大津波は気の遠くなるような広域の地域社会を引き裂き、在る物すべてを瓦礫の荒野にしてしまいました。我々は生き残った被災者の方々が“現状に打ちのめされ、将来への展望が開けず途方にくれている実態”への思いを強くし、さまざまな支援の輪をひろげる必要があります。

 しかし、人はなにがあっても生きなければなりません。なぜなら人は一生物として命の続く限り生きることが自然だからです。すでに、さまざまな避難所暮らしの人々から復興に向けた逞しい決意の言葉が日増しに多く聞かれるようになっています。また、避難所生活そのものの中からコミュニティーを作り、心の癒しと前向きに生きる感覚を取り戻そうとする地道な取り組みが枝を広げてきているようです。こうしたことは感動的です。人は一人では生きられません。言い尽くされたことですが、人と人の間に在って人間は人間たりえる事実が、今行なわれている大小さまざまな助け合いのなかに幾重にも凝縮されています。ともすれば物質的豊かさに執着しがちであった日本という国のありようを、人とのつながりという視点から見直す起点として、国民一人ひとりがこの大震災の国難を、被災者の方々と共に生きることが大切だと考えます。

 その一方、今回の災害では、天災と人災の区別も明確にしていく必要があります。防災を前提とした村づくり、町づくりがいかにずさんであったか。とりわけ、原子力発電に依存した、首都機能一極集中のリスクが語られ続けていたにもかかわらず、時の政権やそれを担う政党、およびそれを巨額の財で支援し続けた経済界の物欲・金銭欲が一丸となって、『リスクは全くありえない』かのような“広報活動”と“啓蒙教育”に邁進し(特に原発建設の地域にはこれが徹底された)、狭い国で放射能の被害から逃げる術(場所)もない国土の“地震の巣”の上に、55基もの原発を造ってしまったのです。

 そして、事故が起きればあいかわらず『想定外』の言葉です。かつてホリエモンなる一時代の寵児が『想定内』なる言葉を流行させたことがあり、やがて彼を取り巻く想定外の成り行きで捕縛されましたが、こうした言葉が責任逃れの詭弁であることは自明のことです。とりわけ、人智を超える威力(あるいは破壊力)を持った未知の物資の摂理がもたらす現象(反応)が人間の想定内に取り込めるわけなどないではありませんか。地震から3週間ほどたった今日になって、すでに、TV番組に顔を出すのが常套手段の政治家達やジャーナリス諸氏から今回の原子炉事故に関する、“過剰なマスコミ報道”への批判(控えめに過ぎる弱虫報道のどこが過激なのか筆者にはわかりませんが)や、これまで、原子炉設置に反対し続けてきた人々への先制攻撃、すなわち『こんな時期に、“我々は反対してきたのに、電力会社と政治がそれを進めてきたから、やはり恐れていたことが起きた”などといっても仕方がない、今は原子炉の危険の収束に向けた議論をすべきだ』との論理のすりかえがはじまっています。確かに、目下、優先すべきは原子炉事故の終息ですが、今だからこそ声を大にして原子炉に依存した政策の誤りをたださなければならないのは自明の理でしょう。そして、長年にわたり反対の声を圧殺されてきた人々は今こそ怒りを持って、原発政策の過ちをどら声で、時には冷静に指摘すべきです。

 原発事故発生以来、TVに映し出される記者会見の雛壇に鎮座した政治家、東京電力の社員、原子力安全委員会のスタッフ、有識者各位、TVの解説番組に登場する専門のジャーナリストや学者のあの能面のような淡々とした会見やコメントに違和感を感じ続けた人々は多かったのではないでしょうか。しかし、あの無感情さが原子力行政の実態なのだということを、我々はしっかり認識すべきです。ああした人々にいまさら好き勝手なことを述べさせていてはだめです。

 ちなみに、政治資金調達の下心がからんで原発基地誘致に奔走した政治家達は日本中にたくさんいますが、この原発事故以来、雲隠れしているようにさえ思えます。そして、福島原発誘致に手段を選ばず大尽力をした政治家のホームページを見ると、大震災のお見舞い程度の記述に終始しています。世界初の原子爆弾被爆国として辛酸をなめてきた多くの被爆者を抱える日本が、チェルノブイリに続く規模の自国内原発被害で再び放射能にさらされるとはなんたるテイタラクでしょう。核の無い世界をめざして地道な平和運動を展開してきた人々の尊い努力にツバするような結果ではありませんか。現在彼等(原発族議員等)は、少し世論が落着いてきたところで、TVに登場したり、選挙に立候補して、口角泡を飛ばして述べる言い訳の草稿づくりに専念しているにちがいありません(もっとも草稿も秘書まかせですか・・・・!)。我々市民は今度こそ、選挙を通じて、そうした連中を全部落選させなければならないと考えます。

 なお、今回の災害で苦しんでいる方々の映像を見ると、何かをしなければと思いつつも、何もできないようなあせりの感情に翻弄される若い方々も多いかと思いますが、自分の在る場所で、自分本来の仕事や役割に真摯に取り組むことが、間接的ながら(これはとても大切なことです)、やがて災害地の復興にも役立つということを心に留めて欲しいと思います。このホームページを共用するアウルファームの農場主も知人や肉親と関わりのある震災地への思いをはせながら、奮闘11年目の有機野菜づくりに取り組む春を再び迎え“意気軒昂”です。筆者もまた己の仕事と切り結びつつ、被災した少年少女達の心に向けた思いも込め、伝えたいあれこれの事柄について執筆活動を続けようと心に決めています。

(農場便り参照)