2003年3月はこの4公演

 


国民デパリ「日本製」

王子小劇場 2/27〜3/3
3/1(土)観劇。座席 自由:招待(最後列中央)

作 中川ともあき・遠山浩司
演出 遠山浩司

 舞台は、日本のどこか、小さな村か町。沢田舞子(伯美乃里)の経営する喫茶店『いとおかし』に、都会に行っていた妹?の沢田靖子(山田奈々子)が、5年ぶりに帰って来た。その喫茶店をデスク代わりに使っている2人組の漫画家の卵、桐原由紀夫(渡辺洋)と周防勝(服部公彦)は、大人になった靖子にドキドキ一目惚れ。最近引っ越してきたプリンばかり食べる恐い顔をした男達、富士禄朗(稲垣俊平)と村井誠(野坂実)は、その喫茶店が気に入ったのか、ちょくちょく顔を出す。しかし、引っ越してきたのは、人に言えない唯ならぬ理由があったのだが・・・。
 一方、居酒屋『JJ』では、常連客で探偵の山本武士(日栄洋祐)が、飼い犬を探して欲しいという依頼を、片倉まこと(中里一生)と片倉カナ(植松久恵)の兄妹から受けていた。そんな山本に関心を寄せている平井かな(高橋優子)。しかし、山本にとって、かなは、女性として対象外であるらしい。それに気がつく、マスターで兄の平井寛至(laila.g.g)であった・・・。
 果たしてそれぞれの恋愛の行方は・・・。

 こうやって物語の大筋を書くと、2つの物語の接点がまるでない。実際、芝居でも平行する二つの物語がある1点まで交差する事なく進行する・・・。その理由が、この芝居の面白みでもあるわけだが、あえてネタばらしをしてしまうので、知りたくない人は読まないで欲しい。

 初めは別々の物語がどうリンクされているか解らないまま、現実の物語として同時進行していく。ラスト近く、物語が加速し始めた時に並列にあった現実が、一方に属する架空の物語として明かされるのである。簡単に言うと、喫茶店で漫画家が書いている漫画が、居酒屋の話であったと言う構図になっている。漫画家が描いては捨てるごとに、一方の物語の進行が変化していく。これによって居酒屋の世界が、漫画の中の世界である事が明かされる。そして本当のラストで、今まで現実の世界かと思っていた喫茶店の人物をも虚構の世界に転換する“真の現実の作者”が登場する。その漫画家が描いているのが、『日本製』というタイトルの漫画である、と言う、三層構造になっていたのである。こう説明すると、複雑に三つの物語が張り巡らされた緻密な物語のようでもあるが、正直言って観終った後の感想は、「あ〜そんなんだ」程度の心の動きしかなくて、その構造に驚きもなかったのである。残念だが、構成の妙が、おもしろさに繋がらなかったように感じる。

 漫画の世界が意外と平凡で、現実がちょっと非凡ってのは良かったのだが、その非凡さもありがちな風景かな、と。それならば、とことん漫画ちっくな世界を現実として構築した方が、面白かったのではないかと思う。ヤクザの二人は、プリンが好きだったりする所とか、やり取りとかが、微妙に『Drスランプ』の“にこちゃん大王と子分”にダブった。調べた訳ではないので確実ではないが、そんなキャラだったってのが、記憶の片隅にある。それを意識して作った訳ではないと思うが、なにげにとかでなくて、『Drスランプ』の設定をストレートに別設定に持って行って、物語の要素にしてしまっても面白かったのではないだろうか。その破茶目茶な世界が現実で、平凡な日常世界が漫画の世界だった、って感じで。でもそれだと、テーマの投げかけであろう“ぼくは恋愛にしか興味がありません。 ”“この世にいるのは、男と女だけ。だったら、起こる事件は恋愛だけだ。”という遠山浩司の言葉からはまったく反れてしまうのだけれども・・・。

 で、その“恋愛”がどうだったかって言うと、恋愛感の違いか、自分には、もどかしいだけの、恋愛にならない“恋や愛”の物語に終ってしまったと感じた。「片想いだって恋愛さ」と言われてしまったら、みも蓋もないのだが・・・。人生経験が長くなってしまった自分には、淡い恋心だけでは、消化不良を感じてしまうのである。作の遠山浩司は、「好きだ嫌いだってのが大好き」らしい。だが、好きだ嫌いだってのを根底にこそっと忍ばせるのもいいが、虚像の世界ってのを割り切って、大恋愛を描いて欲しかったと言うのが自分の気持ちだ。身勝手な意見だと思うが、そういう思いもあるって事で。

 演出方法では、小道具をなくしてマイムで見せる点に違和感を覚えた。その動作が自然に見えていればいいのだが、とても違和感を覚えた上に、逆にそこに神経が行ってしまったのは頂けない。コーヒーを飲むシーンやプリンを食べるシーンで、それが物語の重要な部分を占めている訳ではないのに、その動作に視線が集中してしまったのは、まったくの逆効果であったと感じずにはいられない。本物を使うリアルさと、何もないのに演技で見せる事のリアルさって事の表現の違いが、演出上どんな効果なのか自分には解らないのだが・・・。他劇団を引き合いに出して申し訳ないが、以前、弘前劇場の公演を観た時に漬物を食べるシーンがあり、コリコリって音や食器がふれあう音、その“音”にリアル感というか面白みを感じた事があった。変に演技で見せるより、なにげなく本物を使う方がストレートに物語に入って行けるように思うのだが、どうなんだろう。個人的な感覚の違いなのかもしれないが。

 で、一番残念だったのが、好感は持てたが、劇団色が見えなかった事である。次回作も絶対観たいと思える何かが欲しかった。

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絶対王様「無色喜劇」

下北沢駅前劇場 2/27〜3/3
3/2(日)観劇。座席 7列目中央(招待)

作・演出 笹木彰人

 舞台は劇場の倉庫。テレビが一台あるだけの寂しい部屋。山田(入山宏一)は何も変わらない平凡な人生に飽き飽きしていた。「ドラマ」のような生活がしたい、というのが切実な願望であった。そんな平凡な生活をぶち壊し、願望を叶える為に山田が考えだしたのが、“ドラマティックな伝説を作り、自叙伝を書く”というものであった。相談を受けた元恋人のしょーこ(川崎桜)は、ドラマティックに生きている友人達<ヌーベル(加治木均)、ブラバン(笹木彰人)>を集める。そして、ヌーベルのストーカーのはるお(郡司明剛)や弟のジョン(有川マコト)も加わり、山田の人生にドラマティックな脚色を施そうと企てる。そんな山田には欠かさず見ているテレビドラマがあった。それは、主人公が嘘のようにハッピーになる生ドラマ『ラッキーハッピー』であった。彼等はこの生ドラマを思いのままに操作しようと発案する。そして、電話で脅迫し、ドラマの進行を変える事に成功する。しかし、どんどん思わぬ方向へと展開していってしまう・・・。

 山田の世界と『ラッキーハッピー』の世界、そして、そのドラマを演じる役者の世界と3つの世界が交差して物語は展開していく。あっ、もう一つ加えるならこの芝居を演じている役者の世界も。テーマは“ドラマティック”らしい。何が虚構で何が現実なのか、暗転を用いず展開していくのは、とても面白い。舞台セットなしの駅前劇場の情景も、こんな使い方もあったのかぁ〜と感心した。初めて見た素舞台の駅前劇場が、意外と広いのにも驚いたりして。劇団員6人だけでシンプルに見せるのもいい(その後4月に川崎桜は退団したらしいが・・・)。しかし、前作で面白いと思ったのが嘘のようにつまらなくなっていたのは、正直ショックだった。あれだけ絶賛したのに・・・。3つの物語が交差し現実と虚構が入り乱れ、仕舞いには芝居と現実さえも入り乱れる。その複雑な構図に意識が取られてしまったのか、人間の本質をうまく描けていない、って言うか上辺だけでペラペラ。前作は、人間の愚かさが、悲しくもあり可笑しくもありだったのに、今回は何にも残らない。喜劇なのに全然笑えないし。才能あるじゃん、って前作を観て感じただけに残念でならない。あの面白さは偶然だったのか。本当の劇団の力が見えてこない、って言うか、いい作品と駄目な作品の落差が大きい。今回の作品が絶対王様としての集大成らしいが、これじゃぁ・・・。前回の芝居の方が断然いい味を出していたと思うのは、自分だけなのだろうか。もがけばもがくほど可笑しい(それも愛らしい)人間喜劇を期待したのだが、今回はハズレ。自ら『脱力絶望劇団』と名乗るっているが、今回の作品じゃ、観客が脱力し、劇団に絶望してしまうのではないだろうか。次回作に期待したい。


“絶対王様”自分が観た公演ベスト
1.リア絶対王様〜あんたの子供に生まれた人間の身になれよ〜
2.無色喜劇
3.ゴージャスな雰囲気

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Fuらっぷ斜「ウラノハタケニイマス」

西荻WENZスタジオ 3/6〜3/9
3/8(土)観劇。座席 自由:招待(コの字型の客席の正面右端3列目)

演出 吉岡友冶

 中央に土が盛られ、土手のようになっている。それが舞台。向かって左手には生演奏のピアノ(奏者:中原達彦)。天井には、くしゃくしゃにした和紙らしき物が吊るされ、そこにライトが当たり、微妙に動く事によって、まるで雲が流れているように地面に影を落としている・・・。
 サブタイトルは―『春と修羅』(宮沢賢治)をめぐる散歩―。そのタイトル通り、宮沢賢治の詩を中心に、賢治が散歩していく最中に幻想した風景をテーマとして構成されている。ストーリーはなく、イメージを自由に構成し、元の詩の持つ雰囲気を伝えようとした舞台である、らしい。
 演目は、【1】プロムナード【2】祭りの夜の出会い【3】泳ぐ人【4】貧しき者の出会い【5】シグナルとシグナレス【6】ヤナギラン―墓地にて【7】雨。

 どう分類したらいいのだろうか?マイムではない、イメージをつぐむ無言劇って感じだろうか。まぁ完全なる無言ではないが、それに近いものがある。で、そのイメージがどう伝わったかと言うと、よく解らなかったってのが本音。そもそも、私の宮沢賢治に対しての知識が低いってのが問題であったと思う。学校の国語の授業で宮沢賢治の代表作として『銀河鉄道の夜』ってのは習ったので覚えているが、実際に著作本を1冊も読んだ事がない非文学少年だったので、この演目が詩と同じタイトルなのか、イメージと同じなのか、違うのかどうなのか一切わからなかった。面目ない。記憶するだけの学習の弊害がこんなところにも・・・って自分の無知を棚に上げたりして。宮沢賢治=牧歌的なファンタジーってイメージがあったのだが、こんなにも不条理な世界を描いていたのかと、新たな発見が出来たのは儲けものであった。観劇後興味が湧いたので、宮沢賢治の詩集をちょっと立ち読みしてみた。そこに書かれてあったものは、まさに“混乱”であった。宮沢賢治の心の中は葛藤の連続だったに違いない。そう思った途端、苦しくなり、読み続ける事はできなかった。って書くとカッコいいが、理解できなくて飽きてしまっただけとも言う・・・。

 どの演目だかわからないのだが、(「貧しき者の出会い」かなっ?)「反対である」と主張する男の話は面白かった。何が“反対”なのかは理解できなかったが、従順な男の心の葛藤が体をねじらせていく。自分の世界に浸る男が、自分の考えと違うものを拒絶しているのだろうか。そんな負の感情が渦巻く不条理な世界。この作品が今回の中では一番面白かった。
 「ヤナギラン―墓地にて」は、賽の河原のイメージが湧き、死への旅立ちって感じがして不気味であったが、途中から置かれている状況がまるで解らなくなってしまった・・・。“賽の河原”は間違ったイメージだったのだろうか・・・。

 今回の作品の数演目で、役者が仮面を付けて演じている。案内文には「仮面は、単に生身の顔を覆い隠す飾りではありません。それを付けた者の人格を内側から根本的に変え、存在を異次元へと運ぶ心的装置です。役を演じる主体という近代劇の観念を超え、キャラクターが人間に暴力的にとり憑くほどのトランス状態を実現する。それが喚起する、ある意味でグロテスクな美しさは、見るものに強烈な詩的イメージを与えます。」と書かれてあったが、それがうまい具合に作品と絡みあったのが、前述の“反対である”と訴える男の話であったと思う。仮面を付ける事によって、演技者は自分ではない何者かに変身しているかのようであった。今回の様な仮面の使い方も面白いが、今度は逆に無表情の仮面を付け、心の感情をいかに伝える事ができるのか、そんな新たな試みをしても面白いと思った。

 作品に関しては、いろいろ興味を持てるところがあったので良かったのだが、スタッフ周りの悪さには駄目出しをしたい。まず、開演時間の遅れ。混雑とかでやむなく開演時間が遅れてしまうのは納得できるが、ゆっくり来る客に上演開始を合わせるのは、時間通りに来た客に対して失礼ではないだろうか?まぁ10分くらいの遅れなのでいいけど。しかし、許せなかったのが、客席の後方で上演中に寝息をたてて眠っていたスタッフ。怒るより呆れてしまった。全体的に静かなシーンが多い芝居でイビキに近い寝息を立てられては・・・今回は、芝居の中身うんぬんより、この行為により評価を落としてしまったと言っても過言ではない。大いに反省してもらいたい。

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「奇跡の人」

シアターコクーン 3/2〜4/5
3/29(土)観劇。座席 1F XC-18

原作 ウィリアム・ギブソン
演出 鈴木裕美

 新米教師のアニー・サリヴァン(大竹しのぶ)と三重苦のヘレン・ケラー(鈴木杏)。初めての出会いから、壮絶な闘いの末に言葉という光を手に入れるまでの闘いを描いた、愛と信頼の物語。

 あまりにも有名な話なので、今回も物語に関しては端折ってしまったが、『奇蹟の人』の歴史は2000年版にちょこっと記載しているので、参考にして欲しい。
 物語の中心は、両親にめいっぱい甘やかされ、わがまま放題、まるで天使の顔をした猛獣であるヘレン・ケラーと、愛に恵まれない人生を歩んできたため、20歳にしておそろしく偏屈、思いっきり人間不信に陥っているアニー・サリヴァンの闘いの物語である、って内容は前回同様って言うか不変。演出や舞台装置もさほど変化したようには思えなかった。でも、その同じって事が引き金になってしまったのか、オープニングでヘレン・ケラーが部屋の中を歩くシーンで、涙が出てしまった。それほどまでにこの芝居が、自分の心に刻まれていたのかと、新たな衝撃も受けたりして。
 『奇蹟の人』は、三重苦を克服するヘレン・ケラーの物語と同時に、アニー・サリヴァンの成長の物語でもあるって事は、前回観た時に知った。前回は二つの物語の比重が、ほぼ均等だったように感じたのだが、今回は、アニー・サリヴァンの物語が色濃く出た舞台だったと感じた。アニーとヘレンの格闘は前回より激しさが増しているが、力関係でアニー・サリヴァンが押していると感じた分、そう思ったのかも知れない。力関係が均等な緊張感の中で、どうヘレンが言葉という光を見つけるかが見所だと思うのだが、その点に措いて厳しく言ってしまうと、今回は失敗だったと思う。演出のミスなのか、役者なのか・・・。鈴木杏のがんばりは認めるが、かわいいので守ってあげたいと思ってしまう点(親の視線に近いと思う)では良かったのだが、手に負えない自我の強さという点では、ちょっと弱く、憎々しさが伝わってこなかった。その為にアニー・サリヴァンの苛立ちが前回ほど伝わって来なかった。まぁ、前回の菅野美穂が凄すぎたので余計にそう思ってしまうのだが・・・。演じる人で役の印象が変わると言う点では、母・ケート・ケラーも受ける印象が違った。前回の余貴美子は、普通に見えてもヘレンへの盲目な愛情ゆえどこかピントがずれているって感じで、“天然”のかわいらしさがあったが、今回のキムラ緑子は、とても頑なな愛情を持った母親というイメージが強く、しっかりした母という印象が残った。愛情の深さって点では変わらないんだけど。兄ジェイムズ・ケラー(長塚圭史)の父親に対する感情表現は、前回以上に心に響いた。

 いろいろ苦言も垂れているが、ラストの井戸から水を汲み、ヘレンが「ウォーター」と言葉を発するシーンでは、またもや号泣してしまった私である。も〜涙が止まらないって感じ。芝居でこんなに泣いてしまったのは、昔観た『昨日悲別で』以来かも。内容がわかっていても感動してしまうのは、役者の演技力の賜物だと思う。惜しみない拍手を送りたい。その筆頭である大竹しのぶのサリヴァン役は、今回で6度目となる。サリヴァン役には大竹しのぶ以外は考えられないってくらいに素晴らしいと思う。百尺竿頭の域と言ってもいいほど。しかし、大竹しのぶの実年齢と役の年齢が年々離れて行くのが辛いって言うか納得がいかない。父アーサー・ケラー(辻萬長)は、“あまりに若い家庭教師に懸念を抱く”のだが、その感覚が伝わってこないのである。やはり、菅野美穂のアニー・サリバンが見てみたい、と強く思ってしまった。も〜熱望しちゃいます。ダブルキャストでもいいから実現して欲しい。


“奇跡の人”自分が観た公演ベスト
1.2000年版(大竹しのぶ&菅野美穂)
2.2003年版(大竹しのぶ&鈴木杏)

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