シアターコクーン 2/28〜3/26
3/11(土)観劇。座席 1F BR2
原作 ウィリアム・ギブソン
演出 鈴木裕美新米教師のアニー・サリヴァン(大竹しのぶ)と三重苦のヘレン・ケラー(菅野美穂)。初めての出会いから、壮絶な闘いの末に言葉という光を手に入れるまでの闘いを描いた、愛と信頼の物語。
あまりにも有名な話なので、物語に関しては端折るが、「奇蹟の人」の歴史をちょっこと記載。この物語は、原作者であるウィリアム・ギブソンが、アニー・サリヴァンの書簡を読み、劇化を思い立ったのが始まりらしい。そして、5年の歳月をかけて完成させた脚本をアーサー・ペンが演出し、1957年にテレビ版が放映された。そして、59年にブロードウェイで初演。サリヴァン先生をアン・バンクロフト、ヘレンをパティ・デュークが演じ、評判を呼ぶ。さらに、この二人により62年に映画「奇跡の人」が作られ、世界的なヒットとなった。40年ものあいだ世界各国の舞台で上演され続けている名作である。日本での上演記録を私は知らないが、大竹しのぶのサリヴァン役は、この舞台で5度目となる。
恥ずかしながら、この物語をちゃんと観るのは今回が初めてだったりする。しかし、アニー・サリヴァンとヘレン・ケラーの存在はもちろん知っていた。映画「奇跡の人」は観た事がないが、スチール写真は何度も目にしている。そんな表面上の事しか知らない私であった。で、観劇後の感想は、「素直に感動した」である。芝居から、「魂で教える事の大切さ」や「人間にはものすごく可能性がある」などという教訓も受けた。と、書いてしまうと自分の柄じゃなく、とても気恥ずかしい思いなのだが、困ったことに事実である。単に、「感動した、良かった」で終らず、その感動から何かを発見させる力がこの芝居にはあった。ひねくれ者の私にとっては、貴重な経験である。良質の芝居もたまにはいいもんだ。
物語の中心は、両親にめいっぱい甘やかされ、わがまま放題、まるで天使の顔をした猛獣であるヘレン・ケラーと、愛に恵まれない人生を歩んできたため、20歳にしておそろしく偏屈、思いっきり人間不信に陥っているアニー・サリヴァンの闘いの物語である。当初自分のイメージでは、単に三重苦を克服するヘレン・ケラーの物語だと思っていた。しかし、ヘレンの物語と同時にアニー・サリヴァンの成長の物語でもあった。いやぁ〜「こんなに素直な気持ちで芝居を観れたのは何年ぶりだろう」と思うくらいに、すごくいい気分で劇場を後にできた。それは脚本の良さもあるが、鈴木裕美の演出、大竹しのぶ・菅野美穂の素晴しさの功績が大きい。それと、ヘレンの家族を演じた余貴美子、渡辺哲、池田成志の素晴しさも加えておきたい。雑誌のインタビューで鈴木裕美のコメントが載っていたが、「困った家族の中に、サリヴァン先生という『人生前のめり』みたいな、これまた困ったお人が来ることによって、みんながちょっとずつましな人生を手に入れていく。感動的なんだけどかなりバカっぽい側面もある」(Theater Guide 4月号より抜粋)と書かれてあった。それを考えると母・ケート・ケラーの余貴美子、父・アーサー・ケラーの渡辺哲、兄ジェイムズ・ケラーの池田成志という顔ぶれも納得のキャスティングだと言える。バカっぽいから納得したわけではなく(あたり前だが)、困り果てるくらいに不愉快な人達なのにチャーミングという、そんなキャラクターにはピッタリの配役だったのではないか。特に余貴美子のケートが良く、“普通に見えてもヘレンへの盲目な愛情ゆえどこかピントがずれている、だけど自分の考えは間違っていないと凛としている。”そんな雰囲気が全身から滲み出ていたと思う。演出面で付け加えるが、回り舞台を効果的に使った鈴木裕美の演出も、おもしろい空間を作っていた。
主演2人の演技の素晴しさは書くまでもないが、菅野美穂に関しては、あえて書かせてもらいたい。ヘレンVSサリヴァン、どちらかが気持ちの上で弱いところを見せてしまっては、この芝居には駄作の烙印が押されてしまう。誰しも結末は知っている訳なので、どっちが強いか弱いではなく、力関係が均等な緊張感、まさに真剣勝負なところで、どうヘレンが言葉という光を見つけるかが見所だと思う。その点において菅野美穂は本当に素晴しかった。舞台に立つのは2作目らしいが、足を滑らせ、体をぶつけても視線は変えず(盲目の視線のまま)役に徹する。後日テレビのドキュメンタリー番組で見たのだが、菅野はこの役の為に訓盲学校に通う生徒に会って、自分なりのヘレン像を吸収していた。その努力の成果なのか天性の素質なのか、大竹しのぶ以上のオーラを発していた。ラストでヘレンが「ウォーター」という言葉を発した時の、その心の奥底から言葉をひっぱりだした演技には涙がでた。言葉を理解した喜びや驚愕など全てのものを「ウォーター」という一言に込める。その感情が痛いほど伝わってきた。舞台に立って発した言葉はこの「ウォーター」だけであった。カーテンコールでも声を出さない。「ウォーター」という一言を大切にするからだと考えるのは、考え過ぎかもしれないが、言葉の重さを感じさせるにはこれで良かったと思う。
これだけ絶賛しているのだが、ただ一つ、大竹しのぶが20歳って役どころはどうも納得がいかない。菅野美穂のヘレンが7歳だったりするので、そのまま平行して歳をとれば合ってるのかもしれないが・・・。次回「奇蹟の人」の再演があったならば、是非とも菅野美穂のアニー・サリヴァンを観てみたいものだ。
作・演出 後藤ひろひと初代新幹線0系が引退の時を迎えた1999年9月18日。その最後の運転席に包丁を持った老人・辰之進(山本忠)が乱入した。彼こそは新幹線最初の運転士であり、当時「世界で一番速い男」だったのである。新幹線の運転席を占拠し、若き運転士・古瀬(林真也)に開業前の新幹線訓練施設の話をする辰之進。その過去の話と現在の話が交差しながら物語は続く。彼が語る訓練所時代の思い出には、新幹線「ひかり」の最初の運転士になるために、しのぎを削る男たちに混じって唯一の女性がいたと言う。記録に残らない一人の女性運転士の名前は光(こう:楠見薫)。「世界で一番速い女」になるはずだった女性である。辰之進は運転席を乗っ取り、光に最後の0系新幹線を運転させることを要求した。
後藤ひろひとが座長から退き、作・演出に専念して4年。本公演をもって遊気舎最後の作品となる(このあと神戸において『エル・ニンジャ対アマゾネス・キョンシー』というインタラクティブ演劇3部作の完結編の演出は残っているが)記念すべき1本である。後藤ひろひとは、ナンセンスなギャグ作品の一方で重厚な人間ドラマの名作も残しているが、私が観た最初の後藤ひろひと作品が『びろ〜ん』と言うのもあってか、私は毒のあるナンセンスなギャグ作品にこそ後藤ひろひとの才能が生きているのではないかと思っている。まぁ『FOLKER』は名作だと思うし、遊気舎の作品ではベストワンに挙げているんだけど・・・。
で、最後の作品として選んだのが、前作に引き続き人間ドラマであった。個人的な嗜好はあるが、その毒の無さとストレートさに正直言って面食った。芝居がつまらなかったわけでは決してない。後藤ひろひとのうまさは存分に出ていた。初めて後藤作品を観た人は不覚にも涙するかもしれない。だけど、あの路線はなんかキャ◯メル◯ックスでも観ているようで、感動するであろう場面がすげぇつまんなく、泣かせるって意図が見え見えで、私的には非情に冷めてしまったのである。特に一番感動すべき場面であろう病室での楠見薫と山本忠のシーンなどは、観ていて恥ずかしくなり、もう勘弁してくれぇ〜という感情まで湧いてしまった。本当なら涙でハンカチを濡らし、手鼻かむような感動を味わうべきなんだろうけど・・・。以前、後藤ひろひとは、この◯ャラメ◯ボッ◯スの作品を散々けなしていた記憶があるのだが(思い過ごしかもしれないけど)これってどーなんだろ。ファンタジーっぽいラストにも納得がいかない。まぁ、あのラストをブラックな笑いと見れば見れない事はないんだけど、ちょっと難しいかな。役者に関しては、自分の得意分野での登場が遊気舎らしくて良かったと思う。本当は裏切りも必要なんだろうが、遊気舎に関してはこの慣れというかいつものキャラの登場が一種の麻薬であり、うれしいのである。訓練所で自分の親のコネの力を発揮する北条を演じる西田政彦など、「又同じパターンの人物かよ」と思いながらもうれしいのである。そして例によって羽曳野の伊藤(久保田浩)の登場には拍手喝采である。あそこまで魅力のある異常人物はちょっといないであろう。ただ今回みたいに宇宙人と交信してしまうのは行き過ぎだった気もする。やっぱ自己完結型の異常さくらいの方が謎が多くていい。初めて遊気舎を観る友人と行ったのだが、その友人は羽曳野の伊藤の存在感に惹かれてしまったらしい。恐るべし羽曳野の伊藤。今後、後藤作品じゃなくなってどう変わるか心配だが、羽曳野の伊藤は永遠であって欲しい。あと、うべんの乳毛房江を見れたのも嬉しかった。しかし、出番が少なかったのが残念でならない。魔瑠は前作の老婆役が好評だったのか寮のおばさん・カネ役で登場。ミキの姿が拝めなかったのが残念である。新幹線・ミキとかわけのわからないキャラを、宝塚ばりの演技で披露してくれるのを期待したのだが・・・。そして、谷省吾の偽リーが観れなかったことも残念であった。これらのキャラは次回公演の『エル・ニンジャ対アマゾネス・キョンシー』で総出演するのかもしれないが(あくまで予想)、神戸までは行けそうもない・・・
そして、役者の中で今回の注目株は、なんと言っても福岡の西日本俳優協会所属の林真也。地元で『博多信用金庫』『タッチャブルズ』と後藤作品に触れていたらしいが、とてもいい味を出していた。次回からレギュラーで遊気舎に出演するとの話なので楽しみである。
話は違うが、福岡と言って思い出すのが、ギンギラ太陽'sの大塚ムネト。大塚ムネトは今何処。地元でやってるんすかねぇ?と関係ない話で閉めてしまったりして。
“遊気舎”自分が観た公演ベスト
1.FOLKER 2.びろ〜ん(Belong) 3.源八橋西詰 4.じゃばら 5.ダブリンの鐘突きカビ人間 6.世界で一番速い女 7.人間風車 8.びよ〜ん(Beyond) 9.イカつり海賊船 10.タッチャブルズ 11.PARTNER
作・演出 斎藤久志恋人同士のケイコ(唯野未歩子)とクワタ(鈴木卓爾)の元に、二人の共通の親友であるエリが8年ぶりに海外から帰ってくる。3人にとって、本当に久しぶりの再会。ところが、エリと名乗るその女(井口昇)は、ケイコとクワタが知っているエリとはまったく似ても似つかない姿だった。しかし、彼女の語る思い出は、ケイコにもクワタにも確かに思い当たる。エリ本人しか知らない秘密も知っていた・・・いったい彼女は本物のエリなのか?それともエリの名を語る別人なのか?そんな疑心暗鬼のドタバタ劇がマンションの一室で展開している中、世間では新種のウィルスであるマナカウィルスが流行し、人類を死の恐怖に追い込んでいた・・・。
作・演出の斎藤久志は映画監督が本業らしい。『サンデイ ドライブ』とか『フレンチ ドレッシング』だとか撮ってるが、私は観たことないので、どんな映画を作る人なんだかわからない。映画を観ていれば、映画監督としての斎藤久志と芝居の演出家としての斎藤久志の違いなんかを比較できて面白かったのだが、それもできない。ただ、今回の芝居を観るととても良かったので、映画もきっといい雰囲気を醸し出しているのだろうとは思う。でも、確信はない。芝居はいいんだけど映画監督をしたら駄作しか作れなかった人(実名は避けますが)もいるのでね・・・。
まず目をひいたのが舞台中央にある大型テレビ。つけっぱなしのテレビが舞台中央にある事によって、ケイコとクワタの日常が飛び込んでくる。その演出はちょっと面白かった。二人の会話にテレビが介入する事によって、より現実性が帯びてくる。その日常の描き方が、とても今という時代を反映していて面白かったのである。テレビが効果的に使われていた芝居で印象深く残っているのが、竹中直人の会『テレビデイズ』である。その芝居では舞台上にはテレビは登場しない。しかし、隠れて見えないが、テレビは貴重品であるみたいな、その時代のテレビの存在感をうまく表現していた。それとはまるっきり別だが、今回のテレビの使い方は、芝居が設定している“今”を写し出していて印象深い。出演者に目を向けると、なんと言っても唯野未歩子がいい。私は、映画『クルシメさん』(監督:井口昇)で唯野未歩子を観てはいるが、その時より数倍かわいいのである。写真なんかで見るより俄然いい。正直言って見惚れてました。その雰囲気って演技ではなく、地かもしれないが、今回の芝居にはピッタリって言うかあんな恋人が欲しい。マジで。鈴木卓爾の淡々とした空気も味があって良かった。そして、女装で挑んだ井口昇の怪演が光る。井口昇をキャスティングした時点で、この作品は成功したと言っても過言ではない。過去のシーンで登場するエリ(長曽我部蓉子)があまりにも美形なので、井口昇との極端な対比が、もしかしたら別人なのかもしれないと言う疑心暗鬼な不安な気持ちを、観ている観客にも植え付ける。それがとても効果的であった。中途半端な男優が演じてしまっては、長年の海外生活で変わったんだぁ〜くらいで、この複雑な気持ちは起こらなかったかもしれない。エリに一体何が起こったんだろうかという複雑な気持ちのまま、別人かもしれないという疑心暗鬼感。そのバランスが絶妙であった。そして、この3人の空気がとてもちぐはぐで、そのちぐはぐさが却って日常的でおもしろい空間を作っていた。
しかし、その3人の物語のおもしろさは、新種のウィルスにより人類滅亡という、3人の関係性の物語から逸脱した結末で台無しになってしまう。風邪を引いた事がない人間だけが生き残る新種のウィルスにより、一人だけ生き残ってしまったクワタが、その孤独の中で狂っていくところとか、それはそれで面白いんだけど、違う芝居になってしまったと感じた。今までの空間はなんだったのか・・・。まぁあの展開でお涙頂戴の友情物にしなかっただけでもいいとは思うが、それまでの展開が面白かっただけに、このラストは残念である。
余談になるが、ニュースキャスター役で特別出演(映像出演なんだけど)しているのが、塚本晋也というおまけ付きだった。ちょっとにんまり。
作・演出 はせひろいち舞台は、コンピュータ処理もバーコード管理もされていない“禾ノ森図書館”の談話室。そのアノログな図書館が、移転・廃館になる。その準備が進んでいる中、この日は、図書館の中で亡くなった司書の御国五郎の七回忌の日である。集まってくる人達。その中には、御国五郎の実子である生田純子(咲田とばこ)もいた。樋口館長(小山広明)が、海外で生活している彼女を最後の追悼の会に呼んだのは、閉館間際のこの時期に、6年前の事件、御国五郎の死んだ真相を解明しようとしたからである。噂では自殺と伝わっていたが、書庫で争った跡が確認され書架が一つ倒れていた。ただ、死亡時刻との関係上不明な点があり、御国五郎の死は、書架が倒れるような事故に遭遇し、頭でも打って朦朧とした意識の中で屋上から転落したのではという結論で、結局のところ事故死扱いになっていた。樋口館長に依頼されてやってきた雑誌のルポライターを装う旅行者風の男、探偵・早川春彦(松本真一)は、書庫の奥のダイニングメッセージ、そして真実が隠された本を利用し、御国五郎と争った人物を浮かび上がらせる・・・。そして、事件が解決した後、御国五郎の本当の動機が書かれた遺書が、蔵書の中から見つかる・・・。
94年に初演された作品のミレニアムバージョンである。作者の言葉を借りるとリメイクではなく、リフォームバージョンだそうだ。物語は一応サスペンスものなので犯人の名前や御国五郎からのメッセージなどには触れないでおく(当り前だけど)。ただ、サスペンスものとしては詰めが弱かった、と言うか犯人捜しの面白さは皆無であった。しかし、この作品は本格的なサスペンスものを目指したのではなく、あくまでもサスペンス風な味付けの作品として私は捉えたので、この位が丁度いいのではないだろうか。
この作品の根底にあるのは、あくまでも図書館という存在。そこのところをはせひろいちが、挨拶で書いているので引用したい。『実際の図書館には、購入されてただの一度も人の目に触れない蔵書がかなりの数にのぼるという話です。そんな巨大な「無用の知」に囲まれていた図書館。僕はこのモデルになった図書館で少年〜青年期を長く過ごし、いつも「畏怖の念」を感じていました。コンピュータ管理のデータの奥ではなく、実際に目に触れる場所に、莫大な無駄の固まりが存在していた時代です。アナログからデジタルへ、急速に対応していく人類は、とかくノスタルジックにそれを処理してしまいがちですが、何かそれだけではいけない、残された問題が息を潜めているような気もします。そのためにも、今回ちゃんと重箱の角をつっついておきたかった。』
その問題を問い掛ける為に登場するのが、浮浪者風の男・小宮間鹿造(世一 嘉津男)ではないだろうか。この男の存在により図書館奇譚の本当の物語が語られているような気がする。ただ、私は“巨大な「無用の知」”をどう消化すべきなのかの答えは見い出せなかった。この小宮間という男は、日常にファンタジー要素を加味するジャブジャブサーキットならではの登場人物であり、結局何者なのか判明していない。この男が持っていた物語の鍵となる本は、読む人によって書かれてあるものが変化したり、御国五郎の遺書が隠してあったり変幻自在なのである。自分には、図書館の妖精・・・っていうか“ざしきわらし”的な存在に映った。もしかしたら一度も読まれた事がない本の亡霊なのかもしれないし、はたまた本を愛した人の生霊なのかもしれない。余談になるが“禾ノ森”という地名を聞いただけで嬉しくなったのは、はせひろいちの過去の作品を観た特権だろうか。前回観た『バクスター氏の実験』の舞台も“禾ノ森”である。はせひろいちの想像上の場所であると確かどこかで読んだが、その幻想的な世界観が懐かしい気持ちにさせる。それこそ、はせひろいちの思うツボなのかもしれないが・・・。
以前も書いたが、はせひろいちが描く日常には、何故か懐かしい匂いが伴う。今回は古い書物の匂いを感じ、懐かしい気持ちになった。私の学生時代には図書館で勉強する事が常であった。いや勉強とかこつけてうたた寝をしていたのが現実だが、今と違い扇風機が主流の時代にあってクーラーが効いた図書館は天国であった。その時嗅いだ匂いが脳裏に蘇った。芝居から臭いを感じるって、脚本の力なのか演出なのかわからないが、それは魅力の一つでもある。劇団のホームページ(http://www.owari.ne.jp/~iku/kyakuhon/tosyokan.htm)に昔の脚本が記載されている。今回の公演ではオリジナルバージョンも上演されたが(私は都合が悪く見逃した)、ミレニアムバージョンとオリジナルバージョンを読み比べてみるのもおもしろいかもしれない。時代の流れもそうだが、オリジナルバージョンでは労働者風の女は登場していない。上演時の配役も記載されているので参考にどうぞ。1994年の東京公演では、小宮間鹿造をはせひろいちが演じていたりする・・・。
“ジャブジャブサーキット”自分が観た公演ベスト
1.非常怪談 2.図書館奇譚2000 3.バクスター氏の実験