東京グローブ座 2/27〜3/1
3/1(月)観劇。座席 A-13
作・演出 はせひろいち舞台は、深い森(架空の“禾の森<ノギノモリ>”と言う場所らしい)の中にある、世間からの完全な隔離を選んだ孤高の学者・七曲教授の実験室。その実験室にやってきた少年・立科真琴(中村榮美子)は、そこに集うおかしな人々の中で生活をはじめる。そして、出会った人々との関わり合いにより、成長していく・・・という物語。ジャブジャブサーキットの言葉を借りてしまえば、“森と科学と少年の成長を編んだ空想科学ファンタジー”だそうな。
平成8年度愛知県文化振興事業団プロデュース公演として、4ステージだけ上演された作品の再演。初演に引き続き、少年王者舘から珠水、水谷ノブが客演している。そして、一色忍(OMSプロデュースの『ここからは遠い国』に客演する為に今回は出演せず)の代わりに真琴少年役を演じる事になったのが、これ又少年王者舘の中村榮美子。少年王者舘が好きな私にとっては、この上なく嬉しい限りである。一部で人気がある一色忍であるが、私は『非常怪談』でしかその姿を拝見した事がなく、まだまだ魅力を感じるに至っていない。そんな私なので、今回の配役にはニタニタと笑みがこぼれてしまう訳である。そして、その活躍ぶりも凄く、この3人のおかげで芝居に膨らみが出たと言っても過言ではない、と言ってしまうとジャブジャブサーキットの役者に申し訳ないのだが、今回の作品ではその印象が強い。
ジャブジャブサーキットの公演を観るのは『非常怪談』に続き2作目なのだが、はせひろいちが描く世界には、懐かしい匂いを感じる。それはどれと具体的なものは挙げられないのだが、今回は自分が少年時代に感じた匂いみたいなものを感じた。まぁそれも具体性がなくて書き記す事はできないんだけど・・・。
『非常怪談』では、もののけを登場させることにより、日常にファンタジー要素を加味していたが、今回は森の動物達を人間に化けさせ登場させる事により、ファンタジー色を強めていた。いや一概に動物達とは言えないが、森で暮らす人間以外の何かを人間に化けさせ登場させていたように感じた。松本真一と珠水が演じた清水のおじさん・おばさんは、どう見ても狸の夫婦。増殖をするカノコ(猫田直)は何かはわからないが、森の住人の何かであろう。近くの別荘にやってくる桐原親子(栗木己義・高庄久美子)は渡り鳥。そんな感じで観ていたらバクスター氏の愛弟子である主人公の七曲教授でさえも人間ではなく、バクスター氏の実験により作り出された何かではないか、そんな感じがした。まぁそれが読み違いであったとしても、こんな見方もおもしろいかなと思う。
“ジャブジャブサーキット”自分が観た公演ベスト
1.非常怪談 2.バクスター氏の実験
作・演出 マキノノゾミ琵琶湖国際映画祭で映画監督の故楠田健司が特別賞を受賞する事になった。その受賞式に出席する事となった、楠田健司の実弟であり刑事の楠田英彦(小市慢太郎)は、自由放漫に生きた兄を憎んでいた。しかし、20年前の兄の死には疑問を持っていた。その死に関係していると思われる女優で楠田健司の恋人であった矢代ひびき(キムラ緑子)が、主演女優賞にノミネートされ映画祭に出席する事を知り、ある計画を実行に移す。TVディレクター・佐々木太郎(岡村諦)の仕掛けにより、楠田英彦は矢代ひびきとの対談を行い、事件の真相に迫ろうとする。迫り来る時効を前にスター女優を追い詰められるのか・・・そこで明かされる楠田健司と矢代ひびきの関係と、最初の嘘と最後の秘密。
95年に初演した『ラヴィアンローズ・スイート』を改訂した作品だが、99%は書き直したらしい。初演を観てない私には、初演との比較は出来ないが、面白ければどうでもいいことである。前作の『夏のランナー』がイマイチ面白くなかったので期待していなかったのだが、その思いに反して、今回の作品はなかなか面白いものになっていた。しかし、ミステリーをうたった脚本としては正直言って“面白い”と誉められたものではない。前半のもたつきは、三上市朗の演技により救われていたし、後半は小市慢太郎とキムラ緑子の掛け合いで魅せたと言っても過言ではない。三上市朗・小市慢太郎・キムラ緑子の好演により、公演時間2時間半も気にならず、と言ったところか。
“劇団M.O.P.”自分が観た公演ベスト
1.遠州の葬儀屋 2.最初の嘘と最後の秘密 3.夏のランナー
演出・振付 北村明子音楽、照明、映像などを駆使した空間構成が、スタイリッシュであり、スピーディな展開が、クールでかっこいいという評判を聞き、期待に胸を膨らませ観に行ったレニ・バッソであったが、自分とは同調せず、無感情のまま睡魔に襲われるばかりであった。物語性や感情を一切排除しハイスピードでみせるのが特徴らしいが、それがかえって仇になったのか、何も伝わってこなかった。今回の公演は1階席を取り除き、舞台を拡大し、2・3階席から観客が見おろすコロシアム的空間を構築したらしいが、私の席は1階の正面。その為照明の効果が見れなかったのか(上から見ていない為比較はできないのだが)、全体に暗い感じが漂い、そのスピード感も深夜のハイウェイを疾走しているようで、とても眠気が伴うものであった。深夜の疾走感を気持ちいいと感じる人もいるとは思うが、私にはダメ。私は前半で集中力が途切れてしまい、睡魔に支配されてしまった。
某所では、“馬鹿と田舎ものには絶対わからない、ほんとうにかっこいいダンス!!”などと書かれていたが、私にはその良さが全然感じられなかった。って言うか眠くて意識が飛んでいたというのは隠せぬ事実。気持ち良く眠れるというのも、それはそれでいいのかもしれないが・・・。って良くないか。
構成・振付 永谷亜紀今回のテーマは、「触れられない距離でのコミュニケーション。触れたいが、ためらわれる。ぎりぎりの距離で、温かさを感じる。それは悲しいけど幸せである」というもの。
ダンスに関しての知識が希薄なので何とも言えないが、踊りとしては斬新さがないのかもしれない、という感覚的なものは感じた。ただ、ダンス初心者の私にも、今回のテーマである“触れられない距離でのコミュニケーション”という事が伝わってきて、非常に面白かったのは事実。触れ合わないが、人と人とが触れ合う温感、というか人の持つ温度をその踊りから感じた。しかし、それがなんか間抜けなわけで、言葉で表現すれば簡単な事、男女間で言えば「愛している」という求愛表現を、体で表現しようとしているのだが、それがめちゃくちゃカッコ悪くて面白いのである。カッコ悪い踊りと言っては語弊があると思うのだが、洗練されないカッコ悪さというか動きが、逆におもしろさを醸し出していた。それが自分のツボにはまってしまい、ニタニタ笑いながら見入ってしまったわけである。間抜けのカッコ良さ。なんじゃそれ、ではあるが、そんな感じ。それが、意図するところなのか、自分の狂った感性のたまものなのかはわからないが・・・
遥か未来、もし、言葉というものが伝達手段として必要がなくなった時の街中は、こんなまぬけな奴らばかりなのか、いや人がまだ動物だった頃の世界なのか、こんな事を考えながら見ていたのもおかしさを感じた要因であったかもしれない。
作・演出 イッセー尾形/森田雄三イッセー尾形のライフワークである『都市生活カタログ』のクローズド公演。勝手に名前を付けて(一部イッセー尾形のイラストに記載されていたものを転用)列挙すると、
1)パキスタン人のバーテンダー
2)弓を習いに行った初日のママ
3)パパになった日の職人
4).田舎自慢の副会長
5)キャバクラの店頭で話し込む酔っぱらいの中年男
6)サウナに居座るアル中の62才の男
7)自分の解任をビデオ撮影するビジュアルオタクの男
8)自宅で伝言ダイアルに夢中になっているミュージシャンと、今回の登場人物は8人。
1月にイッセー尾形と森田雄三とが芝居を作る過程を公開する、という企画に参加したのだが、その時見た何本かが、今回の舞台で登場していた。公開稽古というか公開制作という感じの企画であったが、一人の人物を作っていく過程というものが、思いのほかおもしろかったのが印象に残っている。その原型から作り上げられた人物達が舞台の上に立つのだが、どう完成されたのか非常に興味深く観る事ができた。『弓を習いに行った初日のママ』は、当初は“弓を習いに行った初日の父親”として演じられた作品である。また、「ぶち」が口癖の『パパになった日の職人』は、制作途中では田舎自慢をしていたので、完成時には二人の人物に分裂された事になる。あーこんな風に変化したのかと、芝居自体の面白さに、新たなおもしろさが付加された。制作過程を見た上で完成されたものを見るというのは、なかなか贅沢な味わいである。ただし、邪道かなという気持ちがないわけではない。作り上げていく過程はあくまでも裏に仕舞っておき、完成された作品で評価すべきではないか、などとも思う。でも、まぁ、面白く観れれば満足なので特にこだわりはないんだけど。
で、今回の公演の感想。久々に公演を観たのだが、今までと違った人物描写を行っていたのが気になった。以前はどんな嫌な奴を演じても、どこかに憎めない愛らしさがあったのだが、今回は嫌な奴は救いがなく嫌な奴になっていた。自分の部屋が大好きで、伝言ダイヤルに夢中のミュージシャンなどは、現実世界の側面というか裏側を見ているようで恐怖を感じた。そんなところが新鮮だったのだが、その反面暗い気持ちになり、決して面白いとは言いがたかった。“あーこんな人いるいる”と笑って観れたのが、“こんな人がいたら嫌だなぁ”という感じに変化した。十人十色の人間を描くという面を考えると、こんな描き方も時にはいい。しかし、自分としては嫌な人物をしかめっ面で観るより、滑稽な人物を笑って観たいというのが本音でもある。
“イッセー尾形”自分が観た公演ベスト
は、作品名が特定できないので割愛させて頂きます。
作 飯島早苗
演出 板垣恭一有名なプロデューサーが4階のベランダから転落するという事件が起きた。殺人未遂の容疑をかけられたTVプロデューサーの日向草子(池津祥子)は、別れた夫である名塚憲治(京晋佑)を弁護士として指名した。舞台は拘置所の接見室。別れた夫婦が、弁護士と被告という立場で再び出会う・・・。
ほんの些細な誤解で別れてしまった男と女の物語。別れは男を弱くし、女を強くする・・・。私はこんな風に感じたのだが、作者の意図が本当はどこにあったのか、今もってわかっていない。自分の完全なる誤読かもしれないが、愛ってものに騙されそうになりながらも、女の怖さがじんわり伝わってくるおもしろい心理劇であったと思っている。
この作品の面白さは、日向草子が夫であった名塚憲治の気持ちを混乱させると同時に観客をも混乱させ、危うく愛なんてものを信じ、愛の絆なんぞに感動してしまいそうになるところで、人間の裏側の感情を気づかれない程度に、さりげなくじんわりと見せたところにあるのではないかと思っている。自分の勘違いなのかもしれないが、嘘をつきまくる草子の言葉や行動にさえ、感情的なものではない計算されつくしたものが見え、女の恐怖を感じてしまった。「夫を放したのが最大の間違いだった」みたいな事を言うシーンがあるのだが、それさえ計算された言葉に思えてならない。ここまで人の心を疑ってどうする、という気持ちは山ほどあるのだが、蜘蛛の巣に絡まった蝶のごとく、女の罠に身動きができなくなって行くというか、手玉に取られていく男の悲しさを自分は感じてしまったのである。もしかしたら、もう一歩深読みし、草子の嘘は本心を隠す為の行動で、“愛”こそが真実・・・とまで観るべきなのか・・・恋愛ものは考えれば考えるほどややっこしいので嫌いである。自分の見方が歪んでるのかもしれないが、決して感動する芝居ではない、というのが自分の見解である。しかし、釈然としないのも事実。恋愛ものは苦手なのだが、できればもう一度観て真のストーリーを読み取りたい気分である。あえて付け加えるのだが、一つだけ芝居を台無しにしていたのが、タイミングよく鳴る雷の音。拘置所の横の道を通る車の音や突然訪れる静寂など、緊張感を作り出す音響が非常に良かったのに、この雷の使い方は残念でならない。時代遅れのコメディじゃあるまいに、セリフのタイミングに合わせて雷が鳴るなんて・・・
作・演出 古田英毅オットー・リデンブロック博士は、新しいエネルギー源である“シズマドライブ”の開発に成功した。身の危険を感じた博士は、シズマドライブに関する情報を娘のカナコ・リデンブロック(稲葉由美子)の遺伝子に組み込ませた。そして、博士は死に、シズマドライブの情報を知るのはカナコの遺伝子だけとなった。それを知った採掘魔人モホロビチッチ(鷲谷憲樹)は、シズマドライブを我が物にしようとカナコを付け狙う。そんな状況の中、カナコに恋心を抱く平田昭彦(日高勝郎)は、悪の手からカナコを守る為に立ち上がった・・・。
“バカかっこいい芝居を目指す”がモットーみたいだが、かっこよくもなく、バカな芝居でもなく、正直言ってつまらなかった。オープニングの映像は確かにかっこよかった。これだけは褒めてしまうが、物語の方は、チープな上に笑えない。中身のない物語を延々2時間も見せられるのは苦痛としか思えない、と言い切ってしまう程にダメな芝居であった。下手なヒーロー物を作るのは、TEAM○○-Bzin(一部伏せ字をしたけど、どこの劇団かわかってしまう・・・)だけで充分。他の劇団を比較の対象としては申し訳ないが、何のひねりも感じない今回の作品はそれ以下。タダで観れたのが唯一の救いであった。
余談になるが、カナコの母・一葉を演じた矢部愛(カブ)のとぼけた感じはなかなか良かったと思う。舞台以外で見ると、全然チャーミングではなく、ふてぶてしい感じなのだが、舞台で観る矢部は何か引きつけるものがある。と言っても、入れ込むほどじゃないんだけど。
作・演出 福島三郎舞台は、瀬戸内海に浮かぶ美鼻島(びびじま)。この島には大手レコード会社のスタジオが建設されていた。そのスタジオに、大物アイドル・星野アカリ(星野真理)が、超一流ミュージシャンを引き連れ、デビュー曲のレコーディングにやってきた。デビュー曲は『星空のセレナーデ』。この曲を20年前にヒットさせたキャシー竹谷(森若香織<元GO-BANG`S>)も今回はコーラスで参加する事になった。セッティングはできた、しかしアカリは歌う事を拒み続けていた。
一方、美鼻島の住民達は、島にかかる美鼻島大橋の開通式のイベントで『星空のセレナーデ』を演奏しようとしていた。この曲は、美鼻島小学校が20年前に、全日本小学校合奏コンクールで金賞を受賞した曲である。その時のメンバーを揃え演奏しようと話を持ち出し、張り切っていた村岡満世(柴山智加)ではあったが、星野アカリの話で浮き足立ち練習に身が入らない人達に苛立ち始めていた。そんなこんなの状況の中の人間模様を描いた音楽劇。“音楽劇”と書いてしまったが、決して音楽劇ではなかった。いや、そもそもこの“音楽劇”って定義が自分にはわからない。名前そのものが曖昧な気がする。『星空のセレナーデ』という曲にまつわる人間模様を描いていたし、音楽も演奏するけど、これを音楽劇と言っていいんだろうか・・・。
それはさておき、芝居はどうだったかと言うと、音楽が心地よくて、いい気分で劇場を後に出来たのは確か。作曲の近藤達郎は「リゲイン」のCFソングを作曲した人だとか。パンフレットのCD(しっかり購入してたりして・・・)に入っている『星空のセレナーデ』を聞いてもなかなか心地よい。しかし、「じゃぁ面白かったんだね」と聞かれても返答に困ってしまうのである。“岡山はじめは適役ではない”とか、“谷川清美は適役過ぎて嫌だ”とか、“前の方だと舞台が見にくい”とか、不満はあるが、決してつまらなかった訳ではない。ラストの満天の星空の下で20年ぶりに復活した美鼻島小学校ビッグバンドの演奏で、星野アカリが歌い出だすシーンとかちょっとホロリとしちゃうんだけど、大きな感動を伴わない。なんと言うか“良いにしろ悪いにしろ心に残らない”のである。そう感じるのは私一人かもしれないが、これって芝居としては致命傷かもしれない・・・と思う。そして、余計な事かもしれないが、世の中そんないい人ばかりいないだろう・・・とも言いたい。
“泪目銀座”自分が観た公演ベスト
1.春まるだし 2.サニー・コースト・セレナーデ 3.バカの王様
作 岩崎正裕
演出 内藤裕敬ある教団に理想を求めた長南義正(松本キック)は、現実は理想には化けないという事実に直面し、教団から逃げ出した。しかし、教団を抜け出したものの家族にも馴染めず、家のガレージに置かれた軽トラックの中で生活する日々を送っている。そんな苦悩し続ける青年の姿を家族やさまざまな人々の関わりの中で描いていく。義正の苦悩する姿をシェイクスピアの『ハムレット』に、又崩壊へと向かう家庭をチェーホフの『三人姉妹』に投影させて物語は進められる。
97年のOMS戯曲賞大賞を受賞した岩崎正裕の戯曲を、南河内万歳一座の内藤裕敬の演出で再演した作品である。私は初演は観ていないのだが、初演・再演共に観た人の話では「今回は“家庭崩壊”がクローズアップされていて、社会への警告のようだった太陽族版と打って変わり極上の家庭劇になっていた」との事。この話を聞き、自分には太陽族版の方がおもしろかったに違いないという確信的な気持ちが膨らんだ。
主人公の身の置き場のないやるせなさ、信じるものを失ったあとの虚無感、現実は変わらないという無気力感や苛立ちみたいなものは濃厚に伝わってきた。又、チラシに書かれた「このまま漂っていくしかないんだ。」という言葉が痛いほど伝わってきたのは事実である。しかし、何か不満が残るのである。何が引っかかるのだろうかと考えていくうちに、ある教団=オウム真理教の描き方が解せないからではないかという考えに至った。“オウム”という特殊な世界感を絡ませた事によって、青年の心の痛みがリアルに伝わってきたが、今回の演出を観る限りでは、あえてオウムでなくても良かったのではないか、という思いが強い。社会への警告のようだったと言う太陽族版を観ていれば又違った印象を描くのだろうが、オウムというものが背景になっていると言うよりは飾りでしかなかった。非常に中途半端に思えてならない。
信仰は自由だし、表現も自由である。作者及び演出家がどう描こうが自由だが、自分の中にある“オウム=悪”という気持ちが、この作品の中途半端な表現に苛立ったのは事実である。もしかしたら事件に巻き込まれていたかもしれない、という私的な経験が“オウム=悪”という意識を自分の中に植え付けた理由にもなっているのだが、この芝居の作者はあまりにも無自覚的に事件を扱っていやしないだろうか。
私個人の話で芝居からそれてしまうが、地下鉄サリン事件があった日、私は現場近くにいた。虫の知らせなのか、その日は地下鉄での移動をやめ、車を利用したので事件に巻き込まれる事はなかったが、もし地下鉄で移動していたら巻き込まれた可能性はゼロではない。車のラジオから毒ガス発生のニュースが流れる中、かっかてきた携帯電話の第一声は「生きてるか」だったのを覚えている。その声を聞いた途端、フィクションではない現実の死の匂いを感じた。そんな経験が、事件を否定しない描き方に対し不満を持つ原因となっているのは明らかだ。ただ、客観的に見るなら、オウムというものを善悪決めずに描いている事の方が芝居としては成立していると思う。チラシには、「彼らの気持ちがどちらかと言えば…わかる。」と作者の気持ちが書かれてあった。自分とは反対の感情なので、描かれたものに対する気持ちが違うのもあたり前か・・・。オウムの件もそうだが、主人公やその家族の行動も理解できなかった。教団に再び戻ると主人公が言い出すシーンがあるが、何故人殺しの教団に戻ろうとするのか?その心が読めなかった。又、主人公には見える死んだ母親の存在もわからない。その母親にしても子供の行動をしかるわけでもなく、おろおろ泣き崩れるばかり。父親は、自分の感情を子供にぶつけられず崩壊するのだが、それも理解できない。ほんと自己表現できないくせに、自己中心的な人物のオンパレードである。こんな家庭じゃ、オウムに関係なく崩壊するわぁというのが最終的な感想。