扇町ミュージアムスクエア 10/30〜11/3
「BUGS in the BLACK BOX」
11/1(土)観劇。座席 自由
川下大洋、三上市朗、後藤ひろひとのプロデュース集団『大田王』が案を出し合って、そのゴミだけを集めた(後藤談)のオムニバス・コントショー。他の出演者は遊気舎の楠見薫、久保田浩、M.O.Pの木下政治、MONOの土田英生、ギンギラ太陽`sの大塚ムネト。
わざわざ大阪まで観に行った甲斐があるこのメンバー。おかしさ大盛り、つゆだくってな感じで満足。内容を全て書くのはしんどいので、勝手に題名をつけて列挙しときます。
こんだけ盛り込んでます。なかでも特におかしかったのが、大塚ムネトの人間劇場と格闘技の声に合わせて後藤が熱唱するスタンドバイミィ。傑作です。で、今回の後藤造語のヒットは「おちょっこどっこい」。いい響きです。
- 羽曳野の伊藤のラップ(オープニングの音楽)
- ドナインシタイン博士の演劇講座(前説)
- 後藤R2-D2のあいさつ
- 登山部新歓コンパ
- 書道の華道(書道家は三上市朗。これは日替わりらしい)
- ストームトルーパーの日常(その1.浮気する妻)
- ぼけぼけサラリーマンの日常(その1.タクシーの相乗り)
- 人間劇場『オペラ座の怪人』
- 格闘アカペラ『スタンドバイミィ』
- ストームトルーパーの日常(その2.買い物<映像>)
- ギャングの集会
- 久保田一人芝居『赤影』
- 若大将バー
- 木下劇場
- 予告編ショー(折込チラシの一枚を客が選び、その予告を勝手に演じるという 企画。選ばれたのは「人間風車」)
- 給湯室のカーク船長
- ストームトルーパーの日常(その3.送別会)
- ぼけぼけサラリーマンの日常(その2.立食パーティ)
- 昆虫君ショー
- 大団円
原作 中上健次『奇蹟』 演出 松本雄吉
紀州熊野の「路地」と呼ばれる集落で生まれ育った“タイチ”とその仲間達。極道という道を歩むが、花火のように、短くもきらびやかに輝やいた人生を描く。海から路地に変わる舞台で幕があがる。言葉の列挙で作るケチャのリズムが言葉を越え言霊となり、心に染み込む。原作を読んでおいたほうがいいという忠告により、冒頭数ページを読んでおいた。おかげで、物語がストレートに食い込む。読んでないと人物設定を理解できなかったかもしれない。それじゃぁ面白さは半減だったと思う。原作を読んで一番最初に感じたのは「これはどこの国の話なんだ」と言うこと。その感覚がそのまま舞台にも生かされていた。神の国と人間の国の境目で、もがき苦しむタイチ達の姿と映る舞台は、原作の世界そのもの。いや原作を越え、最高の舞台に昇華させていたと思う。弐幕の「銀の川」から「満開の夏芙蓉」の破滅へと向かうタイチ達の姿は悲しくもあるが、とても美しく映った。維新派の舞台はこうして書いたものや、舞台写真などで見ただけでは、その良さが全然理解できないと思う。ビデオで見たとしても半分もわからないのではないか。実際にあの舞台セットを間近に見て肌で感じてこそかな、などとまだ公演を2回しか観ていない私でさえ感じる。今回一番印象深かったのはイクオが幻覚を見る「銀の川」のシーン。野外ということもあって、夜空を舞散る銀の雨は、しっかり脳裏に焼き込まれる程に感動してしまった。今年一番の舞台はこれで決まりかな。
“維新派”自分が観た公演ベスト
1.南風 2.青空
作・演出 ブルースカイ
途中逆おひねりタイム(500円のキャッシュバック)を挟んでの2部構成。1部は鳥の上でのシチュエーションコメディ。その場所設定の突飛さ、ストーリー展開のナンセンスさ(脚本の可笑しさ)にニタニタしっぱなし。1度目は、自分が座った場所が空調の下で、声は聞き取りにくいわ、寒いわなど自分の状況が悪かった為か、その日だけ微妙にタイミングが悪かったのか、テンポの悪さ、間の悪さを感じた。しかし2度目はストーリーを知っているにもかかわらず、可笑しい。おかし過ぎる。無意味なおかしさと言うか、意味を考えるべきではないおかしさ、常識を無視したおかしさ、うーんうまく表現できないおかしさが溢れかえっていた。ストーリー上に投げかけた謎。それは、教授の野生化であったり、3年前に死んだ鈴子の担任のムラオカカズオからの手紙だったり、生物室で起きた事故だったり、最後にめくられるバンドエイドの下の何かであったりする。そもそも、生活必需品を収納している鳥自体が謎だったりする。しかし、それらをすっぽかし、すっとぼけたまま、2部に入る。2部の前半は鳥の上にいる人間の今までの状況を細切れにして見せる。見せ方がとても良い。これぞ猫ニャーって感じ。これで謎が解けるのか、という期待とは裏腹に、話は突然関係のない銀行強盗の話となり、そのまま終わってしまう。この肩透かしにはまんまんとやられた!という感じ以上に、置き去りにされた気持ちを返して!と叫びたくなる不完全燃焼であった。これを楽しんでやっているとしたら、ブルースカイあなどりがたし。最後に鳥の話に戻るだろうという心を見透かし、みごとにはずした演出には拍手喝采である。ただしこのおかしさがわかったのは2度目の時だったりするけど。劇中のセリフで「終わり方なんて、一週間もすりゃ忘れちまうもんです」というのがあるが、この終わり方は悔しいかな心に残ってしまう。まんまとブルースカイの術中にはまった感じである。
終演後、宝のコインとしてキャッシュバックされた500円でデモテープを購入する(実際は千円札を出したのだが)。そしたらおつりが長野オリンピックの記念500円玉だったりした。あーこうやって宝のコインを探しあてるのかぁ、などと勝手に思い込んでほくそえんでしまった私であった。
“猫ニャー”自分が観た公演ベスト
1.鳥の大きさ 2.長そでを着てはこぶ 3.不可能美 4.ポセイドンのララバイ
作 高橋ヒデオ 演出 生瀬勝久と山西惇
舞台は社会人野球が行われている球場のベンチ裏のロッカールーム。グランドではチーム(白田電気)が試合をしているのだが、ファミリーリーグ(というのが本当にあるのか知らないけど)の弱小野球部の出番のない控え選手たちは、ロッカールームで無駄話をしている、という設定。主人公はその中の一人である高橋英雄(中川浩三)という人物。仕事はいまいち、野球もノーヒットと、ぱっとしない30歳。しかしそんな人生を転機させるべく、9回裏同点ツーアウト満塁という大事な場面に代打を申し出るのだが・・・ヒーローになれない平凡なサラリーマンの哀愁が、たっぷり盛り込まれた作品なのだが、どうもその哀愁が伝わってこない。それが何故だかわからないが、観終わって感じたのは「そうなんだよなぁ」という共感ではなく、「なるほどね」という関係ないや的なものだった。感情移入が出来ない主人公がこの作品をいまいちにしているのかもしれない。観ていて正直言って飽きてしまった。舞台より、スーツ姿の生瀬がバットを持って、バントの構えをしているチラシの方が、何となく哀愁が漂よっていて良かったというのは悲しい。そして何よりも女優陣がダメ。生瀬、山西、八十田の男優陣のうまさ、おかしさが引き立っているから余計に女優陣のダメさが目立ってしまった感じ。いや、ストーリーに関係ない女優の登場がそのダメさを引き出していたのかもしれない。もっとそぎ落としたなら面白かったかも。
劇場の入り口にセーラー服姿の女性がわんさかいて「おぉ」と思わず生ツバを飲む。ウソ。スタッフ全員学生服にする凝り方に、笑みがこぼれる。こういう凝り方、私的には好きである。客入れの音楽も舞台の設定年代のヒット曲をDJを入れて流している。ちょっとありふれているけどいい。そしてその流れを途切れさせず「ホテルカリフォルニア」が流れ、幕が上がる。いいんでないかい。物語は横内謙介の高校時代を描いた私戯曲。『情けない青春』を描くとの事だったが、情けなくへなちょっこに描いていてもカッコつけている。それでこそ横内なんだけど、ちょっと自分を美化し過ぎてないか、同級生が見たら怒りだすんでないかい。どーでもいいけど。主人公横山健一(どーせなら、ちゃんと横内謙介にすりゃぁいいものを踏ん切りが悪い)の高校入学から卒業までを描くのだが、メインは高校三年生時の学園祭の後夜祭。自分中心でカッコつけてるけど、他のキャラクターが生きていたので、よしとしよう。ラストに説教臭ささが漂っていたり、上演時間が長かったり、新人による「山椒魚」のいらない寸劇が挟まれたりで不満が残るものの、久しぶりに観た扉座には新たな面白味を感じた。しかし、観終わった後頭に残ったのは、自分の学生時代の映像だった。これってもしかしたら、作品としては失敗作なのかもしれない。いや、自分の青春時代を見せることによって、観る人の心にある青春時代を蘇らせた秀作なのかもしれない。どうも判断しかねてしまう。観る人の学生時代によって印象が大いに違ってしまうわけで、不良だった人にしてみれば「優等生ぶってんじゃねえ」と言いたいかもしれない。今まさにその時代を生きている人が観たら「ダッセー」となるかもしれない。なつかしく映る人もいると思う。私は「こんな奴いたなぁ」とか自分にもこんな時あったなぁなどと共感できるところがあり、面白く観れたけど。でも挨拶文に書いてある偏差値60プラスマイナス5の青春にはムカッときた。と書いてしまうと自分のバカさ加減を露呈してしまうんだけど、ムカついたものはしょうがない。
“扉座”自分が観た公演ベスト
1.ホテルカリフォルニア―私戯曲県立厚木高校物語― 2.おとぎの棺 “善人会議”時の公演は含まず
はじめて観たク・ナウカは衝撃そのものだった。観てから随分たつが、エレクトラが登場したその場面が脳裏から離れない。レビユーを書こうと記憶をたどろうとすると、目の前にエレクトラの姿が立ち塞がり身動きとれない状態であった。感動以上の衝撃を受けたのは久しぶりである。倉庫という閉鎖的な空間もエレクトラの屈折した復讐心と同調し、重苦しさをみごとに表現していたと思う。オープニングの「闇」の使い方もみごとで、闇の中からもろもろのものが徐々に姿を現わすその光景に見入っているうちに、幻想的な世界に引き込まれてしまう。そこで突然舞台に立てかけていた物が倒れ、エレクトラが登場する。一気に幻想的な空気がピシッと張り詰めたものに変わる。このシーンが今もって離れないのである。かわいいはずの美加理の姿は、目を見開き復讐心の塊のエレクトラの姿のまま、自分の頭の中でいつまでも居座りそうである。どうせならかわいい美加理で心がいっぱいの方が良かったんだけど。物語は母の策略により殺された父の復讐に思いをはせるエレクトラを描くギリシア悲劇。この物語は母系社会から父系社会への歴史の転換点を描いた劇という事らしい。演出家の宮城聰は「男の価値観が世の中を支配した始まり」として『エレクトラ』を見るとき、20世紀末に生きる我々には破壊の歴史を歩んできた人類の終わりが見えてしまうと言い、こうした時代にエレクトラの行為を「希望」として発掘することが、今回のテーマだとしている。その方法として、初演では歓喜の中で 終わったエレクトラを、今回はエロスの中オレストの手により殺ろされる事により、エレクトラを悪女のままで終わらせず、救っているらしい。悪女ではなくなったかもしれないが、私には反対に父系社会への移行がよりはっきり映し出され、破壊へ向かう悲劇と見てとれ「救い」より「哀れみ」を感じてしまった。エレクトラの死より父の無念が込められた“斧”の存在がエレクトラに希望を持たせているのではないかと思う。すべての行為は父の執念が引き起こした事であり、エレクトラの本心ではないと・・・そんな事を感じた時、舞台に取り残された斧はうすら笑いを浮かべ、事の顛末を楽しんでいるようにも感じた。
物語の凄さもさる事ながら、人間浄瑠璃の凄さには驚かされた。感情を声で演じる“speaker”と肉体で動きを表現する“mover”の二人一役。話には聞いていたが、ただ単にアニメの吹き替えみたいなもんだと思っていたんですよ、実は。でも、とんでもない勘違いであった。moverはあくまで無表情で動く。speakerはありったけの感情を声に込める。人間の心と体の二極化がこんなに素晴しい感情を表現するのかと驚かされるばかりであった。美加理の瞬き一つしないその表情は見ている物を虜にして放さない。凄すぎる。
なぜ今回のがvol.1なのかわからない。前回はやっぱり週刊五味だったんだろうか。まっ、今回は週刊五味では決してなかったけど、まだ週刊明星でもなかった。今回は正直言って時間の無駄と言いたい。つまらん!前回は双数姉妹の公演を自らパロっていたり、いろんな試みをしたり、ゲストも良かったりで楽しめたが、今回は全然楽しめず。客を楽しませるという気持ちが全然見えず。こんなんでは客は減っていくのがミエミエです。まっ、今回は劇場が小さいと言うこともあって大入り満員だったけど、次回はこんなつまんないものを一日二回行うとあっては、「何考えてんの??」と疑問符を二つ付けた。一回しかやらないから稀少価値的笑いというかアドリブ的笑いが得られるのではないだろうか。アカペラにしろ双数姉妹は間違った方向に走ってしまったんだろうか。
とりあえず演目
・プリンス×プリンス(堺雅人がいなっきゃ意味がない!!)
・お明
・明星による映像
・パートタイムラヴァー
・ふしめがち
・ジェスチャー(前回は“ぴったしカンカン”だったけど今回はこれ)
「お明」がかろうじて面白かったけどあとはスカ。
初めて観るサモ・アリナンズ。オープニングの着ぐるみはなんだかなぁと思ったが、「007/死ぬのは奴らだ」のパロディ映像で盛り返す。このまま面白いのかと思ったら、そうでもなく、もったりとした空間がつづく。太まゆげの小松和重の存在がおかしくていいのだが、このもったり感が眠気を誘って困った、困った。チラシのインパクトが強く、期待し過ぎたんだろうか、本多劇場とサモ・アリナンズがミスマッチだったのだろうか、どうも自分の肌とは合いませんでした。でも、今度は小さな小屋での公演を観たいとは思いました。いや、きっと観に行くと思う。