Message # 4 is from: SYSOP YAMAMOTOS
Time: 97/04/04 0:53:04 Section 76:   国づくり・地域計画
Subj: 本間俊朗著 日本の国造りの仕組(上)

本間俊朗著

日本の国造りの仕組(第1回/3回)


 1.はじめに(第1回
 2.お米は天からの最高の贈りもの(第1回)
 3.自然河川時代(第1回)
 4.古代小河川時代J(第1次列島改造時代、西日本)(第1回)

 5.ため池の時代(西日本)(第2回
 6.古代小河川時代K(第1次列島改造時代、東日本)(第2回)
 7.条里制(第2回)
 8.古代小河川時代L(9世紀から16世紀半ばまで)(第2回)
 9.大河川時代(第2次列島改造時代)(第2回)

10.洪水の時代(第3回
11.江戸時代後半(第3回)
12.まとめ(第3回)


1.はじめに

 日本の国は経済大国こなりました。景気の先行きや国の財政赤字が心配ですが、それでも私達は日本の国に生まれてよかったなあとしみじみ思います。
 日本の国が今日のような豊かな国になったのはどうしてでしょうか。中学や高校で教わった日本歴史の教科書は、そのわけを教えてくれたでしょうか。歴史とは、「人類社会の過去における変遷・興亡のありさま。また、その記録。」と広辞苑にあります。
 日本歴史の教科書は、政権の移り替りに関する部分が多くを占めています。時代区分にしても、その時代の政権の所在地一例えば奈良にあれば奈良時代、平安京にあれば平安時代−で呼ばれています。
 司馬遼太郎さんは、2千年以上の日本の歴史のなかに何億の人生がこめられているといわれました。何億の祖先の人々が汗を流して取り組んできた2千年以上にわたる国土開発の歴史を知らないですませるものでしょうか。
 2千数百年前、縄文時代晩期の日本の人口は約7万5千8百人(小山推計)とされていますが、その10万人足らずの人口から、江戸時代約3千万人になりました。3百倍以上です。人口は国力のメルクマ−ルといわれます。どんなことでそんなに人口が増えたのでしょうか。それは水田でとれるお米のおかげです。そしてお米の増産に必死にとり組んできた祖先の人々のおかげです。
 稲作あるいはお米との長年月にわたるつきあいは、日本人の心に深い影響を与えました。日本人の精神的なものの考え方や、社会的な人々のつながりにかかわる基本的思想が、お米を通じて日本人の心の底に生きています。その文化的伝統が今日の豊かな国造りの土台になっていると思います。
 私は日本の国造りが、水田稲作を通じて進められた歴史的経過を明らかにしようと考えました。


2.お米は天からの最高の贈り物

 この世に稲という植物が存在し、その栽培技術が縄文時代晩期に日本に伝来したことは日本人にとってこれに勝る幸せはありません。
 稲は穀物として単位面積当り収量が多い優れた作物です。また毎年同じところに栽培しても肥料など施すなどすれば収量は落ちません。いわゆる連作がきく作物ですが、これは水稲に多量の用水が使われているからだといわれています。じゃがいもなど外国の主食ともいえる作物をはじめ殆んどの作物は連作がききません。
 米は大変おいしい食べ物であるうえに、栄養の点でも優れた性質を持っています。米は良質の蚤白質をわりに多く含み、この点小麦より大変すぐれています。このことが米食偏重の日本人の食生活をゆるしてきたわけで、もし米の蚤白質が小麦程度のものだったとしたら、日本人の食生活はずいよん違ったものになったろうといわれています。
 それから、日本の地形や気候などの自然朱件が稲作に大変適していることも幸せなことです。
 日本の国土は約37万平方キロの狭い面積で、山地が多く平野が少なく自然条件に恵まれていないといわれていますが、それは間違いです。
 日本の国土の3分の2を占めている森林は水田稲作に必要な水資源の宝庫です。農業水文学によれば、水田面積 1に対し10倍の流域面積があれば、安定した水供給が確保されるとしています。山地が多く、平野が少ないということは、水田経営上大変望ましいことであります。
 それと、日本列島の森林が占める割合が多いのは、山が急峻で人々が農地や工業地に開発することが困難であるからであると、四手井綱英さんは言われます。日本人の森林愛や自然愛が原因で森林が多いのではありません。日本列島を東北から南西へ高さ2,000mを越える山脈が貫いていて、人々が開発するには地形的に困難を伴うからであると四手井さんは言われます。
 日本に高い山々がたくさんあることが、日本列島の森林を守ったということで、これも幸せな自然条件であるといえましょう。


3.自然河川時代

 縄文時代は1万年も続きましたが、人口は停滞しました。縄文時代の人口の最大は20数万人とされていますが、それは丁度、三内丸山遺跡の縄文人が活躍していた頃です。縄文時代晩期には前述しましたが、約7万5千800人に減少してしまいました。
 縄文時代の人口停滞から脱したのは、縄文時代晩期、渡来人によって水田稲作技術が伝えられてからです。
 前述の縄文時代の晩期の人口、 7万5千800人の地域的内訳は、東北がその50%以上を占め、稲作がはじめに普及した西日本は近畿2,100人、中国2,000人、四国 500人、九州6,300人となっています。西日本の合計は 1万900人です。この人数の半数が女性であるのは勿論で、子供や乳幼児も含まれます。とにかく、人口密度は稀薄です。稲作技術をもった渡来人達は、このような人口稀薄な西日本にやってきました。
 どの位の人数の渡釆人がやってきたかということは、知るすべもありませんが、その当時の西日本に住んでいた日本人より相当に少ない人数だったろうと私は推定します。といいますのは、渡来人が使っていたであろう大陸系の言語が使われず、日本文化の基本である日本語の伝統が続いてきたことから、そのように思うのです。つまり、仮に縄文人より渡来人の方が相当に多数であったとしたら、大陸系の言語になってしまうだろうと考えるからです。
 縄文人はそれまで、貝塚で知られているように、貝や魚やドングリなどの木の実あるいはシカなどの獣類さらには陸稲や若干の野菜などを栽培して、食料としていたことが知られています。そのような縄文人達が食糧を得る場所でない低湿地に渡来人達は水田稲作をはじめました。生活の場がお互いに犯されない住み分けの状態であったこともあって、縄文人達は渡来人の水稲栽培を妨害することなく観察していたことでしょう。
 しかし、そのうちに収穫された米のすばらしさを知って驚嘆したことでしょう。そして縄文人達も自分達で水稲栽培をやってみたいと思ったでしょう。一方渡来人達も人手が足りなくて困っていたので、縄文人の助人を望んだことでしょう。やがて、縄文人は水稲栽培技術を渡来人との共同作業を通じて学びとったことでしょう。遣唐使を派遣して唐の文化を吸収したり、明治の文明開化の時代に欧米文化を積極的に接取したりしたように、縄文人は稲作文化をうまく取り込んでしまいました。外来文化を接取し、すぐにマスターしてしまうのは縄文人以来の日本人の伝統なのでしょう。
 ところで、初期の水田はすべて低湿地に立地した湿田でした。収量の多い半乾田や乾田を造成する技術を渡来人達は知らなかったわけではありません。中国で水田稲作がはじまったのは、紀元前 4千年も前です。水田稲作技術は、中国においてはすでに完成の域に達していました。福岡県の縄文時代晩期の水田遺跡板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡を見ますと水田に付設された水路、井堰、水の取り入れ、排水の施設は既に完成された型態を整えています。スキやクワなどの農具も長年の経験を経て編み出され完成されています。現在使われているスコップと全く同じ形のものもあります。水田農耕技術のレベルは初期の段階から高かったということは定説になっています。ただ、穂摘み(稲刈り)の道具だけは石包丁という道具を使っていました。これだけは違います。これは、鉄製農具鎌が普及していなかったというよりは、稲の品種が多様で、稲の穂の実る時期がまちまちで、実った穂だけを石包丁で穂摘みするという事情があったからです。
 ところで高度の技術を有していたにもかかわらず、初期の水田が湿田であったのは何故でしょう。単位面積当り収量の多い半乾田や乾田をつくらなかったのはどうしてでしょう。
 初期の水田が湿田であったのは、低湿地に水田を立地したからですが、低湿地に立地したわけがあります。それは人間が少なかったからです。低湿地に開田するのは労力が少なくてすみます。水田は平らでなければいけませんが、低湿地はもともと殆んど平らです。取水施設の建設も楽です。樹木の伐採、抜根も、低湿地には大きな樹木が少ないので、それ程の労力を要しなかったでしょう。人手が少なかったので、手間が余計にかからない低湿地に湿田を開発することになりました。
 縄文時代晩期から弥生時代にかけて渡来人達はつぎつぎにやって釆たことでしょう。縄文人は渡来人と融和の道を選んだ結果、両者は混血し、弥生人として今日の日本人のルーツになったと私はみています。
 そして、渡来人だけでなく稲作技術を習得した縄文人も西日本各地にある低湿地を求めて展開していったことでしょう。
 湿田を主とした紀元前 2世紀末までの時代を私は自然河川時代と呼ぶことにしています。
 低湿地を河川というと多くの人は変に思うかもしれません。大雨が降れば低湿地には水がたまります。雨がやめば水は流れてもとの低湿地にもどります。低湿地にたまった水は流速は遅いが流れています。私は低湿地は河川であると思っています。そんなことで、主として低湿地に開田した時代を自然河川時代と呼よことにしました。
 自然河川時代の人口増加率は、収量の少ない湿田であるのでそれ程高くはなかったでしょう。それでも 1万年も続いた縄文時代の人口停滞を脱却しました。それと、渡来人がつぎつぎにやってきて、人口の自然増に社会増が加わって、自然河川時代の日本の人口増加率は高かったのかもしれません。


4.古代小河川時代J(第1次列島改造時代、西日本)

 だんだんと人口が増加してきて、それまで少人数の農業共同体であったものが、やがて原始小国家といえるような政泊的集団に発展していきました。考古学者がクニと称している政治的集団です。カタカナでクニと書きます。
 中国の史書「漢書」にはじめて現れた日本の記録として、「夫れ、楽浪海中倭国あり。分れて百余国を為す。歳時を以て来り、献見すという。」と書かれていますが、これは紀元前1世紀のことです。
 集落も大型化し、防衛機能を備えます。いわゆる環濠集落です。弥生前期末から中期にかけて、たくさんの環濠集落があったことが知られています。各地域で可耕地の拡大を求めた時期で、土地や水にからむ戦いが頻発しました。環濠集落は、ムラムラ相戦い、クニグニ相戦う状況に備えた防禦集落として出現したものだろうと考古学者はいいます。
 大阪府の池上曽根遺跡は大環濠集落の遺跡ですが、1世紀半ばとみられていましたが、年輪年代学のおかげで百年逆上り、紀元前 1世紀半ばであることがわかりました。
 紀元前 1世紀になると、このような大集落の存在から、多数の人々が集団で組織的な水田開発が行えるようになったことがわかります。自然河川時代は小人数で低湿地に湿田を開拓していましたが、紀元前1世紀には、やや地下水位の低い沖積平野に半湿田ないし半乾田を造成するようになりました。
 水田面積が増加すれば人口が増えます。人口が増加すると更に水田開発は進みます。私は紀元後 2世紀末までに、西日本の水田として開発容易な平地はあらかた開発し尽くされたと推定します。
 ここで、水田開発容易な平地とは、「河川から潅漑用水が供給できる範囲」をいいます。
 例えば奈良盆地を例にとってみましょう。標高40mないし100mの平らな面積は、402.4平方キロですが、流域面積は710.5平方キロしかありません。したがって、水田として利用できる面積は、平地面積の402.4平方キロの半分にも遠く及ばなかったでしょう。つまり奈良盆地を流れる大和川の本支川の自然の流量では、水田経営可能な面積に限界があります。おそ らくその限界を越えて開発が進み、水不足のきびしさに懲りて過大な拡張をあきらめたことでしょう。
 河川の自然流量のことを皆様御承知のように自流といいます。その河川の流域外からの用水の補給や、ダムやため池で生み出された利水流量を含まないその河川固有の流れをいいます。
 河川の自流は年によって多い少ないはあるにしても、自流で潅漑用水が供給できる水田面積は、おおよそきまっています。そして、強調したいことは河川の自流で潅漑できる範囲の水田は開発が容易であるということです。
 河Jllの自流を越えて水田面積を拡大するには、新たに用水を生み出さなければなりません。ため池や堰を造って用水を生み出すことになりますが、これは容易なことではありません。 何百万トンの貯水容量のある満濃池のような大規模なため池なら別ですが、小規模のため池から新たに供給できる用水量は微々たるものです。たくさんため池を造ることになります。ちなみに現代では数万のため池のあった県もありました。それはとにかく容易なことではありません。
 要するに、水田開発の時代の流れのなかで、河川の自流で水田経営がなされる時代と、ため池によりあらたに用水を生み出して水田を開発する時代との画期があります。私はそれが 2世紀末であると考えています。 2世紀までの水田開発のスピードは早く、 3世紀以降はかなりスローダウンします。
 水田開発容易な平地とは、「河川からの潅漑用水が供給できる範囲」といいましたが、厳密に言えば、「河川の自流で用水が供給できる範囲」ということになります。
 それでは、西日本全体で河川の自流で用水が供給できる面積はどの位あったでしょうか。
 和名抄(930年頃)に日本全国の耕地面積が書いてあります。86万2千町歩です。この面積から西日本の耕地面積を求め、さらにそれからため池によって開発された水田面積増加分と畑地の増加分を引いて求めた数値が約30万町歩です。
 この約30万町歩は、河川の自流で用水供給できる水田面積と畑地の面積とを合計した耕地面積です。
 知名抄の耕地面積から推定したこの方法とは別に、もっと厳密に推定する方法があります。それは、西日本のすべての小河川の流域について、水文学的な調査を行って、「河川の自流で用水が供給ができる範囲」の水田面積を推定する方法です。その推定値の精度はかなり高く、大きな誤差はないでしょう。その推定値は当時(2世紀末)の人口推定にも使えるという重要な意味もありますので、是非やってみたいと思っています。事実、このような調査をするようにとのアドバイスもありますが、手間と時間を要しますので、今は無理ですが、将来の課題として考えています。
 私はこの約30万町歩の耕地の開拓は2世紀末までに終ってしまったと考えています。工事の歩掛り計算をやってみましょう。
 例えば、1世紀半ばから 2世紀末までの150年間を通じて、30万人を動員したならば30万町歩の耕地を開発できるかという問題として考えてみましょう。これは農繁期を避けるという条件つきです。 150人で年間 1町歩の開発ができるかという計算になり、 1人当り年間20坪になります。これは十分可能な仕事量です。1、2世紀は鉄製農具が普及していませんので、その分作業能率が劣りますが、それでも十分やり得る仕事量です。
 30万人を動員することは、 1世紀半ば頃では無理かもしれませんが、 2世紀末までを通して考えれば十分可能なことです。昭和20年代から30年代のはじめ頃までは、建設省の直轄工事も人力作業がまだまだありましたので、人力作業の作業能力がどんなものか御経験のある方にとっては、上記の計算はすぐ了解されることでしょう。
  2世紀末までに、水田として開発容易な平地はあらかた開発されてしまったということは 魏史倭人伝の記事からも伺えます。
 倭人伝に「桓霊の間倭団大いに乱る」という2世紀後半のいわゆる倭国の大乱は、耕地拡大競争の最終段階の争いであったと思います。開発フロントでの土地や水にかかわる争いです。やがて、卑弥呼を共立して、戦乱が治まりました。30の国々の領地の境界もきまり、川の取水権についてもけりがついたということでしょう。倭団の大乱がおさまったということは西日本の耕地拡大が一段落したということを示していると思うのです。
 紀元前 2世紀までの自然河川時代の水田は低湿地に開拓された湿田でしたが、紀元前 1世紀頃から大勢の人数で組織的に取りくむことができるようになって、水田土壌の分類でいえば、地下水型土壌の湿田から中間型土壌の半湿田ないし半乾田に重点が移ったということでしょう。なお、表面水型土壌の乾田が開発されるのは、古墳時代に入ってからで地域により差がありますが 4世紀末から 5世紀前半になると八賀晋さんは言われます。
 そこで、紀元前 1世紀以降の半湿田・半乾田及び乾田が開発された時代を、それまでの自然河川時代に続く、古代小河川時代と呼よことにしました。水田開発の地域は小河川流域にとどまり、大河川下流の沖積平野には及びません。それが本格的に開発されるのは、16世紀半ば以降のことです。
 1世紀半ばから 2世紀末までの水田開発を主とする盛んな耕地の拡大によって、食料生産が飛躍的に伸びた結果、2世紀末の人口は250万人になったでしょう。 2世紀末、西日本だけで約30万町歩の農地が開発されましたので、全国で 250万人の人口を養うことはできるはずです。人口推定の根拠にもなります。
  1世紀半ばから 2世紀末までの、盛んな農地開発を私は第 1次列島改造時代(西日本)と呼よことにしました。
 戦乱が治まった 2世紀末から 3世紀初めにかけては、第 1次列島改造時代の終った頃で今日でいえば高度経済成長の終った頃といえます。きびしい生活条件も少し楽になり、人々はささやかな平穏の日々を迎えたことでしょう。「宗族の尊卑、各おの差序あり、相臣腹するに足る。」、「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入る。」という倭人伝の記述から、社会的な身分的秩序が確立していたことがわかります。また「その風俗淫ならず」「盗窃せず」「訴訟少し」と倭人たちの道徳性や倫理観を強調しています。
 この倭人伝に載っている邪馬台国の時代は、もう未開の時代ではなくて、中世や近世の水田稲作を基軸とした社会構造と同じレベルに達していたと私はみています。
          (以下次号)


出典「(社団法人)東北建設協会,会報」1996-11月号より転載

(home pageの本来形式でない場合に本来形式に帰すボタン)