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Time: 97/04/04 0:54:00 Section 76:   国づくり・地域計画
Subj: 本間俊朗著 日本の国造りの仕組(中)


本間俊朗著

日本の国造りの仕組(第2回/3回)


 1.はじめに(第1回
 2.お米は天からの最高の贈りもの(第1回)
 3.自然河川時代(第1回)
 4.古代小河川時代J(第1次列島改造時代、西日本)(第1回)

 5.ため池の時代(西日本)(第2回
 6.古代小河川時代K(第1次列島改造時代、東日本)(第2回)
 7.条里制(第2回)
 8.古代小河川時代L(9世紀から16世紀半ばまで)(第2回)
 9.大河川時代(第2次列島改造時代)(第2回)

10.洪水の時代(第3回
11.江戸時代後半(第3回)
12.まとめ(第3回)


5.ため池の時代(西日本)

  2世紀末までに、西日本では開発容易な平野は殆んど開発されてしまったことを前述しました。古代小河川時代は小河川の流域の水田ですから流域面積は広くありません。河川の自流は少量です。日照りで水不足になったことも屡々あったはずです。干魃に備えて、ため池をつくるのは必然です。また、半乾田の用水補給のためということもあったでしょう。 3世紀のため池の遺跡は発見されていませんが、私は 3世紀にはため池が築造されていたと推定します。
 日本書記には、崇神天皇、垂仁天皇、応仁天皇、仁徳天皇の各時代にたくさんのため池を造ったことが記述されています。崇神天皇から仁徳天皇にかけての時代は 4世紀から 5世紀にかけての時代ですが、我が国の有史の時代として逆上れる最も古い時代です。つまり、ため池の築造は我が国の有史のはじめから行なわれていたということになります。
 日本書記、続日本紀に、大化元年(645)から廷暦10年(791)までの147年間に祈雨・祈止雨の記事が73例あって、そのうち70例が祈雨記事です。
 日照りの記事の例として、続日本紀天平 4年の条を紹介しましょう。
 「天平 4年 6月己玄、この夏、日照りで人々は田を耕作していない。しばしば雨乞いの祭を行ったけれども、遂に雨を得られなかった。
 天皇は次のように詔りした。
 春より日照りがはげしく、夏まで雨が降らなかった。多くの川は水が減り、五穀はいたんだ。これはまことに朕の不徳のせいである。人々に何の罪があって作物がこんなに甚だしくやけ萎えることがおきようか。
 京や諸国に命じて、天神・地祗・各山・大川に長官自身の手で幣帛(みてぐら)をたてまつらせよ。以下略。」(口語訳は直木孝次郎他「続日本記2」東洋文庫)
 日本書記、続日本紀には洪水、長雨の記事もありますが、日照りの記事に比べて大変少ない。そして、洪水による水害の記事よりも長雨による根腐れや日照不足の被害の方が多くなっています。干魃による米の不作は局地的でなく広い範囲に及びます。そして、多くの人々が飢える恐れのあることですから深刻です。
 古代小河川時代は、洪水の被害より干魃による被害の方が卓越していました。
 後述しますが、洪水による水害が顕著になるのは、大河川時代の17世紀に入ってからです。日本の長い歴史を17世紀初めで区分し、それ以前を干魃の時代、それ以後を洪水の時代といえると思います。
 自然河川時代の水田は、地下水型の湿田であり、古代小河川時代になってから中間型の半湿田・半乾田の造成に重点が移り、表面水型の乾田が造成されるのは地域によって異なりますが、 4世紀終り頃から 5世紀はじめにかけてであると前述いたしました。
 生産性の高い乾田が古墳時代前期の終わり頃になってようやく開発されるようになったのはどうしてでしょう。それより前にどうしてできなかったのでしょうか。
 それは、だんだんと大型のため池が築造されたり、小型のため池でも数多くつくられるようになったからだと私は考えます。
 簡単に言いますと、地下水位の低い乾田は水が浸透しやすい。専門語でいえば減水探が大きい。その浸透に負けないように潤沢に用水を供給しなくてはなりま
せん。潤沢な用水を供給するには大型のため池などが必要になってくるわけです。ため池の大型化は、生産性の高い乾田の開発を促進させました。そして、遂に超大型の狭山池と満濃池が築造されました。超大型のため池は、沖積平野だけでなく洪積台地にまで乾田の造成を可能にしました。
 大阪府狭山町にある狭山の池は、森浩一さんはその著書のなかで、 6世紀後半から 7世紀初頭にかけての間に築造されたと述べています。ところが、「年輪年代学」の進歩によって年代が特定されました。狭山池のいちばん下の堤のところに、池から外に水を流す四角い木樋が埋めてあって、これを年輪年代で調べたところ 610年に伐った木材だと分かりました。つまり狭山池は 7世紀初頭に築造されたことがわかりました。有名な満濃池は 8世紀はじめ築造され、 821年弘法大師が修築したと伝えられています。
 以上のようなことで 3世紀から 8世紀までを「ため池の時代」ということにしました。 8世紀までとしたわけは次節で説明します。


6.古代小河川時代K(第 1次列島改造時代、東日本)

 これまで、西日本のことばかり述べてきましたが、東日本はどういう状況だったのでしょうか。
 水田稲作は日本海側の裏日本では比較的早く本州北端に近い青森県田舎舘村垂柳にまで達しています。日本海を北上する対馬海流の影響で、津軽平野は夏期に比較的高温に恵まれるからだといわれていますが、古い時代の水田遺跡は多くありません。東日本に水稲農耕が本格的に普及しはじめたのは 3世紀になってからです。
 太平洋側では水稲農耕の伝播が愛知県尾張台付近で停滞し、東日本への伝播が極端に遅れました。
 その原因について国土庁編国土レポート96,は次のように述べています。
「東日本は稲作よりも採取・狩猟・漁撈生活に優れた環境にあったことから、水稲農耕に対して強く抵抗する文化バリアーがあったからではないかと考えられます。」
 また別の説もあります。同じ「ジャポニカ型」の稲にも日照時間に敏感な感光性品種と気温の上下に敏感な感温性品種とがあり、前者が西日本に後者が東日本に分布していることから、後者が前者を駆逐して東へ進んだという説もあり、定説はないのかもしれません。
 東海地方の有名な登呂遺跡は弥生時代後期 3世紀の遺跡です。関東地方でも、神奈川県の北東部鶴見川及びその支川の流域で、弥生中期後半の環濠集落がきわ立って多く見られます。この他多くの遺跡から、水稲農耕は、 3世紀になってから東日本に普及しはじめたことがわかっています。
 古墳時代になりますと、稲作文化は東海・関東さらに東北地方まで普及しました。日本全国の古墳は約15万基あるといわれていますが、東北地方にも各地に古墳があります。仙台の遠見塚古墳や会津の大古填は有名です。
 水田開発を主とする耕地開発は、古墳時代を通じて東日本一帯に広がり、 8世紀に至って一段落します。 3世紀から 8世紀までの東日本の水田開発を主とする耕地開発を「第 1次列島改造時代(東日本)」と呼jごことにしました。
 第 1次列島改造時代(東日本)は 8世紀で終り、そして前述の西日本のため池の時代も 8世紀末で終り、 9世紀以降になりますと耕地開発は低調になります。具体的な数字で言いますと、平安中期和名抄(930年頃)の耕地面積は、86万2千町歩であり、室町中期拾芥抄(1450年頃)のそれは94万6千町歩です。 520年の才月をかけて、耕地面積はやっと 1割弱しか増えませんでした。 9世紀以降数百年間に少しの面積しか開発されなかったということで、列島改造時代は 8世紀で終った、ため池の時代も 8世紀で終ったとしたわけです。
 人口は、 3世紀はじめ約 250万人から 8世紀末約 600万人に増加しました。人口増加率は、年率0.15%です。


7.条里制

 8世紀は律令国家体制の基本法典である大宝律令が制定され、中央集権的な政泊体制が整った時期です。班田制を円滑にするため、土地を一町方角の碁盤の目状に区画し、水路も道路もそれに合わせて整備する条里制が実施されました。大変な大事業です。全国にこのようなきびしい作業を強制できたということは、律令国家が如何にがっちりしたものだったかということがわかります。
 富山和子さんは、「日本の米」という著書のなかで、条里制は列島改造の仕上げと位置づけ、日本列島への基盤整備事業であり、日本の歴史の土台作りの大事業であったといわれます。
 水田開発容易な西日本の平地は 2世紀末まであらかた開発され、 3世紀からはため池の築造によって水田面積を拡大し、同じ頃東日本にも列島改造の波が押し寄せ、 8世紀には、日本全体の国土利用は極限に達していました。引き続いて列島改造と呼べるような大規模な開発の余地は殆んどなくなっていました。つまり条里制はそのような列島改造が一段落したときの仕上げのための大事業であると富山さんは言われたのでしょう。また国土の管理という国の最も重要な課題を適正かつ公正に解決する方策としてとられた仕上げの措置が条里制であるといわれたのでしょう。人々は公平に一定の口分田を与えられ、そして社会的株序の整った律令制の時代は、長続きしませんでしたが、古代人にとって比較的暮らしやすい時代だったのかもしれません。

8.古代小河川時代L( 9世紀から16世紀半ば)

 9世紀から16世紀半ばまでの 7世紀半の長い年月の間に耕地面積は約 1割少々しか増加しませんでした。約百万町歩になりましたが、それでも人口は 8世紀末約 600万人から約1000万人に増加しました。人口増加率は年率0.07%です。
 耕地面積が 1割少ししか増加していないのに人口が 6割以上増加したのはどうしてかといいますと、農業技術の進歩があったからです。
 稲の品種改良が進み、早稲や晩稲あるいはたくさんの品種がありました。二毛作さらには三毛作も行われ、肥料などを含め農業技術上の進歩によって収量が増加したからです。 16世紀半ばまでは、小河川の流域での耕作が主でありましたが、次の時代は大河川下流の沖積平野が本格的に開発される大河川時代になります。



9.大河川時代(第2次列島改造時代)

 16世紀半ばから、大河川下流の沖積平野の開発に、戦国大名が絶大な力を発揮しました。
 16世紀半ばから17世紀末までの 150年間に、耕地面積は約 100万町歩から約 300万町歩へと 3倍になり、人口も同じく約1000万人から約3000万人へと著増しました。人口増加率は年率約0.75%です。
 大河川時代の到来です。私は16世紀半ばから17世紀末までの 150年間を第 2次列島改造時代と呼よことにしました。
 皆様御存知の伊達政宗はじめ、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正その他多くの戦国大名が果した大河川下流の沖積平野の耕地開発の事例は、ものの本にたくさん紹介されていますので、ここでの説明は省略いたします。
 ところで、何故16世紀半ば突然のように列島改造がはじまったのでしょうか。それには 2つの理由があります。
 その第一の理由は、戦国大名の一円支配です。小和田哲夫著「戦国武将」に「大河川流域の潅漑工事は、小さな領主ひとりひとりではとうていできるものではなく、当然潅漑用水を基軸とする村々の連合が必要になってくる。水利権の争いが起った場合を考えると、その調停には各個の領主や村落を越えたより巨大な戦国大名の大きな力があって、はじめて収拾がはかられたことであろう。」と述べておられます。広い地域を一円支配した巨大な力を持った戦国大名により大開発事業が遂行可能になりました。また戦国大名は例外なく、潅漑排水事業や治水土木に有能でありました。水田経営技術に有能であり、そしてたくさんの領主達を取りまとめる政治的手腕を有する者が、下剋上といわれる時代に戦国大名になる資格を得たとも言えましょう。
 理由の第二は、大河川下流の沖積平野が16世紀頃になってはじめて水田などを造成できる程度に河川の流送土砂によって埋め立てられ、農地として利用可能になってきたということです。仮りに大河川下流の沖積平野が地盤が低く、沼沢地が多い千年前の状態であったとしたら、如何に政泊的、技術的に有能な戦国大名でも、その開発は不可能なことでありましょう。戦国時代に大河川下流の沖積平野が農地として利用可能な高さまで堆積が進んできたということは天与の幸運です。また戦国大名の出現も良いタイミングでした。
 16世紀になって大河川下流の沖積平野がようやく利用可能になってきたということについては、納得できる説明が必要でしょう。ここでは大阪平野の例をあげて説明いたします。
 大阪平野は河内平野ともいいますが、梶原彦太郎・市原実両氏の優れた研究があります。要点を紹介しますと、大阪平野は約 7千年前から約 4千年前までは河内湾の時代、約 3千年前から約 2千年前までは河内潟の時代、約1800年前から約1600年前までは河内湖Jの時代、そして 5世紀は河内湖Kの時代です。
 河内湾の時代は湾内の水は海水です。河内潟の時代は淡水と海水が混合したいわゆる汽水湖です。湖になると塩分濃度は殆んどなくなります。
 紀元前 1万年前は氷河期の終り頃で、その頃海面の水位は今より数十mも低かったのですが、だんだん水位が上昇し、現在の海水準になったのが、約 5千年前です。ということは、約 5千年前から淀川と大和川が河内湾の埋立てを開始したということになります。埋立て作業を開始してから3200年かかってやっと河内潮Jの状態になりました。 5世紀頃の河内湖Kの時代になっても湖やいくつかの大きな池や鶴見湿地が広がっていて、とても平野と呼べる状態ではありません。
 仁徳天皇が淀川茨田の堤を築造したことが日本書記にのっています。建設省の淀川百年史は「淀川と古川の中洲状の旧茨田郡(今の寝屋川市西半)の微高地を洪水から守るために水流からかなりひかえて造られた輪中堤のようなものであったと考えられる。今の淀川の左岸堤のような堂々とした連続堤を想像するのは疑問である。」と述べています。
 「郊沢廣遠(のさわひろくとおし)。而田圃少乏(たはたすくなし)。且河水横逝(ひろくながれ)。以流末不鴃(かわしりとからず)。」と日本書記11巻仁徳天皇の条にあります。
 日本書記は 8世紀に編纂されましたが、仁徳天皇の時代には流水が停滞する沼沢池の状態で、わずかな水田しかなかったことがわかります。
 日本の大河川下流の沖積平野は、大阪平野が 5千年前河内湾であったと同じように 5千年前は海水で満たされた内湾の状態だったのです。それが、淀川や大和川が埋め立て作業を進めてきたように、それぞれの流域の大河川の埋立て作業によって、広大な沖積平野が形成されました。ということでそれぞれの大河川下流の沖積平野はようやく16世紀頃になって農地として開拓できるようになりました。これが第 2の理由です。
 第 2次列島改造時代は、私達祖先の庶民大衆の生活様式に大変革をもたらしました。建設省で河川関係の仕事をしていた私達は、戦国大名が治水事業に大きな成果をあげたことを教わりましたが、戦国大名が果した列島改造によって日本の国が今日のような豊かな国になるためのレールが敷かれたという意味で革命的なすばらしい時代であると思うので、それについて少し詳しく説明します。
 第 2次列島改造時代は、大河川下流沖積平野の大改造に加えて、江戸その他の城下町を中心とする大都市、それらを結ぶ五街道をはじめとする道路網、さらに海上、河川交通のための港湾、河岸等が建設された大社会投資(インフラ整備)の時代です。これらの社会投資は「七公三民」といわれる高率課税によって賄われました。この巨大投資が17世紀半ばに終ると、これも空前絶後といえるほどの巨大減税がはじまりました。そして五代将軍綱吉の初世ころには、税率は「三公七民」までに低下しました。庶民の手元に残った膨大な可処分所得は、庶民の生活水準を引き上げ、衣食住ともに日本人の生活様式を決定的に変えてしまいました。この巨大投資と巨大減税とによって生み出されたのが“元禄の大繁栄Wです。(大石慎三郎著「江戸時代」土木学会誌別刷増刊1994-5 Vol79-7より抜粋)
 大石慎三郎さんが、「日本人の生活様式を決定的に変えてしまった。」ということを、もう少し具体的にみてみましょう。
 私達庶民大衆が家族という形態を作り、夫婦・親子ともども生活するようになったのは江戸時代初頭からなのです。家族を形成する夫婦というのは、住むための家屋敷と、その夫婦及び子供たちが耕して再生産するに足りる耕地(これは 1町10石の土地であると考えられている)を持ち、しかも自分の農具で耕すという条件が満たされなければなりません。(佐藤常雄・大石慎三郎著「貧農史観を見直す」より引用)
 第 2次の列島改造によって、耕地面積が急速に増えて、今まで別々の領主のもとに支配されてきた夫婦が、耕地の上に独立して自己の経営を持つようになりました。庶民大衆が非人間的扱いから、曲がりなりにも人権が認められたというまことに画期的なすばらしい時代の変化です。
 桜の花が咲くとお花見にでかけますが、このお花見が庶民のものになったのも江戸時代に入ってからです。このお花見は、平安初期に嵯峨天皇が桜の花を愛でるために、紫宸殿の左近の梅を桜に替えさせたその年から花宴節という行事がはじまりました。これが桜の花見のはじめといわれています。元々は上流階級だけの文化で、武家社会になっても大名達がこぞって花見の宴を張りましたが、庶民が花見に熱狂するようになったのは、江戸時代になってからです。元禄期に出た俗謡小歌集には、上野の山で幡幕(まんまく)を張り、飲み食い歌い踊っている風景が記されています。松尾芭蕉も弟子をつれて上野で花見に興じ、たくさん句を詠んでいます。こんなところにも庶民の生活の大変革を垣間見ることができます。
 江戸時代には、庶民は寺子屋で読み書き、そろばんが習えるようになりました。江戸に寺子屋ができたのは慶長年間(1596〜1614)のことですが、その後急速に増えつづけ、享保 6年には師匠が約 800人もいたといいます。むろん、この教育熱心は江戸だけではなく、各地の農村でも漁村でも同じでした。幕末には全国で1万5千とも 2万ともいわれる寺子屋がありました。江戸時代の識字率は男性で40%、女性で15%程度で、当時では世界最高の水準でした。(仲江克己著「江戸時代に生きたら」広済堂出版 より)
 私達がその昔教わった日本歴史では、江戸時代のイメージは大変暗いものでしたが、最近では江戸時代は欧米の国々のその時代と比べて優れた時代であったと評価されるようになってきました。明治以降今日までの日本の発展は江戸時代にその基盤がつくられたといわれています。これももとをただせば、第 2次列島改造時代の大発展のおかげであると思うのです。
 ある西欧の学者は17世紀18世紀に人間として生まれるなら、貴族ならヨーロッパで、庶民なら日本で生まれたいといってます。(以下 次号へ)

出典「(社団法人)東北建設協会,会報」1996-12月号より転載

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