Message # 6 is from: SYSOP YAMAMOTOS
Time: 97/04/04 0:54:45 Section 76:   国づくり・地域計画
Subj: 本間俊朗著 日本の国造りの仕組(下)


本間俊朗著

日本の国造りの仕組(第3回/3回)


 1.はじめに(第1回
 2.お米は天からの最高の贈りもの(第1回)
 3.自然河川時代(第1回)
 4.古代小河川時代J(第1次列島改造時代、西日本)(第1回)

 5.ため池の時代(西日本)(第2回
 6.古代小河川時代K(第1次列島改造時代、東日本)(第2回)
 7.条里制(第2回)
 8.古代小河川時代L(9世紀から16世紀半ばまで)(第2回)
 9.大河川時代(第2次列島改造時代)(第2回)

10.洪水の時代(第3回
11.江戸時代後半(第3回)
12.まとめ(第3回)


10.洪水の時代

 しかしよいことばかりではありませんでした。17世紀半ば以降大洪水によ水害が至る所で頻発し、人畜家屋田畑に多くの被害がありました。延宝元年(1673)中国地方を襲った大洪水によって芦田川が氾監し、草戸千軒町が埋没したのはよく知られています。土砂に埋まった草戸千軒のことを東洋のボンベイという人もいます。大石慎三郎さんは、この洪水の前後の時代を若干きつい表現であるが“洪水の時代”と呼よぶべき時代であるとしています。
 17世紀後半になって、洪水による水害が頻発したのはなぜでしょうか。大石慎三郎さんは、「このころ日本は異常気象で、雨が特別多かったのであろうか。答えはノーであってそれは天災ではなくある意味で人災だったのである。」と述べ開発万能主義が災いしたと見ておられます。このような見方は大石さんだけでなく多くの人々の考えでもあります。
 私はこのような見方を否定するものではありませんが、開発による自然破壊によって引き起こされた人災であると単純に割切ってしまうことにいささかの抵抗を感じます。説明が不十分であると思うのです。
 16世紀に大河川下流の氾濫平原である沖積平野の開発が開始され、17世紀末には日本の耕地面積及び人口はおおまかにいって約3倍に急増したことを前述しました。
 もし、仮りに大河川の氾濫平原を開発しなかったら、水害が頻発することもなかったし、また人口も増加しなかったでしょう。人々は大河川のきびしい水害の脅威にさらされつつ大河川流域の開発を進めました。17世紀末までに耕地面積が 3倍ほどにも増えたということから、大河川の氾濫平原に開拓された耕地がいかに広いかということがわかります。大ざっぱな推定をすれば、大河川の洪水による水害を受けやすい新開拓地が、それ以前の耕地面積の 2倍に達するということになります。
 17世紀は大河川時代に移行して間もない時代です。堤防などの洪水防御施設の安全度は低かったでしょう。明治・大正・昭和になっても大河川の洪水の安全度は、それ程高くありません。まして17世紀の頃はお粗末な状態だったでしょう。たびたびの水害に屈せず広大な農地の開発を行った当時の人々の辛苦はいかばかりだったでしょうか。このような祖先の人々の御苦労は、日本の国の発展に大いに貢献しています。
 開発によって山林などの自然環境を破壊したことは確かでしょう。猛烈ともいいうる開発だったので、水害が多く発生したともいえましょう。しかし、これだけで終っては舌足らずであると思います。
 日本の国の発展過程のなかにあって、一つの問題がそこにあったと考えるべきではないでしょうか。17世紀後半、大石さんのいわゆる洪水の時代になった主たる原因は、古代小河川時代から、水害激化の必然性を内蔵する大河川時代に入ったということではないでしょうか。
 皆様は良く御存知のこととは思いますが、ここで、やがて21世紀になろうとしている今日でも、大河川の治水の安全度はそれ程高くないということについて触れてみたいと思います。
 平成になった現在、大河川の治水施設の整備目標について建設省は次のように考えています。
 「大河川については、100年から200年に 1度発生する規模の降雨に対する治水施設整備を目標に置き、当面の目標として21世紀初頭までに30年から40年に 1度発生する規模の降雨に対する整備を目指している。
 しかしながら、当面の目標に対しても、氾濫に対する防禦範囲は全氾濫区域の2分の1に達していない状況にある。また、今後目標達成に長期を要し、完成への見通しが立ちにくい状況にある。」
 そして建設白書は、「昭和22年カスリーン台風による豪雨によって、利根川の中流部で堤防が決壊し、多大な被害が発生したが、もし仮りに同規模の洪水が発生し、同じ箇所で破堤したとすると、約15兆円(平成 4年価格)に及よ被害が想定されている。被災地域はもとより、国全体としても、経済社会に与える影響は甚大なものとなる。」と記述しています。
 30年から40年に 1度発生する規模の降雨が当面の目標であるということは、今年でも来年でも40年に 1度発生する規模の降雨に見舞われたならば堤防が決壊するなどの大災害になるということです。とても安心できるものではありません。大河川時代になってから、水害激化の宿命は私達の孫子の代まで、あるいはもっと遠い将来まで、負わされてしまったということを、すべての国民が認識されるよう望んで止みません。



11.江戸時代後半

 第 2次列島改造時代に続く江戸時代の18世紀19世紀は東北地方にとって、不幸な時代でした。それは夏期の冷温によって稲作に大打撃を受け凶作の年が多かったからです。凶作の年が多かったのは、1800年を中心とする 1世紀は、日本のみならずヨーロッパにおいても気候が極度に寒冷化した小水期であったからだろうといわれています。江戸時代後半には、享保・宝暦・天保・慶応などの時期に何度も凶作があったことが知られています。
 北関東の上野・下野及び常陸の三ケ国の状況も東北と似たようなものでした。
北関東の三ケ国は東北と同様、冷害によって稲作に大打撃を受けましたが、これに加えて天明 3年(1783) 7月浅間山大噴火の降灰によって土壌が酸性化したために、その後長期間にわたって農業生産性を低下させました。
 たびたびの凶作によって、東北地方及び北関東は人口が激減しました。
 一方西日本は大規模な海面干拓事業による食糧増産によって人口は増加しました。
 事保 6年(1721)と弘化 3年(1846)の日本全国の人口調査の資料から、人口減少の地域は常北・関東及び近畿であり、人口増加の地域は四国・中国・北陸・東山・九州及び東海の各地方でした。鬼頭宏さんは人口変化率は、「西高東低のパターン」にあるとしています。
 このようなことで、人口が増加した地方と減少した地方がありましたが、トータルでは約3000万人で推移しました。


12.まとめ

 今では、どこの家庭でも欲しいだけお米を食べることができますが、米が十分食べられるようになったのは、歴史的に見れば極く最近のことです。「子供の頃、米なぞ食べたことはない。」と言われる明治生まれの人を知っています。渡辺忠世氏は著書のなかで、「日本人は米食民族というよりも、むしろ米食悲願民族といったことの方が歴史的事実に忠実な表現である。」と述べています。
 明泊のはじめ頃、米の一人当り消曹量が 1日当り 2合を越えた段階で、人口増加率が年率0.5%を越えました。明治のはじめ頃はそれまでの 2千年に及ぶ稲作を中心とした農業で成りたっている前工業化社会と変りません。
 人口増加率が年率 0.5%を越えたのは、 1世紀半ばから 2世紀末までの第 1次列島改造時代(西日本)と16牡紀半ばから17世紀末までの第 2次列島改造時代だけです。この両時代だけは、 1人 1日当り米の消費量は 2合を越えていたでしょう。しかし、その時代でも政治集団の中枢に近い人々は米を十分食べていたでしょうが、殆んど米を食べられなかった階層もあったでしょう。
 最近の米の消費量は 1人当り年間70kg程に減ってしまいました。 1日当りにすれば、 1.3合です。年輩の方は経験からわかりますが、若い人はことによると 1日 2合あれば十分足りると思うかもしれません。宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」の詩のなかに、「 1日 4合ノ玄米ト、味噌卜少シノ野菜ヲ食べ」とあります。 1日 4合の量は、昔の人にとって決して過大と認識される量ではありません。
 私達の祖先の多くの人々は、 2千年以上にわたってお米を十分満足する程食べることができませんでしたが、それでも縄文時代晩期10万人足らずの人口から江戸時代 3千万人へと 3百倍以上になったのは、お米のおかげです。豊葦原瑞穂国という言葉はまことにわが国の実体をよく表現しています。豊葦原とは河川の氾濫平原であり、そこで作られた瑞穂すなわち稲からとれる米のおかげで日本の国は大きくなってきました。豊葦原瑞穂国という言葉のなかに祖先の人々の稲に感謝する気持ちがこめられていると思います。
  2千数百年にわたる水田稲作の歴史を振り返ってみますと、水田土壌の分類でいいますと、殆ど湿田だけの初期の段階である自然河川時代から、紀元前 1世紀頃からの古代小河川時代になって、収量の多い半湿田、半乾田さらに乾田へと水田開発が進みました。
 紀元前 2世紀頃まで、殆ど湿田であったのは人手が少なかったからです。古代小河川時代になると、人口がだんだん増えて、大勢の人々が組織的に水田開発に取り組めるようになって、半湿田や半乾田まで手が届くようになりました。川の自流で潅漑できる範囲の水田開発は比較的容易ですから、その範囲の平地が精力的に開発し尽くされてしまうことになるのは日本人の性格からして当然のことでしょう。水田開発が盛んだった 1世紀半ばから 2世紀末までが第 1次列島改造時代(西日本)です。
  3世紀から、西日本でため池の時代になるのは、流水量が少ない小河川の流域に開発された水田ですので必然です。ため池がたくさんつくられ大型化してきますと古墳時代には乾田の造成も進みます。東日本への稲作が極端に遅れた原因は定説がありません。稲作はすが、それが第 1次列島改造時代(東日本)です。
  8世紀は、小河川流域の耕地開発がおおよそ終了し列島改造の仕上げの条里制によって班田収授法が実施され、中央集権的な国家体制が充実した時期でした。
  9世紀から16世紀半ばまでは、農業技術の進歩がありましたが、耕地は少ししか増えませんでした。
 16世紀半ばから大河川時代です。17世紀末までに、耕地も人口も約 3倍に著増しました。第 2次列島改造時代です。
 大河川が造成する広大な沖積平野が、流送土砂の堆積が進んで、丁度その頃農地として開発可能な地盤高まで堆積が進んできたという幸運に恵まれました。水田経営や治水土木に有能な第 2次列島改造の立役者戦国大名が一円支配したこともグッドタイミングでした。
 フランスの社会史家フェルナン・ブローデルは著書のなかで、17世紀のめざましい経済人口の伸展におどろきを示しています。ヨーロッパなら 5百万人ないし 1千万人しか生きられなかった狭い面積のなかで、日本は 3千万人の人口を養うことができたのは、ひとえに農業生産発展のゆえだといっています。
 フェルナン・ブローデルに限らず、多くの欧米の学者がこの時代の大発展におどろきを示し興味をもっています。
 第 2次列島改造時代の大発展は、庶民の生活水準をひきあげ、生活様式を決定的に変えてしまいました。今日日本の国が豊かになったのも、もとをただせば、この第 2次列島改造時代の大発展のおかげであるといっても言い過ぎではありません。
 以上の自然河川時代、古代小河川時代さらに大河川時代へと移り変ってきた時代の流れから、水田稲作にかかわる様々な国造りの仕組によって人口が増加し、日本の国が発展してきた歴史的経過がわかります。
 この歴史の流れを通して、私達日本人はお米のありがたさと日本の国土の自然朱件のすばらしさを確認し、感謝の気持ちを持つべきではないでしょうか。
 鉄製農具がなかった時代の水田や取水施設の建設は大変苦労の多い作業であったでしょう。条里制の大事業は今日の機械力を以てしても想像を絶する工事量です。たくさんの工事のなかには、木曽三川の宝暦の治水のような涙なくしては聞けない難工事もあったことでしょう。司馬遼太郎さんのいわゆる何億の人生がこめられています。そのような祖先の人々の並々ならぬ御苦労に対する感謝の念を忘れてはならないと思います。
(完)

出典「(社団法人)東北建設協会,会報」1997-1月号より転載

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