不自由な言葉たち
私は言葉が不自由です。そう書いてしまうと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、日常生活で自分の言いたい単語が口から思うように出ない時があるのです。……誰だってそういう場面はあると思われがちですが、私の場合は少し違うのです。つまり「言いたい内容を脳の中で適切な言葉に変換できない」のではなく、「言おうとするフレーズが一字一句、頭の中で決まっていても、発音できない」ことがあるんです。
簡単な例を挙げましょう。信じ難いでしょうが「あなたの名前は?」と問われて、苗字を発音できない時が私にはあります。もちろん自分の名前を忘れてしまうはずなどありません。本名を隠しているわけでもありません。一生懸命、伝えようとしているのに、つっかえてしまうのです。
自分の名前を名乗れない時の焦りは、やはり味わった者でしかわからないでしょう。入試や入社の面接で、緊張する場面とはいえ、自分の名前すら満足に言えない――そんな人間を誰が採用したいと思うだろう……と、ここまで書いて、ようやく自分が気にしすぎだということに気づきます。他人が私の寝癖をいちいち見ていないのと同じで、話す時につっかえていようが、それを気にする人は案外少ないものです。
頭ではわかっているのですが、自意識過剰はまだ完全には抜け切らず、私は相変わらず電話が苦手です。本来、話し好きであるにもかかわらずです。だからなおさら吃音を何とかしたいと日々、試行錯誤しています。深呼吸したりとか、いろいろな方法を試してきましたが、まだ特効薬は見つかっていません。でも怪我の功名なのか、現在は吃音も私を表現するひとつの特徴と考えられるようになってきました。
タイミングのいいことに、最近読んだ三島由紀夫の『金閣寺』の主人公も、吃音者です。この作品の奥深さと描写力は凄まじいものがあります。私は、重松清や浅田次郎、吉田修一など、最近の作家にも好きな書き手はたくさんいるのですが、太宰治や三島由紀夫が遺した作品の重さは、やはり掌にズシリときます――寝転がりながら読んだら失礼だ、と素直に思うんです。
最近は芥川賞を十代の作家が受賞する時代になってきました。若い世代が早くから羽ばたいていくこと自体は賛成です。でも彼女たちの作品と芥川龍之介の作品を天秤に乗せたら、何秒、均衡を保っていられるでしょうか……。もちろん、ずっとバランスが保たれる可能性も否定はしませんが、あの太宰治でさえも芥川賞を逃しているのですから、作家の人生とは、わからないものです。
その時、太宰治さんは作家としての不自由さを感じたでしょうか。私はイエスだと思います。それは「名誉ある賞を逃した」という意味ではなく、「真っ当のポジションを獲得できなかった」ショックに起因する不自由さです――。指定席券を正当な方法で入手したのに乗車拒否されたら、メロスでなくとも激怒するでしょう。人にはそれぞれ、そこに居るべき――相応しい――場所があるのだから。
「不自由な言葉」の本質もそこに通ずる気がします。うまく発音できない不自由さは、あくまで表面的なもの。本来の居場所ではなく、見当違いの方向に放たれた言葉こそ、不自由な蝶のような飛び方をしているのかもしれません。
自由とは、本人に訊いてみないと、わからないものです。
2005.04.03
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