言葉のやじろべえ
これは漢字・ひらがな・カタカナが混在する日本ならではの言葉の流れだろうが、最近、「わかりやすい言葉=ひらがな」という図式が幅を利かせている気がする。例えば公園の立て札に「憩いの広場」と書かれているより「いこいの広場」の方が、やわらかなイメージを与えるとか……。まあ納得なのだが、先日ラジオの中で学識者っぽい年配女性が「今の世の中、何でもひらがなにすればいいと勘違いしている!」とキンキン声を上げた時、それも一理あると思った。そのお方は「さいたま市」のひらがな表記が特にお気に召さないらしい。かなり激しい剣幕だったので、何もそこまで否定しなくても……と思いはしたのだが、そういえば私も“ひらがなの違和感”に出合った記憶がある。
三人称の“彼”を「かれ」と表記した小説に戸惑ったことがあるのだ。“私”を「わたし」と書くのは自然だし、“僕”が「ぼく」と書かれていても違和感を覚えたりはしない。でも「そのときかれはタバコをくゆらせていた」といった文を目にすると、ワンフレーズの何処に“かれ”の居場所があるのか、目を凝らして探さなくてはならず、少々困ったりした。まあ慣れの問題なのかも知れないが、ひらがながしっくりこない例は身近にも結構あるものだ。
私はジンマシン持ちではないが、新聞の紙面等で、二字熟語の難しい漢字だけがひらがな表記された箇所を見ると、背中がむず痒くなる。「流暢」が「流ちょう」と書かれていたら、流れるように読むことはできないし、「範疇」が「範ちゅう」ではカテゴリーが曖昧だ。
小学生でも読むことができるように漢字をひらく――そういう配慮は大切だと思うが、それならルビを振るか「燦爛(さんらん)」のように括弧で熟語全体の読みを示せばいい。半分だけひらがなにするのでは、熟語そのものが持つ言葉の雰囲気を壊しかねない。スーツは上下が揃ってこそ意味を成す。ジャケットに寝間着のズボンでは美しくない。
ここで問題にしているのは「漢字とひらがな――どちらが優れているか?」という観点ではない。要はバランスである。巧みに漢字をひらき、流暢な文章を生み出す人もいるし、やたら漢字が多いが窮屈には感じさせない書き手もいる。アルファベットを使う言語圏では、こういう感覚はなかなか養えない。そういう面で日本人は恵まれている。年中、夏か冬かの地域ではなく、四季それぞれの良さを味わえる日本だからこそ、漢字・ひらがな・カタカナが共存共栄する土壌が揃っていると思うのだ。
両端が漢字であれ、ひらがなであれ、そのバランスさえ良ければ、言葉のやじろべえも揺れを楽しみながら、にっこり微笑むだろう。
2005.4.24
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