ジャイアン理論


 僕が子供の頃から連載されていて、今でも好きなマンガが「ドラえもん」です。
 その中で、悪ガキ、ジャイアンの有名なフレーズが、よく出てきます。

“お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの”

 これは、のび太が持っていたおもちゃを、ジャイアンが取り上げようとしたとき、のび太の「これは僕のだよう」という弱々しいセリフの後に、ジャイアンが発した言葉です。

 これほどまでに、自分勝手という四文字熟語を、最もわかりやすく言い換えた言葉は、他にないでしょう。つまり、他人のものも自分のものも、全て自分が手に入れる、言ってみれば独裁者的思考ですが、それをジャイアンが吐くことによって、偉大なる “だだっこ”フレーズとして、君臨することになるのです。
 そんなわけで、大人が言えば、独裁的、非社会性なフレーズが、子供ならば、「聞き分けがなくて、どうしようもない子ね」という、そんなに憎めないフレーズになってしまうのです。

 このジャイアンの滅茶苦茶な理論ですが、あまりにメチャクチャすぎるために、それを疑いもなく発しているジャイアンには、ちょっとした尊敬の念まで芽生えてきて、のちには、ジワジワとした笑いが、こみ上げてきてしまいます。

 さて、このエッセイの本題は、何なのでしょうか。

 僕の主張は、“みなさん、ジャイアンのこの理論を、どんどん使おうじゃありませんか”です。ただし、みんな自分勝手になれというのではありません。もちろんその全く反対です。
 つまり、ジャイアン理論のなかの“もの”を“幸せ”に置き換えるのです。すると、こうなります。

“お前の幸せは俺の幸せ、俺の幸せは俺の幸せ”

 さらにやわらかい表現にするために、“俺”を“私”に、“おまえ”を“あなた”に置き換えてみてください。

“あなたの幸せは私の幸せ、私の幸せは私の幸せ”

 どうですか。このフレーズの前半部分は、とっても平和で温かい表現ですね。
 しかし、後半部分は、どうでしょうか。この気持ちを忘れて生活している人が、実際のところ、けっこう多いのではないかという気がします。つまり、自分の幸せを自分で喜ぶことをしたがらないのです。

 自分が嬉しかった時、自分が楽しかったとき、それを素直に出して、表現するということを、最近の日本人は積極的にはしません。昔なら「そうすることが美徳だから」と言えたでしょうが、今は、そういう理由で、自分の喜びを外に出さないわけではないように感じます。

 一瞬、楽しいと思っても、それが、周りの人にとっても楽しいことなのか、そうでないのかがわからないから、喜びを表現しようと思っても、それをせずに止(や)めてしまうのです。これは、自信のなさというよりも、根底には「みんなと同じでなきゃいけない」という心理が大きく影響しているからだと思います。
 つまり、どんな場合でも、“それ以上”、“それ以下”を好まないという日本人体質が、長年の間に、できあがってしまったのではないでしょうか。
 自分が楽しければ、それが正しいことだし、そこに間違った答えなどは存在しません。なのに、今の人たちは、常に基準を探します。その基準からどれだけ離れているかが大事(勝負)になってしまっているのです。それを「偏差値」とでも呼ぶのでしょうか……。
 残念なことに「偏差値」主義は、勉強だけの世界には留まっていません。ブランド志向というのも、あるブランドが良いということになれば、それが基準になり、それ以外のものは、頭から全く排除され、軽蔑されることになります。これは、悲しい現実です。

 やはり大事です、ジャイアン理論は!

 人間が幸せになるには、まず、ひとを思いやる心、これが“あなたの幸せは私の幸せ”です。そして、もっと大事なのは、自分自身の幸せを自分が心から喜べることです。これが“私の幸せは私の幸せ”なのだと思います。
 このどちらか一方だけでは足りません。前者だけなら、それはただの控えめな人、後者だけならただの自分勝手な人間。

 両方あって初めて、人間合格と呼べるのではないでしょうか。

1997.9.12