<2〜4面>
<5・6面>
<7・8面> 体験発表他
◇ 『本年度の誓願を達成し、三十万総登山の出陣に備えよう』
「革進の年」も、いよいよ終盤戦に入ってきた。そして明年は、立宗750年の慶祝登山の勝利を目指し「出陣の年」と定まった。ゆえに全国法華講は、一斉に本年度の折伏誓願達成を御宝前に供え、明年の出陣に備えよう。それが今月、行体・折伏第一と仰がれる日目上人の月になすべきことであろう。すべてを早々に完遂し、来る立宗750年・慶祝30万総登山に向かって、晴々と心おきなく出陣しようではないか。
かくいう我が支部も、本年は「革進の年」「客殿落慶の年」の意義を理解して大確信に立ち、祈り、闘った。その成果は立派に実り、『立正安国論』の7月に、誓願260世帯の折伏目標を完遂することができた。そして残る5ヶ月も御法主上人猊下の御指南に副(そ)うべく、30万総登山の勝利を目指し、支部一丸・僧俗一致して朝夕真剣に祈り、さらに折伏に奮闘を重ねている。「但法華経をもていのらむ祈りは必ず祈りとなるべし」(御書 622ページ)と仰せの如く、困難とする30万総登山さえ御本尊と我々の信心・祈りがある限り、案ずることはない。絶対勝利の大確信をもって闘おう。必ず、我々の祈りは成就する。
ただし、同じ祈りでも、「おのおのは随分の日蓮がかたうど(方人)なり。しかるになづき(頭脳)を砕きて祈るに、いまゝでしるし(験)のなきは、この中に心のひるがへる人の有るとをぼへ候ぞ」(同 998ページ)と仰せの如く、地区・支部・指導教師が一体となった、異体同心の真剣な祈りでなくては、諸願成就は成り立たないことを知るべきだ。大聖人が御書の各所に仰せの「なづきを砕だきて」「なづき(頭脳)をわり、身を責め」「濡れたるほくち(火口)に火をう打ち掛くるがごとくなるべし。はげみをなして」の如き祈りでなければならない。そこで思い出すのが、今から40年前……。今も鮮明に脳裏に焼き付いて生涯忘れることのない、信心闘争の一コマである。
「『お気の毒ですが、もうだめです。家で好きにさせてあげなさい』……これが修(おさむ)への医師の死の宣告でした。「小児マヒ」「カリエス」「結核」…と、3才で6つの難病をもつ我が子「修」。両足は座ったまま伸びず、膝は左右に開かぬ有様でした。そんなとき、秋山先生の折伏で入信したのです。『絶対治ります!』の先生の確信ある言葉も、初めは信じられませんでした。『せめて死んだ時くらい、お棺に足を伸ばして納めてやりたい』……これが本心・親心でした。しかし修は、幼な心にも秋山先生の言葉を信じ『絶対歩けるようになる』と、御本尊の前にいざり寄り、毎日御題目を3000、5000遍と唱えるのです。『御題目を唱えれば学校にも行けると先生が言った』と真剣です。
日が経つにつれ気のせいか、少し足が伸び、膝が開くようになったとき、信心に反対だった主人が進んで御授戒を受けました。しかし、短気な主人はすぐに酒に溺れ、ある日先生に食って掛かりました。『修は治ると言ったが、いつ治るのか』、先生は『あなたと奥様、そして修君の懸命な祈りで治りますよ。私も祈ってます』、すると『へぇー、修がもし歩いたら、俺は芦屋中を逆立ちして歩きますぜ』と悪態をつく始末。(先生に何て失礼なことを…)私はハラハラしながらも、不安が心をよぎりました。しかし、先生の確信は少しも変わらず『修が可愛くないのか!』『あなたは親でしょう。修君の将来を考えて御覧なさい!』と、涙を流さんばかりの指導と叱責に、主人も私も心を打たれ、襟(えり)を正して信心に取り組みました。
そして修の右足が5寸ばかり伸びたとき、さすがの主人も泣きながら御本尊様に御礼を申し上げ、すぐにお寺に報告へ。先生は御自分のことのように喜ばれ『もう少しの辛抱。あとは折伏です』との激励に、自信を得た主人は友人を折伏、入信させました。私も必死で、折伏に歩きました。でも、行く先々で『まず、お宅の修ちゃんを治したら』『修ちゃんが治ったら入れて戴くわ』(駄目だ…)泣きながら帰って報告すると、『それで罪障が消されるのです。明日からは修を連れて折伏しなさい』との厳しい指導に、地区全員が起ち上がり、唱題・折伏の応援をしてくださいました。
お寺はちょうど御授戒の最中、大勢の人の前に行こうとする修が目に映った時、先生の御授戒の言葉がかすれ、涙が溢れました。先生は我が子のように『修、よかったな、歩けるようになって…』と強く抱えられ、大勢の参詣者も、泣いて喜んでくれました。こんな不幸を背負って生まれた修が、御本尊様への信心で、見事に全快できたのです。
『本当に、あの子が歩けるんですか?』 それ以来、大勢の方が訪問され、誰もが御本尊様の大功徳に驚いています」(以上、『法霑寺時報』より)
過ぎし昔、失職、病気、人生に行き詰まり、絶望の淵に立たされ、無情に吹き荒れる宿業の嵐の中で、誰もがあの上野殿や四条金吾、池上兄弟を我が身に思い浮かべ、法友の激励、師の指導に涙しながら身読した金言の一句一言…そして懸命の折伏によって得た現在の果報を思うとき、「受持即観心」こそ信心の根本・原点であることを忘れてはなるまい。
平成14年・慶祝30万総登山も、一人ひとりの闘いを御法主上人猊下の、「名実ともに必ず成就なさしめ給え」との一点に合わせ、大御本尊の仏力・法力を信じ、折伏・育成に邁進するならば、30万、否、40万、50万の大海・須弥山となること、御金言のとおりである。
さあ、明年はその勝利を目指しての「出陣」である。各支部先陣を競って勇猛出陣しようではないか!
※法雲寺支部の折元さんの御協力で転載いたしました。
☆ インドで海外部長講演会
セミナーは、スジャータ・ラガバン書記の開会の辞の後、スマン・ガルグ議長が挨拶に立ち、日本から海外部長を招いて、永遠性と世界性を持つ仏教の真髄である法華経に関しての講演がいただけることへの感謝の意が述べられた。続いて、このたびのセミナーの講演に立たれた海外部長は、釈尊の八相成道と日蓮大聖人の法華経弘通について英語にて講演され、末法においては妙法蓮華経の大法をもって信仰の指針となし、その実践をすることが大切であることを話された。この時期のインドには珍しい長雨と開式前の激しい雨にもかかわらず、集まった参加者の皆真剣なまなざしで講演に聞き入っている姿は印象的であった。
次いで、講演の後、一般聴衆者の代表として、インド最高裁の弁護士・ラケーシュ・ディベディ氏から祝辞があり、講演を賜ったことに対するお礼と、仏教が日本を通じて故郷のインドに帰ってきた意義についてヒンズー語で述べられた。この後、質問会が行われ、題目の意味、経文の内容、修行についてなど多数の質問があり、海外部長により判り易く答えがなされた。また、デリー大学のブダニー教授より法華経の翻訳について説明があった後、ヒンディー語・ウルドゥー語による仏教の入門書の発刊の要望など、様々な意見が取り交わされ、午後7時半、講演会は終了した。
また、前日16日の午前8時半より、スマン議長宅にて、海外部長の導師により御本尊御遷座式が行われた。これは平成6年の第1回目の出張御授戒以降、「インド法華経仏教会」の会場として提供されていた2階の仏間が、このたび増改築がなされ、約2.5倍の広さの会場となったことに伴って行われたものである。この御本尊御安置の新たな会場は、インド広布にかけるスマン・ガルグ議長の日ごろよりの思いがこめられており、床は一面に大海原を思わせる緑の大理石が敷き詰められ、御宝前の部分には白大理石で6枚の見事な蓮華が描かれており、随所にさまざまな工夫のあとが見られる立派なものとなっている。
また今回の出張では、18日に本年度で3回目の御授戒・御本尊下付が行われ、新たに4名が入信し、3名に御本尊が下付された。さらに、21日までの滞在期間中には、きめ細かい個人指導や家庭訪問などか行われた。これにより、今後インドにおける本宗布教のさらなる発展と「インド法華経仏教会」の現地メンバーによる信仰活動がますます強固なものとなり、この広大なる国土に正法の流れをさらに通わしていくことであろう。
☆ スウェーデン 一粒種から20名のグループに
1994年(平成6年)元日の午前零時に私たちは一緒に元朝勤行を行い、スウェーデンの広宣流布のために御祈念をしました。それからは、私たち5人は普段の勤行とは別に、スウェーデンの広宣流布のための勤行をはじめ、さらに毎日1時間の唱題を真剣に行いました。そのような中、共に励んできた友人たちが御授戒を受けるにはどうしたら良いかを相談するため、以前から縁あるブラジルの一乗寺に連絡を取ったところ、スペインの妙昌寺の住所を紹介していただきました。さっそく1月中に、友人と一緒にスペインへ行き、妙昌寺において御授戒と御本尊の御下付をいただきました。御授戒の後で御住職・山田容済御尊師は「現在、スウェーデンには、あなた方5人の他には、日蓮正宗信徒はおりません。海外部と連絡を取り合い、スウェーデンの広宣流布のために真剣に題目を唱えていってください」と御指導してくださいました。
スウェーデンに戻ってからも週に1回会合を開き、スペインからいただいた教学の資料を勉強しました。3月に友人の1人が、そしてもう1人の友人が9月に、妙昌寺にて御授戒並びに御本尊御下付をいただくことができました。唱題に励む中、皆で登山をしようと決意し、12月には4人が大石寺に参詣できました。総本山滞在中は、海外部主任の中本代道御尊師から、日常の信心活動においての様々なアドバイスと暖かい激励をいただきました。一同は初めて見る富士山の雄大さに感激しつつ、スウェーデンの正法流布に胸をふくらませ帰国しました。
1995年(平成7年)に私は婚約者と引越しをしました。交通の便も良くなり、より多くの人たちが毎週水曜日に行っている会合に参加するようになりました。私たちは海外部から毎月『日蓮正宗マンスリー』や、時局に関する資料などを送っていただき、会合で有効に活用しています。私たちのグループはやがて、友人や家族を通して少しずつ大きくなっていき、次第にたくさんの人たちが会合に参加するようになってきました。こうした中、8月には海外部より、新しくスウェーデン担当になられた石田演道御尊師の御紹介とスウェーデン出張の発表があり、皆早く御尊師にお会いしたいと思っていました。やがてスウェーデンでの活動と信仰の姿勢は大きく改善されて行きました。その後、石田御尊師がスウェーデンへ出張されるたびに新入信者の御授戒をはじめ、信徒宅での会合・家庭訪問を通して、正しい信仰の姿勢を教えていただきました。今の私たちの課題は、正しい仏法をいかに人々に伝えていくかということと、国内の遠隔地に住むメンバーとの連絡、そして有意義な活動をどう展開していくかということです。
10月にはスウェーデンのSGIが私の住所と電話番号を入手し、首脳幹部である1人の女性が私たちの会合にやってきました。私は仏道修行に対する正しい姿勢を彼女に質問し、本当の信心とは見せかけの信心ではないことを訴えたところ、この幹部は何も答えることができませんでした。翌11月に行われた石田御尊師の出張の際には、何らかの妨害があるのではないかと注意しておりましたが、毎朝、私の家に執拗な電話がかかってきた他は何もなく、御授戒並びに会合を無事、行うことができました。
今年の8月に私たちのうち4人は、初めての海外信徒総登山にスウェーデン信徒として登山をさせていただくことができました。私たちは多大なる激励を受け、世界中の多くの信徒に会える好機に恵まれました。そこで日蓮正宗の、日蓮大聖人の仏法の素晴らしさを感じることができました。同じ信心を根本としながらも、人種・発想の異なる人たちに会えたことは大変良かったと思います。
現在では毎週、2時間唱題会と勉強会との2回の会合を開き、グループも約20名になりました。私たちは今、できるだけ早くスカンジナビアの地に御僧侶をお迎えして、ノルウェー・デンマーク・フィンランドの日蓮正宗の信徒たちと共に、広宣流布に向けての前進を続けていくという目標を持って互いに励まし合っています。海外部をはじめとして、ノルウェー・スペイン・イギリス・アメリカ合衆国からの多大なる御支援に深く感謝申し上げます。
(スウェーデン信徒 パブロ・アルバレス)
※原稿は法雲寺支部の折元さんの御協力で転載いたしました。
○ 73歳、更なる折伏育成に飛び回る 法恵寺支部 河本光子
52年路線のとき、聖教新聞のでたらめな宗門批判の記事に愕然とし、早速、法恵寺に参詣して、前御住職・秋山日浄御尊能化から3時間にわたって学会の間違いを伺いました。あれ程、池田と創価学会を信じきっていたのに、騙されていたことを知った私の驚きは大変なものでした。脱会してからは「恩知らず」「裏切り者」呼ばわりされながらも、真実に目覚めて晴れ晴れとした心で毎日活動していました。このとき脱会した人たちが集まって法恵寺支部が結成され、早いもので20年が経ちます。この20年間、ずっと支部の会計を務めさせていただいております。
一安心していると、今度は私に心臓の欠陥があることが判りました。すぐに入院して心臓カテーテル検査を受けると、20分もしないうちに急に手がしびれ、吐き気がして息苦しくなり、意識までもうろうとして何も判らなくなりました。すぐに集中治療室に運ばれたそうです。そしてそばに付いていた娘は「今夜が山です。知らせる所があったら、今のうちに知らせてください」と言われたそうです。3日間生死の間をさまよった後に私の意識が戻った時は、お医者さんが「奇跡ですね」と言われました。気が付きますと、親族一同集まって、皆で御題目を唱えていてくれました。
との御金言のように御本尊様の功徳により、不思議にも生き返ることができました。
しかし、この検査の結果、大動脈も小さい血管も一杯詰まって、このまま置くと心臓が腐ると言われ、1ヶ月後、今度は熊本中央病院に入院し、7時間にわたる手術を受けました。胸の血管と足の血管を抜きとって心臓にはりつけるという大手術にもかかわらず、熱も出ずに順調に血が通うようになりました。御住職は熊本まで足を運んで激励してくださり、支部の皆様にも温かい言葉をかけていただき、同志の有り難さが身にしみました。少しずつ歩けるようになったときは、本当に夢を見ているようでした。集中治療室から6人部屋に移される頃には、すっかり元気になり、有り難くて御報恩のためにも一人でも多くの人に折伏しようと決意し、ベッドの上で御守御本尊様に唱題していると、どんどんやる気が燃えてきました。
同室の方全員に私の体験を話しました。特に西山さんは、なかなか熱が引かずに苦しんでおられるので、なんとか救ってあげたいと思い、真剣に唱題し御本尊様の御力の素晴らしさを訴えました。何回か話すうちに自然と心を開いて聞くようになられ、2人で屋上に上がって題目を唱えました。すると不思議にも熱が下がり、付けっぱなしだった点滴も外せて自由になれ、とても喜ばれました。「帰ったら、私も絶対に信心します」と、固く約束されました。あのときの喜びは忘れられません。そうしているうちに私もすっかり元気になり、40日足らずで退院でき、お寺の御本尊様の前に座ったときは、有り難さに涙があふれてしかたがありませんでした。
その中で、園田さんご夫婦が、会社が倒産して大分から荒尾に引越して来られたことをお聞きしましたので、唱題会の後、婦人部長と2人で折伏に行きました。始めは他人事のように聞いておられた園田さんも、2回、3回と行くうちに私たちの真心が通じたのか、だんだん耳を傾けられ、先に奥さんが納得されました。ご主人は「おまえが一人で信心するのなら、やってもいい」と言われましたが、奥さんは「主人と一緒でないとできません」と、強く言われます。なかなか真剣に聞こうとしないご主人を説得し、やっとの思いでお寺にお連れできたときの喜びは、言葉では言い表せませんでした。早速御住職にお話していただき、ご夫婦揃って御授戒を受けられ、無事御本尊様を御下付戴けました。
また、3月の客殿新築慶祝記念大法要には、5時間唱題を続けて私が折伏した方を3人、初めての登山をさせることもでき、今までにない大歓喜の登山でした。9月9日には、かねてより折伏していた坂田さんが御本尊様を御下付戴き、竜の口法難会に一緒にお詣りできました。
『新池御書』に、「始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬へば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り、歩(あゆ)みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め候べき。何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(御書 1457ページ)とございます。
この会場には、70歳以上の方も多数いらっしゃると思いますが、信心には年齢は関係ないと思います。現在、私も73歳になりました。これからは、秋山堅栄御住職の御指導どおり、「今までがんばってきたから、もうゆっくりさせてもらおう、などという甘えを打ち破り」一番大事な時に少しでもお役に立てる身の福運を有り難く思って、命の続く限り、自分でつかんだ唱題の無限の功徳を、一人でも多くの方に訴えていく覚悟です。御法主上人猊下に信伏随従し、秋山御住職のもと、黒田講頭を中心に、支部の母体である婦人部の一員として、来る法華講30万総登山に1400名の参加を目指して、精一杯がんばってまいることを皆様の前でお誓いし、発表を終わらせていただきます。
そして4日後の7月10日には、御住職の御配慮をいただき、まず身内からと、富士市に住む姪と、お医者様から残り少ないわずかな命を宣告された姉に勧誡式を受けさせていただきました。姉が多少でも命を長らえることができ、安祥として霊山浄土へと旅立てましたのも、御本尊様の御加護と感謝申し上げる日々でございます。9月7日の支部総登山には、初めて姪と一緒に参加させていただき、御法主上人猊下の御慈悲によって御開扉を戴ける幸せを心から感謝申し上げ、生涯、常に清らかな水が流れるような自行化他の信心の実践を、お誓い申し上げてまいりました。
西村さんの奥様は、左大腿骨に人工骨移植の大手術を受け、足を使われた後は疲労がとても激しいそうです。その厳しい状況の中で、下種活動を常に忘れることなく、ご主人のご協力を得て愚痴も言われず、喜んで信心を求めて、御講参詣、会合に参加されるお姿を拝見し、その求道心には頭が下がる思いと同時に、私たち婦人部への大きな励ましとなっております。
御住職の「自行化他にわたる唱題と、一人が一人の折伏を実践することです」との御指導をしっかりと受けとめ、西村さんと下種活動を地道に実践いたしておりました。まもなく西村さんの友人より、学会活動を止めて2年程になる吉村さんを紹介されました。「御本尊様、西村さんの『折伏したい』という願いを是非叶えてください、一日も早く寿照寺にお連れできますように」と真剣に唱題を重ねました。御本尊様への願いは見事に成就し、本年5月15日、西村さんは、吉村さんを折伏なさいました。入講間もない吉村さんは、早速10年来のお友達の加藤さんに、夜の明けるのも忘れ、はやる心をありのままに真剣に話され、加藤さんは5月28日に入講されました。さらに6月4日には、10年来の友人である木村さんを折伏、御本尊様を御下付戴き、無事に入仏式を済まされました。西村さん、吉村さん、加藤さん、木村さんが、正しい信心のもとに寺院に参詣され、御住職の御指導のもとに、共々に幸せな境界を築かれるよう、お手伝いさせていただきたいと思います。
大きな結果を出せた折伏の陰には、御住職の御指導と、毎週行われている火曜唱題会における僧俗一致の折伏を御祈念しての真剣な唱題行、同志の励ましがあったことは申すまでもございません。支部の方々と異体同心で、広布へのお手伝いを少しなりともさせていただける御報恩の信心をお誓いする毎日です。
また6月6日、7日には初めての夏期講習会参加ということで、2日間を信心根本で過ごさせていただけるように御祈念いたしました。日蓮大聖人伝・折伏の大事・法華講員の心得の三つの講義を受け、改めて「信行学」に励み、信徒としての自覚を持ち精進していかなければと決意いたしました。2日目は客殿の最前列で御法主上人猊下の御講義を拝聴することができました。広宣流布への使命感を心に誓った、あっという間の2日間でした。
私が創価学会を脱会し法華講員となってから、6年になります。その間、当時まだ学会員だった主人の両親に、機会ある毎に御宗門の正しさ、学会の誤りを訴え脱会を勧めてきましたが、それも思うようにいかず「少しずつ折伏をしていけばいいか」などと、甘い考えで時間ばかりを費やしていました。そして昨年のお正月、山梨に住んでいる主人の実家へ行ったときのことです。御題目三唱をしようと思い仏壇の扉を開け手を合わせ御本尊様に向かったとき「何だか御本尊様が変だな」と、思わず恐る恐る手を掛けてしまいました。以前御住職より『ニセ本尊』を見せていただいたこともありましたので確かめずにはいられなかったのです。そしてそれは、鮮明なカラー刷り印刷そのものでした。そのときのショックはハンマーで頭を殴られたかのような感じで口からは心臓が飛び出さんばかりでした。しかし義母にそのことを確かめる勇気が持てず、その日はそのまま自宅に戻って来てしまいました。
父の死に当たり、父の兄弟、親戚に創価学会を脱会したこと、そして今は日蓮正宗のお寺について信心を続けているなど伝えると、今まで信心のことには耳を傾けようとしなかった8人の兄弟たちの態度も変わり、残された私たち家族のことを心から心配してくれるのでした。そして通夜と告別式のとき、私の座っている後から父の兄弟が1人、2人と大きな声で「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と唱え始め、私は「お父さん凄いよ。おじさんやおばさんたちが、お父さんのために御題目を唱えているよ。お父さん良かったね。本当に良かったね。これがお父さんの折伏の姿なんだね。お父さんって本当に素晴らしい人だったんだね」と心の中で思ったら、父を亡くしたという深い悲しみの涙から、うれし涙に変わっていきました。
通夜の午前3時頃、皆眠りにつき、なぜか私一人だけが起きていました。導師御本尊様がまるで私のために、父と2人きりの時間を作ってくださったのかと思えるほどでした。私は父の亡骸(なきがら)にすがって涙し、最期の別れをしながら導師御本尊様の前に座り、心ゆくまで唱題しました。その姿を叔父が見ていたそうで、後でその叔父が私に「もしも自分が死んだとき、私の娘もこのように泣いてくれるだろうか。奈津江が死んだ父を想うように私の娘もこんな風に想ってくれるだろうか。この宗教はどこか違うのではないか」と、今までのこと、現在の悩みなどを打ち明けてくれました。私は叔父に「子どもが親を想う気持ちは皆同じですよ」と話し、叔父をこのような気持ちにさせたのもきっと父のお陰なのだと、これが父の折伏の姿なのだと思いました。
また私の主人の両親も以前、学会の友人葬にいくつか出席したこともあったそうですが、日蓮正宗本来の姿で執り行われた葬儀に参列したのは今回が初めてで、父の成仏の姿を見て感動し、自分たちの将来のことを考えられたそうです。私は「折伏の時が来た。今がその時だ」と確信し、ただひたすら父の供養と山梨の主人の両親のこと、この2点に祈りを定め唱題してまいりました。
そして昨年3月15日、父の四十九日のために我が家を訪れていた両親をお寺に連れて行き、御住職より今の創価学会の姿、そして日蓮正宗の正しさなどを話して、破折していただきました。翌日の朝、納骨式に出かける直前、急に義母が「お父ちゃんとお母ちゃんと2人揃って脱会するよ」と言い出し、なんとその場で脱会届を書いたのです。次の日御住職のもとへご報告に行きました。そして御住職の御計らいで山梨県にある大教寺にて勧誡式を受けられるようにしてくださいました。
それから3月24日、主人と両親と私の4人で学会にいたことへの罪障消滅と、法華講員とさせていただいた喜びと感謝の思いで、御登山させていただき、大御本尊様に御内拝をさせていただきました。母は総本山大石寺を見て、学会が言うところの野良犬がたくさんいる、雑草だらけなどがすべて嘘と気付き、一日も早く御本尊様を御下付戴きたいとそればかり申しておりました。そして4月27日に念願の御本尊御下付、入仏式となりました。私も山梨の両親もこの日をどんなに待ち望んでいたことでしょう。私はこれから先、山梨の両親と共に信心をしていけるという何よりの喜びと、また、年頭に掲げた折伏も昨年5月3日の華光寺支部総会を目前に達成できた喜びを体中で感じることができました。
そして葬儀のとき受験した中級試験に母が合格し、さらに葬儀の2週間後、主人が会社の管理職試験に挑戦し、見事合格できました。脱会したものの、信心につけなかった東京に住む私の弟も、父の葬儀を通じて発心でき、この度晴れて御本尊様をお迎えし御安置申し上げることができました。母もまた、亡き父の弟を折伏し勧誡に導くことができ、一つひとつ実証が示せたことを確信させていただきました。
▼ 『コーヒーカップ骨壷事件』、最高裁で持経寺の完全勝訴が確定
これに対し、寺院側は遺骨管理は正当に行われていたとして控訴していたが、本年6月に高裁判決で逆転の勝訴判決を得た。これは、学会員の主張する納骨堂の立て替えの時期には、問題のコーヒーカップに描かれたキャラクター(ウサギ)の絵柄はまだ存在していないことが判明したためで、学会員らの供述がにわかに信用出来ないことが明らかになったからである。
10月17日、最高裁判所は高裁での逆転判決を不服とした学会員らの上告を棄却し、日蓮正宗持経寺の前面勝訴が確定した。すなわち、真相は学会員らが遺骨を引き取ってからの5分間に、遺骨がコーヒーカップに移し替えられたということであり、本事件が創価学会による謀略であることがはっきりとした。
問題の遺骨は、遺骨の入った『骨袋』をさらに円筒形の木製容器に入れて保管・返却されたが、同学会員は「遺骨は素焼きの壷に直接いれていたので違う(『骨袋』は用いていない)」旨、訴えていた。また、学会機関紙(あるいはホームページ)が総本山の杜撰な遺骨管理の証拠などとして、宗門攻撃の材料としていた。
一審で、『骨袋』が故人の火葬を行った葬儀業者で扱っているものと一致することが判明したため、裁判所は「本人の遺骨に間違いはない」(旨)との判断を下し、日蓮正宗大石寺が完全勝訴していたが、創価学会員は判決を不服として控訴していた。今回の高裁判決は一審判決を支持するもので、総本山の遺骨管理には何ら落ち度はなかった。
※記事は大白法のものと異なります
法霑寺住職 秋山日浄御尊能化
私の好きな11月が、またやって来た。それは11月が、日目上人の御祥月にあたるから好きなのだ。日目上人といえば、天奏42度といわれる「折伏の仁」「行体堅固」の人。「信心は日興上人、行体は日目上人を見習え」と、小僧時代よく言われたものである。
昭和30年、はじめて住職として赴任し、学会に負けるものかと、わずかの法華講員を引き連れ、日夜折伏に励んでいたある日のこと。霊友会の一婦人が、兵庫県芦屋市での座談会に6才の男の子を抱いて出席していた。「実はこの子は…」との、母親の説明を聞くまでもなく、無惨に畳を這(は)う哀れな子供の姿に、私は「邪宗を捨て、日蓮正宗に入信すれば良くなります、絶対に!」と断言した。その日から3年間、この親子と私たちは、病魔と闘い、祈り、折伏を貫いた。その結果は、母親の体験談を御覧いただくほうがよい。
私たちが大聖人の仏法を信じ奉る所以(ゆえん)……それは、この御本尊に我等凡夫を一切の不幸から解き放ち給う無上の仏力・法力があらせ給う故である。その証に、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」(御書 653ページ)と。すなわち久遠以来、仏が難行苦行して積まれた無量の功徳すべてが、この御本尊に具(そな)わっているとの御教示である。これを私たちは、信の一字で労無くしていただけるのであり、「無上宝聚(むじょうほうじゅ) 不求自得(ふぐじとく)」(新編法華経 199ページ)とは、この意である。
仏教発祥の国インドにおいて、去る10月17日午後5時半より、インドの現地法人である「インド法華経仏教会」(ロータス・スートラ・ブディスト・アソシエーション)主催による仏教セミナーがニューデリーのスマン議長宅の会場で開催された。これには日蓮正宗宗務院より海外部長・尾林広徳御尊師、海外部主任・石田演道御尊師、法華講妙源寺支部・戸沢健次氏(愛媛大学教授)、他現地のメンバー及び一般聴衆者等約50名が参加し、盛大に行われた。
日本の法華講の皆さん、こんにちは。北欧の森と湖の国スウェーデンからの活動リポートです。私は、1993年(平成5年)にスウェーデンにやってまいりました。その頃の私は2人の友人と一緒に首都ストックホルムのアパートに住んでいました。そのうちの1人は、私の信仰や仏壇、そして御本尊についていつしか好奇心を持ち始めましたので、その友人を折伏しました。それから私たちは毎日の勤行・唱題を欠かさず行い、さらにもう3人の友人を折伏することができました。
私の入信は、昭和32年6月、創価学会を縁としてです。入信したその日から、主人のひどい反対を受けました。しかし「この御本尊様は本当に素晴らしい」という体験を何度も重ねるうち、反対されればされるほど信心に燃え、折伏に、会合にと家を空けては暴力をふるわれましたが、それでも学会活動に飛び回っておりました。
さて、平成6年4月、主人は理容業を止めて店を譲り安心したのも束の間、たったの1ヶ月で脳卒中で倒れて即入院、2週間も生死の間をさまよい、眠れない日が続きました。すぐに秋山堅栄御住職の御慈悲で御秘符を戴くことができ、また、子供たちと一緒に必死で唱題を続けた結果、5ヶ月で無事退院することができました。左半身不随になりましたが、入院中、病院のベッドの上で勤行を始めるようになりました。信心を嫌っていた主人が生死の境で御本尊様の功徳を感じ信心に目覚めたのは何よりの喜びです。そして主人は、支部の皆様の御協力を得て車イスで地涌六万大総会、支部総登山会にも参加させていただきました。今では、毎日朝の勤行を終えてからリハビリに通い、だいぶ歩けるようになりました。
現在私は、朝夕の勤行・唱題で「折伏のお手伝いをさせてください」という祈りを欠かさず、班長として毎日車を運転し、家庭訪問に折伏に、元気に動いております。
○ 眷族集う御報恩の折伏 寿照寺支部 瀬長節子
私は、三大秘法の御本尊様に巡り値えたことが、どんなに有り難いことなのか心の底から感じることもできない宿業の深さに気付かず、長い年月を本当に無為に過ごしてしまいました。そんな日々の中で、ときどき寿照寺へ参詣していたご縁で、平成8年1月19日に、竹田講頭さんから法華講へ入って信心をしていくようにと折伏されておりました。御報恩のできない自行だけの信心を長年続けてきたために、正法につかせまいとする障魔に完全に取り込まれ、入講させていただく決意がなかなかできませんでした。矢のように日々が過ぎていくうちに、一日も早く正しい信心をと見守ってくださっている御住職と法華講の皆様に申し訳ないという気持ちが募ってきて、御指南どおり素直に御報恩の信心をさせていただこうと決意し、平成9年7月6日、勧誡式を受けさせていただきました。本当に決意が遅すぎましたが、新しい出発をさせていただけたことに心から感謝いたしております。
御講参詣、唱題会、会合、ご奉仕に参加する中、以前から折伏していた隣の西村さんご夫婦が脱会、9月15日に入講なさいました。大聖人様の御遺命である広宣流布への信心を共にできる喜びは、本当に感謝の気持ちで胸が一杯になる程でございました。御住職をはじめ、僧俗一致の祈りのこもった唱題のおかげと改めて心から感謝申し上げ、御報恩の信心に励むことを御宝前でお約束いたしました。
本年4月3日、客殿新築慶祝記念大法要・10万総登山に姪と参加させていただきました。こんな有り難いことがあるのだろうかという思いで大御本尊様に御内拝を戴き、一層の折伏行を心の底からお誓いいたしました。10万総登山に間に合って本当によかったと感謝感激の一日でございました。
折伏は慈悲を根幹に真剣に祈りをこめて実践してまいります。日々の信心を常に反省しながら、支部の皆様と共々に、寿照寺支部3指針の「正直な信心 明るい信心 清らかな信心」を根本に活動してまいりたいと存じます。寿照寺をお守りしていける信徒になることが、総本山をもお守りし、広宣流布への道と確信し、一層の精進をしてまいります。私の周りにも洗脳されきった学会員がおりますが、一日も早く謗法に気付いてくれることを願っております。
今生人界の思出なるべき」(御書 300ページ)
○ 父の臨終に親族が感動、脱会 華光寺支部 武藤奈津江
皆様こんにちは。昨年1月23日に私の父が脳出血のため他界いたしました。59歳でした。本来なら翌日、病院で造影剤を使って脳の血管検査をするはずでした。本当に突然の死でした。本日は、その亡き父の臨終について感じたこと、また主人の両親を折伏できましたことを少し話させていただきます。一番強く感じたことは、日蓮正宗で良かった、信心をしていて本当に良かった、そしてこれからは菩提寺である華光寺をお守りし、御住職の御指導のもと、言われたとおり素直な心でしっかり信心に励んでいこうと決意できたことです。
それからは毎日悩みながらの唱題でしたが、いつしか決意が定まり義父母に対する本格的な折伏が始まったのです。私は母に相談し、また浅井御住職より御指導をいただきながらの折伏への挑戦となりました。その矢先に、突然私の実家の父が亡くなったのです。ちょうどそのころ私の母が中級試験に向かってお寺での勉強会に昼夜毎日のように通っておりました。そしてお通夜の日が試験日に当たり、午後6時から始まるお通夜までまだ時間があるからと母を試験会場へ送り出し、その間の準備は残された家族で対応し、お通夜を迎えました。
それから告別式、初七日も無事終わり、帰り際、華光寺の受付で「この経本には凄いことが書いてあるよ」と言いながらお経本を買って帰る他の兄弟の姿もありました。御住職が言われたとおり「葬儀の場とは故人ができる最後の折伏の場である」という姿そのものでした。父は生前、お酒が入ると酒乱になり、いつも家族は泣かされていましたが、臨終には「お父さんやったネ」という、信心の最終目的である、立派な一生成仏の姿だと思いました。
事件は持経寺が学会員より、「遺骨をコーヒーカップで保管していた」として訴えられていたもので、一審が不可解にも寺院側敗訴になったこともあり、創価学会が機関紙等で盛んに報道し、宗門誹謗中傷の材料とされてきた。
▼ 福岡高裁、学会員らの総本山遺骨管理訴訟を棄却
北九州市に住む創価学会員が、総本山大納骨堂に納めていた夫の遺骨を引き取ったところ、「別人の骨を返された」(旨)として大石寺を訴えていた事件で、10月28日、福岡高等裁判所は、学会員の請求を棄却する判決を言い渡した。