大白法

平成13年7月1日号


主な記事

<1〜7面>

<8〜10面>


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奉安堂7月1日(23Kb)



大円寺復帰報告法要

6月9日、神奈川県大和市の大円寺において、大円寺復帰奉告法要並びに第2代住職・野村雄安御尊師の入院式が厳粛に奉修された。平成11年9月9日、同寺住職であった佐藤伴道が不法な手続きのもとに宗派離脱を画策し、大円寺を不法に占拠した。このため、御法主日顕上人猊下の御慈悲により、大円寺の信徒は一時寿照寺に籍を置き、平成12年6月24日には同寺信徒の依所とすべく、大円寺事務所が開設された。この間、僧俗一致・異体同心の団結をもって唱題・折伏弘教に励む一方、一日も早く大円寺を奪還すべく、平成11年12月27日に横浜地裁に提訴。一年余の審理を経て、本年3月13日、横浜地裁は佐藤に対し、仮執行宣言を付して、大円寺の明け渡しとともに、平成11年12月の住職罷免の日から寺院明け渡しに至るまでの間、月額64万8千円の割合による賠償金支払いを命ずる判決を下した。この判決により、佐藤は控訴を断念し、寺院明け渡しが確定した。

大円寺では、6月2日午前10時より、宗務院から派遣された庶務部・渉外部の御尊師方、弁護士、これまで大円寺事務所住職の任に当たられてきた野村御尊師が、布教区内の住職方立ち会いのもと、不法にも寺院を占拠していた離脱僧・佐藤伴道の代理人(弁護士)から、御本尊、土地・建物、什器備品等を財産台帳をもとに一つひとつ確認し、納骨堂の遺骨も確認され、明け渡しの事務手続きが終わり、1年9カ月ぶりの返還が完了した。また、この日より講中総出で大掃除を行い、一週間後の復帰奉告法要並びに入院式に備えた。

法要並びに入院式は9日の午後2時より奉修され、これには神奈川布教区支院長の護国寺住職・土居崎慈成御尊師、同副支院長の久遠寺住職・木村真昭御尊師をはじめ布教区内の御僧侶方が御出席。また、関野洋夫神奈川地方部長をはじめ信徒多数が参列した。

式は、野村住職の御導師により、献膳、読経・唱題と奉修された。次に宇海茂講頭より大円寺復帰に至るまでの経過が報告され、続いて、土居崎支院長、関野地方部長、柴田勝重総代よりそれぞれ祝辞が述べられた。土居崎支院長は祝辞の中で、大円寺落慶法要の砌の御法主日顕上人猊下の御言葉等を引かれて、大円寺の新たな出発に当たり、さらなる僧俗和合・異体同心の信心をもって、明年の30万総登山達成に向けて、身命を賭した活躍を念願された。最後に、野村住職より参列の各位に対して丁重な謝辞と今後の決意が披涯された。この後、本堂において記念撮影が行われ、法要の一切が終了した。



『法華講の使命』 総講頭・柳沢喜惣次

柳沢総講頭 皆さんこんばんは。明年はいよいよ、待望の宗旨建立750年であります。我等法華講は、平成6年・地涌六万大総会以来、御命題の30万総登山に向かっては、一日たりとも忘れることなく、信行に励んでまいりました。また本年は、いよいよ奉安堂建設御供養も最終回となり、まことに本年は大事な年であります。そこに、記念局は4月から「30万総登山達成推進僧俗指導会」も、3つのクループに分かれ、全国78会場を5月までに終わらせ、9月以降は、大布教区単位で8力所を回る予定であります。また、布教区内の僧俗協議会も、新しく地方部長さんが加わり、行われてまいります。

今、この2年間を振り返り、明年に向かって法華講のやるべきことは、『折伏』、『30万総登山』、『奉安堂の御供』養の3つであり、そのことについては十分に言い尽くされ、後はただ実行するだけであります。そこで、このような形で皆さん方にお目にかかれるのも、これが最後になると思いますが、今夜の私の課題は、「法華講の使命」であります。

本題に入る前に、2点程、先に申し上げてから入っていきたいと存じます。第一点は下種仏法の使命は、これは折伏であります。一生をかけてこの使命・折伏の遂行が、そのまま下種仏法の修行であり、その行の中に、自らの罪障も消滅し、祈りも叶い、また、無量の利益が生ずるのであります。二点目は釈尊の脱益の仏法と、下種仏法とは、根本的に仏も違い、衆生も、また、修行も違うのであります。このことを大聖人様は、『観心本尊抄』に、「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字」(御書656ページ)と仰せられるのであります。故に一生の生活に、その果報・報いが違ってくるのは当然であります。


<法華講に言い付けられた三つの使命>

そこで本題に入りまして、私はこの使命という言葉には、なんとなく、響きのいい割には“違和感”を持っておりましたが、昨今、この言葉の本義がよく判ってまいりました。それは、この言葉には、邪宗・邪義・外道の輩は故意に自らの野心をすり替え、それをまた誇張し、無智の大衆を扇動してきた歴史があるからであります、そこで、法華講の使命・折伏に当たって大事なことは、この、『使命』の言葉の意味を正しく知っていくことであります。本来この使命とは、王の御本から使いに出される者、すなわち使いに行く者が、主君から命ぜられた、その“言い付け”のことであります。

大聖人様は、『選時抄』において、「仰(そもそも)法華経の文に『我身命を愛せず但無上道を惜しむ』と。涅槃経に云はく『譬へば王使の善能(よく)談論して方便に巧みなる、命を他国に奉くるに寧ろ身命を喪ふとも終(つい)に王の所説の言教を匿(かく)さゞるが如し。智者も亦爾なり。凡夫の中に於て身命を惜しまず、要必(かなら)ず大乗方等如来の秘蔵一切衆生皆仏性有りと宣説すべし』等云云」(同871ページ)。また、『如説修行抄』にも、「法王の宣旨(せんじ)背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起こし」(同671ページ)と仰せられております。ここに、私は大聖人様の御振る舞いを拝し奉って、使命ということがよく判ってきたのであります。

使命とは一体、誰人の使いなのか。また、そり言い付けとは何かということであります。そこで下種仏法の使命とは、これは、釈尊が説かれた脱益の仏法は末法においてはすべて無益であること、このことを「はっきり」と書い切っていくことであります。これが折伏であります。我等は、この折伏の根本義を、一人ひとりが身でよく知っていなければなりません。そこに釈尊の仏法・脱益の化導は、末法には祈りも叶わない、また、利益もない、このことを釈尊は、自ら、脱益の利益は御自身の滅後2千年までであると、宣言あそばされ、後は地涌六万の上首・日蓮大聖人様が御出現あそばされるから、この仏様に随順し奉ってそむいくこと、叛(そむ)く輩(やから)は大謗法・堕地獄であることを経文に明言されておられるのであります。

このことおおくを声を大にして、多数の人々に教えていく、そこに末法は下種仏法の利益が盛んに弘まっていく時であり、その利益は世界中の人々の苦悩を救い、またその国土を潤し、衰えていく国家に力を与え、国民に限りない希望と安心を与えていく、それ故に、三大秘法の大御本尊様に題目を唱えさせていくことであります。折伏については、いろいろと悩んでおられる方々が大勢いると思いますが、折伏は今、申し上げるがごとく、下種仏法・三大秘法の大御本尊様でなければだめですよと言い切っていくことでありますが、これがなかなか勇気がないと、また、信心が弱いと言えないのです。それだから言えるようにまた、一段と真剣に題目を唱えていかなければならないのであります。

大聖人様は、御承知のごとく、建長5年4月28日清澄山において題目を唱え始めてから、来年で750年であります。この時から下種仏法が始まるのであります。そこに念仏の信者・地頭の東条景信をはじめ、その一会の聴衆は、南無妙法蓮華経とお唱え奉る大聖人様の下種仏法の御出現に、たちまち騒然となるのであります。怒り狂った地頭は大聖人様を即座に斬らんとするのを、師の道善房がこれを押さえ止めるのであります。そこに末法において題目を唱えていけば、経文のごとく、必ず怨嫉が出てくるのであります。しかしまた、助ける諸天の用きも同時に出てくるのであります。今七百数十年を過ぎて、法華講の我等の使命を考えるときに、その使命とは日蓮大聖人様より金口嫡々の血脈を御承継あそばされる御当代・御法主日顕上人猊下より我等に命ぜられた使命、その言い付けられた、すなわち言い付けとは、それは『一人が一人以上の折伏』、『三十万総登山の実現』、『奉安堂建立』の三つであります。


<第三の使いの折伏行>

そこで、私は3人の使いのことについて、申し上げてみたいと存ます。どういうことかといいますと、大聖人様は、『衆生身心御書』において、「人のつかひに三人あり」(同1213ページ)と仰せられ、一番悪い使いと一番良い使いを判りやすくお諭しくださっております。それは先程の涅槃経の「寧ろ身命を喪ふとも」の御指南のごとく、王の使いの者が、自分の主君の御意にどこまでも忠実で、その使いの内容に自分の考えや言葉を入れてはいけない。相手の王の意に叛き命を奪われるようなことがあっても、自分の言葉や考えを入れてはいけない。そこに、下種仏法の使いは、まさしく命がけだよといことであります。

ところがこの命がけの信心ということが、なかなか判っているようでも、判っていないのであります。大聖人様は、『撰時抄』において、「予が初心の時の存念は、伝教・弘法・慈覚・智証等の勅宣を給ひて漢土にわたりし事の我不愛身命にあたれるか。玄装三蔵の漢土より月氏に入りしに六生が間身命をほろぼしゝこれ等か。雪山童子の半偶のために身をなげ、薬王菩薩の七万二千歳が間肘をやきし事かなんどをも(思)ひしほどに、経文のごときんば此等にはあらず。経文に我不愛身命と申すは、上に三類の敵人をあげて、彼等がの(罵)りせ(責)め、刀杖に及んで身命をうぱうともとみへたり。(中略)此等の経文は、正法の強敵と申すは悪王・悪臣よりも外道・魔王よりも破戒の僧侶よりも、持戒有智の大僧の中に大謗法の人あるべし。されぱ妙楽大師か(書)ひて云はく『第三最も甚し、後々の者は転(うたた)識り難きを以ての故なり』等云云」(同871ページ)と。

そこに我等は、この御指南を拝し奉り、使命を果たすためには、怨嫉のため反対する大きな力に出会っても、命をかけても貫くぞという信心が大事となるのであります。この度の30万総登山も、また奉安堂建設御供養も、誰言うともなく、「たいへんだ、たいへんだ」と言いながら、結構、自分の考えも入れておるようでは、これは御法主上人猊下に対し奉り、一番悪い使いになってしまうのであります。折伏もまた、これと同様であります。そこに、今年の折伏誓願目標2万7077世帯は、これは、全国各支部からの誓願の集計であります。ところが、何か自分一人でやらなければならないように思い込んでいきますと、当然その数に圧倒されてできないという、つまりマイナス思考になっていくのであります。この考えに一人が堕ち込みますと、必ず道連れを何人も作っていくのであります。

先だっての春季総登山会・法華講連合会第38回総会のときの御法主上人猊下の御指南には、「『三十万総登山』達成に向けての折伏は、今回、ここにお集まりになった2万5千の方々が中心となって、法華講員の一人ひとりが一人の方を、つまり一世帯を折伏するならば、必ず『30万総登山』の達成として明らかに成就するのであります」(大白法570号)と、このように御教導を賜るものであります。我等はこの御教導を忘れてはなりません。


<下種仏法の大利益と法統相続>

下種仏法の利益は、脱益の仏法とは天と地ほどの違いがあり、すなわち凡夫が仏に成るという大利益があるのであります。この利益と比べたら、我等一人ひとりの願いはまことに小さな願いであり、どんな願いでも一生の間にはことごとく、皆、叶うのであります。そこに、あの未曽有の国難、蒙古襲来の時、元軍14万を壊滅させた戒壇の大御本尊様の御威光・御利益を、我等法華講は脳裡に刻み込んで知っておかなければなりません。日本の歴史教育では、かつて神風が吹いたように国民は教育されてきておりますが、法界の実相はそんなものではありません。さらに、謗法あれば法界は必ず怒り、あの阪神大震災のごとく、わずか数秒の揺れのために高層建築物が瞬時に崩壊する、そこに下種仏法の利益は、天地を動かし法界を用かす大利益のあることを知って、我等は三十万総登山は必ず実現する、この大確信をもって、一人ひとりが、自らの信仰の寸心を改めて、本年は潭身(こんしん)の力を振り絞って折伏に育成に生活を賭けて、取り組んでいかなけれぱなりません。

また本年は、戒壇の大御本尊様を御安置し奉る奉安堂建設御供養も、第3回(最終回)であります。この奉安堂の規模は、奈良の大仏、東大寺の堂塔よりはるかに大きく、日本一の堂宇になるとのことであります。その壮大にして、気高い姿が、今一つ一つ形を作りながら現れてきております。そこに御供養の功徳は、我等の凡智では計り知ることはできません。故に我等は、力一杯、家族や有縁の人々に至るまで御供養に励まさせ、未来に亘る大功徳を戴かせていくことであります。

御承知のごとく御本尊様には、「有供養者、福過十号(くようあらんものは、ふくじゅうにすぎる)」と御認(したた)めあそばされております。愚鈍な我等にも観ずることは、戒壇の大御本尊様の大慈大悲によって、困ったときには必ず助けられるという安心感と、さらにまた、年と共に観ずることは、一生を通じて晩年の生活は、若いときからの力一杯の御供養の大功徳の積み重ねであり、それ故に御供養は、通り一遍だけのものではありません。このことをよくわき弁えて知っていかなければなりません。利益を戴くが故に、いよいよ御仏に御供養していく志が堅固となり、本人の生活がその後大きく変わっていくのであります。その持続が10年、20年、30年と経て、即身成仏・臨終正念への大果報につながっていくのであります。このことは既に法華講の御先輩方々によって証明されており、そこに、大事な法統相続の実現があるのであります。

これは法華講の使命・令法久住と折伏を遂行してきた、信心の功徳・利益でありますから、当然こうなるのには、最初の人の信心が純粋であり、また、以信代慧の信心でなければなれません。そこに初代の信心は、御供養・御登山・折伏等と、常に下種三宝尊を敬い、僧をあがめ、寺を護る、その信心の御利益が、子供たちの信心を薫発する。2代目からの信心は、初代の築いた信心の母胎の中で、妙法広布を願う御住職のもとに、信行学を励み、自らの生活の行躰行儀をもって、3代目の信心を、生まれたときから、御本尊様の御前で題目を聞かせながら育てていく。その3代が数々の試練を経て、4代目の信心を膜ける頃には、祖父母、孫と、慈念に満ちた法華の生活、すなわち、「世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し」(法華経425ページ)の環境の中で諸天に守られ、信心の鱒もやすやすとできる大果報になっていけるのであります。そこに、時は、何時しか90年から100年を過ぎているのであります。故に我等の信行は、正法広布・広宣流布の信心を忘れていてはならないのであります。もし、これを忘れていれば、その信心は観念となり、長い間には、目には見えないようでも、何時しか魔にたぶらかされ、法統相続はおぼつかなくなってまいります。

本年この「誓願貫徹の年」は、法華講にとっては、まさに重大な年であります。この大事な時の信心は、先程から申しますがごとく、寓月の御講も、御供養も、折伏も、また、家庭訪問も、力一杯励み、仏天の御加護のもと大利益を戴き、明年の慶祝大法要には大勢の眷属を連れ、御法主上人猊下の御もと、法華講三十万総登山を見事に成し遂げ、御法要を立派に厳飾してまいろうではありませんか。今日はいろいろと厳しいことも申し上げてまいりましたが、我等は御法主上人猊下の御霊宝虫払大法会の御影堂における『顕立正意抄』の御説法を、大白法・大日蓮等で何遍も何遍も拝読し、そこに法華講の使命を自覚し、誓願貫徹の本年を力一杯精進してまいろうではありませんか。


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