大白法

平成13年7月16日号


主な記事

<1〜5面>

<6〜8面>


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奉安堂7月16日(40Kb)



体験発表


☆『友人の姿に勇気付けられて脱会』 専正寺支部・佐藤宗一

私の入信は、昭和36年3月、妻の病気で精神的にも経済的にも破綻に追いつめられていましたとき、それを見兼ねた友人が、自分の体験談を通じ「必ずよくなるから、信心してみろ。嘘言わねえから。おれを信じろ」と言われて折伏され、その熱意に動かされて入信を決意しました。そのときは、御供養の300円のお金すらなく、友人に立て替えてもらい、御授戒を受け御本尊様を御下附戴きました。入信してからは、創価学会の幹部の指導のもと、素直に朝夕の勤行、唱題を欠かさず、会合にも一日も欠かさずまじめに信心活動を続けていました。その結果、妻はすっかり元気になり、笑顔を取り戻し、私は持病の胃アトニーが治り、少しずつ家庭の中が安定してきました。

その体験を通じて「この御本尊様はすごい」と仕事の合間を見て、折伏に歩き回りました。ただひたすら、信心、信心の毎日でした。  生活も軌道に乗り、順風満帆と思われた頃、突然、人生最大の危機を迎えることになりました。私の口の中に出来た腫れ物が、だんだんとひどくなり、医者を転々としている間にこじらせて、最後も見てもらった医者が、「これはガンだよ。今頃、私の所に来ても遅いよ。何ともならんわ」と目の前で宣告されました。私は、その言葉を聞いて呆然として、体がガタガタと震えてきました。その後、どこをどう歩いたのかも判らぬまま、ふと気がつくと自宅の御本尊様の前に座っていました。「これではいけない」と自分に言い聞かせて、唱題して、御書を開き拝読していくと、目に飛び込んできたのが、「南無妙法蓮華経は獅子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや」(御書六八五ページ)との御金言でした。この御文に触れ、暗闇に一条の光を見出した思いでした。「よし、明日から1日15時間の唱題をして、病魔を克服するぞ」と心に決め、職場に休職願いを出し、唱題を始めました。

1週間くらい過ぎた頃には、すっかり痛みも治まりましたが、その後も、上あごの腫れた所より毎日ほおずきの実を潰したような出来物が出ては消え、出ては消えの状態が1カ月ほど続きました。さらに耳の中に水が溜まり、血の混じった鼻汁が8ヶ月間くらい出る始末でした。毎日が死との隣り合わせでした。それでも、一日として唱題を止めたことはありません。食事のときも心の中で唱題し、食欲はないのですが無理して、粥に味噌汁を入れて口から流し込みました。咽喉からガンが取れていくときは一番苦しく三日三晩一睡もせず、目を赤くしながら唱題し続け、「もう、これで最後かな」と思いながら、すい込まれるように眠ってしまいました。気がつくと朝でした。そして、いつもの不快感はなく妙にすっきりしていて、ガンがきれいに取れ、楽に呼吸ができるではありませんか。「私は、御本尊様から命を戴いたのだ」と確信が涌き、感謝の気持ちでいっぱいで、涙が止めどもなく流れてきました。その日を境に、連日の苦痛から解放され、日増しに回復していきました。

ちょうどその頃、昭和52年の創価学会による教義逸脱問題がありましたが、自分の病のことでいっぱいで、一方的な学会の言い分のみを聞いて、「すべて学会が正しいのだ」と深く信じて、学会活動に力を入れていました。しかし、今回の学会問題では、私の身近な友人がはやばやと創価学会を脱会し、専正寺の法華講員になってしまいました。その人は、私に会うたびに、「学会は、謗法を犯している」と言って、学会の誤りについて話してくれましたが、聞く気は毛頭ありませんでした。その後、学会の支部副婦人部長だった友人の千葉輝子さんが脱会したという情報が、学会の組織に流れました。このため会合の都度、「本山は、謗法の山と化した」「学会を離れると子孫末代地獄行きだ」などと言って、厳しい締め付けが始まりました。

そんな中、私は、輝子さんを学会に連れ戻すために、家庭訪問しました。そこで彼女から、「法華講員となってから毎日の生活に活気が溢れて楽しい。一番悩んでいた息子のこと、健康のこと、すべてが変化し、こんなによくなった」と心から喜んで、淡々と話されました。そんな姿を見て、私は、「学会が破門されてから、以前のように唱題をしても、今一つ体の調子が悪い。信心しても何かふっきれなく、悶々としている」など、素直に話しました。輝子さんは、「宗一さん、本山さ行って、御開扉を受けたら生きがいが変わるから行ってみな。今は、昔のような学会ではないんだ」と懇切丁寧に話してくれました。かたくなに学会一筋に生き、信じてきた私にも、少しずつ心を開く気持ちが生まれてきました。初めの反発が嘘のように、半信半疑ながら専正寺へ足を向けたのでした。御住職・武田得道御尊師より二時間くらいお話を聞き、私の心は決まりました。輝子さんを折伏した阿部フツ子さんや、輝子さんと一緒にやってみよう、そう決心して、勧誡式を受けました。

それからは毎日が学会との闘いでした。5日間で20数名の学会員の訪問、嫌がらせ等を受けました。さすがに私も、一時は「もう学会に戻るしかないか」とあきらめそうになった日もありましたが、いつも陰から支えてくれるフツ子さん、輝子さんに励まされ、守られ、無事、総本山への御登山もでき、こうして体験発表をさせていただくまでに立ち直ることができました。

5月31日で脱会丸2年を迎えます。この2年間で、私は6世帯の折伏をさせていただきました。御住職はいつも御指導の中で、「自分自身の体験を通じて、一番身近な一番大切な人から折伏することが大切です」とおっしゃられます。

折伏した6世帯のうち2世帯は、病気の体験を話し、入信に結びつけることができました。その中のお一人は、2年前学会に入り『ニセ本尊』を持たされていました。しかし何の功徳もなかったそうです。信心の根本から話して、正しい信心につけることができました。

3世帯は娘たちの二家族と孫の一家族で、ようやく家族そろって日蓮正宗に帰ることができました。私が最初に一人で法華講に入ったため、最後まで学会に残って反対していた妻は、私がだんだん元気になる様子を見て、また、いくら学会で唱題会に参加しても結果が出ないことに見切りをつけ、支部の人たちの温かい思いやりに心を開き、昨年の9月に脱会し、入講できました。それからというもの、妻は、唱題会、勉強会に休まず参加し、今年の1月には古くからの友人を折伏できました。今日もその友人と一緒に参加しています。私も、昨年より折伏していた人が入信し、夫婦で1月に2世帯の折伏を成就することができました。今こうして家族そろって御本尊様のもと、法華講員として活動できる幸せをしみじみと感じております。

3月末、私を脱会させてくれた千葉輝子さんが、クモ膜下出血のため亡くなられました。私の班の担当として、共に折伏の計画を立てがんばっていた方ですので、驚きと悲しみでいっぱいでしたが、彼女は、私のほかにも、何人もの人を学会から救い、事故の悩みも解決し、仕事を終えられたのだと思います。彼女の志を継いで一人でも多くの学会員を折伏し、明年、宗旨建立750年を迎えたいと決心しました。

人の命は朝露のごとしと申します。今世に生を受け、御本尊様に巡り合い、こうして御奉公できる幸せをかみしめ、命ある限り折伏にがんばります。昨年は、支部折伏誓願目標20世帯を、12月末までかかった苦しい闘いでしたが、達成しました。今年は早々に誓願目標を達成し、堂々と30万総登山に臨みたいと決意しています。



☆『御住職より教わった御報恩謝徳を実践』 法正寺支部・新井昭

私は、本日ここにお集まりの皆様と共に、御法主上人猊下の御指南、御住職・中村収道御尊師の御指導をいただき、平成14年の30万総登山の闘いに微力ながら参加させていただいております。その中で、入信以来経験したことのない、御本尊様の功徳を享受させていただきました。平成3年以前から法華講に在籍されて、しっかりとした信仰基盤の上に精進を重ねてこられた諸先輩方にとってはごく当たり前のこととは存じますが、30年余の歳月を創価学会の中で闘い、「的外れな成仏観と軽薄な幸福感」を頼りに信仰してきた者にとりましては、天地が入れ替わるほどの大功徳でございます。

私は、平成3年6月に創価学会を脱会し、法正寺に所属させていただきまして、すでに満10年になろうとしております。入講させていただいてから5年も過ぎます頃には、私の信心活動は、惰性に流されておりました。私の営みます家業はといえば、平成の大不況に飲み込まれ、阪神大震災を境に、製造業ということも拍車をかけたのでしょうが、年を追う毎に経営内容は苦しくなる一方でございました。貯えも底をつき、将来的にも進展する可能性のない構造不況の中に落ち込み、お先真っ暗という頃、思い余って御住職にありのままをご相談申し上げたのでございます。削れるものはすべて削り、減らせるものはすべて減らし、大切な従業員、中でも最後に辞めていただいた方は、私たちが法華講に入って初めて折伏した脱会者でしたが、給料が払えなくなる前にと思い、辞めていただきました。御住職にご相談申し上げたのはそれから更に2年が経っておりました。

御住職が平成8年の御赴任以来、一貫して申されますことは「この信心は、御報恩謝徳を何よりも先にすべきです。信心の初めから終わりまですべてがこの一点に尽きます」ということで、私が伺ったときも概ねそのような御指導でございました。私としましては、今この窮地から救われたい一心から話を打ち明けたのでございまして、今は成仏のことより明日の生活をなんとかしたかったのでございます。「御報恩感謝が大切」ということは何となく判るにせよ、家族うち揃って路頭に迷うような状況にあって、「報恩感謝が先」と言われても困ってしまいます。結果私の心に残ったものは、「御報恩謝徳の信仰」という、今さら耳新しいとは思えないものだけでございました。

何となくすっきりしない、複雑な思いを抱えたまま御宝前に座り、夕勤行を始めました。しかし、唱題に進む頃には、さっきまでの、不安にさいなまされている自分というものがどこに消えたのか、それまでに味わったことのない不可思議な、自分という意識を遙かに越えているもので満たされておりました。今思えば、入講以来繰り返し繰り返し注ぎ込まれた「御報恩謝徳」という言葉は、私の命の中にそれなりの色合いをもって浸透していたようで、何かほんのりとした、暖かさを感じさせる響きを含んでいたことを覚えております。

その晩の夕勤行から一週間ほどでしたでしょうか、家族と別の時間に勤行することになりました。思うように勤行ができなくなってしまったのです。いえいえ、病気ではございません。ただただ申し訳なく、情けなく、有り難いやら何やらで、そのためいつもより多めに時間がかかってしまい、私にとっては辛い反省懺悔の一週間でございました。確かに仕事はうまくいっていない。貯えもない。しかし、親の代からお金に縁の薄い我が家が、信心40年の御本尊様の功徳に支えられて、雨の漏らない家に住み、借金もなく、すばらしい家族にも恵まれる、支部活動にも何の支障もない。寺院参詣、御登山の励行、自堕落な信者であるにもかかわらず地区長という責任も預けられ、これ以上何を不足に思うのか。全く人間の欲というのは際限のないものでございます。

小さい頃母から聞いた話なのですが、ミミズは声を出して泣くのだそうです。「ジーッ、ジーッ」と鳴くそうです。「この土食ったら何食うべー、この土食ったら何食うべー」と地面の中で泣いているそうです。「自分というものへの執着心」にとらわれていた私の愚かな御利益信仰と、有り余るほどの土に気が付かないこのミミズの愚かさが、御住職の話を伺っている最中に、妙に重なっていったことを覚えております。

さて、人間生まれ変わるという言葉がございますが、私にとって初めての経験とはいえ、全くすばらしいものでございました。御法主上人猊下、御住職の仰せになる「報恩感謝」が何を意味するのか、反省懺悔の唱題の中で、信心40年にしてやっとその一分を我が身に感じたのでございます。すなわち、御本尊様はもともと、私が生まれる前からずっとずっと長い間御自身の手の中で慈しみ育んで、今まで御教導くださっていることに思い至ったのでございます。私の父も母も、妻も、掛け替えのない息子たちもすべてが今、いつ、いかなるときも、御本尊様の広大な功徳の中に包まれていること、その中で泳がせていただいていることを、はっきりと覚知し、生命の根底より感謝できたのでございます。

そして、これらのことを家族と話し合う中で、「現在がどのような境遇であろうとも、どれほどの試練に遭おうとも、そのまますべてをひとまず受け入れて、そこから素直に正直に、すべてを御本尊様にお任せして決して後悔しない。御本尊様のお計らいのままに信心を定める」ことを家族全員で確認し、さらなる信心への覚悟を決めたのでございます。すなわち御法主上人猊下仰せの、「金輪際の信心」をもって御本尊様を信じ切れる、本物の功徳を、この瞬間に、頂戴できたのでございます。その後、月末でございました。予想にしない形で2年間という長期にわたる大量の注文が飛び込んできたのでございます。自分自身はもちろん、自分を取り巻くあらゆる環境が見事に変わり始めたのでございます。

御法主上人猊下の御指南をはじめ、宗内御尊師方の御指導を頂戴する中、宝石のような、宝物のようなお言葉に、ハッとさせられることたびたびでございます。出陣式の砌の、「一人ひとりが、一人も漏れなく地涌の菩薩たる折伏の陣列に並ぶこと」(大白法517号)という御法主上人猊下の御指南を思い出し、「自行のみの信仰は大聖人の仏法ではない。これこそが、この御指南こそが折伏推進、支部掘り起こしの大きな旗印である」と、遅ればせながら素直に拝することができたのでございます。

「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」(法華経268ページ)という願文がございます。このたび御本尊様から戴いた功徳をもって、御報恩感謝のために化他行に殉ずること以外に私共家族の進むところはございません。そうであるならば、一人でも多くの人々をして御本尊様の、本来あるべき功徳の中に住せしめなければなりません。まずは一人の人を折伏して、その人がまたその人の縁にもとづいて折伏をして、次々に陣容を整えていくという、本来あるべき、「功徳より生じる折伏」の形に戻ることです。

不思議なことに、協力してくださる人が出てまいりました。8年間、御住職3代にわたってその活躍を渇望されていた壮年が、我が地区、我が支部の折伏の中心となって、すさまじい勢いを持って大闘争を展開したのでございます。彼の戦いは当初、自称正信会所属の人たちに絞って展開されました。すでに信仰心そのものをなくしてしまっている正信会役員たちは、受け答えはするのですが、いざとなると「正信会の住職に聞いてみる」としか言えません。

2カ月ほど無駄足が続いた頃、昔正信会の男子部にいた人を思い出したのですが所在が判りません。早速、電話帳でそれらしい住所と電話番号を調べました。八方塞がりの精神状態だったその人は、むしろ自分から、正法正義の信仰を求めていたようです。正信会信徒であったために、多少の時間を要しましたが、なんとか折伏に漕ぎ着けることができました。

地区は総力を挙げてこの新入信者を応援しました。寺院参詣、御登山、御開扉への毎月の連れ出しです。御本尊様の功徳によって変わっていく姿を目の当たりにしたこの方のご兄弟が、次から次へと3世帯入信されました。御本尊様がこの新入信者のためにその功徳として、初めから御用意していてくださったとしか思えないのでございます。

この宗旨建立750年の大佳節に向かう闘いの最中、私の戴いた「御報恩謝徳」に根差した「本物の功徳」は、使っても使っても減ることはございません。むしろ使うほどに色も増し姿もよくなるものと存じます。「商売が繁盛する」、「病気が治る」、「人間関係がうまくいく」という願いや利益は誰もが望むものではございますが、その願いは願いとして、その前に決して忘れてはならないことは、御本尊様に巡り合えたこと、それ自体に対する「御報恩謝徳」に、志を定めた感謝の唱題と折伏であると存じます。

最後になりましたが、本来あるべき日蓮正宗法華講の本物の信心「金輪際の信心」を持った本物の同志を、折伏を通して一人でも多く輩出させて、三十万総登山を、それ以降の闘いのために大御本尊様と御法主上人猊下にお応えしてまいりたいと存じます。

今、30万の闘いの中、御本尊様の大功徳は未曾有の大光明となって、既に私たちの上に降り注いでおります。その大慈大悲を確信するならば、さらなる唱題、折伏によって、明年の30万信徒の慶祝登山、すなわち「御報恩のための御登山」を見事に達成し、本門戒壇の大御本尊様御安置の奉安堂を講中一丸となって御供養申し上げることが、今なすべき私共の「御報恩謝徳」の実践であり、せめてもの志であると心得ます。

生意気なことばかりで申し訳ございませんが皆様、明年の大佳節は目前、あと一年でございます。共々に地涌の同志として、誉れある志を果たし、「本物の信心と、本物の功徳」を頂戴して、さらなる精進を重ねてまいりたいと存じます。



☆『母との約束守り正しい信心を貫く』 深遠寺支部・辻村ミヨ子

私は長崎で生まれ、蝶よ花よこ育てられ、お手伝いさんがいて自分で洋服も着たことがないような毎日でした。私が少し身体が弱いため、母は信仰にのめり込んで滝や断食の荒行をこなし、ついに祈祷師になってしまいました。父は大反対でしたが、母は「他人を救っているのだから」と言って聞かなかったそうです。その頃から戦争が激しくなり、小学校へ入学しても勉強もできず、毎日が空襲で恐ろしい日々でした。

昭和20年8月9日、あの恐ろしい原爆が落とされ、長崎の町が火の海となり、地獄そのものを目の当たりにしました。身体全体が真っ黒にただれ落ち、稲佐川は死人の山でした。また、倒れた家の下敷きになり助けを求めながら炎の海に飲み込まれ、たくさんの人が亡くなっていきました。当時、私は9歳で、たまたま母と市外へ行っていたため命だけは助かりました。しかし、父と姉は、木炭のように変わり果てた姿になっていました、それを見た母は気が動転してしまい、何とか母方の親戚の手で、父と姉の遺骨を拾うことができたのでした。

父の遺言により、母は遺骨を背負って私の手を引いて父の実家である伊万里市大川町へと引き上げました。その後、母と私は原爆の放射能を浴びていたため吐血や血便が始まりました。周りに病院はなく、相知町にあると聞き、母が何とか私だけでも助けたいと、近所の人々に頼み、戸板に布団を敷き担いでもらい、峠道を阿時間もかけ、何度も吐血しながら運んでもらったそうです。母は、冷たく首を振る病院の先生に「家の跡取りの一人娘です。どうか助けてくがさい。お金ならいくらかかってもかまいません」とお願いしました。それから7年間の入院生活でした。当時、ペニシリン注射は高かったのですが、毎日うってくれました。母自身も悪いのに、自分は一本もうたず、私だけにうってくれたのです。

長い間の闘病生活で病院代が払えなくなり、父の実家へ帰ったときには「子供たちに病気が移る」と、冷たく追い出されました。それからは毎日、母と死に場所を求めて歩き回りましたが、どこへ行っても助けられて死ぬことができませんでした。母は「生きるより他に道はない。死んだつもりでがんぱってみよう」と言いました。食べる米もなく、落ち穂を拾って食べていました。

近所の人が、見かねて杉の皮を持ちより六畳一間の家を造ってくださいました。母が土を練って、自分で仕上げた隙間からお月様、お星様が見えました。でも、自分の家がある喜びでいっぱいでした。雨の強い日は、雨漏りで起こされ夜を明かすこともたびたびでした。その頃父の親戚は、一人も寄りつかず「親戚より近くの他人」と、母がよく言ったものです。その後、母は豚を飼って生計を立てていました。


そんな、昭和32年ごろ、突然創価学会の福岡八女支部の方が折伏に見えました。母は、「この世は神も仏もない。他人様に悪いことをしたこともないのに、こんなに不幸になり、身内の惨い死に方に遭い、何も信じることはできない」と言って猛反発しました。しかし、邪宗の害毒によって不幸になったことを諭され、「凄い御本尊様です。信心していくならば、願って叶わないことはない。絶対幸福になる。もしあなた方が幸福にならなかったときは、八女の駅前にある、私の家と店をあなた方へあげます。ここで一筆書きます。絶対です」との折伏でした私たちは幸福になりたいとの一心で、入信を決意し、昭和32年8月12日、我が家へ御本尊様をお迎えすることができました。

それからは毎日、唱題に、折伏にと闘わせていただきました。そのうちに私は熱が山なくなり、少しずつ元気になり、仕事もできるようになりました。早く母を楽にさせなくてはと、毎日毎日、朝は暗いうちから夜は星の出るまで働き、御本尊様の功徳を戴き、7年目にして大川野駅の付近に家を建てることができました。母は、御本尊様から戴いた家だからと言って、活動の拠点として、学会に提供していました。

振り返ってみると、山あり谷ありの65年でした。ここまで乗り越えさせてくださった御本尊様に、感謝の気持ちでいっぱいです。母がガンに冒されたときは、3回の手術と、折伏と御題目で乗り切りました。母の88歳のお祝いのときには、私たちを見守り、応援してくださった方々をお迎えしました。お祝いに来てくれた親威や知人たちは、口々に、母のような生涯を送りたいと言っていました。

そして平成元年6月20日、母は、「88歳の長生きをさせていただき幸福だったよ」と言って御本尊様へ御礼を申し上げ、眠るように安らかに旅立ちました。


平成4年、私の主人が亡くなったときのことです。学会葬で葬儀を行うようにと要求されました。しかし、私は、深遠寺の御住職にお願いして、日蓮正宗で葬儀を行っていただきました。想像した通り、葬儀に学会員は一人も来ませんでした。それまで私は、自宅を拠点として続けることを、母と約束していましたし、まさかこういう問題が起こるなど思いもよらなかったため、「そのうち必ずお寺と学会は和合する」と思っていました。

しかしその後、約2カ月くらい真剣に御題目を唱えていたある夜、昭和52年の頃、創価学会が独自の経本を作製・配布し、また宗門末寺の悪口を言っていた、いわゆる昭和52年路線の問題のときに、母が、「必ずお寺についていかなければだめね」と言っていたのを思い出しました。私は、「今こそ、自分が正しい道を選ばなければ。母がこれまで貫いた信心を守り続けなければいけない」と思いました。

子供たちにも相談しました。子供たちも、「それが本当だ」と言ってくれましたので、自信と勇気が涌き、平成4年12月、晴れて法華講に入講させていただきました。そして、「何があっても折伏と御供養はしていくように」との母の遺志を継ぎ、折伏をしてきました。その都度、100万遍の御題目を唱えきり、法華講の同志の方々のご協力をいただき、長崎・日田の親戚を2人、唐津・伊万里の友人2人を折伏させていただきました。

また、昨年、念願だった娘婿の折伏が、13年目にして叶いました。御本尊様に心からの御礼申し上げます。御供養も母と共に「精一杯していかなければ」と励み、その都度大きな功徳を戴いてきました。このたぴの、奉安堂建設御供養にも、何とか「真心の御供養をさせてください」と唱題を続けていました。すると、思いがけず、願い通りの御供養ができるという大功徳を、体験させていただくことができました。

これからも、勇気と真心で折伏をやりきり、御本尊様のすぱらしさを一人でも多くの人々へ伝え、「奉安堂建立」「宗旨建立750年・法華講30万総登山達成」を御祈念する御題目を唱えきり、今年、折伏3世帯を目標に、自分自身、そして両親のためにも、不退転の信心を貫くことをお誓いして、体験発表を終わります。



☆『執着破り前進』 法楽寺支部・田頭友子

これからお話することは、13年前にさかのぼって息子が病に倒れ、今日まで御本尊様の大慈大悲に守られて、命があることをお話させていただきます。

私は昭和33年両親と共に何も判らないまま入信し、自分の子供が病気になるまで悩みという悩みはなかったように思います。平成元年8月、小学6年生であった次男が、口の中に腫瘍ができ、頸骨が鍋底ほどの薄さになり、小さな衝撃でも骨が砕けてしまう状態であると判り、腫瘍と歯3本を取り除く手術を行いました。検査の結果腫瘍は良性でしたが、10年近くは再発の可能性が70%はあるので年に1、2度検査通院をするということで8月27日無事退院することとなり、御本尊様に「守っていただきありがとうございました」とホッとひと安心した矢先、次男が退院する朝、今度は三男が病に倒れました。

脳の中にいらない血管がある脳動静脈奇形という病気で、そのために起こった脳内出血でした。はじめは出血を止める薬で処置していましたが、命が危ないということで急遽手術となりました。手術は無事終ったのですが、担当医による説明は、「命の危険はなくなったけれど、これからは寝たきりの生活だと思ってください。もし歩くことができたとしても、右半身不随により義手、義足をつけなくてはなりません。さらに言葉を全部忘れてしまう失語症、右半分見えない半盲症です。今回は出血を止めるだけの手術だったので、脳の腫れがひいたら、いらない血管をすべて取り除き、一時はずした頭蓋骨をもとに戻す手術をします」とのこと。そして一番ショックだったのは、「首から下の病気は治れば回復と言いますが、頭だけは出血した場所は壊れたということで、脳の働きは二度と機能することはない」と言われました。しかし、今では嘘のようです。

三男は、集中治療室での面会のたぴ、お念珠を持たせてやると、必ず二つの房を確認し、少しだけ動く左手の中指にかけていました。そして忘れられないことは、言葉をすべて失った子供の口から一番最初に出た言葉は「南無妙法蓮華経」でした。御本尊様の大慈悲により奇跡と思えるようなことがたびたぴ起こりました。振り替えってみると、そのときどきに色々な不思議なことがありました。病に倒れる前夜、三男自身が夜中の12時くらいまで唱題をしたこと。病院に運び込むとき、台風が来ていて一足遅ければ通行止めになっていた所を抜けられたこと。当直医が脳神経外科の先生であったこと。二度目の手術がちょうど、御報恩御講の日時に行われたこと。退院後のリハビリについても、通常週に1回多くても2回マンツーマンで行われる言葉の教室の授業を毎日受けられたこと。数えればまだいっぱいありますが、すべて御本尊様の御加護により不思議な力で苛っていただけたのではないかと思います。その上、まだ学会員だった私共に、御住職・伊藤信道御尊師には闘病平癒の御祈念をしてくださり、さらに法華講の方々には題目を唱えていただき大勢の方々に守られ今日があります。心より感謝申し上げます。

平成3年10月23日、創価学会が破門されたことを機に法楽寺に詣り、法華講に入講させていただきました。それからの三男は、新居浜市長旗杯の陸上100メートル走で優勝、市の中学校弁論大会では学校の代表として4枚の原稿を丸暗記して発表するなど、あれだけ大病をした子が考えられないほどのことを成し遂げました。ところが高校受験の話が出始めた頃からそれまで起きたことのない脳の障害による難治性症候性てんかんという発作が起こり始めました。一年間で4、5回の入退院を繰り返しながら6年間、学生生活を送ってきました。心配していたいじめも一度もなく、むしろ、発作が起きたときは助けていただけました。ただの一度もご父兄より不満の声がなく、また先生方よりはどんなことがあっても手助けするから卒業するよう励まされました。感謝してもしきれないほど一昨年3月、法楽寺支部の区長をとのお話をいただきました。このとき私は、「年に何回も入退院を繰り返し、長いときは2カ月も入院する子供を抱えている私になんで…」と思い、お受けすることなどできるわけがないと、返事がなかなかできませんでした。しかし、主人が協力すると言ってくれ、中途半端な気持ちのまま、初めての役員会に出席することになりました。役員会当日、協力すると言ってくれた主人は仕事の都合で時間になっても帰宅することができず、私は、後ろ髪を引かれる思いで役員会に出席しました。終了後、御住職より、「子供のことに執着するでない。子供の病気ばかり考えるでない」と、御指導を受けました。

それからというものは、法華講員の幸せと広宣流布のことだけを願ってきました。その結果あれだけひんぱんに起こっていた発作がピタッと止まっています。今年の1月の血液検査での主治医の話によると「いつ発作が起きてもおかしくない状態である。けれどなぜか判らないけど、起こらないようになっている。十分注意するように」とのことでした。しかし現在、何事もなく元気にやっています。また、検査通院していた次男も、今年よりしなくてよくなりました。今は子供のことを心配することなく、いつでも広布のお手伝いをさせていただけることを幸せに思います。後ろ髪を引かれた頃が嘘のようです。

「我が身・我が家・我が子だけの願いという二乗根性を捨てて、広宣流布のために悩むことにより、自分の宿業である小さな悩みは解決することに気づいてほしい、体験してほしい」との御住職の御慈悲溢れる思いを感じることができました。御住職が常々御指導くださる、「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(御書571ページ)この御金言を常に心に刻み、何が起ころうとすべて、自分自身が犯した過去世の謗法の罪であり、何としても今世で罪障消滅していきたいと思います。

御法主日顕上人猊下の御指南に、「心を浄くしていく気持ちのなかからは、自分自身に対しても、また、ほかの人に対しても温かい心が生じてくるということであります。このことは、人間として大切です。自分中心の欲望に落ち込んでしまいますと、色々なことから瞋(いか)りや貪りを生じて、本当に自他を温かい心で見つめていくことを忘れがちになります。日常の生活のなかでも、この温かい心を常に持って接していくところに、また大きな幸福が訪れてくると思います」(大日蓮613号)と仰せられています。

あらゆる魔にたぶらかされることのないように、また自分の心の中の魔に負けないように、御本尊様に邪見・我見の命・歪み・ひがみの心をなくす唱題をし、仏法僧の三宝に帰命し、御報恩の誠を尽くしていきたいと思います。50年に一度巡り来る大佳節を明年に控え、30万総登山の推進、奉安堂建設御供養、折伏誓願目標の完遂に向け、御法主日顕上人猊下の、「一切を開く鍵は唱題行にある」(大日蓮635号)との御指南のごとく、真剣な唱題を自ら唱え、講中のすみずみにまで声をかけ八口い、宗旨建立750年の大慶事を歓喜の中で迎えられるよう精進していきます。

※今回の体験発表特集の掲載に当たって、谷口様のご協力をいただきました。




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