<6〜8面>
特に本年は「破邪顕正の年」との重大なる御命題を賜った年であり、『立正安国論』を鎌倉幕府に日蓮大聖人が奏呈せられたのも、ひとえに「破邪顕正」こそ「立正安国」に他ならないが故でありました。そして5年後には、その文応元(1260)年より数えて750年の佳節を迎え、御命題であるところの「地涌の友の倍増乃至、それ以上の輩出と大結集」に向けた自行化他の信行を成就すべき年になります。本年掲げられた7つの実践項目も、一つひとつが平成21年に向けた信行に欠くことのできない重要課題であり、地涌の友の倍増も広宣流布の大願も、その延長線上にあるのであります。
総本山第26世日寛上人は、「立正」について、「立正の両字は三箇の秘法を含むなり」(御書文段6ページ)と仰せられており、立正の二字には「三大秘法」の大事が内在していることを証されております。
そして「本門の本尊」については、「本門の本尊に約せば、正とは妙なり(中略)妙とは妙法蓮華経なり、妙法蓮華経とは即ち本門の本尊なり(中略)立とは此の本尊を立つるなり」(同)と、妙法蓮華経の本尊を立てる義こそ「立正」であると証されております。
また「本門の題目」については、「本門の題目に約せば、謂わく、題目に信行の二意を具す。行の始めは是れ信心なり、信心の終わりは是れ行なり。既に正境に縁する故に信心即ち正し。信心正なる故に其の行即ち正なり、故に題目の修行を名づけて正と為すなり・・・立とは即ち行を立つるなり」(同)と仰せられております。
さらに「本門の戒壇」については、「本門の戒壇に約せば、凡そ正とは一の止まる所なり・・・一は謂わく、本門の本尊なり。是れ則ち閻浮第一の本尊なるが故なり・・・故に本尊を以て一と名づくる者なり。止は是れ止住の義なり、既に是れ本尊止住の処なり、豈(あに)本門の戒壇に非ずや。立とは戒壇を立つるなり」(同)とされ、「立正」の二字に即した信心は、とりもなおさず三大秘法を尊敬礼拝申し上げる正しき信心に他ならないのであります。
御法主日顕上人猊下は、「一切を開く鍵は唱題行にある」(大日蓮635号)と御指南あそばされました。正法の本尊に正しき信心をもって題目を唱え、行たる折伏に励むところに「立正」の二字が内包されるのであります。
今、日本を取り巻く環境は、大聖人御在世当時にも似た状況を呈しており、イラク戦争の余波は今にも家庭に影響を及ぼさんとし、政治にあっても、混迷する平成不況を脱する手段を見出せず、社会全体を覆い尽くす暗雲は人の心にも影を落とし、邪な宗教に奔走(ほんそう)する人々が後を絶ちません。『立正安国論』に、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書241ページ)と、鎌倉時代にあって、日蓮大聖人は亡国の根源として法然の謗法を「此の一凶」と断ぜられ諌暁いたされました。
本年1月12日の唱題行の折に、御法主上人猊下は、「今日における邪悪の甚だしき一凶とは創価学会である(趣意)」(大白法639号)と断ぜられております。現在『ニセ本尊』を仕立てて、日本支配を企てる創価学会こそ、現時にあっての一凶であり、文化や芸術に名を借りて民衆を誑惑する元凶であります。しかしながら、御法主上人猊下の御指南は、別しては創価学会かを一凶と断ぜられますが、総じての意義を拝すれば、日本国乃至世界中に蔓延(はびこ)る邪教を破折する旨を御指南あそばされているのです。
平成21年の大慶事は、何も国内だけの御命題ではなく、『御義口伝』に、「国土とは日本国なり、総じては南閻浮提なり」(御書1772ページ)とあるように、『立正安国論』に示される「国土」と同様、日本を含む一切の国々を指しているのであります。
日蓮大聖人は、当時世法に跋扈する邪教を誰一人として破折していないことを、『立正安国論』をもって国家を諌暁せられたのも、ひとえに無間の業火から民衆を救い、国家の安寧と一切の幸福を願ったからに他なりません。「地涌の友の倍増」は「一人が一人の折伏を」との御指南を根本に、僧俗和合し、支部が一丸となり、さらには地方部、全国と異体同心して信行を積み重ねた上に達成できる大命題であります。
御法主上人猊下は「新年の辞」において、「本門三大秘法の広布へ邁進すべき時である。このために尤も大切なことは、宗門僧俗の真の一致協力であると信ずる。さて、その一致と協力は、何に依って可能であろうか。それは相互の深い信頼にある」(大日蓮695号)と、僧俗相互の信頼の上に、また法華講各位の相互の信頼の上に、正法正義の御旗を掲げ、異体同心して邁進するところに広布への大前進が叶うと御指南あそばされるのであります。
「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡んのみ」(御書250ページ)と、『立正安国論』を結ばれたごとくに、私たち日蓮正宗の僧俗は、どこまでも御法主上人猊下の御指南を根本として本門戒壇の大御本尊に信を取り、平成広布の大道を大前進する先にこそ一切の幸福があることを確信すべきであります。750年にも及ぶ末法衆生救済の直道は、法華講員一人ひとりの信心に内在しており、その信心には熱原の法華講衆より引き継がれし重大なる使命が存しております。
今こそ、自らの信心を奮い起こし、存分なる活躍を示し、平成広布の金字塔を築かれ、もって平成21年へ向けた勇躍前進を心より願うものであります。
● 葉さんはどのようなきっかけで、いつ頃入信したのですか。
葉 私は、1996年に主人を亡くし、また自分自身も甲状腺ガンを患っていて、6人の子供をどうやって養っていこうかと、とても苦しんでいました。そんな時に折伏を受けたのです。短い時間でもいい、3分でもいいから御題目を唱えなさいと言われ、はじめは病気で苦しかったのですが、すがる思いで唱えました。そうしているうちに、御題目を唱えることに歓喜の念を覚え、自然に1時間でも2時間でも唱えられるようになりました。いつしか体も改善に向かい、子供たちまでもが明るくなってきたのです。そこで、この信心は他の教えとは違うと確信し、1997年に御授戒を受けました。
葉 当時、台中市には御僧侶がいらっしゃらず、台北の事務所だけでした。ですから何か法要があるときには、地域の信徒みんなでバスに乗り合わせ、5時間ほどかけて台北事務所に参詣していました。
● 葉さんは普段から折伏に真剣に取り組んでいますが、折伏に対して何か心がけていることはありますか。
葉 これと言ってありません。ただ御法主日顕上人猊下が、「一人が一人の折伏」と御指南くださることを肝に銘じて、常日頃からの御尊師の御指導をかみしめながら、一人でも多くの人に妙法を伝えたいという思いで、自然に日蓮正宗の話をしているだけです。
葉 もちろんしています。御授戒は受けたけれどそのあと全く活動に参加しないという人もいると聞きますが、それではいけません。私は、自分が折伏した人には責任を持って常に連絡を取っています。もちろん中には、いろいろな理由をつけて活動から遠ざかる人もいますが、それでも連絡を続けます。とても残念なのは、私が車を運転できないことです。折伏した人たちを車に乗せて一緒に活動に行くことができません。ですからその分綿密に連絡を取り、またそれらの人たちが正しい人材に育っていくように、日々御本尊様に御祈念しています。
● 葉さん自身、組長という役職も担っていますが、そのほかに数多くの折伏した人たちの面倒も見なければならない。この両立をしていくことの苦労はありませんか。
葉 組長という役職も、折伏した人たちの面倒を見ることも、苦労と感じたことはありません。逆に御本尊様のために御奉公できることの喜びを感じます。ただ、御本尊様のためにも、お寺のためにも、自分の組を一層盛り立てながら、折伏した人たちの面倒を見なければいけないという責任の重さは感じています。
葉 「『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって、さらに折伏に邁進し、一人でも多くの人にこの仏法を伝えていきたいです。また同時に、自分自身も正しい信心をもっともっと身につけていきたいです。
葉 日本で信仰できる方々がうらやましいです。何と言っても総本山が近くにあり、いつでも御登山でき、御法主日顕上人猊下の御指南を直に拝聴することができます。私も機会があればなるべく御登山するようにしていますが、限度があります。私の家は、山の麓に位置していて、車の運転もできないので、毎日のようには布教所に行けません。しかし、中台布教所責任者の長沢御尊師は、決して苦労を顔に出されず、このような場所に毎月指導会に来て、様々な御指導をしてくださいます。そういった御恩にお応えするためにも、経験豊富な日本の法華講員の方々から機会ある度に、いろいろなことを学んでいきたいと思っています。
特に、寺院外護、御供養の精神、そういったものを交流会または御登山の折などに学んで、自分のものにして、日本の法華講員に少しでも追いつけるように、信心していきたいと思っております。
鑑真は同6年4月に勅命によって、東大寺の仏前に戒壇を建立した。この戒壇には、聖武天皇・光明皇后・皇太子が登壇して菩薩戒を受け、その他5百人の僧俗が登壇して、比丘戒・優婆塞(うばそく)戒を受けた。沙弥(しゃみ)戒、優婆塞戒等の伝戒は鑑真和尚の渡来以前より我が国において既に行われており、比丘戒も自誓受戒の作法によって伝戒することは行われていたが、律文の規定に従って、嫡々相伝の戒脈を継承しておる10人の大僧を請して、正式の伝戒を行ったのはこの時が最初である。
その後、天平宝字元年正月に、東大寺の戒壇を下野(しもつけ)の薬師寺(※現存せず)、筑紫の観世音寺(※現存)とに分置して、勅命によって東国の者は薬師寺に行き、西国の者は観世音寺に行き、その戒壇に登って授戒することが定められた。これ以後、宗学については、三論・法相・華厳等、その人によって異なりがあったが、戒律については、我が国の僧侶は皆一様に、鑑真和尚によって伝えられた四分律の戒法を受持することとなり、全国の僧侶は皆、東大寺の戒弟であった。それは薬師寺と観世音寺の戒壇は、東大寺戒壇の出張所であったからである。
伝教大師が叡山に戒壇を建立するまで、内容はともかく、表面は皆四分律によることに一定されていたのである。この外に梵網経の菩薩戒が行われていたが、菩薩戒は功徳を積むため、もしくは転迷開悟のために、在家の人も出家の人も共に受けることのできる戒法であって、けっして僧侶の生活行為を規定したものではないとされ、菩薩戒は少しも僧風僧儀には影響がなかった。
伝教大師が大乗戒の独立の意志を漏らしたのは弘仁9年2月7日で、一向大乗による僧侶を任ぜしめんとしたのである。「我が天台の祖師である南岳大師、天台大師は昔生に印度の霊鷲山に於て、大聖釈尊より親しく法華経の説法を聴き、菩薩の三聚浄戒を受けられた。而かして其の菩薩の三聚浄戒が師資次第に相伝して我れ最澄に及んで居る。我れ常に一切の聖教を閲するに小乗の声聞僧及び声聞戒の外に、大乗の菩薩僧と菩薩戒とあり。又専ら大乗教に依りて少しも心を小乗の方に向けざる一向大乗の人と、又専(もっぱ)ら小乗教にのみ依りて毫も心を大乗の方に向けざる一向小乗の人とがある。今我が宗の学生は、大乗の戒定慧に依って修行せしめ、永く小乗下劣の修行を離れしめん」(天台学概論)と一心戒文上に宣言されたのである。そして伝教大師は自ら三宝の御宝前に、かつて延長4年に東大寺の戒壇へ登って受けられた四分律の二百五十戒を断固捨てることを誓い、学生に諭して、「今より以後声聞(小乗教)の利益を受けず、永く小乗の威儀に背くべし」と告げられた。
伝教大師は、治部省僧綱(僧侶の取締りをする省)の支配を離れて、僧侶の授戒を行うために六条氏、八条氏等の山家学生式(さんけがくしょうしき)をもって勅許を願ったが、その都度、奈良の僧達に反対された。そこで、『顕戒論』を著述して奈良七大寺の僧侶を破折したのである。
しかるに伝教大師は、弘仁13年3月より病床に臥して、6月4日、叡山中道院に56歳で寂された。嵯峨天皇は、伝教大師の入滅の日より7日後、即ち6月11日に、治部省の官符をもって叡山に大乗戒壇建立を勅許された。これは通説になっておるが、実は叡山に戒壇が建立されたのは、5年後の天長4年の5月である。
中納言・良峰安世(よしみねのやすよ)が、叡山に登り山上に一泊した時、別当大師光定和尚と二祖義真和尚とが、「奈良には戒壇があるが、吾が叡山には戒壇がないために授戒が如法に行われない。叡山にも戒壇がほしい。そして、その造り料を朝廷より賜りたい」と、中納言安世に懇願した。その後、嵯峨天皇の国
忌に光定和尚が冷然院に参詣した時、美作守藤原是雄より、昨日、叡山戒壇造料の宣旨が降ったとのことを聞かされた。結局、中納言安世の世話によって稲9万束を賜り、5間の戒壇堂と7間の講堂とその他附属の建築が出来上がった。叡山戒壇堂建立は二祖義真の時で、伝教大師滅後の5年目であるが、功を推して、伝教大師滅後7日、勅許されたというのである。
宗会議長・土居崎慈成御尊師
「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」に向け、御法主日顕上人猊下御慈命のもとに、全国各地において地方別広布推進僧俗指導会が盛大に開催され、また地方部総会も盛況を極めるなか、異体同心の団結と広宣流布の使命も新たにされていることと拝察いたします。
「立正」に三箇の大事あり
一凶を禁ぜんには
いざ瞳曚(どうもう)を打たん
中台布教所は、5年前の1999年、中部台湾の信徒の中心拠点となるべく、本興院の中台分院として設立された。翌2000年、布教所に昇格した折に常駐責任者として長沢正奏御尊師を迎えた。その後は毎年、早期に折伏目標を達成し、また確実に人材の発掘・育成にも力を注いできた。その甲斐あって、信徒増加で手狭になった布教所から、新たに広い布教所に移転をし、本年3月7日に落慶法要を行うことができた。信徒の一人ひとりが個々に高い目標を定め、「『立正安国論』正義顕揚750年」に向かって、中華民国・台湾の広布をめざして精進している。今回はその中にあって、特に折伏に顕著な成果をあげ、また組長(日本で考えると班長)としても励んでいる、葉美菁さんにいろいろとお話を伺った。
● 御授戒を受けた頃はまだ台中市に布教所も事務所もありませんでしたが、どのように活動していましたか。
● 昨年には22名もの縁故者を折伏されましたが、そのあとの育成はどうしているのですか。
● これからの目標を教えてください。
●最後に、日本の方々に対して、何かメッセージはありますか。
時の皇帝は、日本に仏教を伝えるより、道教を伝えたかったとみえ道士を連れて行って貰いたいと、願いとは逆でった。そこで、鑑真(がんじん)は日本に密入を企てるほか方法がなかった。鑑真は遣唐使の船に密かに便乗して、天平勝宝5年12月20日薩摩の国に着いた。翌6年に鑑真の一行は京都に入った。日本への来朝を企ててから12年目であった。