<6〜8面>
3日は午前8時から、御法主日如上人猊下大導師のもと、客殿で行われる唱題行に参加させていただいた。唱題行終了後、御法主上人猊下より御言葉を賜った。その中で御法主上人猊下は、平成21年の御命題達成には、まず本年、各講中共に本年度の誓願を総力を結集して達成していくことと、全国4カ所で開催される決起大会を完全勝利することの2つの要件を目標に闘っていくことを望まれた。
午前10時からは、御法主上人猊下御目通りが行われ、総講頭・柳沢委員長、石毛副委員長をはじめとする各大講頭、法華講連合会役員、地方部長、各支部講頭が参列した。ここで昨年12月に行われた「立正安国論正義顕揚750年特別御供養(第2回)」の目録が奉呈された。
このあと、午前11時より4回にわたり御開扉が行われ、奉安堂において本門戒壇の大御本尊様の御内拝を戴いた。日帰り登山者は順次下山の途につき、一泊登山者は各宿坊での勤行・夕食の後、午後7時から総二坊2A室で行われた座談会に参加した。座談会では、はじめに藤野福岡地方部長が決意を述べ、続いて大講頭の永井茨城地方部長・石毛副委員長よりそれぞれ激励があっ
た。最後に、総講頭・柳沢委員長より挨拶があり、座談会は8時半に終了した。
翌4日は、午前2時半からの丑寅勤行に参列した。明けて、勤行・朝食の後、8時から客殿における唱題行に参加させていただいた。唱題行は御法主上人猊下の大導師のもと一時間行われ、終了後、御言葉を賜った。この日着山の登山者は、午前11時・午後1時半の2回にわたり大御本尊様の御内拝を戴き、初登山会のすべての行事が終了した。
続いて、遥拝所での読経・唱題が修された後、御法主上人猊下より参詣の信徒に対して新年の御言葉を賜り、参詣者は「折伏誓願目標の完遂」と「決起大会の大成功」が、本年「躍進の年」を勝利するための二大要件であるとの御指南に必ずお応えせんとの誓いを新たにした。
明けて午前9時よりは、御法主上人猊下大導師のもと、客殿において唱題行が執り行われた。なお、本年の総本山での唱題行は、御法主上人猊下大導師のもと、今月31日まで客殿において執り行われる。
また、1月6日午前9時より、総本山をはじめ全国の各末寺で1月度広布唱題会が執り行われた。本年は、明年の大佳節に向けて折伏誓願を必ず成就すべき大事な年である。皆、挙(こぞ)って毎月第1日曜日の広布唱題会に参加し、大折伏を展開していこう。
唱題行(1月1日)の砌
いよいよ、来たるべき「平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年」の大佳節まであと1年、本年「躍進の年」は、御命題達成の鍵を握るまことに大事な年であります。御命題を達成するためには、まず、本年「躍進の年」を必ず勝利しなければなりません。本年を勝利することなく、御命題を達成することはできないからであります。
その本年を勝利するには、二つの要件があります。
一つには、各講中ともに、本年度に立てた誓願は達成すること。特に、折伏は万難を排し、必ず達成することであります。眼前の目標も達成できずに先を望んでも、全く意味がありません。まず眼前の目標を必ず達成することが先決であります。
二つには、全国4カ所で開催される「地涌倍増大結集推進決起大会」を完全勝利することであります。この大会は、御命題の達成を期して「プレ大会」として行われるもので、各地域の僧俗が心を一つにして取り組み、その完全勝利の勢いをもって、平成21年の大佳節へ向けて法華講の総力を結集して大折伏戦を展開し、もって御命題を達成するところに開催の意義が存するのであります。したがって、本年「躍進の年」は、各講中ともにこの二つを目標に闘っていただきたいと思います。
と仰せであります。
この御文の如く、宿縁深厚にして人界に生を受け、値い難き末法の御本仏宗祖日蓮大聖人の仏法に値い奉った我らは、瞬くの間にはかなく消え去る稲妻や朝の露のような名聞名利をいつまでも追い求めることなく、一生成仏を期して仏道修行に励むことこそ肝要であります。
たしかに、この三界は安きことなく、幻の如きものでありますが、所詮「寂光の都」すなわち仏国土を離れ、「本覚の栖」すなわち妙法に住する境界を離れては、幸せも楽しみも築くことはできないのであります。妙法を離れた名聞も名利もわずか一時の栄華であり、三世にわたる真の幸せとはほど遠い幻想に過ぎないのであります。
されば、我らにとって「現世安穏後生善処」の妙法を受持信行することこそ今生の名聞であり、現世に妙法弘通に励んだ因によって後生には必ず成仏に至ることができるのであります。よって我らは「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」との御金言を心肝に染め、一意専心、自行化他の信心に励んでいくことが肝要となるのであります。
とあります。自行化他の信心の計り知れない功徳について、火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わず、その功徳は千人の仏様が説こうとしても、説き尽くすことができないほど広大であると仰せられているのであります。
本年「躍進の年」に当たり、各位にはよくよくこの御文意を拝し奉り、一人ひとりが決意を新たに強盛なる信心に励み、もって本年度の誓願と「地涌倍増大結集推進決起大会」を大成功裡に収め、その勢いをもって水火も辞せず、大折伏戦を展開されますよう心から願い、本日の挨拶といたします。
『百六箇抄』は『法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)』と共に「両巻血脈」と呼ばれる本宗奥義の相伝書であり、御隠尊上人は昭和61年以来、全国教師講習会において「百六箇対見之記」の御講義を、13回にわたり、なされてきた。
このたび、御隠尊上人御自ら御講義で配布したテキストを改訂され、併せて御講義未完の分を執筆増補し、一冊とされたものである。編集は宗務院教学部が当たり、A5判、丸背上製本、角丸薄表紙、題字金箔押し、箱入り、608ページの体裁で、定価4500円(税・送料込み)となっている。問い合わせ、申し込みは(株)大日蓮出版まで。
豊臣秀吉の寺院に対する態度は信長の破壊とは異なり、むしろ信長がつぶしたものを復興したところが多い。たとえば延暦寺は信長の生存中は再建を許きれなかったが、天正12年(1584)に秀吉は再興のための募金を許可している。しかし秀吉の復興といっても、それは堂塔の再建などをさせたまでであって、寺院の政治的・社会的実力がもとにもどったわけではない。信長は武力を行使して大寺院をたたきつぶしたのだが、秀吉は堂塔を再建しつつ、他面、検地と刀駆りによって寺院勢力の基礎を無力化していったのである。
秀吉の作り上げた政治権力と社寺との関係を、法律・制度によって固めあげたのは徳川家康である。信長・秀吉・家康三代の寺社政策の特色を象徴的にいうならば、信長は焼き打ち、秀吉は検地・刀駆りであるのに対し、家康は寺社への法度(はっと)である。江戸幕府が寺社一般の規則を発布するのは寛文5年(1665)7月になってからであるが、慶長の中ごろから元和のはじめにかけて、各宗各派に対し個別的に法度を施行している。
それらの法度を通じて幕府が強調しているのは、第一に、僧侶の学問奨励である。学問修行を怠る者は寺においてはならぬこと、住職や高い僧官・僧位は学問のすぐれた者にのみ認めることなどをうたっている。僧侶の関心を学問に集中させて、寺社が世俗的勢力を拡大するのを防ごうと意図したものである。
その学問の有無の認定はどのようにしてなされるか。前に大阪冬の陣の原因となった大仏鐘銘問題と関連して、家康が五山の僧侶を試験したことを述べた。家康はまたしばしば諸宗の有力な僧侶をよんで、法門をきき、論議をさせた。家康は僧侶の論を聞き分ける力をもっていたらしい。(中略)学問の有無の認定、ひいては僧官・僧位任免の判断は世俗的権力の意志にまかせられることになるのである。学問奨励もけっして僧侶を自由な空気の中で勉学にはげませるものではなかった。
寺院法度全般に共通する目的の第二は、本寺・末寺の制度の確立である。仏教各派すべてに本寺を定め、他の寺院はその末寺として、何事につけても末寺は本寺の命令に従わねばならぬこととした。(中略)もし末寺が本寺に不服をもち、幕府に訴え出たとしても、よほどの悪事や失態が本寺にないかぎり、末寺が敗訴となった。また宗派における師弟の関係、寺内における住職と衆僧との関係、いずれもきびしく上下の関係が定められた。徒党を組む衆徒はもちろん、師の命にしたがわぬ弟子も寺を追放と規定されている。
寺院法度の目的として、第三には僧官・僧位の授与などにおける朝廷の権限を抑圧したことが指摘できる。(僧官・僧位の授与は平安の昔から天皇の権限であった=筆者註)幕府がこういう方針をとったため、(中略)秀忠の大御所時代、幕府は後水尾天皇の発した綸旨(りんじ)を多く無効とし、天皇が怒って譲位するという事件まで起こしている。(中略)幕府がこれらの法度を作成・施行するに当たっては、僧侶の意見を参考にせねば、宗教界の内部事情がわからなかった。そこではじめ秀吉以来外交文書を扱った関係で、相国寺の西笑承兌が相談にあずかり、慶長12年(1607)承兌の死後は同じく相国寺の円光寺閑室元佶が宗教行政に関係していた。しかし前に述べたように、承兌の後任として外交文書の係りに任ぜられた金地院崇伝が、15年ごろから宗教行政面にも用いられるようになった。(中央公論社『日本の歴史』13巻 278ページ)
平成20年1月3日 於 総本山客殿
皆様、新年おめでとうございます。立宗756年「躍進の年」、本年も皆様と共に広宣流布のために精進していきたいと存じます。
大聖人は『持妙法華問答抄』に、
過去遠々(おんのん)の苦しみは、徒(いたずら)にのみこそ受け来しか。などか暫く不変常住の妙因を植へざらん。未来永々の楽しみはかつがつ心を養ふとも、強ゐてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず。『三界は安きこと無し、猶(なほ)火宅の如し』とは如来の教へ『所以(ゆえ)に諸法は幻の如く化の如し』とは菩薩の詞(ことば)なり。寂光の都ならずば、何(いず)くも皆苦なるべし。本覚の栖(すみか)を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは『現世安穏後生善処』の妙法を持つのみこそ、只(ただ)今生の名聞・後世の弄引(ろういん)なるべけれ。須らく心を一にして南無妙蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思い出なるべき。(御書300ページ)
法華経薬王品には、
是の経を受持し、読誦し、思惟し、他人の為に説けり。所得の福徳、無量無辺なり。火も焼くこと能(あた)わず、水も漂(ただよ)わすこと能わじ。汝の功徳は、千仏共に説きたもうとも尽さしむること能わじ。(法華経538ページ)
賀茂川の水、双六(すごろく)の賽の目とともに、帝王の意といえどもこれを従わせることはできないといわれたほど古代以来強力な勢力をほこってきた大寺院に、まず徹底的破壊を加えたのは織田信長である。それをもっともよく代表するものは元亀2年(1571)の比叡山焼き打ちである。
家康が僧侶の法論を聞き分ける力を持っていたらしいことと、本寺と末寺の別を明確にし、本寺に強い権限を持たせた点と、日蓮宗の不受不施・受不施の問題で手を灼(や)いて、日蓮宗に限って家康の存命中に法度を下さなかったこと等が重なった歴史的な背景となって、慶長16(祖滅330)年12月15日に、「重須養運坊 本門寺棟札・二箇相承を徳川家康の台覧に供す」という、『富士年表』の事項となったことと推測するのである。