大白法

平成20年2月1日号


主な記事

<1〜5面>

<6〜8面>


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地涌倍増大結集推進西日本決起大会に向けて

御法主上人猊下の御指南にお応えし、大折伏戦へ総決起しよう


御法主日如上人猊下より決起大会開催の御指南を戴いてから早5カ月。2月3日、西日本決起大会を迎える。

参加する15布教区・250支部・3万5千名(目標)という今までに経験のない大結集大会の成功めざし、短い準備期間の中、様々な分野に分かれて準備に取り組んできた。当日の受付・場内整理・警備・救護といった、裏方として大会を支える人々。各部を代表し決意を表明する人。御報恩の妙音を響かせるブラスバンドや鼓笛隊員たち。ステージで演技を披露する人々。各支部の結集の責任を負う人々。当日の出発点から大会会場、また会場から帰り着くまでの往復、皆の無事のため責任を負う人々……。大結集するのは当日の一点。


これらの人々が今日まで、どのような精進を経たのだろうか。

一例を挙げれば、コーラスを披露する570余名の婦人部員。ようやく練習が緒についたのは、昨年11月だった。各地方部ごとに練習を開始したが、遠隔地のため一堂に会することはできない。そこで、大阪での練習風景を収録したDVDを頼りに、足並みを揃えることを試みた。

1月11日、「やはり集まろう」と急遽呼びかけた。3日後の14日には、各地方部からそれぞれの指導者を中心に約300名が大阪に集結し、合同練習を行った。この大人数をまとめ上げる指揮者は訴えた。「今日一回しか皆さんと会える日はない。私も全身全霊で指揮をします。今、異体同心ができなかったら、2月3日は失敗に終わります。歌は技量ではありません。信心を音に換えて伝え、御供養するという使命を、私たちは担っています」。また、以前より「地方部の練習へ出向いてほしいとの要請があれば、私は行きます」と言ってあり、行った先々で、「わずか2時間ほどの練習の中、刻々と皆さんが変わっていく姿を目の当たりにしました」と語る。

参加する一人ひとりが自らの信心を見つめ直し、脱皮を図った。全員の異体同心のみが成功の元であることを深く認識したコーラスのメンバーは、1月末から当日に向けて連日の練習の中、さらに自らの信心を磨いている。


また、動員において、南近畿地方部では、各支部からコンピュータを操作できる人を連絡係として挙げてもらい、そこに逐一、支院長の指導のもと、リアルタイムで情報をどんどん送るという方法をとった。連絡係は随時、御住職や支部役員に報告することにより、僧俗間・各支部間において、情報が時間差なく共有できた。1月15日に当初の目標1,300名を50余名突破し、その後は1,400名参加をめざしている。

愛媛布教区では、決起大会に向けての啓蒙が明年の、『立正安国論』正義顕揚750年・7万5千名大結集にすべて直結することを意思統一し、参加割当850名の2割増を目標としての初動も早く、最終的に1,100名に更新された目標も達成。

その他もそれぞれ、布教区・地方部・支部として現地視察団を組んだり、各部所の要員から集まる情報をもとに全体像を描く努力で状況を先取りするなどして、様々な問題に対処してきている。

また、特別布教区や静岡北・静岡南・北陸・中部・岐阜といった関ケ原を越える遠隔の参加者は、前日に大雪が降り高速道路が通行止めになった場合、バスでの到着が不可能になることを考えれば、諸天の加護なくして参加は難しい。

御法主上人猊下御指南の「大会の完全勝利」には、結集が欠けてはならず、無事故で終了できなければならない。しかしながら、決起大会に魔の出来は必定である。あらゆる面にわたって気を抜かず、真剣な御祈念をもって当日を迎えていこう。

御法主日如上人猊下の「僧俗が一体となって大会を大成功裡に収め、その感動と勢いをもって大折伏戦を展開」との御指南、御隠尊日顕上人猊下の「謗法堕落の宗教により腐敗した世相に対する大浄化運動」との御言葉を拝し、「僧と僧、僧と俗、俗と俗における信頼関係を確立せよ。この大結集は広宣流布への大いなる力ぞ」との御意を受け止めるものである。

両上人猊下御臨席のもとに決行される決起大会へ、いざ!



○論苑 『西日本大会の大成功を祈る!』 慈法寺住職・田島寛応御尊師


全国法華講員ご一同には「躍進の年」を迎えられ早1カ月。総本山においては、御法主日如上人猊下大導師のもと元旦勤行が奉修され、1月3日・4日の法華講連合会初登山会は穏やかな晴天に恵まれて、白雪をいただいた霊峰富士が歓喜に満ちあふれた全国法華講員を出迎えてくれました。また、末寺では御住職と共に元旦勤行が行われ、世界44カ国の海外信徒も皆、僧俗和合の姿をもって勇んで「躍進の年」を迎えました。

御法主日如上人猊下は新年より一貫して、「いよいよ明年にせまった正義顕揚750年の前年、各支部が折伏誓願目標を完遂し、全国4会場で行われる決起大会を完全勝利することが本年の活動の要諦である」と御指南くださっています。全国の各寺院・支部には各々の歴史、地域性があり、また、所属世帯数も様々ですが、すべての支部が御命題達成に向かって大きく前進しなければなりません。

また、広宣流布への前進は各支部における活動が基本ですが、現在の闘いは、宗務院・記念局が目標達成に向かって、広布唱題会、広布推進会等の実施計画を打ち出し、その指導のもと布教区と各寺院・支部が唱題、折伏、育成に足並み揃えて大きく前進しています。

日蓮正宗の広宣流布への方軌は僧俗一致であり、古来からの伝統となっています。大聖人様御在世における、日興上人と熱原三烈士をはじめとする農民が受けた熱原法難。さらに、金沢法難をはじめ、讃岐・仙台・洞ノロ・伊那・尾張・八戸等の各法難は、すべて僧俗一致の信心によって乗り越えてきたのであります。


さて、具体的な本年の行動として、御法主日如上人猊下は、新年の辞にて、『祈祷抄』(御書630ページ)、『王舎城事』(同975ページ)の御文をひかれ、「特に、本年は大佳節の前年に 当たるところから、全国4カ所において『地涌倍増大結集推進決起大会』を行うことになっております。この大会は、御命題達成を期して行われるもので、先ず、この『決起大会』を大成功裡に修め、決河之勢いを以て21年の大佳節へ向けて進取果敢に大折伏戦を展開し、御命題の地涌倍増と7万5千の大結集、更に記念総登山を達成すべく、僧俗和合・異体同心・一致団結して事に当たられるよう衷心より願うものであります」(
大白法732号)と、私共僧俗に対し、温かく激励してくださっております。全国の僧俗が心を一つにしなければなりません。自ら唱題を重ね、折伏と明年の大結集、記念総登山へ向けての活動を懸命に実践していこうではありませんか。

ある評論家が、最近の政治の腐敗、経済・医療のすさんだ状態を見て、「世相の裂罅(れっか=さけめ、ひび)」と表現していました。現在の世相を見る時、750年前の姿と酷似しています。日蓮大聖人様が『立正安国論』をお認めになられたのは文応元年ですが、当時、鎌倉幕府による政治、経済のすべてが腐敗し切っていた上、大飢饉、疫病の大流行、大風雨、大洪水、鎌倉中の建物が一宇も残さず倒壊したという大地震など、天変地夭が頻発していました。今日の世界における様々な不幸な姿を見れば、まさに今こそ、正法流布の時であります。 我ら日蓮正宗僧俗は、一日も早く時を感じ起ち上がらなくてはなりません。

2月3日、全国に先がけて実施される西日本決起大会(京セラドーム大阪)の成功は、全国の法華講員、さらには全世界の信徒に感動を与え、確信をもって実践する勇気を与えることは間違いありません。「躍進の年」にふさわしい幕開けとなりますよう全僧俗が大会の大成功を祈りましょう。

そして、その大歓喜をもって、2月24日の九州決起大会、4月29日の北海道決起大会、そして最後を飾る6月15日の東日本決起大会と、平成21年の御命題達成のために、次々に開催される本年のプレ大会のすべてにおいて、大成功を修めようではありませんか。

また、2月度は月例の御報恩御講、広布唱題会の他、節分会、日興上人御正当会、宗祖日蓮大聖人御誕生会と諸行事が続きます。これらは、広宣流布への誓いを新たにする法要であると同時に、法統相続の絶好の機会でもあります。様々な行事の続く2月度ですが、進んで寺院へ参詣し、その歓喜をもって折伏誓願の早期完遂に邁進してまいりましょう。




中華民国台湾花蓮県に妙照院花蓮分院が開院


去る1月20日、躍進を続ける台湾の花蓮県において、妙照院花蓮分院の開院法要が執り行われた。これには台北市本興院主管・石橋頂道御尊師をはじめ台湾全寺院より8名の御僧侶が御出席。さらに地元信徒を中心に台湾全土から約600名の信徒が参集し、共々に台湾第7番目の法城誕生を慶祝した。

これまで台湾の東海岸に位置する花蓮県地区の信徒は、車で片道約3時間あるいは電車で1時間半をかけて最寄り寺院の妙照院(宜蘭県)に参詣を続けてきた。

妙照院主管・佐藤信俊御尊師は、花蓮地域信徒の激励のため、昨年1月より出張御講を開始された。5月には御法主日如上人猊下を台湾にお迎え申し上げた喜びも重なり、参詣者は毎月着実に増加を続け地域拠点開設の気運が高まり、出張御講開始から1年で妙照院分院の開設に至った。今回の分院開設は、これまで地道な活動を続けてきた花蓮地域の信徒にとって、大きな成果である。地域広布の道場を得、さらなる発展が期待される。


開院法要は午前・午後の2回に分けて行われ、第1回目は主に地元信徒が参列し、午前11時より、海外部長・漆畑行雄御尊師の代理として石橋御尊師の導師のもと、御本尊御開扉・献膳・読経・焼香・唱題と如法に奉修された。引き続き式の部に移り、はじめに東台本部・朱幹事の経過報告に続いて、漆畑海外部長からの祝電が披露され、次いで林徳晃講頭と石橋御尊師から、それぞれ祝辞が述べられた。最後に佐藤主管から丁重な謝辞があり、法要はとどこおりなく終了した。

続いて午後2時より第2回目の法要が行われ、これには主に台湾全土、遠隔地からの信徒が参列した。法要は午前の部と同じく奉修され、式の部では、経過報告・祝電披露に続いて許副講頭、石橋御尊師からそれぞれ祝辞が述べられ、佐藤主管の謝辞をもって法要は終了した。

法要終了後、代表者による記念撮影が本堂で行われ、和気あいあいとした雰囲気の申、待望久しかった新法城開設の喜びを改めて分かち合った。

なお、花蓮県は、大理石の産地として有名であり、海外からも観光客が訪れる太魯閣国立公園を擁する自然豊かな地域である。新分院は地元信徒の参詣の便を考慮し、花蓮市に隣接する吉安郷の花蓮市側に位置し、付近には大型量販店や市場があり、最寄りの駅までは徒歩10分と好立地にある。建物は、鉄筋コンクリート7階建てビルの7階部分で、約100坪のフロアに、椅子席で200名収容の本望並びに受付・事務所・会議室等を備えている。




小説富士 『二箇の相承(五)』


家康が僧侶の法論を聞き分ける力を持っていたらしいということから、慶長16年12月15日の、二箇相承について「釈尊五十年の説法、白蓮阿闇梨日興に相承す」というところを見て「神君これを御覧じて、彼徒爾前の説という事を頻(しき)りにいいののしるは、其宗の本源を知らざるか、此の文をみれば、四十余年未顕真実の義にはわたらざるか。五十年の仏法とあるからはと也」と言われるところが、論の正否は今は問わず、面白いところである。

故に「二十二、久遠寺の古状」(要集9−24ページ)に、

二十二、久遠寺の古状 祖滅三百余年、久遠寺日珍の筆か、尾缺のもの妙本寺に在り。今前半不用の分を省く。

と註があって、その下に、

〇、一、垂須の御大事西山に納り侯処に、乱取り仕り候甲府の岡右衛門と申す者、目安(箇状書きの訴状=筆者註)を上げ申し候所に、則西山より取帰し江尻に龍め置かれ候。時に又、西山も目安をもって所望申され侯。その時重須と西山と駿府に於いて対決侯。

然りと雖も、重須も西山も兎角の儀之なき所に、家康の云はく「御僧達は如何様の義あって踞(うずく)まれ候や」と御尋成され候へども、両住持共に相互に辞退有って兎角これ無し。又家康云はく、「世間と仏法とは同か異か」と云へり。御傍に他宗の長老二人あって云く、「同」と云云。さては二十年過ぎ侯、公事は入るべからず侯。

その時西山日春の云はく、「釈迦の説教は二千五百余年に罷り成り候。それぞれ沙汰いたして以って仏法と云ふ時は『異』なり」と。家康の云はく「その説教は衆生利益に自他の宗旨を立つると聞く。加様の六かしき公事をせよと云ふ仏説は珍らしき次第なり。とかく我は無知なり、破戒なり、比の沙汰は知るべからず。その上今川御先祖に御器用の守護等これ多し。その時落著する所を、只今、我が分別として三百年来持ち来る重宝などをとかく云ふべからず。勝頼の如き物数寄(ものずき)なる事は知恵有っての事なり。家康は是非の沙汰は申すべからず。御大事は三百年持ち来る・・・」(己下缺欠)

とあるが、二箇相承を前にして、家康のどっちにもつかぬ態度が面白い。そしてこれは次のような経過が分かると多少想像がつくと思う。それは、

二十一、妙本寺古記 無題の記録なり筆者年代不明なれども祖滅三百二年後のもの。

一、重須と西山と御大事等の本門寺諍ひの事

天正九年、高祖三百忌なり、西山日春、邪義を企てて、三月十七日、武田勝頼の印判を以って増山権右衛門、西山衆と重須に押しよせ二箇相承を奪う。(要集9−23ページ)

とある。前掲の西山日春は、二箇相承を重須本門寺より奪った日春である。重須北山本門寺第10代日殿は、二箇相承紛失の翌年の天正10年2月6日に、武田方に二箇相承等の奪われた宝物の返還を訴願したが果たすことが出来なかったので、その責任をとって断食憤死している。この日殿憤死の遺恨は、敵将勝頼に通じたかの如く、勝頼は僅かに39日目の3月11日に自殺して果てている。

筆者も2,3年前、勝頼の自尽の地、景徳院や、天目山栖雲寺を訪れたことがあるが、勝頼、勝頼の夫人、その子信勝、それぞれの自尽の場所が小さな石で示されているのを見た。さすがに思わず時の経過を忘却して、瞼の中に悲惨な状景が思い浮かべられて、今なお鬼気迫るものがあった。場所は笹子のトンネルを出て車で10分、右手の山を入って30分くらいの所にある。

史書によれば、

勝頼は諏訪より陣を撤退して新府(現在の韮崎)に拠らんとしたが、都留郡の豪族小山田信茂のすすめにしたがって、その居城若殿城におもむくこととした。3日に新府の居館を焼いて、簾中一門とともに山道をふみこえて移るのである。(中略)しかしその逃避行も叛心をいだいた信茂の策略によるもので、笹子峠において信茂は急に勝頼を邀撃(ようげき)した。

勝頼はおどろいて天目山にこもろうとしたが、兵士はほとんど逃散してしたがうものわずか41人というありさまであった。やむなく田野という所の一民家に入り(中略)しばらくここにかくれたが、11日になって滝川一益・河尻秀隆らの兵が来攻したので、勝頼は夫人北条氏と子信勝とともに自尽し、41人の侍たちと50人の上臈たちがここに殉じたのである。(中略)信玄の没後わずか10年で、武田氏領国の甲・信の一門や将兵が、(勝頼に)これほど精神的に離反しさっていたということは、まったく驚くべき事実であった。いったいどうしたことであろうか。

これにはいろいろな理由があるが、信玄の内政は、山地の多い後進的な甲・信の領国に、急速な富国強兵策をはかることによって、いちおうの成功をみたけれども、それだけに民衆にはかなりの重圧がかかっていたのであった。(中略)その領下の民衆の生活はきわめて苦しかったはずで、領国内での逃散の禁止と、逃散農民の還住政策がくりかえし出されたのをみても、すでに不満が触発する危険を多分にはらんでいたことが考えられる。いわば一世の大事業の反動が、二世の時代に現われてきたのである。

そのうえに信玄の存在が大きく、その喪をながく秘していたことが示すように、勝頼の立場は当初から軽小に見倣(みな)されてしまった。そこで勝頼は必要以上に強力な行為や態度を示し、作戦にあたっても老臣の意見を無視することが多かった。しかもその計画は、長篠合戦の経過が示すように勝頼の側の失敗に終わることが多かったから、しだいに属将らからも見放されてしまったのである。いわば勝頼は「御曹司」の典型的存在で、かれ自身、力量をもちあわせながら父信玄に比較して自信がなく、それを意識し、克服しようとすると、かえって独走してしまい、信長・家康を相手として領内の支持がえられず、自己の実力を発揮することもできなかった。(日本の歴史 第12巻 中央公論社)

とある。



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