大白法

平成20年5月1日号


主な記事

<1〜4面>

<5〜8面>


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体験発表 『御報恩の折伏成就果たす力となった決起大会』

法光寺支部 A・Y


私の家は浄土真宗で、私も念仏の仏壇に毎日、見よう見まねでお花やお供えの手伝いをしていました。幼い頃から、家庭内に次から次へと問題が起こり、特に経済的な問題は日増しに増え、顔を見るたびに両親はため息をついていました。このような日々が続いて父は自殺未遂をしたこともあり、私も、もうこの家はダメになってしまうのではないかと絶望的でした。その中を、母は友人と神社へ行ってはお札を買ったり、様々な新興宗教に手をつけているような状態で、私は幸せを求めて何かを探している母に、「そんなことは意味がないからやめて」と激しく言っていました。そのためか、宗教に対し良いイメージは全くありませんでした。

そのような折、何度も折伏をしてくれた友人のS君から日蓮正宗の話を聞き、御住職・桑原慧道御尊師のお話を聞くことができ、平成17年2月27日に御授戒を受けさせていただきました。そして今から一年ほど前、祖母をお寺に連れて行き、御住職様にお話していただきました。認知症を患(わずら)っている祖母も、他の宗教とは違う何かを感じたようで、入信を決意しました。すぐに家へ戻り、浄土真宗の漫荼羅等を持ってお寺に向かいました。後で父に、入信に当たって謗法払いをすることを伝えると、ふだんは温厚な父が「絶対にダメだ、持って帰ってこい」と言い、仕方なく返すことになりました。御住職様は「今は所有権が(お祖母さんではなくて)お父さんにあるのかもしれないね」とおっしゃいました。その日の夕の勤行で祖母は御授戒を受けました。

その日から、御本尊様はもちろん、御住職様への恩返しをさせていただきたいと思いましたが、それには折伏しかありません。様々な友人を折伏し、入信した人もいます。その後に一度、信心が停滞したことがありました。もうそれもないだろうと思っていましたが、今年の1月の初めに、また人間関係に悩み始め、勤行ができなくなりました。そんな私に気付いた支部の総務部長さんから、厳しい激励を何度もいただきました。不甲斐なく、心の底から恥ずかしいと思いました。

そんな中で、私は鼓笛隊のスタッフをさせていただいていて、さらに九州決起大会で「地涌讃徳」の合唱の指揮に参加するお話をいただきました。しかし今のままでは御法主日如上人猊下・御隠尊日顕上人猊下の御前に立たせていただくことはできないと、恐くて仕方ありませんでした。すると御住職様から、「まだ間に合います。法光寺の代表としてがんばってください」との御慈悲の言葉をいただきました。それからは毎日のお寺参詣の継続をやり切り、しかも、平成21年の地涌倍増に向かっての折伏戦に、自分も立っていなくてはいけないと決意しました。

決意はしたものの、毎日のお寺参詣と、一軒でも必ず毎日折伏に動くというのは、頭で考えるほど簡単ではありませんでした。幾度となく、今日だけお寺参詣を休んで、明日またがんばろうという自分勝手な考えが交錯してくるときもありました。有り難いことに、私が魔に負けそうになるたびに、夕の勤行終了後に御住職様が、このたびの九州決起大会に臨む決意を御指導くださり、「そうだ、私にとって平成21年の成否は、この決起大会で決まるのだ」と甘ったれたことを考えている自分自身を恥じました。どのような形であっても、御住職様の御指導である、折伏の結果を出して決起大会に参加させていただこうと思い、いかなる魔が競うとも必ず折伏して両上人猊下の御前で指揮をさせていただくことを新たに決意いたしました。

御本尊様の御力と、御住職様の並々ならぬ御指導のおかげで、いよいよ指揮の準備に取りかかることになりました。私は介護師で、練習のため毎週日曜日に休みを取ることは厳しい状況でしたが、同じく指揮を担当された広大寺支部の4人の方にたいへんお世話になりました。指揮を少しでもすばらしいものにと皆で案を出し合い、振りの変更等をしたり、お互いの振りを見ては注意し合って、次第に結束していきました。また、(所属寺院が異なる)私一人が遅れないようにと協力してくださいました。また、音楽隊合同練習には、仕事であまり参加できずにいたのですが、隊員の皆さんは、寒い中でいつも元気一杯で、私はその元気をたくさんいただきました。

すべての方々に感謝して私は仕事と信心活動をする中で、昨年から折伏させていただいていた友人のNさんをお寺へお連れし、座談会で彼女は入信を決意しました。そのまま謗法払いのために彼女の実家へ2人で3時間かけて戻り、すぐに佐世保に引き返したのですが夜10時になったので、彼女を自宅に泊め、翌日の2月13日の早朝勤行のときに中川さんは御授戒を受けることができました。御住職様や支部の方々の優しさにふれて「御住職様や皆さんに会えてよかった。家族や友人のためにもがんばる」と、言ってくれました。その後も実家に近い島原の法義寺で勤行の練習をさせていただいたり、電話で御住職様に御指導を受けたりと、紹介者の私が近くにいない中でも真面目に内得信仰に取り組んでいます。

そしてもう一人、職場の友人のSさんです。昨年、お寺での座談会に参加して入信を決意されていたのですが、魔が競い起こったため、決意が緩んでいました。決起大会の2日前、Sさんに絶対に幸せになってもらいたいと思い、もう一度しっかりお話をしたところ決意され、Sさんはその日に御授戒を受けて、今は勤行をがんばっています。

そして、いよいよ決起大会当日になりました。緊張している私を音楽隊副隊長はいつも励ましてくださり、合唱指揮の5人で勇気づけ合い、コーラスの方々も、たくさん協力してくださいました。本番はよい緊張感の中で始まりました。どのプログラムを見ても感動が込み上げ、涙が溢れました。「地涌讃徳」では、前日のリハーサルで振りを変更したにも関わらず、みんな落ち着いて一丸となり、楽しく指揮させていただけました。音楽隊の演奏は、隊員・スタッフの皆さんの真剣さが伝わってきて感激し、未熟ながらもスタッフをさせていただけたことを心から嬉しく思いました。大歓喜の決起大会で、両上人猊下の御前で指揮と音楽隊の演奏に参加させていただけたことを、御本尊様に心から感謝申し上げました。

御法主上人猊下の御指南に、「信心をしているということは、信心を実践している人のことを言うのであります。したがって、勤行にしても、折伏にしても、実際に身体を使って動かなければ、勤行をしたことにも、また折伏をしたことにもなりません。したがって、声だけを出している人は主体者とは言わないのであります」(大白法715号)とございます。

そこで、決起大会の参加で得た御本尊様への大確信をもって、すぐに友人のNさんをお寺に誘いました。本人も、信心の話を聞く心構えはできていたようでした。不幸の根源は邪宗教にあると聞かされ、びっくりしていました。キリスト教の家に生まれたにも関わらず、彼女だけ洗礼を受けておらず、御住職様のお話も私たちの体験談も、素直に命の中に入っていったようでした。一時間ほどで、自分も信心したいと言い、御住職様の御指導通りに謗法払いを済ませ、3月11日に無事、御授戒を受けることができました。

今回、決起大会に参加させていただかなければ、私の折伏への行動は、もっともっと遅れていたと思います。御本尊様が、信心弱き私の背中を押してくださったのだと強く感じました。今後も御住職様の御指導である、中心から離れず、しっかりとした折伏ができるよう、目標を持ってがんばってまいります。

また、私は法光寺の講員の皆様、青年部の皆様のお心遣いで、いつも元気をいただいています。これからも間違った宗教により苦しんでいる家族や友人知人を、一人でも多く正法に導いていけるよう、がんばっていきます。





小説富士 『二箇の相承(七)』


富士宗学要集8−174ページ

本多作左衛門状(祖滅三百一年) 本多作左衛門重次は、徳川家康の重臣にして有名なる鬼作左なり。垂須の重宝が武田家に押奪せられ、次いで滅亡の際に比の重宝も散乱したるに依り、北山は此の回収に苦心し、西山は後の甲州領主徳川の重臣に托して比の重宝の獲得を謀りしこと、此状に委曲なり。正本は西山にあり。(堀日亨上人の註)


今度大乱に就き、日蓮の御筆、拙者改め出し申し候処、黄金五百両の御礼として下され侯はんとの御兼約候つる処、末代のために侯間、五百両の金を取り申さず候。彼の日蓮の御筆新寄進として永く進せ置き侯。是を以ていよいよ勤経(行)をも御無沙汰なき様に仰せ付けられ侯て、然るべく候。彼の御筆どもに、若し横合の者御座候とも、拙者進し置き申す上は違乱少しも御座あるまじく侯。右の旨、駿甲の御檀方へ仰せられ触られ侯べく侯。仍て置状件の如し。

  天正十午年十月廿八日

本多作左衛門在り判

 本門寺日春上人様

さて、上の文献中の「日蓮御筆の宝物」の中に『二箇相承』が含まれているとすれば、本門寺の日春こそ駿府の家康の台覧に供うべきであるのに、そういうことはなくて、鬼作左の寄進文中の「横合の者御座候とも、拙者進し置き申す上は違乱少しも御座あるまじく侯」とは、これは北山本門寺方を指しての含み言葉と思うのである。

ところが、そう言われている北山本門寺側から、しかも盗まれたと追訴しておる側から、『二箇相承』を駿府の家康に台覧したというのは、いかにも解せないことである。若し推理が許されるとすれば、慶長16年に駿府の家康の台覧に供えた二箇の相承は、古来よりその伝来を云々していた北山本門寺の所有していた写しであるという外はないのである。

では、西山本門寺の所有に帰した宝物中の二箇相承は真書であったのかと言うと、これもどうも真書と断定ができず、一層古い、やはり写本ではなかったのではないかしらと思う。また、『富士宗学要集』には武田勝頼の書状というのがあるが、年号が『二箇相承』が盗まれた天正9年より24年前の永禄元年になっているので、全く信用ができない。

では真書は何処に行ったのであろうか。これは決して消滅しているはずはない。いつの日か出てくることがあろうと思うものである。しかしながら、日蓮正宗の化儀化法に、『二箇相承』の精神は七百年来厳然として生きていることを思えば、『二箇相承』の所在は強いて問わなくとも、事実がその存在を示していると言うべきである。


家康の僧侶に対する態度について、有名な「国家安康」という方広寺の銘について、僧侶を試験したことがあるので、ついでに読んでいただきたい。

中央公論社 日本の歴史 十三

(『国家安康』の四字は)家康の名前を引きさいて、家康を呪ったものだというところであった。

家康は側近の板倉重昌を京都につかわし、この四字をふくめて銘文全体の批判を、臨済宗五山の住職らに書き出させた。五山の長老連がどんな答えをしてくるかは、家康に予期しうるところであった。一つには、この文章を書いた清韓文英が秀吉に用いられた人で、豊臣秀頼の帰依を受け、『洛陽無双之智者』と称せられ、名筆家の評判が高かったため、多くの禅僧からねたまれていたからである。第二に家康は、禅宗の僧侶の大部分が気骨に乏しく、権力者に追従することを知っていた。

これより前、(慶長19年)3月7日(家康が方広寺大仏開眼供養の延期を命じたのは同年の7月)、家康は五山の僧を駿府に呼び集めて試験をした。すなわち論語の中にある『政をなすに徳をもってするは、たとえば北辰(北極星)のその所にいて、衆星のこれにむかうがごとし』という文章を題として、これについて作文させた。出て来た答案はほとんどすべて『天下がよく治まっていること北辰が動かざるがごとく、徳川の御代は万々歳だ』などと、時世にこび、家康に追従を述べるものばかりであった。

家康はこれらを見て『おもしろくないことばかり書いてある。北辰が動かずにいて、多くの星がそれを中心にしてまわっているように、天下の者が君主の徳をしたって来る。その徳とはどのようなことかを考えるのが肝心なのだ』と批評したという。(中略)家康は崇伝に対し、五山の塔頭の知行の大小を調査し、学問ある僧のいる院には知行を増し、無学の僧の院の知行は削れと命じた。




異流儀破折
非学匠は理に詰まらず―正信会


正信会の難癖

本年正月号の『正信会報』に、自称正信会における昨年度の教師講習会の講義が掲載された。そこでは、色々と理屈をこねまわし、御法主日如上人猊下の御指南について「法義の混乱」などと難癖をつけている。

その「混乱」とは、御法主上人が、『文底秘沈抄』の、「事を事に行ずるが故に事と言うなり」(六巻抄41ページ)との本門の題目についての御指南を挙げて、「大事なことは、信心とはあくまでも理論や観念ではなく体験であり、実践である」(趣意)と、常々、我ら僧俗を督励されていることに対して、「一宗を代表する貫主自らが事・理の法門について、非常に単純な見解をもって信徒倍増への理論として用いている」(同会報39ページ)というものだ。


正信会の混同

要するに、この筆者は、「日寛上人は、理と事の相違が法体のそのものの違いであるとされてい(る)」(同会報68ページ)とし、事と理の相違は法体の相違に限られ、修行の違いを示されたものではないかの如くとらえ、御法主上人の御指南に言いがかりをつけているのである。

しかし、御法主上人が引用されている『文底秘沈抄』そのものに、「(事を事に)行ずる」とあるではないか。「行」とは修行である。すなわち、観念ではなく、実践を意味している。法体に、事と理という相違がある以上、その実践修行にもおのずから大きな差異が生じることは当然ではないか。その事と理の法体の異なりに基づく我らの修行の相違を示されたところに、御法主上人の御指南の主意があることは明白である。そのどこに、「法義の混乱」などがあろうか。


理行と事行の異なり

そもそも大聖人は『三大秘法抄』に、「題目とは二意有り。所謂正像と末法となり」(御書1594ページ)と仰せられ、正法・像法時代と末法とでは、同じ題目を唱えようとも、大きな違いがあることを示されている。すなわち、正像時代の題目は、いずれも、「自行の為にして広く化他の為に説かず。定理行の題目なり」(同)と御教示され、化他行がないことをもって「理行の題目」と示されているのである。

これに対して、大聖人が御所持される末法の題目とは、「前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(同)と御指南である。すなわち、自行のみにとどまらず、化他行を伴ってこそ事行となるのであり、本門の題目の真の功徳も具わるのである。


信行ともに具足せず

日寛上人は『文底秘沈抄』に、「信行具足して方(まさ)に本門の題目と名づくるなり」(六巻抄71ページ)と御教示である。この「信行」とは、正しい御本尊への信仰心はもとより、自行化他にわたる実践修行をも含むことは、今さら言うまでもなかろう。

この二つがそろい、初めて「本門の題目」となり、その信行に邁進するところ、おのずと体験を積む。この貴重な体験と実践を強調された御法主上人の御指南に、「法義の混乱」と難癖をつける正信会は、信行ともに具足せず、その活動に功徳が具わることもない。



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