□□□□▲旅のフィールド〈メモ〉▼モバイル▲□□□□□□□□□□□□□ No.158 中国山東省2003−14.臨[シ畄]04 晏嬰墓はどれ? ◇◇◇◇▼旅のフィールド〈メモ〉▲モバイル▼◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ ―――――//―――――――――――――――――――――――//――――― ●晏嬰墓を探して *斉国*歴史博物*館(チィグォ リーシー ポーウーグァン)の次は、これ も友人ご指名の晏*嬰墓(アンイン ムゥ/あんえいぼ)だ。晏嬰は晏子(ア ンズ)とも呼ばれ、2600年前の斉(チィ)国の三代国王の宰相を担当した孔子 (コンズ)と同じ時代の政治家だ。その晏嬰を記念してつくられた墓である。 この墓は、古代日本と同じように塚となっていることは事前に調べている。 地図で大体の位置はわかるので、平らな畑の中ならば遠目にもわかるだろうと いうことで歩き始めた。 バスで走ってきた道は、北へ向かっている。まっすぐ行けば、左手のどこか に塚が見えてくるはずだ。 といっても、市街の地図ならばなだしも、郊外になるとおおよその位置関係 しかわからなくなるのが中国の町地図だ。だから、半分は勘を頼っての行動に なる。 そうしていると左手に塚が見えてきた。地図では道のすぐ脇にあるように表 示されているが、その塚はちょっと離れすぎている。友達は、それに引かれる ものを感じていたらしいが、3人での協議の結果、もう少し先まで行くことに した。 しかし、それらしきものは一向に見えてこないので、メルトモさんが道端の 人に聞いてみると、どうやら先ほどの塚のようだ。このように、地図はかなり 大まかと考えなければならない。 ともかく、今は斜め後方に見える塚に向かって歩くことにした。あたりは平 らな畑、塚は遠くからもよく見える。時間をロスした分、畑の中に入り、あぜ 道を行くことにした。それにバス道は車が猛スピードで走っていくので、この ほうが安全だ。 *斉: *歴: *館: ●晏嬰墓への道 東西南北に区画された畑の中を、右や左へと畦を行きながら塚を目指すが、 畑の中には人の背丈ほどのビニールハウスがあり、視界がきかない。 畦が交差し視界が開けたときに見当をつける。畦は黄土が積もったと思われ るきめの細かい土で、雨が降ったときには相当ぬかるみそうだ。今は乾いて固 まっているが、深い轍があって歩きにくい。 そういう道を歩きながら、やっと塚にたどり着いた。塚は畑の中で塀に囲ま れている。回りには、畦しかなく、車が入れるような道はない。 塀に門らしきものが見えないので、畦を使って回り込んでみることにした。 南側に来ると、塚から木の列が畦に続いている。こういうのは道であることが 多い。 果たして、前に回ってみると、そこにはコンクリートで舗装された、塚へと 続く道があった。しかし、そこは車が入ってこれないような深い轍が刻まれた あぜ道なのだが。 ●晏嬰墓 以前、晏嬰墓を訪れたことのある人のページによると、周りを畑に囲まれて 近づくことはできなかったそうだ。しかし、ここはできる。晏嬰墓かどうか確 認してみよう。 友人はこの塚にさかんに引かれるから、晏嬰墓と確信しているようだ。それ も、あと10メートルばかり近づいていけばはっきりする。 果たして、それは晏嬰墓だった。名前を刻んだ碑がある。もちろん、新しい ものだ。 崩れたようになっている裏面に対して、正面はなだらかに整えられ、下草が 刈られて数十センチの木が等間隔で植えられている。 ひとまず、正面から参ったところで裏に回り込もうとしたら、途中で網が張 られていた。この意図はわからないが、こうなったら先に進まないのが無難だ。 と思っていると、一人のおじいさんが反対側からやってきた。 ぼくたちに向かって何か話しかけてくる。表情から怒っていないことはわか る。メルトモさんによると、この塚の上には登れると言う。信仰心の厚い友人 は顔を曇らせたが、老人は何も気にしないで登っていった。そう、このクール さが中国人の一面なのだ。 塚と碑しかない晏嬰墓を見終わったら、ちょうど昼ごろだ。バスが通る道ま で行き、一旦ホテルまで戻った。 ○晏嬰墓 『文字鏡研究会』 ●つづく● Copyright(C), Taki 2003 □□□□▲旅のフィールド〈メモ〉▼□□□□□□□□□□□□□□□□□□ |