□□□□▲旅のフィールド〈メモ〉▼モバイル▲□□□□□□□□□□□□□ No.161 中国山東省2003−17.臨[シ畄]07 東周殉馬坑、歩く、歩く ◇◇◇◇▼旅のフィールド〈メモ〉▲モバイル▼◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ ―――――//―――――――――――――――――――――――//――――― ●歩く 古*車博物*館(グゥチャァ ポーウーグァン)から一旦ホテルに戻り、昼食 を食べたから今度は*東周殉*馬坑(トンチョゥ シュンマ ケン)だ。こちら もターミナルの案内板に書かれているのでそのバスに乗った。 とにかく、*臨*[シ畄](リンズ/りんし)では乗ることが多かった26路。先 日行った*斉国*歴史博物館(チィグォ リーシー ポーウーグァン)を過ぎて しばらく行くと、またあった。殉馬坑の看板が。 そこで降りて歩き始める。畑の中の道をまっすぐ行くと、またあった殉馬坑 の看板だ。矢印の通り左折して、またまた歩き始める。 すると、またあった。今度は右折。順序は地図の通りだ。とにかく、看板が あるので安心だ。すると、すぐに見えてきた。時間にして30分。中国では近い ほうだろう。 *車: *館: *東: *馬: *臨: *[シ畄]: *斉: *歴: ●東周殉馬坑 この殉馬坑は、斉国25代目の国王、斉景公(チンチンゴン)の副葬品として の坑だ。ここに殉葬された馬の数は不明で、発見されたのでも600頭を超えると いう。そのうち、公開されているのは106匹。 もちろん、規模は西安の兵馬俑より小さいが、年代は400年近く古く、兵馬俑 の前身ともいわれている。それに、作り物を埋めた兵馬俑に対して、こちらは 生き物を埋めたのだ。 王の墓室のほうはすでに盗掘され副葬品は無くなっていたというが、馬の死 骸など盗掘者の興味を引くものではないだろう。そのためか、完全な状態で出 土したらしい。 坑は墓室の東西北の3方を巡り、東西各70メートル、北側75メートル、幅5 メートル。1964年と1972年に2度で計84メートルが発掘された。 ○東周殉馬坑 ●意外な殉馬坑 民家とは違うものの、古びた門は、今まで行った斉国歴史博物館や古車博物 館とは明らかに違う。 入り口のチケット売り場には誰もいないので中に入った。すぐに建物があり、 その中に人がいたので入場料を払った。10元(約130円)。 入り口を入ってフロアがあり、そこに殉馬坑全体と、公開されている部分の 概略図があるところが、博物館っぽい。そして、すぐに展示室につながってい る。 坑の上をガラスで覆って、延々と馬の骨が並んでいるのは古車博物館と同じ だが、ここは殉場坑なので馬だけしかない。それが一列に並んでいる。 展示施設そのものが地味なことと、この直前に古車博物館に行ってしまった ことで、ちょっと気が抜けてしまったが、この殉馬坑は大規模なものだ。 馬は2列に整然と並んだ姿は壮観で、馬の頭は外に向け、頭を上げ四肢は曲 げられ、疾走している状態で埋葬されたと考えれれている。 これだけの規模で馬が殉じて埋葬された例はほかにない。馬というのは、古 車博物館でもわかるように、当時にはすでに戦争には欠かせないものとなって いた。 にもかかわらず、これだけ大量の馬が一度に殉葬されたのは、当時の斉国の 勢力を反映している。春秋5覇の一つといわれた斉国の象徴だろう。 ●歩く、歩く そのあと、斉国故城(チィグォ グゥチャン)の最も北にある排水道口(パ イシュイ タオコゥ)を見ようと思った。地図によると、このまま西に移動し て、バス道にでてからさらに北にいったところにあるようだが、この地図がそ こまでシビアに対応しているかどうかは、行ってみるまでわからない。 今までのように看板があるとは限らないので、わかりやすいようにもと来た 道を戻ることにした。 しかし、いくら歩いてもそれらしい看板は見えないし、遺跡の性質上、晏嬰 墓(アンユィン ムゥ/あんえいぼ)のように遠くから見えることも期待でき ない。 それでも地図で見ると少し行き過ぎているようだ。途中、排水道口への道ら しいものを見つけたので、そこに行ってみようと思った。 しかし、歩き続けて疲れてしまったし、もう夕方近かったので明日はここか ら探索することとして、ホテルに戻った。 『文字鏡研究会』 ●つづく● Copyright(C), Taki 2003 □□□□▲旅のフィールド〈メモ〉▼□□□□□□□□□□□□□□□□□□ |