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No.217 中国山東省2003―51.中国考13 中国とお墓のはなし

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●中国人と墓

 山東省の烟台と青島の間は何度か移動したのだが、途中、山の斜面に石板の
ようなものが乱立しているのを見かけた。
 それが何かわからないが、墓石かもしれないという。畑として使われていな
い山の斜面のあちこちに立てられている。日本の霊園のようにきっちりと区画
はされていない。
 漢族の墓というと、町から離れたところに土饅頭を作る地味なものが有名だ
が、実はいろいろなタイプがある。
 特に、南部の福建省あたりでは、大きくて立派な墓をつくる。その影響を受
けたのが、沖縄の亀甲墓(きっこうばか)だという。
 まだ、福建の墓は見たことがなく、香港の深*[土川](シンヂュン/しんせん)
との境界にある、落馬州(ロッマァザゥ)の展望台の近くにそれらしいものを
見たので、沖縄の亀甲墓とよく似た形式だ。
 沖縄の墓から想像すると、中に人間が入ることができるほどの大きな空間を
持つ墓に違いない。
 また、土地代が高い香港では、コンクリートで作られたコインロッカーのよ
うなものの中にお骨を収めて墓とする。また、一定期間収めると、そこから出
て行かなければならないと聞いたことがある。ただ、それ以後お骨がどこへい
くのかは知らない。

*[土川]:
今昔文字鏡

●居住区と墓

 とはいえ、多くの場合、漢族の墓は居住区から離れているように感じる。日
本の場合も、集落の近くには本来墓はなく、人が住みにくい土地や集落のはず
れなどにつくられていたようだ。
 しかし、近現代の開発で住居と墓が近づき、お墓の隣に人が住んでいること
も少なくないようだ。 そういうところは、戦後に開発された住宅地ではない
だろうか。もしそうであるのなら、そこは以前は人が住めなかった、住まなか
った土地ということだ。
 なによりも、墓の隣に住んでいても、そこに先祖の墓がある人は少ないでだ
ろうし、墓の近くは家賃が安いとも耳にする。やはり、日本人も住居と墓は分
けている考えを持っているようだ。
 もっとも、近代以前、当時世界最大の人口を持つ都市であった江戸でもすで
に起こっていたことかもしないし、江戸時代に始まった檀家制度も、日本人と
墓との距離を狭めたかもしれない。
 とはいえ、確かに漢族の集落と墓の距離からすると、日本の墓は集落にかな
り近いということはいえるだろう。
 その理由の一つは、死者の霊をともらう儀式を繰り返し、祖霊にする事も関
係しているのでは、と思う。
 また、日本と比較して考えると、漢族は、チベット族のように死後の体と霊
は別のものと考え、体は悪霊が憑依して悪いことをしないように集落から遠く
はなれたところに葬った、ということかもしれない。

●先祖

 日本で死者をともらい達成する「祖霊」と言うものは、簡単に言うと個性を
失った漠然とした神様だろうか。先祖代々の死者の魂の集合体の神。
 もちろん、日本に伝わってきた仏教の中には無い。恐らくは、日本古来の信
仰ではないだろうか。
 中国の先祖崇拝については詳しくはないのだが、広東や香港などの、客家の
円楼の縮小版のような圍(ウァィ)では、中央に代々の先祖が祀られている廟
がある。これれは日本の祖霊の考えに通じるものがあるように感じる。
 ただ、そこに先祖の遺骨や遺髪などが安置されているかどうかまでは知らい
ないので、ただ魂だけを祀った廟なのか、それとも墓も兼ねているのか、そし
て、一族の死者が全員祀られているのかどうかも知らない。

●陵

 中国で土饅頭型の墓というと、やはりいくつもある王墓だろう。日本でも今
から2000年近く前、弥生時代末期から古墳時代にかけては、巨大は墳墓を作る
習慣があった。
 たとえば、古代中国の巨大墳墓としては秦の始皇帝陵があるが、その時代の
日本はまだ弥生時代。古墳が作り始められるのは文字通り古墳時代。後漢から
三国時代だから、そのころの中国では地上に盛り上げた陵を作っていたのかよ
くわからない。
 日本の古墳の形状や石室の石組みは朝鮮との共通点が多いそうなので、中国
発祥としても、一度朝鮮でワンクッション置いて日本に伝わったものだろう。
 このような墳墓型の墓は、臨*[シ畄](リンズ/りんし)でいくつも見た。特
に、市街のはずれには田斉の王陵が並び、中国のピラミッドとも呼ばれている。
 それらの陵は四角い基壇の上に円錐状の土盛があるのだが、その四角い基壇
の上がすべて畑となっていた。見た目からもこれらが古代の王陵だとわかって
いると思うのだが、畑だ。
 これも共産党の指示の結果かと思ったのだ、遠くに見える王陵の頂上に立つ
人影。目の前の王陵も頂上まで道がついている。
 そうそう、王陵だけでなく、当時の宰相晏嬰の墓も同じように上に登る道が
ついていた。同じ墓でも、最近死んだ人の墓と何千年も前に死んだ人の墓では
扱いが違うのだろうか。なかなか興味深い。

*[シ畄]:
今昔文字鏡

●つづく●
                   Copyright(C), Fieldnotes. 2004
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