『春星』連載中の中川みえ氏の稿
1
以下 子規の俳句 2へ
子規の俳句(一)
中川みえ
○ 雪ふりや棟の白猫声ばかり
明治十八年一月八日付の子規の竹村鍛に送った手紙にだき添えられていた句で、現在判明している子規の最も古い句である。
竹村鍛(錬卿・黄塔)は河東碧梧桐の三番目の兄で、早くから母方の家を継いで竹村姓を名乗った。「子規とは無二の友で、書を詠むにも、詩文を作るにも好敵手であった。」(河東碧梧桐「子規の回想」)
子規は松山中学へ入学した明治十三年の春、竹村鍛(錬卿)、三並良(松友)、太田正躬(紫洲)、森知之(松南)らの友人と同親吟会をつくり、竹村の父の河東静渓の指導を受け、漢詩を競った。この年から翌年にかけて、彼らは多くの回覧小雑誌をつくった。子規の文学の基盤はここで培われた。
回覧雑誌の仲間の一人で、子規とは 〃再従兄弟" (子規の母が三並の従姉)であった三並良の記した「子規を偲ぶ」という文中にも
明治十八年頃と思ふ 一日私に俳句を示したこと
がある。(略)だからあの頃からぼつぼつ始めて居たのだらう。
という記載があり、子規が俳句を作り始めたのは、おおよそこの頃であったと思われる。
俳句を始めたばかりの子規が、松山では見られない一面の雪景色が珍しくて、最も親しい友人へ書いた書状へ一句認めたのであろう。
山下一海氏は近著「俳句の歴史」の中で、子規が「寒山落木」をまとめるに当って、明治十八年の頃に一度記したものの抹消した句の中に、
白猫の行衛わからず雪の朝
という句のあることに着目され、この句が「雪ふりや」の句に推敲された形なのであろうと見ておられる。同氏は二つの句を比較して、先の句を、
<雪ふりや〉は生硬であり、<棟の白猫声ばかり〉は、白猫が雪の白さにまぎれて いるという小理屈を述べているが、全体としては、雪のしんしんと降りつもるさまが 、よく描かれている。初心者としての未熟とともに、それゆえの新鮮さがある。
と言い、後の句を、
語調はととのっているが、〈行衛わからず〉という説明でひらめきが失われている。と考察される。
○ 朝霧の中に九段のともし哉
明治十八年作。
「九段のともし」は、九段の靖国神社の献灯、門灯。
「寒山落木」の巻頭に納められた七句のうちの一句。
子規が明治十八年に作った句は二十三句残されているが、「寒山落木」には七句が所収されているのみである。
いづれも手さぐりの習作で、月並臭い他の句と比べて、この句は比較的無難で、素朴な写生句の趣を持っている。
但し、子規が写生を自覚し、提唱するのはずっと後のことで、たまたまこういう句が出来たと見るべきであろう。
「寒山落木」所収の他の六句は、次のようなものである。
梅のさく門は茶屋なりよきやすみ
夕立やはちすを笠にかぶり行く
ねころんで書をよむ人や春の草
小娘の団扇つかふや青すだれ
木をつみて夜の明やすき小窓かな
初雪やかくれおほせぬ馬の糞
○ 一重づつ一重づつ散れ八重桜
明治十九年作。十九年の作品は十四句残っているが、
「寒山落木」にはこの句一句のみが残され、他は抹消された。
八重桜も散る時は一重ずつ散ってほしいものだ、という句意で、一重と八重を対照的に置き、「散れ」という命令形をmいるなど工夫がなされているが、一重 八重という言語の遊戯を主とした旧派的な作品になっていることは否めない。
この句について粟津則雄氏が
散る花を惜しむ想いを八重桜だからせめて一重ずつ散ってくれというふうに言いあらわしただけのつまらぬ句ではあるが、眺めていると、そういう技巧に何とかおのれの心を注ぎこもうとしている子規の姿が見えてくる。花びらの一枚一枚に眼をこらしている彼のまなざしが見えてくる。この句から晩年の有名な「鶏頭の十四五本もありぬべし」とか「箒木の四五本同じ形かな」とかいう句を連想するのは、早計でありまちがっているだろうが、だからといってまったく無関係とも言い切れぬところがここにはあっていかにも面白いのである。(「正岡子規」)
と考察されているのが、非常に興味深い。
明治十八・九年の、旧派宗匠に触れる以前の子規の俳句は、大概このようなものであった。
2000、4、26
子規の俳句(二)
席上兼題 虫 萩
○ 虫の音を聴わけ行くや野の小道 松山 正岡
明治二十年八月発行の「真砂の志良辺」第九十二号)に、四時園其戎撰として掲載された。これが子規の俳句の初めて活字になった作品といわれるものである。
四時園其戎は、大原氏、三津ヶ浜に生れた。松山藩御船手大船頭役。幼少の頃より俳諧に親しみ、長じて京都の花の本七世桜井梅室の門に入り、四時園の称号を得た。
郷里に帰って俳諧宗匠の門戸を構へ、三津浜に明栄社を起し、明治十三年一月社中の月並句を抜粋して、全国で三番目に古い月刊俳誌「真砂の志良辺」を創刊した。
我郷里に俳諧の盛なる 実に先生の力與て大なりといふべし 先生の句、全く梅室の遺響ともいふべく 奇警俊秀、口を衝て発す 他の凡俗輩の及ぶ所ニあらず
(「筆まかせ」)
子規が初めて其戎を訪ねたのは、明治二十年の夏休みの帰省中のことであった。友人の勝田三計(明庵・宰洲)の紹介を得て、折から訪ねて来た柳原正之(極堂)を誘って、往復三里の道を歩いて其戎を訪問した。
先生体顔魁偉、年巳に八十に垂んとす、耳半ばハ聾し、目半ばは盲す 然れども応対ハ懇切に 礼儀ハ鄭重に 而して其中犯すべからざる所あり
(「筆まかせ」)
というのが子規のいだいた初対面の印象であった。
同席した極堂は、この会見を次のように回想する。
子規は早速預て用意の句稿、それは半紙一枚に十句ばかりの俳句をしたためたものを懐中から取り出して、其批評を需めたが、其戎は徐ろに紙面に目を通した後、至極結構に出来てゐますと云ひつつ句稿を返して、暫く何も言はないので子規は、又季のことに就て一二質問を試み、怱々帰り支度を始めた時、何日頃東京へ御帰りになりますかなどと少々愛嬌を言ってゐた。此訪問時間は三十分を越ゆることはない、至てアッサリした簡単な会見であった。
(柳原極堂「友人子規」)
この会談の後と思われる二十年八月発行の「真砂の志良辺」に、掲出の「虫の音」の句が登載された。
九月に子規が東京へ帰る時に、其戎は
盛学に赴く君が首途を祝して
新涼ふしこえてゆく微笑かほ 其 戎
の句をはなむけに贈った。
其戎との面会はこの一回のみであったが、東京へ戻ってからも手紙の往復があって、助言・添削を受けた。二十一年七月廿日付の添削の例が残っている。
(原) 月の夜を教えてくれた火取虫
(改) 火取虫さて見出しぬ軒の月
(原〕 経止めて僧のさとりぬ火取虫
(改) 経読て僧のたすけし火取虫
(原) 木の枝に荷物ハかけて昼寝哉
(改) 木の枝に鳥渡頭陀掛て昼寝哉
「木の枝に」の句については、「荷物ニては雅み少し 頭陀ト致候得ば風情面白く相成候 此辺之処御考合ニ候云々」という其戎のコメントが添えられている。
「木の枝に」の句は、「真砂の志良辺」へは
人の枝に頭陀掛ながら昼寝哉
という句で掲載され、更に「寒山落木」では
木の枝に頭陀かけてそこに昼寝哉
と改作している。
「子規全集」(講談社)の和田茂樹先生の解題によると、「真砂の志良辺」には三年一ケ月間(三回句を欠く)に四十四句が所載され、そのうち「寒山落木」には、
1 原句を訂正しないでそのまま載せたもの--三句
2 添削して掲載したもの--八句
3 掲載したが抹消句となったもの--六句
の十七句と、其戎への書簡中の二句が所収された。
掲出の「虫の音」の句は
虫の音をふみわけて行く小道哉
と改作されたが、最終的には抹消句となった。
「真砂の志良辺」掲載句は、次のようなものである。
初汐やつなくところに迷ふ舟 在東京丈鬼
白梅やゆきかと見れは頼る枝 東京丈鬼
富士見ゆる座敷や今朝も風薫 丈鬼
武蔵野は粧ひふかきかすみ哉 東京丈鬼
丈鬼は子規の俳号で、本名の常規に由来する。
子規の「真砂の志良辺」への投句は明治二十三年八月まで続いた。この間二十二年四月一日に其戎は七十八才で没し、長子其然が同誌を継承した。
子規は最晩年の「獺祭書屋俳句帖抄」上巻の長文の序では、「終に此宗匠に糸口をあけて貰ふ迄も行かなかったのである。」とごく簡単に其戎との接触を述べているが、「筆まかせ」の『大原其戎先生の手書写し』には、
余が俳諧の師は実に先生を以てはじめとす。而して今に至るまで他の師を得ず。
と記している。又、二十七年編と推定される子規稿「なじみ集」には、旧派からたゞ一人其戎を、しかも句稿の冠頭に据えている。明治二十七年という年は、子規が「小日本」の編集長であった年で、新派俳壇を率いて乗り出した年であった。その時期に、既に没した旧派宗匠其戎の句を冠頭に置いた子規のなみなみならぬ配慮は注目される。
2000、5、26
子規の俳句(三)
谷中にある清水うしの墓にもうでて
○一枝やたましひかへす梅の花
明治二十年作。
咲き出した梅の花が友の魂のようだ、という句意。
「清水うし」は、前年四月に没した友人清水則遠。
大学予備門に入学し、旧藩主久松家の常盤会給費生となった子規は、同郷の清水や井林博政と神田猿楽町に下宿した。
清水はかなり以前から脚気を病んでいた。十九年の春先から病状が悪化し、四月十四日の朝あまりにも苦しむので、子規が医者を呼ぶためのお金の工面に出掛けている間に容態が急変し、医者が来た時は手おくれで、脚気衝心で絶命した。子規は自分の不注意から友を死なせたと悔み、自らが施主となって清水を谷中に葬った。
清水を詠んだ句は
清水氏一周忌
落花樹にかへれど人の行へ哉
や、
散る花の行へも見たし苔の下
がある。
○ けさりんと体のしまりや秋の立つ
明治二十年作。
立秋の朝のひんやりした大気の清々しい躍動感を、ごく自然に詠んでいる。
粟津則雄氏は
立秋という季題に、ひんやりした硬質の肌触りと生き生きとした日常感によって新たなる生命を与えていると言っていいだろう。
(「正岡子規」)
と、二十年の作品中では好む句であると言われる。
高浜虚子の「子規居士の古い時代の句を読む」には、明治二十年は「平凡な句が並んで」「月並句としても幼稚」で「後年の子規居士の句の芽生と目されるものは何も認めることが出来ない。」と記してあるが、亡友清水を詠んだ句や、「けさりんと」の句などは、初期の作品中比較的佳句であると思われる。
○ 夕立の来て蚊柱を崩しけり
明治二十一年作。
夕立が来て、蚊柱を崩してしまったという句意で、夏の夕方によく見かける景である。「蚊柱を崩しけり」に夕立の雨の激しさが読みとれる。
この句の鑑賞に当って、松井利彦氏は、子規の初期の句風に観念的なもの(ひねり句)と事実に即したもの、のあることを指摘し、大原其戎との接触に着目して、其戎が天保三大家の一人、梅室の弟子であったところから軽妙な句風と共に、身辺瑣事を写すという句風を身につけることになった。
(「正岡子規」)
と解説しておられる。
いとけなき頃よりはぐくまれし嫗のみまかり給ひしと聞くに力を失ひて
○ 添竹も折れて地に伏す瓜の花
明治二十一年作。
同年夏、子規は向島長命寺境内の桜餅屋月香楼に、三並良、藤野古白と下宿して夏期休暇を過した。ここで執筆した「七草集」の「芒のまき」に載せられた悼句
我幼少の時より養育せられし老嫗のみまかりたりと聞きて涙にむせびける
添竹の折れて地に伏す瓜の花
が原句と思われる。
「いとげなき頃よりはぐくまれし嫗」とは、養祖母の小島久のことである。
柳原極堂は「友人子規」に子規の戸籍を調べ
親類 久
年六十七
と子規の戸籍簿の末尾に掲載されている人物について、
右の久と称する老女は或る事情のもとに士籍を除かれて浪人となりし小島為次郎の 長女で、子規の曽祖父常武の後妻となりし人だが、藩に対し正妻として届け出がたき事情あり、所謂内妻即ち内縁の妻であって、戸籍面に表はれざりしため、斯くは附籍とか親類といふやうな文字が使用されてゐるわけで、子規とは血族上の関係は少しも無い人である。
と記す。血族関係はないものの、子規はこの人に非常に甘やかされ、かわいがられて育った。
「寒山落木」明治三十八年秋の部に
深きちなみある老女の墓に謁でんと鷺谷をめぐりしに数年の星霜は知らぬ石塔のみみちみちてそれぞとも尋ねかねて空しく帰りぬ
花芒墓いづれとも見定めず
という句がある。これも久の墓まいりを詠んだ句で、子規は母に次ぐその愛育の恩を深く感謝して、折に触れては昔を偲ぶのであった。
2000、6、26
子規の俳句(四)
○ 卯の花をめかけてきたかほとときす
明治二十二年作。
二十二年五月九日の夜、子規は寄宿舎で突然喀血した。振り返ってみると、前年八月、風雨の中を友人と鎌倉に遊んだ折に、一塊の血を二度吐いたことがある。又、この年の四月初めの水戸旅行中に、那珂川を下る舟中で非常な悪寒に襲われた。これが発病の原因であろうと子規自身記しているが、この時には気にも止めなかった。
五月九日の夜、寄宿舎で突然喀血した。しかし、翌日医師の診察を受けると、午後には外出した。帰宅後夜の十一時頃又喀血した。この夜ほととぎすの句を四、五十句作ったとされているが、残っていない。
喀血した時の顛末を「子規子」の「啼血始末」に詳しく記しているが、その中に
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規
の二句が書き添えてあるので、これが四、四十句の一部であろうと考えられている。卯の花は、子規が卯歳であったので、それにちなんだものと思われる。
この時から“啼いて血を喀く時鳥“ に自らを擬して、子規という俳号を用いるようになった。
喀血は一週間ほど続き、毎日五勺ほどの血を喀いた。
十一日に母方の叔父大原恒徳に手紙を書いて病状を報告し、「病気之事母上はしめ他の方々へハ可成御話無之様奉祈候」と心くばりして、「私卯歳なれは卯の花にも縁あり従而啼血するといふ杜宇にも廻り親類に相成候もいとおかし」と
卯の花をめかけてきたかほとときす
の句を書き送っている。
夏目漱石が友人と共に見舞に来たのは、十二日のことであった。翌十三日に、子規に喀血後の療養法や入院を勧める手紙を書いた漱石は、
帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
聞かふとて誰も待たぬに時鳥
の二句を添えた。これが漱石の俳句の処女作である。
○ 五月雨の晴間や屋根を直す音
明治二十二年作。
この句の作られた時期や背景は不明であるが、五月雨といふ季語から、喀血前後の作と思われる。喀血で静養中の子規の耳に、梅雨の晴間の屋根修理の音がきこえたのをそのまま詠んだものであろうか。
平凡な句材で、格別の技巧もない卒直な詠みぶりが、この句を嫌味のない作品に仕立てている。
村山古郷著「明治の俳句と俳人達」では、この句を「日本派の前駆を思わせるような姿」で、「句としてはよく纏っている」、「日本派発生以前の作としては、佳句というべきであろう」と評価する。
○ 一日の旅おもしろや萩の原
明治二十二年作。
「真砂の志良辺」掲載句。
或は大宮公園あたりに行ったものであらうか。一日の旅をして萩の原をさまようてゐた時分に出来た句であって、たゞ卒直に「一日の旅面白や」と云ったところが、他の技巧的な句の中にあって気持よく私の心に響くのである。(高浜虚子「子規居士の古い時代の句を読む」)
虚子は、この時代の子規の俳句の月並的技巧に、一種の厭味が付きまとうことを指摘し、この句には「其れがなくて」「他の技巧的な句の中にあって気持よく私の心に響く」と評価する。
京都
○ 祇園清水冬枯もなし東山
明治二十二年作。
この年十二月二十四日、従弟の藤野古白と共に東京を発ち、大磯・浜松・名古屋に宿泊、京都に遊び、神戸より乗船、二十八日に松山へ着いた。
明治二十二年に至って、子規の俳句は
つきあたるまで一いきに燕かな
七夕に団扇をかさん残暑かな
秋風はまだこえかねつ雲の峰
柿の実やうれしさうにもなく烏
など月並的な技巧の発達した句を見るようになるが、それと同時に
白砂のきらきらとする熱さ哉
燕の飛ぶや町家の蔵がまへ
袋井
冬枯の中に家居や村一つ
垂井
雪のある山も見えけり上り阪
というような、日本派の先駆的な作品も見られるようになって来た。
2000、7、26
子規の俳句(五)
○ あたたかな雨がふるなり枯葎
明治二十三年作。
高浜虚子は「子規居士の古い時代の句を読む」に、春もまだはじめであって枯葎からも青い芽はふかないのであるが、其の上にあたたかな春雨の降りそそいでゐる景色、ならびに其景色に対する作者の感情が、この十七字の中にしっくりと出てをる。文字の措き工合によって作者の感じが現はれるといふことは、俳句で一番大切なことであるが、この句の如きはよく効果を挙げてゐると思ふ。
と言い、この句に○を付けている。
○ 桃さくや三寸程の上り鮎
明治二十三年作。
桃の咲く季節になって、三寸程に成長した若鮎が川を上ってゆく状景をそのまま句に詠んだもので、平凡な句材で、とりたてた技巧はないが、卒直な詠みぶりで嫌味のない句である。
○ 朝顔にわれ恙なきあした哉
明治二十三年作。
虚子は「あたたかな」の句と同様にこの句に○印を付けて、次のように解説する。
「朝顔」にの句は、子規居士は年齢はまだ若かったが、その前年即ち二十三年の五月に喀血をしたためにもう病人であった。朝起きて見るたびに別に体に変りはない。今朝もまづ無事だと自分ながら祝福する。そんな心もちがこの句には出てゐる。
(「子規居士の古い時代の句を読む」)
○ 見あぐるや湖水の上の月一つ
月一つ瀬田から膳所へ流れけり
明治二十三年作。
六月に高等中学の卒業試験を了えた子規は、結果の判明する前の七月一日に帰省の途についた。漱石の
早速御注進
先生及第、乃公及第、山川落第、赤沼落第、米山未定
七月五日夜 頓主敬白
のはがきが、子規より先に松山に着いていた。
八月二十六日に上京の為に松山を出発した。途中大阪に大谷是空、太田紫洲の二友を訪ね、大津を経て義仲寺に芭蕉の墓を詣で、幻住庵の址をたずねた、二十九日には日暮から小舟を雇って、月明に湖上を辛崎まで赴いた。掲出の句はその時の作品である。
「寒山落木」には、
湖やともし火消えて月一つ
明月は瀬田から膳所へ流れけり
と改作されている。後年の作品の
鮒鮓や考槃亭を仮の宿
も、この時のことを詠んだものである。
子規は、前年で「真砂の志良辺」への投句をやめて、いよいよこの年から独自の句作を模索するのであるが、今回取り上げたのは比較的佳句であって、大多数は未だ月並な発想や表現の句であった。
この年に句作を始めた碧梧桐の句を、子規が改作した例が残っている。
早びるで泉村より土筆狩 (原句)
筆捨ててけふはつみけりつくつくし (改作)
続々と梅に後継ぐ桃杏 (原作)
梅ちりて桃と杏の後備へ (改作)
春の日に冬見る今日の山の上 (原作)
佐保姫は裾にすがるやふじの山 (改作)
春風の吹き残したる富士の雪 (同)
路のはた錦織り為す桜哉 (原作)
佐保姫の錦織り出す桜哉 (改作)
鶯やたまさか来鳴今宵哉 (原作)
鶯やたまには花の咲かぬ枝 (改作)
この資料を提供した碧梧桐は、
原句の手ぶりも知らないで我武者らに踊ってゐる。改作はさす手引手を心得た型に嵌ってゐる。直感直情の陶冶された詩の境地には距離のあるものとしても、原句にはまだ墾かれない、敷地の処女性が髣髴として全く其の匂ひを失ってはゐない。改作は理智の学問的に働いた、情操を無視した技巧によって強く彩られてゐる。
(「同」)
と解説する。
「さす手引手を心得た型」、「情操を無視した技巧」から脱却をめざしつつも、とっぷりと嵌っていた--それが二十三年頃の子規の俳句であった。
2000、8、26
子規の俳句(六)
○ 菜の花の中に路あり一軒家
明治二十四年作。
三月下旬、「脳病ニ罹り学科も何も手につかず」(大原恒徳宛書簡)二十五日から一人で房総徒歩旅行に出かけた。船橋、佐倉、馬渡を経て千葉に至り、小湊、平磯、館山から那古、船形に詣でて、保多、羅漢寺、鋸山を巡って、四月二日に帰京した。「かくれ蓑」「隠蓑日記」(漢文)「かくれみの句集」の三篇から成る「かくれみの」を執筆して、友人知人に回覧した。
掲出の句は、旅中を詠んだものである。
○ 鴬や山をいづれぱ誕生寺
明治二十四年作。
前出「菜の花の」の句を同じく房総旅行を詠んだ句である。
高浜虚子の「子規居士の古い時代の句を読む」に、
この句は居士に接した当時から聞かされた句であって、その時分から好きな句であった。私はまだ房州の土地を踏んだことがなく、誕生寺といふ寺も知らないのであるが、この句を読んで略々誕生寺といふ寺はこんな寺であらうといふことを想像してをる。「鶯や山をいづれば誕生寺」と詠じた居士の心もちが、自然この句を通して私に伝はって来る。その心もちが、まだ見ぬ誕生寺を一幅の画図の如く私の頭の中に描き出す。
と記されている。
この旅中吟には、他に
馬の背に菅笠広し揚雲雀
の句もあって、旅の実感がそのまま句になって、写生句の趣のある佳句になっている。
軽井沢
○ 山々は萌黄浅葱やほとときす
明治三十四年作。
六月末、学年試験を放棄して木曽路を経て帰郷する旅をした。
先ず軽井沢で一泊して、善光寺、松本、奈良井、木曽福島、須原、馬篭を経て、木曽川を船で下った。この時のことを記したのが「かけはしの記」で、翌二十五年に新聞「日本」へ掲載された。
虚子の「子規居士の古い時代の句を読む」に、
軽井沢の句はその当時から最も私の頭に印象を与へたところのものである、後年私も岐蘇旅行をした時分に軽井沢を通って、なる程居士の萌黄浅葱といった心もちは、この空気の透明な高燥な軽井沢の地で味ひ得る所であると合点したのである。
と記されている。
この旅行中には、
岩々のわれめわれめや山つつじ
舟下岐蘇川
下り舟岩に松ありつつじあり
馬の背や風吹きこぼす椎の花
桑の実の木曽路出づれば穂麦かな
などの句を得ている。
十月廿四日平塚より子安に至る道にて日暮て
○ 稲の香や闇に一すぢ野の小道
翌廿五日大山に上りて
野菊折る手許に低し伊豆の嶋
明治二十四年作。
九月末に追試験受験、合格した。十月二十四日、文科大学の遠足で相模の大山に登った。この山登りの途中で、俳句を話題にしていた藤井紫影、田岡嶺雲に声をかけ、彼らと知り合った。
○ 木枯やあら緒くひこむ菅の笠
明治二十四年作。
自分が俳句に熱心になった事の始りは趣味の上からよりも寧ろ理窟の上から来た原因が多く影響してをる。其は俳句分類といふ書物を編纂せうと思ひついた為に非常に熱心になり始めた。而して此理窟的研究は他の一方に於て俳句の趣味を自分に伝へるやうになったのである。
(「獺祭書屋俳句帖抄上巻を出版するに
就きて思ひつきたる所をいふ」)
子規は俳句分類を連歌時代から始めて、貞徳、宗因を経て、「春の日」「あらの」で佳境に入り、「はじめて『猿蓑』を繙いた時には一句々々皆面白いやうに思はれて嬉しくてたまらなかった。」という。同じ頃手にした「三傑集」にも触発されて、「少し眼が開いたやうに思ふので旅行をして見たくて堪まらなくなって三日程武蔵野を廻って来た。」(帖抄」序)と回想する。
この小旅行では掲出の句の外
夕日負ふ六部高き枯野かな
雲助の睾丸黒き榾火かな
などの句を得て、のちに「句法の稍緊密に赴き懈弛を脱したる此時よりの事なり」(我が俳句))と振返る。
2000、9、26
子規の俳句(七)
蓑一枚笠一個蓑は房州の雨そほち笠は川越の風にさらされたるを床の間にうやうやしく飾りて
○ 蓑笠を蓬菜にして旅の春
明治二十五年作。
前年の十二月、子規は郷里の親戚などの猛烈な反対をおしきって常盤会寄宿舎を出て、本郷駒込追分町三十番地に転居した。政治家になることをあきらめて、小説家として身を立てる覚悟で、面会を謝絶し、小説「月の都」の執筆にとりかかった。
小生やむをえざる儀に立ち至り現に一小説を書きつつあるなり。その拙なること自分ながらうるさく実は冬期休暇己来来客謝絶致候得どもそれだけに仕事は出来ず、一枚かいてはやめ半枚かいては筆を擲つこと幾度といふことをしらず
(二十四年十二月三十一日 高浜虚子宛書簡)
執筆はなかなかはかどらないまま、新年を迎えた。子規は前年の房州旅行で買い求めた蓑笠を床の間に飾り、その上に小さな輪飾を置いて宝来飾りとなし、新春を迎えた。
この句は「寒山落木」では、「旅の春」を「庵の春」と改めている。
破焦先生に笑はれて
○ 冬こもり小銭をかりて笑はるる
明治二十五年作。
二十五年一月、「月の都」執筆中の子規は、筆がすり切れたのに懐中に一銭六厘を有するだけになって、内藤嶋雪に借金を申し込んだ。
碧梧桐の「子規の回想」には、子規が小遣銭や切手代にも困っているという手紙に接して、「此際自分相応な子規奉仕をせなければならない気になって」巻紙二三本送ったという記載がある。
その礼状には、
一、巻紙二巻
難有拝受仕候、小生近来大困窮巻紙にさへ殆んど不自由し居る処、且つ此手紙の字を見て筆の禿したるにても 察し玉へ
と書いてあって、当時の子規の困窮した生活が推測される。
虚子去年の草稿を焼きすてたりと聞きて
○ 春の山焼いたあとから笑ひげり
明治二十五年作。
虚子が前年の句稿を焼いたのを、春の山の山焼に擬した句で、一月二十五日の虚子宛の書簡に記されている。
子規の碧梧桐宛の書簡(前項巻紙の礼状)に、
高浜子草稿焼捨に就て云々の御義論有之候へども、小生固よりどちらが宜敷とも覚え不申候
という記載がある。碧梧桐の「子規の回想」に、
虚子の草稿焼棄問題と言へば、当時虚子は心から自得することのあったものか、今までの草稿を全部焼いてしまふなどと言ったのを、まだ焼き捨てるだけの価値は我々の述作にはない、などと言って、事を仰山にしたことがある。
と、その事情を伝える記述がある。
○ 鴬のとなりに細きいほりかな
鴬の遠のいてなく汽車の音
明治二十五年作。
前年から書き初めた小説はなかなか完成しなかった。やっと二十五年二月十九日の碧梧桐宛の書簡に、「拙著 やうやう完成したり、これからの運命は未定に候」、「拙著小説は月の都と題して紙数(写本)六十枚十二回の短篇也」と完成を知らせて来た。
「月の都」は幸田露伴の「風流仏」の影響を受けて執筆した作品であったので、子規は作品を携えて谷中に露伴を訪ね、批評を乞うた。露伴の評は、はかばかしいものではなかった。子規は「拙著はまづ、世に出る事、なかるべし」と碧梧桐、虚子に書き送った。(三月一日)
同じ頃(二月二十九日)、子規は陸羯南の家の西隣の下谷区上根岸八十八番地へ転居した。
陸羯南は、子規の叔父加藤恒忠(拓川)と司法省法律学校以来の友人であった。
二十四年の秋予が根岸の寓を尋ねて来て、(略)近ごろ俳句の研究にかかって少しく面白味が付いて来たから、大学をやめて専ら之をやらうと思ふと言ひ、根岸に座敷を貸す家があらば世話してくれと云って帰った、その晩端書に「秋さびて神さびて上野あれにけり」といふ一句をかいたのが来た。(略)ちゃうど寓居の向ひに老婦独住ひの家があって、誰か確かな人に下宿させたいとのことであったから早速このことを報じてやったら、すぐやって来て、やがて引越して来た
(陸羯南「一芸に秀でたる人」)
転居を通知する河東可全、碧梧桐宛のはがきに、掲出の句が記してあった。
2000、10 、26
子規の俳句(八)
○ お降りの氷の上にたまりけり
明治二十五年作。
氷の上に元日(または三ヶ日)の雨(または雪)が溜っている状景を詠んだもの。
お降りといふものがすでに持っている趣味にすがらないで、お降りそのものの味を発見している。 (加藤楸邨「俳句往来」)
○ さざ波をおさへる春の氷哉
明治二十五年作。
一月三十日の碧梧桐宛の手紙に
○本日竹村、新海、五百木氏拙宅へ来られ「せり吟」といふことを興行致し候、それは一人題を出して成る可く迅速に発句を作ること也。竹村兄に題を出してもらうて跡の三人にてやって見たが、実に時間をあせる許りにて中々面白き者は少し。其の時間は早きは十秒、遅きも一分を出でず。先出来し者が大声に後者を詰れば、一寸後れたる者はまごついて飛んでもないことを書く杯、一入の興にて候ひき。
と記してあって、次のような句が並べられていた。
競吟以下十八句は皆少しもあとより手を入れぬ者也
半分に富士のうつろや春氷 非風(新海)
冬一分片へに残る薄氷 瓢亭(五百木)
さざ波をおさへる春の氷哉 西子
年の夜 年の夜や霰にまじる豆の音 瓢亭
他二句略
萬歳 萬歳の鼓に開く梅の花 西子
若和布 さざ波のなりにちぢまる和布哉 同
歯ぎれよくくはれてしまふわかめ哉 瓢亭
他一句略
木の芽 柊の今はやさしき木の芽かな 非風
他二句略
鴬 鴬のわらじにとまる野茶屋哉 同
他二句略
左の句は一題十句宛競吟抜華
雲雀 下りるのでなくて落ちたる雲雀哉 非風
下りた後雲に声ある雲雀哉 同
青空に落ちるものあり揚雲雀 同
他七句略
一つ家の留守静かなり揚雲雀 瓢亭
さらさらとひばり追出麦田哉 同
遠乗の馬かすみけり揚雲雀 同
他七句略
年よりの杖にすがるや揚ひばり 西子
峠まできても真上や揚ひぱり 同
飛びにくうないか真上の揚雲雀 同
他七句略
(河東碧梧桐「子規の回想」)
西子は子規の別号、非風は新海非風、瓢亭は五百木瓢亭、竹村は碧梧桐の長兄竹村黄塔である。
この句稿に関しては、同じく碧梧桐宛の二月十九日付の書簡に
○先日三人の句を連ね候内にては、非風の句一番よく、小生の尤悪し、それは貴兄の御鑑定も同じ様也。小生の句にてわかめを御択び被下候へども、小生は萬才をとり候(虚子は小生と同じ意見)
と言ってきている。
せり吟は「競吟」で、子規の創始であるのか、旧派以来の作句方法であるのかは不明であるが、もっぱら句作の早さを競うもので、拙速を尊ぶ遊戯的な句作であった。
この時分の会合の席上句はいつも競り吟であった。題が出るのと同時に、成るべく拙速を尊ぶ句作法で、 其の題にヒントを得た境地を味ひながら少し苦吟してゐたりすると、落伍者になってしまふ、一題の句は十乃至二十位になって、一寸出かたが渋ると、他の題を課して気分を新たにした。大抵一会合に十題位片づけてゐた。(略)競り吟にも飽いて来ると、或る題に他の条件をつけた余興的な遊びもやった。さうして即席のウヰットに罪もなく笑ひ興じたりした。
(「子規の回想」)
「競り吟」「余興的な遊び」に「罪もなく笑ひ興じ」ていたこの時代の子規の俳句は、まだまだ前近代的なものであったと言える。
競吟は、
子規に関するかぎり、長くても一分以内に作句することは '子規の資質としての知的な遊びを排除することとならざるをえなかったし、修辞に心を砕く余裕を与えなかったであろう。そのために、逆に与えられた題、定められた対象に即して、対象自体を把握する、という眼を鋭くさせ、技法に習熟させる機会を与えた、といいうるであろう。
(中村稔「正岡子規」)
という意味に於て、「句作上の練習になったことは非常なものであったに相違ない」(柴田宵曲「評伝正岡子規」)が、それと同時に、即吟即詠による多作、乱作の傾向を生じ、その後の子規の俳句に多大の影響を与えたと思われる。
競吟は子規の仲間の間に流行し、翌二十六年に連座を知るまでしばらくの間つゞいたのであった。
2000、11、25
子規の俳句(九)
○ 烏帽子きる世ともならばや花の春
明治二十五年作。
学年試験が目前に迫って来て、子規は机の近辺の俳書や句帖などをすっかり片づけて、静かに坐っていた。
平生乱雑の上にも乱雑を重ねていた机辺が清潔になって居るので、何となく心持が善い。心持が善くて浮き浮きすると思ふと何だか俳句がのこのこと浮んで来る。ノートを開いて一枚も読まぬ中に十七字が一句出来た。何に書かうもそこらには句帳も半紙も出してないからラムプの笠に書きつけた。又一句出来た。又た一句。余り面白さに試験なんどの事は打ち捨ててしまふて、とうとうラムプの笠を書きふさげた。これが燈火十二ケ月といふので何々十二ケ月といふ事はこれから流行り出したのである。
(「墨汁一滴」)
燈火十二ケ月が成った二月十四日の直後の二月十九日の碧梧桐宛の手紙には、
○小生先日中より十二ケ月といふことを発明し、それ故毎々十二句宛吐出し申侯、別紙に男女句会のみ記載致置侯間、御高覧之上御斧正可被下候(銓兄高浜氏へも一つづつ送り置たり)
と記してあった。「男女句合十二ケ月」を粟津則雄氏の「正岡子規」より転載する。
都の片はとり、余所の蔵陰に月の光さへろくろくにみぬめの浦だなずみ、はきだめに囲まれて春風の吹き残したる九尺二間の其中に浪人とは見えてまづしき夫婦ぐらしありけり、つゞれの虱心なくて身の恥をあかるみへ出せども、腹にしみこんだる錦のみやび心は人しれず朽ちはてぬる浮世のさま是非なし、ある夜の寝物語りにいづれよりかいひ出でけん十二ケ月の句合せんとて吾ー句彼一句打誦しては笑ひ興ぜしを羨しげに耳を壁にはやして聞き取り聞き取り写し終るくせものは其隣にわびねしたる一人くらしの子規子なり
一月
烏帽子きる世ともならばや花の春 男
おそろしき殿御めでたし花の春 女
二月
一鞭に其数知れず落椿 男
いもうとの袂さぐれぱ椿かな 女
三月
ひよひよと遠失のゆるむ日永哉 男
うたたねを針にさされる日永哉 女
四月
朝起は妻にまけたり時鳥 男
ほとときす御目はさめて侯歟 女
五月
うき草や出どこも知らず果もなし 男
藻の花や小川にしづむ鍋のつる 女
六月
中々にはだか急がず夏の雨 男
負ふた子の一人ぬれけりへ夏の雨 女
七月
見た顔の三ツ四ツはあり魂まつり 男
団子もむ皺手あさましたま祭 女
八月
小山田に秋をひろげる鳴子哉 男
砧よりふしむつかしきなる子哉 女
九月
大小の朱鞘はいやし紅葉狩 男
二三枚取てかさねる紅葉哉 女
十月
浪人を一夜にふるす時雨哉 男
爪琴の下手を上手にしぐれけり 女
十一月
猪の牙ふりたてる吹雪哉 男
あかゞりを吹きうづめたる吹雪哉 女
十二月
節分やよむたび連ふ豆の数 男
せつぶんや親子の年の近うなる 女
子規は後に「獺祭書屋俳句帖抄上巻」の序文に
明治二十五年の始にて何やら俳句を呑み込んだやうな心特がして、何々十二ケ月といふやうなものを無暗に作って見た。今見ると勿論句にはなって居らぬ。
と記しているが、試験勉強中の燈火十二ケ月を嚆矢として、男女句合十二ヶ月、風十二ケ月、煙草十二ケ月、十二支十二ケ月、鳥十二ケ月、夢十二ケ月などと、十二ケ月形式で俳句を作ることをしばらく続けた、
子規から十二ケ月形式の句作の話を聞いた幸田露伴もこの趣向に興味をいだいて、僧十二ケ月を作った。(二十五年三月)
子規、明庵、可全、虚子、碧梧桐の五人による「命」の字を詠み込む「命十二ケ月」が兼題として試みられたこともあった。(八月)
十二ケ月の句作法は、秋には露百句、鹿百句、乞食百句、笠百句、唐辛子百句などと、より多作の方向へ展開したが、「修行の足しにはなったらうが、見るに足るべき句は殆どない。」(「獺祭書屋俳句帖抄上巻」序文)と後に子規は振返った。
この十二ケ月という句作法が、近代俳句に於ける連作俳句の濫腸であったことは注目されるべきであろう。
2000、12、25
子規の俳句(十)
○
とろとろ左官眠るやつばくらめ
明治二十五年作。
何となくけだるい春の日中、家の新築現場に壁を塗りに来た左官が、仕事疲れからかとろとろうたた寝をしている。周辺をつばめが飛び交っている。「とろとろ」という感覚語が春のけだるさにふさわしく、又、元気よく飛び交うつばめとの取合せも面白い。
この句は「鳥十二ケ月」の中の句で、四月二十五日付の五百木瓢亭宛の書簡に記されている。「鳥十二ケ月」にはこの他
うかうかと来て鴬を逃しけり
すうすうと烏雲に入るひゞき哉
しんしんと泉わきけり閑古鳥
さわさわと入江をのぼる千鳥哉
ぬくぬくと日向かかへて鶏つるむ
などの句があって、上五に「とろとろ」「うかうか」「すうすう」「しんしん」「さわさわ」「ぬくぬく」という感覚語、擬態語を並べて句作することを試みてもいる。
石手川出合渡
○
若鮎の二手になりて上りけり
明治二十五年作。
「松山名所十二ケ月」の中の一句。
石手川出合渡は、松山市内を流れる重信川と、郊外を流れる石手川の合流するところにある渡し場で、二つの川の合流点を鮎が二手に分れて泳ぎ上るという句意で、川が二つに分れるので鮎も二手に分れて上る、と多少観念的な発想が見えるようであるが、それにも増して、川の透明感と若鮎の躍動感が生き生きと伝わってくる作品である。
明治二十五年六月十七日付の碧梧桐宛の書簡に、
(略)富士十二ケ月、明治新題十二ケ月、及び松山名所名物十二月等でき申候、就中松山名所十二ケ月は既に七十余首に及び申候、(略)十二ケ月中三月の分左に記申候
西山々内神社
西山の花にだきつく涙哉
太山寺
蒟蒻につつじの名あれ太山寺
出台
若鮎の二手になりて流れけり
沙島
貝とりのさしまへつゞく汐干哉
市の坪
あれにけりつばなまじりの一の坪
七曲り
永き日や菜種づたひの七曲り
と記されていて、「若鮎」の句の下五が、原作では「流れけり」であったことが判明する。「流れけり」と「上りけり」で比較すると、「上りけり」と添作したことによって、川を遡る鮎の躍動感が生れて来ている。
「松山名所十二ケ月は既に七十余百に及申候」という記載から、この時代の子規の多作ぶりが窺われる。
○
百姓のたばこ輪に吹く小春かな
明治二十五年作。
温和な小春日の農作業のあい間に、百姓がたばこに火をつけてのんびり小休止を楽しんでいる情景を詠んでいる。今日では何ということもない平凡な句材であるが、当時としては新鮮な写生句であったと思われる。
この句は「煙草十二ケ月」の中の一句で、他に
万歳も煙草すふなり町はづれ
酔ざめや十日の菊にたばこのむ
などの句がある。
○
白露やよごれて古き角櫓
明治二十五年作。
明治二十五年九月十七日付、可全、碧梧桐宛の書簡に、
一題百句其後益盛にして鹿、露、蕃椒、笠(秋季)の四題にて都合四百句は己に出来上り、今は乞食(秋季)の宿題中也(尤百句)。
と、露、唐辛子、笠(秋季)、乞食(秋季)を詠んだ句が四十句ばかり記してあった。
風吹いて京も露けき夜也けり
露夜毎殺生石を洗ひげり
猪や一ふりふるふ朝の露
唐からし心ありける浮世哉
蕃椒ややひんまがって猶からし
添竹を残して赤し唐がらし
萩薄小町が笠は破れけり
はりはりと木の実ふる也桧木笠
菅笠に翁わけゆく野道哉
こつじきや揃ふて出たるけさの秋
乞食の吹きまくらるる野分哉
女郎花乞食の中の女かな
十二ケ月の句作法は、秋には一題百句という更なる多作の方向へエスカレートしたのである。
2001、1、26
子規の俳句(十一)
京東山
○どこ見ても涼し神の灯仏の灯
この年の四月、子規は「城南評論」に「向井去来」を発表した。俳句に関する子規の論述が、新聞雑誌に掲載された最初のものである。
五月には、前年の木曽旅行の紀行文「かけはしの記」が、螺子という筆名で新聞「日本」へ連載された。
六月二十六日から、獺祭書屋主人の筆名で、「獺祭書屋俳話」が同じく「日本」へ連載された。
六月に学年試験を受け、七月上旬に帰省した。途中まで夏目漱石と同行した。柴田宵曲の「評伝正岡子規」では、掲出の句を漱石と共に京都におもむいた折の作であろうと推測している。
二十五年か六年(筆者注-二十五年)の夏、君が帰省して中の川に居られたとき訪ねたら、(略)其時示された句の中に
どこ見ても涼し神の灯仏の灯
といふのがあって今に覚えて居る、これは君が帰途京都での句ぢゃといって居られた。 (村上霽月「子規君に関する記憶」)
神社仏閣の多い京都ならではの風景を詠んだ作品である。
帰郷して
○ 母親になつやせかくすうちわ哉
明治二十五年作。
七月上旬、大阪まで同行した漱石とひとまず分れて、郷里松山へ帰省した。漱石は後から尋ねて来ることを約した。在郷中に学年試験落第の知らせが届いた、
これ程俳魔に魅入られたら最う助かりやうは無い。明治廿五年の学年試験には落第した。リース先生の歴史で落第しただらふといふ推測であった。(略)これぎり余は学校をやめてしまふた。 (墨汁一滴」)
子規はこれからの生き方や 、家族のこと、生活のことなどあれこれ考え、大学中退を決意した。親戚知人などは皆反対した。漱石は、「小子の考へにてハつまらなくても何でも卒業するが上分別を存候 願くぱ今一思案あらまはしう」と、
鳴くならば満月になけばととぎす
の句を送って退学の翻意をうながした。虚子や碧梧桐も心配して手紙を送った。
子規の退学に同情したのは、五百木瓢亭一人であった。「小生の落第を喜ぶもの広き天下に只貴兄一人矣」と子規は瓢亭に書き送った。
掲出の句は、瓢亭に宛てた書簡中に記されていたものである。病身の子規が母親に夏痩を心配させないようにうちわで体をかくすようにしてすごしている、という句である。
上京後、九月上旬に伯父の大原恒徳に宛てた手紙に気になる記載がある。
小生昨朝より少々痰血(尤軽し)之気味ありそれさへ少々痰が薄紅になる位にて午前に四五塊を吐く位之事故決して御心配被下問敷奉願侯
一時小康状態を保っていた肺患は、不気味に動き出す気配を見せたのであろうか。幸いこの時は大丈夫であった。
身内の老若男女打ちつどひて
○鯛酢や一門三十五六人
明治二十五年作。
子規の句に
鯛酢や一門三十五六人
とあるのはこのお母さんの出られた大原家の事を言ったのであろうと思ひます。観山先生には沢山のお子さんがあった。私の知って居るだけでも女が三人男が三人あります。それ等が皆嫁に入ったりそのお子さん達が出来たりして相当の人数になったのでありませうし、その他親戚の方、佐伯家、歌原家などを加へると随分沢山あったのでありませう。兎に角一門三十五、六人とあるのはこの大原家の栄えてをった処の証拠と思ひます。
(高浜虚子「子規の句」)
正岡子規は、慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)に、松山藩の下級藩士正岡隼太常尚と藩の儒家大原有恒(観山)の長女八重との間に生れた。虚子の文中にある大原家は、この大原観山と妻しげ(藩の漢字者歌原松陽の女)の間に生れた小太郎(早生)、恒徳(蕉雨)、恒忠(拓川、加藤家を継ぐ)、恒元(三鼠、岡村家を継ぐ)、八重(子規の母)、十重(藤野漸に嫁す、古白の母)、三重(岸重崔に嫁す)の系列を指す。
歌原家は、大原観山の妻しげの系列である。
佐伯家は、子規の父方の家名である。子規の父は佐伯政景と村(正岡常武の女)の間に生れたが、母方の祖父に当る正岡常武の養子となって正岡家を継いだ。
父を早くに亡くし、母と妹と三人家族であった子規にとって、多くの親戚が一堂に集まってごちそうの鯛酢を食べるのは、うきうきするはれやかな気分であった。
子規の俳句(十二)
○ 君が代も二百十日は荒れにけり
明治二十五年作。
丁度其年(筆者注-明治二十五年)の二百十日であった。日本新聞は発行停止を命ぜられた。僕は多少試験の気味で、君何か一句ないかいと言ったら言下筆を把って
君が代も二百十日は荒れにけり
とやった。こいつはなかなか喰へぬ代物だ,よくもコンナに十七字の中にこなしつける事の出来るものだと,只だもう訳もなく矢鱈無性に感服して仕舞った。
(古島一念「日本新聞に於ける正岡子規君」
この年の五月,子規は螺子の名で「かけはしの記」を「日本」に寄せたが,「俳句入の紀行文と云ふが.一寸其頃には珍らしかったから,新聞の材料には面白からうと思ふた位の事」(古島一念「同」)というのがおおかたの見方であったと思われる。
「凡て大学の卒業生など云ふものは,多くは新聞其物を作る上に左程役に立たぬ」「純文学は人事と関係のない以上は,新聞紙の上には不調和なものである」という観念を持っていた古島は,子規のこの即吟の諷刺句にいたく感服した。そこで,国分青崖の評林と共に子規の俳句の時事評を以て紙面を飾ることが出来ると思いたち,更に時事評を詠じるよう子現に依頼した。「是より日々の紙上君が俳文若しくは俳句を見ざるの日はなかった。」と,古島は次のような句を紹介している。
◎話の種いろいろ
明治御家騒動
大名の家より吹きぬ初嵐
岐阜再度天災
家もなし水とうとうとして天の河
老伯三度弁解
うしろ向けば我にも吹くや秋の風
銀貨幣乱相場
金銭の色よ稲妻西東
異国王子来遊
この国は日も善い月もよいところ
◎人の噂も十七字
人の腹をゑぐるとは悲しきたとへに引れたる墳墓発掘
薄ほるあとのくぼみや小雨ふる
薮をつついて蛇を出すとは改進新聞に対する告訴事件
稲妻やうしろ見らるる居合抜
寸のびれば尋のびるとは一日一日と延引する行政整理
咲きさうにしながら菊のつぼみかな
蟻の思ひも天にとどくとは同志の集めたる大日本協会
鼾する門たたかばやけふの月
古島は、「凡そ社会百般の事一たび君が耳目に触る.るものは、悉く題詠に入らざるはなく、しかも其一句が下し得たる断案の能く事物の肯累に中って居るには驚いた。」と子規の力量を評価し、「今となって見ると、コンナ事に君を煩したのは気の毒であったと後悔するが、負ける事の嫌ひな君は快く此注文を引受け」たと回想する。私は、このことと「小日本」の編集主任抜擢は無関係ではないと思う。子規は即戦力になれることを実証した。
首途
○旅の旅又その旅の秋の風
明治二十五年作。十月三日子規は大磯へ行き、松林館に滞在して仲秋の月見をして「大磯の月見」を「日本」へ寄稿した。
掲出の句は、十三日の午後汽車で大磯を発ち、国府津から鉄道馬車で湯本へ行き、鎌倉屋に泊った折の句で、碧梧桐宛の十七日付の手紙には、この句と
行先のはっきり遠し秋の山
の二句を「首途」として証している。
この小旅行は、翌日三島へ行き、十五日に修善寺へ至り、十六日には熱海から小田原へ出て大磯に帰着するというもので、「旅の旅の旅」と題する紀行が十月三十日から十一月三日の「日本」へ連載された。
旅行中に三島から虚子に送った写真には、
甲かけた結びこまるる野菊かな
の句が記してあった。
範頼の墓に笠をささげて
○鶺鴒よこの笠叩くことなかれ
明治二十五年作。
「旅の旅の旅」の旅中、源範頼の墓に参詣して詠んだ句である、この小旅行中に詠んだ句としては
再遊松林館
色かへぬ松や主は知らぬ人
箱根
槍立てて通る人なし花薄
箱根茶店
犬蓼の花くふ馬や茶の煙
などが、「獺祭書屋俳句帖抄上巻」に所収されている。
明月を大磯に見て其れから箱根を旅して帰った時には少しく俳句の寂といふ事を知ったやうに思ふた、 (「獺祭書屋俳句帖抄上巻」序)
と後に回想する旅であった。