『春星』連載中の中川みえ氏の稿
2(1に続く)
2001、3、27
子規の俳句(十三)
中川みえ
○ 松杉や枯野の中の不動堂
麦蒔やたばね上げたる桑の枝
明治二十五年作。
十月二十九日、子規は内藤鳴雪(南塘)と共に日光へ紅葉を見に出掛けた。十一月二日付竹村鍜(黄塔 - 碧梧桐の兄)宛の書簡に
小生も豆相漫遊之後亦好機会を得て先日南塘先生に具して日光の観楓に出掛、其絶勝に驚入候、先生と僕と合せて数百の俳句ありといへども、一句として此風光に副ふ者無之候
と記して
東照宮にて
杉の木や三百年の蔦もみぢ
の句が添えられていた。
掲出の二句もこの折の作品で、後に「獺祭書屋俳句帖抄上巻」の序文に
冬の始に鳴雪翁と高尾の紅葉見に行た時は天然の景色を詠み込む事が稍々自在になった。
麦蒔や束ねあげたる桑の枝
松杉や枯野の中の不動堂
などいふ句は此時出来たので、平凡な景、平凡な句であるけれども、斯ういふ景をつかまへて斯ういふ句にするといふ事がこれ迄は気の付かなかった事であった。
と記したところから、子規の俳句開眼の句として著名な作品である。
今日のわれわれは、俳句における写生を当然の事とし、むしろ或いはこれを幼稚なものと軽率にも考えがちであるが、何々十二ヵ月、何々百句と多作法を経て更に実景に即して写生することを漸く自得するに至った当時の苦心を思うべきである。今日のわれわれの俳句は、こうして苦心して得られた写生を基礎とし、そこから発展して来たもので、近代俳句における写生の基礎的、発展的意義は重要である。その写生は、子規の苦心惨憺の後に漸く自得したこの平凡な景、平凡な句を発生源として発展したものであった。
(村山古郷「明治の俳句と俳人達」)
子規の写生に関する大先輩の提言を、私も実作者の一人として常に念頭に置き、写生軽視に警鐘を鳴らしたい。
○ 旅人の京に入るや初時雨
明治二十五年作。
大学を中退し、陸羯南の「日本」への入社がほぼ決りかけていたので、子規は母や妹を呼び寄せて一緒に暮すことにして、十一月九日に出迎えに出発した。途中京都に立ち寄って、第三高等学校に在学中の虚子へ手紙を届けさせた。
お母さんや妹さんを連れに国へ帰る途中、この地へ降りて今麩屋町の柊家に泊ってゐる、暇があらば遊びに来ないか
(高浜虚子「はなやかなりし頃の子規」)
という趣旨のことが記してあって、そこに掲出の句が添えてあった。
芭蕉の「旅人とわが名呼ばれん初時雨」と似た句になっているが、或いは芭蕉の句が頭にあって、即興的に詠んだものかも知れない。それだけ古俳句的である。 (村山古郷「明治の俳句と俳人達」)
翌日虚子を伴って文学論をたたかせつつ嵐山に遊び、「この日の興筆には書きがたし。この時われは尤も前途多望に感じたりし時なり。」と後に「松羅玉液」に記した。
訪愚庵
○浄林の釜に昔を時雨けり
明治二十五年作。
母と妹を迎える旅の途中京都に立寄って、虚子と嵐山に遊び、妓王寺の跡を訪ねて至福の時をすごした子規は、その夜手土産に柚味噌を携えて、虚子を伴って、産寧坂下に愚庵を訪ねた。
愚庵は天田氏。幕末の会津戦争に十五才で従軍し、父母と生別し、一時侠客清水の次郎長のもとに寄寓して養子となった。その後、写真師、神官などになり、政治に志を持ったが、「世を儚なんで」(高浜虚子「子規について」)三十四才で剃髪して禅僧となり、大阪内外新報社を退いて京都清水に小庵をむすび、仏法と詩歌三昧に世をすごしていた。「容貌魁偉の僧であった。」(虚子)
子規と愚庵はこの日が初対面であった。
愚庵は東山清水のほとりにあり。ある夜虚子を携へて門を叩きしに庵主折節内に居たまひてねもころにもてなさる。(略)
庵主炉上の釜を指して曰くこは浄林の作にして一箇の名物なるをある人の喜捨によりて庵の宝と為りしものなりと。言はるるままにつくづく見れば菊桐の紋一つ二つ鋳出したるがいたく年古りたりとおぼしくゆかしき様なり。(「松羅玉液」)
後年この日のことを回想した「松羅玉液」の文章には
凩の浄林の釜恙なきや
の句が添えてあった。
2001、4、26
子規の俳句(十四)
○日の本の桜に不二の夜明哉
明治二十五年作。
同年六月二十六日から十月二十日まで三十七回にわたって、「日本」新聞に子規の「獺祭書屋俳話」が連載された。これを読んだ伊藤松宇は旧知の高津鍬三郎に紹介を依頼して自詠の富士百句を送り、子規の批評を請うた。
松宇(伊藤半次郎)は、洗耳という俳号を持つ父をまねて俳句を作り始め、十三、四才頃からその父の指導を受けるようになった。十八才頃から加部琴堂に連句を学び、琴声と号して、毎月東京の春湖、永機、幹雄、金羅らに添削を乞うなどして句作に熱中した。
明治十五年、数え年二十四才で上京した半次郎は、俳号をそれまでの琴声から松宇と改め、旧派宗匠の門を叩いては俳句の話をきいてまわった。
明治十九年再度上京した松宇は、渋沢栄一のはからいで第一銀行に勤務することになり、横浜支店へ配属された。ここで横浜郵便局に勤務する森無黄、税関職員の岩井市僊の二俳人と親しくなり、更に無黄の郵便局にいた森猿男も加わって、俳句会を開くようになった。彼らは後に尾崎紅葉の秋声会に参加することになる。
また、著名な俳諧宗匠の九世雪中庵雀志(斉藤銀蔵)が当時三井銀行の横浜支店長であったので、彼とも交際するようになり、その所蔵する古俳書に接して、強い興味をいだくようになった。
明治二十三年、松宇は第一銀行を辞して東京人造肥料会社に移り、日本橋浜町に住むようになった。同じ頃に森猿男も東京逓信管理局に移って、浅草の猿谷町に在った。第一高等学校舎監で後に日本銀行員となった片山桃雨も、同じ猿谷町に住んでいた。本所相生町には、郵便電信支局長の石山桂山がいて、彼らは宗匠俳句にあきたらず、四人で交替で自宅で運座を開き、自分達の好む俳句を作り、互選する方法をとっていた。そのことを知って、蠣殻町に住む相場師の石井得中も仲間に加わった。
彼らは松宇の発案で、芭蕉の
先づ頼む椎の木もあり夏木立
の句に因んで、"椎の友“と会名を定めた。
ところで、二十五年六月二十六日から「日本」に連載された「獺祭書屋俳話」は、従来の俳論に見られぬ斬新なものであったが、当時の俳人の多くは殆んど無関心であった。著名な宗匠でもない一学生が、新聞という新しいメディアに俳句を論じたことは好奇心をいだかせたであろうが、これに瞠目したわけではなかった。松宇は、
この論文に注目した数少い人物の一人であった。彼は子規に会いたいと思い、先ず旧知の高津鍬三郎を介して、自詠の富士百句を送って子規の選評を請うた。
十月九日、子規から各局に丁寧な批評を加えた返書が届き、秀逸十句が選ばれていた。(古郷「明治俳壇史」)
元日や凡そ動かぬふじの山
枯尾花ふじは裾より現はれし
けふの菊ふじを南にながめばや
桃さくやふじを抱込む一在所
暮いそぐ姿も見えず師走不二
かりそめの雲も時雨つふじの裾
雲の峰ふじを根にして立ちにけり
裾野からせかれてふじの山笑ふ
つと立ってふじに向ふや白重
小六月ふじへ登らん日和哉
子規もこの月大磯松林館に保養中に詠んだ富士の句百句を送って、松宇の選評を求めた。松宇の選んだ秀逸十句は次の通りである。(村山古郷「明治俳壇史」より)
日の本の桜に不二の夜明哉
夏痩の名にも立ちけり裾野富士
蕣の不二を背にして咲きにけり
引板縄に富士を動かす夜明哉
ほし綿や不二見る背戸の一と筵
枯折れて不二あらは也初嵐
凩やしがみ付たる不二の雲
富士へ行く一筋道や冬木立
はかなしや富士をかざして帰り花
灘の暮日本は不二斗り也
こうして二人の交流が始まり、「其年(明治廿五年)の十二月上旬でもあったらうか、夜分私の所へやって来られ、初対面にも拘はらず、殆ど旧知の如く談話に花が咲いた。」(伊藤松宇「雑誌『俳諸』を発刊するまで」)
十二月九日付の子規の松宇宛の書簡には、この訪問の礼や珍書数部に借りた礼のことばと共に、十日の句会に出席する旨が記してあった。
その十二月十日、子規は浜町の松宇宅で猿男、桃雨、桂山、得中の椎の友の四氏と初めて顔を合せ、互選の連座に参加した。「是れ後の俳聖正岡子規氏が連座会と云ふものの座へ出席した嚆矢である。」(伊藤松宇「同」)
この当時旧派の句会では、選句は宗匠のみが行った。子規達の句会は、集まって題を課して作句し、それをお互に批評しあうというものであった。
ところが椎の友の句会では、一座した人々が作句し、それを互に選をする互選方式が探られた。
匿名で出句し、互選で佳句を選ぶ方法は今日では一般的であるが、これは椎の友の創始による当時最も斬新奇抜な連座形式で、初めて参加した子規は面白くて夢中になり、何度も繰返し行って、遂に徹夜になってしまった。
2001、5、28
子規の俳句(十五)
○ わびしさや囲炉裏に煮える榾の雪
明治二十六年作。
前年十二月、初めて椎の友の連座に参加した子規は、新しい句の仲間や互選形式の新鮮さに興味を抱いた。 二十六月一月には、古白宅(三日)、土居薮鶯宅(七日)、根岸会(九日)、松宇宅椎の友会(十二日)、子規宅(十五日)、根岸岡野大発句会(二十二日)、鳴雪宅(三十日)などと、頻繁に句会が催された。
十五日に子規宅で開かれた句会には、鴫雪、松宇、猿男、桃雨、古白が出席した。
掲出の句はその日の子規の出句である。
外から持って来て囲炉裏にくべた榾に積っていた雪が、じゅうじゅう音をたてて煮えている。その音に冬のわびしさをひときわ感じているという句である。
上五にいきなり「わびしさや」という観念的な語を据えて詠む発想は、ともすれば点数の勝負を競う椎の友との連座で「どうか高点を得たいとの念許り盛んに相成」(二月二日高浜虚子宛書簡)った結果ではあるまいか。
この日最も評判の高かった句は
富士の雪三嶋あたりに水ぬるむ 桃 雨
であった。松宇は
年玉や京からくれば京のもの 松 宇
という句を出句した。
これら椎の友の作品は、「把え方はまだ旧派的で」「子規派との句風の違いは既に存在していた」(松井利彦「正岡子規」)そういう場で詠んだ作品である。
子規はこの日の記事を「根岸庵小集の記」と題して「日本」に掲載した。子規を中心とする句会の記事が「日本」紙上に載った最初である。
○ 一村は谷の底なり雉の声
明治二十六年作。
一月三十一日付の河東碧梧桐宛の書簡に、「昨日鳴雪翁宅大会席上連座各人の句中高点を得しもの一句づつ」と、次のような句が記してあった。
蛇籠から四五本出たり土筆 桃 雨
初花や明星寒き梢より 得 中
峠から牛迯しけり桃の花 明 庵
涅槃会や一歳ふりの鐘の音 桂 山
遠蛙雨に音なき夜也けり 松 宇
水の月草を出て鳴く蛙哉 五 洲
梅かかの雫含ミて蕗のとう 薮 鴬
足よりも重き心の絵踏哉 猿 男
初鮒に酢のきき過し膾哉 烏 雪
やどかりの宿を明たる日和哉 飄 亭
瀧かれて三千丈のつらら哉 古 白
大佛に雪のなだるる朝日哉 鳴 雪
一村ハ谷の底也雉の声 子 規
この年に入ってからの頻繁な句会は、子規の身辺を賑やかにしたが必ずしも満足するものではなかった。意に染まない月並な作風や、点数による勝敗を競う様相を、同書簡に「小生余り好ミ不申候」と記し、「はじめは面白かりしが今は俗気紛々として少々いや気に相成申候」と虚子へも書き送っている。(二月二日)「どうしても発句ニ俗気を帯びてどうか高点を得たいとの念許り盛んに相成候」(同)「此頃の様に俳句之競争杯盛に相成候ひてハ在京諸友の句皆々多少の俗気をまじへ自然又ハ故意にあてこみ杯をやりいやな事に候」(碧梧桐宛)と、このような句会の状況に危惧を抱いている。
○ 萬歳や黒き手を出し足を出し
明治二十六年作。
きらびやかな衣裳をまとって、賑やかに鼓を打ち、新春の賀詞を述べて家々を巡る.萬歳師の手や足は黒く日焼けしている。きらびやかな衣裳と、そこからのぞく手足の黒さに象徴される日常生活、その対比の面白さを詠んだ句で、椎の友との句会での作品。
この句を読んだ時に、虚子の「子規居士と余」に記されたあるエピソードを思い起こした。
それは、二十八年の子規の従軍の時のことであった。念願の従軍がかなって、新調の服で新橋から出発する子規を見送る駅でのことであった。
「萬歳や黒き手を出し足を出し……。」と何かに斯ういふ居士の句の認めてあるのを見乍ら、「近頃の升さんの句のうちでは面白いわい。」と何事にも敬服せない古白君は暗に居士の近来の句にも敬服せぬやうな口吻 を洩らした。居士は例の皮肉な微笑を口許に湛へ額のあたりに癇癪らしい稲妻を走らせ乍ら、「ふうん、そんな句が面白いのかな、其ぢゃ斯ういふのはどうぞな。……運命や黒き手を出し足を出し……其方が一層面白かあ無いかな。ははははは」。
其は古白君は今の抱月、宙外諸君と共に早稲田の専門学校に在って頻りに「運命」とか「人生」とかいふ事を口にしてゐたので、元来其が余り気に入ら無かった居士は一矢酬いたのである。古白君も仕方無しに笑ふ。
ほどなく、子規の従軍中に自決する古白と子規の永遠の別れとなった光景である。
2001、6、28
子規の俳句(十六)
政府と議会と衝突すれば議会は和衷協同の語を籍りて勉めて之を避けんとす
○ 鞭あげて入日招くや猿まはし
明治二十六年作。
この年の初めに、伊藤内閣と議会が軍事予算をめぐって対立したのを諷刺して詠んだ句で、一月十九日の「俳句時事評」の中の一句である。
松井利彦氏の「正岡子規」に依ると、猿まわしが演じていたのは「難波」という演目で、結びに「入日を招き返す手に。入日を招き返す手に。」「聖人御代にまた出て。天下を守り治むる」の語があるのを句にしたものである。
この日の「俳句時事評」には、他に次のようなものがある。
政府再び衝き戻せば議会三たび衝きつけて敵の強弱を試みんとす
綱引やややしばらくは声もなし
此後の処置果して如何此間の方略果して如何
其箱のうちのぞかせよ傀儡師
一帯の御溝浮世を隔て)禁苑の草木条を鳴らさず丹頂の鶴は雲間に舞ひ緑毛の亀は巌上に遊ぶとことはに久しき君が代にぞありける
屠蘇に酔ふて亀も躍るや岩の上
子規の時事評句は、内容もスタイルも種々様々で、詞書によってさまざまに表情を変える。「現在の新聞に見られるコメント入りの時事漫画のようなもの」であるという粟津則雄氏のたとえが、最も適切な評価であろう。子規のジャーナリストとしての感覚が、キラリと鮮かな切口を見せる瞬間である。
「俳句時事評」は、この日を嚆矢として十二月二十日まで断続的に二十七回掲載された。
○ 小松曳袴の泥も画にかかむ
明治二十六年作。
二十四年の暮、椎の友は旧派が新年に春興の刷物を出すのに倣って、新春の俳巻を作ることを決した。春興らしく口絵を入れることにして、得中が其角堂永機に依頼した。脱旧派を旗印に集まった椎の友が、旧派の代表的な宗匠である永機に口絵を依頼するのはいかゞなものであろうか、という意見もあったが、“選を依頼するのではない"ということで、永機に口絵を頼んだ。俳句掲載の順番は抽籤で決めた。
翌二十六年の新春にも春興を発行した。これには、前年末より交流がはじまった子規の俳句も登載された。掲出の俳句がそれである。
小松曳は春の季語で、「平安時代、正月初の子(ね)の日に小松を引いて遊んだこと。ねのひのあそび」(「広辞苑」)である。
この二度目の春興の口絵は薫義という画家のものであったが、それに永機の賛同が添えられていた。
脱旧派を目標にしながら、旧派と完全に訣別出来なかった椎の友が、「旧派を半歩脱した」(松井利彦「正岡子規」)と評価される由縁であろう。
春興
○ 我王の二月に春は立ちにけり
明治二十六年作。
二月三日、新聞「日本」紙上にはじめて子規やその仲間の俳句が掲載された。
春興
我王の二月に春は立ちにけり 子 規
酒もすき餅もすきなり今朝の春 虚 子
野も山も神の灯ともる睦月かな 非 風
閑居
我庵は粥の薄きを鶯を 碧梧桐
初夢を語りあふ家人に対して
初夢やわれには語る夢もなし 十 口
古河黙阿弥其水翁を悼む
其水のもとにかへりし氷かな 弘 美
の六句である。
雑報欄五段組の片隅を区切って、ぽつんと十行六句が掲載されていた。「日本俳句」とも「子規選」とも書かれていなかった。これが子規の新派俳句の牙城となった「日本俳句」の発祥である
その事情を古島一雄は虚子との対談で次のように述べている。
古島(略)それから奴は俳句を選んで載せなければならぬと言ひ出した。
虚子 毎日十七句だったね。
古島 それが日本俳句として出したんだ。その時分、虚子、碧梧桐、鳴雪等同人の俳句を集めてたんだ。それが日本俳句の初めだ。
虚子 日本新聞ね原稿紙が十八行あって、一行に題を書き句を十七並べた。
古島 貴様の勝手なことをやれ。そこは治外法権にしておいた。(「ホトトギス」)
その後明治の新派俳句の主流となった日本派の名称は、 この俳句欄に由来するのである。
2001、7、28
子規の俳句(十七)
○ 譲り葉や歯朶や都ハ山くさし
明治二十六年作。「俳諧」掲載句。
前年末に始った子規と松宇の交際は、この年には椎の友や子規の仲間にまで広がった。椎の友では、新たに雑誌を刊行する気運が高まり、子規に協力を求めて来た。
二月二十八日に桃雨宅に子規、松宇、猿男が集って、新雑誌の発行と各自の分担を決した。
三月二十三日「俳諧」第一号が発刊された。菊判型活版印刷で、本文四十八頁。定価六銭で三百部を印刷した。本文の他に赤い紙が一枚綴じてあり、表に予告として埋木、栞草へ予定している俳書の目録を揚げ、裏面に俳句募集の要領が示されていた。
巻頭の「緒言」は子規が記した。
(略)今我等がものする雑誌ハ名つけて俳諧と云ふ。あながち流派を争ふ迄もなし。俳書に古今ありて俳諸
に古今なく俳人に上手下手ありて俳風に上手下手なきを知らは足りなん。大方の君子又此心を以て之を求め 給はば俳諧は此雑誌に在り。(略)
埋木は、山崎宗鑑の「犬筑波集」と伊丹鬼員の「ひとり言」で、松宇が担当した。
栞草は、桃雨の担当の一陽井素外「俳諧手引種」と、猿男の担当の「俳諧木槌七部集冬の日註釈」の二項目。
子規は古鏡の「類題句選等」と雑録の「先哲遺訓」「近事漫録」を担当した。
四十八頁の雑誌の四十四頁半を古俳書の紹介に当てているのは、いかにも椎の友らしい。
俳句は雑録の「新選佳調/に三十二名の五十二句が登載された。その一部を左に掲げる。
橋こせば酒屋もありて柳かな 梅 龕
草むらの中に茗荷の匂ひかな 薮 鴬
鳥雲に入りてほろほろ雨のふる 霽 月
長閑さに案山子も弓を落しけり 桂 山
夕月や納屋も厩も梅の影 鳴 雪
花の夕鐘の黒さよ大きさよ 瓢 亭
さいわひに炭にもならて山桜 猿 男
五つ子を酒の片荷や山桜 碧梧桐
山咲をいづれは広き湖水かな 非 風
仏の座苗代までを一さかり 五 洲
五六本咲くやよしのの初桜 子 規
白雲の雨となる日や山桜 桃 雨
水の上に余り重たし八重桜 古 白
山路来て名の無き里の蛙かな 明 庵
陽炎や狂女にたかる悪太郎 松 宇
黒塚の春さへ寒し薊草 得 中
「俳諧」第二号は、五月四日に発行された。
内容はほゞ 一号と同じであるが、表紙扉に「『俳諧』発行の趣意」が掲げられている。
凡そ文芸の趣味は詩に歌に多しと雖も簡古澹泊高雅清逸の在するものは古の俳諧に若くはなしされば古来風雅の士輩出して能く斯道に力を蓋したれども近世に至り斬新を争ふの弊終に卑猥俗陋に流れ甚しきは営利の目的を以て風流を過まるに至る是れ斯道の衰る所以にして又警策を要するの時機也茲に篤志の名家に請ふて本誌を発行し古俳譜の高雅清逸の趣味を知らしめ併せて温故知新の端を開かんと欲す願はくは世の俳諧に遊ぶの人之に依て思無邪の観相を養ひ吟風嘯月の資料を探り以て明治文学の新面目を発揮せられんことを
すでに「明治文学の新面目を発揮」しようという気運が生れて来ていることは注目される。
第二号の「新選佳調」は三十人四十八句。狙酔、孤松、爛腸、虚子の句が新たに登場する。主な作者と作品は次の通りである。
夕月や網にちりこむ桜鯛 孤 松
一町の田を啼余る蛙かな 爛 腸
楊貴妃の在所は淋し梨の花 古 白
藤を名に残して荒るる野寺哉 素 香
苗代に虫除紙の寒さかな 桃 雨
京女花に狂はぬ罪深し 虚 子
梅が香や二十四番の花の兄 狙 酔
ふりかかる夜の雨寒き二月哉 梅 龕
弁慶の毛臑も見たり花の幕 瓢 亭
無住寺の鐘ぬすまれて初桜 子 規
「俳諧」は残念ながらこの二号を以て廃刊となった。
五月二十日伊藤松宇宛の書簡に
小生独断にて新撰佳調二頁だけ相ふやしその代り富士をやめ申候 。右御諒承奉願候。罪はいくらにても小生が負ふつもりに御座候。いまだ校正にも来らず不届至極に御座候
とある。校正もしないまま廃刊に至ったのであろう。
廃刊の理由は明らかではない。「運座を楽しむことが主であった椎の友の人々には、雑誌発行の煩瑣な仕事には不馴れであったろうし、旧派のように地盤も門下も持たない小数の同人雑誌にすぎなかった『俳諧』は、経済的にも成り立たなかったのであろう」(村山古郷「明治俳
壇史」)という説が最も一般的である。
「俳諧」第二巻の「新選佳調」は、大部分が子規関係の作者の作品であった。古俳書の蒐集や研究に重きを置く椎の友と、純粋にひたむきに句作に励む子規らとは、微妙に俳句に対する考え方の乖離を生ずるようになったのではなかろうか、と筆者は想像する。
2001,8,28
子規の俳句(十八)
母の詞自ら句になりて
○ 毎年よ彼岸の入に寒いのは
明治二十六年作。
母が何気なくつぶやいたことばが、そのまま俳句になっているのが面白くて採録したもの。
○ 行春や硯にならぶ蕪村集
明治二十六年作。
この頃、子規も松宇もそれぞれに古俳書に注目していた。子規は二十四年頃から俳句分類に着手していたし、松宇は第一銀行横浜支店勤務中に旧派の著名な宗匠の九世雪中庵雀志から古俳書の話を聞き、またその所蔵する珍書を見せられたりしているうちに、古俳書に強く興味をもつようになった。
二人とも蕪村の俳句に注目していたが、「蕪村句集」は未見で、何とか手に入れたいと願っていた。子規の仲間や椎の友の人達が集まった席で、「蕪村句集」の発見者には賞を出そうという話がもち上った。
ほどなく、片山桃雨が蕪村の句を集めた写本を見つけて来た。報賞品は硯で、子規が「贈硯辞」を書いた。
賞を懸けて蕪村句集を求む一呼してこれ
に応ずるもの桃雨君となす志斯道に篤きこ
と知るべし
賞なからんか約にそむく也射利に近し小硯
一枚を贈りて其責を塞ぐとしかいふ
行春や硯にならぶ蕪村句集
鳴雪松宇二氏に代りて
子規記
桃雨は大野洒竹の許にあったものを借用して来たのであるが、写本で、句数も少かった。
その後松山の村上霽月から「蕪村句集」上巻を入手したとの知らせがあり、自ら筆写したものを送って来た。
完全に上下揃った「蕪村句集」をさがして来たのは鳴雪であった。これによって、日本派に蕪村熱が高まるようになったのである。
○ 涼しさやぱせをを神にまつられて
明治二十六年作。
この年の三月から五月にかけて、子規は地風升の筆名で「日本」に「文界八つあたり」を連載して旧派宗匠を論難し、月並俳句の打破を説いた。
曽て都下の宗匠数十人一同に相会す。一儒生立て宗匠を罵るの演説を為すに一人の之を聞く者無し。其の 訳を間へは則ち其罵言を嫌ふに非す宗匠の過半は寧ろ之を解せさる者なりと。何ぞ近時の宗匠の無学無識無 才無智卑近俗陋平々凡なるや。然れ共其無学平凡なるは猶一凡人として之を恕すべし。権門に伺侯し富豪に 出入し幇間を以て体を為し俳諧を以て用を為すの好悪宗匠に至りては其害の大なる却て一時の懸賞発句等に 勝ること方々なりといはざるべからず。鳴呼誰か之を刈る者ぞ
という過激なものであった。
七月四日、子規は陸褐南の口添えで、林江左を紹介者に、日本橋の割烹店で旧派の大物宗匠の春秋庵三森幹雄明倫講社々長に面会した。東北・奥羽方面への旅行に旅立つに当って、各地の俳諧宗匠への紹介状を依頼するためであった。幹雄は「日本」紙上の子規の文章を読んでいた筈であるが、快く承諾してくれた。
翌日明倫講社へ幹雄を訪ねて行き、各地宗匠への添書を受取った。この時に子規は掲出の「涼しさやぱせをを神にまつられて」の句を作り、「些かの皮肉を篭めながら幹雄を讃えた謝恩の情」(村山古郷「明治俳壇史」)を示したのである。
添書は美濃紙に記されていて、包みの表紙に「添書正岡常規持」とあり、内容は次のようなものであった。
添書
正岡常規
獺祭書屋主人
俳号 子規
右友人正岡氏土用休暇中祖翁細道之跡を尋ね殊に地方視察之為遊杖致侯間御逢之節ハ宜敷御風交被下成て特文学上之事ニ付御問答之度ハ無御遠慮御尋可被成候何事ニても本会へ之用事も御相談被下侯て不苦侯間為念添書仕候。 匆々頓首
三森三木雄
磐城国
岩代国
陸前国
陸中国
陸奥国
羽前国
吟路諸大家
御中
其声は花橘や子規
あるなしの風に乱るる蛍哉
曇るべき声にはあらず枝かわづ
後手を突て眺むる蚊遣哉
紫陽花やまたまたそだつ花の形
乞評点
子規の俳句(十九)
○ 松島の心に近き袷かな
明治二十六年作。
夏瘧を病む。癒えて奥羽に遊ぶ。秋に入りて帰京す。此行経るところ(千都宮、白河、二本松、安達原、福島、浅香沼、實方の墓、仙台、塩釜、松島、関山越えして羽前に入り、船にて最上川を下る、酒田より海岸に沿ふて北し、秋田を経、八郎潟を見て帰る、大曲り六郷を経、新道より湯田に出で、黒澤に至り、汽車にて帰る。(「獺祭書屋俳句帖抄 上巻」)
芭蕉の二百年忌に該当するこの年の七月十九日、子規は約一ケ月にわたる奥羽旅行へ出発した。
それに先立って、七月三日に林江左を介して旧派宗匠三森幹雄に会い、各地宗匠への紹介状を依頼した経緯については先月号に述べたが、宗匠俳句を否定する子規が、何故今さら幹雄の紹介状を必要としたのか、些か奇妙に思われる。
碧梧桐は「子規の回想」に
各地方に散在してゐる比較的有力な宗匠を訪問して、一つは俳句上の風光を求め、他は斯道の閑談に耽って、 旅行のつれづれを慰めようといふのであった。出水風雨を伴侶としての旅以外に、多少の人間味を加へようとした(略)彼らに勝たうといふのでもなければ、又彼等から新らしい知識を得ようといふのでもなかった。まして宗匠を我が道へ引き入れようといふ感化を意味する企てゞもなかった。宿屋にひとりつくねんとしてゐる時間を割いて、俳句につながる談敵を得る位の無雑作な無邪気な出来心に過ぎなかった。
と憶測するが、粟津則雄氏は「正岡子規」に
おそらく子規には、芭蕉にならって奥州に杖を曳くことを通して、その他の宗匠たちに新風を吹き入れたいという野望があったのではないか
と推測しておられる。
子規の俳句革新が緒についたばかりのこの時期、無名に等しい子規が地方の俳人を訪ねるには、幹雄の添書は何よりの威力を発揮したものと思われる。
七月十九日、子規は素香、孤松、鴬洲、江左、飄亭らの餞別句に送られて、
松島の風に吹かれんひとへ物
の句を留別として、折から来合せた飄亭一人に見送られて上野を出発した。
この旅行記は「はて知らずの記」と題して「日本」に連載されたが、掲出の句はその冒頭に
松島の風象潟の雨いつしかとは思ひながら病める身の行脚道中覚束なくうたた寝の夢はあらぬ山河の面影うつつにのみ現はれて今日としも思ひ立つ日のなくて過ぎにしを今年明治廿六年夏のはじめ何の心にかありけん
松島の心に近き袷かな
と自ら口すさみたるこそ我ながらあやしうも思ひしかつひにこの遊歴とはなりけらし。
と掲げられているものである。「松島の心」「松島の風」の二句とも、芭蕉の「おくのはそ道」の旅に於ける松島の意味を念頭に置いた句であることは容易に想像される。
上野を発って宇都宮に一泊し、翌日白河でその地の有力宗匠中島山麓を訪ねた。
人間味にも芸術味にも、何ら触れることのない、其の癖坐作進退に四角張った礼儀を守ってゐなければならない空虚な応対は、先づ子規のさほど重きを置いてゐなかった期待をさへうら切った。倦怠そのもので終始した。(「子規の回想」)
須賀川では道山壮山を訪ねた。
幹雄門にでも入ってもっと勉強するといい、などと頭から教訓を垂れるのみであった。(「子規の回想」)
宗匠訪問の失望を、郡山から碧梧桐に次のように伝えた。
小生此度の旅行は地方俳諧師の門を尋ねて旅路のうさをはらす覚悟にて、東京宗匠之紹介を受け、己に今日迄に二人おとづれ候へども、實以て恐れ入ったる次第にて、何とも申様なく、前途茫々最早宗匠訪問をやめんかとも存候程に御座候、俳諧の話しても到底聞き分ける事もできぬ故、つまり何の話もなくありふれた新聞咄、どこにても同じ事らしく候、其癖小生の年若きを見て大に軽蔑し、ある人は是非みき雄門にはいれと申候故少々不平に存侯処他の奴は頭から取りあはぬ様子も相見え申候、まだ此後どんなやつにあふかもしれずと恐怖之至に侯、此熱いのに御行儀に坐りて、頭ばかり下げてゐなければならぬといふも面白からぬ事に候。(七月二十一日付 碧梧桐宛書簡)
今俳句界に売り出し中の子規も、東京を少し離れると全く無名の若輩の扱いであった。「文界八つあたり」で旧派宗匠を痛烈に罵倒したのであるから、彼らについて予備知識を持っていた筈であるが、この二夜の体験は子規の予想をはるかに越えるものであったのであろう。
この宗匠と子規の対面を村山古郷氏は「明治俳壇史」に「白髭を蓄えた老宗匠の前に、袴をつけた一書生が畏まり、宗匠を痛罵した書生とも知らずに、醇々と幹雄入門を説く場面は、明らかに滑稽味を帯びている。」と記す。
子規の俳句(二十)
○ その人の足あとふめば風薫る
明治二十六年作。「はて知らずの記」掲載句。
「はて知らずの記」の旅出発早々に訪問した旧派の二宗匠への痛烈な批判の手紙を碧梧桐に記した翌日、子規は南杉田の同じく旧派宗匠遠藤菓翁を訪ねた。
氏は剛毅にして粗糲に失せず朴訥にして識見あり。我れ十室の邑に斯人を得たり。
と「はて知らずの記」に記して、先の二宗匠よりは好意的な感触を得たようであるが、この対談を最後にして、その後は宗匠訪問をとりやめてしまった。それ以後は、とにかくに二百余年の昔芭蕉翁のさまよひしあと慕ひ行けばいづこか名所故跡ならざらん。其の足は此の道を踏みけん其日は此の景をもながめけんと思ふさへたゞ其の代の事のみ忍ばれて俤は眼の前に彷彿たり。
その人の足あとふめば風薫る
と、この年二百年忌にあたる芭蕉の「おくのはそ道」の旅の跡を徹頭徹尾跡づけることを試みることにしたのである。
○ 夕立や人聲こもる温泉の煙
明治二十六年作。「はて知らずの記」掲載句。
旅中葱摺の石と芭蕉の句碑を見に行った。その帰途は「殆ど炎熱に堪へず。」という暑さであった。ところが、福島より人車を駆りて飯阪温泉に赴く。天稍々曇りて野風衣を吹く。涼極って冷。肌膚粟を生ず。浴あみせんとて立ち出れば雨はらはらと降り出でたり。浴場は二箇所あり雑沓芋洗ふに異ならず。
夕立や人聲こもる温泉の煙
と、堪えきれない暑さから、一転、鳥肌の立つような涼しさ、その上雨が降り出して、やっとたどりついた温泉は、芋を洗うような雑沓に人々の声が入りまじって温泉煙にこもるのであった。
○ 蓮の花さくやさびしき停車場
明治二十六年作。「はて知らずの記」掲載句。
飯阪温泉を出発して葛の松原に休息し、實方中将の墓に詣でて西行の歌をしのび塩釜に至った子規は、瑞岩寺、五大堂、雄島、坐禅堂を経巡り、小船で島々を見廻って、
涼しさや嶋かたぶきて松一つ
などの句を作った。
歌枕として有名な十符の菅菰の跡や芭蕉の「おくのはそ道」の跡がある岩切は、仙台と松島の中間に位置する。そこで汽車を待つ間の景を詠んだのが掲出の句である。
○ 涼しさを君一人にもどし置く
明治二十六年作。「はて知らずの記」掲載句。
仙台から広瀬川を渡って、南山閣に槐園を訪問した。鮎月槐園は、新派和歌の先鞭をつけた人物で、落合直文が明治二十六年九月に興した浅香社に参加し、二十七年に「二六新聞」が和歌を募集した時の選者五名のうちの一人であった。
子規は語るに足る相手を得てここに数日滞在し、槐園と歌話、俳話、文学論を夜の更けるまで談じたのである。そして、掲出の
涼しさを君一人にもどし置く
を留別に、八月五日出羽に向った。
○ 夕日に馬洗ひげり秋の海
明治二十六年作。「はて知らずの記」掲載句。
旅中吹浦での句で、
海に立ちて馬洗ふ男肴籠重たげに提げて家に帰る女のさまなど総て天末の夕陽に映じて絵を見るが如し。
と記している。
○ 蜻蜒や追ひつきかぬる下り船
明治二十六年作。「はて知らずの記」掲載句。
最上川を乗合船で下った折の句で、芭蕉の
蜻蛉やとりつきかねし草の上
の句をふまえた作品である。
○ 秋風や旅の浮世のはてしらず
明治二十六年作。「はて知らずの記」掲載句。
七月十九日に出発した子規の約一ケ月の旅は、八月二十日帰京、掲出の句を以って「日本」連載を終了した。この旅は子規にとって未曽有の大旅行で、紀行文は松島に最も多くの紙数を費している。俳句は全篇にわたって実景実情より得た句が多く、
山奇なり夕立雲の立ちめぐる
秋立つや出羽商人のもやひ船
鳥海にかたまる雲や秋日和
秋高う入海晴れて鶴一羽
消えもせでかなしき秋の蛍かな
木槿咲く土手の人馬や酒田道
など写生に一生面を開いた句を作っている。
子規の俳句(二十一)
病中
○ 一枝は薬の瓶に梅の花
明治二十六年作。
この年子規は二月十四日に血痰があり、陸羯南の紹介で宮本仲の診察を受けた。身体の具合はおもわしくなく、月末まで出社をさしひかえた。これ以来宮本は子規の主侍医として病床の子規を没するまで支えた。
六月には.瘧を病んだ。この年は「病中」と前書のある句が「寒山落木」にかなりの数所収されている。
無雑作に詠んだように見えるが、「一枝は薬の瓶に」、というところに、梅の花の風趣がかえって躍動しており、そして、この頃の子規の境涯がうかがわれるところがある。
(加藤楸邨「俳句往来」)
○ 中国の山どれどれぞ和布取
明治二十六年作。
瀬戸内の海岸で和布取が和布を探っている。そのはるか彼方にかすむように連なる山々を眺望して、あの中でどれとどれが中国の山であろうか、と詠んだのである。
子規は前年帰郷しているのでその時の作か、あるいはそれを思い出しての作と思われる。
遠くを眺めやっている感動がそのまま素直な口調で表現されて、大景を弛みのない句に詠みあげている。
○ こりこりと老が歯なやむ防風哉
明治二十六年作。
「こりこり」という擬声語の少し硬いものを噛む感じと、老人の不自由な歯、それに、春先に萌え出づる防風のみづみづしさが、一句の中に調和している。
漱石来る
○ 蕣や君いかめしき文学士
明治二十六年作。
この年七月十日、東京帝国大学で卒業式が行われた。文科卒業生十五名の中に英文学科の夏目金之助(漱石)の名前があった。子規が落第、中退しなかったならば、共に卒業出来たはずである。
○ 昼の鵜の来てとまりけり牛の鞍
明治二十六年作。
鵜飼の鵜が昼間は自由に解き放たれて、のんびりと牛の鞍にとまっている。夜かがり火にせきたてられて、鵜匠にあやつられて敏捷に鮎を追って動きまわる鵜の、昼間のんびりした姿に興を発して詠んだ句である。
○ 藍刈やここも故郷に似たるかな
明治二十六年作。
藍刈は夏の季語。二月頃種を掻き、六月頃に花が開く前に刈り取るのが一番藍、一月後にその株から伸びたものを刈るのが二番藍で、これから藍玉をつくる。
掲出の句は、蕪村の
花いばら故郷の路に似たるかな
が心中にあっての作と思われるが、「ここも」にふるさとへの思いが凝縮されている。
関山の茶店にやすんで
○ 我はまた山を出羽の初真桑
明治二十六年作。
前書から「はて知らずの記」の旅の関山峠を詠んだ句であると思われる。
芭蕉の「おくのほそ道」の旅の鶴岡での句
めづらしや山を出羽の初茄子
をふまえた句である。
○ 白萩のしきりに露をこぼしけり
明治二十六年作。
秋の七草の一つである萩の花と、そこに宿る露のこぼれるさまに、秋の庭の美しさを促えている。
萩の花の中でも白萩の白と、白露の透明感の清らかさが相まって、秋風に大きくうねりながら露をこぼす萩の美しさを際だたせている。
○ 朝寒や青菜ちらばる市の跡
明治二十六年作。
朝市のたっていたあたりを通りかかったら、そこはもう人の姿はなく、色鮮やかに青菜の切れ端が散らばっているだけである。
肌寒さを感じる秋の朝のすがすがしさと、散らばっている青菜の印象的な色彩が巧みに表現されている。
子規の俳句(二十二)
はせを翁二百年忌といふ今年
○ 俳諧の秋さびてより二百年
明治二十六年作。
子規の俳句革新以前の明治の俳句は、天明俳諧以降の衰退の中で、宗匠俳句と称されるいわゆる“月並俳諧"が、芭蕉を偶像化してあがめるという非文学的なものになっていた。
明治五年、新政府は社会の安定と国民教化によって維新後の民心を安定し、道徳の確立をはかることを意図して教導職制度を定めた。
教導職には主として神宮や僧侶を任命し、教導職の養成機関として神宮主導の大教院を設けた。しかし多数の教導職を一挙に養成することは不可能であったので、民間の識者をも登用することになり、各界の有力者の中から選ばれることになった。そこで庶民の間に根強い力を持っていた俳諧師の中からも任命されることになった。
旧幕時代、俳諧は漢詩や和歌よりも一段低い平俗な文芸と見られ、俳諧宗匠は遊芸の徒として低く卑しい者と目されていた。政府による教導職の任命は、そうした俳諧の立場を一新するもので、俳諧が社会的に有用なものとして認知されたことを意味する。
明治六年四月、教導職登用の試験が三日間にわたって行われ、三個条の弁解、十七兼題、十一問題など、口述、筆記試験が実施された。二十名ほどの受験者のうち、三森幹雄、鈴木月彦が合格した。この他三大俳家と目されていた月の本為山、小築庵春湖、佳峰園等栽が、試験を経ずに、それ迄の実績によって教導職に任命された。このため公開の席では月彦、幹雄が上座に席を指定され、為山、春湖、等栽といえども従わざるを得なかった。
教導職に任命された宗匠は、教化運動の第一歩として結社の設立に着手した。
明治七年四月、月の本為山を中心に、等栽、春湖、梅年、鴬笠、素水、宇山、沙山、呉仙、精知、菊雄、是三、石叟ら著名宗匠が集って俳諧教林盟社を設立し、為山が社長に就任した。
同年八月、幹雄、月彦、詩竹、茂翠、譚龍、尚左、松江、巴山らが俳諧明倫講社を結成し、三森幹雄が社長に就任した。
これまで各宗匠が雑然と割拠していた俳句界は、俳諧教林盟社と俳諧明倫講社の二大結社に集結して、東京の俳壇を二分するようになった。
明倫講社規約に「隠者風流家杯相唱へ候旧弊ヲ相除キ、 遊手徒食ノ民ナラザル様教導ニ従事シ尽力可致事。」(第三条)「高価ノ景品ヲ出シ、十題、段句等ノ悪風ニ紛敷所行致間敷事。」(第七条)という条項が制定され、従来宗匠が俳句を生活の手段に利用した悪弊を廃止しようとする改革の気運が見られるのは教導職制度の効果であろうが、実際にどの程度有効であったかは疑問である。
明治八年大教院が廃止され、俳人出身の教導職は神道事務局の傘下に組み入れられた。
明治十一年月の本為山が没し、教林盟社は小築庵春湖が二代目社長に就任して、十三年十月十二日芭蕉祭を執行、「時雨まつり」と題する小冊を配布した。
一ケ月後の十一月十四日、明倫講社は芭蕉祭に相当する花の本明神例祭を催したが、芭蕉を祭神とする宗教行事のようなものであった。
明治十七年に教導職が廃止されると、翌年幹雄は明倫講社を神道芭蕉派明倫教会と改め、神道の一派と位置づけた。教林盟社は神道大成教会所属となった。
教導職制度のもとで宗教色を帯びるようになった旧派俳壇は、ここで更に宗教色を強めることになり、芭蕉はその開祖として神に祭られることになったのである。
明治二十六年、子規は「文界八つあたり」を執筆してこうした宗匠俳句に警鐘を鳴らしたが、「はて知らずの記」の旅で接した旧派宗匠の内実には驚くばかりであった。そこで「旧派宗匠のアイドルたる芭蕉を再評価し、その迷妄打破のための挙」(楠本憲吉。「正岡子規」)として、この年十一月より「芭蕉雑談」を連載した。
文学者としての芭蕉を知らんと欲せば、其著作せる俳諧を取て之を吟味せざるべからず。然るに俳諧宗の信者は句、神聖にして妄りに思議すべからずとなすを以て、終始一言一句の悪口非難を発したる者あらざるなり。
と記し、芭蕉の正当な評価を思うばかりに
余は劈頭に一断案を下さんとす。曰く、芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべき者は其何十分の一たる少数に過ぎず。否、僅かに可なる者を求むるも寥々暈星の如しと。
という荒っぽい断言で旧派宗匠を挑発した。
しかし子規の芭蕉論難はあくまでも旧派打破の手段であって、芭蕉俳句に対する深い敬慕は別問題であった。「俳句分類」の過程に於て俳句開眼を自覚した子規は、
「春の日」「あらの」などと漸く佳境に入り初め、はじめて「猿蓑」を掻いた時には一句々々皆面白いやうに思はれて嬉しくてたまらなかった。(「獺祭書屋俳句帖抄上巻」序)
と記している。
芭蕉二百年忌のこの年、子規は旧派の神事のような行事に対抗して、藤井紫影、田岡爛腸、勝田明庵らと図って芭蕉二百回忌を修したのである。