子規の俳句

『春星』連載中の中川みえ氏の稿

 

32に続く)

 

  (二三)  (二四)  (二五)  (二六)  (二七)

(二八)  (二九)  (三十)  (三一)  (三二) 

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2002128

子規の俳句(二十三)

中川みえ

   片腕を斬られて左文楼を号せし梅龕をいたむ

○ 片腕の位牌になりぬ秋の風

   行脚より帰り梅龕のみまかりたるよし聞きて

はや一つ命へらしぬ秋の風

   梅龕五十日に

秋風や相つもりて五十日

   梅龕墓

新墓に誰の涙そ露の玉

 

 明治二十六年作。

 山寺梅龕は、この年の三月子規が椎の友の仲間と共に創刊した雑誌「俳諧」の俳句募集に応募して来た作者の一人であった。

  応募に応ずる者数百人、多くは是所謂月並流点取調なる者、卑俗誦するに堪へず。其間一種の光彩を発し能く雅致を解する者二人あり、曰く狙酔、曰く梅龕是なり。

(「亡友山寺梅龕」)

と、子規の注目する作者であったが、子規が「はて知らずの記」の旅に出ている間に病没した。享年二十七才で、子規身辺の俳人のうち最も早く世を去った。

 旅行から帰宅して梅龕の訃報に接した子規は、「腹もちぎるる如し」とその逝去を悼んでいる。翌年の「小日本」には「亡友山寺梅龕」を掲げてその死を惜み、「梅龕遺稿」に残された句を掲載した。

 子規の俳句革新が緒に就いたばかりのこの頃、その仲間や弟子は殆んどが郷里松山の友人や後輩、椎の友の仲間、大学関係の知人という限られた範囲のつながりが主であった。新派俳句を広めてゆこうとしたとき、俳句募集の応募者の中から見出した梅龕に期待するところは大きかった。その気持が子規の句に込められている。

 

   草庵

○ 薪をわるいもうと一人冬篭

 

明治二十六年作。

十二月二十五日に「日本」へ掲載された「貧苦八詠」

  ほっちりと味噌皿寒し膳の上

   草庵

  薪をわるいもうと一人冬篭

    獺祭書屋

  しくるるや写本の上に雨のしみ

  重ねても軽きが上の薄蒲団

    獺祭書屋

  物は何凩の笠雪の蓑

    摺鉢を手水鉢におろして

  水鉢の氷をたたく擂木哉

    根岸草庵

  三尺の庭に上野の落葉かな

    獺祭書屋

   古書幾巻水仙もなし床の上

の中の一句である。

 この頃の子規は病人ではなかったが、家事には一切手出しをしないので、男の仕事である薪割を妹の律が代りに行っている。そのことへの拘泥や忸怩たる思いと共に不満も言わずに黙々と薪を割っている妹の身の上に思いを及ばせているのである。冬篭の寂寥感がこの句にいっそうの情感を添えている。

 子規の妹の律は、子規よりも三才年下で、幼小の頃から活発であった。河東碧梧桐の「子規の回想」の中に、子規の母が「小さい時分にはえっぽどへぼでえっぽどへぼで弱味噌」で「組の者などにいぢめられても逃げて戻」る子規に替って「妹の方があなた石を投げたりして兄の敵打をする」ようなこともあった。と語っている。

 律は中堀氏、恒吉氏に嫁したがいずれも不縁となり、二十五年の秋に母と共に上京して、子規の没するまで家事と看病に当った。子規の没後は職業学校に学び、そこの教師として勤め、子規の遺品保存に力を尽した。

この年を振返って、子規は

  明治二十六年は最多く俳句を作った年で其数は四千以上にもなった。此年は夏から秋へかけて二ケ月許り奥羽の行脚をやったので、旅行中の句だけでも随分沢山ある。併し前年に実景を俳句にする味を悟った以来ここに至って濫作の極に達したやうである。実景ならば何でも句になると思ったのは間違ひであったのだ。()何でも彼でも十七字にいってしまへば其でよいやうに思ふてゐたのであるから、後から見ては殆ど取るべき句がない。要するに此年は行脚と多作との為に自分の修行にはなったけれど、別に前年に無かった趣味を見出す迄には進歩しなかった。

(獺祭書屋俳句帖上巻を出版するにつきて思ひつきたる所をいふ)

と後に総括しているが、前年会得した「斯ういふ景をつかまえて斯ういふ句にする」ということを旅行中の句作に体験してゆく中で、無意識のうちに写生写実の手法を体得していることが窺われて興味深い。

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2002228

子規の俳句(二十四)

  二月一日徒移に
○梅咲くや本箱荷ふ破れ袴

 明治二十七年作。
 この年一月末日、子規は二十五年二月末より約二年間住んだ上根岸町八十八番地から、すぐ近くの八十二番地へ転居した。陸羯南の邸宅を中にして、八十八番地はその西隣であり、八十二番地はその東隣である。
 八十二番地への移転は二十七年の一月に子規居士を編集長として新聞「小日本」を創刊する議が決し、俸給も三十円に増額された為に梢々高い家賃を奮発し、羯南先生の東隣に空家が出来たのを幸として断行されたのであった。
                     (寒川鼠骨「子規庵の今昔」)
 前の住居と近かったので、陸羯南のところの手車を借用し、それに荷物を積んで佐藤紅緑が梶棒を取り、五百木飄亭が後押しをして僅かの時間で引越は終了した。当時の家賃は四円か四円半で、この家が子規の終焉の地となったのである。

○ 鴬や枯木の中の一軒家

 明治二十七年作。
 二十七年二月十一日、紀元節を期して日本新聞社より「小日本」新聞が創刊された。
 「小日本」は「日本」の頻々たる発行停止に備えるため別働体として計画され、上品な家庭向の新聞をコンセプトに、ごく小人数のスタッフで日本新聞社の筋向の土蔵の二階に編集室を置いて産声を挙げた。
 子規は「小日本」の編集主任に抜擢され、前年末軍隊を除隊した五百木飄亭が子規の勧めで「日本」に入社して、「小日本」の三面を担当した。古島一雄、斉藤信の両名が二面担当、会計経営の仙田重邦が多少経済記事を書く外に、相場記者一名、飄亭の下に探訪二名という小人数で、八畳あるかなしの狭い部屋でスタートした。
 四月に石井露月が古白の知人の友人の伝で「小日本」へ入社し、はじめは通信者から来る原稿の取捨選択の仕事を与えられ、後に飄亭の下で小雑報を担当するようになり、日清関係の悪化で飄亭が予備役で召集されるとその後任として軟派記者(社会部担当)となった。
 子規が初め一番に言ひ出したのは小説がいけない。()それから画がいやだ。小説はおれが書く。()その代り画だけを、画かきを雇へ()油絵描きが良い。
 (
古島一雄「ホトトギス」対談)
ということで、陸羯南が浅井忠に相談を持ちかけ、その推挙によって新進の洋画家中村不折がメンバーに加わることになった。
 子規は「小日本」が家庭向の新聞であることから、挿絵に力を入れようとした。当時の新聞には小説に浮世絵系統の画家による挿絵があったものの、その他には新聞の挿絵はあまり例がなかった。洋画家を採用して普段から挿絵のある新聞を発行しようというのは子規の見識であった。
 子規と不折は、新聞編集者と挿絵画家という関係を大きく越えて互に影響しあった。殊に絵画に於ける写生が子規の句作や俳論に大きな影響を与えたことはよく知られている。
 子規はこの新聞の編集責任者であったので、原稿の取捨、検閲、絵画の注文など編集上の仕事に力を注いだが、更に募集俳句の選や連載小説の執筆も自ら行った。それらをこなした上でなお余力がある時には、艶種の雑報などにも筆を執った。
 子規はこの時期比較的健康であった。
  朝起きると俳句分類に一時間許りを費し朝寝坊であったから間もなく出社、夕刻、或時は夜に入り帰宅。床 の中に這入ってから翌日の小説執筆、十一時、十二時に至って眠るというやうな段取りであった。(高浜虚子「子規居士と余」)
 当時学業を一時放擲して上京していた虚子が、子規の床に入ってからの小説執筆の口述を筆記するのが日課になっていた。
 新聞小説としては、かつて「まづ世に出づる事なかるべし」と言っていた「月の都」を創刊号から連載し、それが了ると「一月物語」(筆名 黄鸝村人)、「当世媛鏡」(筆名 むらさき)を連載の必要に迫られて次々と執筆した。
 「小日本」は第一面に俳句を掲載した。創刊号には次の七句が並べられ、以来七月十五日の終刊号(百三十号)までに七十一回、六百六十三句(碧梧桐の句一句重複)を掲載した。
   若菜つみ若菜つみ京の日は暮れぬ  鳴 雪
   来山が思ひすて寝や朧月      得 中
   山家あり鶏犬鳴いて朝霞      松 宇
   鏡とぐ手に陽炎のもゆるかな    桃 雨
   霞む日や野寺野寺の鳥の声     虚 子
   春風や赤前垂が出て招く      飄 亭
   鴬や枯木の中の一軒家       子 規
 最も多く掲載されたのは当然のことながら子規の作品で三十八句、以下鳴雪、飄亭、烟霞郎、虚子、碧梧桐(別号女月)らの句が多く登載された。

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2002329

子規の俳句(二十五)

 

○ 鴬やしんかんとして南禅寺

 

 明治二十七年作。「小日本」俳句欄掲載句。

 この句は「小日本」俳句欄に掲載されたが、子規自選の「二葉集」や「獺祭書屋俳句帖抄上巻」、子規派の句集「新俳句」には採録されていない。虚子選の「子規句集」にも探られていない。「新俳句」は上原三川と直野碧玲瓏の手になった草稿を子規が校閲して上梓されたものであるから、三川、碧玲瓏の草稿に「二葉集」に入っていないこの句が除かれていたとも考えられる。

 同じ頃に同じように鴬を詠んだ作品

   鴬や枯木の中の一軒家

の句が「小日本」に掲載されたのが二月十一日(先月号参照)、この句が掲載されたのが二月二十四日の紙面で、「寒山落木」にはこの句の方が先に記載されている。両句を並べて見た時に、この句は「鴬や枯木の中の一軒家」と遜色のない出来ばえであると思う。私はむしろこの句の方が好きだし、この年の子規の俳句の中でも比較的佳句であると思う。

加藤楸邨氏は「俳句往来」にこの句の取り上げて、次のように評しておられる。

写生の弊は、瑣末な描写にとらわれて、本質的なものを逸しがちになる点であるが、この句は、些々たる一切を削り落して、感動の頂点をぐいと太い点でうちだした力が出ている。「しんかんとして」も、装飾的な言葉遣いではなく、「南禅寺」という古い禅刹の性格をえぐりだしたような勢いを帯びて、「鴬」が一層効果づけられるのである。

 

 大幟百万石の城下かな
  山里や大時鳥大月夜

  人も無し牡丹活けたる大坐敷

  咲きにけり唐紅の大牡丹

 

  明治二十七年作。「小日本」俳句欄掲載句。

  「獺祭書屋俳句帖抄上巻」の長文の序文に、子規は二十七年の俳句を振り返って、

   何でも雄壮な句はよいといふ考へから「大」の字を入れると凡句が名句になるやうに思ふてゐた。」() 大の字の濫用といはざるを得ない。

と記している。掲出した句もそのような作品である。

 

  河東静渓翁を悼む

○ 花を見た其目を直に瞑がれぬ

 

 明治二十七年作。「小日本」俳句欄掲載句。

 「二葉集」にはこのままの形で掲載されているが、「寒山落木」には、

     悼静渓叟

   其ままに花を見た目を瞑がれぬ

と改作されて所収されている。「花を見た其目を直に」瞑いだという表現よりも、「花を見た目」を瞑いだと改めたことによって、哀悼句としての情感がそなわったように思われる。

 河東静渓は河東碧梧桐の父である。

 子規は幼小の頃より祖父大原観山に漢詩文の手ほどきを受け、観山の没後は土屋久明のもとに通い、素読を学び漢詩を作り始めた。

松山中学に入ってからは、同じように漢詩文に興味を持つ竹村鍜(松窓-碧梧桐の兄)、三並良(松友)、太田正躬(柴洲)、森知之(南渓)など五友"と呼んだ人々と「同親吟社」という詩会を作り、竹村の父河東静渓の指導を受けた。

 

○ 山道や人去て雉あらはるる 

 

明治二十七年作。「小日本」俳句欄掲載句。

 雉は春の季語。この時期繁殖期に入るので、羽毛が美しく、動きが活発になる。

雑の飛来する山野を人が通り過ぎて行った。その通り過ぎるのを待って、隠れていた雉が姿をあらわしたというのである。

 

○ 春雨の築地にとまる烏かな

 

 明治二十七年作。「小日本」俳句欄掲載句。

 「二葉集」にはこの句のま)掲載されているが、「寒山落木」には「築地にとまる」が「土塀にとまる」と改作されている。「築地」より「土塀」の方が俳味があるということであろうか。

 「小日本」俳句欄に掲載された子規の俳句は殆んどが二十七年の作品であるが、五、六月に掲載されたもののうち数句は二十五、六年の旧作である。五月半ばから「貴族院随聴録」「衆議院随聴録」が始まると、そこに多数の俳句を添えるようになり、子規の句は俳句欄には少くなり、俳句欄自体休載になることが多くなった。

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2002428

子規の俳句(二十六)

 

○ 詩僧あり酒僧あり梅の園城寺

 

 明治二十七年作。

 二月二十三日の「小日本」に「江東の梅信」という記事がある。「臥龍梅」「小村井」「百花園」の梅だよりを伝えた後、「梅を詠んだ句を古調、新調各七句ずつ並べて掲げている。(本誌平成六年三月号に掲載)

 古調は、芭蕉、荷兮、李由、暁臺、一茶、吐月、梅室という錚々たるメンバーで(蕪村の句のないことが注目される)俳句分類の仕事の中から選んだものと思われる。

 新調は、鳴雪、松宇、飄亭、碧梧桐、虚子、子規、狙酔の七句で、掲出の句はその中の子規の作品である。俳句を作り始めて日の残い碧梧桐や虚子、「俳諧」の投句者狙酔の句を新調としてここに掲げたのは子規陣営の人材不足を露呈した面もあるが、これらのメンバーで新しい俳句を興すのだという意気込みも感じられる。

 花だよりを載せた記事は他にも数回あり、いずれも記事に俳句を添えているが、作者名は記されていない。

 三月十七日の「上野の初桜」には

  馬車柳小路の広さかな

  春風や大風車小風船

  井戸端の秋色桜雫せよ

  観音の大悲の桜咲きにけり

  これはこれはあちらこちらの初桜

  くれなゐの絹糸桜ほころびぬ

の六句があり、いずれも「寒山落木」に所収されている。

 三月二十九日の「中野の桃花」には

  霞み行く奥街道の車かな

  てらてらと桃咲く中や何ヶ村

  牛に乗て飴買ひに行く日永哉

  人載せて牛載せて柳の渡し哉

の四句があり、最初の「霞み行く」は「寒山落木」では抹消されている。二番目の「てらてらと」は、

  てらてらと桃の中なり幾個村

と改作されて、三、四番目の句は原句のまま「寒山落木」に収められている。

 三月十七日 月瀬の梅信

  梅折って筏士の流れ行くへかな

 同日 上野の彼岸桜

  大佛の小袖かわゆきさくらかな

 四月十二日 北里の桜開く

  傾城の花に泣く夜となりにけり

の三句は「寒山落木」には見当らない。但し、講談社の「子規全集」第三巻の「拾遺」には所収されている。

 記事の後に俳句を添えたものは、花だよりの他にも多数見られる。その嚆矢は二月十五日の「棄児あり」の

   白梅や裸子捨つる軒の下(平成六年二月号参照)

で、以来随時掲載されるようになった。

 二月十七日 坂本の薬師様

   陽炎の笠ならびけり薬師道

 三月一日 春眠不覚暁

   六文の銭盗まれぬ梅の花(平成六年二月号参照)

 三月三日 大鶴さん六百年

   君が春背丈にあまる鶴の首

 同日 全生庵灰となる

   やけ跡や釣鐘堂の梅の花

 三月四日 昨日の雛祭り

   雨そぼそぼかすかに雛の笑ひかな

 三月九日 春雪霏々

  ※雪ちらちら薄紅梅の妻戸かな

 三月十四日 鴬の啼きあはせ

  ※鴬の糞の黒さよ笹の雪

 三月十七日 眼白の啼合せ   .

   囀りの横町につゞく柳哉

 三月十八日 旧暦の初午

  ※春風や横町横町の赤鳥居

 三月二十日 乞食多し

   春風や虱渡りのこそばゆき

 三月二十五日 若鮎の走り

   小鮎ちろ小鮎ちろ小鮎ちろりちろり

 四月三日 城北尋常中学校短艇会

   六丁の櫂したたるや春の水

 四月十日 大木魚

   花散るや五尺に余る大木魚

 四月二十四日 大鯨の観世物

   陽炎や幾十杖の大鯨

 五月二十日 化物やしき

   五月雨の化物やしき古にけり

六月十日 ふと心動きしまま

   五六反背戸の菖蒲の夜明かな

六月二十一日号外 大地震続報

  ※地震て大地の裂ける熱さかな

 このうち「寒山落木」に在るのは※印を付した四句のみで、三月十四日掲載の句は前年作の「鴬の糞の黒さよ篠の雪」の篠を笹に改めて載せた。六月二十一日掲載の

句は、「寒山落木」では「六月廿日大地震」と前書して、

   地震て大地のさげる暑さかな

と用字を改めた。原句に季語がなかったからであろうか。

 この四句の他は「寒山落木」に所収されていない。抹消句の中にも見当らない。但し「子規全集」俳句三の拾遣に、ここに掲げた句全部が所収されている。

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2002528

子規の俳句(二十七)

 

御題 鴬遅

勅なるぞ深山うぐひす早や鳴けり

 

 明治二十七年作。

 「小日本」第五号(二月十八日)の第一面に「御題鴬遅と題して、絵と掲出の句が掲げられた。

  小日本紙上には不折君の画に居士の賛をしたものが沢山に出た。(高浜虚子「子規と漱石と私」)

 子規は家庭向の小新聞を標傍する「小日本」の編集に当って、平素からさし絵のある新聞にしようと心がけた。中村不折という人材を得て、この二月十八日のものを嚆矢として、「小日本」には絵に俳句や和歌を添えたものがしばしば登場した。このうち作者名が記されていたのは四月二十日の五洲の句のみで、他は無署名であった。先月号と同様に、これらの作品について「子規全集」で調べてみた。

 「寒山落木」に所収されているのは、掲出の句の外には四回分の句があるのみで、

三月二十四日 新晴五題

  雨晴れて夕月の欠を鳴く田螺

  雨晴れて鳥なく塔の春日かな

  雨晴れて一本榎凧高し

  雨晴れて鶏陽炎の土を掘る

  雨晴れて妹が若葉ハのびにけり

は、四句目までが「寒山港木」に所収され、五句目は抹消句となっている。一句目は晴の字が霽と改められている。

 三月二十七日 佃島

  春風や五反帆川を遡る

 四月十一日 別業の花

  屋の棟の五重にたたむ桜かな

の二句は原句のまま所収されたが

 四月二十八日 鳴門の春潮

  吹かれてや鳴門の上の舞雲雀

は、上五が「吹かるるや」と改作されている。

 この他の掲載句について、筆者は試みに以前「小日本」から書き抜いておいたものを講談社「子規全集」の巻三「寒山落木 拾遺」にさがしてみた。

 三月二日 唐児遊び

  蝶々の手鞠あやつる唐子かな

  竹馬に唐児友呼ぶ柳かな

三月六日 御歌会兼題 西行法師

其杖に花咲きけらし西行忌

 西行の桜になりし月夜かな

三月七日 水戸弘道館

  聖像や月の白梅這ひ上る

三月二十二日 不忍池

  洛陽の池をとりまく柳哉

三月二十五日 老狸腹を鼓つ

  春の夜や京の大路の化爺

四月十九日 春月

  寺見えて月てる島の朧なり

四月二十一日

  屑籠の文殻赤し春の雨

  行く春を雨に暮れ行く車かな

  花散って雨面白き一日かな

五月十七日 天龍川上流蛍の名所

  たそがれの川上遠く蛍飛ぶ

六月十・十一日

  今年竹膝いるるだけの庵かな

などの句はこの中に見出すことが出来た。しかし

三月七日 水戸弘道館 のもう一句

  古書千巻文質彬々として梅の花

三月二十三日 東京水道本郷給水工場(西南の方より見る)

  百人の人夫土掘る日永かな

の二句については見つけることが出来なかった。

 

  変体十句
○山寺や岩あって檀あって跡函咲く

  狂体十句

飯蛸の大地をつかんで死ぬるかな

  絶体十句

 薄絹に鴛鴬縫ふや春の風

 

 明治二十七年作。

 「小日本」四月十九日号第二面に、「正体十句」「変体十句」「狂体十句」「絶体十句」と分類された俳句がそれぞれ十句ずつ、合計四十句掲げられた。作者は子規の他に、鳴雪、得中、烟霞郎、飄亭、碧梧桐、虚子、狙酔、鼠骨、石出、松宇、五洲、古洲、寒涛、無名子、苔古堂、紫影、女月(碧梧桐別号)で、掲出の句はその中の子規の作品である。

 正体、変体、狂体、絶体、という分類の定義がなされていないので、どのような基準で分類したかは明らかでない。「小日本」俳句欄とは別にこのような発表の場を設けたこと、ここに掲載された句の四分の三が後に「二葉集」に所収されたこと、から考え合せると、分類好きの子規が、自派の代表的な作品を掲げるに当って、このような形式を採用したということであろうか。

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2002628

子規の俳句(二十八)

         

   貴族院随聴録

○時島横町横町の巡査哉

 葉桜に馬馳せ違ふ議員哉

 白百合の覚束なけに咲にけり

   衆議員随聴録

 つらつらと面をならべて蟇

 其角の長さくらべん蝸牛

 待ちにけり其一声の郭公

 雨風や鳴く音細り時鳥

敲きあへで帰る雨夜の水鶏かな

 

明治二十七年作。

五月十一日の「小日本」に

    社告

 議会見聞録

第六議会今や数日の間に迫まる、『小日本』は一種奇警の文を霊妙無二の絵を以て其の状を写さんとす 絵画は以て龍孥虎擲の状を活動せしむべく、俳句は以て社鼠城狐の腸を快摘せん、若し夫の滑稽頤を解きて諷刺自ら備はり慷慨剣を舞して志気自ら激するが如きは希くは紙上に検せよ

という社告が掲げられた。五月十七日の紙面にその第一回が掲載され、掲出の八句が添えてあった。

 貴族院随聴録、衆議員随聴録は、五月十七日から六月三日迄の間に十六回掲載され、諷刺句は筆者の調査では貴族院随聴録が四十句、衆議員随聴録が八十四句、合計百二十四句掲載されたが、いずれも作者名は記されていなかった。

 このうち「寒山落木」に所収されているのは

   椽側へ耳突き出すや時鳥    (五月十八日)

   何の木と知れぬ若葉の林かな (五月二十二日)

   小雨ふる家のあハひの若葉かな(五月二十三日)

   善き人の皆金臭き牡丹かな      (同日)

   限りなく鉄道長き夏野かな  (五月二十六日)

   桜田に夕栄すなり夏柳       (同日)

   待ちかねて散るや廿日の赤牡丹(五月二十九日)

   議事堂や出口出口の青簾    (五月三十日)

   来年は台場や出来ん芥子の花     (同日)

   殻ともに踏みつふされて蝸牛 (五月三十一日)

の十句のみである。「寒山落木」の抹消句には

   萬人に聞けと都の時鳥     (五月十八日)

   山もなし只ひろびろと青嵐  (五月二十二日)

初松魚片肉は人に買はれけり「   (同日)

   閑子鳥氷のやうな石ありけり (五月二十三日)

   時鳥待つと許りもことづてん (五月二十九日)

   蝿も居ぬ離れ小島の暑さかな    (同日)

   雨蛙鳴くや月に雲かかるまで   (六月一日)

   舟引の歌も聞えず行々子       (同日)

   時鳥只二暮の雲井かな        (六月三日)

の九句が残っている。このうち最初の「韓人に」の句と

最後の「時鳥」の句は、いずれも二十六年作の

   万人の命の上を郭公

   郭公只一声の夜明哉

を改作して載せたものであるが、後に両句共「寒山落木」から抹消されている。

 筆者の調査に依ると、

   いかめしく咲てはかなし芥子の花(五月二十日)

   誰に間はん夢かまことか時鳥     (同日)

   一匹はうしろ向いたり蟇      (同日)

   葉桜や制札は何時抜かれたる (五月二十五日)

   筑波とも富士とも見えて雲の峰(五月三十一日)

の五句は、全集の「寒山落木」「寒山落木抹消句」「寒山落木拾遺」のいずれにも所収されていなかった。

 衆議院随聴録の方が貴族院随聴録の倍以上の句を掲載していること、「寒山落木」に所収されている句、抹消句とも全て衆議院随聴録の句であることから考えると、議会の雰囲気が貴族院よりも衆議院の方が句になり易かったということであろうか。

貴族院随聴録、衆議院随聴録の掲載が始ってからは、小日本俳句欄に子規の句が掲載されることが少くなった。両方に子規の句が載ったのは、五月十七日、二十二日、二十六日の三回のみで、そればかりか随聴録掲載中は俳句欄が休載になることもしばしばで、子規が随聴録に大いに力を注いでいたことが窺えるのである。

 

○  新聞同盟

 六国の印章重し春の風

  自由新聞

 咲く咲かぬ花にも嘘の世なりけり

  金玉均

 陽炎の昔にかへる命かな

 

 明治二十七年作。

 「小日本」三月三十日の紙面に掲載された時事俳句で、いずれも無署名であるが一句目は「寒山落木」に所収されている。二句目は全集の「寒山落木拾遺」に、三句目は「寒山落木抹消句」に句が残されている。

 「小日本」には俳句による時事評がしばしば掲載された。それらは時代を反映した即興の風刺評句であったので、背景を理解していないと句の意味が判りづらいものが多く、「寒山落木」に残される句はあまりなかった。

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2002728

子規の俳句(二十九)

         

○ 栴檀のほろほろ落つる二月かな

 

 明治二十七年作。

 「小日本」の「俳句を拾ふの記」(三月二十四日)所収作品で「二葉集」の題名のもとになった句である。

 「二葉集」は「小日本叢書 俳句二葉集 春の部」の通()称で、二十七年五月三十日「小日本」第八十六号付録として出版された小冊子である。

 「小日本」は創刊号の第一面に

     俳句募集

     春季雑題

 一、募集締切は二月廿五日限りとす

 一、寄稿は壱人に付五句を超ゆへからす

 一、応募俳句は選抜の上首位より三人の者に一ケ月間無料にて本誌を呈すへし

という社告を掲げて投句を募り、以来毎月募集広告を掲げ、「応募俳句抜華」に選句を発表した。応募者は次第に増加し、翌三月十日の社告からは「春季雑題」であった募集要項を改めて課題を設定し、一題二句と限定した。

その一方で高点者への無料配布を増員し、四月からは十名とした。四月一日の社告には、更に

 一、附録 四季の終りには曽て本紙に掲載せし俳句を類題に編みたる冊子附録を添ふ

という条項が加えて掲げられた。この付録の実現こそが「二葉集」の発行であった。

 五月三十日、「小日本」第一面左下隅に

  ●注意 本日の「小日本」は本紙六頁にして外に「俳句二葉集」の冊子附録あり

 地方の直接読者には郵送上の都合により二葉集の本文と表紙とを二葉の附録として送附す

 冊子体に製本せる二葉集は新聞附録として郵送するを得ず 別に郵税二銭を要す 府下の読 者にして地方へ本日の「小日本」を郵送せらるるときは此事を御承知ありたし

という掲示があり、この日「二葉集」が刊行された。

 「二葉集」は菊版(B6)三十二頁の小冊子で、表紙はうぐいす色の地に梅と鴬の絵、楕円で囲んだ白地部分に「小日本叢書 俳句二葉集 春の部」と記されている。掲載句四百三十五句は全て「小日本」から抜粋され、作者の記されている者百名(女月は碧梧桐の別号であるので実際は九十九名)他に失名三名。最多数掲載者は五百木飄亭で三十六句、三十二句掲載の子規がそれに次ぐ。

 子規の掲載句は次の通りである。

  △栴檀のほろほろ落つる二月かな

△ほろほろと椿こほるる彼岸かな

△子を負てひとり畑打つやもめかな

△むさし野や畑打ち広げ打ち広げ

◎きれ凧のきれて帰らぬ行へかな

◎永き日の滋賀の山越え湖見えて

◎春の夜や重ねかけたる緋の袴

    王子松宇亭

△春の夜の稲荷に隣るともしかな

 薄絹に鴛鴦縫ふや春の風       艶体十句 

◎春雨の築地にとまる鴉かな

△雨をよぶ春田のくろの鴉かな

◎春の野や何に人行き人帰る

◎うくひすや枯木の中の一軒家

△鴬の梅嶋村に笠買はん

△大橋の長さをはかる燕かな

◎山道や人去って雑あらはる)

 飯蛸の大地をつかんで死ぬるかな   狂体十句

 詩僧あり酒僧あり梅の園城寺     新調

◎野の道や梅から梅へ六阿弥陀

△松青く梅白し誰が柴の戸ぞ

△梅を見て野を見て行きぬ草加まで

 雪ちらちら薄紅梅の妻戸かな     春雪霏々

△梅の中に紅梅咲くや上根岸

  ◎土手一里依々恋々と柳かな

  ◎史家村の入口見ゆる柳かな

  ◎そぼふるや黒木の鳥居木の芽吹く

    荷東静渓翁を悼む

  ◎花を見た其目を直に瞑がれぬ

  ◎草家二軒赤白の桃咲けるかな

  山寺や石あって壇あって躑躅咲く    変体十句

  ◎籠提げて若菜摘み摘み関屋まで

  ◎下萌や寝牛の尻のこそばゆき

  ◎花すみれ討死の塚ところところ

 いずれも初出は「小日本」で、◎印は俳句欄、△印「発句を拾ふの記」から、無印の「雪ちらちら」は三月九日の記事「春雪霏々」に添えた句より、「詩僧あり」は二月二十三日の「江東の梅信」の新調より選抜された。同じく無印の「薄絹に」(艶体十句)「飯蛸の」(狂体句)「山寺や」(変体十句)は、四月十九日掲載の句中から抜粋された。

「二葉集」の書名は、この句集に所収された子規の三十二句の最初の句(巻頭から七句目)

 栴檀のほろほろ落つる二月かな

に因むもので、「栴檀は二葉より香し」(観仏三昧経・平家物語)の故事にもとずくものである。

 春の部に続いて、夏、秋と出版される筈であったが、「小日本」廃刊のため春の部のみで終ってしまった。

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2002827

子規の俳句(三十)

 

 

  梅の中に紅梅咲くや上根岸

 

 明治二十七年作。

 三月二十四日の「小日本」に「発句を拾ふの記」(子規子)が掲載された。

  亀戸木下川に梅を観、蒲田小向井に春を探らんは大方の人に打ち任せて我は名もなき梅を人知らぬ野辺に訪はんと同宿の虚子をそそのかして薄曇る空に柴の戸を出づ

   梅の中に紅梅咲くや上根岸

   松青く梅白し誰が柴の戸ぞ

   板塀や梅の根岸の幾曲り

という書出しで始まる「発句を拾ふの記」は、折から学業を中断して上京中の虚子を誘っての「目的もなき旅」の紀行で、「茶屋に腰かけて村の名を問」い、「ささやかなる神祠に落椿を拾ひあやしき賎の女に路程を尋ね」「道すがら我一句彼一句」と句を作りながら「夜道おぼろに王子の松宇亭を訪」い、「最終汽車に乗りて上野の森月暗く電気灯明かなる頃山つたひに帰り来る」までの一日の旅を、俳句交りの文章に記したものである。

 子規は掲出の句を始めとして十七句、虚子十一句を文中に納めている。

   梅を見て野を見て行きぬ草加迄

   武蔵野や畑打ち広げ打ち広げ

などがこの時の子規の作品で、写生のおもむきのある素直な詠みぶりの句が多く、十七句中十一句を後に「二葉集」に登載している。

子規は「小日本」に俳句に関わるものとしてはこの他に「雛の俳句」「俳諧一口話」「亡友山寺梅龕」を執筆し、応募俳句の選をして「応募俳句抜粋」を随時掲げた。創刊号に掲載された無署名の「梨園二十四番一、句評」についても、講談社の「子規全集」は「寒山落木 拾遺」に所収している。

子規の作品以外にも、「小日本」スタッフの五百木飄亭執筆の「ぶらぶらの記」上下(筆名犬骨坊)及び「続ぶらぶらの記」上下、「春風半日」(犬骨)には、飄亭や非風の句が多数所収されている。

 高浜虚子は「木曽路の記」を、内藤鳴雪は「老梅居漫筆」を連載した。

 その他、「百合花」(春里投)や「東京八春詞」(風也坊)にも文中に多くの俳句が挿入されている。

 「小日本」は俳句を俳句欄のみならず記事や時評、風刺、議会聴聞録などにも多用して、非常にユニークな紙面を作り上げた。

 子規はそうした俳句に関連したことのみならず、この新聞の編集責任者として、原稿やさし絵の依頼までもあらゆるところに目を注ぎ、その上新聞の連載小説まで執筆した。八面六腎の大活躍であった。

 しかし、子規の得意の時代は永くは続かなかった。「小日本」は僅か半年で七月十五日を以て廃刊に至った。

  日本新聞は、一度ならず二度ならず停止又停止と云ふ大厄を下さるるのである。小日本も 元来は代用の目的を以て起て居るから、本家で物が言へねば代って論難攻撃の衝に当らねばならぬ。()小日本も遂に一度ならず二度も三度も発行停止を命ぜられる。()僅か半年の間に財政上の大打撃を蒙って、トゥトウ廃刊の巳むなきに至った。

  (古島一念「日本新聞に於ける正岡子規君」)

 最終回の「俳諧一口語」は、「盂蘭盆会」と題して古人の句を数章掲げ、最後の智月の

   盆に死ぬ仏の中の仏かな

の句を特大の三号活字に組んで廃刊の無念を表明した。

 

○ 唐黍に背中打たるる湯あみかな

 

明治二十七年作。

 「小日本」廃刊の後「日本」へ戻った子規は、仕事の上では非常に楽になった。時間的に余裕も出来て、八月十三日には内藤鳴雪に誘われて王子の祭を見に行った。中村不折も同行することになったので

  余不折氏に向ひて戯れに今日の遊び画と俳句と腕を競べんかと云ふ。不折氏曰く諾と。

(「王子紀行」)

といふ趣向で、子規と鳴雪は句を作り、不折は写生をして競うことになった。

 掲出の句は、王子権現に参詣の後瀧野川へ向う途上に詠んだもので、家を囲むように栽培されているとうもろこしが丈高く成長して、そのかたわらにたらいを持ち出して行水をしていると、大きく伸びたとうもろこしの葉に背中を打たれる、といういかにも田舎らしい風景を句にしたものである。

同行した不折は、「追懐断片」にこの句について

 瀧野川へ行く途中の実況である。太ったおかみさんが行水をしてゐて、傍らに唐黍の生えてゐる、鄙びた様子を思い出す。

と回想している。

 この王子行では、子規と鳴雪は「口に泡を吹き」俳句を論じあい、不折は黙々と写生した。

 不折の絵との腕くらべを意識してか、この折の子規の俳句は絵画的な構成になっているものが多い。

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2002927

子規の俳句(三一)

 

虚子の木曽路を行くとて旅立ちするとき

○ 馬で行け和田塩尻の五月晴

 

 明治二十七年作。

 京都の第三高等学校に在学中の高浜虚子は、この年「直ちに文学者の生活に移るべく学校生活を嫌悪するの情は漸く又抑へることが出来なくなって」(「子規居士と余」)退学を決行して東京に上った。図書館に通ったり古書肆を猟って耽読したりしたものの、いざ小説を書こうとすると、何を書いていいか判らない。そんな虚子を心配して、子規は「日本」へ紀行文を寄せる機会を与えたりしたが、虚子は遂に小説はもとよりまとまった文章を仕上げることさえ出来ないまま、復学を決意した。

 古びた洋服に菅笠草鞋、脚半という出立ちで木曽路を京へ帰る虚子の菅笠に、子規は

   馬で行け和田塩尻の五月雨

と送別の句を書きつけた。

虚子は六月十六日から六回に渡って「小日本」に「木曽路の記」を寄稿した。

 

○ 稲刈りて水に飛び込む螽かな

 

 明治二十七年作。

秋が深まって稲穂が黄金色に実って、いよいよ稲刈が始った。稲株に鎌を入れると、潜んでいた螽が大慌てで逃げ出してゆく。田圃の脇を流れる水に飛び込む螽もいる。作者は興味深くそれを注目しているのである。

 「小日本」新聞が七月十五日で廃刊となり、子規は「日本」へ戻った。

 「獺祭書屋俳句帖抄上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」に

  それで自分は余程ひまになったので秋の終りから冬の初めにかけて毎日の様に根岸の郊外 を散歩した。其時は何時でも一冊の手帳と一本の鉛筆とを携へて得るに随て俳句を書つけた 。写生的の妙味は此時に始めてわかった様な心持がして毎日得る所の十句二十句位な獲物は 平凡な句が多いけれども何となく厭味がなくて垢抜がした様に思ふて自分ながら嬉しかった 。

と回想して、郊外写生の句十五句を並べている。これらの句について「此年の春から夏へかけて小日本の紙上に流行した極めて妖艶な句は少し厭味がさして来た」頃であったと言い、「春夏頃に比較して少し寂が出て来たのは時侯の故でもあるであろう。」と振返っている。

 

  低くとぶ畔の螽や日の弱り

 

 明治二十七年作。

 「獺祭書屋俳句帖抄上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」に、前の句を並べて掲げられた十五句の一句。

 稲刈が終り、秋の日差しも日毎に弱くなって来た。稲刈の時分には元気に飛びはねていた螽も弱って来て、もう低くとぶだけである。

 日差の弱り方と、体力が弱って低く飛ぶ螽に、深まりゆく秋を感じ取っているのである。一冊の手帳一本の鉛筆毎日毎日根岸の郊外を歩いて

 写生の妙を味ふて居るのは如何にも愉快らしく見える。自分でも愉快を感ぜぬではなかった。

    「獺祭書屋俳句帖抄上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ

という感慨は、写生の妙味を会得することによって、理窟の句から脱却出来ると実感したからではなかろうか。

 

○ 赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり

 

 明治二十七年作。

 遠景に関東平野の果てにそびえる筑波山、近景には赤蜻蛉の群、その間にある大空には一片の雲も無い秋晴である。澄み切った大気のすがすがしさと赤蜻蛉のかわい

らしさが雄大な景色と相まって、秋晴の気分をみごとに表現した写生句になっている。

 

○ 鳥啼いて赤き木の実をこぼしけり

 

 明治二十七年作。

 秋になって色づいてきた木々の実が熟して、それを食べにとんで来た小鳥のさえずりが秋の大気に澄みわたる里の秋らしい風景を詠んだ写生句。

 

  紫陽花の青にきまりし秋の雨

 

 明治二十七年作。

 紫陽花は夏の花である。梅雨の頃から咲き初めるが花期は長く、遅咲のものは秋まで咲きつゞける。花の色は多様で、白、淡緑、碧、紫、淡紅などがあり、咲き続けるうちに次第に変化するところから七変化と呼ばれる。

 この句もそのことをふまえて、紫陽花の花の色が青に落ちつき定まった、折からの秋の雨の色も青に決った、と詠んだのである。

 秋の気配が濃くなってゆく季節の推移を、青という色感で感じとって表現した句である。

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20021027

子規の俳句(三二)

 

   進軍歌

○ 長き夜の大同江をわたりけり

  万人の額あつむる月夜かな

  進め進め角一声月上りけり

  野に山に進むや月の三万騎

  それ丸や十六夜の闇をとび渡る

 

 明治二十七年作。

 この年八月十日、日本は清国に対して宣戦を布告した。国民も新聞も昂奮した。子規も九月十八日に「日本」へ掲出の五句を掲げ、つゞいて九月二十四日に同じく「日本」に

   海戦十句

  つらつらと船ならびけり秋の海

  渡りかけて鳥さわく海の響き哉

  凄じや弾丸波に沈む音

  烟捲いて秋の夕日の海黄なり

  船焼けて夕栄の雁乱れけり

  稲妻や敵艦遠く迯げて行く

  秋風の渤海湾に船もなし

  船沈みてあら波月を砕くかな

  帆柱や秋高く日の旗翻る

  秋荒れて血の波さわぐ厳かな

を掲げて愛国的気運に同調した。

句の出来ばえはいずれもいいとは言えないか、国民の一人として戦争に強く心をたかぶらせた作品である。

 

○ 絶えず人いこふ夏野の石一つ

 

 明治二十七年作。

 広々とした夏野に一本の道か通っていて、その道のほとりに石がある。その石は旅人が憩うのにちょうど良い場所にあって、形もすわるのに手頃なので、そこを通る旅人がひっきりなしに小休止して、立去って行く。そういう情景を詠んだものである。

 高浜虚子は「俳句はかく解しかう味う」に

   この句もまたこの切字のないような一直線な叙法か、旅人のいつも絶えずに其処に休んでいることを連想さすに十分の力を持っているのである。この句の作られた時から今日までもまだその野中の石には、いつも入り交り立ち交り旅人は休んでいるような心持がするのである。

と解説している。

 

  東京

  凩によく聞けば千々の響かな

 

 明治二十七年作。

つれづれなるままに凩の音にじっと耳を傾けていると、さまざまな音か響いてきこえるものだ、という句意。故郷で聞いた凩の響とはちがう東京の凩の響に、故郷の思い出、上京以来の思い出、そして現在の生活への思いなどが込められている。

 

   碧梧桐、虚子京に来る
       /

○ 凩に吹かれに来たか二人連

 

 明治二十七年作。

 「寒山落木」には、「吹かれに」の「に」の右に「て」と書き添えてある。「吹かれて」では、凩の中を既に吹かれてここに来たという意味になるし、「吹かれに」では、ここに凩に吹かれに来たという意味になる。

 虚子と碧梧桐は京都の第三高等学校に進学した。

 小説家志望の虚子は、学問よりも「直ちに文学者の生活に移る」(高浜虚子「子規居士と余」)気持を押さえられなくなって退学を決行し東京へ上った。子規のかたわらで「小日本」の手伝いをしたりしたか、思い直して復学を決めたものの、高等学校制度の改変で第三高等学校は解散と決し、碧梧桐と共に仙台の第二高等学校へ転籍となった。三ケ月ばかりを仙台ですごしたが、二人は次第に学校へ行かなくなり、遂に二人共退学した。

 子規は二人の前途に危倶して再三注告して退学を慰留したが、彼らは聞き入れず退学してしまった。

 さて掲出の句に戻る。「吹かれに」と「吹かれて」である。碧梧桐、虚子が辛苦の待ちかまえている社会へ足を踏み出したという意味に於ては「吹かれに」であろう。凩の中を凩に吹かれてやって来た二人の前途には、 凩の辛苦か吹き荒れることもあるだろうと心配する子規の気持の逡巡がの二文字に込められていると思われる。

 

 二月居を隣家に移す。同月新聞「小日本」発刊。七月新聞「小日本」廃刊。秋時々南郊に出て写生す。

 「獺祭書屋俳句帖抄上巻」の明治二十七年の頃の初めに記された文章は、ただこれだけの極めて短いものであった。しかし「小日本」に携わった二十七年という年は、

  君の一生は概して不幸であったか、若し其中に於て得意時代なるものかあったとすれば、此時こそ先づ得意の時であったと云わねばならぬ。   (古島一念「日本新聞に於ける正岡子規君」)

という充実した年であった。

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