『春星』連載中の中川みえ氏の稿
8(7に続く)
子規の俳句(七一)
松本みえ
○
長き夜や障子の外をともし行く
明治三十一年作。
秋の夜長である。訪ねて来た人も去り、母や妹も自室に引きあげて、子規は一人で床に就いている。ねむれないままにいろいろなことが頭に浮かんでくる。しんとしずまりかえった障子の外を、母か妹か灯をともしてそっと通りすぎてゆく。自分の他にも、起きている人があることに、何故だかほっとするのであった。
○ 鶏頭は二尺に足らぬ野分かな
明治三十一年作。
「小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ。」と「小園の記」に記した子規庵の庭には、いろいろな草花が植えられていたが、中でも子規が最も愛情を注いだのは、萩と鶏頭であった。
野分の吹き荒れる庭に、二尺に足りぬ草丈の鶏頭が激しく揺すぶられるありさまを、子規は心配気に見やるのであった。
○ 鶏頭のとうとう枯てしまひけり
明治三十一年作。
子規庵の小園の一隅に鶏頭が植えてある。鶏頭は、子規の気に入っている花で、病臥の生活を慰めてくれる。
それを毎日毎日眺め続けているが、秋が深まるにつれてその花の色は少しずつ褪せてきて、とうとう枯れてしまった。ああ、秋も深まって、冬が近くなったのだなあと、季節のうつろいを感じると共に、自分の病臥の生活の長びいていることを、つくづくと感じるのであった。
○ 鶏頭の黒さにそそぐ時雨かな
明治三十一年作。
秋がゆき、冬の初めの冷たい時雨が降りはじめた。庭の一隅に黒く枯残っている鶏頭の、その黒さに、時雨が吸い込まれてゆくように感じられる、という句である。
この句は、前項の句が「枯てしまひけり」と鶏頭の枯れてしまったことを詠嘆する句であったのと比べると、「黒」という色と、それに降り注ぐ雨を凝視しているところに特色があり、秋から冬に移りゆく微妙な季節感を深く、静かに、印象的に詠み上げた写生句といえよう。
草廬
○ 蓑笠をかけて夜寒の書斎哉
明治三十一年作。
子規の病室には、まだ元気であった学生時代(明治二十四年の暮)に、忍、熊谷、川越、松山の百穴などを巡った旅の折に、蕨の駅前で買い求めた蓑と、その前年、房総半島へ旅した折に、急な雨に茶店で買って被った笠とが、柱にかけてあった。
秋の夜寒の病床にそれらを見上げて、子規は達者であった頃の一蓑一笠の行脚をなつかしく想い、現在の書斎に閉じこもったまま外出もままならない身の上の淋しさを、つくづくと思うのであった。
即事
○ 冬籠盥になるる小鴨かな
明治三十一年作。
虚子の許へ俳句稿を持参して教えを乞うていた医学生が、この年の暮に、歳暮として一羽の小鴨を届けてきた。
生きた鴨は珍しがられて、盥に水を入れた中で飼われたが、そのうち顧みられなくなり、邪魔になってきた。そこで、子規のもとへ 此小鴨は人から貰ひしものに候へど宅は狭き上に赤ん坊が這ひまはり此鴨を置く場所無之候につき打捨らんと思ひ候ひしも、ふと御病床の徒然を考へ候へば或は多少の御慰みにもならんかと存じ差出し候、御飽き被成候節は御一報被下度、早速取りに上るべく候。(高浜虚子「柿二つ」)と手紙にえさの稗を添えて届けた。
盥に入れた鴨は、子規の病床の傍らに置かれた。
彼の心は自然と今迄の文章を離れて此の小鴨の上に移って行った。「今頃世の中に起きてゐる者は自分と小鴨だけだ。」と思った。淋しさと寒さとが一時に四方から襲うて来るやうな心持がした。「三尺の盥を天地と限られ て其れから外に出ることを許されぬ小鴨と、六尺の病床に釘附にされてゐる 自分とは似てゐるといへばいへる。」と思った。「何だか自分の影法師が其処に映つてゐるやうだ。」とも思つた。(「柿二つ」)
と虚子の小説「柿二つ」では、この場面を描写している。
蕪村忌の前々日に届けられた小鴨は、盥に入れられて大みそかまで子規の病床の傍に置かれていたが、元日の朝、隣の陸羯南方の池に放つことにした。子規は人の背に負われてそれを見に行った。
この子鴨の消息を、結局二十日ばかりして、泥溝の中に首を突込んで死んだ、と「柿二つ」は記している。
子規の俳句(七二)
松本みえ
○
武蔵野も空も一つに吹雪かな
明治三十一年作。
降り初めた雪が、いつしか吹雪となって、見渡すかぎりの景色が白一色に埋められた。武蔵野の雑木林も、その上空の空も、全く白一色に塗り込められた。と詠んだ句である。吹雪の激しさと、あたり一面空までも、モノトーンの世界に塗り込められてしまった景色の趣を、「武蔵野も空も一つに」ともの字を重ねて表現した。
○
霜枯や狂女に吠ゆる村の犬
明治三十一年作。
霜にいためつけられて枯れてしまった草木の中を、一人の狂女が歩いている。女の異常さを感じとったのか、犬がしきりに吠えたてるのであった。
この句は、狂女十句(十一月十二日水落露石宛書簡)の中の一句で、狂女の不気味な雰囲気を詠んだものである。冬枯れの粛条とした救いのなさと、狂った女に対する救いのない悲しみが、句の表面では抑制され、一つの客観的 な景として捉えられている。
と言われる松井利彦氏は、子規の蔵書中に「隅田川」があることから
この中の狂女梅若丸の母が、梅若丸を尋ね子の死を知って狂うあたりが意識され たのだろう。
(「同」)と推測し、「句風としては蕪村の影響が多分に感じられる。」(「同」)と記しておられる。
○ 芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし
芭蕉忌や我に派もなく傳もなし
明治三十一年作。
子規の俳句革新は、先ず芭蕉の否定から始められた。
明治二十六年十一月から二十七回に渡って「日本」に連載した「芭蕉雑談」は、「元禄俳諧の牛耳を執」った芭蕉を、「智徳兼備の一大偉人」と認めてはいるものの、「そは俳諧宗の開祖としての芭蕉にして文学者としての芭蕉は非ず」と言い、「芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ上乗と称すべき者は其何十分の一たる少数に過ぎず」と劈頭に一断案を下すものであったが、これは、芭蕉を神にまつり上げた当時の俳句界の様相に一跌を加える意図を持つものであった。
旧派俳句界は、明治新政府の採用した教導職制度の変遷と共に、神道と深く結びついた。子規はその神道の教祖のように祭り上げられた芭蕉を否定することによって、俳句界のあり方を正そうとしたのである。
子規の興した新派俳句は、「ほとゝぎす」の発刊、「新俳句」の刊行、「明治二十九年の俳句界」に取り上げられた新調、と順調に歩みを進め、芭蕉に並び得る俳人として蕪村を新派の旗幟として再評価した。そういう思いが、これらの二句に込められていると思われる。句の価値は別として、旧派の盲目的な芭蕉崇拝に対して、自らの態度を表明した句として興味深い。
○
蕪村忌の風呂吹盛るや台所
明治三十一年作。
蕪村忌の集まりに参集者にふるまうために、台所では、風呂吹を器に盛りつけている。平素静かな厨に、風呂吹の湯気がもうもうと上って、準備する人の声、食器の音などが入り混って、賑やかに準備する気配に、病床の子規の心も弾むのであった。
子規は前年初めて子規庵で蕪村忌(十二月二十四日)を修し、「ホトゝギス」に
会する者二十人、一同庭前に於て撮影す。終って運座を開く。室狭くして客多 し。火鉢足らずして座蒲団欠乏す。蓋し草庵あって以来始めての盛会なり。
と記している。
掲出の句の風呂吹は、大阪在住の水落露石が、前年の第一回目の蕪村忌に天王寺蕪を送ってきたのを風呂吹にして供したのが始りで、以来露石から毎年蕪が送られてくるのが例になり、後年蕪の到来が遅れて集まりに間に合わなかった折には、子規を残念がらせた。
前年秋、天田愚庵の柿の歌に応えて、柿の礼を和歌で伝えたことに端を発し、この年の子規は作歌に熱中し、和歌の改革に着手した。
二月十二日から三月四日まで十回に渡って「歌よみに与ふる書」を竹の里人の名を以て「日本」に掲げ、二月二十七日には知友に百百ばかりの歌稿の中から十百を選んでもらったものを、「百中十百」と名付けて発表した。
俳句の方面では、一月十五日から「蕪村句集」輪講を月一回行うようになり、「輪講摘録」と題して「ホトLギス」に連載した。三月には、上原三川、直野碧玲瓏共編の日本派句集「新俳句」が刊行された。そして十月から「ホト」ギス」が東京で刊行されるようになり、健康はともかくも、充実した年であった。
子規の俳句(七三)
松本みえ
所思
○ 初暦一枚あげてながめけり
初暦五月の中に死ぬ日あり
明治三十二年作。
新しい年を迎えて、初暦をめくってながめていた。一月、二月、三月、四月とめくって五月のところにきた。五月は子規にとって厄月であった。ふり返ってみると、二十二年に突然喀血したのが五月九日の夜、二十八年に日清戦争の従軍の帰途、佐渡丸船中での喀血が五月十七日朝のことであり、三十年にも五月は病状が悪くなった。三十一年五月は何ごともなく過ぎたものの、予感どうりにこの年五月には、三十年の時と同様に、厳しい病状になった。
前の句は、淡々と「なかめけり」と詠んで、そこに初暦らしい季節感が味わい深く感じられるが、後の句は、初暦を詠んだ句としては尋常ではない。
新年をことほぐめでたさの中で、新しい年の暦をめくってみているうちに、五月のところでふと手が止った。五月にはどういうわけか病が篤くなり、死の恐怖に直面したことさえある。もし自分が死ぬとしたら、きっと五月何日かであろう、と想定しているのである。
自分の死を客観視しつつも、今年も五月になると病苦に悩まされるのであろうか、もしかしたら五月には死んでしまうのであろうかと嘆いているのである。しかし、この句は単なる感傷ではなく、
「五月」に死の予感と、「五月」に対する愛情とを同時に感じて、自分を傍からながめる余裕をもってきているのである。 (加藤楸邨「俳句往来」)
と加藤氏は言われ、この頃の子規には、「病臥に対しては、これに溺れる態度はまった〈見られない」(「同」)と指摘しておられる。
同じ年の新年には
蓬菜に我生きて居る今年かな
という句もあって、常に自分の生死と向き合わざるを得ない境涯に、身を置く日々となったのである。
○
雪残る頂一つ国境
明治三十二年作。
眺め渡す周辺の山々が、うっすらと緑色を帯びて、あたりは早くも春めいてきた。その中で、きわ立って高い峰には、まだ雪が残っている。あの山はどのあたりにあるのだろうか。きっと国境になっていた高い山であろう、という句。
この年の子規は、このような景色を実際に見て句を作ることは不可能であったが、過去の経験などを総合して、写生的な詠み方で表現したことによって、印象明瞭な写生的に仕立てることができた。
○
初雷の二つばかりで止みにけり
明治三十二年作。
春になって、ようやくあたりの景色にぬくもりを感じるようになってきた。そんな時に鳴った雷は、どろどろと二声で終ってしまった。時には大雷雨を伴う夏の激しい雷とちがって、いかにも春雷らしい二音に、病臥の鋭敏な感覚で、子規は季節を感じとったのである。
○
潮干より今帰りたる隣かな
明治三十二年作。
夕方になって、隣家が急に賑やかになった。家族で潮干狩に行って、今帰ってきたのである。楽しそうな話し声や笑い声が聞こえてくる。病身の自分も、その世話に明け暮れる母や妹も、そんな楽しみとは無縁である。しかし、陽気のよくなってきた春の夕暮に、その楽しそうな談笑の声が聞こえてくるのは、何とも心地よいものだなあと、思わず笑みがこぼれるのであった。
外へ出かけることの少〈なった子規の家族は、隣家から伝わってくる賑やかな声さえとり込んで、単調な生活の薬味としてしまうのであった。
○
灯ともせば雛に影あり一つつつ
明治三十二年作。
雛人形が飾ってある。明るい春の光に包まれた柔和な雛の顔は心なごむものであるが、夕暮になって雪洞に灯を入れると、雛かざりの一つずつに影が出来て、何とも言えない情趣を醸す。
○
手に提げし藤土につくうれしさよ
明治三十二年作。
病臥の子規のつれづれをなぐさめようと、花房の長い藤の花を届けてくれた。藤の花房は思いの外に長くて、手に提げた花の先が土に着くほどであった。そんな些細なことが、持って来てくれた者の好意と相まって、子規にはむしょうに嬉しかったのである。
子規の俳句(七四)
○
林檎くふて牡丹の前に死なん哉
明治三十二年作。
この年の新年に
初暦五月の中に死ぬ日あり
と子規は詠んだが、予感が適中して五月は厄月となった。
五日頃から発熱が乱れ、三日も四日も睡ることが出来なくなり、その上腰痛も激しくなって、一切の食物を排して、牛乳と果物だけを摂取するという状況になった。
九日に把栗と鼠骨が牡丹の鉢を持って見舞に来たので、それにちなんで、この日より「牡丹句録」を記すことにした。
薄紅の大輪の牡丹の鉢には、「薄氷」と記した苗札が添えてあった。子規はこの日「頃来体温不調、昼夜焦地獄あり。」(「牡丹句録」)と記したものの、彼らの好意を喜んで、
薄様に花包みある牡丹哉
人力に乗せて牡丹のゆらぎ哉
鉢植の牡丹もらひし病哉
一輪の牡丹かゞやく病間哉
改宗の額の下なり牡丹鉢
の句をその句録に残している。
十日の「牡丹句録」には、
余の重患はいつも五月なれば
厄月の庭に咲いたる牡丹かな
の句の後に、次のように記している。
あまりの苦しさを思ふに、何んの為にながらへてあるらん、死なんか死なんか、さらば薬を仰いで死なんと思ふに、今の苦しみに比ぶれば、我が命つゆ惜からず、いで一生の晴れた死別会といふを催すも興あらむ、試にいはゞ、日を限りて誰彼に其旨を通じ参会者には香奠の代りに花又は菓を携へ来ることを命じ、やがて皆集りたる時、各々死別の句をよみ、我は思ふままに菓したたかに食ひ尽して腸に充つるを期とし、其儘花と葉の山の中に、快く薬を飲んですやすやと永き眠りに就くは、如何に嬉しかるべき。
(此一節は左衛門筆記) この文章の後に
林檎食ふて牡丹の前に死なんかな
牡丹ちる病の床の静かさよ
二片散って牡丹の形変りけり
の句を記しているので、掲出の句を理解するには、文中の死別会ということを、念頭に置くべきであろう。
句意は、重い病の床にある自分の今の願いは、林檎を腹いっぱい食べて、豪華な牡丹の花の前で死にたいものだ、ということで、文章に記した思いを、そのまま句に詠んだものである。
松井利彦氏は、
子規は果物が好物であったので林檎をあげ、牡丹は その豪華さ、蕪村への傾倒、五月という季節からとり あげたのであろう。(「正岡子規」)
とよみ解いておられる。
○
二片散って牡丹の形変りけり
明治三十二年作。
前の句と同じく「牡丹句録」の五月十日の頃に記されている句である。
この句は、蕪村の
牡丹散って打ちかさなりぬ二三片の句が念頭にあったことは、まぎれもない。しかし、一片散ったところではまだ牡丹は牡丹である。二片散るに至ってはじめて牡丹の形がかわって感じられたというところに緊密な観察が生きて、そこに独自の目が冴えてくる。(加藤楸邨「俳句往来」)
と加藤氏は「句の力は独自なものになっている。」(「同」)ことを指摘しておられる。
病臥の床で、病をなぐさめるために贈られた牡丹をじっと観察して、その花が一片散り落ちた時ではなく、三片目が散った時でもなく、まさに二片目が散った時に、「あー花の姿が変ってしまったのだ、と実感したのである。
翌十一日には、「牡丹は今朝尽く散り居たり」と
牡丹散て芭蕉の像ぞ残りける
三日にして牡丹散りたる句録かな
の句を以て「牡丹句録」を了ったが、発熱はまだ続いた。しかし、二十日頃には平常に戻り、食欲も徐々に回復して、三十年の五月の容態よりも軽くて済んだ。
「牡丹句録」は、六月の「ホトヽギス」に掲載された。
同じ時期に同じく牡丹を詠んだ歌も作っている。
あらだての草のいほりをゆるがして鉢に植ゑたる牡丹もて来つ
照りはゆる牡丹の花のかたはらにあはれは見ゆる小東の花
おくり物牡丹の花のくれなゐに草のいほりに光満ちにけり
この牡丹の花は、翌年は咲かなかったが、三年目には雷をもった。子規はそれを
三年目に蕾たのもし牡丹の芽
と句に詠んで喜こんだ。
子規の俳句(七五)
○
梅干すや庭にしたたる紫蘇の汁
明治三十二年作。
塩漬にした梅の実の汁が上ってきて、濃い紫色の紫蘇の葉を榛んで加えると、梅の実が鮮かな赤紫色に染まる。
それを夏の土用に干して、梅干を作る風景を詠んだ句である。
子規の母か妹かが、昼間は夏の強い日差しに干し、夜は瓶の梅酢に戻すという梅干作りの作業をしている。梅酢から取り出した梅は、美しい赤紫色に染まり、それを市にひろげて日盛りの庭にはこぶまでに、赤紫色の漬汁がぽとぽとしたたり落ちる。
鮮かな紫蘇汁の色、漬汁のにおいが、病床の子規の眼前に展開されるのを見て、季節感を楽しんでいるのであった。
高浜虚子は、この句を次のように解説している。
竹の筵のようなものの上に梅を干すと、その梅につ
いてくる紫蘇の汁が庭に垂れるというのである。地上
を赤く染めている、紫蘇の汁も想像されるのである。
これも誠に一些事を見つけ出したものであるが、それ
によって梅を干している光景に魂が這入って、動かす
ことが出来ぬようになっているのである。やはり写生
の力である。
(俳句はかく解しかく味う))
筆者は、この句の「紫蘇の汁」に、紫蘇に染まった鮮かな赤紫色と共に、そのにおいを強く感じる。白梅酢と紫蘇の反応しあった新鮮な梅酢の独特のにおいに、子規は強く季節感を感じたのではあるまいか。
○
短夜や胃の腑に飯の残りたる
明治三十二年作。
夏になって夜が短くなり、もう明けはじめたようだ。
自分は近頃胃腸が弱くなったようで、昨夜食べたものがまだ消化されないで胃に残っているようで、胃が重く感じられる。
子規は大病を煩いながらも、非常に健啖たる食欲を保ち続けていたのであるが、この年の夏頃には消化器の衰弱を感じるようになってきていた。
今年の果物の中でも一番の好物である柿の頃が来て
も生憎胃腸を痛めて柿を食ふことが出来なかった。医
者は若しか結核性の疾患が消化器の方にも及んだので
はあるまいかと心配したが、幸ひに其れは長くは続か
なかった。其れでも医者は当分の間は柿などを食ふこ
とを厳禁した。(高浜虚子「柿二つ」)
と虚子は記している。
○
稲妻や一本杉の右左
明治三十二年作。
一本の大きな杉の木が立っている。ある晴れた夜、その大きな杉の木の右側を、左側を、音も発しないで稲妻が走った、という句である。
絵にすれば、中央に一本の大杉を描き、その左右に
稲光を描く構図となるのであるが、右、左の二字で時
間的経過を打ち出したところにこの句の特色があると
いえよう。(松井利彦「正岡子規」)
厄月の五月を、三十年の折よりも軽く切り抜けた子規は、この年の後半やや元気を取り戻した。
八月二十三日、初めて田安宗武の歌を見て感嘆し、ただちに車を駆って神田の虚子宅を訪ねた。ちょうど一年振りのことであった。
沿道にあるものすべてに目を凝らし、帰途北方の空に稲妻の光るのを見て、稲妻十句の想を得たのもこの折のことであった。
胃痛
○側に柿くふ人を恨みけり
明治三十二年作。
「胃痛八句」と前書した句の中の一句。
この夏頃から、消化器の衰えを感じるようになり、食物を満足に摂ることが出来なくなった。医者は、当分の間柿などを食べることを厳禁した。ところが、事もあろうに、柿好きの子規の側で、柿を剥いてむしゃ むしゃ食べている者がある。それを恨めしそうに覗めている自分を詠んだ句である。「恨みけり」と言ったものの、そのことを面白がっている気分が伝わってくる句である。
胃痛
○ 盗みくふ林檎に腹をいためけり
明治三十二年作。
前の句と同じ「胃痛八句」の中の一句である。
胃痛のために、食物の摂取を制限されているのであるが、人の目を盗んでこっそり食べた林檎で、案の定腹を痛めてしまったという句である。
「胃痛八句」には、
胃を病んで柿をくはれぬいさめ哉
という句もあって、子規の様子が窺われて興味深い。
子規の俳句(七六)
胃痛
○
柿も食はで随問随答草しけり
明治三十二年作。
この句も「胃痛八句」の中の一句である。
胃痛のため、好物の柿をも食べないで、「随問随答」を執筆している、という句である。
「随問随答」は、この年の四月から「ほととぎす」に掲載された。俳句についてのいろいろな質問に答える欄で、松山発行時代の「或問」と同種のものである。
十一月三日の夜に記した虚子宛の書状には、
本日は朝より今(午後十時前)迄いささかの痛みこれ無く食慾増進に困り候
位也(略)別紙随問随答差し上げ候柿くはずの書き物は何分はかどらず閉口に
候
と記してあった。虚子は「柿二つ」に、
勤労の揚句に其御褒美として口腹の慾を充たすことの出来ない事が彼には
一番つらかった。百円の原稿料よりも一顆の柿の方が彼の仕事により多くの
勇気を附けるのであったが、其の柿の食へぬことが何よりも情無かった。「随
問随答」を終ると漸く一枚塩煎餅を買って、其れで満足せなければならなかっ
た。
と、この場面を描写している。
○
杖によりて立上りけり萩の花
明治三十二年作。
八月の末に、子規は杖を買い求めて、その試歩に、庭続きの陸羯南方を訪うた。掲出の句及び、
四年寝て一たびたてば木も草も皆眼の下に花咲きにけり
の歌は、この時のことと思われる。健康な者には想像も及ばないことであるが、自分の足で立ち、自分の足で歩くことのよるこびが溢れている句であり歌である。
すぐ傍にある陸宅ではあったが、子規が自分で歩くには難渋を極め、帰途は人の背に負われて帰り着いた。
○
鶏頭の十本ばかり百姓家
明治三十二年作。
田舎道を歩いていたら、一軒の百姓家があった。その家の庭には、真赤な鶏頭が今を盛りに咲き炎えている。あの鶏頭は、およそ十本位あるのであろうか、という句。
何の変哲もない百姓家の佇に、真紅に燃える十本ばかりの鶏頭が、印象的に目に止まった景を詠んだものである。この句と、翌年詠んだ
鶏頭の十四五本もありぬべし
という句とのかかわりについて、松井利彦氏は次のように記しておられる。
翌三十三年には、「鶏頭の十四五本もありぬべし」 の句が示され、こ
の句を百姓家の景だと解する理解も見られるのであるが、「鶏頭の十四五
本」の句に、そうした農家の影めいたものを感じさせる何物かがあるとす
れば、この「鶏頭の十本ばかり」の句が、子規の中に下敷になっていたので
はあるまいか。(「正岡子規」)
道潅山眺望
○ 遠村に稲刈る人の小ささよ
明治三十二年作。
九月二十八日、子規は根岸の近辺を回って歌を作る目的で、「寝ながら足袋はき帯結び」(「道灌山」)心弾ませて、車で出掛けた。
行程は日暮里から道潅山で、久し振りの外出は、目に触れる物がみな新鮮で、子規は童心にかえって景色を眺め楽しんだ。
この外出は、歌を作るための題材を得ることが主たる目的で、二十三首の中には、
山も無き武蔵野の原をながめけり車立たる道潅山上
武蔵野の空の限りの筑波嶺は我居る家より低く思ほゆ
などがあって、掲出の句を考える上で参考になる。
道濯山に車を停めてあたりを眺め渡すと、東北の方が筑波山の方まで遠望できる。広々と展けた関東平野の遠い村々で稲刈りをする人達が、何と小さく見えることか、と詠んだ句で、何の奇も無い殆ど無心の作風が、この日の子規の心境を反映しているように思われる。
○
風呂敷をほどけば柿のころげけり
明治三十二年作。
栃木県在住の小平宗平から、南八という人が、ことずかり物を子規庵へ届けに来た。大きな風呂敷包みに何が入っているのだろうかと、期待を弾ませる。すぐに風呂敷が解かれ柿の実がころがり出て来た。柿は子規の大好物である。
大きな風呂敷に何が入っているのだろうかという期待と好奇心、続いて自分の大好物の柿がころがり出て来た喜び、それらが、贈り主の宗平、重い包を持参した南八への感謝と共に、一句に溢れている句である。
子規の俳句(七七)
自ら自らの手を写して
○ 樽柿を握るところを写生かな
明治三十二年作。
「樽柿」は、空いた酒樽に柿を入れて、その酒気で柿の渋味を抜いたもの。好物の柿をたらふく食べて、その残りの柿の一つを手に握ったところを写生する、という句である。
相変らず無雑作な大把みの表現であるが、何かユーモアがあって頂
き出したくなるやうな句である。(略) 不思議に柿の句と言ふとユーモ
アを湛へてゐるのは、とくべつ好物だったからか。(山本憲吉「現代俳句」)
と言われる山本憲吉氏は、この句について次のような推測を記しておられる。
健啖な子規は柿といへば一度に十程も貪り食ったといふから、この
場合も満腹した柿腹で食ひ残しの柿を写生してゐるのである。(略)おそ
らく欲張りで吝ん坊な彼は、残った柿を家人にやらず、枕許に置いて
ゐるのである。握ってゐるところの写生なんて、彼の子供つばい貪婪
な所有欲をそのまま示してゐるやうだ。もちろん握った手の形に対す
る造型的な興味があるのであろうが、子規だからそこまで想像してみ
るのである。(「現代俳句」)
「写生」という子規の大得意の語を用いたところにも、「自分が発明したと言ってもよい『写生』などといふ言葉を、物々しく持ってきたところ、無邪気なユーモアを感じる」(「同」)と言われる。
この句は、詠み方も無邪気で率直で無雑作で、いかにも子規らしい句で、長年の病苦にも明朗さを失わなかった生きざまを彷彿させる句である。
○
鶏頭の皆倒れたる野分かな
明治三十二年作。
野分が吹き荒れた後に、庭前の鶏頭が皆吹き倒されてしまった、と詠んだ句である。
鶏頭は、萩と共に子規が庭前の草花の中で最も愛情を傾けたものであった。その鶏頭がみな吹き倒されるほどの強風の吹き荒れるすさまじい音に、病床の子規は庭前の草木を安じ、秋を感じたのである。
○
俳諧の西の奉行や月の秋
明治三十二年作。
秋の夜の美しい月を眺めながら、ふと、大阪で青木月兎(月斗)が主宰して誕生した俳句雑誌「車百合」のことを思い起した。自分にとっても、日本派にとっても、この雑誌発行は嬉しく喜ばしいことだ、という句意。
明治三十年、子規派の京都、大阪在住の俳人の集りであった京阪満月会から、水落露石、松瀬青々、野田別天楼らが独立して、大阪満月会を結成した。翌年、その大阪満月会の中に、青木月斗とその友人を発起人とした若手の会の三日月会が発足した。
明治三十二年一月、大阪の金尾文淵堂が、文芸雑誌「ふた葉」を創刊し、月斗はそこへ俳句や文章を発表した。
月斗と金尾文淵堂との関係については古い「春星」に、
「大阪俳壇は文淵堂の二階から」と云ったのは予である。(略)金尾
は予の同年で小学校からの友人、文淵堂の二階を俳句道場にしたの
も予である。(青木月斗「序てに正誤」)
という記述がある。このような関係から月斗は「ふた葉」に関係し、その付録として俳句集「車百合」が出された。しかし、薄田泣董が「ふた葉」の編集顧問になってからは、「ふた葉」は詩や小説を中心とする雑誌になった。月斗は、付録であった「車百合」を、独立した俳句雑誌として発刊することを決したのである。
青木月斗(月兎)は、明治十二年大阪の薬種商青木薬房に生れた。母方の祖父や母が俳句をたしなんでいたので、小学生の頃から俳句を作っていた。
明治三十年十二月一日の「国民俳壇」(虚子選)に、
雪の日や鼻赤き人の入り来る 月 兎
ほか二句が載り、子規選の「日本俳句」にも投句するようになった。子規はこの時はまだ月斗と面識はなかったが、日本派の俳句が地方でも根を下したことを喜び、掲出の句を贈り、「車百合」に次のような文を寄せた。
本の大小はいづれにも一得一失あれども、俳句の如き短き者を
載する雑誌を小形にしたて、一頁一欄にしたるは面白く珍しき思
ひつきと存候。初号に長さ祝辞無きも気の利きたる者、紙数を少
くして駄句を省き、善き紙を用ゐたるなどさすが抜目無之候。只
々今後望み候は少くも一二の熱心家ありて俳道研究と雑誌編輯と
に出来るだけの力を尽し、自己研究の結果を毎号雑誌の上に載せ
て、号々清新ならしめ給はん事に有之候。(「車百合に就きて」)
「車百合」は、残念ながら明治三十五年八月に廃刊された。月斗はその後「カラタチ」「同人」を創刊した。
そして私達のこの「春星」の、「春星俳句」の最初の選者であったことは、皆様ご存知の通りである。
子規の俳句(七八)
○ 句を閲すラムプの下や柿二つ
明治三十二年作。
秋の夜半、ランプの灯の下に、溜っている句稿の選をしている。選が了ったら、ごほうびに傍に置いてある柿二つを食べよう、という句である。
前年の秋に、同じような句意の
三千の俳句を閲し柿二つ
という句を作っている。その句と比較すると、「三千の俳句を閲し」いうような、大上段からふりかぶったようなきらびやかな表現ではないが、ランプの灯の下で静かに句稿に目を通している秋の夜のおもむきが伝わってくる句である。
上野入口
○
三階の灯を消しにゆく夜寒哉
上野
電気燈明るき山の夜寒哉
新坂上
見下せば燈の無き町の夜寒哉
上根岸
樫の木の中に燈ともる夜寒哉
帰廬 二句
暗やみに我門敲く夜寒哉
車ひきの御帰りと呼ぶ夜寒哉
明治三十二年作。
この年の秋に、人力車で外出して、夜に入って帰って来たことがある。掲出の七句は、その時の見たまま、感じたままを、そのまま句に言い切って楽しんでいる。
説明せずとも意味は明かなほど極めて無理がなくて、
自然に出来て居る。灰汁が抜けて華麗でもなく壮重で
もなく、無雑作に夜寒の七景が描き出されてゐる。あ
たり前のことをあたり前に言って満足して居る。さう
した心持は脱落して初めて知り得られるのである。
(寒川鼠骨「子規居士の俳句研究」)
○
鳶見えて冬あたたかやガラス窓
明治三十二年作。
冬が来る度に、寒さをどうやって凌ぐかということが、子規には大問題であった。
戸のすきのつめたき風をいとふべし
という句をこの年作っているが、隙間風ばかりか、障子一枚で外界の寒さを防ぐことは、つらいことであった。
このため、前年の冬には、伊藤左干天が石油ストーブを贈ってくれて、昼夜火を入れて暖をとった。今年の冬も早くからそのストーブに火を入れているのであるが、一日中使用するには排気ガスの心配もあった。
此の年、寒さをどう凌ぐかが問題になった時に、虚子が「天気さへよければ一日日が当ってをるのであるから」「庭に面した南の障子をガラス障子に替へたら暖かだろう」(「柿二つ」)と提言した。
早速十二月の初めに、虚子の好意で、建具屋が四枚の新しいガラス障子をはめにやってきた。
暖かい日光は予想以上に深く射し込んで来て、病床
に横たはった儘で日光浴が出来た。
(高浜虚子「柿二つ」)
そればかりか、
今迄障子を開けねば見えなかった上野の山の枯木立
も、草花の枯れて突立ってゐる冬枯の小庭も手に取る
やうに見えた。(略)
彼は蒲団をガラス障子の近処迄引張らせて、其蒲団
の上に起上つて、ガラスの汚れたのを拭き始めた。(略)
余り日がよく当るので彼は少し上気せて来た。壮健な
時の楽しかった旅行の記念に何年か病室の柱に吊して
置いた菅笠を思ひ出して、彼は其菅笠を取らせて被っ
た。(略)いつも曇ってゐる此一家内の空気を晴晴と
した。
(「同」)
虚子の好意で、ガラス障子が入れられた。これまでと違って、寝たままでも外がよく見える。丁度鳶がゆっくりと飛んでいるのが見える。今迄にない暖さと、外が見えるという楽しさは、ガラス窓のおかげである。そのガラス窓を贈ってくれた虚子の好意のおかげである、という喜びと感謝の気持が、この句には溢れている。
この句は、十二月十四日の水落露石宛の書簡に記されているが、この他にも
寒さうな外の草木やガラス窓
ガラス窓に鳥籠見ゆる冬ごもり
ガラス窓に上野も見えて冬籠
ガラス越に冬の日あたる病間哉
などの句を作って、その光景をさまざまに眺め楽しんでいる。又、ガラス障子を贈ってくれた虚子に感謝して、
常臥に臥せる足なへわがためにガラス戸張りし人
よさちあれ
という歌も残している。
子規の俳句(七九)
蕪村忌 集る者四十人
○ 風呂吹の一きれづつや四十人
明治三十二年作。
十二月二十四日、子規庵では、この年が三回目の、既に恒例となった蕪村忌を修した。参集者は四十六名で、大盛況であった。
子規庵の蕪村忌には、第一回目から大阪の水落露石が天王寺蕪を送ってきて、それを炊いて風呂吹にして出席者に振舞うのが、これも恒例となっていた。
たいして広くない子規庵に、四十六名もの人が集まり、たとえ風呂吹一切ずっとはいえ皆に振舞う準備に、厨は大忙しであった。子規はその賑いぶりに、日頃の病気も忘れたように大喜びするのであった。
実はこの年の蕪村忌には、露石からの蕪は到着が遅れて間に合わなかった。二十六日の露石宛のはがきに、
二十六日蕪到着ありがたく御礼申し上げ候たゞ蕪村忌におくれ候は残念に存じ候とあって、蕪村忌におくれて蕪とゞきけりと記してあった。
松根東洋域の「正岡子規論」(遺稿)には、この句を
四十人人が並び四十枚皿が並びその一皿に風呂吹が
一切宛のってゐる事実、この事実に接し、〃一切づつ
や"とよみかかって〃四十人"と受けとめる所に感情の
膨らみがある事を気づかなければいけない。若し此事
実だけを写し出したところで誰が何を感じ得よう。
(略)
四十人並んだ所へ風呂吹を一切づつ出す。それだけ
しか書いてない。しかし〃 一切づつや" に一寸心眼が出
てゐる。“風目吹を皆一切や"では肉眼、皆の前に一切
づつ並べてあるだけで唯視神経の報告に過ぎず、"一
切づつや"だと切字の働が違って来、〃や"という切字
が宛を受ける所に感動がある。
と論じている。子規の句は客観的、写実的と論じられることが多いが、この句を「形の主観的であるのみか大いに情感の句だ。」と指摘しているのは興味深い。
不折ニ寄ス
○
画室成る蕪を贈って祝ひけり
明治三十二年作。
十二月二十五日朝付の中村不折に宛てた書状に、子規は「明二十六日画室新築御祝の由慶賀奉り候」と賀詞を述べ、「ホトトギス」発行所から祝を送ること、自分も酒一升を持参することなどを伝えた。
掲出の句の「蕪を贈って」は、おそらく水落露石から到来した天王寺蕪のことと思われる。
前項の蕪村忌の句に記したように、この年は露石の蕪は延着して句会には間に合わず、二十六日に着いた。それを人の集る新築祝の会へ届けさせたものであろう。
子規と不折は「小日本」発刊の折に、さし絵画家として浅井忠に紹介されたことから知り合った。以来交流が続き、子規の写生観に影響を与えたと言われている。
病床に就くやうになってから、画がかいて見たいが、
かけるか知らん、と云ふので、写生すりやかける、と
云って、絵の具だの筆だのをいろいろ持って行った。
寝て画くのだから、草花なんぞがいいだろう、と云っ
たのでよく草花を写生した。
(中村不折「追懐断片」)
子規はこの年、不折に買った絵具を使用して、初めて秋海堂を描いてみた。文学以外の楽しみ出来たことは、子規の最晩年の生活を心豊かにし、大きな潤となった。
なお写生論に関しては、不折は次のように記している。
先生が文学上に唱へた写生の議論は、必ずしも僕等
の絵画に於ける議論が影響したものとは思われない。
その点は寧ろ御互に共鳴したと見るべきであろう。
(「追懐断片」)
○
思ひやるおのが前世や冬こもり
何事もあきらめて居るふゆ籠
湯婆燈炉あたたかき部屋の読書哉
釈迦に問ふて見たき事あり冬籠
明治三十二年作。
三十になる前から病床に釘付され、痛み、苦しみ、発熱に蹟まれる自分の前生は、一体何であったのでろうか。
名誉も豊かさも、長命さえも諦めて、自分はこうしてひっそりと冬籠している。
それでも、皆の好意で湯婆を用い、燈炉に暖い部屋で読書をしていられるのは、有難いことである。
自分の人生を考えてみる時、釈迦と問答してみたいと思うことがある。自らの境涯に照らし合せてみると、人生とは仏の教え通りには行かないものであるなあ。
十二月十七日付夏目減石宛の書簡の末尾に記されたこれらの句には、子規の、自分自身を見つめ、自分の生の意味を問う「無量の思い」(粟津則雄「正岡子規」)が、色濃く表出されている。
子規の俳句(八〇)
○ 長病の今年もまゐる雑煮哉
病牀をかこむ礼者や五六人
友につれて知らぬ礼者の来りけり
梅いけて礼者ことわる病かな
明治三十三年作。
もうずい分長く病床に在るが、今年もどうにか正月の雑煮を祝うことが出来た。
病床をとり囲むように、五六人の年賀客が来た。友人に連れられて来た年賀客の中には、自分の見知らぬ者もいる。梅を活けた病床の迎春は、時にはそうした礼者を断ることもあるが、致し方あるまい。
子規は前年の後半は比較的元気であったが、この正月は前年と比べて身体が弱ったように思うと言い、元日の蜜柑の喰いようが少なかったと言う。新たな一年を迎える当って、漠然たる不安を感じたようである。
痰ノ薬ナリトテクヮリンノ砂糖漬ヲ送リ来シニ
○ 春寒く痰の薬をもらひけり
明治三十三年作。
かりんの実は、古来痰切りの薬と言われ、秋に黄色く熟したものを、砂糖漬にして用いる。
結核で病臥生活を送る子規の為に、痰切りの効能があるといわれるかりんの実の砂糖漬を送ってくれた。その好意を、嬉しく句に詠んだのである。
草庵
○ 春雨や裏戸明け来る傘は誰
明治三十三年作。
春雨がしとしとと降って、今日は誰も来訪者がないのかと思っていたら、裏戸を明ける音がする。この雨の中を尋ねて来てくれたのは誰だろうか。
子規の家の庭先には裏戸があって、そこからも出入
する事がたまにはあったのである。来客も時々はその
裏戸から入って来る事もあった様である。子規の話す
のには、誰かあの裏戸を開けて現れて来ないかしらと
時々考へる事がある。殊に雨の降ってゐる静かな日な
どは、傘をつぼめ乍らその戸を内に押して入ってくる
人を想像してみる。
(高浜虚子「小夜時雨」)
人恋しくて待っている子規の心情をそのまま一句に表出した句である。
○
菜の花や小学校の昼餉時
明治三十三年作。
菜の花が一面に咲き、いかにも春らしい長閑さの中に、小さな小学校がある。そこは、丁度今昼食の時間のようである、という句。
この句の「昼餉時」については、食事中と捉えるか、あるいは食後と考えるかで、解釈が分かれると思う。
食事中と解するならば、いっせいに食事をする児童達の静けさに、学校全体がしんかんとしていると汲みとれるし、食後の状景として考えるならば、食後の休憩時間に児童が賑やかに騒いでいる様子と促えることが出来る。
句のおもむきから考えると、いつも何となくざわついている小学校全体が、食事中の静けさに包まれていると考える方が良いのではあるまいか。
菜の花時の長閑さ、昼食時のくつろいだ雰囲気が、いかにも春らしい景として表出されている。
○
白椿落ちて腐りし日数かな
明治三十三年作。
白い椿の花が咲き了ってぽとりと落ちた。はじめのうちは、白い花の色を保っていたが、日が経つに従って茶色く腐ってしまった。花が落ちてから、もうずい分日数がたったのだなあ。
○
苗代へ分るる水の目高哉
明治三十三年作。
清らかな川の流れが、途中で分岐して、苗代へ引かれてゆく。その分れ目あたりに、目高が群れ泳いでいる。
稲の苗が青々と立ち並び、澄んだ水を満々と湛える苗代田、子規の目は、その風景の美しさと共に、水の分岐点あたりに群れ泳ぐ目高の姿をしっかりと促えている。
この句を一読した時に、筆者はすぐに
若鮎の二手になりて上りけり
という子規の初期の句(二十五年作)を思い浮べた。川の合流点にさしかかって、若鮎が二手に分れて上って行った。という些か観念的な句と比べると、掲出の句は、青々とした苗代の稲、満々と湛えられた澄んだ水、そこに泳ぐ目高を同時に凝視しているのである。