明治大正時代の月斗句 1
はじめに
青木月斗は、生前、個人句集を持たなかった。従って、特に主宰誌『同人』に発表する以前の明治・大正期の句については、個々の新聞雑誌に発表された句を蒐集するほかに方法がなかった。戦前、門下による月斗句集の企てがあり、二、三の人によって収集され、先生の許に届けられたものもあるようであるが、其の侭となりすでに散失している。収集は広範囲にわたり、その困難さのため、以後に着手されたものはなかった。
ここに、今井柏浦という子規門下の人の編著による、子規没後より大正末に及ぶ日本派の俳句の「時代的変遷及びその進境を示す」目的で、長期間継続的に編纂され、主要なる新聞雑誌等に発表された多くの句を渉猟し、そのらの句の中から編者によって選び出された類題句集のシリーズの存在を知り、この中より月斗(月兎)の句を抽出したものである。
今井柏浦については不詳だが、『ホトトギス』誌2巻12号、募集俳句投句家各地分附表の越後の俳人名に柏浦があり、「博文館」設立者の大橋佐平が越後長岡の出身であることから、博文館との関係が想像できる。
これを思いついたのは、改造社版『俳諧歳時記』(昭8)における例句の出典からのことである。この企画は、各季五冊を当時の有力結社主宰が分担したものである。『ホトトギス』の虚子は別格で「春」と「冬」、『同人』の月斗が「夏」で、『倦鳥』の青々が「秋」、『懸葵』の句佛が「新年」であった。おおむねその例句は、自結社の句が中心となるのはやむを得ないが、他結社句集からも多少採録されている。『同人』の場合では『同人俳句集』(昭6)が使われた。句佛の「新年の部」の場合だけは、少し遡って、月斗や同人派の句の場合も明治大正の類題句集などからの採録となっている。そこで、今井柏浦による博文館の類題句集のシリーズの存在に着目した次第である。
『明治一万句』(明34.3から38.4)より50句、『新撰一万句』(明38.4から40.6)より43句、『最新二万句』(明40.7から42.3)より122句、『最近新二万句集』(明42.4から44.6)より51句、『大正一万句』(明44.6から大4.6)より47句、『大正新一万句』(大4.7から6.6)より174句、『大正新俳句』(大6.7から10.12)より221句、『新俳句選集』(大11.1から14.1)より154句、『昭和一万句』(大14、1から昭2、7)より229句と、全期間に及んで、月斗(兎)句の計1091句を得た。改めて、長年月に亘り、9冊で11万句に及ぶ、これらの編著者今井柏浦の労に敬意を表するものである。(松本島春)
月兎時代の句抄
青木月兎の句(その1)
今井柏浦・編『明治一萬句』(明三八、博文館)より抄出。
明治三十四年三月より三十八年四月まで、「日本」「ほとゝぎす」「日本人」「太陽」ほかの新聞雑誌の約五万句より、柏浦が一万余句を選び出し収録したもの。
御降や禮者来るだに小淋しき 置炬燵酔も揚屋の松の内 一筋に願の丈けや常陸帯 畚卸坊主頭に雪や飛ぶ 当百の二枚違へな畚卸し 初芝居諸芸の司源之亟 浪華津や歌の竹田の初芝居 弓始矢それて松の雪散りぬ 籟初や蓬が宿に幽かなる 影法師障子に上る手毬かな 神崎の遊女見ていね傀儡師 春駒や三味の囃子のあちら向 金蔵は開かであるや蔵開 重き身に昼寝さめたり春の風 古着市出盛りすぎの日永かな 叱る泣く泣く叱る子や日の永き 虻蜂に長閑な縁の日さしかな 雛祭年子の娘待ちにけり 筍の芽紫蘇の鮓や雛祭 鳴く蛙蚊の出初めたる庵かな 目遥かに四山の雪や梅の花 先生や落花踏み行く高木履 苣畑雨の鴉の低う飛ぶ 野中観音 観音や淋しくおはす桃の雨 圓珠庵 鶯に雛僧庭を掃きにけり |
明易き船の遊女や下の関 川泳ぎ汽船の煤の流れけり 大寺や?を挽く所化二人 時鳥夜の若葉に乱鳴す まひまひの水に押し出す盥かな 夏木立蝉いばりして飛ぶ見ゆる 稲妻や山田の水を落す夜に 絵屏風や司馬江漢が秋の海 岸草に初汐満ちて夕月夜 藪寺や昼尚つるす九月蚊帳 よべの蚊にこりて又つる秋の蚊帳 暁を雁きくかやの別れかな 鶏頭花蚊帳の別れを干しにけり 鴫突くや萱野の水をふみ渡る 渡り鳥浜の奉行の屋敷跡 桔梗や芒が中にありて咲く 新酒古酒墨水北渚鬼史素石 味噌漬のつかり加減や秋一夜 鬼史新婚 今年酒大酒の婿と笑はれな 木枯に馬目の実飛びぬ浜社 今朝の霜残る枸杞の実赤き哉 芋蔓を干せる小家の冬日かな 餅分つの亥の子此の子や子沢山 病床に冬の蝿飛ぶ暖炉かな 枯菊や茶山の裾の一軒家 |
月兎の号について
青木月斗は、句を始めた当時、月兎と号していた。卯年の秋の生まれ(湯室月村「生れ年の卯 と月は秋であるので月の兎とされた
ように聞いて居ります」)からであろう。製薬を業としてい たか ら、西王母の不老不死の薬草を杵でつく、月の兎の意と、後に自
らも記している(『俳句研究』昭11.2「俳諧漫語」)が、これは後付けの理由であるようである。明治四十年四月より月斗と改め
た。 亀田小蛄によれば、「我が兎を斗に改めたのは字形の上に重きを置いたもので、 (略)月兎では余り馬鹿げて語をなさぬから
幸ひ字角の少ない斗の字を借りて来た迄だ」(月斗 『初 雁』明40)と云うことであろう。同じく、友人の芦田秋窓も秋双と改め
た。 兎から斗への改号に当たって、他にいろいろとト、トウ、トフの音 で、字を網羅して検べられ ている。その中でも東、豆、兜
ほか二字に○印しがあるが、その字義 の上でも字形の簡明さでも、 斗は最善であろう。そして「月の字は下につくより上にある方
が面白い所謂月並でない」という。 斗は、一斗枡であるが、また北斗星である。月斗の斗は、月に対する星の意でもあろう。 別に、
青木の青を分解すると、斗と月になるとの話もある。(島春)
薬園の霜美しき初日かな 月兎
この店看板は、五稜星十個で円形を描き墨の丸の「快通丸」。易堂翁筆という。他に、蛇の目の目薬「天眼水」。
明治三十五年十月、竹内琴涯宛封筒。
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