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未完成交響曲
ウィーンに咲いた蘭の花

曲名
交響曲第7(8)番ロ短調「未完成」 D.759
作曲
フランツ・シューベルト(オーストリア
着手
1822年10月30日(25歳) 間もなく中断
初演
1865年12月17日 ウィーン(ヘルベック指揮)
構成
第1楽章:アレグロ・モデラート
第2楽章:アンダンテ・コン・モト

遅れて登場した天才

 ベートーベンと比較して、生まれた年こそ27年違いの1797年ですが、亡くなった年が1828年と1年しか違わないシューベルト。ベートーベンと同時代を生きたにもかかわらず、音楽史上の分類はベートーベンの古典派に対してシューベルトはロマン派に属されます。古典的な枠組みを超えてロマン的な領域に足を踏み入れていると言う作風を共有しているのに、この違いはどこから来ているのでしょう?
 それは生前においてはほぼ無名で、死後何年も経ってからようやく作品が知られるようになったからです。
 実際、三大歌曲集のひとつ「白鳥の歌」や最後の3つのピアノソナタは死後に出版されましたし、とりわけ交響曲第8(9)番「グレート」は1839年にシューマンとメンデルスゾーンによって初演されて、シューマンに交響曲第1番「春」を書かせた直接のきっかけとなりました。それにここで取り上げている「未完成」も1865年の初演となっています。

当時のシューベルト

 シューベルトが町中を闊歩(かっぽ)していた頃のウィーンはイタリアオペラフィーバーで特にロッシーニ(ウィリアム・テルやセルビアの理髪師で有名)の全盛期で、どのオペラハウスやコンサートホールを見てもイタリアものであふれ返っていました。そのためドイツ・オーストリア人が作った音楽なんてダサくて聞いてられないと町中からそっぽを向かれていました。この状況にベートーベンが怒って、真剣にロンドンへ行こうとしました。それほどすごかったのです。
 後にドイツが都市国家から中央集権国家へとなるにつれ国粋主義が強まっていき、音楽の面でもドイツ人によるドイツのための音楽が尊ばれるようになりました。
 各地で外国人排斥運動が起こり、まずイタリア人が政治・文化両方で要職からはじき出されるようになります。これによりドイツロマン派が花開くのですが、皮肉なことです。後にこの矛先はユダヤ人に向けられて行きます。
 存命中はドイツ楽壇の中心的存在だったサリエリが今日サッパリなのは、彼がイタリア人だったため死後その存在を無かったことにされたからです。(あまつさえモーツァルトが死んだのは彼の陰謀だというデマも出た)
 以上のような理由によってドイツが誇る偉大な先人達を再評価しようと、完全に忘れられていたバッハや当時としては難解すぎたベートーベンとモーツァルトの作品にスポットライトが当たるようになったのでした。それに合わせて生粋のウィーンっ子であるシューベルトも浮上してきたのでした。
 生きていた頃のシューベルトはどうであったかと言うと、まったく売れないビンボウ作曲家でした。場末のカフェでしか歌ってくれないような歌曲を書きまくっていたのでした。しかし晴朗としていながら影のあるメロディーは魔力とも言える魅力を湛え、極々一部(身の回りの知人ぐらいの人)で“シューベルティアン”と呼ばれる熱狂的なファンが付いていました。しかしファンであってパトロンではなかったため経済的支援はそれほど受けられませんでした。結局死ぬまでビンボウでした。

未完成である謎

 シューベルトは1823年にシュタイエルマルクの音楽協会から名誉会員に推薦してもらいました。音楽協会の会員になると言うことは、世間にプロの作曲家として認められたことを示します。
 しかし「名誉会員」と言うのは微妙で「名誉白人」と言う言葉同様に本来は入会する資格などないが特別に入れてあげると言うニュアンスがあります。なぜかと言うと当時の音楽協会は決してオープンなものではなく、ギルドのように非常に閉鎖的な集団だったのです。ですから入会の際には社会的地位の他に、少なからぬ会費と他の会員の推薦(タダではないでしょう)が必要だったのです。でも貧乏なシューベルトにそんな余裕はなく、ただ彼の書く曲の魅力と周りの友人の尽力によって成し遂げられた「名誉会員」だったのです。
 話は逸れましたが、シューベルトはこの推薦を大変喜んで協会に交響曲を一曲送ると約束しました。彼の本領は歌曲や室内楽だと思いますが、どうして交響曲なのかと言うと、当時も今も職業作曲家として交響曲はオペラと並んでステイタスのひとつだからです。シューベルトの喜びと意気込みが伝わってきます。
 でも、結局送られてきたのは前半2楽章だけで、後半は永遠に送られて来ませんでした。この不思議については色々憶測が飛び交い映画にもなりましたが、実のところはそれほど込み入った事情はなく「この時は後で残りを送るつもりだった」が真実のような気がします。
 シュタイエルマルクの音楽協会に入会する際、礼状の中で「交響曲のひとつを速やかにお送りする」と書いています。時期から言ってこの交響曲はロ短調のもの(後に「未完成」と呼ばれるもの)を指しています。しかしこの段階ですでにロ短調交響曲は第3楽章で行き詰まっていました。それでもシューベルトは礼として交響曲を送るのが最も妥当だと考え、この交響曲を最後まで書き上げようとしたみたいです。
 しかし天啓のごとく頭にひらめいた音楽を湧き起こるまま五線譜に書き連ねるシューベルトの作曲姿勢から言って、一度インスピレーションが途切れた曲を完成させることはほぼ不可能に近いことでした。
 それで彼は曲を送るのをぐじぐじと長引かせていましたが、音楽協会の方でも「交響曲を送ると言って、まだ来ないじゃないか」と言う声もちらほら起こりだしたので、周りの人の薦めもあって、取り敢えず出来た2つの楽章を送り、「残りは後で送るから、もう少し待って欲しい」としたのです。
 しかし続きが送られてくる気配はなく、シューベルトは不帰の旅路へと旅立ってしまいました。楽譜を管理していたアンセルム・ヒュッテンブレンナーもシューベルトが亡くなるまで6年も預かりっぱなしだったこともあり、協会役員の手前「こんな曲がある」などと公表するわけにもいかず、そのままにしてるうちにこの曲のことを忘れてしまったのでしょう。(アンセルムへの贈り物説など、当然異説はあり決定打はありません)
 後にウィーンの指揮者であるヨハン・ヘルベックによって1865年発見され、その年の12月17日にウィーンの音楽協会定期演奏会でヘルベックの指揮により初演されました。初演は大成功を収め、この曲は未完成であるにもかかわらず交響曲というジャンルを代表する一曲になったのでした。実に作曲から43年も経っていました。シューベルトが生きていれば68歳でした。

曲について

 シューベルト最後の交響曲である「グレート」がシューマンやブルックナーに大きな影響を与えたのは有名ですが、この「未完成」も後世に与えた影響は測りしれません。
 1つ目は2楽章制を取っていることです。交響曲は4楽章制が当たり前で3楽章制や5楽章制などが異例になるほどなのに、2楽章制でもやり方次第で交響曲を締めくくることが出来ると言う衝撃を与えました。
 2つ目は緩徐楽章で交響曲を終えることです。交響曲のフィナーレは快活な楽章が来るのが常識であり、アンダンテで終わるという方法は交響曲に新しい世界を与えるものでした。これは後に数多く作られるアダージョ交響曲へと継がっていきます。
 別にシューベルトは狙って2楽章制や緩徐楽章で終わるようにしたのではないのですが、この曲を聞くとこれで充分だという満足感が得られます。この曲は「未完成」の名を与えられることで完成したのです。
 この他にも第1楽章で第2主題提示をしている際の息が詰まるような全休止が天才でしかなされない所業を感じさせ、またブルックナーを先取りしていて興味深いです。(ブルックナー1番のリンツ版完成が1866年です)

ウィーンに咲いた蘭の花

 この曲を聞いていると、蘭の花を想像させられます。
 しかも混沌とした19世紀初頭のウィーンに咲いた、“死”というあがなうことのことのできない匂いを放つ蘭の花です。
 非常に有名な曲で、さもすると初心者の入門用の一曲だと思われがちですが、この曲の神髄をえぐり出すのは大変難しく、また演奏者の心情を裸でさらけ出してしまうため、指揮者にとってもおいそれと取り上げたくない曲なんだそうです。


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