朝比奈と東京都交響楽団とが95年に行ったライブの録音。
思い切りゆっくりとしたテンポの中進められているが、いつもの朝比奈らしく奇をてらわないものである。堂々とオケを鳴らし切っていて壮大な演奏だ。彼が同日に取り上げることの多い「グレイト」同様にシューベルトの尽きることのない旋律を湧き出るがままに紡いでいくアプローチで、変にドラマティックだったり、メロディを表現過剰なまでに歌わしたりしない。だからその分安心して音楽そのものに浸り込むことが出来る。くどい「未完成」に食傷気味な方にお薦めする。
このCDは阪神淡路大震災で被災した朝比奈が自宅のある神戸を脱出した直後の演奏会であり、全体に漂う沈んだ響きは被災者への追悼の音楽にも聞こえる。
インマゼールが古楽器オケであるアニマ・エテルナと96年に録音した全集より一枚。
さて、アニマ・エテルナとは古楽器オケなのだが、音程の基準となるピッチを現代風に上げているので従来の古楽器オケで感じたもやっとした響きがなく、古楽器の音に慣れていない耳にも違和感なく聞くことが出来る。
弦楽器こそ少人数で、かつ羊腸を使ったガット弦なためやや頼りない響きをしているが、各調性に合わせて調律された木管やバルブのないナチュラル音のみの金管楽器が鮮烈なハーモニーを聴かせてくれる。特に木管楽器の柔らかさを持ちながら独特の冴えた音色はこの曲のうら寂しさと非常にマッチしていて聞き惚れてしまう。
演奏の方は最近のシューベルト研究の成果を反映したもので、シューベルトが紹介された時代に付加されてしまった虚飾を削ぎ落としている。これに速いテンポが合わさって、ともすれば病的に演奏される「未完成」をただ旋律美に溢れる古典派の交響曲として聴かせてくれる。
ただ注意して欲しいのは快速テンポといえどもシューベルトの肝である歌心は決して忘れてはおらず、第1楽章の第2主題や第2楽章の両主題などを心地よく歌っている。そしてこの曲が持つ静と動のコントラストも明確に付けられている演奏となっている。
ヴァントが91年にNDRと録音したライブ。
内声部まできっちりと鳴らし切った演奏で、スケールが大きくそれでいて彫りの深い音楽を聞かせる。さすが長いリハーサル時間を取り、徹底的に音楽を磨き込んでいくヴァントらしいものだ。またNDRも長年のパートナーシップを発揮して指揮者の意図を十分理解し、それを音にしている。
ただシューベルトの魅力であるメロディを歌っているものかと言えばそうではない。しかしドイツ本流である腰の据わった重厚さがたっぷりと堪能できる演奏だ。
95年にヴァントがベルリンフィルに客演した際のライブ録音。同日に演奏された「グレイト」と合わせ、この日の成功によりベルリンフィルとのブルックナーチクルスが始められた。
演奏の方だが、NDRとの演奏同様、細かい所まで実に神経の行き届いた、彫りの深いものだ。それでいながら音楽がこじんまりとせず、大きいスケール感を獲得しているのは見事である。またベルリンフィルの開放的な音色がヴァントのいぶし銀のような芸風に華を添えていて良い。
ただベルリンフィルが指揮者の統率を離れて勝手に暴れようとする瞬間があり、表現は非常にダイナミックではあるが、NDRとの演奏が持つ精緻さと比べると幾分魅力が落ちる感じがする。
ヴァントがミュンヘンフィルと行った演奏会の録音。録音年は記載されていないので98年5月と推察できるが、同じプログラムを90年にも行っているので、詳細は不明。ただ演奏スタイルから言って98年説が有力。このCDのヒットにより、ヴァントの海賊盤ラッシュが始まった。
緻密で厳格な響きの中に大きなスケールを感じさせる、ヴァント晩年のスタイルを聞くことが出来る。それにミュンヘンフィルの確かな技巧と絹のような光沢を持つ美しい音色がこの演奏をさらに味わい深いものにさせている。しかし完全に枯れきったものではなく、音楽に力感が漲っていて、はかなさだけではないのが好ましい。
このコンビは名演が多いので、他の曲でも要チェックである。(ブートばかりだが)
ヴァントがNDRと2000年11月6日に行った演奏会で、同年東京にやってくる直前のコンサートの模様。東京盤はこちらを参照。海賊盤。
基本的に東京公演と同じだが、オケのホームグランドでやっているためか、リラックスした雰囲気があり、加えて幾分速めのテンポがこの曲をチャーミングなものにさせている。かと言って、腰高の演奏ではなく、中身の凝縮されたものであることは間違いない。
東京ライブがあれば充分だが、この演奏にも違った面があり面白いので、ディープなファンにはお勧めしたい。
ヴァントとNDRとが2000年11月12日〜14日に東京オペラシティ・コンサートホールにて行った演奏会を録音したもの。コンサートの様子はここを参照。
あらゆるフレージングひとつ取っても細心の注意が注がれ、それが透明な明晰さで提示される様は畏怖さえ覚える。今では速いテンポでキリリと締め上げる「未完成」が主流の中、この演奏は遅いと言っても良い速度で進められる。それなのに引きずるような叙情性は皆無で、それは素っ気ないくらいだ。しかしその透明な響きは幽玄にも通じる寂しさを湛え、全編にわたって張り巡らされた凄まじいまでの緊張感がこの曲の表現を凝縮している。
ブルックナーだけでなく、シューベルトにも素晴らしい適性があることを示す逸品だと思う。
カラヤンがベルリンフィルと75年に録音した演奏。なぜこの位置にカラヤンがいるのかと首を傾げる方もおられるだろが、良い物は良い。偏見は捨てよう。
両楽章ともゆっくりと演奏されるが、まず驚かされるのは耽美的とでも言える沈み込んだほの暗い響きの美しさである。これにはしみじみと聞き惚れてしまう。またロマンティックとまでは言わないがツボを押さえた歌い回しが大変良い。第1楽章の第2主題はまさにウィーン的なアウフタクトで、このメロディーをウィーンの花売り娘達が口ずさんでいたことを思い起こさせる。(それにしてもこの「花売り娘」と言う言葉に裏の意味はあるのだろうか? 微妙だ)
カラヤンらしいドラマティックな表現も素晴らしいが、なによりこのコンビ独特のサウンドの中、この曲に秘められた美しくも哀しげな一面にスポットが当てられた演奏だ。
クナッパーツブッシュがベルリンフィルハーモニー管弦楽団と50年1月29日に行ったライブの録音でモノラル。
冒頭部から止まりそうな遅いテンポはまったく彼らしく、低弦を強調した演奏はどっしりとした重い足取りと合わさって、巨大で重量感に満ちた演奏となっている。
58年の演奏では第2主題でテンポが急に速くなっていったが、この演奏ではそういったものは控えられインテンポを比較的守ったものとなっている。それがいっそう巨大なスケール感を感じさせる結果となっている。(といっても展開部で盛り上がる所などはけっこうテンポを動かしている。しかしそれほど気にならない)
それにしてもここで聞けるコクの深さはまさにクナッパーツブッシュ独自のもので他の演奏で聞くことはできない。その点では晩年のベームですら及ばないと思う。しかしそんなクナの表現がこの曲に合っているとは思われないところが残念だ。
なお50年1月30日との違いは、クナの棒に鋭く反応できないことによるギクシャクした感じと、緊張感がやや薄いことが挙げられる。
クナッパーツブッシュがベルリンフィルと50年1月30日に行った演奏会を録音したもの。モノラル録音だが音質は良好、所々のプチノイズはご愛敬の範囲内。
観客の拍手が鳴り止まない内から棒を振り始めるのがクナらしい。冒頭は止まりそうにテンポが遅く、提示部では一時普通になるもの、展開部の入りで再び超スローテンポになる。これが地獄の釜のふたが開いたような不気味さを与え背筋を寒くする。また第2楽章ですら、素っ気なく進めるのに、そこに得体の知れない奥深い寂寞とした感覚が支配する。この演奏では甘美なロマンなど露ともあらず、臓腑をえぐるような深刻さがのたうつように存在する。
まさしくクナッパーツブッシュでしか表現できない演奏と言える。
ちなみに50年1月29日との違いは、オケがクナの棒にガッチリ追いていって、緊張度の高い演奏をしていることだ。
どこかで聞いた演奏だと思い、聞き比べてみると50年1月30日の演奏と内容および客席ノイズが同じだった。たぶんこの日の演奏だろう。
なお音質について述べると、このCDはCD−Rらしいエッジの丸さがあるもの、音自体は良好で、ターラ盤より生々しい所もある。
クナッパーツブッシュとバイエルン・シュターツオーケストラによる58年のライブ録音。モノラル。
第1楽章冒頭のチェロとコントラバスが音楽が止まりそうに遅い。こりゃすごいと思っていると第2主題提示でアッチェレランドをかけて加速していく。またここぞと言うところで凄まじいほどの轟音をオケから引き出す。劇的な第1楽章に比べて第2楽章の方が速めのテンポですっきりと演奏されている。
彼らしい懐の深い立派な演奏だ。ただシューベルトの旋律美を堪能することはできないと言える。
それにしても観客が咳をしまくりのうるさい録音だ。しかしクナも楽章間で客が咳払いをしていようがお構いなく第2楽章を始めているのが面白い。
音質について述べると、ゴールデンは低音がブーミーで高音も丸くなっており一番劣る。リヴィングはどの音域にも突出した部分はないが、音の粒にキレが不足している。ただし一番ノイズが少ないためフォルテでの音の立ち上がりが良い。オルフェオが最も音が生々しく、特に高音の存在感が素晴らしい。
クーベリックの初来日時、バイエルン放交と65年4月24日に東京文化会館で行った演奏会の録音。Atlusは日本に眠っている貴重な記録を次々と発掘している非常に期待できるレーベルだ。
クーベリックらしいシャープなエッジをしている演奏だ。しかしその響きが神経質になったり、線が細くなったりすることはなく、流暢な音楽の流れの中、大らかさを感じさせるものとなっている。なにより演奏に生命力のあることが大変良い。
クライバーがウィーンフィルと78年に録音した演奏。
ベートーベンで見せるこの指揮者の叙情や余韻などを何もかもぶった切った演奏とは違い、シューベルトの歌謡性を充分に心得た演奏となっている。第1楽章はあまり速くなくすっきりとしていながら各主題を心いっぱい歌ったものとなっている。とは言っても展開部での盛り上がりではテンポを上げ凄まじい切れ味で音を叩き込む。最後は悲劇的な色彩の中、劇的に締めくくられる。
第2楽章ではウィーンフィルの機能が全開して非常に歌心の満ちた楽章になっている。速めで引きずるところのないテンポで、静かな所も激しい所も絶えず歌を忘れることがない。
ロマンティックなものを排除しながら歌心は忘れず、聞いた後は非常に心が満足する演奏だ。
フィルハーモニア管弦楽団と63年にスタジオ録音された演奏。最近、海外盤でクレンペラーレガシーにも収録された。
クレンペラーの演奏なのでテンポがきわめて遅いと思いこんでいたが、この演奏では意外にも速めのテンポで進められる。と言ってもその他はいつものクレンペラーで、この曲のもつロマンティックな叙情なぞどこ吹く風と、この曲がまるでベートーベンのものように強靱でスケール大きく鳴り響く。これは他のどんなCDにもない魅力だ。
ただ余りにも迷いがない。もっとこの曲の影の部分も描き出して欲しい。個人的にはこんな演奏も良いもんだと思ったが、お薦めはちょっとしにくい。
66年にバイエルン放送交響楽団とライブ録音されたもの。
63年にスタジオ録音された演奏があるが、わずか3年のうちにこんなにも変わるものだろうかと不思議に感じてしまった。ゆっくりとした彼特有のテンポの中音楽が進められるが、悠然とした歩みと懐の深さが心地よい。基本的な解釈はスタジオ録音盤とほとんど変わらないのに何故だろう?
第1楽章で深刻さが、第2楽章で寂寥感が広々した響きの中にも感じ取れ大変良い。甘ったるい「未完成」には辟易しているとお嘆きの方にお薦めする。
73年に43才の若さで夭折した指揮者による63年の録音。この人が今も生きていれば、現在のクラシック界も大分違ったものになっていただろうと思うと残念でならない。
クセのない正統的な解釈はイッセルシュテットを思い浮かばせる。全体にウィーンフィルの機能を生かした甘く柔らかい響きがするがねちっこさはなく、特に第1楽章ではシューベルトの肝である歌をきっちり歌いながらドラマチックな展開を聞かせる。一方第2楽章ではおおらかに歌い上げていくが、この楽章にある彼岸を垣間見える陰影が感じられるまでには至ってない。しかし音楽がこじんまりとすることはなく、大きく音楽を聞かす所が好ましい。聞き終わった後はなにか大交響曲を聞いた感じにさせる。
強烈な個性を感じさせる華々しさは薄いが、33才でこれだけのものを聞かせることは驚異的で、このまま年齢を重ねていけたらきっと中身の濃い指揮者になっていただろうだけに重ね重ね残念に思う。
シノーポリのシューベルトは83年のフィルハーモニア管弦楽団のものもあるが、これは92年にドレステン国立管弦楽団と録音したもの。
シノーポリらしくこりこりとした音作りで、やや荒さ(いびつさ?)を感じるもの、実に熱のこもった演奏だ。第1楽章などはとても劇的で、突然のffなどアタックの効いた音がまさに飛び出してくる。また展開部終盤とコーダに大きな山を作り出していて、シューベルトのシンフォニーにしては珍しいこの曲の持つドラマティックな面を強調する。
しかし第2楽章での彼岸へと誘うようなこの世の物ざらぬ旋律美が堪能できない。ドラマティックな面を強調する点がここではマイナスに働いているようだ。
指揮者、オーケストラが一体となった曲への共感に満ちた熱い演奏は、決してやっつけ仕事ではない好感を持てるものとなっている。
シューリヒトがシュトゥットガルト放送交響楽団と52年2月29日に行った演奏会の録音。モノラル。これはMUSIC&ARTS社が真っ当にライセンスを取って発売したもの。
最初は印象のはっきりしないものだったが、曲が進行するにつれ、音をスパッと切り、金管をパリッと鳴らす、この人らしさが現れてくる。またシューリヒトにしては中庸的なテンポで進み、これを所々揺らしてくるが、甘ったるくなることはなく、純度の高い響きですっきりと曲を聞かせるのに、音楽には特有のコクが浮き立ってくる。これが第2楽章になるとなんとも言えない味となり、しみじみと胸に迫ってくる。
シューリヒトの芸風は他にはないので、聞き始めはどこが良いのかさっぱりだと思うが、聞き込むにつれてある日突然この人の良さが解るので、機会があればぜひ聞いて欲しい。
59年3月24日に行われた演奏会の録音。モノラル。
シューリヒトらしくない柔らかい音で始められるが、その高い純度の響きはシューリヒト以外の何者でもないことに気付かされる。一方、ライブで彼が見せる激しいテンポの緩急が強く抑えられ、比較的ゆっくりとしたテンポで進められるため、聞いていると演奏者の存在が消えて音楽のみがこちらへ伝わってくるものとなっている。
63年9月11日の演奏。モノラル。
最初はなにやら興が乗らない感じなのだが、曲が進むにつれ段々と調子を上げてくる。しかし響きの純度が期待したほど高くなく、始終穏やかな表情で曲が流れていく。この演奏も激しいテンポ変化がなく、確かな構成感と合わせて、安定した曲運びとなっている。
音質について述べるとほぼ互角と思われるが、ディスカバーの方がどちらかと言うと楽器の音が生々しいが、全体にモコッとした冴えない音をしている。一方、リヴィングの方は高音がクリアで、ずっと見通しのいい音をしているが、こちらの方は曲が終わったときにステレオ加工された怪しい拍手が付いている。
余談だが、ディスカバーのジャケット裏に書いてある曲順はおかしく、本来は未完成→ロンドンの順番が正しい。タイムの表示だけが曲順と合っている。
84年にウィーンフィルと録音した演奏。
ショルティと言えば速いテンポで颯爽と進んでいくイメージがあるが、古典派の音楽をするときに限っては落ち着いたテンポ設定になされることが多い。この演奏も落ち着いたテンポでじっくりと進行していく。
ただシューベルト最大の魅力であるメロディを歌いきっているとは言い難く、あまり感心するような演奏ではなかった。ウィーンフィルも第1楽章の主題提示部までは指揮者の棒に乗り切れないのか、何となく固い弾きぶりだった。
いっそのこと思いっきりドラマティックな演奏をしてくれた方が面白かったのではないかと思う。
チェリビダッケによる63年録音のライブ。チェリと言えば海賊盤だが、これも限りなく海賊盤に近いグレーなCDだ。
そこでこの演奏を聞いてみると晩年の演奏形式とは違い、曲の冒頭を除き速めに音楽を進めながら所々で激しくテンポを揺り動かすものとなっている。そのため劇的に感じるのかと言うとそうではなく、またこの曲の持つ叙情性を強調している演奏かと言うとそうでもない。叙情性を醸し出しながら劇的な表現をする狙いかも知れないが、聞いていてこれらは上っ面だけの効果を狙っているようにしか感じられない。いくら難しい顔をして音楽を演奏しても、出てくる音に意味がないと存在価値はない。
まったく、この「未完成」は指揮者の本質をえぐり出してしまうので恐ろしい。
アンドリューじゃなくてコリン・デイヴィスがドレステン・シュターツカペレと96年に録音した全集からの1枚。
69歳を迎えて円熟に達した彼の演奏だが、まったく力みが無く響きが非常にまろやかで、ゆったりとしたテンポのなか中身の詰まったきめの細かい音楽を奏でている。またシュターツカペレの低音から響いてくる音色がこの演奏を非常に腰の据わった物にしている。
第1楽章からじっくりと旋律を歌い込んでいる。特に第2楽章の第1主題などはしみじみと心に滲みる。しかし第1楽章の展開部や第2楽章の第2主題提示部が持つ静と動のコントラストは目が覚めるように鮮烈につけられ、ただ旋律美に溺れる演奏ではないところが良い。
インパクトは薄いが味わいの濃い演奏だと言える。
テンシュテットがロンドンフィルと84年4月に行った演奏会の録音。海賊盤。
テンシュテットだからと言って羽目を外した所はなく、古典的なたたずまいを忠実に守った演奏だ。しかし重心の低い大きなスケールはしっかりとしており、第1楽章の展開部におけるダイナミックな表現は引き込まれるものがある。一方、第2楽章がしみじみと歌を歌い込んだものではあるもの、第1楽章同様そのダイナミックさが溢れているので、この楽章が持つ彼岸から響いてくるような幽玄さが不足している。
ただこれ自体は大変良いものなので、聞いて損はしない演奏だ。
バーンスタインがアムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団と87年にライブ録音したもの。
バースタインというと遅いテンポの中、濃厚に歌い上げていくイメージがあるが、この演奏ではこの曲を古典派の音楽と捉え、すっきりと演奏している。
第1楽章では意外に速いテンポで進んでいく、この曲の持つ劇性はあまり強調せずくっきりとした構成感を前面に出している。ただコーダにおいてだけはぐっとテンポを落とし、悲痛なクライマックスを描き出している。
第2楽章ではこの指揮者の持つメロディを魅力的に歌い上げる才能が充分に発揮されていて、心から聞かせるものになっている。特に第2主題の寂寥感が素晴らしい。
フルトベングラーがベルリンフィルと48年10月24日に行った演奏会の録音。モノラル。元テープ自体が良い音質で収録されていないため、音に広がりがないが、このCD化はかなり頑張っていると言える。
第1楽章の冒頭にフルベンらしい深刻さがなく、流暢に音楽が進行するが、展開部にはいると壮絶さが一気に迫ってきて、劇的な盛り上がりを聞かせる。コーダでのものすごいタメはまさにこの人ならではと言える。
続く第2楽章では前楽章での劇性はいくぶん影を潜め、しみじみと歌を紡いでいくのに心を洗われる。
フルトヴェングラーがウィーンフィルと50年1月19〜21日にスタジオ録音した演奏。モノラルだがブライトクランクと呼ばれる技法で擬似的にステレオ的にしている。
第1楽章は速めのテンポで始められるが、フルトヴェングラーらしくここぞ言う所ではぐっとテンポを落とす。コーダなどは極端にテンポを落とし沈み込むように終わっている。
転じて第2楽章ではゆっくりとした速さの中、細かくテンポを揺り動かして歌い上げている。また歌うところと激昂するところの差が大きいにもかかわらず、先の細かいテンポの変動同様、違和感を感じさせない。
アンダンテもコーダに至って止まりそうなほどテンポを落とすが、これが瞑想するような気分を醸し出している演奏だ。
これはフルトヴェングラーがベルリンフィルと52年2月10日にティタニア・パラストで行った演奏のライブ録音。モノラル。
スタジオ録音ではないかと思うくらい彼の演奏にしては燃え上がるものが控えられている。しかし彼らしい情熱が欠けていると言う訳ではなく、そのエネルギーは内へと向けられていているものだ。だからひとつひとつの楽想の持つ意味の深さはかなりのもので、ウィーンフィルとのスタジオ録音とは段違いの出来を見せる。
しかしフルトヴェングラーらしい魔術のような魅力が乏しく、曲に引きずり込まれることがあまりないのが残念だ。
外面的な派手さはないもの渋い深みを持った演奏だ。
フルトヴェングラーがベルリンフィルハーモニー管弦楽団と53年9月15日に行ったベルリン音楽祭のライブ。モノラル録音。
ライブでこそ最高に燃焼するフルヴェンらしく、50年のスタジオ録音とは比べものにならない程の冴えを利かせる。第1楽章の第1主題提示から地の底から響いて来るかのような深刻さに満ちていて、緩んだ所のない音は厳しいくらいに引き締まった造型を聞かせる。また第2主題も雄大さが溢れ、続く展開部も非常に劇的に進行されていく。コーダで聞かれる深刻さはギリシャ悲劇を思わせる。ただティンパニが展開部の指定のない所でドコドコ鳴るのがちょっといただけない。
第2楽章も深刻かつ哀愁に満ちた音楽が展開する。特に切々と歌い上げる第2主題の寂寥感が堪らなくなる。またフォルテシモが哀しみのなか絶叫しているように聞こえるのも大きな特徴だ。コーダで聞ける寂しさも素晴らしい。
ペシミストとしての彼の一面が強く出た演奏だ。
フルトヴェングラーがベルリンフィルとフランスへ演奏旅行に行った際、パリのオペラ座で54年5月4日に行った演奏会の録音でモノラル。これがフルヴェン最期のシューベルトの録音となった。音質は高い音から低い音までしっかりとディスクに記録されていて大変良好だ。
冒頭のコントラバスから濃厚な深刻さが滲み出てくる。それでいて演奏にはエネルギーを感じさせ、オケの気迫がひしひしと伝わってくる。しかしエネルギッシュと言いながら、表現は表面的にならず、枯れたのともまた違う深遠さが存在し、第2楽章などはただただ粛々と聞き入らせる。不思議な均衡を保っている演奏だ。
ベームのシューベルトはたくさんあるが、これはベルリンフィルと66年に録音した演奏。
曲の出だしコントラバスがこけてるのはご愛敬。だがこの他にもヴァイオリンの縦が揃っていない所などあやしい箇所もあり「カラヤンだったら絶対に許さないだろうに」と思ってしまった。しかしオケが指揮者の棒を信頼して弾いている様が良く伝わってくる演奏だ。この頃のベームも円熟と老いとが良いバランスを取っている時期で、オケの統率力も申し分ない。
全体的に言えることは、ベームらしい朴訥(ぼくとつ)とした歌い回しが素晴らしく、それにベルリンフィルの機能性が加わって劇性をも兼ね備える演奏になっている。(人によっては少し派手派手しく感じるかも知れない)
面白いのは第1楽章と第2楽章を比べるとアンダンテである第2楽章の方がテンポの速いことである。第1楽章の地に沈み込むような深刻さと、第2楽章の優雅さと激しさとが対立する両楽章の性格を突き詰めた結果なのだろう。個人的には第2楽章をもっとじっくりと歌い込んで欲しかったが、ないものねだりだろうか。
ベーム最晩年のウィーンフィルとのライブ録音。
ベームと言えばライブで最高の魅力を発揮する指揮者で、どんなに得意な曲目を振ろうと、スタジオ録音だとカスみたいな演奏になってしまう。
しかしライブだと様相は一変し、中身がずっしり詰まった雄大なスケール感にがっしりとした構成感、それに燃え立つような情感がこもって素晴らしいものとなる(こともある)。
さて演奏の方だが、非常に重々しい足取りで沈み込むような響きが全体を包む。それにウィーンフィルが胸一杯の叙情を加味して大変素晴らしいものとなっている。
ベームの特徴である堅固な構成感や朴訥とした歌い回しは希薄となり、ただ音のみが重く漂うなんとも言い様のない世界が広がっている。
第1楽章はもちろんのこと、この世のものざらぬほど美しいはずの第2楽章ですら、恐ろしいまでに極大のスケール感を持つ音の世界へと変容している。
ベーム最晩年の境地を示す畢生の演奏のひとつである。
ベームがドレステンスターツカペレと79年1月12日に行った演奏会の録音。これは海賊盤だが、この日の後半に演奏された「グレイト」がグラモフォンからCD化されている。
ゆったりとしたテンポのなか、スケールの大きいそして起伏の大きい音楽が展開していく。この演奏を聞くと、2楽章しかないこの曲が大交響曲のように感じてしまうから不思議だ。
またこの演奏にはシューベルトの肝とも言える歌心も溢れていて生命力に満ちている。第2楽章など実にしみじみと沁みてくる。
しかしこの演奏、どうしてグラモフォンから発売されなかったのだろうか(たぶん大人の事情だろうが)、つくづく残念だ。
ボールトがフィルハーモニア管と64年7月30日に行った演奏会の録音。
まったく奇をてらわない演奏だが、柔らかい響きが音楽に優しい包容力を与え、イギリスらしい気品の良さと整頓された流れに安心して身を任せることの出来る演奏だ。
取り分け華も毒もない演奏だが、素朴なたたずまいがいい味を出していると言える。
モントゥーに並ぶフランスの巨匠による55年の録音。
フランス人指揮者らしく旋律は伸びやかに歌われ、艶やかな響きが美しい華を添える。しかしそれだけではなく音に芯があり力強く音楽をドライブしていく。また熱狂的とでも言える情熱があり、それを堅固な構成力でがっちりと支えている。
だがそのせいかこの曲にある影の部分がきれいに吹き飛んでいて、非常に健康的な美しさに満ちた演奏となっている。
マタチッチがウィーンフィルと84年に行ったライブの録音。
彼らしいすっきりとしたテンポで端正に演奏される。まったく奇をてらわない正当なものであり、もうちょっと彼独特の遊びのようなものがあっても構わないと思うのだが、曲自体がそれを許さなかったのかもしれない。
しかし曲の構成をがっちりと把握した演奏で最後まで聞き入ってしまう。ウィーンフィルが伸び伸びと演奏しているのが演奏に華を添えているようでよい。
録音の少ない指揮者だが、この人のワーグナーやブルックナーは格別な味わいがあるので、彼の演奏も一度は聞いて欲しいと思う。
ムラヴィンスキー3度目の来日となった1977年10月12日に、東京文化会館で行った演奏会を日本ムラヴィンスキー協会の大野弘雄氏が収録したもので、ALTUSが制作し、キングが発売した。
弦楽器の思い切ったピアニッシモにまず驚かされるが、全編に流れる緊張感が凄まじく、曲が始まってしばらくするとこの指揮者が創り出す世界に引きずり込まれてしまう。
なにより深く沈み込むような表現が例え要のない魔力を湛えており、息をつくことすら許されないような空気を放った演奏となっている。
会場録りではあるが、音質には問題はなく、かえって生々しい臨場感に恵まれた録音となっている。
ムラヴィンスキーが78年にレニングラードフィル(ソ連崩壊により91年にサンクトペテルブルクフィルハーモニー交響楽団と改称)とライブ録音した演奏。
この曲がシューベルトの音楽による「死」の結晶と喩えるなら、これ程の演奏はない。最初の音が鳴った瞬間から、その虚無的な冷たい世界がぱっくりと口を開き、聞き手を引きずり込んでしまう。
第1主題の緊張感に満ちた寒々しさが素晴らしい。それでいて第2主題になるとその緊張感がほわっと解け、緩急自在な表現を見せる。コーダで感じさせるやり切れなさは聞いていて胸が締め付けられる。
第2楽章も緊張で張り詰めた空気の中、繊細で儚(はかな)く感じるほどの美しさが漂う。アピール感は少ないがメロディも充分歌っており、情感を一切排除したものでもないところが良い。また曲の最後での魂の浄化とでも言うような響きは他で聞くことは出来ない。
メンゲルベルクがコンセルトヘボウと39年11月に行った演奏会の録音。モノラル。
彼がこの曲を振ると聞くと、何やら廃退的な香りがしてきそうだが、実際耳にすると決してそうではなく、意志の力が張ったたくましいもので、速めのテンポのなか端正に締め上げられた造形を感じ取ることができる。
ポルタメントやテンポの緩急もあるにはあるが、いやらしさは少しもなく、熟成されたワインのような風味を感じさせる。
なにか“粋”を感じさせる演奏だ。
モントゥーがアムステルダム・コンセルトヘボウと63年に録音されたもので、彼の死の1年前の演奏となる。
モントゥーはフランスの指揮者であるが、自国の曲以外にもドイツものに造詣が深く、特に生前会ったこともあるブラームスを敬愛していて、ブラームスの演奏には定評がある。
演奏の方はがっちりと曲を捕らえており、速めのテンポで進められる音楽は重くて大変大きいスケールを持っている。それでいながら引きずるようなところはまったくなく、音にしなやかさを持ち、強靱なバネの効いた躍動感溢れる演奏だ。
アンダンテでは一転してじっくりと腰を据えて進められるが、ここでも流暢な歌は忘れずに歌われている。またコーダではしみじみとした味わいが出て、思わず聞き入らせてしまう。ただ音がちょっと派手なのがこの曲に合うのかなって思ってしまうことがある。
47年3月2日に行った演奏会の記録。モノラル。
すっきりとしたフォルムで進んでいくのはオケがフィラデルフィアだからなのかもしれない。しかしそんな中でもワルターらしい人懐っこい歌い口も感じ取ることができ、また無駄のない構成は安定感があり、さすがだと思うが全体にあっさり味で、この指揮者の持つ濃厚な歌を味わう喜びはほんの少し弱いと言える。ただ第2楽章は速めのテンポを採りながら、どっしりと聞かせるものがあり、そこは魅力的だ。
50年10月2日に行った演奏会の録音で、モノラル。
ライブのワルターらしく、やや速めのテンポで熱のこもった演奏をしている。推進力のある曲運びをしているが、古典的な構成感は万全であり、危うさを感じさせることは一切ない。
腰を据えて進められる第2楽章が特に良く、聞いた後の充実感はしっかりと感じ取ることができる。
それにしても、オケの音程がかなり怪しいのが気になると言えば気になる。
ワルターがニューヨークフィルと58年に録音した演奏。ステレオ録音。
歌を歌い抜くことにかけては天下一品であるワルター面目躍如の演奏である。どのフレーズひとつをとっても叙情のたっぷり詰まった歌に溢れている。またひとつのフレーズから次のフレーズへ移る際、そのメロディの受け渡しが異常なほど自然であり、心にしみじみと染み渡ってくる。
第1楽章はやや速めで演奏されるが、第2楽章は思いきりゆっくりと進められる。どちらの楽章も歌心に溢れているのは言うまでもないが、劇性も忘れず兼ね備えられている。それもこれ以外は考えられないほど適切な案配で、いたずらにドラマティックに煽ってこの曲の歌謡性を曇らせてしまうようなことは全くない。
それにしてもこのCDで奏でられる第2楽章の美しさはただごとではなく、まさにワルター畢生(ひっせい)の演奏だろう。
ただ余りにも芳醇でマイルドなため、現在の(よく言って)刺激に満ちた演奏に骨の髄まで浸ってしまった人には、この演奏の真の凄さには気付かず、なんか物足りない音楽に聞こえてしまうだろう。もったいない。この演奏はいろんな「未完成」を聞き込んでいないと良さが解らない秘宝のようなものだと思う。