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ハンブルク北ドイツ放送交響楽団 来日公演

日時
2000年11月12日(日)午後7:00開演
場所
東京オペラシティ・コンサートホール
演奏
ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
指揮
ギュンター・ヴァント
曲目
1.シューベルト…交響曲第7番 ロ短調“未完成”
2.ブルックナー…交響曲第9番 ニ短調
座席
1階22列26番(S席)

オザワは西へ、オイラは東へ

 ものすごい演奏会でした。すばらしい演奏会でした。私にとって一生の心の糧となる演奏会でした。私は今これを演奏会が終わった後に引き上げた安ホテルで書いていますが、未だに興奮が冷めず、心の中は充実した幸福感で打ち震えています。
 無理してチケットを購入した甲斐がありました。ダフ屋さんから手に入れたので、ウィーンフィル並の値が張りましたが、あんなつまらん指揮者の演奏を聞くより何十倍もの価値があります。
 マジでドイツに行こうかと思ったことがあるくらいこの人の演奏会を生で聞きたかったのです。(ドイツ行きは金銭的、経験的、語学的、なにより時間的理由によって実現不可能でしたが) ですので今回の出費など痛くも痒くもありません。
 今ウィーンフィルが大阪に来ているようですが、私はギュンター・ヴァントを聞きに東京へと向かいました。

東京オペラシティ

 新宿駅から甲州街道に沿って延々と歩くと、迷子になったのかと不安になった頃に東京オペラシティに到着しました。(新宿駅で都営地下鉄に乗り換え、初台駅で降りると目の前です)
 ここはコンサートホールと国立第二劇場だけでなく、レストランやイベントホールなどが多くある総合文化センターみたいな所です。でっかいクリスマスツリーがデコレーションされてました。
 6時半の開場に合わせてエントランスにはすごい人だかりができていて、その熱気で暑いくらいでした。
 中に入りホワイエをうろつきましたが、東京オペラシティ全体に言える現代的なデザインのせいかかなり素っ気ない印象を受け、くつろげる雰囲気ではありませんでした。そこで会場に入り座席に座りましたが、椅子は硬めでなかなかのものでした。欲を言えば骨盤のサポートがやや甘かったですが。
 ホールはピラミッド型の空間を有してあり、ステージと1階席をぐるりと囲むように2階席と3階席がありました。ステージの上空には高い天井との中間に平坦な反射板が取り付けられていて、ここと床との反響で残響を作りだしているようでした。そのためシンフォニーホールでの全身が音に包まれるような響きはなく、前方から楽器からの直接音と残響音とがやってくる感じがします。
 一方非常に高い天井のせいで客席の雑音はまったく響かず、すべてこの天井が吸い取ってしまうようでした。また携帯電話は使えないように電波がジャミングされているようです。これは素晴らしいことです。他のホールも是非まねして欲しいものです。
 ステージ上にはたくさんのマイクが立っていたので、今日の模様は録音されるようです。プログラムを読んだ所、どうもNHKによる録音で、同時に録画もされるそうです。(TVカメラはヴァントの意向によりまったく目立たない場所にセットされたそうです) しかしNHKのことですからこの演奏会のCDが出るのは10年単位で先の話になるでしょうね。

ヴァント現る!

 係員が鐘をチン・チン・キーンと叩きながらホワイエを巡るとハンブルク北ドイツ放送交響楽団(NDR)のメンバーがステージに登場しました。この時から大きな拍手が起こり、皆の期待の高さがうかがえます。ヴィオラのトップにはこの前、大フィルの定期でソロを弾いた深井さんの姿も見えました。
 オケの音合わせが済むと全員の視線が下手の扉に注がれます。「ヴァントは本当に来るんだろうか?」 「ちゃんと最後まで指揮できるのだろうか?」など不安がよぎります。なにせ来日前に演奏中ガクッと崩れて倒れかけたそうだし、直前のNDR定期では3回公演のところ大事を取って、3回目をキャンセルしたそうですからなおさらです。

 やがて静かに扉が開けられると89才を目前にしたマエストロが男の人に腕を取ってもらって姿を現しました。
「本物のヴァントだ!」
 ものすごい拍手が湧き起こりました。歩みは確かで速かったですが、周りの人は細心の注意を払い、特に指揮台に上がるときなどピリピリしてました。
 ヴァントの姿を直に目にしてもまだ夢のようで、ここに彼がいることが奇跡のような気がしました。彼の様子を観ると、もはや彼の肉体には魂しか残っていない感じで、いつお迎えが来ても不思議ではありませんでした。彼に比べると朝比奈隆の元気さは異常なくらい立派です。
 しかし音楽が始まるとピシッとして、最後まで立ったまま指揮をしました。あの身体のどこにそんなエネルギーが残っているのか不思議に思うほどです。指揮台の手摺りには椅子が仕込んでありましたが、結局使わず仕舞いでした。

シューベルト…交響曲第7番 ロ短調“未完成”

 ヴァントが指揮台に登り、ペコペコと2度頭を下げるとオケの方を向き、タクトをすうと上げた。
 そのタクトを振り下ろす直前、あまりに全員が息を呑んだため、完全な静寂が訪れた。キーンと耳鳴りがするほどにまったく音が消滅した。ホールの特性とここにいるすべての人間の緊張が最高に高められたせいだ。
 演奏の方はと言えば、これほど凝縮された「未完成」は聞いたことがなかった。
 ヴァントの棒はゆらゆらとあまり動かず、音は枯れたものだったが、アクセント、テヌート、クレッシェンドなど、これらひとつひとつがとてつもなく深い意味を持って響いていた。この当時の音楽が持つ堅固なフォルムに合わせて、凄まじいほどの密度を持って音楽が展開した。
 やがて第2楽章が緩やかに終わり、タクトが降ろされ、楽器が降ろされても客席からは物音ひとつとして起こらなかった。
 こんなものすごいものを聞かされて拍手などできるか!
 まったく長い静寂。あまりの長さに楽員の顔に不安の蔭がよぎったくらいだ。
 そのうちぽつりぽつりと手を叩く人が現れるとブワッと拍手が湧き起こった。
 付添人に腕を取ってもらって退場するヴァント。
 あまりに拍手をするとヴァントが出てこなければならなくなるので、悪いなと思っていたのだが拍手が止められなかった。
 結局、答礼に2回出てて来てくれた。

ブルックナー…交響曲第9番 ニ短調

 休憩時間中のホワイエは軽い興奮状態だった。みんな口々に今さっき聞いた音楽についての感想を語り合っていた。こんな感じだと9番はいったいどうなっちゃうのだろうかと思った。
 凄まじい拍手で再びヴァントを迎えると、深遠なトレモロからブルックナーが始められた。
 先にも述べたが、このホールは天井の反射板しか音を返すものがないので、後ろに向かって音を出すホルンが8本もあるのにまったく迫力がなかった。そのせいもあってか最初、音楽に覇気が感じられなかった。このまま終われば、ベルリンフィルとのCDの二の舞になるところだったが、ヴァントは前半とは打って変わってオケにビシビシと指示を出し、身体を大きく揺さぶって音楽の流れを表した。それにNDRが渾身の反応を見せ、第1楽章の展開部から音楽に命が宿り、ヴァントらしい緊密な構成と充実した響きとが繰り広げられた。ただ人を寄せ付けないかのような厳しさは枯れたせいもあって、やや後退していた。しかしこの内容の濃さは随一のもので現在他の指揮者では表現できるものではなかった。
 また第1楽章のコーダからスケルツォにかけては剛胆にオケが鳴り、指揮棒からは想像できないような力強さがあらわれた。
 続くアダージョは幽玄な寂しさを湛えたもので、クライマックスに向かってだんだんと音が薄くなっていく様はもの悲しさを感じさせた。
 この楽章で、音程の取りにくいワグナーチューバのハーモニーがロングトーンで長々とピッチの狂った音を出してしまって、ヴァントの怒りのオーラがぐおおっと湧き起こった瞬間があったなど、いくらかキズがあったものNDRは音楽にすべてを捧げきった入魂の演奏だった。
 最後においてその哀しさも浄化されて、神の両腕に包まれるような穏やかさを持って曲が閉じられると再び完全な沈黙が訪れた。やはり拍手なんか起こらない。チェリビダッケとミュンヘンフィルによる8番の正規盤と同じように、会場は水を打ったように静まり返っていた。
 長い静寂を破るかのようにひとつ拍手が起こると、後は爆発するような拍手と歓声になった。

全員総立ち

 やがて拍手だけでは押さえきれなくなったのか、客席全員が立ち上がり、この素晴らしい演奏を讃え始めました。ヴァントはこれに3度も応えてくれましたが、2度目の答礼のとき彼はオケに起立するよう促してもオケは立ちませんでした。この際ヴァントの「君たちも立ってくれよ」と言いたげな申し訳なさそうな顔は、この人は絶対的な権威でオケに君臨するプロフェッサーだけでない篤い心の持ち主なんだなと感じました。
 そのうちオケは解散しましたが、拍手が鳴り止む気配は全くありませんでした。私は椅子を跳ね上げて、ステージ最前列に向かって突進してそこで拍手を送りました。もう出てこなくても全然構わなかったのですが、拍手をせずにはいられなかったのです。
 かなりの間、誰もいないステージに向かって拍手が送られましたが、すうと下手の扉が開いて、ヴァントが姿を見せてくれました。「ブラボー!!」 爆発するような歓声が起きました。こんな至近距離で彼の姿を目の当たりにすることができて胸の奥がジンとしてきました(ミーハー)。
 ヴァントは非常に満足げな顔をして目の前にいるお客に手を振り、付添の人と何やら言葉を交わしました。彼はすぐにステージから引き上げましたが、それでもみんな満足して会場を後にしました。
 本当に、本当に日本に来てくれて良かった。心の底からそう思いました。

おわりに

 総じて、奇跡のような体験をした演奏会でした。

 さて次回はまたブルックナーです。しかもまたまた4番です。1週間に3回、1ヶ月に4回のブルックナー。まったくビョーキですな。
 ただこの日は仕事の最盛期ともろぶつかっているので心配ですが、何としてでも行きたいと思います。

追記

 いろいろな話題を振りまいたヴァントの来日ですが、御大は無事に(3日目のブルックナーでスケルツォが終わった後、椅子に腰掛けただけで)3日間を振り抜き、元気にドイツへと帰っていきました。
 なんでも日本の聴衆に感激して、「90才のバースデイコンサートを日本でやるぞ」と周囲の人間が青くなるようなリップサービスまで飛び出したそうです。
 NDRの人も今シーズン唯一の休暇がこの来日でつぶれたそうですが、これだけの大成功を納めれば気分良く家に帰れるでしょう。
 来日によってつぶれたNDRの定期3日目は来年の6月(?)に振り替えて行われるそうです。
 御大の次のステージは来年の1月、ベルリンフィルとのブルックナー8番です。(当然録音されます)
 この演奏会でテレビカメラが入ったのは2日目と3日目だったようです。放送は年が明けてからNHKで、またCDの発売はRCAから来年の春か夏になるそうです。


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