中国夏王朝(伝説)中国の夏王朝は、考古学的な発見がなされていないため、いまだに伝説として扱われているが、「史記」をはじめ多くの書物に記述があって実在した可能性があり、遺跡などの発見が待たれる。 (注:殷王朝も遺跡(殷墟)が発見されるまでは伝説とされていた。) 夏王朝は、黒陶文化(竜山文化)と関係があるのではないかと見られているが、夏の時代にはまだ文字が使われていなかったようで、吉凶を占うために灼(や)いた獣骨にも文字が刻まれていないため、はっきりしたことはわかっていない。 夏王朝の前には、三皇五帝の時代があったと言い伝えられている。三皇五帝については、このページの下部に記載した。 夏王朝の始祖は禹(う)で、禹の父は鯀(こん)とされている。鯀は、五帝のうちの一人である堯(ぎょう)のときに治水工事を命ぜられたが、9年たってもうまくいかないため、羽山(うざん)に流されて、そこで殺されてしまう。鯀の後を継いだのが禹で、禹は13年間も家に帰らずに努力し、ついに治水工事を成功させた。 禹は、嵩山(すうざん)のほとりを本拠としていた。妻は二人いて塗山(とざん)氏の娘で、禹は結婚4日でまた治水工事のために家を出たという。禹は険路を行くときに熊のすがたとなって走り、これを見た妻は逃げ出して石になったという説話がある。妻はこのとき身ごもっていて、禹が子を返せと叫ぶと、石が割れて子が生まれたという。これが、啓である。 禹は、後に舜(しゅん)の後を継いで帝位についた。夏という国号は、禹が最初に封じられていた国の名からとったといわれている。中国では、その後、これがしきたりとなった。治世の間に、車・酒・井戸の技術が開発された。九鼎を鋳造したという金属利用の説話もある。 禹は、東に巡幸した際に浙江省の会稽(かいけい)で死んだといわれている。禹は、帝位を、自分を補佐してくれた益(えき)に譲ったが、禹が死んで三年の喪があけると、益は帝位を禹の子である啓に譲って、自分は箕山(きざん)に隠棲してしまった。こうして、夏王朝の世襲制が始まった。 啓が帝位を継いだとき、同属の有扈(ゆうこ)氏が服従しなかった。啓は、有扈氏を攻め滅ぼした。啓は、治世の間に、「音律をならべて礼楽をととのえた」とされる。また河南の地であった嵩山から河の北へ都を移した。啓は、39年間帝位にあり、78歳で死んだという。 啓の子の大康(たいこう)は狩猟に熱中して民事に務めなかったたため、夷族の羿(げい)(注:羿は、堯の時代にも名がみる。)に天下を奪われてしまう。 大康の死後、弟の中康(ちゅうこう)が立つが、天下をとりもどせない。中康の子は相(しょう)で、相の子が少康(しょうこう)。少康のとき、寒浞(かんさく。羿を殺して夷族の統領となっていた)を攻め滅ぼして夏王朝を復興した。 少康の後の7代目は孔甲(こうこう)で、出来の悪い君主だった。孔甲の子の皋(こう)が在位3年、その子の発(はつ)は在位7年。発の子か桀(けつ)で、夏王朝最後の王となった。 桀は、現在の山西省の洛陽に都を置いていたと考えられている。桀の政治は乱れて罪が多いとして、殷(商)の湯(とう)王と宰相の伊尹(いいん)によって攻められ、桀は鳴条へ逃げてそこで大敗し、さらに敗走してとらえられ、南巣(なんそう)に追放されたという。南巣は現在の安徽省の巣湖のあたりと考えられる。 桀王の子孫は諸侯の地位を得て、祖先を祭ったという。夏の祖先の怨霊をおそれたものとみられる。 【三皇五帝(伝説)】 夏王朝の前に三皇五帝の時代を置くのが一般的ではあるが、神話的な要素も強く、矛盾するいろいろな説話があることなどから、実在の人物等ではないとする説もある。 三皇は、庖犧(ほうぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)。 五帝は、黄帝(こうてい)、帝顓頊(ていせんぎょく)、帝嚳(ていこく)、堯(ぎょう)、舜(しゅん)。 ただし、異説も多い。庖犧を伏犧(ふくぎ)とするもの、女媧のかわりに祝融(しゅくゆう)をいれるもの、燧人をいれるもの、五帝の黄帝をいれるものさえある。また、三皇を、天皇・地皇・人皇を差すという説もある。 司馬遷の「史記」では、いくらかでも歴史として信頼できるものとして五帝から記述をはじめているが、後に唐の司馬貞が三皇の部分を補ったという。 庖犧(ほうぎ)または 伏犧(ふくぎ) 伏犧と女媧についての伝承は苗族(現在は主に貴州省・雲南省に住む)のあいだに多く、彼らの祖先ではないかという説が有力である。伏犧と女媧は、蛇身人首とされ、トルファン盆地から出土した彩色絹画では2人は蛇の体を互いに巻き付け合い、手にはコンパスと定規を持っている。 苗族の伝承では、伏犧と女媧は兄妹(あるいは姉弟)で、彼らの父が雷帝と戦ったとき、雷帝は洪水によって攻め、兄妹(あるいは姉弟)以外の人類は全滅してしまった。2人は夫婦となり人類を伝えたという。 「犧」の字は、神や祖先にささげる「いけにえ」という意味と、そこから派生して「欠陥がなく整ったもの」「偉大にして秀麗完美なもの」といった意味がある。 中国歴史奇貨居くべし ≫ 中国通史 ≫ 中国通史@ 三皇五帝 ≫ 伏犠・女禍のイラスト (リンク切れ) 女媧(じょか) 女媧は創造神とされており、「五色の石を練って蒼天を補った」とか、「黄土をまるめて人間をつくった」などさまざまな創造神話がある。 伏犧と女媧は男性神と女性神で同一神とみる説がある一方、伏犧の後が女媧で、女媧は制度をほとんど変えず笙簧(しょうこう)という楽器をつくったのみとする説話もある。 また、女媧の天下を狙って共工(きょうこう)が反乱を起こし、祝融(しゅくゆう)がこれを平定したという説話もある。 神農(しんのう) 農業の神で、鋤や鍬をつくり、その用法を教えたという。 また、百草をなめて医薬をみつけ、八卦をかさねて六十四卦をつくったともいわれ、医薬や易者の神でもある。 五弦の瑟(しつ。中国古代の弦楽器。箏(そう)の大きなもの。)をつくり、また、人々に交易を教えたともされ、音楽と商業の神でもある。 神農氏の天下は8代530年続き、彼の子孫が阪泉(はんせん)の野で黄帝と戦って敗れ天下を失ったという。 中国歴史奇貨居くべし ≫ 中国通史 ≫ 中国通史@ 三皇五帝 ≫ 神農のイラスト (リンク切れ) 黄帝(こうてい) 黄帝の黄色は、五行説では東・西・南・北・中央のうちの中央を示しており、黄土や黄河とも通じる。こうした中原を意味する民族の代表が、黄帝であると考えられる。 これに対して、神農は南方の苗族を代表しているように思われる。 これにもうひとつ、蚩尤(しゆう)に代表される民族が説話に加わる。蚩尤は九黎の君といわれており、九つの黎族を統合して勢力となったものと考えられる。また、蚩尤は「初めて乱を起こし、平民に及んだ」との記述もみえる。 蚩尤と抗争していた神農の子孫は、黄帝に援助をもとめたものとみられ、黄帝は涿鹿(たくろく)の野で蚩尤と戦う。このとき、蚩尤は大霧を作って黄帝軍に方向をわからなくさせたという。これに対して、黄帝軍は指南車を作って方向を知ったという。戦いに敗れた蚩尤は、殺されてしまう。 その後、黄帝と神農の子孫が、阪泉(はんせん)の野で三たび戦って、黄帝が勝利を収めたという。 中国兵法 ≫ 中国兵法誕生譚 帝顓頊(ていせんぎょく) 黄帝の孫。共工(きょうこう)が、顓頊と帝位を争って敗れたという説話がある。(注:共工は、女媧のときにも名がみる。) 帝嚳(ていこく) 黄帝の曽孫。顓頊の曽孫の重黎(ちょうれい)は、帝嚳に仕え、共工(きょうこう)の反乱を討伐するのに失敗して誅殺されたとされている。後任に弟の呉回(ごかい)が任命されたという。 堯(ぎょう) 堯のとき、十の太陽が並んで出て、五穀を焦がし、草木を枯らして、人民は食べるものがなく、さまざまな怪獣が出現したという。このとき、弓の名人であった羿(げい)は、堯に命じられて九つの太陽を射落とし、怪獣を退治した。これにより、堯は天子となったという。 堯は、鯀(こん)に命じて治水を行なわせたが、9年たっても成功せず、舜が禹(う)を推薦して、禹が成功させた。(注:禹は、後に夏王朝の始祖となる。) 堯が帝で、舜が摂政のとき、 共工を幽陵に流して北狄に変え 驩兜を崇山に追放して南蛮に変え 三苗を三危に遷して西戎に変え 鯀を羽山に?して東夷に変え という処分を行なったという。四夷は、中原から追放されて辺境へ行ったことになる。 堯には丹朱(たんしゅ)という嫡男がいたが、帝位を舜に禅定した。丹朱は諸侯として封じられ、現在の山西省の東南部あたりを領地としたようである。 舜(しゅん) 舜は東夷の人とされ、庶民の出であった。父は盲人で、実母が早く死に継母が家に入り、継母・異母弟・父につらくあたられたという説話が多い。それでも舜は孝行を尽くして二十歳で有名になり、三十歳で堯に登用され、五十歳で摂政となり、五十八歳のとき堯が死に、六十一歳で帝位についたという。 堯の二人の娘を妻とした。この二人と結婚するまで舜は独身であったとする説話と、その前に登比(とうひ)氏という妻があり宵明(しょうめい)と燭光(しょくこう)という二人の娘があったという説話とがある。 舜は三十九年間帝位にあり、南方を巡察の際に、蒼梧(そうご)の野(現在の湖南省南部あたり)で死に、葬られたところは零陵と呼ばれたという。舜の死を知った二人の妻は急いで南へ向かったが、湘水まで来て水死したという。身を投げたとも、船が沈んだともいわれる。姉の娥皇を湘君と呼び、妹の女英を湘夫人と呼ぶ。 後の儒者は、堯と舜を聖王としてたたえている。 【二里頭遺跡】 考古学的な研究によると、中国の中原地方(現在の洛陽から鄭州を中心とした黄河中流地方)において、中原龍山文化→二里頭文化→二里岡文化→殷墟文化という発展段階が認められている。二里頭文化を夏王朝、二里岡文化を殷王朝の初期に比定する説もあるが、まだ確証はみつかっていない。 二里頭文化を代表する遺跡が、二里頭遺跡で、BC2000年前後のものとみらる。この遺跡は次の4期に時代区分されている。 第1期 〜 一般的な小規模集落 第2期 〜 急速に発展し、中心的な集落へ発展 第3期 〜 大型の宮殿2基と大型の墓1基を伴う 第4期 〜 衰退期(この時期に二里岡文化が出現) 二里頭文化では、青銅器に2つの面で飛躍的な発展がみられる。1つは実用的なもので武器など、もう1つは儀礼的に用いられたとおもわれる容器類である。後者の青銅器は、玉器とともに、祭政的システム「礼」に関係する器物とみられている。 また、中原地方が発展した理由として、中国大陸の地域間交流の交差点に位置していたからではないかとする説がある。 【NHKスペシャルの放送番組】 2012年10月14日にNHK総合放送で、夏王朝についての次の番組が放送されました。 NHK総合放送「NHKスペシャル 中国文明の謎 第一集 中華の源流 幻の王朝を追う」2012年10月14日放送 NHK ≫ NHKスペシャル|中国文明の謎 第一集 中華の源流 幻の王朝を追う この番組内容の主旨は、次のとおり。 @二里頭遺跡を夏王朝であるとする。 A夏王朝が中国文明最初の王朝であるとする。(宮殿の構造・宮廷儀礼などによる。) B夏王朝以降、中国4000年の歴史が続き、ほとんどの期間は統一されていたとする。 しかし、これらには同意しかねる部分が多い。 @について、二里頭遺跡が夏王朝であるとする証拠は、番組内で一つも示されなかった。そう見る学者がいるというだけです。 Aについて、夏王朝の前に三皇五帝の伝説があり、考古学的にも龍山文化など二里頭文化よりも古い遺跡がある。しかも、伏犧と女媧(三皇のうちの2人)についての伝説には、今は少数民族となっている苗族のあいだに多くの伝説があり、その主体は漢民族ではないかもしれない。 Bについて、分裂と戦乱の期間がかなりあり、しかも漢民族ではないモンゴル族・満州族などに支配されていた期間が相当ある。統一した領域も徐々に拡大したのであって、夏王朝の時代の領域は小さなものであろうと推測される。中国を最初に統一したのは、秦の始皇帝と考えるべきである。現在の広大な領域を支配したのは、満州族の清朝である。チベット・ウイグル(東トルキスタン)・内モンゴル・満州などは相当の期間中国の支配下にはなかった。 次の動画が参考になりますので、興味のある方はぜひご覧ください。特に、一つ目の動画。(注:動画が削除されてしまったようなので、魚拓などコピーを探してください。)。 YouTube ≫ 「中国」という「国」はない〜尖閣諸島の問題を機に〜:宮脇淳子 〜重要 YouTube ≫ 満洲という「国」はあった!:宮脇淳子 YouTube ≫ 国民国家と民族の誕生:宮脇淳子 YouTube ≫ モンゴル帝国から世界史は始まった:宮脇淳子 YouTube ≫ ロシアはアジアだ!:宮脇淳子 YouTube ≫ 1/4 【宮脇淳子】『真実の中国史を知って日本の未来を開こう!』 2/4 同 3/4 同 4/4 同 YouTube ≫ 【宮脇淳子】平成24年・日中関係を占う[桜H24/1/9] UGOKY(動く映像おもちゃサイト) ≫ 歴史地図2000♪ (注:西暦0年〜2000年の東アジアの地図を動画で見られます。これを見ると、中国がいかに統一されていなかったかをイメージできます。) |
(当サイト管理人による意見: このNHKの番組を見て、以前に問題となったNHKの番組「JAPANデビュー」と同じ事をやっているように見えました。「中国4000年の歴史の始まりである夏王朝」という考え方が先にあって、それに合うようにいろんな情報を付け足している感じです。 NHKスペシャル シリーズ 「JAPANデビュー」 - Wikipedia YouTube ≫ 【魔都見聞録】NHKよ、ご老人を利用することなかれ!![桜 H21/6/20] さらにうさん臭いのが、このNHKの主張は、中国共産党政権が行っている主張と同一歩調をとっているように見えることです。中国共産党は元来は中国古来の文化を尊重せず、文化大革命においては徹底的に破壊したのですが、最近は中国が一貫して広大な領土を支配し続けてきたとして「中国4000年の歴史」を主張して民族の結束を固めようとしているように見えます。しかし、この「中国4000年の歴史」の主張には間違っている点がたくさんあります。また、そもそも中国共産党政権には、清朝の最大版図を引き継ぐ資格はないと考えます。 さらに、このNHKの番組が、尖閣諸島問題で日中間がもめているこの時期に放送されたことも、NHKに作為があるのではないかと疑ってしまいます。なお、中国のプロパガンダに関しては、次のページを参考にしてください。 私の思うところ ≫ 反日宣伝(プロパガンダ)に関するリンク集 当サイト管理人は学術研究者ではなく、一般の社会人ですので、念のため。) |
枕流亭ブログ ≫ Nスペ「中国文明の謎」第1集感想 〜個人のブログ。くわしいです。 雑記帳 ≫ NHKスペシャル『中国文明の謎』「第一集 中華の源流 幻の王朝を追う」 〜個人のブログ。 寺岡伸章 オフィシャル ブログサイト ≫ NHKは中国の宣伝機関なのか 〜ブログ。 【参考ページ】 黄河流域で彩陶文化(黄河文明) 黄河下流域で黒陶文化 中国殷王朝 【LINK】 夏 (三代) - Wikipedia 二里頭文化 - Wikipedia 二里頭遺跡 - Wikipedia 松岡正剛の千夜千冊 ≫ 1451夜『夏王朝』岡村秀典 人民中国 ≫ 特集 姿現した中国最古の王朝の都 「人民中国」は、中国の北京で出版する日本語の中国情報総合誌(月刊)とのことです。(記事内容の当否については、各自でご判断下さい。) 枕流亭〜素人中国史愛好サイト ≫ 中国史人物事典〜先史時代、夏 ALA!中国 ≫ 中国旅行・観光情報 ≫ 中国55の少数民族 中国歴史奇貨居くべし ≫ 中国通史 ≫ 中国通史@ 三皇五帝 (リンク切れ) Web漢文大系 ≫ 史記・本紀 ≫ 五帝本紀第一 (一部リンク切れ) http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/index.html ≫ 古代史 ≫ 黄帝と堯・舜・禹の伝説 (リンク切れ) 参考文献 「中国の歴史 コンパクト版 第1巻 神話から歴史へ・中華の揺籃」陳舜臣著、平凡社、1986年 「世界歴史大系 中国史1 先史〜後漢」山川出版社、2003年 から 「第一章 先史時代から初期王朝時代」西江清高著、「第二章 殷」松丸道雄著 インターネットの「goo辞書:国語辞典」から「瑟(しつ)」(三省堂提供「大辞林 第二版」より) NHK総合放送「NHKスペシャル 中国文明の謎 第一集 中華の源流 幻の王朝を追う」2012年10月14日放送 更新 2012/10/21 |