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239年 卑弥呼が魏に遣使


 いわゆる「魏志倭人伝」に、倭国の邪馬壹(臺)国の女王卑弥呼が魏に遣いを送り朝献したという記述がある。
 「魏志倭人伝」は、正確には『三国志・魏志』巻30・東夷伝・倭人の条である。『三国志』は晋の陳寿(233〜297)がえらんだもので、その大半が魚拳の『魏略』によったものであるとされているが『魏略』はすでに散逸している。
 日本にこの時代の文献がないため、日本を知るための貴重な資料となっており、その解釈をめぐって様々な論争が行われている。
 その「魏志倭人伝」の内容については、次のページを参照してください。これは、石原道博編訳「新訂 魏志倭人伝 他三篇」岩波文庫を基にしており、使用している原文は「三国志」の「百衲本(ひゃくどうぼん)」といわれているものだそうです。

   「魏志倭人伝 原文と和訳」



【日本の古代史に関する仮説】

邪馬壹(臺)国の卑弥呼
 中国の歴史書に取り上げられている日本の中心的な人物「卑弥呼」が、日本の歴史書に全く登場しないということは、不自然ではないでしょうか。いくら当時の日本に文字がなかったとはいえ、『古事記』『日本書紀』というかたちで現在に伝わるものがあるわけだから、倭国の代表として中国へ使者を遣わすほどの人物について全くふれられていないということは考えにくい。むしろ、中国の歴史書に記載されている名前が、日本の歴史書に記載されている名前と異なると考えた方が自然ではないでしょうか。特に、中国では周辺国の名前に卑しい漢字を当てる習慣があり、これが日本の名前との関連を難しくしているのではないでしょうか。

 そういうふうに考えてみたとき、当サイト管理人は、次のような仮説を立てて、日本の古代史をみているのです。
仮説1
 邪馬壹(臺)国 = ヤマト国
 そもそも、「魏志倭人伝」には、「邪馬国」と記載されている。「壹」は「壱」であり「一」である。そのまま読めば、「ヤマイ国」であるが、それが、なぜ「邪馬国」であり「ヤマタイ国」なのか。
 古田武彦著「倭人伝を徹底して読む」朝日文庫によれば、それは松下見林(1637〜1703年)の説で、その著『異称日本伝』(1693年)のなかで、「邪馬壹国」は「邪馬臺(台)国」の誤りであり、それは「大和国」であるとした、という。
 「邪馬台国」と書きながら、「ヤマタイ国」であって「ヤマト国」ではないと言うのは、本末転倒ではなかろうか。
 また、「邪」と「馬」が一字で一音だから、「壹」あるいは「臺(台)」も一字で一音のほうが自然ではないだろうか。
 (追記)古田武彦著「倭人伝を徹底して読む」朝日文庫のなかに「「臺」の字は三国時代にもっぱら天子を指すのに使われており、この字を夷蛮に使うはずがない。」という主旨の記述があります。これは、非常に注目すべき指摘だと思います。  原文引用

仮説2
 卑弥呼 = 日の御子 または 日の巫女
 「倭」や「邪馬壹(臺)国」が音(読み)を写しているように、「卑弥呼」も音を写しているはずだと思う。
 (注:西尾幹二著「決定版 国民の歴史 上」(文春文庫、2009年)p218 によると、卑弥呼は日御子であると最初にいったのは新井白石で、新井白石は天皇の意味に解しているという。)

仮説3
 卑弥呼 = 天照大御神
 魏志倭人伝にある、「鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年巳(すで)に長大なるも夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて国を治む。」という表現は、『古事記』『日本書紀』での天照大御神に関する記述と符合する。なお、「天照大御神」という名は、後の世に付けられたものではないかと思う。
 (注:西尾幹二著「決定版 国民の歴史 上」(文春文庫、2009年)p218 によると、歴史家の白鳥庫吉が卑弥呼は天照大神に似ていると指摘しているという。)

仮説4
 倭国 = 和国
 中国では「倭」という卑しい漢字があてられたが、日本では「和」という字を用いたのではないだろうか。

仮説5
 和国 → 大和国 (ヤマト国)
 もともとは「和」国であたものが、国々の連合体あるいは大国への発展により「大和」という文字を用いるようになたのではないだろうか。魏志倭人伝のなかに「国国市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。」という表現がある。ここでの「大倭」は役職のようなものだと思うが、この語が発展していったのではないだろうか。
 「大和」と書いてなぜ「ヤマト」と読むか。それは、和国の基礎がヤマトにあったということであろう。和国のなかにあった「ヤマト」が、しだいに勢力をもち、「ヤマト」と「大和」が同義になっていったのではないだろうか。卑弥呼の邪馬壹(臺)国がそのヤマトではないかと考えている。

仮説6
 卑弥呼の邪馬壹(臺)国は、九州にあった
 卑弥呼が『古事記』『日本書紀』での天照大御神であると考えると、これは神武天皇の東征前である。当時の邪馬壹(臺)国(=ヤマト国)は九州にあって、そこから政権中心者の血筋を引く神武天皇が東征し、近畿地方で一大勢力となった考えると、日本の資料と中国の資料がうまく組み合わせて解釈できる。なお、神武天皇の東征は、遷都ではなく一部の者が東へ向かったものだと思う。
 (追記)邪馬台国が九州にあったか大和地方にあったかの論争の基は、魏志倭人伝の方位と距離をそのまま読むと海の彼方へ行ってしまうため、方位と距離のどちらかが間違っているのであろうという点から始まっています。しかし、古田武彦氏は、「倭人伝を徹底して読む」朝日文庫のなかで、「漢代の一里は約435メートルであるが、魏志倭人伝を含む『三国志』では魏・西晋朝のときだけ公認されていた短里で書かれているのではないか。そして、その短里は約77メートルで、漢代の長里に比べると約5分の1であろう。」という主張をされています。方位と距離のどちらかが間違っているといった説よりも、ずっと説得力があります。ちなみに、古田武彦氏は北九州説です。


神武天皇の東征
 このHPの作者は、神武天皇(この名前は後世からの諡(おくりな)であろう。)の東征は実際にあった出来事だと思う。従って、大和政権の祖先は九州にあり、そこから一部の者近畿地方へ移動し、後の大和政権の基礎を築いたと考える。
 学者のなかには、『古事記』『日本書紀』に書かれている内容が、大和政権の都合のよいように作り上げられた内容を含んでいるという者もいるが、公式の歴史書のなかにありもしないことを記載するというようなことは簡単にできるものではない。伝世のうちに誤りが生じたり、いくつかの解釈が可能なものについて一番都合の良い解釈をしたり、都合の悪いことに触れないということはできたかもしれない。しかし、政権にとって都合のよい記述を作為することは、そのメリットよりも、作為したことが明らかになって政権の信用を失墜させるデメリットのほうがはるかに大きいと思う。そして、もうひとつは、国の成り立ちの根本にかかわる出来事を、個人的なレベルで書き換えてしまうなどということが簡単に出来たとは思わない。昔の出来事をできるだけ正確に後世へ伝えようと考えるのが普通ではないだろうか。つじつまの合わないところを正しく補正しようとして誤りをおかしたかもしれないが、当時の人も現代の人と同じように厳正な気持ちで取り組んでいたに違いない。
 ドイツのシュリーマンが、ホメロスの記述が過去の出来事を正確に伝えていることを、遺跡の発掘によって証明したように、いつの日か、『古事記』『日本書紀』の記述が正確に事実を伝えていることが明らかにされるであろうことを、このHPの作者は信じて疑わないものである。

 神武天皇がなぜ東征しなければならなっかたのかは、必ずしも明確ではない。そして、政権全体が東へ遷都したのか、一部の者が東へ向かったのかも明記されていない。
 このHPの作者は、政権の中心にあった血筋(天皇家の始祖ともいうべき血筋)を引く者のひとりが九州から東征し、その子孫と家臣たちが近畿地方で一大勢力を作り上げたものと解釈している。
 たとえて言えば、天照大御神のもとから飛び出したスサノオ(日本書紀では「素戔鳴」、古事記では「須佐之男」)のような存在ではないだろうか。また、『古事記』『日本書紀』には、神武天皇自身が東征の途中で、同じ高貴な血筋の者(天神の御子で饒速日命(にぎはやひのみこと))と出会うという話しも記載されており、当時から他にもそのような者がいたことが伺われる。




【LINK】
LINK 邪馬台国とは何だろうか?
LINK YouTube ≫ 高森明勅/古事記と魏志倭人伝

LINK 神奈備にようこそ邪馬台国にようこそ神武東征の地を歩く (リンク切れ)
LINK 電脳居酒屋猫ばす堂日向ノ国風土記 (リンク切れ)





参考文献
「新訂 魏志倭人伝 他三篇」石原道博編訳、岩波文庫、1985年(新訂版)
「日本書紀 全現代語訳 上・下」宇治谷孟訳、講談社学術文庫、1988年
「古事記 全訳注 上・中・下」次田真幸訳、講談社学術文庫、1977年(上巻)、1980年(中巻)、1984年(下巻)
「倭人伝を徹底して読む」古田武彦著、朝日文庫、1992年
「日本国家の起源」井上光貞著、岩波新書、1960年
「決定版 国民の歴史 上」西尾幹二著、文春文庫、2009年

更新 2014/1/6

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