676年 新羅の三国統一高句麗、百済、新羅の三国時代に、新羅はどちらかというと弱小国であった。しかし、太宗武烈王(金春秋)と文武王(太宗武烈王の甥)の代に、金?信(きんゆしん・532年に新羅に統合された金官加羅王国の後裔)を上大等(官職)に任用し、新羅による三国統一を実現させた。 新羅は唐に何度も出兵を要請し、唐と新羅の連合軍によって、660年に百済を滅ぼし、666年に高句麗も滅亡させた。 その後、朝鮮半島全土を直轄領にしようとする唐と戦い、676年に唐を撤退させて大同江以南の朝鮮半島を統一した。 地方豪族・下級貴族らの力によって勝利した新羅は、中央貴族だけによる政治から地方豪族たちも同様の権限を持ちうる律令体制へと、政治体制を変えていった。 新羅の国内体制 684年、国内に置いた高句麗系の報徳国を滅ぼした。 685年までに、地方行政の基本となる九州・五小京制が一応完備する。これは統一新羅の国内を9つの州に分け、王都である慶州のほかに5つの小京を置いたものである。九州とその州都の所在地は、以前の軍事的な影響が強かったものから、地方行政を優先するものへ作り変えられていった。小京は、旧高句麗領内に2つ、旧百済領内に2つ、加羅地方に1つ作られ、新羅の文化を伝える起点の役割を持ち、王都慶州の貴族や住人がしばしば移住を命ぜられている。 律令田制 687年、文武の官僚に識田(畑)を与え、従来の食邑(しょくゆう・土地と人民の全面的支配を認められた地域)を漸次縮小させようとした。689年には、下級官僚に与えていた禄邑(ろくゆう・共同で支配していた地域)を廃止し、租米を与えることにした。722年にようやく、農民一人ひとりに規定の土地を与えることができるようになった。しかし、従来から新羅では貴族や豪族の力が強く、土地と人民を支配してきたため、この制度がどの程度浸透したかはよくわかっていない。757年には、下級官僚の租米給付をやめて禄邑を復活している。 旧貴族と新興貴族の抗争 768年、大恭(たいきょう)・大廉(たいれん)兄弟による大規模な内乱が起こった。王都の貴族と地方豪族をまきこんで、3か月にわたって戦われ、その間に王宮が33日間も包囲された。これは、貴族連合体制復活をねらう旧貴族派の反乱と推測される。 770年、金融(金?信の後裔)が金?信系の貴族と地方豪族におされて、反乱を起こした。律令体制推進をはかる新興貴族派が、勢力の回復をねらったものと考えられる。 775年、金隠居が反乱を起こす。金隠居は、大恭の反乱後に侍中(官職)となり、金融の反乱後に退いた人物で、旧貴族派とみられる。 同775年、廉相(れんそう)と正門(しょうもん)とが、反乱をはかったとして誅殺されている。 780年、志貞(してい)が反乱を起こし宮中を包囲したが、上大等(官職)の金良相と金敬信らが挙兵して志貞を誅殺するとともに、恵恭王も乱戦の中で殺害された。そして、金良相が王位について宣徳王となった。 この後は、王位争奪の時代となり、権力の奪い合いとなった。 王位争奪の時代 785年、宣徳王が死去すると、宣徳王代に上大等となっていた金敬信が王となり元聖王となった。 元聖王の死後、嫡孫の昭聖王が即位するが2年で死去すると、その子である哀荘王が13歳で王位につき叔父の彦昇(げんしょう)が摂政となった。 809年、哀荘王10年に、王の叔父である彦昇(摂政)と悌?(ていよう)の私兵が宮中に乱入し、哀荘王と王の弟を殺害し、彦昇がみずから王となった。憲徳王である。 819年、各地の賊軍がいっせいに蜂起したが、各州の都督や郡の太守に命じて捕らえさせたという。中央の地方に対する関心が薄らいできているが、まだ律令体制は全国にいきわたっており反乱を鎮圧する力はあった。 822年、州の都督や中央の官職を歴任した金憲昌が反乱を起こした。反乱の理由に、父の金周元がかつて元聖王と王位を争って王になれず地方へ隠居したことをあげている。地方の多くの豪族が彼を支持して擁立したものとみられ、その支配地域は旧百済領の3州と加羅地方の2州および中原・西原・金官の3小京にわたり、百済の旧都の熊津を都として国号を長安とした。この内乱は、貴族の私兵や花郎(注)兵団によって約1か月で鎮圧された。律令体制の兵制は姿を消している。 (注:花郎とは、聖なる人物(女性ともいわれる)を中心に貴族の青年が構成するエリート集団で、山川をめぐって心身を鍛錬し、詩文を養い知識を増し、王に仕える能力を育成した。唐に派遣されて、そこにとどまり能力を発揮した学者・学僧も多いという。) 834年、憲徳王のあとを継いだ興徳王は、法令により衣服・車騎・生活用具・家屋など広範囲な生活分野を骨品制度の身分によって規定した。骨品制度による身分は、「真骨・真骨の女性・六頭品・六頭品の女性・五頭品・五頭品の女性・四頭品・四頭品の女性・平人(百姓)・平人の女性」となっている。骨品制度は、骨制度と頭品制度からなる。骨制度は王族の血縁関係を示すもので、金?信が内乱のときに善徳女王を擁立した時期にはじまる。頭品制度は王幾(王都とその周辺の地域。新羅建国の6部落の地域を意識している。)の住民の身分制度で、このときに始まったと考えられる。王幾以外では、外真村主(地方の正式な村主)は五頭品と同じ、次村主(地方の副村主)は四頭品と同じと規定している。王幾を中心とする地縁的な身分制度で、新羅の特徴である。 836年、興徳王が死去すると、従来の貴族会議による決定は行われず、武力による後継者争いが行われた。争ったのは、元聖王の孫にあたる均貞(きんてい)とその甥である悌隆(ていりゅう)である。それぞれ支援する貴族たちの私兵によって戦った。まず、均貞らが内裏へ入り、その私兵が防衛にあたった。そこへ悌隆らの軍が攻め寄せて、均貞らの軍を敗退させ、均貞も殺された。勝利した悌隆は、即位して僖康王となった。 838年、悌隆について戦い上大等(官職)に任じられた金明と侍中(官職)に任じられた利弘(りこう)の軍が、僖康王の側近を殺害し王の私兵を打ち負かした。僖康王はみずから命を絶ち、金明が王位について閔哀王となった。 839年、閔哀王も、清海鎮(せいかいちん・現在の全羅南道莞島郡)大使の弓福(きゅうふく)をたよって亡命し地方で勢力を伸ばした祐徴(均貞の子)らの兵によって殺された。祐徴は即位して神武王となったが、即位後半年で死去し、太子の慶膺(けいよう)が文聖王となった。 文聖王は、弓福の娘を王妃に迎えようとしたが、貴族たちが「弓福は地方出身の身分の卑しい者である」として反対したという。弓福は別名を張保皐(ちょうほこう)といい、唐や日本と積極的に交易して商人として知られていた。日本では、張宝高の名で知られている。彼は、841年に清海鎮で反乱を起こしたが、刺客によって殺された。 新羅の衰退 889年、真聖女王のときに、地方の実情を無視して律令の規定する徴税を命じると、これに反対する蜂起が全国各地で起った。しかし、新羅王朝にはもはやこれを鎮圧する力がなく、中央とは関係なく地方勢力どうしの対立抗争が始まった。 892年ころには、この地方勢力のなかから、新羅の支配を脱して自立するものが出てきた。 そして、900年に後百済、901年に後高句麗と称するようになり、新羅とあわせて「後三国時代」とも呼ぶ。 918年に、後高句麗にかわって高麗が建てられ、その後、後百済と新羅が高麗に降伏する。こうして、高麗により朝鮮半島が統一されることになる。 【参考ページ】 356年 新羅の建国 676年 新羅の三国統一 ・・・・・・(このページ) 892年 新羅が衰退(後三国時代へ) 935年 新羅の滅亡 参考文献 「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年 「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年 「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 更新 2004/2/13 |
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