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935年 新羅の滅亡


 新羅王朝が国内の武装蜂起を鎮圧する力もなくなると、中央とは関係なく地方勢力どうしの対立抗争が始まった。そのなかから大きな勢力となっていたのものは、甄萱(けんけん・キョオヌウォン)の後百済と、弓裔の後高句麗で、後高句麗は国号を泰封に改めたのち、王建(おうけん・ワンクウォン)の高麗にとって代わられた。
 新羅、後百済、高麗が並び立ち、「後三国時代」と呼ばれる。

景哀王
 927年、後百済の軍が王都慶州に迫ってきたとの知らせを受けた新羅の景哀王は、高麗の王建に援軍を求めた。王建が兵を送ろうとしていたとき、甄萱はそれに気づいて先に新羅の王都を攻めた。
 後百済が新羅の王都を襲ったとき、景哀王は南山の西麓にある鮑石亭で王妃や宮女たちと酒宴を楽しんでいたという。そこへ甄萱を先頭にした後百済の兵が押し寄せ、景哀王は王妃を連れて離宮へ逃げるのがやっとだった。後百済の兵は、男たちを見境なく討ち殺し、宮女たちは手当たり次第に乱暴されたという。景哀王は追っ手に捕まって、甄萱王の前に引き出されて殺された(注:甄萱が自刃を強要し、自ら命を絶ったとする文献もある)。甄萱は、景哀王の一族である金傅(ふ)を王位につけて引き上げた。敬順王である。
 王都慶州は壊滅的な打撃をうけた。

敬順王
 927年、高麗王の王建は、わずか50余騎の兵を伴って、新羅の王都を訪ねた。大軍の兵をつれてやってくると思っていた新羅の人々を驚かせた。王建の滞在中、高麗の兵は規律正しく乱暴をはたらく者はなかったという。新羅の敬順王は、しだいに王建の人柄に惹かれていったらしい。
 935年10月、敬順王は太子や群臣を集めて、「高麗に降伏しようと思う」と胸中を明かした。このとき、太子は戦わずに降伏することに反対したが、王は「負けるとわかっている戦で民百姓を苦しめたくない」として降伏を決めた。太子はその場で席を立ち、皆骨山(金剛山の別名)に入り、麻衣を着、草を食べて生涯を終えたという。「麻衣太子(マイテジァ)」として有名だという。
 降伏の文書を受け取った王建は、礼を尽くして敬順の一行を迎え入れた。敬順の一行は三里もつづいたという。敬順は王建に次ぐ高麗太子よりも上の位を与えられ、宮殿も与えられて群臣たちも迎え入れられた。敬順の長女は王建の妻に迎えられた。
 こうして、新羅は血を流さずに禅譲されて滅亡した。



【参考ページ】
356年 新羅の建国
676年 新羅の三国統一
892年 新羅が衰退(後三国時代へ)
935年 新羅の滅亡 ・・・・・・・・・(このページ)





参考文献
「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
「物語 韓国史」金両基著、中公新書、1989年


2004/2/13

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cover 「古代朝鮮 NHKブックス 172 」
「物語 韓国史」


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