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892年 新羅が衰退(後三国時代へ)


 地方豪族や下級貴族らの力によって朝鮮半島を統一した新羅は、当初、中央貴族だけによる政治から地方豪族たちも同様の権限を持ちうる律令体制へと政治体制を変えていった。しかし、しだいに旧貴族と新興貴族・地方豪族とが王権をめぐって抗争するようになり、さらには、貴族たちが私兵を使って武力による王位簒奪さえ行うようになった。中央の地方に対する関心は薄らいでゆき、反乱・内乱の起きる時代となっていった。
 不十分であった律令体制もくずれていったものとみられる。

地方の対立抗争
 889年、真聖女王のときに、地方の実情を無視して律令の規定する徴税を命じると、これに反対する蜂起が全国各地で起った。しかし、新羅王朝にはもはやこれを鎮圧する力がなく、中央とは関係なく地方勢力どうしの対立抗争が始まった。
 892年ころに大きな勢力となっていたのは、次のものであった。
・完山(現在の全羅北道全州市)の甄萱(けんけん)
・北原(ほくげん・現在の江原道原州市)の梁吉(りょうきつ)とその配下の弓裔(きゅうえい)
・竹州(ちくしゅう・現在の京幾道安城郡竹山里)の箕萱(きけん)

後百済
 完山の甄萱(けんけん・キョオヌウォン)は自営農民の出で、軍人となり副将にまでなった。892年に西南地方の州や県を襲うとともに同志を糾合したところ10日で5千人も集まったという。そこで武珍州治を占領し、さらに完山州を奪ってここを根拠地とした。900年に後百済と称して官職などを設置し、「百済の義慈王(ぎじおう・百済の最後の王)の恨みをはらす」とのスローガンを掲げた。

後高句麗
 北原の梁吉の配下にいた弓裔(きゅうえい)は、新羅の憲安王の子であったが、生まれたときから歯がはえ眼は異常な光を放っていたため、国に災禍をもたらす前兆だというので、王宮の外へ出され、世達寺の僧になっていた。学問は好まず、性格も素直でなかったという。
 寺を出て、はじめ箕萱のもとに走ったが、梁吉の部下に移って戦功をたてた。王子が反乱を起こしたという噂が重なって、彼の名は全国に知れわたり、勢力も大きくなった。
 梁吉と対決する羽目となり、先手を打って攻め大勝した。そこで、国号を後高句麗と称した。901年のことである。

後百済と後高句麗の戦い
 甄萱(後百済)は、大耶城(だいやじょう)を攻め、徳津浦(とくしんぼ)で弓裔(後高句麗)と戦い、旧百済領の大半を支配したが、909年、弓裔に珍島を奪われ、翌910年、錦城も取られ。中国や日本への海上交通路を遮断された。

高麗
 911年に弓裔の後高句麗は国号を泰封に改めた。王となっても弓裔の歪んだ性格は治らず、疑い深くなり罪のない部下をしばしば斬罪に処し人望を失っていった。
 918年に、弓裔の部下であった王建(おうけん・ワンクウォン)が叛旗をひるがえし、兵たちがみな王建につくと、弓裔は平民の服を着て城をのがれて山にこもったが、まもなく農民にみつかり斬殺されたという。
 王建は開城の豪族の子で、弓裔が梁吉の部将であったころにその部下となっていた。王建はみずから高句麗人の後孫だと称し、国号を高麗とし、都を開城に定めた。

後百済と高麗の戦い
 918年、王建が高麗を建国すると、甄萱(後百済)は使節を送って和議を結んだ。
 924年、甄萱(後百済)は子の須弥強(すみきょう)に、高麗の曹物城を攻めさせた。翌925年も曹物城をめぐって攻防が行なわれたが決着がつかず、和議を結んで人質を交換した。
 927年、後百済の人質が突然死んだこともあって、再び戦いとなった。甄萱(後百済)は、竹領に近い近品城を攻めるとともに、新羅の高欝府(こううつふ・現在の慶尚南道蔚山市)を襲い、さらに新羅の王都慶州を襲った。新羅の景哀王は殺され(注:甄萱の前に引き出されて自刃したとする文献もある)、王都慶州は壊滅的な打撃をうけた。甄萱は、景哀王の一族である金傅(ふ)を王位につけて引き上げた。敬順王である。
 その後、甄萱は、旧加羅地方を手中に収め、義城府を落とし、古昌郡にせまった。
 930年、甄萱と王建は、古昌郡瓶山の麓で戦い、王建が大勝した。その後、高麗は後百済を運州で破り、しだいに圧迫していった。

新羅の滅亡
 935年10月、新羅の敬順王は太子や群臣を集めて、「高麗に降伏しようと思う」と胸中を明かした。このとき、太子は戦わずに降伏することに反対したが、王は「負けるとわかっている戦で民百姓を苦しめたくない」として降伏を決めた。太子はその場で席を立ち、皆骨山(金剛山の別名)に入り、麻衣を着、草を食べて生涯を終えたという。「麻衣太子(マイテジァ)」として有名だという。
 降伏の文書を受け取った王建は、礼を尽くして敬順の一行を迎え入れた。敬順には王建に次ぐ高麗太子よりも上の位を与え、宮殿を与えて、敬順の長女を王建の妻とした。

後百済の滅亡
 935年3月、後百済の甄萱はその子の神剣らと対立し、甄萱は金山寺に幽閉され、神剣が大王と称した。
 甄萱は宿敵の王建に助けを求めた。王建は即座に救出を命じ、甄萱は密かに救出されて高麗の王都である開城へ移された。
 936年、甄萱と王建は、10万人の大軍を率いて後百済へ向かった。一善郡の一利川の戦いで、後百済の軍は殲滅され降伏した。神剣王とその兄弟は捕らえられて、後に殺された(注:王建は神剣に対しても官位を与えて抱擁した、としている文献もある)。こうして後百済は滅亡し、王建の高麗によって三国が統一された
 甄萱は、尚夫の尊号を与えられ、邸宅・食邑なども給付された。のちに、論山のある仏寺にはいって生涯を終えた。



【参考ページ】
356年 新羅の建国
676年 新羅の三国統一
892年 新羅が衰退(後三国時代へ)・・(このページ)
935年 新羅の滅亡





参考文献
「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
「物語 韓国史」金両基著、中公新書、1989年
「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
「クロニック世界全史」講談社、1994年


更新 2004/2/13

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