(昔の)日記みたいなもの - 1999年

 1999年(平成11年)の「日記みたいなもの」です。
 なお、1998年に書いた「昔の日記みたいなもの」はここです。
 

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1999年12月19日(日) もうすぐクリスマス


 今年も残り10日あまりとなりました。
 クリスマスが過ぎると、すぐにお正月の準備…というのがいつもの年末ですが、今年は西暦2000年問題の準備の方が大変ですね。私にとっては、その上、寮の移転が年末にありますので、引っ越しの準備をしなければなりません。
 そんなことで、1999年の年の瀬は、年末気分もなく更けていきます。これでクリスマス寒波が来なくて雪も降らなければ、本当にいつもの月末、って感じですね。
さあ、実際には、どうなる事やら…。
 

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1999年12月12日(日) 真珠湾攻撃の日の思うこと


 日本時間12月9日は、太平洋戦争開戦、つまりハワイの真珠湾奇襲があった日であると共に、John Lennonがニューヨークの自宅前で射殺された日でもあります。

 毎年、彼のことを「愛と平和の使者であった」と持ち上げて、TVやラジオで追悼放送がされます。
 でも、きっと彼が生きていたら、どう思うことでしょうか…。こういう風に美化されることを最も嫌がっていたのに、こういう扱いをされているんですから。
 「俺は単なる人間さ」って彼は言うように、私は思いますし、もし、彼が生きていたらそう言ってほしいと思います。
 

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1999年12月7日(火) 初積雪


 1999年もあと一ヶ月を切りました。この「日記帳みたいなもの」の更新も、久しぶりとしなりました。更新していたように思っていたのですが、それはスケートのページの方に精力を注いでいたからでしょうか…。今の所、スケートのページの方に精力を注ぎそうなので、このページの更新は気長にお待ち下さい。

 今年は冬の訪れが遅かったのですが、ようやく長野市内でも積雪がありました。とは言え、雪は降っていると言うよりも、舞っているので、ほとんど積もってはいません。去年は11月下旬に10cm位の積雪がありましたので、本当に好対照です。スキーは大丈夫なんでしょうか?
 

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1999年11月21日(日) HTML


 山はすっかり秋色ですが、数日前、すぐ近くの山に雪が降ったり、アルプスは既に真っ白になったりと、冬の訪れがすぐそこまで来ています。

 以前は、HTMLはやっぱり難しい、などと言っていたのですが、最近だいぶ出来るようになってきました。この「日記みたいなもの」だって、Windows 95付属のメモ帳で作成してから、Netscape Navigatorで確認をしています。
 ここで問題なのが、Netscape Communicator付属のHTMLエディター、Composerです。
 結構、勝手なタグを付けたり、消したりしてくれちゃうんですよね。特に改行関係に多く見られます。IBMのホームページビルダーのような本格的HTMLエディタを買っても良いのですが、そこへの投資よりも
   Composerで作成→Navigatorで確認→メモ帳で修正
というやり方の方が、自分には似合っているかも知れませんので、シコシコとやっていこうと思います。

 今、indexを更新していて気付いたのですが、カウンターを付けてから一年近く経ったのですね。訪問者、少ないなあ、って宣伝していないから当然か(^^;
 

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1999年11月14日(日) 飛騨高山


 山々の紅葉がとてもきれいな時期となりました。ドライブしていても気持ちのいい季節ですね。

 そんな中、先日、飛騨高山に行って来ました。
 上高地に行こうか、高山に行こうか、ギリギリまで迷っていて、平湯の駐車場に入ろうか、という所で、高山に行くことを決めました。
 何も予備知識を持たないで行ったので、どこが見どころか、分からないまま、人のいる周辺をうろついていました。後で地図を見たところでは、偶然にも、結構見どころを押さえていたようです。
 古い街並みが良く保存されていて、とてもいい感じの街でしたが、今度は、平日の空いている日に、泊まりでじっくりと回りたいですね。
 

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1999年11月3日(水) スケート観戦


 全日本スピード距離別選手権が先週末(10/29-30)、M-Waveで開かれました。熱狂的なスケートファンが観戦に来ていたようですが、私はといえば、競技役員として参加しておりました。

 10月末にこんな大きな大会が開催されるなどというのは、M-Waveが出来る前には予想できないことでしたが、それにも増して驚いたのは、良いコンディションの選手が多かったことで、国内最高などというものも出ました。
 とは言え、最後に来て足が動かなくなったりとスタミナ切れしていた選手とか、後半を楽に滑っていた選手がいて、ちょっと安心しました。この時期にコンディションを最高に持っていってはなりませんからね。
 観客の入りはあんまり良くなくて、1,000人程度でしたが、この種の大会としては結構入ったようにも思います。
 しかしながら、観客の盛り上がりという観点からすると今一歩でした。ただただ静かに見ているといった感じで、もっと「ウォー」とか「行けー」とか叫んでほしかったです。それ以上に、競技終了後の表彰式になると、数十人しか観客がいない、という状況は情けなくて泣けてきます(五輪の時も表彰の時って、みんな帰っちゃったんですよね…)。

 スケート連盟はどうにかせい、とか、行政が何とかしろ、とおっしゃる方々がいますが、そういう安易で他人任せのご意見には私は賛同しかねます。そういう方々にお願いしたいのは、そんいう類の安易な批判をするのではなくて、「自分は○○のためにこんな事が出来る、こんな事をした」という発言をしていただきたいのです。「○○が悪い」と言っているだけでは、何も良くはなりませんし、批判だけなら誰でも出来ます。

 今日は、ちょっと辛辣な話になりました…。
 

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1999年10月24日(日) 一周忌


 祖父の一周忌が今日行われました。
 あれから、もう一年も経ったとは思えないのですが…月日の経つのは速いものです。同じ年月でも、私の甥や姪は小さいので、かなりの月日が経ったように思っていることでしょう。
 この日は、偶然にも、Mの妹の四十九日でもあったようです。
 亡くなっていった人達のことを淋しく思いながら、「自分もいつかは死んでしまうんだよな…。人生は短いや…。」なとど思ってしまった、秋晴れの一日でした。
 

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1999年10月17日(日) スケートシーズン始まる


 先週、M-Waveがオープンして、いよいよスケートシーズンが始まりました。今年は、私も色々なプロジェクトにかかわっていますが、仕事も忙しくて、上手い具合に協力できていないのが実状です。
 具体的にどんなものにかかわっているのかは、現時点では述べることは出来ませんが、色々な意味で注目すべきものであること確かですし、私がその事に対して少しでも関われたことを誇りに思います。
 ところで、こういう事をやっていると思うんですが、地域スポーツの振興には、学校教育という小さな枠組みではなくて、地域社会全体を巻き込んだ、地域住民の参加が不可欠だと思います。仕事を持ちながら、きちんと仕事をして、なおかつ、地域スポーツに参加することは大変なことですが、何とかバランスを取ってやっていきたいと思っています。
 

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1999年9月15日(水) 友人の妹の死


 友人Mの妹が死んだと、Mと共通の友人から聞いた。20歳での早すぎる死は、残された家族のことを思うといたたまれない。
 Mとはふとした機会で知り合った。共通の知人が多いことや、私が両親に連れられてよく食べに行った中華料理屋のコックがMの祖父だったりと、何かと接点が多い関係で、いろいろなことを話すことが出来る友人である。
 ここ数ヶ月、Mも多忙であったためか、メールを出しても返信がなかった。そこで、久しぶりに電話をして、近況を交わしたのが、つい先週のことであった。将来を決めなければならない大変な時期だったので、「何とかなるだろうから、希望を持って頑張ろうよ」とMを励ましたばかりだった。Mはもちろん、Mの妹も、そしてMの家族全体も大変な時期であった事は確かだったからこそ、少なくともM自身のことだけは、良くあって欲しいと思った。
 そんな状況にあって、Mは、突然、妹を若くして亡くしてしまった。Mの心境を察すると、Mに何と声をかけてやったらいいのか、言葉が見つからない。
 

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1999年9月12日(日) HTMLはやはり難しい


 旅行記の構成を変更して、新しい画像をアップしようと思ったのでが、失敗しました。自動保存で、元のが無くなってしまったので、Webからダウンロードして、少しだけ構成を変えました。
 やっぱりHTMLは難しいですね。まだまだ勉強が必要…(^^;
 

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1999年8月16日(月) お盆


 8月といえばお盆。お盆といえば、8月15日の終戦記念日。ということで、今年もバカそうな姉ちゃんに、
 「終戦記念日って言うけど、どこと戦って負けたのか知ってる?」
という質問をして、
 「えーっ、わかんなぁい」
という答えが返ってくるやり取りがTVに流れていました。
 国民として知っていなければならないような社会問題を、いかにも頭の悪そうな姉ちゃんに質問して、バカっぽい答えをする、というパターンって何年経っても廃れませんね…。

 我が家は新盆であったため、帰省していましたが、このお盆の最中に観測史上最大量の降雨がある、とんでもないお盆になりました。夕立のような雨が24時間以上続いたため、千曲川の河川敷はことごとく川に戻ってしまい、いつぞやの姫川(小谷村)かのように濁流が狂ったように流れていました。大きな川がこの調子ですから、中小の河川は決壊して、床上・床下浸水が起こり、避難勧告もバンバン出ていました。私の実家の付近にはこういう河川は無かったから無事でしたが、裏のドブ川はもうちょっと降ったら危ない状況でした。家の前のドブ川は、以前はよくあふれた、と両親が言っていました(そういわれるとかすかにそういう記憶がある)が、20年ほど前に新築した時に、深い側溝にしたので、もうそんな不安は無くなりました。
 この雨で、川の中州でキャンプをしていて、濁流に呑み込まれる、という痛ましい事故が神奈川県山北町でありました。
 再三の警告を無視して、「危なくなったら逃げるから、ほっといてくれ」と言っていたとか…。遺族の方には申し訳ありませんが、自然をなめているとしか言いようがなく、これは明らかに自殺行為だったと思います。危険な中キャンプをするのは勇気ではなく無謀でしょう。本当の勇気とは、危険を感じて引き返すことではないでしょうか。
 この事故が、自然を甘く見てキャンプをする人達への警鐘となれば良いのですが。
 

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1999年8月4日(水) 海水浴


 何か知らない間に7月が終わりましたね。とりあえずノストラダムスの予言は不発でしたが、これ以降、何かあったら「実は七の月とは云々」と屁理屈を付けて予言の実証をしようとするんでしょうね。あの予言自体、かなり抽象的な言葉で書かれているようなので、取り方一つで全て予言が当たったことになってしまうんでしょうけど。

 さて、先週末(7/31-8/1)海に行って来ました。行った先は新潟県最北の地、山北町。笹川流れのある所、というと分かりやすいですね。
 ここは、三年続けて行っています。長野からはかなり遠いのですが、一度行ってしまうと、もう病みつきになります。海水のきれいさ、景色のきれいさ、食べ物の旨さは特出すべきモノがあります。景色は笹川流れでご存じの通りですが、海水の方はすごいです。今まで海水浴、というと上がった後に体にベト着くものがありましたが、ここの海は、プールから上がった後と何ら変わりがありません。シャワーなんて要らないくらいです。これには本当に驚きました。
 今までは、もう一〜二週間早く行っていていたのですが、今年は一緒に行くメンバーの都合もあってこの時期になりました。やはりこの時期だと、水は温んでいて、イソギンチャクは死んでいるし、ウニなんかもあまりいなくて、ちょっと楽しみに欠けました。カニが多かったくらいですかね。
 もうこれで今年の海水浴は終わりです。来年もまた、ここに行くことでしょう。
 

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1999年7月18日(日) 諸々

その壱 安易な責任追及
 山陽新幹線のコールドジョイントの問題で語られているのは、JR西日本サイドの話ばかり。どう見ても、叩きやすい所を叩いている、との印象しかない。他にも関係する、もっと重要な問題に目がいっていないのは残念だ。
 それは、トンネルを造ったゼネコンの問題だ。阪神大震災の時は、鉄筋の代わりに木が入っていて、そのために倒壊してしまった事例があったが、今回のコールドジョイントだって、鉄道だけでなく、道路をはじめあらゆるコンクリート構造物に関係するものである。危険なのは、鉄道だけでなく、全てなのである。こういうモノを作ったゼネコンに対する批判を、なぜマスコミはしないのか不思議である。

その弐 続同僚の死
 同僚の死があり、欠員が生じたため、職場があわただしい。この二週間あまりの間、人の色々な面を見ることが出来た。何だかんかだ言っても、その人間の性格のよさが全てであると、感じた。

その参 梅雨
 梅雨が終わりません。車にワックスもしばらく塗っていないので、さあ、と思っても、いつも雨…。
 と思いきや、雨が止み、空を見るとしばらくは雨が降りそうもない感じだったので、即、洗車場へ行き、洗車&ワックスがけ。とりあえずだが、ワックスがかけられて良かった。

その四 新聞
 信毎の記事には驚きました。

その五 某社サポート問題
 あるホームページで、一ヶ月ほど前に、この問題の存在を知った。件のホームページも、その事が議論されている掲示板も見ているが、もう何が何だか分からない状態である。
 

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1999年7月5日(月) 同僚の死

 7月になって5日間が過ぎましたが、まだ何もありません。残りの26日間はどうなることやら。

 私の職場の同僚が、昨日朝、亡くなりました。死因は溺死。雷雨の中、運転を誤って川に突っ込んでしまったようです。車が逆さになったことや、普段は水量の少ないのに、雨が続いて増水したこともあって、溺死してしまったようです。
 血縁関係を除けば、昨日まで話をしていた人がなくなった様なケースは初めてでした。ましてや、寮では隣の隣の部屋ですから…。
 通夜、告別式があり、今はバタバタとしているため、寂しがっている暇すらありませんが、少しするとそういう感じがするんでしょうね。
 

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1999年6月20日(日) 再度、鉄道ネタ

 あの、1999年7月まであと10日あまりとなりました。もしかしたら、これがこのホームページ最後の更新になるかも知れません…な訳はないと私は信じています。

 群馬県松井田町にある「碓氷峠鉄道文化村」に行って来ました。松井田町、というよりも、横川にある、と行った方が多くの人には分かることでしょう。
 この「碓氷峠鉄道文化村」というのは、旧横川機関区の敷地を含む横川駅構内の一部を鉄道公園にしたものです。旧横川機関区の検修庫はじめ、公園の敷地内に機関車や電車の現車が置かれていたり、ジオラマがあったりと、鉄道マニア垂涎の的です。その他、碓氷峠越えの歴史が展示されたり、鉄道のまち横川の歴史が分かるようになっています。
 この鉄道文化村に行ったのは、学校のある土曜日で、しかも小雨だったせいか、かなり空いていました。多分そうかな、と思ったとおり、鉄道マニアばっかりでした(^^;;ちょっと汚い格好にカメラをぶら下げているのが、何処彼処にいる!!まいりましたね。しかも、えらそうに講釈たれてるし。
 来月には電気機関車の体験運転も出来るようになるようです。鉄道マニアだけじゃなくて、東京方面から軽井沢へ車で来る人達が、ブラッと寄って広場でお弁当を食べたりするそんな風景が日常化するような、素敵な施設にしてほしいと思いました。
 

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1999年6月6日(日) 鉄道員(ぽっぽや)

 高倉健主演の映画「鉄道員(ぽっぽや)」が6月5日からロードショー開始、という事で、今日この映画を見てきました。
 クライマックスの場面で、音声機器のトラブルで無声映画になってしまい、一番泣かせるべき場面で泣けなくなったハプニングはありましたが、総体としてはまあまあ良い映画だと思いました。鉄道員としての男の美学みたいなのを感じました。こういう男の美学は、高倉健の得意とする所だし、その持ち味が良く出ていたと思います。
 残念な点は、振り返るエピソードが多くて、散漫な印象を受けることと、亡くなった娘が出てくる場面は、物語には不必要だったという事です。前者については、生きていれば確かにそういう事はあるんですが、物語としては散漫というか深みが足りない印象を受けます。後者は、夢の中の物語として残しておいた方が良かったのではないかと感じます。それに、広末涼子が適役だったとは決して言えないと思うのですが…。
 元ネタの小説が含みを持ったものであったからこそ、「すずらん」も「鉄道員」もできたと思いますが、両者とも深みが欠けるのが何とも残念です(「すずらん」はこれからどうなるか分かりませんが)。でも、時代遅れだけど、男の美学が残っている鉄道員の思いが垣間見れるのは、こういう時代だからこそ大切だと思います。
 

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1999年5月22日(土) 舞浜

 相変わらず体調不良です。熱はありませんが、喉と少しの倦怠感は変わりません。
 そんな中、千葉県習志野市へ会社の水泳大会で行って来ました。こんな体調だから泳ぐわけもなく、計時係をしていました。大会終了後の懇親会も出席せずに、すみやかに長野に戻ってきました。
 プールの場所は、京葉線新習志野駅の目の前にあります。京葉線と言えば、東京ディズニーランド(TDL)が沿線にありますね。最寄り駅はご存じ舞浜駅です。
 新習志野や海浜幕張(幕張メッセ最寄り駅)に行く時に、私の気分を暗くするのが、この舞浜で乗降する人達です。
 東京からは良いんです。各駅停車に乗ってしまえば、この一団と一緒になる可能性がきわめて低いから。
 問題は、上り電車。快速だろうが、各駅だろうが、舞浜では各車両にまんべんなくTDL帰りの一団が乗ります。新習志野や海浜幕張から乗っていて、ウトウトして良い気持ちの時に、子供は走り回る、母親は怒る、お姉ちゃん達はしゃべりまくるわで、叩き起こされて参ってしまいます。しかも、みんながみんな、あのTDLのバカでかいお土産袋を持っていて、うっとうしいこと極まりません。
 電車でTDLに行くなよ、とは言えませんけど、TDLでの騒ぎを電車の中にまで持ち込んでほしくはないです。余韻を楽しむのなら、マイカーかバスがお勧めなんですけどね。
 

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1999年5月12日(土) 体調不良

 五月というと、爽やかですごしやすい季節。そして、某Webmasterのお誕生日もある月です。
 私の体は夏用と冬用があるらしく、その切り替わりである春と秋には、決まって体調が悪くなります。その切り替わりの時期に、今あるようです。
 具体的な症状は、倦怠感があって、目はトロンとしています。のどがひどく荒れています。熱は出にくい体質なので、数値としては上がっていませんが、少し熱っぽさがあります。

 と書いたんですが、改めて熱を計ったら37度0分ありました。久しぶりの高熱だなあ〜。
 毎度のパターンで行くと、このままダラダラと症状が続いて、いつの間にか治っていることでしょう

 さて、今夜はスケート仲間で集まって飲みます。言い出しっぺの人その彼の後輩が来ないのは残念ですが、楽しい飲み会になりそうです。体調不良の私は、おとなしくしていないといけないんですが…。
 

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1999年4月26日(月) 一周年

 本日、このホームページが満一歳の誕生日を迎えました。
 たいしたネタもなく、仲間内の人間が見るだけなので、まだカウンターが3桁ですが、これからも続けていきますので、皆さま、よろしくお願いします。
 なお、この場をお借りして、改めて松津さんに感謝します。
 いつも冗談ばかり言い合う仲ですが、彼なくしてはホームページの開設は到底無理でしたから、本当に感謝しております。
 

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1999年4月18日(日) 宇多田ヒカルの衝撃

 今さら、宇多田ヒカルじゃなんですが…。
 最初、彼女の歌を聴いた時、アメリカの女性ソウル・シンガーの歌の一部に日本語が入っているものだと思っていました。いゃー、日本語の上手い人の歌だなあ、って。
 それだけに、日本人の女の子の歌だと知った時の衝撃たるや、凄いものがありました。あんなソウルフルな歌い方が出来る女性シンガーが日本にいたとは。ソウルのノリというのは、日本人には絶対に出来ないものなんですが、彼女は見事に会得していましたね。ま、ニューヨークで生まれ育ったのなら、日本語を話すこと以外はアメリカ人と同じだから、別に不思議じゃないですかね。
 いずれにしても、和田アキ子以来のメジャーな本格的女性シンガーだと思いますので、今後の活動が楽しみです。
 

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1999年3月16日(水) 冬が終わる

 めっきり暖かくなってきました。長野駅前にある温度計は14℃を示していました。 ちょっと前までは、氷点下が珍しくなかったんですけど。
 そういう雰囲気なので、ウィンタースポーツももう終わります。スケートで言えば、M-Waveは今週末で閉鎖だし、スキー場もかなりの所が閉鎖しています。
 スケートはリンクの都合もあって今週末に滑り納めしますが、五月中旬に志賀高原(横手山or熊ノ湯)で春スキーをしようかと考えている私は、よっぽど冬に未練があるように見られているみたいです。
 

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1999年2月26日(金) あれから一年 その二

 長野オリンピックから一年経ったなあ、去年の今頃は…と思っているうちに、一年前の閉会式の日がとうの昔に過ぎてしまった。
今思い出すと、とても今年の同じ期間とは思えないほど充実していた日々でした。
 オリンピック閉会式の花火が終わって、選手、観客も帰り始めた、という日の一年後、1999年2月23日に、私もついに異動することになりました。いままで、お客さまと直接接するところにいたのですが、いわゆる「間接部門」という職場に移りました。
 お客さまからのお叱りは確かにきつかったのですが、逆に、お客さまからの良い反応も直接感じられて、非常にやりがいを感じていました。もう少しいたかったのですが、致し方ありません。
 

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1999年2月8日(月) あれから一年

 長野オリンピックから一年経ちました。
 まるでこの時期を狙ったかの如く、ソルトレークオリンピックの招致に端を発した、IOC委員の疑惑が発覚し、オリンピック開催一周年記念行事が行われている最中に、JOCの委員が長野で招致に関する疑惑を調査をしている有様となりました。
 確かに、招致活動中の帳簿が焼却されるなんて、故意じゃないとしても、証拠隠滅と言われても、致し方ないでしょう。
 とにかく、一番必要なことは、招致段階での事実を関係者がきちんと話すことだと思う。
 さもなれば、選手、監督、コーチや競技役員、観客、そして何よりも次世代を担う子供達に対して、長野オリンピックが汚名を残したまま歴史に刻まれるてしまい、長野に住む私としては非常に残念なことに思えて仕方ない。
 

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1999年2月4日(木) 疲れました

 長野県小海町松原湖高原で行われた、第10回氷上トライアスロンに参加してきました。
 スキー(ダウンヒルと子供用ゲレンデの登坂)が2.5km、ラン16km、スケート10km(400mリンク25周)というものです。
 今回で6回目の参加でしたが、ランが嫌いな私にとって16kmはきつかった。特に、前回までは12.5kmだったのが、一気に3.5kmも増えたのは洒落になってませんでした。
 結果ですか?、まあ、中の下というような所です。ランの比重が高いので、トライアスリート系とか市民ランナー系が強くて、私のような者が上位になる要素は全くありませんでした(運動不足もありますし)。
 

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1999年1月14日(木) やっと冬らしく…

 長野市内でもやっと雪が積もるようになりました。
 とは言っても、数センチ程度の積雪ですので、多い、という感じのモノではありません。飯綱辺りだと、道路が圧雪路になっていて、いかにも雪が降った時の道路になっていました。
 それにしても思うのは、信州の人には環境に優しくない人が多いですね。
 特に、延々とアイドリングをして、排気ガスをまき散らしているのを見ると腹が立ちます。リモコンでエンジンをかけておくなんていうのもあって、一体何を考えているのでしょうか?
 霜を取るのにエンジンをかけるのは、まあ良しとしましょう。
 でも、暖を取るためにアイドリングしているのは許せません。
 そもそも、車は家の「外」なのだから、寒いのは当たり前だし、家の「外」に出る以上、それなりの格好をしているはずなのに、なぜ不必要なアイドリングをするのだろうか?あまり吹かさずに、おとなしく運転してやれば、始動してから5〜10分位で暖かい風がヒーターから出てくるというのに…。
 

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1999年1月6日(水) 本年もよろしくお願いします

 新年あけましておめでとうございます。
 こんなふざけたWebですが、今年もよろしくお願いします。
 …でも、一体誰が読んでいるだろうか?

 さて、昨年末に書いた、とあるWebmasterの話ですが…結局、連絡はなく、お会いすることは出来ませんでした。残念です。
 膠着状態にあることもあるので、しばらく静観したいと思います。

 今年は1999年。Princeが"1999"を歌ってから、もう15,16年経っているのか、と思うと何とも自分の歳を感じるこの頃です。
 

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