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#3100 
徹夜城(政府提供の史点ネタに喜ぶ管理人) 2002/08/02 21:42
で、諭吉は?

さっそく反応が出てますねぇ、いきなりの新札発表。
「五万円札」をめぐって佐賀(大隈重信)と高知(坂本竜馬)が「招致合戦」やっているという噂も聞きましたが、千円と五千円が変更とはおもわなんだ。漱石さんと稲造さんにようやくなじみが出てきた(いや、少年時代の体験のせいか今でも博文さんと聖徳太子になじみがあるんです)と思ったらいきなり降板ですか(笑)。

政治家は避けるだろうという予測は当初からありましたね。伊藤博文なんかは正直なところ隣国にはかなり刺激的だったのは事実で。でも福沢諭吉だってその辺議論があるんですがねぇ…今回彼だけ残ったことには勘繰る向きも出てくるでしょうな。
樋口一葉は、もともと女性を採用したかった、ってことでしょう。と思っていたらどっかの新聞記事で財務省の人がそう白状していましたね。近代史で女性となるとあとは与謝野晶子か平塚らいてうぐらいしか思い当たりませんから、その両者に比べ絶対的に「当たり障りが無い」のが一葉だったということでしょうね。

おお、ついに漫画界からお札の顔が、と思ったら加藤芳郎じゃなくて野口英世だったのね(爆)。
まぁ日本で一番伝記の冊数が多いと言う人ですから、候補には上りやすかったでしょうね。財務省の意図は「科学技術で世界に雄飛した日本人」ということのようで。この人が結婚詐欺まがいのことまでする、なかなか面白いやつだったというのは最近知られるようになったことですが、いわゆる伝記本そのままの聖人君子ではなかったってのはホッとするところでもあります。
当時の野口英世は変な例えですけど、イチローみたいなもんでして、生きているうちから国民的ヒーローになり、伝記本も書かれていた人です。その伝記を読んだ英世は「人間、こんなに完璧なわけがない」と激怒したとかいうエピソードを聞いたことがあります。

それにしても樋口一葉と野口英世…
「使うたびに病気になりそう」
とは我が両親の一致した意見でした(笑)。
あ、それで諭吉を残したとか(爆)

いっそのこと毎年変えるってのも手ですよね。今年は「坂本竜馬」来年は「宮本武蔵」再来年は「田沼意次」とか…ゆかりの地で招致合戦が繰り広げられ内需も拡大(笑)。それって大河ドラマじゃん、と一応自己ツッコミしておきます。



#3099 
原田 実 2002/08/02 20:34
お札の顔のパテント料

吉岡平氏の小説で、新札を発行したばかりの近未来の日本国首相に、その若き日の同志がくってかかるくだりがあります。
「貴様、自分が将来、首相になって新札を発行することになったら、肖像はラ○ちゃん(原田註、原文伏字、前後より判断するに虎縞ビキニ鬼娘のこと)にすると言っておっただろうが!」
 いや、気持ちはわかると、実現したら高橋先生へのパテント料は大変なものになりますな。ブラックジャック先生だったら、手塚プロで記念病院を建てられるほどの額になるかも。もっともブラックジャック先生はともかく、手塚先生は生前企画一つ実現するごとに多額の借金を背負い込むという生活ぶりで、なくなった直後にも、日本政府は国民栄誉賞授与を求める一部マスコミや文化人の声を無視していました(というか、そもそもそのような声があることにも気付かなかったようですが)。
 ここ百年ばかりの日本では、国家が文化人の業績に対して、経済的にむくいたことがないのですから、日本国の紙幣と、文化人の肖像という組み合わせ自体がお笑い種なのかも知れません。

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


#3098 
ホリ−・ハンタ− 2002/08/02 19:39
新札のモデルですか

ドクタ−野口は金銭感覚が頓着が無かった〜とゆうのは
知りませんでした、何故、お札のモデルに?効用が無さそうな
新・千円札ですね。しかし、同じ医者なら、日本一、守銭奴の
名医がいるではあ〜りませんか?ブラックジャック。(自爆
このさい実在の人物にこだわる必要があるのかね〜?
今回の新札も偽造防止が目的らしいですね?
ブラックジャックの絵は真似しにくいですよ、手塚センセイの
キャラの中ではピカ一かと、ク−ルに描き過ぎるとサイボ−グ
みたいな顔になるし、オチャラケに描きすぎると又、似ない
サジ加減が微妙なキャラだと思います。




#3097 
アール・ケイ 2002/08/02 12:46
草葉の陰から嘲ってる

おはけんさまっ、こうなったら続きはおはけんさまに書いていただきましょう(笑)。

閑話休題
私、今朝新聞見て笑っちゃったのが、新紙幣発行というハナシ。
確かに紙幣の偽造が横行しているようだし、偽造防止の観点からもそろそろ切り替えかなあ
とは思っていました。いかにも小泉首相がやりそうな景気対策ではありますが、
大義名分はあるのでそんなに悪くはいえないことではあります。
それよか、図柄(肖像画)が何故明治人ばかりなんでしょうね。
皇族だと恐れ多い?(戦前はあったけど)或いは反対論を恐れて避けるのかな。
武士、武将だとヒトによって地方によって好きずきがあるということなのか。
明治、大正期でも軍人は避けられているし、政治家も採用が少ないですよね。
で、文人、学者が残るということなのでしょう。無難だから。
でもね、何故樋口一葉なんでしょう?(噂は前々からあったけど)
井上ひさしの戯曲にも取り上げられていますけど、
一葉は生活苦のなか家族を食わせていくために文章、小説を書くわけですが、
それではとても足らず、会うひと会うひと皆に借金を申し込んだそうです。
そんな一葉が五千円札になるだなんて、悪いジョークにしか思えません。
さぞや墓の下で彼女も嘲っていることでしょう。
野口英世だって、(諸説あるようですが)留学のために恩師、仲間から貰った資金を
一晩で散財したり、と、偉人にしてはやたら人間臭いひとだったみたいじゃないですか。
あまり紙幣のデザインにするのは似つかわしくないようにも思えますが。
(でも偉人伝には描かれなかったそういう側面のほうを私は愛しますがね)

いっそ、こんど発行されるような切手みたく、いま生きてる普通の個人の顔を肖像にしたら
どうでしょう。肖像になる権利を募集するわけですな、セリおとし形式で。
でもお前の顔の入った紙幣なんて使わねえ、とかいうヒトが出てくるかもしれませんけど(笑).

http://homepage1.nifty.com/arukei/index.htm


#3096 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/31 18:40
やっぱ変だから本能寺の変って名なのでしょう

徹夜城サマが慎重なかたであるのは分かりますが
信長の変死を不慮の事故と決め付けるのは、信長ファン、
本能寺の変ファン(どんなファンだろう?)の機嫌を
損ねるかもしれませんね。(笑
本能寺の変〜って名づけられるくらいだから、今も昔も
変な事件、永遠の謎でしょうね。
謎につつまれてるのは、秀吉が明智の残党狩りを
美濃・明智城陥落以後は不問にしたのもあるかもしれません。
明智の乱平定後の尾張の信長の本葬では
秀吉は柴田勝家に、山崎合戦後のオマエが首実検したのは
本当に光秀の首だったんかい?とシツコク突っ込まれたとか。



#3095 
徹夜城(暑さのために夏は大嫌いな管理人) 2002/07/31 12:29
うーん、規定路線なので…

>おはけんさん
いやー、これほど強い反応をされるとは予想してませんでした(^^;)。いやホント、申し訳ないんですけど、「ムロタイ」の最終回は予告編打った時点で「日本国王」というタイトルも含めて決定済みなんです。動乱の時代が終わり、絶対権力が出現したというところで終わると言うのはこのドラマの物語的必然でありまして、義満の死と「簒奪」の挫折を描く気は当初からなかったんです。まぁどのみち彼の「晩年」までは描くことになってしまうのですけど。
ガンダムに例えますなら、「Z」以後は作らないで美しく終わるものと受け止めてください(一部猛講義きそうなコメントだな)。

義満の死などに関しては世阿弥さんの解説で補足しようと思ってます。まぁそもそも僕は義満の死はやはり自然死(病死)だと考えてまして(病後の経過をみていて素人考えかもしれないけど「毒」はあまり感じません)。そりゃまぁ凄いタイミングという見方も出来ますが、歴史を見渡せばそんな死はいっぱいあるわけで、その全部を暗殺と疑ってかかるときりが無いとも思えます。義満が急死した当時においても暗殺の噂の一つも出てないところをみていても彼が誰かに殺されるとは当時の人も考えてなかったんじゃないかって気もしてます(孝明天皇毒殺説なんかは当時から言われてますからね)。
あえて義満を暗殺したい人がいたとしたら、それは斯波義将と義満本人の息子の義持かな、とぐらいには思いますが(笑)。あの時点で天皇家維持のために陰謀までめぐらす人間が朝廷側にいたとはとても思えないところがあります。噂される世阿弥にいたっては最大のパトロンである義満を殺すことになんの得もありませんし(というか結果的には義満の死の最大の被害者が彼かもしれない)。
ま、それに天皇・上皇にこそならなかったものの、実質的(いや、名実ともにかも)に義満は日本史上最強の絶対王政を達成しちゃったとも思えるんですよ。その時点が「ムロタイ」の終着点と当初から決定しておりまして、「延長戦」の話もあくまで50回でそこまで到達できなかったら、の話です。

いろいろとおはけんさんの主張に逆らって申し訳ないんですが(汗)、僕は「本能寺」についても別段大掛かりな陰謀は無かったという見方をしています。信長が義満のような路線をとろうとした可能性はかなり感じますけど、あの死はいわば「事故」みたいなものだと思ってます。
「JFK暗殺」、これはもう明白な陰謀でしょう。ただ映画「JFK」が推理したほど巨大な背景があったかというと僕は大筋では同意するもののもう少しスケールを小さく考えてます。



#3094 
橘樹 2002/07/31 10:09
今更KT関連の話題ですが

講談社の月刊『現代』7月号に「自衛隊「影の部隊」生みの親が綴る情報戦秘史 金大中事件秘話 私が拉致翌日に運んだ「角栄のメッセージ」」と言う記事が載っています。筆者は元自衛隊2等陸佐で自衛隊の「調査隊」「調査学校」設立に尽力した方で、1964年自衛隊退職後もビジネスの傍ら、情報活動に従事していたそうです。本名を書かれていますがここに書くべきかどうかわかりませんので書きこみません。この人の記事がどうにも腑に落ちないので書き込ませて頂きます。
記事の要旨
・事件の発生はマスコミで知ったが、私の関係していた情報組織では金大中を重視しておらず、あまり意識しなかった
・事件の翌日、韓国大使館のKCIA職員から大使館全体に退去準備命令が出た事を知らされる。私は首相側近にこの事を伝え、その後韓国側に主権侵害の問題が出ても両国の関係を悪化させることはしないという田中首相の意向を伝えた。それで最悪の事態は回避できた。
・いずれ金大中は姿を現すと考えていた。陸軍の将軍や情報機関の幹部と接触して情報交換していたが、殺害しなければならないほどの相手だと認識しているとは感じられなかったため。
・調査隊出身者のAが拉致に関わったといわれるが、彼は調査会社のビジネスとしてKCIAの依頼で金大中の周辺を調査した以上の関与はしていない。しかも調査費用を踏み倒された、その程度の関係だった。私はAとは何度か顔を会わせた以上の関係は無い。
・当時のKCIAはさほど優れた情報組織ではなかった。そんなところからこの事件は李厚洛KCIA部長か、一部担当者の暴走による事件と見る。
・後に金大中が語った飛行機は事実なのか?船底で簀巻きにされていた金大中に何故それが解ったのか、自衛隊機が飛んだなら誰の指示によるのか記録が残っているはず、照明弾も使用したら報告せねばならない。金大中は神に助けを求めた時に飛行機が現れたと語っているが、自分を神の加護を受けた人間だとアピールするためではないのか。
・後に金大中に死刑判決が出たとき、全斗煥は死刑にする意図は無かった。しかし日本が騒ぎすぎると内政干渉に屈した形になるのでそうも行かなくなる。日本政府は静観してくれというメッセージを鈴木首相に伝え、了承を受けた。それを知らない当時のマスコミの動きはかえって金大中にとって危険だった。
・映画『KT』は、時代背景や周辺の事実関係については良く調べているが真相に迫っていたかと言うと首を傾げざるを得ない。

このほかにも色々書いてますが、金大中とあまり関係無い話題なので省略します。納得できる部分もあれば、理解できない部分もあります。特に、殺害の意図は無かったという部分は分かりません、実質的に日本に亡命してた金大中を韓国に強制的につれていけば、それだけで国際問題になるでしょうに、例え一部の暴走とはいえそれぐらいは理解できるはずです。それぐらいなら海に投げ込んで知らぬ存ぜぬで通した方がまだましに思えるのですが。韓国につれていって一体何のメリットがあったのか、韓国史に疎い私には考えても解りません。最もこの記事だけで考えるのも危険ですが。韓国史に詳しい方、この記事をどう思われますか?




#3093 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/31 06:13
高山右近

三浦綾子さん著の『細川ガラシア』では、高山右近は
細川忠興の親友として登場する、細川玉子がキリシタンに
なったのは、高山 氏の勧誘でなった〜とゆう解釈がなされてた。
忠興は、とうぜん、ガラシアと右近の仲を疑い、
夫によるガラシアの外出禁止が始まる〜とゆうことになってた。
ただ、本書では、右近が美形で誠実で信仰厚く勇猛な武将とゆう
非の打ちどころ無い人物に描かれていて、これだったら
忠興じゃなくても嫉妬するかな?って感じもあったけど。



#3092 
貧乏神 2002/07/31 02:35
今太閤…ではないか

いやぁ、この人が出てこないと、知事選という気がしないというか…(ぉぃ)

>王位をかけた恋がらみ(史点)
「炎のランナー」という映画で、主人公の片割れが「わしは安息日には走らん」と
ゴネるのを説得する役どころで、プリンス・オブ・ヱールズが出てくるのですが、
これがパリ・オリンピックの話なので、時期的にいうと、ほぼまちがいなく彼こそ
後のエドワード8世なのですね。このお兄ちゃんがそうなるのかぁ、などと思い
ながら見ると、なかなか面白いものがあります。

>奥野さん
遅くなりましたが、コメントありがとうございます。地名とか人名とかのネタは結構
好きなので、たいへん参考になります。

旧ソ連の地名に関しては、以前リトアニアのバスの車内で「地球の歩き方」を見ながら
「あれがレーニン通りで、あれが…」などと言っていると、地元の青年が「新しい
地名を教えてやる」と、その地図にいちいち書き入れてくれた印象が強かったので、
ちょっと気になってたのでした。きっと、非ロシア系の各国では地名の更新は結構
行われているけど、ロシアでは(ベラルーシ、ウクライナはどうでしょうね)比較的
地名を残してるということでしょうか。




#3089 
おはけん 2002/07/31 01:11
恐縮ながら大ショック(苦笑)

>ムロタイ関係。
 徹夜城様、義満晩年まで行かないなんて、何て勿体ない!
 というか、これを聞いた瞬間、おはけんは、大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大・・・・・・・・・・・・・・・・・・ショックでガックリきて寝込んでおります(苦笑)(けど、ホントにこの「大」の数くらい衝撃・・・・)。
 
 おはけん説(というか好み)だと、義満くんを描くのなら、晩年を描かないと意味がない=それこそ泡のないビール、イチゴのないショートケーキ、穴のない5円玉(爆)、ア・バオア・クー陥落の日の描写のない『ガ○ダム』、そして『なにわのことも・・・』や『秀頼たのむ・・・』シーンの無い竹山・秀吉・・・・・・何よりも
「本能寺シーンの無い信長一代記」のようなものに匹敵すると思います。
 おいしい話がざ〜くざく・・・・なのに・・・

>もしうまくいかない場合は「延長戦」とかやっちゃうかもしれません(笑)。
 是非、是非、延長戦といわず、延長引き分け再試合(爆笑)でも、プレーオフでも、天皇杯(言い得て妙)でも、何でも良いですので、本当に是非!北山第行幸(by後小松/義嗣が東宮格の着席)や間もなくの発病・謎の頓死、義嗣没落・敗死・・・を描いていただけないでしょうか?

 どうか、どうか、どうか・・・・思いとどまっていただけませんでしょうか?
 そのためなら、たとえ、何ヶ月でも何年でも(年単位でも)続編はお待ちしますので。。。。(苦笑)

 すいません、勝手にご負担も考えないレスして。
 けど、「義満急死」と「本能寺」「JFK暗殺」は、『巨大な陰謀発動』を感じざるを得ません(毀誉褒貶はさんざんありますが、少なくとも「この部分」に限っては、おはけんは、井沢説支持者)。
 「本能寺」でも、大河で@つまらない(ほとんど後世想像捏造?に近い)怨恨説とか、A漠然たる野望説ばかりで描かれ、一度も黒幕説で描かれていない(私の知る限り)のに長年不満蓄積してましたので、できればスカッと・・・・・




#3088 
徹夜城(巨人・西武独走にプロ野球に関心が失せた管理人) 2002/07/30 23:47
久々に三週連続で二つとも書いてますな

>奥野さん
「ムロタイ」「史点」ともどもコメントどうもです。
「義満」の名を天皇が決めた形になっている(正確には幕府の求めに応じて二案を朝廷が出し幕府側が選び天皇が与える儀式をした)というのは僕も今回のために調べて初めて知った事実です。大河ドラマ「太平記」だと死ぬ間際の尊氏が義詮にねだられて生まれる前に決めちゃってましたけどね。「義詮の義に、思いが満ちるの満じゃ」とか言って(笑)。もう一案の「尊義」は「尊氏」と「義詮」のセットなんでしょうねぇ。それも安易だな。
他に天皇が名前を決めるケースがあったかどうかは僕は知りません。「尊氏」の「尊」が後醍醐天皇の名前「尊治」の一字を与えられたものというケースは有名ですが…。

義詮が典型的な「目立たぬ二代目」なのは確かでありまして、しかも次から次へと襲ってくる政変に翻弄されっぱなしの治世でした。古典「太平記」も「人の言葉に乗せられやすい人」と酷評してますし、政治的能力に関しては批判ばっかり残ってますね。だから「頼之を管領にしたのが唯一の業績」などと陰口を叩かれてしまうわけです(^^;)。
ただねぇ、僕も書いていて思いましたが、いい人なんですよ、義詮って(笑)。この「いい人」ぶりってのはやはり父親の尊氏譲りなんじゃないかと思えます。尊氏ももともと名門の御曹司で多少の創業の苦労はしてますが、義詮はさらに苦労知らずの育ちだったんじゃないかと。あそこの解説で書いた「正行の墓のそばに葬れ」と義詮が言い残したというエピソード、僕も結構好きでしてね。ドラマ「太平記」の音楽を担当した三枝成彰さんはこの高野山の敵味方の墓が一緒に並んでいる光景に思いをいたしてあのドラマの主題曲を作ったとか書かれてました。

苦労知らず…という点では三代目の義満なんかもっとそうであるわけですが、三代目にもなるとそれがかえって突き抜けた自信になってくるのかも(家光なんかそうですね)。これから義満くんがどう成長していくのか、その辺もご注目いただきたいところです。

アレクサンドル2世って確か暗殺されちゃった人ですよね。そうか、彼も人気が高まってくるのか…ストルイピンは日露戦争とかロシア革命関係の本や映画などでお目にかかりますね。
グルジアにからめてチェチェン武装勢力の話題をお書きになっておられましたが、一部報道でこのチェチェン武装勢力の中に日本人兵士が紛れているとの話が流れています。ロシアでは流れているでしょうか?

話は飛びますが、例の青森県の大富豪(?)、「羽柴誠三秀吉」氏が正式に長野県知事選挙に立候補するそうで。で、ついに本名の「誠三」を外して「羽柴秀吉」の名でエントリーするそうです。
それじゃあそのうち「織田信長」とか「坂本竜馬」とかいった人気歴史人物名の候補者が乱立する可能性もありますね(笑)。



#3087 
奥野 2002/07/30 16:51
唐突にまたロシア話などを

ちょっと前のニュースで、モスクワ・クレムリン近くに皇帝アレクサンドル2世の銅像を立てるという話を聞きました。といっても新たな建立ではなく、革命前まであったものの復活だそうで。アレクサンドル2世はいわゆる農奴解放の推進者として知られ、日本の高校世界史教科書あたりにも顔を出していることが多いかもしれません。これ以外にも、行政や司法面で一連の改革を進めた皇帝です。
今後、農奴解放の記念日を国の祝日にするという話もあり、どうもプーチン政権はアレクサンドル2世の顕彰に務めているようです。ピョートル大帝と同じく、「上からの改革」の実行者を誉め称えたいという意図が見え隠れしていますね。ピョートルやアレクサンドルほど有名ではありませんが、ストルィピン(帝政末期の首相。ロシアの近代化に務め、農村改革を進めようとした政治家)の人気が高まっているのも同じような理由だと思います。

>徹夜城様

室町太平記と史点、いつもながら楽しませていただいています。複数のテキストを平行してこなす徹夜城さんのエネルギーには、毎度頭が下がる思いです。

話の本筋とは関係のないエピソードですが、「義満」の名が天皇にもらったものだとは初めて知りました。主君からの一字拝領だけでなく、こういうパターンもあったのですね。歴史にIfはないとは言え、「尊義」だったらまるきり違うイメージだったことでしょう。彼にはあまりにも「義満」という名前がはまっているように思うので。他には朝廷に名前を決めてもらった人っていたのでしょうか?
僕は義詮という人についてはあまり知らなかったのですが、意外に若死に(しかも急死)だったのですね。史上、「地味な2代目」というのは作られたイメージで、「実は名君」パターンが多いようにすら思っていたのですが、室町太平記を読んでいると実際に影が薄く感じられるのが何とも気の毒です。

それから、史点でもお書きになっていたとおりグルジアはスターリンの故郷です。「スターリン」というのもペンネームで、本当の名字は「ジュガシヴィリ」というよくありがちなグルジア姓だったのですけどね。しかし原人の骨は出る、今さらながらの「皇女アナスタシア」は出現する、チェチェン武装勢力(数日前にも200人規模の部隊がグルジアから越境してチェチェンに入ろうとした)は隠れているで、本当にブラックボックスみたいな国です。アブハジア紛争もずっとくすぶりっぱなしだし。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6218/


#3086 
ホリ-・ハンタ- 2002/07/29 12:50
来年のNHK大河の悪役集団として?

孤独な剣士の宮本武蔵の、中年以降、彼の仕官を妨害するとゆう
さしずめ、子連れ狼・拝一刀に立ちはだかる裏・柳生一門のように
NHK大河ドラマでは描かれちゃうのかな?熊本・細川一家は。

でも結局、武蔵が晩年、彼を召抱えたのは、熊本・細川家では
なかったですか?両者は、如何にして和解したのか?

それと、妻を軟禁して、又、その子を斬ってまでした引き替えに
キリシタン禁令の弾圧から、お家を守ろうとした細川忠興も
移封された地が、天草四郎を生んだ、キリシタンが多かった熊本
とは、皮肉な運命ですね?島原の乱とゆうのは、長崎もそうですが
熊本も影響が大きかったそうで、熊本の地は、細川の前任者・佐々成政
が一揆を平定できず、秀吉に切腹を命じられた〜とゆう
反抗心の強い制御の困難な土地柄だったそうで、忠興=名君説も
熊本を上手く統治したところからきているのかもしれませんね?



#3085 
徹夜城(今度は史点を執筆中の管理人) 2002/07/29 11:18
風雲・長野県知事選

…風の噂に聞くところでは、あの羽柴誠三秀吉氏も出馬するそうな…
県内初の女性弁護士やら元産経記者やら慎太郎都知事の子分やらが出馬してにぎやかになってきたと思ったら、一気に選挙の品位が下がったような気がするのは気のせいか(笑)。

>ムロタイ関係。
アール・ケイさん、おはけんさん、エールどうもです。
しかし「室町滅亡まで太平記」とか「細川太平記」なんて私を殺すような企画をブチあげんでください(^^;)もう頼之一人でいっぱいいっぱいなんですから。
ご期待に添えないようで申し訳ないんですが、実は当初より「ムロタイ」では義満の晩年まではいかない予定になってます。というのは、あくまでこのドラマは「南北朝動乱の終焉」をテーマにしているところがありまして、その帰結として義満が「日本国王」になってしまうところで終わりとする予定でいるんです。皇位簒奪は形としては出来なかったものの実質的には達成しちゃったという見方も出来ますんで、それが完成した時点が「ムロタイ」の終着点だと見定めてます。今川貞世に最後の出番が来る「応永の乱」までは確実にやる予定ではいます。
っていうかそろそろ心配になってきているのはこのペースだと「頼之一代記」で50回使い切っちゃう可能性が出てきていること(汗)。まぁこの企画はもともと「頼之一代記」だったんで無理も無いのですけど(仮想ドラマにするとは思ってもみませんでしたが)、「明徳の乱」で終わってしまうのも半端な感じがしたので義満が日本国王になるまでくっつけてみたんですね。しかし話の展開を急がないと50回のうちにそこまで到達するかどうか(^^;)。もしうまくいかない場合は「延長戦」とかやっちゃうかもしれません(笑)。

>秋山如雪さん
お久しぶりです。瀬戸内海紀行はこれから拝読します。
実は僕も3月末に瀬戸内に出かけてまして、旅行記を書くことになってるんですけど、なかなか掛けませんで(泣)。1ページ分は書いたんですけどね。なんてったって数年前の中国旅行記をまだ完成させていないような奴なんで。
瀬戸内海は僕もその3月の旅行で初めて行きました。やはり聞くのと見るのとでは大違い。「ムロタイ」の構想上でも大きな刺激になりました。

>いきなり地動説
唐突に話題を投げ込みますが、いま「銀河の時代・宇宙論博物誌」という本を読んでおります。宇宙論の歴史を古代から現代までまとめた大作でなかなかに面白い。その中であのコペルニクスについてルターが激しく批判していたという話が出てきて、「ほう、なるほど」と面白がっておりました。
ルターと言えば聖書中心主義であるわけですな。そのルターがコペルニクスの説を「馬鹿げている」と罵倒しているのですが、その根拠として旧約聖書におけるヨシュアが「太陽よとまれ」といったエピソードを引っ張ってきているのです。
えーと、旧約聖書に詳しくない方のために補足しますと、これは映画「十戒」などで有名なモーセのあとの話でして、パレスチナの地の征服を進めるイスラエル人たちの戦いの最中に勝利寸前に日が沈みそうになるんですな。そのとき指導者のヨシュアが「太陽よ、とまれ」と神に祈る。すると止まるんです、太陽が(笑)。コペルニクスの地動説によりますと、これは地球の自転が止まったことになるわけで、ルターは「ヨシュアは“太陽よ、とまれ”と言ったのだ」と怒ったわけです(笑)。
この本、かなり難しい話も入ってましたが、古代ギリシャのアリスタルコスがなぜ地動説を思いついたのかなどにも言及があり、なかなか楽しく読んでます。



#3084 
おはけん 2002/07/29 01:35
16万おめでとうごさいます。

 先刻は失礼しました。お手数かけてすいません。
 それと、16万アクセス、脅威の迅速突破、おめでとうございます。私、実は切り番狙ってたんですが早い早い・・・・また次を・・・

 それはさておき、私も義満の晩年の「野望」楽しみです。特にナレーター世阿弥氏との絡みが・・・(この辺りは、井沢元彦説にかぶれている私←全部盲信支持者じゃないですが、信長、義満研究検討については結構説得力ありと思うので)
 あと、「またの機会に」是非、その後の細川氏=「細川・サーガ」(爆)をず〜っとおっていただければ幸いです。
 後になっても、勝元や幽斎・忠興はもちろん、晴元、政元ら面白い面々勢揃いですし、三好長慶(あの小笠原の子孫のリベンジ?)とか松永弾正久秀も大好きなので・・・



#3083 
アール・ケイ 2002/07/29 01:08
速報!『室町太平記』好評につき、2年延長決定!室町の本当の終わり、幽斎細川藤孝の死までを全147回で描く!(笑)

…とあって欲しいぐらいですな(笑)。それともいっそ細川首相の時代まで描きますか…
ま、それじゃあ『細川太平記』になっちゃいますね(笑)。
この先は、義満の晩年をどう書かれるのかなあ、といろんな意味で楽しみにしております。

ところでその細川元首相ですが、細川家直系の子孫だそうですが、血はずっとつながっているのでしょうか?(検索してみたんですが不明なんです) 江戸時代って、よく徳川家などから養子を押し付けられたりしてるじゃないですか、どの家も。その辺が気にかかったりしています(別に養子でもいいんですが)。

>細川忠興は来年のNHK大河に出る?
はい間違いなく出ます。またシナリオの鎌田さん次第ですが、細川家の内紛(といっても家を割るほどではなかったらしいですが)などにも触れる可能性があるようです。

http://homepage1.nifty.com/arukei/index.htm


#3082 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/29 00:35
細川忠興は来年のNHK大河に出る?

確か、宮本武蔵が倒した佐々木小次郎は熊本・細川で
禄を召してたんではなかったかな?しかも、その後
武蔵が職に困ったのは、細川の妨害があったとかなんとか。
未だ在命でしたですかね?忠興公は。

細川夫婦宅の木から落ちた植木職人を忠興が斬ったとゆう話しも
真偽は定かでは無いですしね、ただ、光秀謀反直後の
玉子(ガラシアの本名)を丹後に匿い、秀吉の明智狩りから
全力で守った点では、忠興は嫉妬深いが愛妻家でもあったのでしょうね。
それと、秀吉にナンパされ落ちなかった武家の奥方は
細川ガラシアだけだったとか。




#3081 
秋山如雪 2002/07/29 00:25
瀬戸内海は素晴らしい

リンクさせていただいている「心を開いて」の秋山如雪です。
ちょっと宣伝になりますが、夏休みを利用して瀬戸内海に行ってきました。
その時の写真をホームページにアップロードしましたので、お暇な方は
見にいらしてください。
因島の水軍城や大三島の大山祇神社は予想以上に素晴らしいところでした。
あと、尾道の坂や海の写真も載せてあります。
あの辺りは本当に島が多い土地ですね。
瀬戸内海の魅力に取り付かれたので、将来は瀬戸内海沿岸に住みたくなりました。
それにしても鶴姫はもはや観光のために利用されていますね。

http://members.tripod.co.jp/josetsu/toppage.html


#3080 
おはけん 2002/07/28 22:13
ごめんなさい!訂正

 下のレス、誤送信なので、取り消して下さい。押し間違えすいませえん。
 その下のレス、「帰京」×→「棄教」○です。
 失礼しました。

        ↓



#3078 
おはけん 2002/07/28 22:11
ムロタイここまでお疲れさまです。

 思えば遠くに来たもんだ・・・ではありませんが、やっとここまで、お疲れさまでした。これから先「人跡未踏のエリア」(?)の開拓をよろしくお願いします。
 なお、超超亀レスですが、わたし的には頼之の配役イメージは、いまだに誰が良いか定まらないところですけど、清氏はやはり、永澤俊矢氏なんかいかがでしょうか?(『花の乱』畠山義就の印象が強固。ちなみにおはけんは『花の乱』はだいきらいなんですけど・・・・(苦笑)。

 そろそろ、世阿弥の次の「仮面」が気になってきましたが、予想は「秘かに」しておきます(笑)。

 ところで細川忠興が植木職人?らを斬り捨てた話を、嫉妬だとか性格的問題点云々だという議論がされていましたが、キリシタン関係説は、なりたたないんでしょうか?
 江戸時代ほど厳密に適用されていませんでしたが、一応、秀吉の禁教令以後、公式にはキリシタンは御法度でしたので、忠興がガラシャに帰京を迫る会話を何度かし、彼女にそれを拒まれる・・・という「お家の機密」場面を聞かれたため、口封じに斬ったのではないか?という説です。
 別に、絶対これだという決めてはないですけど、嫉妬や性格的問題同様、十分「あり得る理由」ではないでしょうか。ちなみに私が別に言い出しっぺではなく、永井路子・杉本苑子両氏の文庫本でも紹介されていた説ですが。。。。。。。。。




#3077 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/28 10:57
熊本・細川家に明智の血は続いたのか?

三浦綾子さん だったか?著作の『細川ガラシア』では
忠興とガラシアの間には子宝に中々恵まれず、第一子は
確か、側室が産んだ子だった〜とゆうような記述が。
その後、ガラシアは男の子を1人だけ産んだそうで、
この子・熊千代が熊本・細川氏での唯一の明智の血とゆう
ことになります。ただ忠興が熱烈キリシタン熊千代を
斬った〜とゆう説が本当とし、斬られた時点で、当人に
配偶者、子息が無ければ、熊本・細川での明智の血は
絶えたことにならないかな?



#3076 
徹夜城(母校野球部が準決勝まで進んでいた管理人) 2002/07/28 09:45
地方大会も終わり

高校野球の地方大会も終盤、あるいは終わり、スポーツコーナーへのアクセスもめっきり減ってまいりました。おかげで(?)ギリギリのところでカウンタはこの歴史コーナーのほうが逃げ切った形であります。でも秋の大会で抜かれるだろうとのもっぱらの噂。

>細川家のひとびと
相良さん、回答どうもです。そうですか、幽斎さんはやはり頼有の子孫なんですね。そう知ると仮想ドラマで彼らの相手をしている僕にはなんとも愛着がわいてくるから不思議ですね(笑)。
僕も小学から中学にかけて系図に凝っていた時期がありました。歴代天皇名がソラで言えたというのがこのころ(笑)。高校のときだったかな、戦中育ちの先生が「むかしは全部覚えさせらえたんだぞぉ」と言いながら歴代天皇を暗誦してみせてくれたことがありましたが、残念ながらその先生が2、3代飛ばしていることに気づいた俺ってなんなんだろ、と思ったりしたものです。今でも神武から後鳥羽まではストレートに言えますね。ありゃもう九九みたいなもんでリズムで覚えられるんです。

細川忠興が妻のガラシャをちょこっとでも目にした人を即座に斬り捨てちゃうという話は、TBSドラマ「関ヶ原」でも出てきてましたねぇ。そういや確かに細川元首相には明智の血も流れているわけですねぇ。
そういえば僕は未確認ですけど、映画「利休」(三国連太郎主演のほう)に細川幽斎役で細川護煕氏が出演していたらしいですね。細川政権誕生時、この映画撮影時の写真がどういうわけか海外マスコミに流れ、一部で志村けんのバカ殿様みたいなチョンマゲ姿の護煕さんのお姿がそのまんま掲載されたりしたそうで。あわてて日本側が訂正を求めたところ、「日本では首相就任儀式などではこういう格好をするんじゃないかと思って載せた」との回答があったそうで。
まぁそういうことってあるだろうな。あのオスマン=サンコンさんだって日本に赴任が決まったとき「チョンマゲ結って刀を差さなきゃ」と思い、チョンマゲは無理かと考えて刀は本当にパリ市内探し回ったそうですから。



#3075 
リリス 2002/07/27 21:16
ありがとうございます

 管理人様、ご返答ありがとうございます。私はどうもああした論調をみると、マジに怒ってしまって、管理人様のように冷静になれなくていけません(笑)
ご紹介の戦史研究サイト見てみます。それからへんてこ歴史本の新しい記述、楽しみに待っております。管理人様の知識には感心しております。これからもがんばってください。



#3074 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/27 12:35
口より先に手が出る?細川忠興

丹後で一番の暴れんぼう〜とか言われた一色義定つまり自分の妹のムコ殿
を妹の目の前で瞬時に切り捨てたようだから、細川忠興とゆう人物も
相当えぐいね。

ただ、ガラシアへの嫉妬にかられ、忠興に間男と誤認され斬られた
者も相当いたようで、かなり、キレたら恐ろしい君主のようですね?

ただ、彼は、また、熊本・細川氏の開祖であったし、
名君とゆう顔と暴君とゆう顔と嫉妬魔とゆう顔、いったい
いくつの顔があるのか、また、家康のキリスト教禁令に
従わなかったガラシアが産んだ子・熊千代を斬ったのは
実の父・忠興とゆう説もある。



#3073 
原田 実 2002/07/27 10:36
幽斎の切り札

 細川幽斎は、古今伝授の継承者だったため、敵軍に包囲された際に、軍使を介して「わしを殺すと古今伝授が絶えるぞ」と伝えたというエピソードがありますね。もっともこれは古今伝授を権威づけるための宣伝としてクローズアップされただけで、さまざまな水面下の駆け引きがあったとは思いますが。
本能寺の変直後、光秀が幽斎に出したという「主上亡き今、我らの息子が助け合って天下を治めてはどうか」という内容の書簡も細川家に現存していると聞いています。光秀は幽斎を同盟相手とみなしていたが、老獪な幽斎に結局は翻弄されたという面もあるように思われます。細川元首相の血筋もさかのぼっていけば、ガラシャを介して明智につながるわけで、細川首相突然の辞任の際、週刊誌に「祖先の光秀以来の裏切り」などとかかれたこともありました。

http://www.ocn.ne.jp/


#3072 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/27 02:57
丹後での細川

細川氏は信長より丹後の平定を命じられたそうです。
ただ、明智が丹波の平定にてこずったのに比べるとサックリと
やってしまったようです、丹後の既成領主・一色氏の若旦那義定へ
藤孝が娘を嫁に出したとかで姻戚を結びましたが、
一色が織田に服従しないので、義定を細川の館へ招待して
接待の席で義定を忠興が斬り、隙に乗じ、一色氏を
滅ぼしたとかゆう話しを聞いたことが。



#3071 
相良義陽 2002/07/27 01:43
久しぶりに来るともう……

ここ、流れるのが早いですなあ。
>細川幽斎
あちこちの系図をノートに書き写して、時々見てはにやついてる私にお任せあれ(笑
幽斎はその前の和泉守護、細川元常の弟晴貞の子供に当たるようです。
彼の子の忠興が肥後熊本藩主になるわけですが。

>本能寺と比較的近い場所に本拠があった細川 氏が
>謀反の際、何のアクションも起こさなかったのは、後で、
>よく、明智狩りの陣営に詰問されなかったものだと思います。
本能寺の変の時、幽斎は丹後にいたのではなかったかと思います。勝竜寺城は確かに細川の居城(本拠は本来和泉ですが……)ですけど、どれほど兵がいたんでしょう。
明智光秀は秀吉のいない長浜城すら落としたのですから、抵抗できたかどうか。



#3070 
徹夜城(先日SW2を見てきてSW4を復習している管理人) 2002/07/27 01:03
名門細川家

まず肩書きのところに書いた話ですが、先日「スターウォーズ・エピソードII」見てきました。アシモフと映画のところにコメントは昨日のうちにしましたが。
その後改めて「エピソード4」(つまり第1作)のLD引っ張り出して復習してみました。まさに「帝国の学習」「ジェダイの復習」(笑)。
今度の「エピソード2」で「4」に出てきたオーウェンおじさんの若かりし日が出てきて、「4」と全く同じ家のセットが出てくるのにはちと感動。「4」見返してみると最初の方のオビ=ワン(アレック・ギネス)やオーウェン夫婦の会話にいろいろと想像させるものがあって面白いですな。しかしオビ=ワンがあのロボットたちと初対面だとしか思えないセリフを吐く点はどう処理するつもりなんだか。

さて、前フリが長くなりましたが、ホリー・ハンターさんが書いておられる本能寺関係を。ただ僕はその番組は見てないし、本能寺の背景うんぬんもあまり関心がない(というかあまり深い背景は無いように思ってまして)のとで本能寺自体にはコメントできないんです。
細川藤孝(幽斎)についてご質問でしたので、お答えしましょう。もちろん「太平記」および「ムロタイ」でおなじみの(笑)足利一門名流の細川家の一族です。系図をたどってみますと、頼之の弟の頼有(「ムロタイ」では出ては来るけどいまいち影が薄い)の子孫の和泉半国守護家の系統になりますね。ただ、幽斎自身は養子で入っているようでして、彼自身がどこの生まれなのかは調べてみないと分かりません(戦国関係は強くないモンで)。どなたか知ってる方、お書きください。
なお、この幽斎の系統が熊本藩主となり、のちに細川護煕首相を生み出すわけですな。室町以来久々に首相を出したんだが…(笑)。なお、もう半分ぐらい書いちゃいましたが次回「ムロタイ」で頼之さん首相もとい管領になりますからね、と再び宣伝予告。

>リリスさん
「戦争論」については個人的には結論出してます。「ヘンテコ歴史本」では扱いません。
もちろんあの本がいい加減なことを言ってるトンデモ本であるとは認識してますけどね、あそこでとりあげて笑いものにするにはちと重過ぎるのですよ、本自体の重量ともども(笑)。それにあそこで展開される歴史観は小林氏自身の主張と言うよりその周囲にいた人たちの主張をそのまんま漫画化してるわけでしょ。だからあまりこの本を正面から付き合おうとは思ってないんです。

小林よしりんに関しては、むしろ遠くから見てその思想遍歴を面白がって見ている、ってスタンスを僕はとってます。昨年辺りから「つくる会」の連中と大喧嘩して飛び出し(驚いたことに正式離脱はつい先日だったみたいですが。手続き上とはいえ)、悪口雑言を右派論客に向かって浴びせているさまは「いつか来た道」をまたやっとるな、と興味深く見ています。
「てこ歴」でとりあげるなら「つくる会」結成時の「革命がはじまる」とか何とか言う共著本のほうが笑えるかもしれません。その後凄まじい内紛を起こした方々が一同にそろって仲良くしている姿が今となってはほほえましいです(笑)。
「戦争論」に対する事実関係のツッコミは、山本弘さんも紹介されていたのでご存知かもしれませんが「戦史研究所」サイト(http://homepage1.nifty.com/SENSHI/)様をご参照ください。あそこの「+α」さんはこちらにも以前時折ご登場いただいておりましたが…。

「国民の歴史」に関しては一時やろうかと思ったんですけどね、面倒なんでほったらかしといたらブームが過ぎてしまいまして(笑)。そういや次は「国民の芸術」とやらが出るそうですな。
「へんてこ歴史本」は実は新作製作を進めてはいます。イギリス渡航前にかなり進めていたのですが、帰国後パタッととまっちまいまして。なんと二冊一挙公開を目指しているのですが、こちらはかなり笑える素材を用意している(つもり)ので気長にお待ちください。



#3069 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/26 23:54
細川 藤孝

定説では、細川は、明智の謀反の際、光秀の援軍要請を蹴った、
しかるに、本能寺と比較的近い場所に本拠があった細川 氏が
謀反の際、何のアクションも起こさなかったのは、後で、
よく、明智狩りの陣営に詰問されなかったものだと思います。
細川藤孝は、よほど外交手腕が凄かったのか?
本能寺の変で、もし、細川軍が信長救出に動いていたら
細川は大損害を被ったでしょうが、また、光秀も
そう簡単に信長を倒せたでしょうか?

ところで、細川藤孝って太平記のメインキャラ細川氏の子孫なんですか?



#3068 
リリス 2002/07/26 22:28
「戦争論」は?

管理人様にお尋ねします。へんてこ歴史本のコーナーで、小林よしのり氏の「戦争論」は扱われないのですか。(ちなみにそのコーナーにも書き込みをいたしました)
「中国の歴史は秦の始皇帝から2000年程度」なんて・・・。それでは「史記」に書かれた時代の大部分が中国の歴史ではないことになってしまう(笑)そんな馬鹿なことが、と思うのですが。(他にもおかしな点はたくさんあるでしょうね)



#3067 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/26 06:22
中間管理職・明智光秀

脇田 修 氏の著『織田 信長』によれば、
明智光秀の織田政権での地位は、近畿方面の与力とゆう肩書きであった
そうである、光秀の直下大名には親友の細川藤孝、松永久秀、筒井順慶
の3人が与力を支える体制となっていたようだ、
しかし、松永は3回も反乱したし(最初の2回を不思議に信長は許した)
筒井は松永と大和の領有を巡り度々、戦った、一時、尾張の譜代
原田直政が大和守を兼任することでお茶を濁したが原田が戦死すると
また筒井は光秀に大和の譲与を迫った。
親友の細川も
四国の覇権を巡って三好と長曽我部が対峙した段階で
明智は長曽我部を擁護、細川は三好に肩入れし、
信長も三好を肩入れしたがってた。
光秀は、筒井や細川とは、気まずくなってたようだ、謀反の直前。



#3066 
徹夜城(夏期講習態勢に突入した管理人) 2002/07/25 21:25
私も予算不足で(^^;)

>中西さん
お久しぶりです。この手の話題ではぜひおいでいただきたいところでした。この掲示板のいいところは各ジャンルの専門家が多種多様にそろって見ておられるというところですな。
東洋文庫の『乱中日記』は僕もぜひ買いたいと思いつつ、その値段でついつい控えてしまい、安いトンデモ歴史本を買ってみたりしてしまっています(笑)。東洋文庫ではピントの『東洋遍歴記』も買おうと思って買ってないなぁ。

学研M文庫のご著書はノーマークでした(^^;)。ここの書き込みを拝読してから書店で立ち読みしてみました(すいません)。壬辰戦争の私論というところに興味がありまして…とりあえず「秀吉はいつから大陸征服を考えていたのか?」というところには目を通しました。時間的都合でそのあとは読んでないんですが…あ、やっぱ買いますね(笑)。

「武士(ムサ)」は僕もぜひ見てみたい。そういう史実無視ハチャメチャ時代劇大好きですから(笑。もちろん史実無視も無視の仕方による)。元明交代のくだりはいま自分の「仮想大河」で扱っているところですしね。
どうも中西さんご紹介のあらすじを見る限り、「グリーンディスティニー」など中国ではやりの武侠モノに西部劇のノリを加えた感じなのか…韓国の時代モノといえば超古代の部族間抗争か何かをテーマにしたファンタジーっぽい作品も最近あったらしいですね。



#3065 
リリス 2002/07/25 20:04


 中西様ありがとうございます。大きい本屋さんならありますかねー。
そうですよね、日露戦争当時、日本だけでなく東アジアのためロシアと戦う、という意識があったにせよ、朝鮮側から見れば侵略者の子孫なのですからね。日本の軍人の不思議な感性。でも日本には水軍の名将がいなかったから仕方ないのかな。まあ、当時の日本人もそれなりに大変だったのだと思っておきますか。一応、朝鮮半島を白人植民地支配から守るという面もなくはないから、李舜臣の霊も助けたまうと考えたのでしょうか。




#3064 
中西豪(拙著学研M文庫『史伝鍋島直茂』でも壬辰戦争私論はちょいと展開) 2002/07/25 11:51
『乱中日記』、韓国武侠映画『武士』(ムサ)など

後世、常勝不敗、無謬の聖将とされてしまった感のある李舜臣ですが、その実像を知りたいのであれば、本人の陣中日記、『乱中日記』を一読されることをお勧めします。きわめて魅力的な人物像が見えてきます。平凡社東洋文庫より三分冊で出ていますが、東洋文庫の常、高価なのが辛いところ。
この『乱中日記』にしても、十八世紀に子孫の手で『忠武公全書』(李舜臣の諡号が忠武)が編纂された際、その人間的な側面、嫉妬や弱音を吐露した部分は削除されてしまっていますが、幸い自筆の草本が残っていて、戦前朝鮮総督府の手で『乱中日記草』として活字本が出版され戦後も復刻されています。国史畑の豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争研究の権威、北島万次氏の翻訳は、草本にもあてっているはず、です(実は買ってもないし、読んでもいないのです。刊行当時貧乏だったし、原本はすでに持っていたもので)。
しかし、「バルチック艦隊に勝たせたまえ」と祈られた泉下の忠武公、倭奴はなんと無邪気で能天気な連中であることよ、と呆れたことではありますまいか。徳川幕府が朝鮮との国交修復を急いだのも、「太閤が屈服させられなかった朝鮮が朝貢してきた」という体裁を諸大名に見せつけて自己の権威を高めるためだったし、そのためには対馬の宗氏へは「四の五の言っていると、また攻めて行くぞ、と脅せ」とまで言っているし。その対馬も、国交が回復しなければ対朝鮮貿易も再開できず干上がってしまうから、国書の偽造・改竄も厭わない。後世「誠信之交」を掲げ誠心誠意日朝友好に尽くした対馬の外交官雨森芳洲も、その出発点は「最近は壬辰倭乱の記憶も薄れて、こっちが脅してもぜんぜん怖がらない」から、これからは誠意を見せて粘り強く交渉を進めないといけないな、ということだったし。いかんいかん、昨今あんまり大きい声では言えないことばかりですな。

ムックの頃より欠かさず購読している男気映画雑誌『映画秘宝』最新号、「亜細亜活劇映画通信」という連載が始まりましたが、その一回目が韓国映画の「武士」。2001年のTOKYO FILMeXでオープニング上映されたり本国では大ヒットしたり、と噂には聞いていたのですが、うーむ、こんな内容だったとは。以下、記事より梗概を引用。

明と元の政権交代が進む中国。親元派のテロで明の使者を殺してしまった高麗は、和解のための使節団を派遣する。しかし使節団は元からスパイ容疑をかけられて砂漠に流刑にされてしまう。一行はたどりついた砂漠の街で元軍に捕らえられた明の皇帝・朱元章(ママ)の娘である芙蓉姫と出会い、これを急襲して助け出すことに成功。元軍は姫を奪い返すために軍をあげて追撃を開始する。
高麗人たちは元軍の襲撃をかわしながら明軍の待つ黄河の北岸にある都城へと到着したのだが、そこにいるはずの明軍はすでに退却した後だった。姫を渡せば他の者は助けるという使者を斬り捨てた高麗人たちは、廃墟となった古城で元の大軍を相手に絶望的な戦いを開始する。

うーむ、元末明初、麗末鮮初「秘史」といったところですか。時代考証的にはおかしところが多多あるようですが、とにかくアクションが凄いらしい。あと、残酷描写も。目次の惹句も「『武士』は老若男女バランバラン」ですもの(笑)。
日本公開は未定。留学している後輩に、DVDを買って送らせますかな。



#3063 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/25 06:32
本能寺の変

昨夜、NHKで本能寺の変を推理?する番組をやってました。
新たな古文書が出たとか〜越中魚津城の越後・長尾氏の家臣・直江氏宛てに
光秀が謀反前後に出したとされる〜馳走を匂わせる書状。

ところで、本能寺とは、山陰街道と西国街道の分岐点にあったようですね?
本能寺から山陰街道を北西へ約15キロ行ったところが光秀の出撃地点の
亀山、本能寺から西国街道を南西へ約18キロ行ったところが
細川藤孝の本拠・勝竜寺城、
ちなみに本能寺の東へ6.5キロほど山を越えると宇佐山城、
信長は宇佐山城へ逃げ込め無かったのでしょうかね?




#3062 
リリス 2002/07/24 20:45


 管理人さま、ホリー・ハンター様ありがとうございます。
 朝鮮通信使については、漫画「美味しんぼ」にも載っていたのです。韓国人に対して偏見を抱く日本人男性を主人公・山岡士郎が例によって料理をとおしてたしなめるのですが、そのときこの話が出てくるのです。その中ではかなり両国が友好な関係であった(かつ日本は朝鮮の文化を尊敬していた)ように描かれていたのですが。う〜ん、現実ってこんなものかな。
あと、私は中国なら唐の時代が一番好きですね。大唐帝国、と呼ばれるのがふさわしい時代。建国の英雄、李世民が大好きです。陳舜臣氏の「中国の歴史」と「小説 十八史略」を読んですっかり惚れ込みました。陳氏自身はあまり李世民のことがお好きではないようですが。田中芳樹氏の「隋唐演義」も読みました。田中先生、李世民を主人公にして小説書いてくれないかなあ、と思っています。




#3061 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/24 06:41
朝鮮通信使節?

これは、一応、朝鮮も友好の使節として送り、
徳川幕府も一応、もてなし続けたわけだが、当時の日本では
関心が薄く、また、使節側も、日本の もてなし はナッテナイ
と朝鮮へ帰ってコキおろしてた〜こうゆう状態が江戸時代
続いていたそうである、

とゆうような事をラジオで武田鉄矢・金八センセイが言っておりました。
徳川幕府も朝鮮出兵への憎しみを払拭するまでには至らなかったようですね。




#3060 
徹夜城(本日はいろいろと更新していた管理人) 2002/07/23 23:13
名画座も更新してます

本日、「史点」「ムロタイ」そして久々に「歴史映像名画座」も更新しております。情報をいただいた「おんな風林火山」、現代史もの三連発「トルーマン」「あさま山荘事件」「KT」、そしてすっかり入れるのを忘れていた昨年の大河ドラマ「北条時宗」(笑)などが追加されております。
「あさま山荘」「KT」については入れるかどうかちょっと迷ったんですけどね。「あさま」を入れるとなると「日本の黒い夏・冤罪」はどうなるかとか、「KT」は入れるとすると日本史なのか韓国史にも入れたほうがいいのかとかいろいろ考えちゃいました。ま、結局ストレートにあんな感じになっております。

>リリスさん
感謝していただいて恐縮です。まぁ確かによその国を罵倒することで自国の優越に浸る輩というのがいるのは事実で(韓国・中国においても日本叩きでそういうのが強烈にありますが)僕も大嫌いではあります。といって、東郷の李舜臣に関する発言が果たして彼自身の朝鮮観をあらわしているのかとなると、僕はこれにはやや躊躇します。やはり一軍人としての発言であるということを良く考慮しないといけないでしょう。
 それと韓国における家康評価にしても「アンチ秀吉」って要素が大きいように感じますしね。僕が見たドラマ「壬辰倭乱」では秀吉を極悪にまでは描かず割と客観的に描いていた印象でしたが、それまでは悪役スターですらやりたがらないという役だったそうですから。ちなみに逮捕された元大統領・盧泰愚氏は獄中でなぜか「徳川家康」を読みふけっていたそうであります。

 通信使外交についても単純に平和友好とばかりは言えないところもありまして…とヘソ曲がりな僕はおもわず書いちゃいますね(^^;)。確かに形としては朝鮮国王と日本大君=徳川将軍が対等に外交を行うわけなんですけど、日本には将軍の上に天皇がいるという構図があってこれが尊皇派の朝鮮蔑視につながっているフシがありますし、将軍代替わりに彼らが挨拶にやって来るというのは徳川将軍の権威が海外にも広がっていると庶民に印象付けるデモンストレーションという側面もあるわけです(琉球の使節も同じ。一歩間違えると朝貢と同じ)。そして対等であるならば朝鮮国王代替わりに対して江戸幕府も使節を出さねばならないはずですが、それは「侵略ルートを知られては困る」と警戒する朝鮮側から断っています。また国書の表現をめぐっての騒動もあったし(これ、大河ドラマ「吉宗」で描かれてましたね)、一方的に経費を負担する江戸幕府側がケチってトラブルになったこともあります(笑)。まぁ通信使に絡めて文化交流があったのは事実ですが、逆にそれ以外のときはほとんど付き合いがないわけで、単純に平和友好関係と呼べないとも思ってます。

 室町幕府と朝鮮との外交なんかもトラブル続きでなかなか面白いのです(笑)。今回の「ムロタイ」で室町幕府と高麗の外交折衝が初めて出てきてますが、この辺も今後ご注目いただきたいところと考えております。



#3059 
リリス 2002/07/23 21:04


管理人様、原田 実様、ありがとうございます。
李舜臣、やはり知れば知るほどかっこいい!ですね。そうですか、彼は昔の日本人にはよく知られていたのですね。東郷元帥の言葉もとてもいいです。この謙虚さこそ真の日本人のこころ、そして武士道精神だ!と思えます。東郷元帥のこと教科書に載せてほしいです。そしてこのエピソードも子供たちに教えましよう。ちかごろ、愛国心を子供たちや若者に教えようとか言って、まあそのこと自体はいいのですが、それを唱える人たちは中国や韓国、ときにはアメリカなど外国の悪口ばかり言うのにはうんざりします。
じつはとある政治経済関係のことを語り合う掲示板にも書き込んでいるのですが、ひどいこと書き込む人がいるんですよねえ、なかには。そういう輩が幅を利かせるようになると日本人の品格が落ちるので、このエピソードを人々に知らせたいですね。そして他国の悪口を言うことによって自国がいかに優れているかを証明しようとするような人たちには、「お前は本当の日本人の誇りを持っていないぞ!」と、言ってやりたいです。
徳川家康が韓国で結構人気があるというのは何かで読みましたが。江戸時代、朝鮮通信使というのが日本に来ていたのですよね。そして両国に平和な時代が長く続いた。そのための人気だそうですが。それも日本の教科書には確か載っていなかったはず・・・。こうしたこともちゃんと教えてほしいなあ、と思います。
 それでは、いろいろ教えてくださったお二人に心から感謝いたします。ありがとうございました。また書き込みいたします。



#3057 
徹夜城(例によって更新を遅らしている管理人) 2002/07/23 00:04
李舜臣のことなど

えー、まず例によって「史点」も「ムロタイ」も更新が遅れてます。今回は珍しく両方とも完成度80%と同レベルで並んでいるんですが、結局月曜中にすら上がらない始末。これから深夜作業で「ムロタイ」があがるかどうかってところかな。あ、そうそう、「ムロタイ」は予告タイトルが変更になります。思ったほど時間が進まなかったもので…
さらに言っちゃうと次々回で細川頼之政権発足の予定。

>リリスさん
はじめまして。朝鮮史関係を検索していてこちらにたどりつかれたのでしょうか?
僕のところは必ずしも朝鮮史の話題が豊富と言うわけでもないですが、「倭寇」がらみでいろいろと扱っているのは確かです。で、僕も以前ネット上の朝鮮史関係サイト探しをやったことがありますが、残念ながらあまり豊富とは言えないのが実情です。
実際、日本人の朝鮮史に対する関心は、朝鮮・韓国の人たちの日本史に対する関心よりグッと少ないんじゃないかと思うところがあります(あちらはちと過剰に意識しているところがありますが)。学問レベルでもそのむかしさる歴史研究者(東洋史だったか日本史だったか)が朝鮮史専攻を希望した学生に「朝鮮に歴史なんてあるのかね」と言ったとかいうエピソードを耳にしたことがあります。
僕自身も朝鮮史に関してはやや偏重気味ですね。倭寇関係の時代と高麗初期、統一新羅成立過程なんかは凄く面白くて自分でいろいろ調べたりしたことはありますが、それ以外はかなり弱いです。近代史はゼミでとっていたので基本線は知ってるつもりですけど…ちょっとやってて辛いんですよね、近代史は。

李舜臣についてはもちろん昔から興味津々でして、かなり好きな歴史人物の部類に入ります。というか、この人の人生見ているとまさに「名将」の名にふさわしい人物と思えます。もう出来すぎって言いたいぐらい完璧なストーリーの人生ですから、このお人は。日本史にはこうまで完璧な物語の人生の人はいないとは断定できます。
 もちろん後に「民族英雄」になっちゃったもんで、あとから話が美談化されてることは否定しませんけどね。一例が武科挙の試験で落馬し骨折して落第したというマイナスな話が、骨折にもめげず馬に乗り続けたって美談になってるあたりかな。
 潮の流れを読んで日本軍を破ったと言う話は、原田さんもお書きになっているような経緯で讒言により職を追われて現場に復帰した直後の戦いですね。留守の間に日本軍に敗北して13隻しか戦艦が残ってなくて、その13隻で日本軍を狭い海路におびき寄せて各個撃破する、ってそんな話じゃなかったでしょうか。この名場面は韓国大河ドラマ「壬辰倭乱」で見ていたく感動した覚えがあります。
 この「壬辰倭乱」のラスト、露梁海戦はもうゾクゾクするほどの出来で…。流れ弾に当たった李舜臣が周囲に騒ぐなと伝え座ったまま戦闘を続行、そのままゆっくりと目を閉じていく。戦いに勝利し、兵士達が歓呼の声を上げ武将達が「将軍!」と声をかけたとき、李舜臣はそのままの姿勢で事切れていた…ああ、大感動の名場面です。

原田さんもお書きでしたが、少なくとも明治日本の海軍では李舜臣は「神様」的存在でした。海軍では李舜臣の作戦を詳しく研究していたようですし東郷平八郎が尊敬していたのも事実で、日本海海戦に向けて鎮海湾を出港する際、兵士達の中には「軍神・李舜臣」に勝利を祈るものもいたというエピソードもあります。じゃあ戦争の背景に韓国に対する野心がなかったのかというとそんなことは決してないのですが、日露戦争の心理的な要素に「アジア対西洋」という構図があったことの一例にはなるかと思います。
 韓国の人たちが李舜臣を民族英雄として持ち上げていったのはむしろ植民地期の独立運動、さらに軍事政権期での愛国心高揚政策を通してではなかったかという印象を持っています(もう一人の民族英雄・安重根にも言えるかな)。一方の日本では李舜臣は軍事マニア、歴史マニアのレベルならかえってよく知っているが、大半の人は朝鮮史の流れはおろか歴史人物もまるっきり知らないという状態ですかね。
あちらで山岡荘八「徳川家康」が広く読まれたりする(秀吉が憎まれるぶん家康の評価は高い)のと同じくらい「李舜臣」が親しまれてもいいと思うんですがねぇ。この辺が支配した側とされた側の差なのかもしれません。



#3056 
大鴉 2002/07/22 21:08
ロシアは・・・

・アールケイ様
>ロシア(ソ連)という国について思い巡らせることがあります
「ソ連」は前世紀の伝説になってしまいましたけどもね。
ただ、「ロシア」という場合、その思い描くところがいまだに古典的であるところが多々あります。「ロシア人」などという言葉から金髪白肌のロシア人を想像しても、朝鮮系や白いタタールを思い浮かべることはあまりないですし。「スラブ人」はいっぱいいるけども、スラブだけの国でもないし。(「ルーマニア」ときいて「ラテン系」というようなもの?)キリスト教徒はいっぱいいるけど、ムスリムもいるし。でも、なんでもいる(ある)からって「アメリカ」のようにも見えない。
「ロシアは一つの世界だ」という言葉がありますけども、たしかにそんなところがあります。
それもある意味、古い世界の形でもあるかもしれません。

>低賃金を武器にした生産工場
基本的に今は地下資源目当てで各国が擦り寄っているのでは?
もっともソ連崩壊によって地下資源の利権も細分化され、国境線にもってかれて細くはなっていますが。インフラはアフリカよりはましかもしれませんが、低賃金でいつまで働かせることができますかねぇ・・・。



#3055 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/22 19:16
なりすます鉄人

フェルディナンド・V・デマラ氏は、身分詐称の常習犯だったようだ、
医者に化けた以外には、

兵士や保安官、弁護士、心理学者、刑務所のカウンセラ−など
難儀な経歴詐称を繰り返し、人々をケムリに巻く達人であったようだ。
軍医に化け、朝鮮戦争で、医学書を読みながら韓国兵の弾丸摘出に
成功し、英雄と騒がれ、身元がバレ、強制送還。

1960年代は彼がどんな詐称をやったか不明で
その後、出没した彼は神父となっていて、
本職として初めて働き晩年を過ごしたそうな。



#3054 
原田 実 2002/07/22 15:29
李舜臣について

リリス様、李舜臣について、日本の右派・国粋主義者とみなされている歴史関係者の評価はむしろ高い傾向があります。というのも、日露海戦後の凱旋祝賀会で、東郷平八郎が「みな私を李舜臣将軍に比してくださるが、私は李将軍の足元にも及ばない」といったという有名なエピソードがありまして、そこで李舜臣をたたえることは、すなわち、その偉大さを認めた東郷をたたえることにつながるわけですね。
そのエピソードのおかげで韓国にも「日本はきらいだが、東郷元帥はえらい」という人は多く、李舜臣直径の子孫たる李種浩氏(韓国海軍大将)も来日するごとに東郷平八郎の墓参りを欠かさないといわれています。
実際の李舜臣は理にかなった用兵家で奇跡に頼ったりしなかった人ですから、劇画だからといって変な演出はしないほうが良いと思うのですが・・・
目前の敵よりも自国の官僚に足を引っ張られて悲劇的な最期を遂げるあたり、宋の岳飛とも似ています。李舜臣は日本との戦いで戦死したために、かえって冤罪の魔の手から逃げ切る形になりました。岳飛の場合は、宋の官僚が金に買収されたということで、北方異民族に大衆の恨みが振り向けられました。李の場合、日本がまだ何の工作もしていないうちから、文官が保身のために武官の長に冤罪を負わせようとしたわけですから、日本人としても李をたたえることに抵抗感が生じにくいという事情もあるようです。

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


#3053 
リリス 2002/07/22 00:14
朝鮮民族の救国の英雄

 こんにちは、はじめて書き込みいたします。リリスと申します。
日本史や中国史に関してはいろいろ本も出ていてし、ホームページもたくさんあるようですね。しかし朝鮮半島史となると資料が少ない気がします。
今興味があるのは李舜臣(イ・スンシン)なる人物。秀吉朝鮮出兵のとき、亀甲船を使って日本側の船団を壊滅に追いやった名将です。たしかソウルには銅像も建てられていて、日本の植民地時代には抗日の軍神として人々は加護を願ったといいます。以前読んだ韓国の人の手になる漫画では、日本船団をうまく海の渦に巻き込んでやっつけたということですが。日本人にはあまり知られていない彼のことがなぜか気になる今日この頃。「つくる会」のような国粋主義者たちからみれば、こういうのも「自虐的な史観」ということになってしまうのかな(笑)



#3052 
つね 2002/07/21 23:51
ブラック・ジャック

>ホリー・ハンター様
 お役に立てて何よりです。
 でも、検索したページを紹介しただけで、あんなに感謝されると
かえって照れてしまいますね。

 ところで、ブラック・ジャックも私の興味の対象です。(こればっか・・・)
軍医出身というと、ドクター・キリコ(安楽死専門医?)がそうですが、
デマラさん、そうはならなかったのでしょうかね。



#3051 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/21 22:12
洋版ブラックジャック

最近、ブラックジャックの復刻版を買って読んでる、
掲載順序がマチマチだが、BJは1話完結モノだから
どこから読んでも楽しめるね?

しかし、BJのような無免許医、しかも医学生の経験すら無い
詐欺師が医者をカタリ、オペをやり人命を救った〜とゆう事件は
実際あったようだ、朝鮮戦争の際のカナダ軍のニセ軍医・フェルディナンド
ウオルド・デマラとゆう人、心臓近くの弾丸摘出や扁桃腺の除去、虫歯の治療まで
やってのけたとゆう恐るべき人物。



#3050 
アール・ケイ 2002/07/21 17:32
真夏のお願い

>これ(=『三国志』)だれか完璧に配役調べた人いないかなぁ…などと思うこともあるんですが。
>ネット上に一つぐらいありそうですな。いまそれについて触れるのはご遠慮ください(笑)。こんなことを“完璧に”実行するのは、わがのよりん氏しかおりませんが(専門は日本国内ですけどそこをはみ出してますし、しかも声優がらみとなると、のよ氏はそのギョーカイ(アニメ)の人間ですので守備範疇であります)、そののよ氏は病にて臥せっております。臥せってはいても「死んでもキーボードを離しませんでした」(笑、でもマジ)を実行しかねない人間ですので、くれぐれもシゲキされませんようお願いします。。。

スラブとイスラムについては(他も分からないけど(笑))素人には一番知識が無いエリアのような気がします。「白系ロシア人」という言葉もやがて廃れるのでしょうかねえ。私、(アンチくそあほじゃいあんつファンなんですが)スタルヒンのことをちょっとだけ調べたことがありまして、遠くて近いロシア(ソ連)という国について思い巡らせることがあります。ある商社のヒトに言わせるとこれからは(低賃金を武器にした生産工場としての役割を担う国は)インドや中国に代わってロシアやバルト3国なんだそうです。めっちゃカントリーリスクありそうですけど(笑)、確かに発展していくためのインフラが整っている(ところもある)のかもしれません。

http://homepage1.nifty.com/arukei/index.htm


#3049 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/21 06:58
つね様ありがとうございます

早速、くだんのHPへ行き、凛々しいベ−ト−ベンのお顔を
プリントアウトすることに成功しました。
何とお礼を言っていいのやら、ありがとうございます、つね様。

何故、ベ−ト−ベンの顔を描かねばならんかとゆうと
知人の子女が学芸会の劇でベ−ト−ベンの役で(女の子なのにねぇ)
メイクの参考に巨匠の凛々しいお顔を描いてちょうだい
ってことになったもんで、女の子でも化けられるような
ソフトな感じのベ−ト−ベンマスクが欲しかったんで。
でもシュ−テイラ−さんが描いたベ−ト−ベンは男前すぎますね。



#3048 
つね 2002/07/21 01:37
ベートーベン

ごぶさたって、何ヶ月ぶりでしょうね。

クラシック音楽と三国志は私の趣味です。
ベートーベンの肖像画については、ここなんかどうでしょうか。

http://www.ryokojin.co.jp/6f/tanaka/bn/tanaka021.html

肝心の肖像画のサーバーに繋げることができなかったのですが、
変色したというやつには繋がったので役に立つと思います。
シュティーラーとかいう人が描いたみたいです。

学校の怪談物として、夜中、忘れ物を取りに音楽室に入ると、
ベートーベンの肖像画の目が光ったので、忘れ物も取らずに必死で逃げ帰り、
翌日見ると、肖像画の目に画びょうが刺さっていたという話がありました。

人形劇三国志はまた今度。話が長くなりそうですし、また機会がありそうですから。



#3047 
徹夜城(NHKの野球中継の落とし穴にひっかかりかけた管理人) 2002/07/21 00:25
ベートーベン?

>ホリー・ハンターさん
なにやら急に変わったお仕事がふりかかっておられるようですが…
ベートーベンの肖像画って学校の音楽室なんかによくかかってませんでしたか?かなり有名な肖像がですし、恐らく全作曲家中一番有名な顔だと思います(僕もたぶん空で描けます)。まぁネット上で見つかるかどうかは別問題ですが…僕もちょこっと検索かけてみましたけど、画像はまだ見つけてません。でもベートーベンの肖像画にまつわる話題には事欠きませんでした。一番多いのが「ベートーベンの肖像画の目が動く」といった学校の怪談の類でした(笑)。
ネットで探すよりもクラシック音楽関係の本などを当たられたほうが確実だと思いますが…


話題変わってつい先ほどNHKでロシアアニメ「老人と海」の録画を終えました。当初予約にしていたのですが、野球中継が延長になりまして…いやぁ、危ない危ない。NHKって律儀に最後まで中継するからなぁ…。
で、NHKの話題ですが、DVD「人形劇・三国志」の最終巻を購入しました。
ちょっと途中を飛ばして最終巻を買ったのですが、その理由は人形製作を担当した川本喜八郎さんのインタビューが収録されていたから。短いものでしたが、いろいろと製作裏話など聞けて面白かったですね。
「三国志」中のある登場人物について「作りたかったけど劇中に出てこなくて、悔しかったからあとで勝手に人形を作りました」と言っていたことに、元熱狂三国志マニアとしては「おおっ」と声を上げちまいました。その人物とは、「張遼」だったのですね(三国志マニアの方はここでウンウンとうなづくところでしょう)。僕もこのキャラ好きだったからなぁ…
声の出演で曹操役に岡本信人、張飛役にせんだみつお、と聞かされて「ドタバタ三国志を作る気じゃあるまいな」とディレクターに詰め寄ったというエピソードも面白い。僕も曹操の声が「岡本信人」と聞いて「え??」と思ったモンです。当時の僕は岡本信人さんというとNHKの番組「脱線問答」(なつかしい!)で即座に回答を出す「速いのが取り柄の岡本信人君」でしか知りませんでしたしね。僕は当時見てませんでしたが、映画やドラマなどでもおおむねちょこっと出てくる三枚目役、コミックリリーフ的な俳優さんでした。川本さんが「彼に曹操?」とビックリしちゃうのも無理は無かったのですね。しかしこれが実に大当たりだったのであります。
この「人形劇・三国志」は声の配役が一つの楽しみなのですな。劉備に谷隼人(この人もその後「風雲たけし城」なんかのイメージが強い)、関羽に石橋蓮司(映画ドラマではたいてい悪役)、張飛にせんだみつお(これはイメージどおりだと思う)、呂布・郭嘉・諸葛孔明など美味しい役を独り占めしていた森本レオ(この人もドラマでは三枚目役なんだよな)とまぁ、メインキャストがこんな状況ですから。あとは松橋登(趙雲ほか)と三谷昇(老人役全部)、そして女性陣を伊佐山ひろ子(この人本人の出演は映画「吶喊」で初めて見た)・長谷直美で全部手分けしているという、一人当たり絶対10人以上演じているというとんでもないキャスティングでした。
これだれか完璧に配役調べた人いないかなぁ…などと思うこともあるんですが。ネット上に一つぐらいありそうですな。



#3046 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/20 07:00
ワラにもすがる思い

突然ですが、実は、ベ−ト−ベンの顔の絵を描かねばならん
とゆう厄介で面倒なハメに陥ったのですが、
手元には、ベ−ト−ベンの絵など皆無。(自爆

ここの掲示板に来られる方々は西洋史専門家ぞろいであられ
図々しいお願いですが、ベ−ト−ベンの肖像画を描いた画家の名前
知っておられるかた、おられましたら教えて下さい。
また、ネット検索しても、意外にベ−ト−ベンの肖像画を扱った
場所が無い、ベ−ト−ベンって顔を隠したがり屋さん だったんですか?



#3045 
荒野獅子 2002/07/19 17:24
歴史ネタと言えば

又来てしまいました。
少し前「(もののけ姫の)アシタカ=足利尊氏説」が面白くて飛んできた者ですが、これと似たようなことが江戸東京落語にもあります。
江戸東京落語で「間抜けな人」という役回りの「与太郎」という人物がいます。同じような名前の人がいないか探しましたら、戦国時代の宇喜多秀家の従兄に、宇喜多基家という人物がいたのですが、彼の幼名が何と「与太郎」だったのです。
宇喜多基家については「間抜けな人」のイメージはないですので、恐らく語感が良かった(?)から落語の人物に付けられたのではないかとも思いますが、はっきりした事は判りません。



#3044 
徹夜城(ためこんだ史点ネタ処理中の管理人) 2002/07/19 01:03
夏休みだなぁ

…などと、タイトルみたいなことを書いておりますのは、毎年この7月後半に入りますとここのアクセス数がガクッと減るんですね(笑)。いや、今年はいつもに比べて減り具合が激しくないのですけど。原因はやはり大学のPCからアクセスされている方が相当数おられるからではないかと睨んでおります。特にこの「史劇的な物見櫓」は。冬休みと春休みにもガクッと減るんでよく分かります(笑)。
その代わり、弟のK・E・Nが管理している「スポーツの貯蔵倉」はこの時期怖いほどアクセスが急増します。高校野球シーズンともなると一日1000超ですもんねぇ…(汗)。明日にはこの「史劇的な物見櫓」と同じ15万台に突入しちゃいます。単純計算だとあの状態を十日も続けられると追い抜かれる。ひぇぇぇ…。
こちらはここ数日アシモフコーナーいじってました。やはりちゃんと更新作業すれば客は増えるもんですな。歴史もがんばってみたいものです。

>「風雲児たち」と「雲竜奔馬」
本日、ワイド版「風雲児たち」5巻とついでに「雲竜奔馬」を購入。「雲竜」のほうは単行本は持ってなかったんで、事実上の初読です(連載時に一回だけみたけど)。
「風雲児たち」ワイド版は各巻の帯に誰かが一言コメントつけてるのですが、5巻は夢枕獏さんで、「NHKはなぜこれを大河ドラマにしない!」でした(^^)。
まぁNHKであのギャグ調をやるわけにもいかんだろうけど。再来年の三谷大河が「風雲児たち」の精神を汲んでくれていることを期待しましょう。

>てこ歴。
「ヘンテコ歴史本」コーナーは新作を書く、書くといってなかなかあがらんのですが(英国旅行前に完成度40%でしばらくほったらかし)、うかうかしているうちにあそこで取り上げた明石散人+高橋克彦「日本史鑑定」が文庫版で再登場しておりました。改めて立ち読みするとあそこでは文章的都合で触れなかったツッコミどころがいろいろと思い出されてきました(笑)。
「中国4000年の真実」の杉山徹宗教授も、昨年は教え子さんからの感想メール(こちらの趣旨に賛同が大半)が来なかったんで授業やってないのかな、と思っていたら、唐突に日本憂国モノの新作を出されてました。塩ジイを評価していたのが何気に面白かったところ。
トンデモ歴史の大御所(?)太田龍氏はなにやら分厚い本を出してたなぁ。例の外国組織が何千年にもわたって日本の天皇家つぶしを画策していたとする本で。いやー、次々とよく書かれることで…((((^^;)

>奥野さん
歴史の専門選択は恋愛に似たり、ですか。ウム、名言ですね(^^)。
僕などはさしずめとんでもない浮気モン男なんでしょうけど(笑)。



#3043 
大鴉 2002/07/17 21:22
スラブ・・・

・タロイモさま
>スラヴ民族の描き方が、理想的すぎるような気はするのですが
まあ、当時流行りですからね。民族主義は。
過去の栄光を残していく手段としては、絵はなかなかよいものでしょう。
もっともフス戦争は絵で描かれた奇麗事だけでは済まなかったのですが・・・。(実際にはボヘミアの荒廃は彼らのせいだとも言える)
汎ゲルマンへの対抗意識もあったのでしょうか。

・相良さま
>トルコ人の国じゃないから。
現在のトルコ共和国はどういう立場なんでしょうか?
ケマル=アタテュルクを国父とあがめるくらいだから、オスマンは過去の歴史としてだけあって、トルコ人帝国という意識はないのでしょうか?



http://www05.u-page.so-net.ne.jp/jd5/kolvinus/


#3042 
タロイモ 2002/07/17 00:06
スラヴ叙事詩

>大鴉様

>彼はスラブ主義の絵も書いています。スラブの風習を美しく書いた絵は、良く知られています。
>またフス戦争の絵も幾つか書いています。
レスありがとうございます。ご指摘のスラブの風習を美しく書いた絵とは、
「スラヴ叙事詩」などでしょうか?「聖アトス山」
「大モラヴィア王国のスラヴ式典礼の導入」「グリュンヴァルドの戦いが終わって」
「フス教徒の王 イージー・ズ・ポジェブラディ」「ベツレヘム教会で説教するフス」
などの作品群を観たことはあります。荘厳な印象の作品でした。
ミュシャは他にもチェコスロヴァキア共和国の紙幣や切手、国章などもデザインされたようで
すね。パリで活躍していた頃の作品群も含めて、私が好きな画家の一人です。
私にとってのスラヴ民族の印象は、ミュシャの作品の印象と言ってもいいぐらいです。
スラヴ民族の描き方が、理想的すぎるような気はするのですが・・・



#3041 
相良義陽 2002/07/16 17:10
トランシルヴァニア……

おそらくホリー・ハンターさんは「神聖ローマ皇帝」と「東ローマ皇帝」を取り違えられたのではないでしょうか。
この時期はバルカン半島の諸国家が新興勢力・オスマン朝に撃破されていくんですけど、実はそこに「宗教対立」というのを強く考えない方がいいのかもしれません。キリスト教国の中でもオスマン朝に頭を下げて自治を保持した国だってありますし、徹底抗戦した国もあります。
ローマ教皇庁はその後、オスマン朝がハプスブルクと対立するようになると積極的にオスマン朝と手を結ぼうとしますし。
「正教」のビザンツを助けるためにカトリック教国が十字軍を組織したことも。

あと蛇足ですが、オスマン朝は、皇帝はトルコ人だけれどもトルコを優遇したわけではないので「トルコ帝国」などと呼ぶべきではないそうです。トルコ人の国じゃないから。

>当時、ル?マニアとゆう統一された国では無く、
>ワラキアとトランシルバニアに分かれていた?と聞きました
それは……なんかハンガリー人を敵に回しそうな言葉ですね(笑
歴史的にはトランシルヴァニアはハンガリーの一部でした。ただし、少数民族としてルーマニア人やドイツ人が多数住んでいたのです。
1526年にハンガリー王がオスマン朝軍と戦って戦死し、ハンガリーは3つに分裂しました。
ハンガリー中央部はオスマン朝の直接統治下に。
東部辺境地帯はハンガリー貴族が「侯」として統治するトランシルヴァニア侯国に。
西部は戦死したハンガリー王の妹婿のハプスブルク家に。
トランシルヴァニアというのは、ハンガリーから見て「森の向こう」という意味です。
この3つはその後ハプスブルクによって統一されるんですけど、
第一次大戦でハプスブルクの帝国が崩壊した時、ルーマニアが敗戦国ハンガリーからトランシルヴァニアを奪い取りました。以来、トランシルヴァニアの帰属問題はハンガリーとルーマニアの間の大きなしこりです。

第一次大戦後にはやった言葉
「パリではシャンゼリゼを見よと勧められる。
 ローマではフォルムを見よと勧められる。
 ロンドンではロンドン塔を見なさいといわれ、
 ブダペストではハンガリーの地図を見てくれよ、と言われる」




#3040 
奥野 2002/07/16 16:56
ズヴェズダー

ロシアで今年封切られたばかりの戦争映画「ズヴェズダー(星)」というのを見てまいりました。独ソ戦末期、ソ連軍偵察部隊の活躍を描いたもの。ソ連戦争映画の良質な伝統を受け継ぐものという触れ込みですが、確かにソヴィエトチックな味わいは随所に見られます(全体として不器用な作り、控えめなラブシーン、最後に全滅して終わりというエンディング等々)。
ただ、さすがに「ヨーロッパの解放」当時のごとき大スペクタクルではなくなっています。それから、同行したロシア人の友人によりますと、昔のようにドイツ兵を悪逆非道に描く表現は姿を消した由。確かにそんな感じで、ドイツ兵も当たり前の人間として描写されていました。この辺りは時代の流れですかね。

>徹夜城様

ずいぶん前の話のレスになってしまいますが、ご容赦を。
「いかなる時代・地域であろうと歴史につまらないところは無い」というのは本当に同感ですね。僕も古代ロシアなどという「マイナーな」分野に興味があるので、余計にそう思います。もっとも僕の場合はマイナー好みというわけでもなく、たまたま好きになっただけの話で。
かつて僕が所属していた西洋史研究室の助手は、「専門選びというのは恋愛と同じだ」と言っていました。つまり、理屈で選ぶわけではなく、他の人から見れば「なんでそんな分野を…」と思われるようなマイナーな対象に恋してしまうことだってある、という意味で。分かるような気はしますね。もっとも、誰もが憧れるような美人(いわゆる「メジャー」な分野)に恋した場合も、それはそれで気苦労が多いのでしょうが。

スラヴ魂についてですが、確かに「スラヴ人気質」の形ではお目にかかったような気がします。陰気で鈍重で、しかし粘り強い…というイメージでした。おそらくはロシア文学から形成されたものでしょう。しかし一口にスラヴ人と言ってもいろいろで、例えばお隣のウクライナ人だってロシアとは違うノリを持っています。それに、僕の個人的な印象ですが、ロシア人は日本人と比べてもはるかにお祭り好きで、とても陰気どころの話ではありません。ロシア文学だけでロシア人を語ってしまうのは危険だと思いますね。

>貧乏神様

エカテリンブルクは、実はエカテリーナ2世ではなく1世に捧げられた街だそうです。エカテリーナ1世時代は事実上ピョートル大帝時代の延長上にあるもので、「〜ブルク」というのがモードだったのかもしれません。
一方エカテリーナ2世当時には、エカテリノダールやエカテリノスラフという街が造られています。この2つはスラヴ語系の命名法です。しかし革命後、それぞれクラスノダール、ドニエプロペトロフスクと改名され、ソ連崩壊後の今も旧名には復していません。

ちょっと話はそれますが、ソ連崩壊後に全ての地名が革命以前に戻ったわけではないようです。モスクワ市内だけを見ても「レーニン大通り」「コムソモール駅」「セルプ・イ・モーラト(鎌とハンマー)駅」「オルジョニキーゼ通り」「バクーの26人のコミッサール(政治委員)通り」など、数え上げるときりがありません。それからレニングラードがペテルブルクに戻ったのは有名ですが、実は街を取り巻く州の名は「レニングラード州」のままなんだそうです。この辺り、何事にも徹底していそうで実はしていないのがロシアらしいところかもしれません。そういえばクレムリンの尖塔にも、まだ赤い星が輝いているし。

>大主教ニコライ

1つくらいは最近の話を、というわけで日本正教の父・ニコライについて。
東方正教会は昔から民族教会という性格が強く、あまり他民族への布教に熱心ではありませんでした。ニコライが日本にやってきたのも、ロシア正教会が組織的に進めた布教活動の一環ではなく、ニコライ個人のイニシアティヴだったようです。何が彼を日本布教に駆り立てたのかはよく分かりません。いずれにせよ、あまり有名ではありませんが傑僧と言っていい人だと思います。何しろ個人で日本に来たため、信者のほとんどに自ら洗礼を施し、また「キリシタン」を斬るためにやって来た元武士を論破して逆に改宗させたという話もあります。また新島襄について漢文の素養を身につけ、福音書などを全て和訳することに成功しました。ちなみに日本の正教会は、今でもニコライが訳した古い漢文調の聖書を使っています。
しかしニコライ没後の日本正教会がふるわなかったのも、ニコライ個人の人徳に頼る布教だったからかもしれません。本国ロシアの正教会はあまり支援しなかったようだし、革命の勃発によってますます困難な状況に追い込まれてしまいます。今の信者は祖父や曾祖父の代から信仰を受け継いだ人が多いのだそうで、一種の家族宗教として生き残っています。いずれにせよ日本正教については研究もまだ立ち遅れており、調べていくと面白い事実も出てきそうです。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6218/


#3039 
大鴉 2002/07/16 14:29
たぶんちょっとした勘違いだと思いますが・・・

・ホリー・ハンター様
>ウラド・ツェペシ公がトルコの人質
このあたりのことについては恒文社の「ハンガリー史」等を参考にされたほうがいいと思います。現代書館の「ドラキュラ公ヴラド・ツェペシュ」も読みやすくてよいです。
ちなみに「ドラゴン騎士団」はハンガリーの騎士団で、創設者はジギスムント・フォン・ルクセンブルクです。彼はフス戦争の一方の主役ですね。またハンガリーには「総督」なるものはありません。先のジギスムント(神聖ローマ皇帝にしてハンガリー王)の側近若衆の一人であったフニャディ・ヤーノシュが頭角をあらわして「王国摂政」となり、その後のいくぶんかの混乱期を経てその息子マーチャーシュが王位をついで国王となります。彼はウィーンを攻略し、ヴラドと自分の妹を結婚させ、神聖ローマ皇帝の地位を狙いましたが、おもいもかけず早死にするハメになります。

>エリザベ−ト・バ−トリィ
バートリ家はポーランド王シュテファン(ハンガリーではイシュトヴァーン)・バートリを輩出しています。
トランシルバニアの名家で、現地のセーケイ人達からの人望もあったようですが、同時に古い血筋(トランシルバニアにはかつての遊牧諸侯の血筋がいた・・・というような伝説がある)をほこる血統主義のようなところもあったようです。が、いろいろ難しい土地であるトランシルバニアで生き残るには寛容も必要であり、シュテファンはそれをウィーンの宮廷(ハプスブルク)で学んだようです。
が、成長するにしたがいハプスブルク家統治の別の一面を知るに至った彼は、東欧随一の軍事力を誇るポーランド貴族共和国へ食いこむチャンスを狙い、ポーランド前王の娘をかっさらうようにして王位継承を宣言し、見事ポーランドの王位選挙で「一位」を獲得。国王位につきます。彼はハンガリー軽騎兵とドイツの重騎兵、西欧の各種騎兵を比べて改良を行い、ポーランドを欧州随一の騎兵国家にしあげます。さらに歩兵には西欧流の改良を加え、武器をととのえます。彼のこの行動は、将来の「打倒ハプスブルク」のためのものでしたが、当座は近隣の野心的な人物たちの交戦にあけくれ、とくにポーランドの王位選挙で破れたモスクワのイワン雷帝とは激しく衝突します。イワン雷帝はポーランド王位継承に野心を燃やしていただけに、横からかっさらうように王位についたシュテファンを憎悪しており、罵詈雑言にちかい手紙を彼に送っています。こうして新興国モスクワ・ロシアと今や欧州の大国であるポーランド・リトワニアが激突しますが、度重なる勝利にもかかわらずポーランド軍はモスクワに手が届きません。ロシア軍は敗走を重ねていた(おまけにイワン雷帝はすぐに指揮官を処刑する)のですが、後方に取り残された兵士らが破壊工作を展開してポーランド軍の足を止めたのです。結局、このためにシュテファンは完全な勝利をおさめることができずに和睦。西方でもはなばなしい戦果は上げることができず、はや過ぎる死を迎えます。

・タロイモ様
>アルフォンス=ミュシャ
彼はスラブ主義の絵も書いています。スラブの風習を美しく書いた絵は、良く知られています。
またフス戦争の絵も幾つか書いています。

http://www05.u-page.so-net.ne.jp/jd5/kolvinus/


#3038 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/16 05:45
ビザンチン派のウラド公

ウラド・ツェペシ公がトルコの人質になってた頃とゆうのは
ビザンチン帝国は未だ存在していて抵抗を続けていた。
串刺し公の父のウラド2世は、ビザンチンの影響下で
ワラキア王に。彼はビザンチン皇帝からドラゴン勲章を
授かっていたそうだ、ドラゴン勲章はビザンチンでもかなり
高位の勲章であったようで、辺境の王が、このような勲章を
授かったことじたい、ワラキアは当時、東方正教の影響下であり
トランシルバニアはハンガリ−の領土、これはカトリック勢力であり
そんなところにムスリムのトルコが侵攻してきたわけだから
ル−マニアなどとゆう統一国家とゆうのは、もっと先の
話しだった、当時は三者は憎しみ合ってたのだろう。



#3037 
タロイモ 2002/07/15 22:33
旧ハプスブルク帝国領 歴訪

天皇皇后両陛下のチェコ、ポーランド、オーストリア、ハンガリーと
旧ハプスブルク帝国領 歴訪の旅も何事も無く順調のようですね。
チェコ、ポーランド、ハンガリーといえば
欧州連合への加盟もそれほど遠くないようですね。
私はポーランドといえば作曲家のショパン、
チェコといえば画家のアルフォンス=ミュシャを思い出します。
どちらもフランスで活躍した人物でした。



#3036 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/15 19:09
串刺し大公

後に作家プラム・スト−カ−が吸血鬼ドラキュラ伯爵の
モデルにした〜と言われるワラキアの専制君主・ウラド・ツェペシ公。
串刺し公とも言われ、由来はトルコと闘い捕虜を皆串刺しにしたって
のは有名で、ただ、かの大公に吸血の癖があった〜とゆう伝説は
無いようです。

ウラド公はトランシルバニアで幽閉され数年後、我慢できず、
トランシルバニアのハンガリ−総督の要求をのみ、総督の娘を
めとり、ハンガリ−の援護を得てワラキアへ侵攻、
トルコ派の弟王を破ったそうな。弟はトルコに大増援を要請、
トルコの大軍とウラド・ハンガリ−軍は冬のブカレストに
対峙、一説には、ウラド公は偵察に出かけ敵の包囲に遭い
敵のトルコ将軍に変装し命からがら突破して
自分の陣地に戻ったが、敵と間違えた自分の軍の
長槍部隊に、串刺し大公は串刺しにされたそうで。合掌



#3035 
素人筋 2002/07/15 17:44
珍しい?国名ばかり…

ホリー・ハンターさんの書き込みを見て初めて、ワラキアを中心とする周辺諸国を見ました。高校の時に世界史を選択しなかったため、知らなかったのです。何となく恥ずかしい気がします。ドブルヂア、モルダヴィア、ベサラビア、少し離れてクリム。聞いたことがあったのはモルダヴィアだけ。やっぱり、歴史は選択ではなく全部の科目を勉強すべきですね。(反省)



#3034 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/15 12:42
ワラキアとトランシルバニア

ウラド・ツェペシ公はワラキアの大公の出であった〜と記憶してます。
当時、ル−マニアとゆう統一された国では無く、
ワラキアとトランシルバニアに分かれていた〜と聞きました。
そしてトランシルバニアは、ハンガリ−の総督が統べる地だったとか。
ウラド公も最初は独力でワラキアを統一してトルコに反攻してましたが
父の代にオスマン朝へ人質に出されてた弟(兄も人質に出されてたそうですが
スルタンを騙して脱出したとかゆう話しが)、この弟は、冷酷な兄に似ず
美男子で愛想が良くスルタンに気に入られ、トルコ軍の大援軍によって
兄を攻めたそうです、弟は。弟の軍だけならまだしも本気で大軍で攻めてきた
トルコ軍に、兄は敗退し、トランシルバニアへ逃げ込んだそうです。
ところがハンガリ−総督はウラドを拘束し、ワシの娘を嫁にして
ハンガリ−の命に従うならトランシルバニアの援軍を借りて
故郷ワラキアへ凱旋させてやろうと、持ちかけたそうで。
ウラド公は、その返事を数年間、保留したため、幽閉されてたそうです。



#3033 
大鴉 2002/07/15 08:10
あ、やっと出てきた・・・(笑

・相良様
どうも、お久しぶりです。

>「ウラル・アルタイ語族」
まあ、このことはあまり知られてませんので・・・私もつい最近まで知らなかったし。
ただ、もともとファンタジックな趣きのある「ツラン」は、もはや真面目に研究しているだけでも十分に変わった人でしょう。それこそ「超古代帝国」とか「南極の謎の文明」とかに近いかもしれません(笑)
なんか、そういえば戦前にはアイヌを「ドイツ人」と類似するとかいう風変わりな人もいたそうで。ドイツのアイヌ観をとっても偏らせたという・・・・。

>オーストリア・ハンガリーのバルカン半島への南下をクロアチア人は喜んだようです
私はこれで喜んだのはハプスブルク家の傭兵的立場の辺境軍政地帯とか、熱心なカトリック信者とか思ったのですけど、やっぱり民族的に見られるものだったのでしょうか?
なんかそういうところで喜んでるみたいな話は見ているのですが・・・。

・徹夜城さん
>ニコライ堂の脇を
日本にははやくから正教会が進出し、布教活動をしていました。すでに明治・大正の頃には地方でも信者を獲得するまでになり、北海道や東北などでも古い正教会の建物が建てられています。(これはとくに東北の場合、隠れキリシタン達がいたりしたことも関係したらしい)東京でも布教活動は行われ、カトリックやプロテスタントにも負けないくらい大きな運動でした。その結果、日本にはたくさんの信徒が生まれます。そして極東でははじめて「大主教」が設けられます。(維新によって「負け組」にはいってしまった人々にとっても救いだったらしい)

もちろんロシア革命などでも日本に逃れてきたロシア人亡命者達も信仰のよりどころして利用しました。(日本人も教会に寄付して彼らを助けた)しかしソ連との関係には宗教はあまりやくにたたず、また米国による占領によって米国系プロテスタント組織が一気に盛り上がったこともあり、今日ではあまり知られていないような感じがあります。だが、実はカトリックやプロテスタントの組織よりずっと早く、正教会の組織は日本に根をおろしていました。さらに組織上の重要な役職も、他の宗派よりはやく日本に与えられていたのです。これは民族別教会にはやくから寛容であった正教会組織の伝統かもしれません。(ローマ・カトリックは日本に司教座を設けることになかなか賛成せず)

一方、他の国々、韓国や台湾や中国での正教会の活動はあまり活発ではないようです。一つにはいずれも英・米国の影響が強いことがあります。また中国は、はやくからキリスト教はいろいろな宗派を受け入れているので、正教会が確固たる地位をきずける世界ではなかったのでしょう。
台湾については存在してないかもしれません・・・・。




http://www05.u-page.so-net.ne.jp/jd5/kolvinus/


#3032 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/15 05:36
話題はハンガリ−に移りつつありますね

>ハンガリ−は排他的なんですか?
あるハンガリ−16世紀末の歴史に出てくる、エリザベ−ト・バ−トリィ
とゆう女城主。知る人ぞ知る、恐怖の女王だったそうで。
この人の所業に関しては、あまり詳しく書くと猟奇的に身も毛もよだちますので
書きません、ちょっと調べれば分かります。ヒントはル−マニアのウラド・ツェペシ
さん と何やら趣味の似た人物で、『鉄の処女』なる機械を依頼したのは
この女王だそうで。

で、この女王の実家のバ−トリィ家って、東欧では名門だったそうで。
ハンガリ−総督やポ−ランド王やトランシルバニア王を出した家だそうで。



#3031 
相良義陽 2002/07/15 00:37
呼ばれました(笑

ちょっと壊れ気味のADSLモデムの調子が良かったんで見回ってみたら、東欧系の話が盛り上がってるじゃないですか。万歳。
ちなみに私はユーゴ史やりたいと思ってるんですが、友人に「ユーゴスラヴィアって何処?」「ドイツの東ってロシアしかわかんないんだよねー」などといわれて泣いた記憶があります。
東欧に強いといわれているうちの大学でもその程度か。涙。

>ツラン民族主義
実はこっちの方は良く知らないのですが、言語学の方面では「ウラル・アルタイ語族」という言い方をもうしません。
実際のところ、語族とか語派とかをきちんと分類できるほど研究が進んでいないというのが本当のところで、一言でいうと「今後に期待」という感じです。
日本語が北方言語の流れをくむ、ということに関しても懐疑的な人たちがいるみたいです。
動詞がなぜか連体形で載っていることで有名な岩波古語辞典を編纂された大野晋という研究者は、南インドのドラヴィダ系言語と近いと主張してますし。
最大の問題は、日本語には母音交替がないじゃん、ということです。
ウラル・アルタイ言語の多くは、母音が2から3種類に分かれてて、おなじカテゴリーの母音しか単語内に現れることが出来ないという特徴を持ってます。これが日本語にはない。

>チェコスロヴァキア
子どもの頃はなぜか、チェコスロ・ヴァキアで切れると思いこんでいて、東欧革命の頃にえらくショック受けた覚えがあります。チェコ・スロヴァキアだったのか!
そういえばうちのチェコ語の先生、スロヴァキア人です。

>スロヴェニア
スロヴァキアとよく間違えます。ついでにいうとクロアチア国内にスラヴォニアなんて地方もあって。
「スラヴ」という言葉はなんか「栄光」とか「道」とかいう意味らしく、そのためよく見られるようです。人名にもよく使われます。「ミロスラフ」とか「トミスラフ」とか。
スロヴェニアはオーストリア領だったので良かったんですよ……ハンガリー領だったクロアチアとは対照的。
ハンガリーは少数民族に対してかなり辛く当たったらしく、ユーゴスラヴ運動の一部は「オーストリア・ハンガリーの中に南スラヴ人の国を作ろうよ!」という方向へ行ったようです。「三重帝国案」って言うんですけど。
だからオーストリア・ハンガリーのバルカン半島への南下をクロアチア人は喜んだようです。セルビア人にとっては迷惑な話ですが。

最近第二次大戦中のユーゴの話を読んで、あまりの惨状にちょっと疲れ気味……

http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/


#3030 
徹夜城(怒涛の更新作業を終えた管理人) 2002/07/14 21:34
おおっ、アカデミックな香りが…

いやー、東欧関係でこれほど濃い話題が続くとは…相良さん来ると面白いんだけどな、卒論で大変かな?

>ツラン民族主義
以前、僕と同じ史学科でハンガリー史を専門にしている学生の発表で初めてこの話を知り、「へー」と大いに興味をそそられた覚えがあります。今でもハンガリーに日本人が行くと「同じウラル・アルタイだ!」とばかりに仲良くしてくれるという話も聞きました(その話をしたご本人は学問的に否定してますがあちらではあえて言わないそうです(笑))。確かにもう一つ「第二次大戦の枢軸側」という共通項もあったりしますね。
ハンガリーってヨーロッパの中にあって今なお姓を先に名乗る文化なんですよね?マジャール人が到来したのが10世紀とすると、ずいぶん根強い独自性を維持しているようにも思えます。
そうえば先日、NHK教育で東欧の諸民族の問題を扱う番組を途中から見てまして、そこで大鴉さんもお書きのようなハンガリー国土の消長の歴史を要領よくまとめてましたよ。メインの話は「ロマ民族」のようでしたけど。
なお、今回の「史点」(一ヶ月ぶり)でもハンガリーネタがチラッとですが、あります。

>日本は極東最大の正教徒国家
これは面白いです。大鴉さん、ちょっとこの辺、説明補足していただけませんか。
僕は仕事先がお茶の水界隈なもので、ニコライ堂の脇を日常的に通ってたりするんですけどね。

>ポーランドとフランス
これ、最近よそで聞いた話ですが、ポーランド映画界では伝統的に「フランス革命もの」ってジャンルがあるらしいんですよ。ポーランド映画界最大の巨匠(というかこの人以外の監督の作品がほとんど紹介されない)アンジェイ=ワイダ監督作品に「ダントン」ってのがありまして、未見ながら「なぜワイダがダントン?」と首をかしげていたんですが、どうもそういう背景があるようですね。

>チェコスロバキア
分離以前から「チェコ」って省略されがちだったからスロバキア人が頭に来てたんじゃないかなぁ…などと(笑)。
僕が以前東欧専門の先生に聞いたところでは、チェコとスロバキアの違いは日本の関東・関西ぐらいしかないってな話でした。それでいて双方とも相手を田舎者と思っているとか(笑)。

>歴史とは関係ない話二題。
昨日、「ウルトラマンネオス」を見てしまいました(笑)。そう、主役が逮捕され急遽打ち切りになった「ウルトラマンコスモス」の代替後継番組。しかし冤罪ということで「コスモス」が復帰することになったため今度は「ネオス」が打ち切りに。こっちもこっちで気の毒のような…

日本が開発を進める超音速旅客機の模型実験がオーストラリアで行われ、ボルトが外れて見事に大失敗(もっとも早いうちにロケットから実験機が離れたため実験機自体は再使用可能とか)。ロケットはクルクルと宙を舞って地面に激突。
いえね、スタッフのみなさんには「失敗にくじけず頑張れ」と言うばかりですが、NHKで流れたこのニュース映像でロケットが爆発した直後に、その前をピョンピョンと飛び跳ねていくカンガルーの姿が絶妙で、思わず爆笑。



#3029 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/14 12:25
モルトケの空白の4年間

フォン・モルトケ、ドイツの参謀本部の父とか、
関ヶ原の石田三成の布陣を誉めたとか〜プロシアの偉い軍人さん
だそうですね?最近、知ったのですが、モルトケさん は
35才だったかの頃、軍部に長期休暇を申請してオスマン・トルコに
4年間も滞在したそうですね?後に参謀本部の父ともなるお方が
トルコで4年間も何をしてたのか?は、トルコの軍事顧問をしてた
とかゆう憶測が付けられてますが、不明だそうで。
何か新しい解釈、新発見でもあって知っておられるかたが
おられましたら教えて下さい。



#3028 
大鴉 2002/07/14 10:35
東欧圏

・ホリー・ハンターさま
>チェック人とゆうのが、チェコなんですか?
チェック、チェッヒ、ボヘミア等でよく表されています。
歴史上ではハプスブルク家の隆盛の基となった覇王オタカル2世との戦い等で若干でてきますね。あとはほとんど「戦場」として出てきます・・・その戦争の被害地としての連続は、彼らの現在の歴史観を形成したのでしょう。

ちなみにスロベニアは旧ユーゴの国の一つで、かつてはケルンテルンの一部でもありました。このためオーストリーとの縁が深く、スラブ系ではありますがゲルマン文化との融合が深い地域でもあります。

>神聖帝国諸国からの東方への移民
東方殖民にはいろんな考察がありますが、従来のスラブナショナリズム的な見方はだんだん押さえられてきて、「侵略」ではなく「殖民」ということが理解されてきているようです。ドイツ人は軍事力で押しかけてきたのではなく、「招かれて」それぞれの地に至ったということです。実際、チェコの都市の多くはドイツ人植民者達が現地の人々ともに切り開いたものですし、これは東欧各国で見られます。
ヴラド公がドイツ人商人を嫌ったという話もありますが、全体的には彼らは「富をもたらしてくれるもの」として歓迎されていました。ただし、後半の植民者達が現地の人々に溶け込むようなことをせず「ドイツ人はドイツ人だけ」で固まるようになると、彼らの行動に不信や疑惑の目が向くようになり、やがて排斥や攻撃の的となりはじめます。(彼らが固まりはじめたのは、現地の社会が以前ほど開放的でなく、きちっと組織立ち、先達達のように出世する希望がもてなくなったからでもある)

ちなみにドイツではかなり古い時代には「スラブ人」が奴隷として売られていました。奴隷売買はキリスト教時代にはいっても続き、南ドイツの古い都市はこのとき奴隷市場を設けられた場所に築かれたそうです。

・原田 実様
>ツラン民族主義
欧州ではフィンランドとハンガリーがこれを唱えたのですが、その姿勢には相違が見られます。
まずフィンランドは隣国にロシアという脅威が存在し、またその支配下で苦悩していました。(ラックスマンがフィンランド人であるということは意外としられてませんね)ロシア革命のとき、日本の特務機関がフィンランド独立に関与したというのは皮肉な話です。が、フィンランドのナショナリストの最大の目標は「ロシアのくびき」をのがれることにあり、大ツランなる幻想はその手段と割り切っているところがあります。

ところがハンガリーはこの種の幻想に酔いやすい状態でした。もともとマジャールの源郷を探そうとしたり、過去への強い郷愁をもつこの国は、一方で「使徒王国」(ハンガリー国王は教皇より直接冠を渡され、その際に「汝の酋長は真の使徒なり」と言われ、以降王国を「使徒王国」と自称)としての高いプライド、そしてバルカン地方へのヘゲモニー再奪還を希望していました。しかし、現実には工業化の遅れ、経済の停滞、そしてなにより戦争から満足のいく結果が得られなかったことが彼らの怒りをかきたてます。
その一方でルーマニアができ、バルカンへ強い影響力を振るったハンガリーの過去はいよいよ遠ざかります。それどころか旧領土の一部、チェコの一部とスロバキアの全部(スロバキアは長い間ハンガリー領土であった)、ルーマニアにもってかれた部分(トランシルバニア等)など、ハンガリーは領土的には「衰退」の兆しをみせていたのです。

とはいえ彼らのナショナリズムは混迷を深めます。まずハプスブルクとの連合王朝だった時代の威信を信じる人々と、過去のナショナリズムを信じる者達との温度差があります。ツランといってもトルコ人までは視野にいれない人々も多く、実際そういう意味ではハンガリーのナショナリティはあまり動かされなかったともいえるでしょう。(このへんは日本の軍も幻想的であると理解していたようで)
結局のところ、ハンガリーで大勢を占めるようになった主張といえば「マジャール」という名を借りたナチスめいた国家主義です。それはあのクラッシック的ハデハデな豪華絢爛たる国会議事堂にも現れています。(民族の威信をかけて建設され、今や世界遺産)そういえば第二次大戦前にはナチスドイツが望んだわけでもないのに「反ユダヤ法」を可決、成立させてますし、ユダヤ人への敵意はかなり強いです。(「枢軸国」というと三国同盟ばかりおもいうかべる人も多いですが、実際には「枢軸」に加わった国はそれ以外にもある。とくにハンガリーは率先してナチスに同盟しており、このため日本というと「ああ、先の戦争では一緒に戦った仲間だな」という方もいる)

ハンガリーの場合、遊牧民出自という異色の存在は欧州では独特でした。ゆえに誰よりも正統性にこだわるところがあり、同時にローマ・カトリックの「剣であり盾である」という意識も強い。さらに数々の王朝を輩出したトランシルバニアが、よりにもよって「異端者」達の国ルーマニアにあることから、その不満は絶えないです。(これは日本で言えば王朝の出身地、たとえば京都などが中国領というところでしょうか)

結局のところ「ツラン主義」はキワモノの類を出ることがありませんでしたが、ナチスという現実的な「キワモノ」に対することはできなかったようです。

皮肉ではありますが、トランシルバニア方面でハンガリー系住民が殺されたことから、ルーマニアのチャウシェスク政権打倒の戦いが始まりました。ところがチャウシェスクが倒れ、民主政権になったら、今度はナショナリズムの高まりでハンガリー系住民とルーマニア人住民の間の齟齬が深まっています。この際には、なんとも古めかしいことに「異端者!」という非難もハンガリー人達の間からルーマニア住民に向かって出ているそうです。(ルーマニアは正教会系)

ちなみに日本は極東最大の正教徒国家です。

・徹夜城さま
>英仏の存在感
英仏はやはり「新大陸」が大きいでしょう。つまりは結局「アメリカ」がらみだということです。
大航海時代に乗り遅れた「海」無き東欧圏には厳しい時代でした。それまで東欧の鉱山は、欧州随一の生産量と質を誇っていたのですが、新大陸およびアジア航路の確立により、海のかなたから安い原材料が流れこみ、東欧産のすべての鉱物の価格が一気に下落。農産物だけが頼りになってしまうわけです。近・現代史においてはボリシェビキの台頭がなければ、まったく省みられることもなく、「欧州の第三世界」と皮肉られているだけだったのかもしれません。(ただし、マルクスは革命がロシアでおこるなどとは信じなかったろうけど)

ちなみにアメリカ独立戦争ではポーランド騎兵が活躍してます。このポーランド騎兵は、その後の世界の騎兵のスタイルをある意味確立した連中で、ナポレオンも彼らを使用しています。短いながら、彼らに独立を与えたナポレオンを崇拝するポーランド人は多く、そんなポーランド人と接触した日本人は簡単にナポレオン崇拝になりやすいです。本家フランスの複雑な感情より、ポーランドの親ナポレオンは明快ですから。

>1989年の「東欧革命」
私はあまりこれに関してはくわしくないのですが、自分の生きているうちにこんな事件が起きるとは思いもよらなかった・・・・という意味では衝撃でした。
ただ、それより衝撃なのはユーゴの崩壊でしょうか・・・・すでに忘れられた歴史のなかにありますが、ユーゴスラヴィアはもともとはバルカン諸民族の共存・共栄をはかるためのもので、初期にはオスマンのスルタンの宗主権を見とめた上での自立するはずのものだったのです。ところがそこでギリシャ独立革命の血なまぐさい、西洋チックなナショナリズムが勃興。これにかぶれた連中が、一気に「武力革命」へなだれこみます。ギリシャの独立戦争では、トルコ人との間に血なまぐさい報復合戦が繰り広げられ、その現場をみたドイツ人博士はその凄惨さに吐き気を催し、激しくギリシャ人を非難しました。しかし、同様なことがバルカン全土に広がるなど、誰が予想したでしょう。「火薬庫」は地面から生えてくるものじゃありません。あきらかに「造られた」のです。

かつてアルバニア人がオスマン帝国に対する独立運動を展開したとき、セルビア人やクロアチア人はこれを支持しました。ところがそのセルビア人は、スルタンから憲法をもらってようやく自治を開始します。この一通りではないナショナリズムの道は、バルカンの諸民族をそれぞれに混迷の中に進ませているのか、それとも希望を残しているのでしょうか。

http://www05.u-page.so-net.ne.jp/jd5/kolvinus/


#3027 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/14 08:23
ハンガリ−とチェコスロバキア

東欧に関して無関心でも、ハンガリ−とチェコスロバキアは違うとゆう
ぐらいは分かりますが、私が、学生の頃は、チェコスロバキアとゆう国があり、
チェコとスロバキアが違う民族だ〜とゆうことは知りませんでした。
世界史で習ったチェック人とゆうのが、チェコなんですか?
スロバキアに至っては、スロベニアと、語呂が一緒かな?〜ぐらいの
感慨しか無いですね。
よく考えたら、これらの国々は、ドナウ川とゆう国際大河で繋がり
西欧はライン河圏、東欧はドナウ圏とゆう
地理的区分をしてましたっけ。でも仏・スペインは、ライン河の
流域じゃ無いか。




#3026 
原田 実 2002/07/13 16:54
ツラン民族主義

誤作動が続いて失礼しました。
大鴉様、戦前の「東欧」への関心といえば思い起こすのは、今岡十四郎などが唱えたツラン民族主義、ウラル・アルタイ語族諸民族を一つの民族の分派とみなし、日本民族をその中に含めた上で、ハンガリーのマジャール主義、フィンランドの大フィンランド主義、汎トルコ主義、モンゴル独立運動、トルキスタン独立運動と提携して西欧列強、特にソビエト・ロシアに抗しようとするもので、日本とすれば民族主義の立場にたつといいながら、同じ「ツラン民族」として、朝鮮統治,満洲国経営を正当化できるという真に虫の良い主張です。今岡の著書『ツラン民族圏』(昭和16年)によると、この主張はもともとハンガリーから日本に飛び火したようで、やはり実利的な関心もあったようですね。


http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


#3022 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/13 12:28
ハメルンの笛吹き

私は大学の一般教養科目で、『西洋中世史異聞・ハメルンの笛吹き』
とゆう授業を選択しました。皆さん、よく知っておられる童話、
これは、実は、当時社会問題となっていた少年少女の奴隷や
少年十字軍や、神聖帝国諸国からの東方への移民を
騎士団が推進していた情勢の風刺ではないか?とゆう主旨の講義でした。
ネズミ駆除の未払い代金の代りに笛の音で子供ら を引き寄せ
誘拐してった妖しい笛吹き、消えた子供らは東方植民の一団に
まぎれ、現在、東欧に分布するドイツ系の住民の先祖にも
ハメルンの子供らの血は混じってるのでは?とゆう興味深いものでした。




#3021 
徹夜城(一般教養で東欧史の講義をとっていた管理人) 2002/07/13 10:18
僕もうかつでした(^^;)

>ひでさん
あー、ご指摘どうも。やっぱ間違えていたんだ。いや白状しますと、実はあの投稿書いたときは僕自身も「あれ?フスだったかスフだったか」などと考えたりしたんですけど、他にタイトルに持ってくるネタも思いつかなかったのであのまんまになりました。間違ってたら一種のシャレだと思っていただくことにして、などと(笑)。そうでもしないとフス戦争がらみでレス返せなかったもんですから(なんだそりゃ)。

>大鴉さん
やはり近代史において英仏の存在感が大きすぎたのが、ヨーロッパ史における西側偏重の原因かもしれませんね。世界史の教科書でもイギリスとフランスの歴史はかなり詳細にやりますよね。ハリウッド映画でも歴史映画ものは圧倒的に英仏史ネタに集中しています。アメリカのもともとのルーツであるイギリスは分かるとしてフランス史があんなに大好きってのも面白いもんで。
フランス史といえば最近、故・スタンリー=キューブリック監督が大作映画「ナポレオン」の実現をながらく念願し続けていたことを明らかにする本が出ていました。キューブリックには「バリー・リンドン」って七年戦争ごろの時代劇映画がありますが、あれは「ナポレオン」の前哨戦のつもりだったのではないかと思っています。

と、話が東欧から離れちまいましたので戻しますと。
僕は大学に入ったその年に一般教養で「ロシアと東欧」をテーマにする講義をとっていました。あのころからまるで専門外のことに首を突っ込むみたがる傾向があったようで(笑)、一人二週ずつそれぞれの専門分野の研究者が行う講義を結構面白く聞いておりました。この授業が本来の趣旨とは別の意味で面白くなったのはテーマが東欧各国に移った後期の授業からでした。
そう、1989年の「東欧革命」が同時進行で進んだのですね。チェコスロバキアの回なんかは一週目と二週目の間に革命が起きて政権が変わってしまったのを覚えてます。年が明けてから行われたルーマニアの回では担当講師の方が「いつもはルーマニアって話す話題探しに苦労するんですがねぇ」と苦笑しつつ前年末のチャウシェスク政権崩壊の過程を現地からの情報も含めて生々しく語っていたものです。「長らくルーマニアを専門に研究していながら、このような事態が起こるとはとても予想できなかった」と、歴史研究者として自戒するという趣旨の発言をされていたような覚えもあります。まぁソ連崩壊もそうですが、歴史家に限らず大変動の予想ってたいてい出来ないもんなんですよね。逆に大変動を予想して当たったためしもほとんどありませんが。

>秋山さん
了解しました、作業しておきます。

>最近のアクセスに関して
ありがたいことに最近このコーナーのアクセス数がかなり伸びているのでありますが、それと比例するようにこちらにウィルスメールがどどっと届きます。ご自分のPCがウィルスに感染していないか、念を入れてチェックするよう各自でお心掛けください。
高校野球シーズンに突入すると、K・E・Nのところが凄いアクセスになるんですよねぇ。昨日なんか1000アクセス以上あったし。うかうかしていると抜かれる恐れがあるので(笑)、こちらも更新作業をしっかりしておきたいと思います。



#3020 
大鴉 2002/07/13 10:06
「東欧」諸地域

・ホリー・ハンター様
>フス戦争は各国に影響したとゆうのは知りませんでした。
まず、各国の教会組織に対して課税が行われ、さらに各国諸侯に対しても「対ボヘミア十字軍」というような名目での出費を要求しています。この話は結構有名だったようで、各国で不満の声があったりしたようです。またジャンヌダルク自身もこの東方の騒乱を知っていて、フランス解放の後には「ボヘミアにいって神の敵を討ちたい」とか言ったとか。ちなみに彼女の故郷のお隣ピカルディからはボヘミアに異端者達が亡命しました。このような西欧異端者達は、ボヘミアの騒動を聞いて、そここそが彼らの救いの地であると思ったようです。
一方、ブルゴーニュ公はフス派の敵であった神聖ローマ皇帝の友だったわけですから、皮肉といえば皮肉です。

ちなみに第一回異端撲滅十字軍は欧州のごくわずかな地域を除いて、ほぼ欧州のすべての国々からなんらかの形の参加がありました。8万人の重装騎兵軍(騎士だけでといわれている。つまり他に歩兵やその他部隊があった)というのは、もしそれが本当に一堂にかいしたのなら壮観なものだったでしょう。戦争中のはずのフランスやイギリスの騎士も参加してますが、このへんは「免罪符」にひかれたところもあるのでしょうか。とはいえ、彼らは思いがけない敗北を喫するハメになるのですが。

ルターはフス派が「福音を広めた」とし、その主役ヤン・フスを賛美していましたが、後に彼の保護者であるザクセン公の前でヤン・フスをたたえるような演説をしたとき、激怒した公に激しく罵られた・・・という逸話があります。当時のドイツには、まだフス派の「華麗なる遠征(とフス派には呼ばれた)」による恐怖の伝説がしみついていました。町々が火をかけられ、教会が火薬で爆破され(彼らの火薬を取り扱う技術は非常に高いものであった)、カトリック聖職者と領主達は己の無力を嘆きながら逃げ回るしかなかった忌まわしい時代の記憶です。なにせかれらの西方進撃の最大はストラスブールにまで達しています。最終的にはローマが攻撃目標になったかもしれません。そうなったら進撃を阻止するのは困難であり、教皇が恐怖を訴えたとされています。(ただしありえないことだといわれてますが)

ルターもこの一件以来、すくなくとも表立ってフス派を褒めるようなマネはしなくなります。
諸侯達からしてみれば、ご先祖様が散々な目にあった事件なわけですから。
が、カルヴァン主義者達は違い、ドイツに残ったフス派の残党を保護したり(彼らはたいてい清教徒へ改宗した)フス派を褒めるような演説をしたりしてます。

・原田実様
>日本で入手できる東欧史の史料の貧しさを嘆いておられました
田中氏のおかげで「あれは史実?」などと言うかたまで現れました(笑)いやはやなんとも凄い限りです。
それはともかく、東欧史なるものは「本来存在しない」モノです。何故なら「東欧」という言葉自体が「政治用語」であり「歴史用語」ではないからです。「東欧」というのは「鉄のカーテン」の思考の中にあるのです。このことについては刀水書房にすぐれた本があります。

バルカンに対するハンガリーとビザンチンのヘゲモニー争い、ノルマン征服史としては最大規模であったキエフ・ロシア成立、欧州にはじめて遊牧帝国を築いたアヴァールと、欧州最大の騎兵国家であったマジャール=ハンガリー王国・・・決して、欧州の「裏側」なんかではないのです。
ただ、大航海時代に乗りおくれたこれら国家の歴史は、いまだに十分には知られていません。これは単に日本だけでなく、海外でもそうなんです。したがって書籍が十分でないのは、ある意味しょうがないところもあります。また、共産主義時代にはそうした研究に抑圧がかかることもありました。(このため現在は研究者には長年の夢がようやく果たせる時代・・・・とも言えるのですが、やっぱりいろいろモメごとはあるようで・・・)
しかし欧州史はあまりに「西洋史偏重」であるため、これに対する文句は以前からありました。


>保守からみれば東欧史は敵方の歴史、革新からすればロシア・ソ連の悪事の歴史ということで

実は戦前はそうでもなかったんですよ。
戦前はあまり健全ではないかもしれませんが、軍部がとても興味をもっていろいろ研究を進めていました。それは東欧地域のみならず中央ユーラシアまでの非常に大きな視野をもったものでした。とくに中央ユーラシアに関しては、現在でも重要視される貴重な研究がなされたりしています。(もっともそのせいかモンゴル絡みの会では「元特務機関」とか「元内蒙古連合自治政府」絡みの人がいますが・・・)また、そういうところかなはなれて、文化的な興味をもつものもあり、とくに日本の文学者達の東欧への興味は大でした。有名どころでは二葉亭四迷が旅したりしたのがありますね。彼はちょうどオスマン衰亡時のバルカンの熱狂時代に遭遇してます。またポーランドの愛国歌は日本で流行したりしました。さらに向こうの人も「ロシアと戦った日本」ということで一部で熱烈な親日派が誕生。日本の文化・美術への傾倒は凄いものがあり、浮世絵コレクションや仏像コレクション、陶器コレクションには優れたものがあります。

戦前の、ある意味ではおおらかな交流は、現在よりも深い付き合いだったように思われます。
まだ何々主義とその地域の人々が密接にイメージでくっつけられていなかったからです。それはロシアが赤化してもしばらくは変わってません。でも、残念なことにその後は・・・・。

http://www05.u-page.so-net.ne.jp/jd5/kolvinus/


#3019 
秋山如雪 2002/07/13 08:17
リンク先変更のお願い

随分ご無沙汰していて、もう忘れられたかもしれませんが、リンクさせてもらっている
「心を開いて」の秋山如雪です。
今回、ホームページアドレスを変更したので、リンク先を変更していただきたいと
思いまして、伺いました。
以下にアドレスを記しておきますので、管理人さん、よろしくお願いします。
http://members.tripod.co.jp/josetsu/toppage.html

http://members.tripod.co.jp/josetsu/toppage.html


#3018 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/13 02:07
東欧の中世史ですか?

全く、知りません、東欧の中世・近代史。高校で世界史を
専攻しましたが、教諭は東欧史は試験には出ん〜っつうて
イイ加減にやってたような記憶が。

フス戦争は各国に影響したとゆうのは知りませんでした。
ただ、ルタ−が単に宗教改革者では無かった〜とゆうのは
習ったような気がします、新教徒の諸侯同盟の側に付いた
そうですね、ルタ−は。農民の反乱は、虐殺をもってしてでも
鎮圧すべし〜と、ルタ−は怖じ気付く諸侯を叱咤したというのを
聞いたことがあります、ルタ−は、また美食家で
女好きで妻、妾も相当いて、口説くのが上手くて
娼婦を説教して改心させるのでは無く口説いてた〜っつう寓話を
聞いたことがあります。



#3017 
原田 実(映画伝言板での二重の勘違いにただいま赤面中) 2002/07/13 00:34
東欧への関心の薄さ

 ええ、気をとりなおしまして、東欧は今,天皇皇后両陛下が訪問中でしたね。
映画に限らないとして、日本での東欧風架空世界でのフィクションといえば、田中芳樹先生の『マヴァール年代記』がありますが、その角川文庫版でのあとがきで、田中先生、日本で入手できる東欧史の史料の貧しさを嘆いておられました。
1980年代には、栗本慎一郎氏が、たまたまハンガリーの思想家について研究しているということで、マスコミでは、他の東欧諸国のことについても、とりあえず栗本氏のコメントを求めるという状況がありました。いいかえると、それだけマスコミで使える東欧研究者が少なかったということですね。
冷戦下にあっては、保守からみれば東欧史は敵方の歴史、革新からすればロシア・ソ連の悪事の歴史ということで、どちらの陣営の論客・研究者にとっても、東欧は手を出しかねる領域だったのかも知れません。

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


#3016 
大鴉 2002/07/13 00:30
異端者と帝国

・徹夜城様
>こんな人物がいて、こんな話があったんですね
教科書等ではほぼ同時代のジャンヌダルクの方がデカデカと取り上げられてますが、百年戦争なんて欧州ローカルな出来事にすぎません。
これに対して、フス戦争ではイギリス・フランスというローカル地方からロシア・トルコまで満遍なくまきこまれているんですよ。おまけにこれは後にハプスブルク家が台頭する一つの原因でもあるんです。(遠因かもしれませんが)宗教改革、30年戦争についてはルターやカルヴァンが言及しており、いうまでもありません。

とくにルクセンブルク王朝神聖ローマ帝国が、結局敗北に終わったとはいえ「十字軍」を組織しえたことには、もっと驚きがあってもいいように思えます。しかも一説では30万とかいう途方もない数の軍隊です。中東より近い距離とはいえ、そのための財源や組織つくりなど、その苦労はかなりなものだったはず。(そしてこのとき「免罪符」売りが禁止されたり公認されたりしたことが、宗教改革の一因として大きい)
ジギスムント・フォン・ルクセンブルク皇帝個人も非常に興味深い人物で、外交の天才ではありますが、戦争では平凡な才能であったことが彼に悲劇をもたらしています。もっとも相手がヤン・ジシュカという名将では誰でもやりにくいでしょうが・・・でも、ジシュカはこの当時すでに棺おけに片足突っ込んだ高齢の老人の上、病気で片目を失っているんですが。(やがて全盲となるが全軍の指揮をとった)
また皇帝は「欧州統一帝国」への意思をもっていました。彼の領域にはすでにハンガリー王国、ブランデンブルク、ルクセンブルク家領、さらに奥さんの血統からポーランド王位まで継承できる可能性があったのです。おまけにドイツ騎士団、ブルゴーニュ公国、イギリス王家も親友だったり親戚だったりという状態。ローマ・カトリック教会は「シスマ」をおさめてくれた皇帝に借りがある状態。もしこんな巨大な権勢をもつ皇帝が帝国の実権を完全に掌握したら、欧州統一帝国は夢ではなかったはずです。そして事実、聖界においては彼の壮大な計画はうまくいっていました。(公会議派聖職者達による教会の実権掌握)ところが、フス戦争によって足元をすくわれたわけです。
彼は異端撲滅十字軍以前にもニコポリス十字軍等の対オスマン十字軍を行っています。これは彼の類稀な外交能力の成果でしたが、戦場ではしごく平凡な将才にとどまりました。とはいえ、機転がきかないほうではないので、オスマン軍の裏をかいていったん敵地にもぐりこんでから海を渡って欧州に帰ったりという、なかなか大胆なこともしています。

オスマン帝国は対チムール戦で莫大なトルコ騎兵の損失を招き、事実上バルカンのスラブ人歩兵を主体とする軍事力に主力を切り替えざるをえませんでした。(騎兵は最初コーカサス、後にクリミア・ハン国が主力となる)このことが逆にオスマン軍の火器研究を積極的にさせ、一説にはこのオスマン軍の銃が中央アジアに伝わってやがて中国にまで伝わったという話もあります。この銃は従来のものより性能がよく、狙いつけて撃つという行為が必要になりました。(インドでも重宝されています)

このオスマン軍に対抗するため、ヴラド・ツェペシュが農民達に槍を持たせて戦わせた・・・のは有名な話ですが、この農民の槍部隊の原型は彼が、彼の宿敵ヤーノシュ・フニャディの部隊にいた元フス派傭兵達から学んだものと思われます。彼はのちにフニャディの息子でハンガリー王となるマーチャーシュに使えた元フス派傭兵イスクラという人物と関わることになりますが、彼の軍隊の強さに驚嘆しています。

当時の火器の水準はタンネンベルクガンであり、火縄銃が最高でした。ゆえに火器をもつがゆえに「最強」とは言えないのでしょうが、とにかくその常識はずれの連戦連勝ぶりは、当時の人達が「神か悪魔の力を得ているに違いない」と思ったほどに凄まじいです。

http://www05.u-page.so-net.ne.jp/jd5/kolvinus/


#3015 
ひで 2002/07/13 00:11
あれ? それって

>徹夜城様
スフ(ステーブル ファイバー )じゃなかったでしたっけ?

東欧史関係の映画・・・確かに余りないですよね。思いつくところでは、
かなり強引ですが、「パン・タデウシュ物語」くらいかな。
でも、あれもフィクションであって歴史とはちょっと違ったような・・・



#3014 
徹夜城(台風の影響で近所に大河が出現した管理人) 2002/07/12 23:42
「もめんよサヨナラ!われにフスあり」

…という戦時中の標語が教科書なんかに載ってますよね。いや、「フス戦争」って言うといつもこれを連想しちゃうもので(^^;)。

>大鴉さん
こ、このお名前はセルダンさまのことでは…(^^;)(分からない人はアシモフを読むこと)
ご投稿、大変面白く拝読しました。うーん、全然知らなかった。こんな人物がいて、こんな話があったんですね。東欧系は日本国内では情報がないなぁと改めて思い知らされました。コンスタンノープル陥落の影にフス戦争が絡んでくるってのも歴史のドラマだなぁ。

「歴史映像名画座」をご覧になるとわかりますが、東欧史関係って映像方面でも日本ではなかなか流れてこないんですよね。あそこには入れてないけど、ソ連の「続・ヨーロッパの解放」って映画が東欧各国の共産党勢力を描いた珍しい映画だった、ってぐらいで。
あと以前にホリー・ハンターさんが書かれていた様な気がするのですが、ブルガリア映画で「略奪の大地」ってのが公開されビデオが出たことがありました。僕は未見ですが、オスマン=トルコの侵略をとことんまで描いちゃった作品らしいですね。



#3013 
大鴉 2002/07/11 21:53
銃の話・・・外れますが

はじめまして。

下の大砲と銃の話に興味を引かれてやってまいりました。
というのも、私の興味対象であるフス戦争においては欧州史においては画期的な「火器の大量使用」が見られるからです。時代的にはジャンヌダルクの頃ですね。
神聖ローマ帝国(&ローマ教会)対民衆&ボヘミア貴族軍という形(その外ブルゴーニュ公とかポーランド王、リトワニア公なども混じるが)になったこの戦争では、天才指揮官ヤン・ジシュカ率いるチェコのフス教徒軍は「無敵」と呼ばれる連戦連勝街道をひた走ります。帝国&教会側の組織した異端撲滅十字軍が数十万に達し、地平線がその軍団の影で覆われるほどだというのに、たかが欧州の小国、ボヘミアの軍がたてつづけに勝利をおさめたのは、しかし偶然でも幸運でもありません。

帝国&教会による経済封鎖のためにボヘミアには「軍馬」がたらず、また兵士達は経験も訓練もうけたことないド農民や貧民ばかりでした。貴族達は協力に消極的で、農民達は馬にも乗れません。そこでジシュカは、「即席でありながらも使える軍事力」に仕上げるために、彼らに特殊な武器を持たせます。その一つが「ロング・フレイル」で、従来農作業で使用された穀竿を改良して武器にしたものでした。要は長い節のある棍棒です。そしてもう一方が「火器」なのです。

当時の戦場の花形である騎士は重装甲で、熟練した者があいてでなければ勝つ見込みは薄いものだと思われていました。ところが銃なら、使い方さえわかれば「女子供でも」騎士を倒せます。幸いチェコには鉱山があったので武器製造にはことかかず、日に日を継いで大砲と銃を生産させ、この装備を急がせます。また、この銃の弱点をカバーするために「戦車」を考案。これは鉄板で防御された2輪か3輪の馬車で、内部には兵士が20名入れ、弩と小火器、大砲も載せていました。この「戦車」については移動手段としても使われ、ドイツの史家にいたっては「中世の機甲師団」とさえ評しています。

この「戦車」と「火器」のコンビは、従来型の騎士の軍隊を圧倒しました。大敗北を喫した帝国&教会側は、5度にわたって組織した「異端撲滅十字軍」すべてで敗北。とくに5度目は恐怖に震えて自ら壊滅するという醜態をさらします。騎士達は「近づけば銃撃、遠ざかれば砲撃」というフス派の攻勢に恐れおののき、和平を望むようになります。

幸いというべきか、この軍隊は内紛により自滅します。が、その残党達が組織を再編し、ハンガリー王直下の傭兵隊として暴れまわります。これが「黒衛軍」と呼ばれる黒一色の不気味な軍団で、その無敵ぶりと莫大な維持費で各国を驚嘆させます。その最大の戦果がウィーン攻略で、冷酷無慈悲な砲兵として活躍しました。このことは、各国の王達に「常備軍的傭兵隊」の存在へ注目させるきっかけともなります。

また彼らは一部ですがオスマン帝国とも対決。オスマン軍は彼らを「悪魔の兵士」と呼び恐れ、直接戦闘にはいるのを恐れました。ヴラド・ツェペシュがその「強さ」に魅入られたのも無理ありません。彼らの強さは、彼らがフス派時代から受け継いできた装備と戦術の洗練にありました。

フス派時代の小火器はたいした威力はありませんが、すでにサーペントガンが現れ、幾分改良型も存在したようです。また彼らは銃の弱点を他の武器で補う(戦車はもちろん弩や長槍の密集隊形)こともやっており、それはその時代の水準からみると驚くべき質の高さです。ただ、これほど高品質な軍隊を維持するためにはあまりに高額な費用が必要で、ハンガリー王国の財政をおおいに圧迫しました。また、この高度な技術と宗教的信念になにか絡みがあったのか、これを学ぼうとした者達もすべて失敗します。

実は「戦車&小火器」の組み合わせはあちらこちらで行われており、有名なところではメフメト1世によるウズン・ハサン(白羊朝)撃破でも使われています。ただしこれは基本的には緊急非難的意味合いが強いものです。が、セリム1世によるチャルデラーンの戦いでは明確に「砲兵車」なる兵が存在し、サファヴィー軍の突撃を完全に封じました。

で、ここに面白い事例があります。メフメト1世にコンスタンティノープルを落とさせるきっかけとなった「大砲」を作った「技術者」ウルバンは、ハンガリーかトランシルバニアの出身だといわれているのです。ところが双方ともフス派の戦争に巻き込まれた地域であり、その内紛後も逃亡したフス派が隠れ住んだところがあります。そればかりか、オスマン軍の戦車陣そのものが「タボル」(フス派の最大勢力で、その急進派の名称でもある。ヤン・ジシュカはこれのリーダー)と呼ばれているのです。

フス戦争はその後の30年戦争および宗教改革の地盤を築いたできごとでした。女性や子供までもが戦闘に加わり、封建制に対する叛乱にまでにいたったこの戦争で、従来とは違った戦争のスタイルが形成されていたことは、その後の欧州史を考える上で非常に興味深いです。

ちなみにヤン・ジシュカについては、後に関東軍の石原莞爾が欧州視察で「名将である」と褒めちぎっているようですが。寡兵をもって大軍を破りまくったという意味では、その後継者であるプロコプとともに天才でしょう。

http://www05.u-page.so-net.ne.jp/jd5/kolvinus/


#3012 
ひで 2002/07/11 20:10
大砲話(ちょこっとだけですが)

>ホリー・ハンター様
世界的に見たら19世紀の半ば頃まで野戦で用いる大砲に関しては青銅製の砲が用いられていま
す。ナポレオンの軍隊の大砲も青銅砲が主流ですし。
鉄の大砲ももちろんありましたが、それは戦艦に据え付ける定置砲や要塞攻撃に使う大型の砲
として用いられていることのほうが多い(ということを昔読んだ記憶があるのですが)。

 青銅のほうが軽量で、なおかつ強度のある砲身を作りやすかったために、青銅が長らく野戦用の
大砲を作るのに用いられてきました。当時の砲身は金属を鋳造して作っていますが、鉄だと当時の
切削道具では中をくりぬくのが難しいこともあり、軽量で動かしやすい野戦で用いる大砲を作る
には青銅を用いた方が良いわけです。
 フランスの場合、ルイ15世の時代になると砲身が短くて、軽量の砲の開発が進み、さらに口径、
砲架、備品の規格の統一が始まるとともに互換性を持たせるようになります。このときに大砲に
関してそれが可能となったのは当時砲身に青銅を用いていたためだとのことです。製砲方法とし
ては青銅の塊を鋳造してその塊をえぐるという、何とも工夫が無いように見える(しかし青銅の
特性を考えると極めて合理的な)方法をとることでそれを可能としたそうです。
 何でフランスで軽量・頑丈な大砲づくりが行われたのかというと、18世紀後半に入ると、部隊を
迅速に移動させて相手の弱点をつくという戦い方に移行しつつあり、そのような状況下では攻囲
戦には向かなくても野戦で威力を発揮する機動性を持つ大砲が必要となったためです。

ちなみに互換性技術は大砲からスタートして、その後マスケット銃の製造でも導入されますが、
伝統的な職人の反発もあり、フランス本国ではあまりうまくいかなかったようです。ただしフラ
ンスの互換性技術にいたく感心したトマス・ジェファソンがアメリカに互換性技術を持ち込んで
いくことになります。




#3011 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/11 10:59
鉄砲と大砲

世界的にみると、大砲は、最初、青銅砲が主流だったようです。
中国もそうらしく、鉄製大砲は、その後、作られるようになったとか。
ところが、日本は青銅砲が普及することなしに鉄製の大砲からいく〜
とゆう、世界的にまれな火砲の歴史だそうで。
(ただ、九州の戦国大名が、バラカン砲と呼んだ青銅砲を配備していた
とゆう説も聞きます。)

明が日本刀を輸入した〜と書きましたが、正確には、明国内の
反乱分子が密輸していたそうです、明は、それを取り締まった過程で
押収した日本刀を鋳つぶしたり、何本もくっつけて叩き直したりして
明軍の青龍刀を一部調達していた〜とゆう兆候がみられたそうで。

明国内の反乱分子とは、海岸部で明軍を苦しめた倭冦も含まれるそうで、
倭冦とは日本人と中国人の混成海賊であったのでしょうね。

徹夜城さん が書かれた鳥銃は、中国から購入した鉄砲のことだそうで、
ポルトガル製の種子島から伝来した鉄砲とは、また違う流れをくむ銃だそうで、
中国と貿易が盛んだった大内氏は鳥銃は多く配備してたそうで、
一方、黒潮の関係で種子島と定期的に交流が容易だった紀州雑賀地方は
また製鉄も盛んだったことから早くからポルトガル風銃が普及したのだとか。

そもそも、火薬を発明したのは宋だし、西洋銃の模倣では無く
中国で独自に開発した鉄砲とゆうのは、あったのでしょうか?

焼き入れした鋼の細かい部品から成る複雑な構造の小銃に比べ、
構造が大ざっぱな大砲は、特に青銅砲は鋳物で作れ
西洋、中東、中国とも、かなり長い間、攻城用の兵器として
使われていたようで、清がロシアとシベリアを巡って初めて
衝突した頃は、清の火砲は青銅砲が多かった〜とゆう話を聞きました。



#3010 
徹夜城(「ゴジラvsメカゴジラ」よりは楽しみな企画を知った管理人) 2002/07/11 00:42
鉄砲かついで鳥取県

別にタイトルに深い意味はないっす(^^;)。肩書きのところの話は栄耀映画のほうで。

>ホリー・ハンターさん
うーん、これは僕もすぐには答えが出てきません。
鉄砲(火縄銃)を先に導入していたのは「倭寇」であるわけですが、その多くは中国人だったわけで、中国本土にはひょっとすると日本より早く鉄砲が入ったいたかと思われます。しかし軍隊など一般に普及したのは日本より遅かったのは確かでしょうね。明側で「倭寇から伝わった」と明記している資料がありますし。明の1560年代に編纂された倭寇対策書のたぐいにはすでに火縄銃(鳥銃と呼ばれる)が分解図入りで紹介されていました。
で、秀吉の戦争において明側がどういう武装だったのかはここまでは深く突っ込んでない僕は正確なところはいえません。でもその後の中国が鳥銃よりも西洋風大砲主義になっていったという印象はあります。
その原因は製鉄の技術的な違いにあった…というのも説明としては興味あるところです。ただこれについても技術的なことは良く知らないんでコメントできないです(^^;)。日本刀がやたら斬れるものとして明側でも恐れられていたってのは事実なんですけどね。

>古屋三日月さん
感想、どうもですm(_)m。
道誉の告白ですが、まぁ僕も正直なところ「それはないだろ」と自分でツッコミ入れてました(笑)。ドラマ作法上の創作だと割り切ってくださいませ。ああしておくと、その後の展開もある程度説得力が出てくるんですよ。
頼之が父・頼春、そして清氏の死で平和志向になる、ってのもあくまでドラマ的に考えた組み立てです(身もふたも無く白状してますが)。もう一つ付け加えるなら、今後の頼之は自らの手で倒した清氏の遺志を継いで行くという構造にもなっています。はるかのちに頼之もまた清氏と良く似た境遇に追いこまれるわけですが、ここで二人の運命の違いが出てくるところにもご注目ください。
平和志向、とか言ったけど次回から始まる河野氏との抗争はまるで平和志向じゃないんだよなぁ(^^;)。それにしてもネット検索で調べると河野氏関係って結構出てきますね。

一ヶ月更新停止の「史点」はどうなった、との声が聞こえてきてますが、書いてはいます。しかし一ヶ月前の話題とかを今書いているという状況で…
恒例のサミットパロディもやらなきゃならんのですが、今年はまるでネタがないような…



#3009 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/10 05:27
明と桃山・日本の火砲主義の違い

↑のような お題が、私がよく寄る某HPの掲示板で盛り上がってました。
朝鮮出兵の際、明軍は大砲は多く装備してたが小銃は少なかった、
そして豊臣軍は逆であった、この違いは、両国の鉄鋼産業の違いでは
ないのか?とゆうところに現在は落ち着いています。

銃砲を作る上で、刀剣を作る〜製鉄技術は、下地なんでしょうが、
明は鋳物がさかんで、日本は鍛造品が優れていた、
明は日本刀を輸入していた時期があったそうで。
ところが、明軍は日本刀をそのまま使うより、
あつらえ直し青龍刀にして使ってたとゆう話し。
なぜ、なんでしょうか?



#3008 
古屋三日月 2002/07/09 18:49
ムロタイ感想

ちょっとご無沙汰してました。
ムロタイもとうとう清氏の死を迎えたのですね。

解っていてもそのシーンではうるうるしてしまいました;
のちに頼之が和平への道を進むのも
この戦いで戦のもたらすむなしさを痛烈に感じたからかな、と思えたり。

今まで清氏は「頼之の引き立て役」というイメージしかありませんでしたが
このドラマでだいぶ変わりました。
ありがとうございます、徹夜城さん。

今回分では道誉の独白が印象的でした。
決して自分の利得だけで動いてなかったのね道誉。
幕府のため、と守りに入ってるのは老いたからかな?と少しさみしくもなりましたが
大きな視点で物事を見極められる道誉だからこその決断で
嬉しくもなっていました。

道誉と頼之の会談シーンはとても嬉しかったです。
斯波義将や正儀との会談もあるだろうと勝手に期待しています♪

今後は正儀と頼之の友情や、基氏死のシーン(←登場するのかな;)も
楽しみに拝見していきたいと思います。
後半戦もがんばって下さいねー



#3006 
徹夜城(また更新作業が遅れている管理人) 2002/07/07 23:52
ああ勘違い

ソ連映画「戦争と平和」のあるシーンでロシア帝国国歌のメロディーが流れる、と昨日書きましたが、確認したところ勘違いでした。アメリカ・イタリア合作版の中のまったく同じシーンの記憶と混同していたようです。

>原田実さん
継体天皇陵についての詳しいお話、ありがとうございます。
確かに古墳時代の「天皇陵」ってほとんど当てにならないらしいですねえ。最近じゃ教科書も「仁徳陵古墳」って表記をしなくなってきてますよね。実際に掘ってみても墓誌がないとなると誰の墓だか確定はできないんでしょうね。

>貧乏神さん
僕もNHK教育の世界史講座とかたまに見てますよ。要領よくまとめてくれているのがあると、なかなか勉強になります。
南北朝時代って確かに複雑怪奇ですからねぇ。戦国時代みたいな地方ごと、あるいは全国統一をめざす国盗り合戦ならまだ理解しやすいのですが、南北朝は全国を軍勢が駆け巡る大戦略と各地方ごとの紛争とがあいまった乱世ですからうっかり入り込むとかなり難解です。今ひとつ人気が出ないのもそのせいなんでしょうけど…そのぶん一回はまると抜け出せない中毒性があります(笑)。

>タロイモさん
僕もNHKスペシャルのプーチン特集前後編とも見てました。大変興味深い内容だったと思います。日本で流れる表面的なニュースだけではとらえきれない権謀術数の世界が展開されてました。とりあえずプーチンのイメージは有能な冷徹官僚タイプ、ってところなんですけど。
17歳の少女たちの自爆テロの映像はやりきれないものがありましたね。以前、BSで放映していた海外のドキュメンタリー番組(たぶんイギリス製)でパレスチナの武装グループの取材をしていましたが、彼ら武装グループ同士が自爆テロの実行者の数を競い合うさまを、彼ら自身がイギリスのサッカーリーグが切磋琢磨して強くなっていく様子に例えているのを見てゾッとしたものです。指示を出す側は自爆テロしないんだよな、だいたい。息子が自爆テロで死んだ母親が「事前に知っていたら私は絶対に止めた」と語っていたのが強烈に印象に残りました。



#3005 
タロイモ 2002/07/07 22:23
ロシアと中国

昨日、今日と放送されたNHKスペシャル「ドキュメント ロシア」
久しぶりのNHKスペシャルらしい放送で、何とも見応えがありました。
ご覧になった方は居られますでしょうか?
プーチン大統領は中央政界入りする前は、サンクトペテルブルグの副市長さんだったのですね。
その時に外国資本との関係がよりいっそう緊密になったとのことで。
今日放送された、ロシアへの自爆テロを決行直前の17歳の少女たちの映像は衝撃的でした。

自分自身のことですが、明日から中国の北京へ旅してきます。
団体旅行なので自由に動ける時間がほとんど無いのは残念無念。
北朝鮮難民の大使館への侵入事件などもあり、以前と比べると治安がずいぶん悪くなっている
ようなので多少心配ではあるのですが・・・
北京市内の学校でお菓子作りの実習などもあり、楽しみではありまする。



#3004 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/07 10:19
先祖を解明されるのは

皇族・宮内庁(省じゃないのね?)は、日本の古代史など
調べて欲しく無い〜のも分からんでもない、あの頃は
皇族・天皇は、生臭い存在で日本の政争にドップリ漬っておられた
であろう、大化の改新にしろジンシンの乱にしろ〜
ヤマトタケルの伝説にしろ〜陰謀が渦巻き血生臭そうであられるからね。



#3003 
原田 実 2002/07/07 00:40
上代で陵墓が判明しているのは継体のみ?

本当の継体陵かと話題になっているのは、大阪府高槻市の今城塚古墳です。宮内庁指定の伝継体天皇陵(ああ、ややこしい)は『日本書紀』による継体の推定年代と合わない、むしろ今城塚古墳こそふさわしい、という説が考古学者の間で広まったのは、1980年代の半ばで、新しい話ではないのですが、最近、国内最大級の家型埴輪が周縁部から出土して、天皇陵説をほぼ決定づける形になりました。
 しかし、宮内庁指定の上代の天皇陵は、考古学的推定年代についての異説があったり、史料ごと(記紀,延喜式など)に書かれた所在地が異なっていて特定が困難だったりと、いずれも疑問だらけです。古墳時代の日本では墓誌を作る習慣がなかったので、考古学的手法で被葬者を特定することは困難です(思えば埼玉県の稲荷山鉄剣銘は、同時代の大王の名が書かれているだけではなく、被葬者の名が副葬品に書かれていたというだけでも本当に珍しい出土例でした)。
 そうしてみると、今のところ古墳時代の天皇で、かなりの高確率で陵墓が判明しているのは継体のみ、という見方もできます(宮内庁としてはあまりうれしい話ではないでしょうが)。

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


#3002 
貧乏神 2002/07/06 23:44
複雑怪奇

こないだ、深夜にやってる高校講座の再放送を偶然見ることがありまして、わりと
時系列をうまくまとめて説明してくれてたおかげで、ようやく南北朝を自分なりに
理解する糸口がつかめそうです。(^^;;
お恥ずかしい限りですが、教育番組って、おとなになってから見ると、結構ために
なるものがあったりもします。
ムロタイも斜め読みする程度(失礼)だったのですが、改めて読み直します。はい。

>ペテルブルク
なるほど。たしかに、エカテリンブルクというのがありましたね。エカテリーナ2世は
プロイセン出身だったと思いますが、そこら辺も関係してるのでしょうかね。

>スラブ行進曲
小学生の頃、転校する際に先生にレコードをもらったことがありまして、それ以来、
お気に入りの曲になっております。たいてい、「1812年」という曲と同じCDに入って
いるのですが、こっちの方はフランス国内では演奏禁止だとか。揃いも揃って
いわくつきの曲なのですねぇ。

>天皇陵
歴史屋さんをやってる友人と呑んでるときに聞いたのですが、あれは掘るのも良し
悪しで、あとの維持管理をちゃんとしないとかえって後世の歴史家が迷惑するのだ
とか。江戸時代に掘られた古墳なんかは、掘ったおかげでダメージを受けていたり
するようです。
それと、古墳が作られるのは、たいてい、「良い土地」なので、古墳の下にさらに
古い遺跡があったりして、それも考慮して掘らなきゃならないので結構大変だとか。

>最後の授業
私も国語の教科書で読んだことがあります。その後、高校生の頃に、「北方四島は
日本固有の領土です」のパロディで「エルザス・ロートリンゲンはドイツ固有の
領土です」というのを考えたことがありましたが、さすがにわかる奴は多くはなかった
ですね。(^^;




#3001 
ホリ−・ハンタ− 2002/07/06 22:21
ノルマンディの味?

私の中学の社会の教諭は趣味が海外旅行とゆうリッチな人物だった。
彼のウンチクによれば、料理を見れば、フランス人とノルマン人の
違いが分かるとか。知られているようにフランス料理というものは
何でもかんでもソ−ス攻めにする濃厚な料理が主流だが、
ノルマンディ地方の料理は、焼き物が主流で味がシンプルで
フランス料理のようにイヤミな上品ぶったところが無く、
豪快な感じがすると〜と言ってましたっけ。
その教諭は岩塩味付けのム−ル貝のバ−ベキュ−と
カモのウイキョウの味付け包み焼きが
ノルマンディでは絶品だったと言ってましたが
ウイキョウって何なのか未だに私は分かりません。



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