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#4200 
徹夜城(もう夏期講習の準備に追われている管理人) 2003/07/17 23:00
深夜の衛星映画劇場は歴史もの特集だったか?

>鵺さん
今夜は1926年版「ベン・ハー」ですか…これは以前僕は見てますね。今夜のも弁士つきなのかな。戦車競争シーンはこの時代でもこれだけやれたのかという迫力ですよ。
確か「ベン・ハー」はこの26年版以前にも映画化されていたはず。
「クロムウェル」は以前ビデオで借りて見たことがあるんですけど、ものすっごくつまんないです(笑)。歴史映画好きの僕が辟易して途中で寝ていたぐらいですから(笑)。後で知ったけど四代目「007」ティモシー=ダルトンが出演していたそうですな。
「ニコライとアレクサンドラ」も大作には違いないけどイマイチ。歴史上の人物がゾロゾロとソックリさんで登場してくるのが見ものと言えば見もの。
「城取り」は未見だったんで、これを機会に見てみましょうかね。未確認の話なんですが、聞くところではこの司馬遼太郎の原作はもともと映画化を意識して執筆した(あるいは依頼があった?)小説らしく、主人公は石原裕次郎を想定して書かれているのだとか。司馬が自らこの作品を除外しているのもその辺に理由があるように思われます。
鄭成功が出ているという作品は僕も知らないなぁ…。

>また一本映画ネタ
ずっと前にビデオにとっておいた中村錦之助主演・伊藤大輔監督「反逆児」を先日ようやく鑑賞しました。家康の長男で信長に腹を切らされることになってしまった悲劇の武将・徳川信康が主人公であります。
冒頭に意外に派手な合戦シーンがありましたが、そのあとは基本的に悲劇へ向かって落っこちていくやりきれない展開ですね。こういうテーマで映画が一本作れたというのもすごいというか、時代劇全盛の時代というべきか。月形龍之介の信長はこういうお話ですから当然悪役。信康の墓が映るラストカットに「信長もその二年後本能寺に斃れた」としめくくられてます。徳川家康は佐野周二、築山殿は杉村春子でありました。
大河「徳川家康」でもこの当たりは当然詳しくやっておりまして…滝田栄の家康、役所広司の信長、池上希美子の築山殿、宅麻伸の信康という配役でしたな。

>ななさん
「その時歴史が動いた」のシーボルトの回は仕事から帰って最後の部分だけ見てました。ちょうどいま漫画の「風雲児たち」でもシーボルトのこうした大活躍が読めるのですが、まぁ知れば知るほどいろんな意味で大した人だとは思います。日本に来たのは明白にスパイ活動でもあったんでしょうけどね。その後の開国に向けての運動はたぶんに個人的理由によるものとしか思えないけど。
シーボルトの娘イネもこれまた劇的な生涯を送ることになったわけですが…



#4198 
2003/07/17 16:51
トロイヤ戦争・・・

クロムウェル・・・見逃してしまったo@(TェTo)@
と、思ったら今日は‘26年版の「ベン・ハー」ですか(^。^;)、深夜じゃ観れないからビデオ・・・っと落雷で停電したんだ、時間合わせなきゃ(笑)。
一月先までわかる放送予定みてましたら
http://www.nhk.or.jp/bs/guide/g_movie_bs2.html
今月は「ニコライとアレクサンドラ」等放映するそうですね。。。
おや、と思ったのが25日の石原裕次郎主演の「城取り」。コレって司馬遼太郎原作で、絶版だったのが最近復刻されたヤツですね。確か何かの事情があって絶版になっていたと思うのですが、ご存知の方いますでしょうか?
もう1つ「鄭成功」が出てくるというヤツも絶版になっていたような・・・



#4196 
なな 2003/07/16 22:55
一年の猶予

今日の「その時歴史が動いた」は興味深かったです。
新発見の書簡から分かった、シーボルトとペリーの関係。
「幕府は何かと返答を引き延ばそうとするだろうから、そこで焦って武力にうったえてはいけない。忍耐強く交渉して、だめなら幕府に一年間の猶予を与えよ」という作戦が、実はシーボルトがペリーに伝えたアドバイスだったとは。
短気で武力行使も辞さないというアメリカの姿勢も、スパッと即決できない日本の姿勢も…伝統ですかね?
今日の番組で、シーボルトはやたら「いい人」に描かれていたけど、仕事上海外情報を何とか入手したい幕府天文方高橋景保を焦らしたり、安心させたりして、交換条件でしだいに重要な機密情報を引き出していく手腕はそうとうに老獪だと思ってます。

>お馬さんの…
西洋と東洋で同じような使われ方をしていたんですか。傷口の外用薬ね…。
ならば本当に薬効があったんでしょうね?
今一度その成分を研究したら何かすごい新発見があるかも?(^^;
そういえばウグイスのフンも、最初は着物(絹)の染み抜きに使われていて、その効果から女性の洗顔料に使われるようになったらしいです。美白効果とお肌すべすべになるって。



#4194 
徹夜城(出勤はやたら早い日とやたら遅い日がある管理人) 2003/07/16 10:12
ハリウッドは古代史ブームか?

尾鳩さんに引き続いて映画ネタなんですが…レッキとした歴史モノの範疇の話であります。
レオナルド=ディカプリオ主演で「アレクサンドロス大王」を製作中であるのは知っていたんですが、今朝TVのワイドショーのデーブ=スペクターの海外芸能コーナーを見ていたらブラッド=ピットがアキレウスを演じる「TROY」なる映画が製作中であることを今頃知りました。そう、昔懐かしの「トロイア戦争」を描いた映画であります。原作はホメロス…ってことになったら史上最古の映画原作者か(笑)
検索で調べてみたら、こんなサイトが。しっかり配役も載っております。
http://www.e-blooming.net/films/troy.htm

プリアモス王にピーター=オトゥールですかぁ。この人も数はそう多くは無いけど歴史物に定番で顔を出している人のような。パリスのオーランド=ブルーム、ってのもどうなるんだろうな、というところ。歴史モノの配役発表は東西を問わずワクワクするものであります。注目のオデッセウスはショーン=ビーン?
監督はウォルフガング=ペーターゼン…いやはや、幅広いお仕事をされている方でございますな。「Uボート」「ネバーエンディングストーリー」「アウトブレイク」「エアフォースワン」、近ごろでは「スーパーマンvsバットマン」という話も聞きましたがこれはシナリオ段階で難航しているらしいですな。

「グラディエーター」で久々に古代ローマ史ものをやったと思ったら、時代をさかのぼってギリシャ史方面に手を伸ばすようになったみたいですねぇ。「アレクサンドロス」は過去にもあまり例がないのですが、「トロイ」は何度目かになるんじゃないかな。僕はTV深夜帯でひょっこり放送していた「トロイのヘレン」って昔の映画を見たことがあります。あれはヘレン(ヘレネ)とその夫パリスが「善玉」でありまして、アキレウスがほとんど悪役だったというのが面白いところでした。「木馬の計」もばっちりやってましたしね。
今度の「トロイ」、主役がアキレウスだとなると戦争終結前に戦死してしまうので「木馬の計」はラストのおまけみたいになるのかなぁ…

なお、今夜のNHK衛星第二深夜に「クロムウェル」やってますね。



#4186 
尾鳩 2003/07/14 19:45
小松方正さんと言えば

「ジャッキー・チェンの映画「酔拳」や「蛇拳」に出てた爺さんの吹き替えの声の人」
というのを思い出してしまうんだよなあ。
あの爺さん(袁小田)の役柄にぴったりとマッチしていました。いい俳優は、いい声優でもある、ということですかね。その逆は・・・わかんないです。
「Mr.Boo」のマイケル・ホイの声担当の広川太一郎さんといい、ジャッキー・チェンの石丸広也といい、吹き替えって結構重要ですよね。
かつて、「古畑任三郎」を見ていたとき、刑事コロンボの吹き替え担当の石田太郎さんが出られていて、コロンボと任三郎の共演だ〜〜〜、と一人で盛り上がっていたことを思い出したりなんかします。
あっ、これは映画版で書くべきでしたね。
反省、反省。



#4185 
徹夜城(このところ歴史コーナー更新をほっぽりだしてる管理人) 2003/07/13 23:46
名和長年逝く

大河ドラマ「太平記」で名和長年を演じていた小松方正さんが亡くなられました…
それを口実に久々に南北朝ネタを書いたりして(^^;)。

ちゃんと調べたわけじゃないですが、名和長年を演じた俳優さんって小松さんぐらいしかいないんじゃなかろうか…その昔「大楠公」なんかもあったからチラッとは出ていたかも知れないですけど。
ドラマ「太平記」の名和長年は出自に謎が多く「いわし売り」とも記録されているところもありまして商人風の外見に描かれておりました。長年のスタイルが「伯耆様(ほうきよう」ともてはやされた、という話もドラマで描かれてまして変わったスタイルになってましたね。小松さん演じる長年は初登場時からペッペッとつばをつけて髪をなでたり公家の懐にカネを押し込んだりとなにやら悪徳商人っぽい感じでしたね。
 建武の新政のあたりでもずいぶん出番が多かったですが、阿野廉子派ということで公家さんスタイルで宮中に出入りしているシーンが目立ちました。一番の見せ場は堤大二郎の護良親王を宮中で逮捕するシーンでしょうね。「是非もない、お縄をかけい」「帝のご叡慮でござる」と冷たく言うシーンが忘れられません。
 そして何と言っても第37回で戦死シーンをしっかり演じられたことが大きい。敵と激闘して相手を切りつけようとしたところへ矢があたり、逆に首をかかれるという凄まじい死に方でした。同じ回で死んでいるはずの本木雅弘=千種忠顕なんてセリフで済まされてましたからねぇ(陣内道誉が「千種どのも露と消えた…」とつぶやくだけ)。

最近「史点」ほか歴史コーナーの各種更新がとどこおっていてすいません。いや、実はかなり書いてあるものがあるんですが(恒例のパロディサミットも書いてます)、時期を逸したものとか新規ネタと結びつくものとかいろいろあって…諸般の事情で難渋してます。気がつくと「市中引き回しの上打ち首」と言い出す時代劇マニアやら「日韓併合は国連が認めた」との高校入試に落ちそうな発言をしている政治家などネタが次々入ってますが…(笑)。

「ムロタイ」の暴露大会も第2回で終わるのですがまだ書いてない。これは次回連載小説企画の予告編を同時に打つ予定で、その小説の書き出し準備が史料整理などのためまだできてないためです。「ムロタイ」と違って小説なので手が抜けませんし(じゃああれは抜いてたんかい)一回でそれなりの量を掲載しなきゃなりませんしね。

まーぼちぼち夏休みが近づいて夏期講習シーズンに突入しちゃいますから、動いておかないといけませんね。
それと近日中にアクセスが増えるかもしれない…ということもありまして。



#4184 
夜なべ紳士 2003/07/12 00:34
ヴェニスの商人

おおまかな話でいくと
中世初期、ノルマン人等が活躍した頃ですと、地中海での奴隷の移動は西から東へと流れていました。ノルマン人らが捕らえた人たちから身代金を取れなきゃ売ってしまえといったところで、ビザンツやイスラム圏に売られていきました。そのお手伝いをした商人のなかにヴェネツィア人も含まれてたんですけどね。
 ところが、教皇がキリスト教徒の奴隷売買を禁じると表立った取引を控えざるを得なくなっていき西から東へと奴隷が輸出されるという流れが縮小されていきます。しかし、イスラム圏には依然根強いニーズがある。こうした状況で、目をつけられたのがスラブ人というわけ。そのおかげで、スラブ(スレーブ「奴隷」)といわれる由縁。ただ、少年十字軍やハーメルンの笛吹き男(実際にあった事件)といったヨーロッパから奴隷が出た事例は依然後を絶たないんだけどね。

http://home.owari.ne.jp/~ouka/


#4183 
民本主義者 2003/07/11 16:33
薬品としての糞便

戦国時代に実際に戦った人物に取材して江戸時代に書かれた『雑兵物語』には、斬られたり鉄砲で撃たれたりして出来た傷には馬糞を塗り付けといいと書いてあります。これは外用薬。
内服薬としては漢方の「人中黄」というのがあります。
http://www.999.com.cn/Professional/Drug/Herb/200012/2698520001227.htm
この中国の医学に関するサイトで紹介されています。
しかし効くのかねえ?「すごいものを塗った/飲んだのだから効くはずだ!」という思い込みがプラセボ効果を生むのかも。二重盲検法の検査をやったら、被験者は大変でしょうな。
「一つは糞便、もう一つはブドウ糖。さあ、どっち?」





#4182 
久保田七衛 2003/07/11 00:44
気分は、「うーん、○ンダム」

遅くなりました。ご紹介を、、、。

『他疾患と同じく創傷もいろいろな種類の糞便で治療され続けた。メソポタ
ミアでは疼痛の局所が糞で治療され、エジプトやインドでも創傷は糞で治療
されたが、このような治療はタルムード(、、、ユダヤの法律と伝承の集大
成本)でも推奨されている。糞そのものもしくは乾燥させて粉末にした糞
は、プリニウスにより金創に対し有効とされ、糞による創の被覆はケルスス
によって推奨され、中でも鳩の糞による創処置はガレノスにより推奨され
た。』(シャピロら『パワフル・プラセボ』原著1997年協同医書出版
社)

 大学の図書館にモンゴル医学の本があったけど、馬糞についてなんか書いてあったかなあ、、、。



#4180 
三四郎 2003/07/08 22:29
農奴

久保田様  有難うございました
どなたも 何かアカデミックな視点をもっておられて 烏の餌食いみたいにあっち齧りこっち齧りの身としてはお恥ずかしい限りですが  ここがINのいいところで
厚かましく書き込みをしています

ロシアの農奴の収穫物の配分はどうしてたんでしょう
江戸時代の日本の場合は 収穫量に対して5:5とか 割合だったらしいですが
収穫物の全量は いったん農民の懐に入る訳ですよね

ロシアの農奴の場合は 全量 領主が倉庫に入れた後 農奴にはあてがい支給という形をとったんでしょうか? 話は飛んで コルホーズの実態は あてがい支給なのか 歩合支給なのか  さらには人民公社も

マルクス理論には そのような社会システム(サラリーマン的な対価配分)が語られているんでしょうか
コルホーズも人民公社も失敗したようですが 
マルクスの理論の齟齬によるものなのか またはそのような制度を作り運用した人達に
問題があったのか 興味は続きます 




#4179 
なな 2003/07/08 22:10
前期倭寇は美術品窃盗団か?

不定期に韓国関連のサイトを巡回しますが、たまに思わぬ拾い物をします。
先月に気がついていれば岐阜まで見に行ったのですが残念です。

http://gifukorea.net/index.php
↑ここの掲示板の最新記事です。たぶん韓国の歴史番組をビデオ上映したのでしょう。
要約文の前半部分についてはおおむね賛成してます。
高麗史節要を見ると、寺院を標的にした記録もみえますから。
しかし美術品の目利きなぞ部隊に数人いれば十分と思うので、倭寇を「プロの美術品窃盗団」とのみ仮定するのはどうなのかな…。けっこう目からウロコの新説でしたけどね。
それに現在日本にある高麗時代の美術品が"すべて"前期倭寇の盗品とは限らないでしょう。
対馬と高麗の進奉関係や、日宋・日明貿易経由の物、秀吉の朝鮮出兵で持ち帰った物、私貿易その他…由来はいろいろだと思うんですよね。(^^;)
「麗末倭寇は精鋭部隊だった」と番組内で明らかにしたそうで、もし今後機会があればぜひこの番組を見てみたいです。

韓国のウェブ新聞もそうだけど、記事の3/2くらいまではいたって冷静で客観的な書き方なんですが、最後の〆で急に反日的なデンパに変身するみたいですね。
要約文の最後の方、「千年経って…」以降の意味が謎ですわ〜。(^^;)
前期倭寇の時代からはもちろん千年経っていないし、これが高麗建国時だと言うなら「高麗時代全期間の美術品は大部分を前期倭寇に持ち去られたのだ」という論理に"さりげなく"飛躍していませんか?
これについて韓国側と同じ土俵で意見交換なり反論反証なりしようにも、倭寇の基礎文献でもある高麗史・高麗史節要が(一部の研究者を除き)一般人にはほとんど閲覧不可能な日本の現状はかなり不利だと思いますです…。



#4177 
久保田七衛 2003/07/08 01:55
奴隷について

>広義にはどんな定義になるんでしょう 身柄の所有権を他人に握られた人達?

とりあえず暫定的に、古代史の吉村武彦氏の文章を借りましょう;
「奴隷は第三者(個人または共同体・国家)の所有主に属する人間−いいかえれば所有の客体であり、所有主の「生きた労働機械」にほかならない。」
(「古代の社会構成と奴隷制」『講座日本歴史2』東京大学出版会;1984年)

>ロシアの農奴はどうだったんでしょうね

 いわゆるマルクス主義的な唯物史観でいえば、古代的生産様式の基礎にあるのが奴隷制で、中世封建制的生産様式の基礎が農奴制、となります。奴隷と異なり農奴は(土地・労働に関わる拘束度は大きいものの)例えば生殺与奪権まで握られてはいません。古代から中世へ経過するにつれ、生産関係が発展的に変化した結果、奴隷にあたる階級に形成されてくるのが農奴、と大雑把にはいえるでしょう(岩波『ドイツ・イデオロギー』あたりが基本図書です)。

>俘囚も奴隷の一種だったんでしょうか?  
>関東に高麗神社というのがあって 朝鮮系の神様だといわれていますが
go to east 大和朝廷フロンティアの先兵としての朝鮮人なのか その形態は奴隷?

 日本の古代社会において、「奴婢」から「斑田農民」までの諸身分でどこまでを「奴隷」に含めるかについては重厚な論争があり、にわかには決着はついていません。前出の吉村氏によるならば、「王土王民制」的な支配原理の中で、王民として把握され得ない「賤」民と「夷狄」は「化外の民」として田地の賑給対象にならないなどの点で共通点があるわけですが、「夷狄」が「王民」になるための1過程(1種の通過儀礼として把握可能でしょう;この儀礼途中にある元夷狄を「俘囚」「田夷」と表現します)として入植・開墾をさせるわけですので、はたして奴隷といってしまって良いかは疑問です。在地に根付いた渡来人の中には古墳をつくれるような階層が含まれる、というのが一般的な理解ですし(長野県大室古墳群などが例として妥当と思われます)、相模国高麗神社でいえば入植してきた人物は「『高麗王』若光」とされるわけで、、、全員を奴隷として把握するのは実態を反映していないような気がします。

 結局「奴隷」は難しい、としか久保田にはいえません、すいません。

追伸;ちなみに日本において古代の奴婢と中世の奴隷がどう結びつくのかは、ただいま勉強中です(中世の身分制論で岩波講座日本歴史あたりにあったような気がします)。藤木氏『雑兵、、、』では承平天慶の乱から書き起こしていますが、それ以前の「奴婢」との関係までは書かれていないようですね。

尾鳩様;大学のコンピューターが壊れました(笑)。連絡をしばらくしておらず誠に申し訳ございませんが、それなりに準備も進んではおり、また改めてご連絡をいたします。



#4176 
みーむ 2003/07/07 22:33
いろいろ

三四郎さま

まあ、私のヨーロッパ人は、というの設問は雑ぱくに過ぎたかも知れません。日本でも狩猟の習慣はあったと思いますが、(武士の鷹狩だとか、山村では動物性のもので栄養をかなり補っていたそうですし)それが許されないものである、という観念があるところは西欧と違うんでしょうね。それにしても、「西欧人=狩猟民族」という論はだれが言い出したんでしょ。和辻哲朗あたりでしょうか。

奴隷制というと、私の乏しい知識では、「問わずがたり」で二条が物参りの途中、宿泊先で下人にされかかるという話がでてきます。下人というのは、よその家に勝手にいくと「とらえて打ちころさむ」と主人がいったりしますから、奴隷的な身分なんですよね? 二条の話は、地理的な記述が乱れているので、本当かどうか疑う人もいるようですが、旅人が宿泊先で奴隷にされるなんてこともあったんでしょうか。



#4175 
三四郎 2003/07/07 21:53
奴隷と狩猟の民の定義

管理人さん  
奴隷の定義はおっしゃるとおりで 1パターンに決め付けるといけませんね 反省
広義にはどんな定義になるんでしょう 身柄の所有権を他人に握られた人達?
ロシアの農奴はどうだったんでしょうね
俘囚も奴隷の一種だったんでしょうか?  
讃岐の佐伯氏 防州の安倍氏 ここいらは陸奥から移されたとも読んだことがありますが  彼らは奴隷?  ますます分からない
関東に高麗神社というのがあって 朝鮮系の神様だといわれていますが
go to east 大和朝廷フロンティアの先兵としての朝鮮人なのか その形態は奴隷? 

みーむさん
私の狩猟民族の定義は その 適当です  すみません
文化を持った時点で もう その人達は狩猟の民ではないのかもしれません
体型的に細面で足が長くて髭が濃くて(猫か)獣を追いかけるのに適していそう
それから 下品な話ですが 以前porno movieを見たとき 必ず靴を履いたまま もしくは靴下をはいたままだったんです このときハタと膝を叩きました
「なるほど いつでも追いかけられるように 逃げられるように 靴は いつもはいたまま まさしく狩猟民族の血だ」・・・・・・・やっぱ下品でした 済みません

ギリシャ人はどうなんでしょう 紀元前は今よりは雨が多かったはずで チグリスユーフラテスの麦も入ってきていたでしょうし 定住牧畜と農業の民になったんでしょうか
ケルト人・・ん〜〜  牧畜くさいですね ケルト人の故郷はアルプスを中心としていたらしいですから  カサエル時代のガリアも狩猟の地とはいえないんでしょうしね




#4173 
なな 2003/07/07 01:14
日本の奴隷

「日本の奴隷制」についてのページです。↓
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-5.html

↑ここの中世の記述とかぶるんですが、「雑兵たちの戦場〜中世傭兵と奴隷狩り〜」という本でも、当時の日本国内や朝鮮役での奴隷狩りの様子を知ることができます。
てっきり徹夜城さんは最初にこの本を紹介されると思ったのですが。
ちなみに私が南北朝時代の軍隊編成について「戦国時代と似たようなものだったかも」と誤解したのは、この本冒頭の解説が分かりづらかったからです…。(^^;)

民話や神話は全然詳しくないので何とも言えませんが、生々しい奴隷のお話として残っていなくても、一見関係のない昔話に実は痕跡ていど残っているとか…。
能や狂言に唐人物というジャンルがあるんですが、国際結婚夫婦や親子の微笑ましくも切ない別れや再会の物語なんです。
特に能の方は演劇として、江戸時代は幕府の芸術にもなり、中世以来の演目も美しく脚色され洗練されただろうと想像します。能よりは後年まで自由だった狂言の方が、同じ題材の演目でも人間くささが残っているそうです。
そう思うと、中世にできた演目の原型はもっと生々しい、当時の世相を反映したものだったかもしれません。

根こそぎの奴隷狩りについては、前期倭寇が長年にわたって横行した結果、高麗末期には半島中南部の沿海地方に人がいなくなったとあちらでは記録されています。もちろん拉致以外にも住民の逃散や殺戮も含めての話でしょうけれども。



#4172 
みーむ 2003/07/07 00:02
ヨーロッパ人

先日はなにやら釈迦に説法をしてしまったみーむです。どうも。

ところで、三四郎さんはヨーロッパ人はもともと狩猟民族であるとお考えなのですよね。ままあ、突き詰めればみんなもとは狩猟採集民な訳ですが、たしかゲルマン人やケルト人は焼き畑農民ではありませんでしたっけ。ギリシャ人はどうなんでしょ。

ヨーロッパ人は狩猟民族だから、という議論は良く聞くような気がするので、ちょっと気になってしまいました。御教示頂けると嬉しいです。




#4171 
景虎 2003/07/06 23:41
蝦夷

朝廷による蝦夷政策については、ここ
http://www.hi-net.ne.jp/~ma/rurou.html
が詳しいです。

このサイトによると、住民の入れ替えがあったようで、蝦夷(俘囚)は35ヶ国に流されたらしいですね。そしてその後に倭人が移民してくると。勿論、現地に残った蝦夷も多かったとは思いますが、流された人達もかなりいたように思えます。

それにしても、
>847年、承和14年:日向国{俘囚死に尽くし、存するもの少なし}
というのがちょっと気になります。偶々なのか、それとも日向は環境が劣悪だったのか・・・。



#4170 
徹夜城(明日はまたしても早朝出勤の管理人) 2003/07/06 23:24
昔の銃撃戦は

>貧乏神さん
「パトリオット」のあの戦闘場面はやや誇張はあるかもしれないですけど、実際あのあたりの時代の戦闘を描いた映画ではああした場面にしばしばお目にかかります。一番近い時代でキューブリックの「バリー・リンドン」が挙げられますかね。「七年戦争」の戦闘場面が出てきます。
もそっと時代がくだって南北戦争の「グローリー」って映画でも似たようなシーンがあったような覚えが。あれは単にギリギリまで接近してから発射するんだったかな。
このあたりは詳しい方が多そうなので、お任せします(^^;)。前にも書いた話かともおもいますけど。

>三四郎さん
うーん、あまり「日本人」って枠組みでひっくるめて性格がどうのと論じるのは危険だと思いますよ。曖昧(やさしさ)については国内でムラ社会的な状態が維持できる限りにおいては傾向としてあるとは思いますが、「日本人」はひとたび外に出て「ムラ社会」の規制がなくなってしまうと恐ろしく残酷に暴走する傾向もあると思ってます。あまり甘い幻想をもたれない方がよいかと。歴史ってのは調べれば調べるほど結構エグイものでもありまして。
 「奴隷」うんぬんにつきましても言葉の定義だけから追うのは危険だと思いますよ。みんな鎖につながれて強制労働させられているような典型的イメージを持たれてませんか?世界的に見ても実際はそんなイメージどおりの奴隷ってのはそうそういなかったように思えます(あのアメリカ南部黒人奴隷だってそう話は単純ではありません)。さらにいえば世界的に見ても奴隷的存在のありかたはどこでもさして変わりはないと僕などは思ってます。



#4169 
三四郎 2003/07/06 22:46
Re先住民の奴隷化

↓奴隷化については 今の常識で量ると無慈悲な事なんでしょうが 昔は違ったんでしょうね  タナボタで奴隷化出来たわけじゃないし それなりの犠牲も払っているし  立場が逆だったら 自分が奴隷にされていたわけだし 時代による常識ってやつですか。  世界を見渡すと奴隷というのは地中海諸国が盛んだったよう名気がしますが どんなもんでしょう?  百かゼロ 白か黒 一航海いくら やらずぶったくりの狩猟民族が その文化を持ったまま農耕定着すれば 自然と派生する制度のような気がします ねっからの農耕文化である日本では 奴隷に関する民話なり資料なり神話などが 余りにも少ないのは そのせいではないか?  日本人は今で言う人権に関しては 昔から曖昧(やさしい)面を持っていたんでしょうね  それが証拠に映画の登場人物が死んだ時 愁嘆場が延々と長いのは日本が一番って気がします
欧米の映画は 人物が息を引き取った後の愁嘆場は25秒ぐらい
それにしても 若い美貌の女奴隷・・想像するしかありませんが アラビアンナイトの世界ですね ドラマがうまれるはずです 



#4168 
貧乏神 2003/07/06 22:43
羽鳥音

ええっと、「パトリオット」は後半だけみました。まあ、例によって臆面もな
いアメリカ万歳だな、というのはこの際おいといて、あの、斉射のあとあっさ
り撃たれる一見間抜けな戦闘シーンって、実際あんなものだったんでしょうか。

あと、先込め式の銃が結構使われてましたが、あれって、ライフルなのか、
それとも、マスケット銃なのか、って、ちょっと調べてみたら、そもそも分類
基準が違うんですね。私は武器にはうといのでできれば詳しい方のコメントを
頂けたらと思いますが。
いや、前にSF板に少し Civilization というゲームシリーズについて書いたん
ですが、このゲームをやってると、中世から近代にかけて守備兵がマスケット
兵からライフル兵になり、機動部隊が騎士(剣で武装) から騎兵隊(銃武装)に
なり、という感じなんで、この映画の時代って、まさにその辺だなぁ、って思っ
たんです。
「ライフルなんて下賎の銃だ」とかいってマスケット銃を持ちつづけた部隊も
あったとかいう話も聞きますが。

>ナポレオン
コミックトム連載のマンガというと、倉多絵美の「静粛に!天才只今勉強中」
というフーシエが主人公のマンガなら知ってます。私はこれ読んでいっぺんに
フーシエが好きになってしまいましたが。何故かフーシエが「コティ」と
呼ばれてるんですが、なんなんでしょうね。ただ、この作品には件の戦闘
シーンは無かったように記憶してますが。




#4166 
通りすがりの又三郎 2003/07/06 03:17
先住民の奴隷化

私も歴史には余り詳しくありませんが、近世の例で、松前藩が蝦夷に住むアイヌの人たちを自分達の都合のよいように隷属化させただけでなく、その文化、言語、民族性までも根絶やしにしようとした行為は、現代の感覚からすれば相当酷いと思うのですが、どうでしょうか。



#4165 
三四郎 2003/07/06 01:44
人攫い

↑人さらいは日本にもあった

あったんでしょうね  子供の頃グズっていた時 「ほらほら 何時までも泣いとると人さらいが来るよ サーカスに連れていかれるよ」と 祖母に脅された記憶があります
100年前ならサーカスならぬ角兵衛獅子ですか
日本の場合 人さらいは女をさらって女郎に 子供をさらって何とかに  後は思い当たりませんね  史上 根こそぎさらって奴隷にしたような史実はあるんでしょうか
ただし太古の生口献上の話は除いてですが
それから 大和朝廷のフロンティアが東へ東へ延びていた頃 先住民を奴隷化して開拓に従事させた例あたりはあるんでしょうか? あったとすれば征夷大将軍はかなりの利権になったんでしょうね




#4164 
徹夜城(倭寇研究者というよりマニアの管理人) 2003/07/05 22:32
史料にみる倭寇と被虜者

>三四郎さん
倭寇にさらわれてきた被虜者ですが、実のところ日本側にそんなに記録があるわけではありません。あえて記録に残るのは知識人階級だったり通訳をつとめるなどして上流階級と交渉があったケースでしょうね。足利義満に仕えた通事の魏天という明人はまさにこれですね。ただそれとても来日した朝鮮側の記録に残っている話ですが。他にも16世紀初めに宋素卿という似たような立場の人間もおりました(これは借金の質にとられたもののようですが)。
 このように上流階級と何らかの関わりを持たない限り史料的に確認するのは難しいでしょうね。直接確認したわけではありませんが、謡か何かで大陸から連れ去られてきた唐人の悲劇を描いたモノもあったように記憶しています。
 そもそも中世では外国人に限らず国内でも人さらいによる人身売買はたくさんあったようでして、能のテーマになっていたりもしますよね。安寿と厨子王はかなり前からある伝説ですが、あれなんか「半」でもなんでもないれっきとした「奴隷」とみなしていいと思いますよ、世界史的観点で見れば。
 戦国時代でも戦場で人身売買がしばしば行われていたようです。これも九州に限らず全国的傾向だったようですね。ただ九州の方がより濃厚で、九州遠征に来た秀吉がショックを受けたとかいう話をどこかで読んだような…

さすがに日本側の記録を全部みているわけではありませんが、倭寇関係の研究をしていると痛感するのが「日本側の記録のあまりの無さ」なんですね。うーん、僕はとてもじゃないけど日本人って「メモ魔」とは思えません。同時代の明や朝鮮の方がよっぽど詳細な記録を残してます。まぁやっぱり関心の差じゃないでしょうか。被害者の側の方が対策を立てる上でもよく研究しますし、よく記録を残します。一方の日本では「ごく普通に見られる光景」のために記録に残さない、ということもあるでしょう。

 倭寇に松浦水軍、瀬戸内水軍が参加したかどうかですが、これも史料的に追うのはかなり難しいかと。確かに一部が参加していたとは思うんですけどね。
 松浦の水軍については元寇以前に高麗へ出かけて合戦している、との風聞が残ってますよね。一方の高麗・朝鮮では前期倭寇時代の倭寇の本拠地を三島=対馬・壱岐・松浦ととらえていました。ただどうも対馬人が一番多かったんじゃ無かろうか、と思うところです。
 瀬戸内水軍についてはもっと史料がありませんで、断言は難しいです。僕などは以前は瀬戸内海賊=倭寇説にかなり否定的だったんですが、最近は「少しはありえるか」と思うようになってます。瀬戸内海賊と倭寇を結びつける言説は江戸時代に創作された部分が多いので気をつけなきゃいけないんですが、室町時代の朝鮮側の記録で瀬戸内海賊で朝鮮語をぺらぺらしゃべるのがいたとありましたし、戦前まで瀬戸内海の船上生活者たちはしばしば朝鮮半島方面まで出かけていたとの話を現地で見てから少し考えを改めています。
 後期倭寇時の明側の日本研究書ですと、倭寇の出身地として肥前・薩摩・大隅・豊後・伊予・和泉・日向などが列挙されていました。これがどういう調査に基づくのか気になるところもあるんですが、結構各地からの参加者があったことをうかがわせています。和泉の人は「細屋」なんて書いてあるから商人なのかもしれませんけどね。



#4163 
三四郎 2003/07/05 17:53
Re倭寇が奪った奴隷

有難うございました
もう少し質問していいですか?
倭寇は命懸けでも採算がとれたということでした

拉致した奴隷ですが 日本の歴史書や風土記には出てくるんでしょうか
たしかに負の歴史ですから 正直な記述はないと思いますが 記録マニアともいえる日本の文化ですから 形を変えて伝説があってもいいような気がします
知識がなくて恥ずかしいんですが 日本において奴隷制度は安寿と厨子王が半奴隷であったような印象がある他は記憶にありません
倭寇の主力は松浦水軍 続いて瀬戸内水軍あたりなんでしょうが 類推できるような記述はあるんでしょうか?



#4162 
なな 2003/07/05 01:41
採算

前期倭寇と高麗について言えば、確かに最初期の倭寇は少人数で、沿岸の村を襲っては生活用品の類を奪っていました。
それがしだいに人数と規模がエスカレートして、租税を納めた倉庫や運搬途中を狙って略奪するようになったそうです。しまいには首都開城近くまで攻め入っています。
それで高麗の国家財政が傾き、滅亡の誘因となったのですから、倭寇側が持ち帰った富は莫大なものだったと想像します。



#4161 
徹夜城(また夜遅くに帰ってきた管理人) 2003/07/05 00:42
後世の史家から見れば

…なんて「銀英伝」の言い回しじゃありませんが(しかしあの言い回しの中には「それは史家の守備範囲じゃないだろ」と歴史やってる立場では言いたくなるものも多いですな)。

>尾鳩さん
まぁ僕らから見ても自分たちの親が生きてきたこの半世紀はじゅうぶん激動期ですよね。最近次々と映画ネタになっている安保闘争だの連合赤軍事件だの金大中事件だの、なんて今から見ると信じられないぐらい騒然とした世情に見えますよね。
 それにしても「日本のデモでは死傷者が…」ってあの樺美智子さん以来出てるんですかね、デモの死者は。愛子ちゃんにしても確かに顔を見れば一目瞭然(笑)。

 それとはまた違う話ですが、連想で。
 先日やたら熱狂して読んでいた「仁義なき戦い」「二百三高地」等で知られる脚本家・笠原和夫氏の対談本「昭和の劇」の中で笠原氏は「昭和天皇は大正天皇の子ではない」と確信をもって語っています。昭和天皇の兄弟たちも母親は同じ皇后だが父親は全て違う、とかなりやばいネタを確信をもって語ってるんですね。「2.26事件は“壬申の乱”だったのだ」とも言っておりまして…まぁ実際秩父宮の関与は噂ぐらいはされてるんですが。
 2.26事件と北一輝をテーマにした映画「戒厳令」の映画評でも笠原氏はこの件にチラリと触れてまして「皇室につながる確実な筋からの話がある」という趣旨のことを書いてます。よくよく確信をもっていたようですが、情報源は「昭和の劇」によると終戦直後に皇族首相になった東久邇稔彦氏だったようです。確かに皇室の一員だった人ではありますけど、詐欺にひっかかったり新興宗教にハマったりとやや情報源としては頼りない人のような…


>三四郎さん
倭寇の件ですが、まず結論から言っちゃいますと、「十分に収入が見込めるから命を懸けてでも海をわたる」んですよ。この点では現代における中国から日本への密航者と感覚がよく似ていると思います。方向は逆ですけど(笑)、それは明らかに富の所在が襲われる側にあるからです。
 明は中央集権国家だから…と不思議なことをお書きでしたが、明代の中国沿岸部は相当に裕福ですよ。もちろん漁村なんか襲いません。基本的に沿岸都市を襲うんですね。当時の明は世界的に見ても最大の「経済大国」ですから(特に後期倭寇の集中攻撃地となった長江河口域は凄まじいものがありました)、略奪した物品は相当な高値で売れたはずです。まっとうな密貿易(変な言葉ですが)でも明産の絹は日本で原価の10倍ぐらいで売れたとの話があります。これを略奪してきたら差し引きではムチャクチャな収益ですよね。

 それと、実は前期も後期も通じて、倭寇の主力「商品」の一つが「人間」でした。朝鮮半島でも明でも倭寇の拠点や船を官軍が鎮圧すると、必ずそこには商品として売り飛ばすべくさらわれた現地の住民達が大勢いたものです。前期倭寇の時期に明や高麗・朝鮮政府は日本の勢力(懐良親王や室町幕府)と倭寇対策で折衝する際は必ずこうした「拉致被害者」の送還問題が最優先の議題になっていました。
 ひところはこうした問題は前期倭寇に集中するようにとらえられていた向きもありましたが、後期倭寇でも実態は同じようで、特に明沿岸から多くの住民がさらわれています。当時日本で現地調査をした人物の記録では大隅地域にこうした被虜者を収容する「奴隷センター」的なものがあったことが出てきます。特に九州地域はこうした奴隷的労働力を欲する傾向が強かったみたいで、のちの豊臣秀吉の朝鮮の役でもモロに「人狩り」が行われることになります。

 あと、倭寇の人員構成の話をもう少し整理しておきましょう。前期は日本人・朝鮮人ゴチャマゼ(それを一括して「倭人」と呼んでもいい)、後期は八割〜九割が明人、一割が日本人であったと考えられています。これとても現代の民族感覚での分類を仮に使用したものなので、実態を正確に表現できるとは思えない。そのくらい曖昧模糊とした世界なんですよ。
 自分の専門である後期倭寇に関しては一割いた「日本人(真倭)」ってのは用心棒的に戦闘力をかわれて参入していたものでしょうね。当時の倭寇の幹部クラスはあらかた明人ばかりなので、指揮系統では日本人連中は「下っ端」のほうだったようにも思えます。もちろんこれとても単純ではなく明人・日本人双方の様々な勢力が複雑にからみあって派閥ができたりもしておりまして。

 …という具合に思いつくことをパラパラと書いてみましたが、ご質問の答えになっていましたでしょうか(^^;)
 やっぱり「俺たちゃ海賊!」コーナーをしっかり更新しておかないとなぁ。さんざ予告している「倭寇小説」もなかなか連載開始になりませんし。 



#4160 
三四郎 2003/07/04 22:54
倭寇のこと

だいぶ前のRESで見ましたが 倭寇の事で分からないことがあります
倭寇も諸説があって前倭寇は日本人が中心 後倭寇はシナ人 朝鮮人もかなりいたと聞いています  その真偽のことではなく 日本人が倭寇になって採算がとれたんでしょうか  一般的な海賊みたいに普段は貿易に従事して ことあらば賊に変身するんではなく 小船で玄海の荒波を渡ってシナ朝鮮の沿岸を荒らしたところで 相手は中央集権国  沿岸の漁港では穀物と魚の干物ぐらいしか望めないはず  奴隷として拉致なんて話も聞きませんし 倭寇で死んだ部下(日本人)の遺族補償まで考えると  やっぱり採算が取れません 実態はどうなんでしょうか?



#4159 
尾鳩 2003/07/04 11:33
この日常も、後世の人が評したら「激動」って言うんだろうなあ

お久しぶりです。
忙しさも秒読み級の忙しさになると、やはりさすがに書き込む暇がなかったです。

>「かかって来い」
実際、襲われている兵士達からすると、「何様発言」でしょうね。
敵をあおるだけあおり、猛々しく勇敢な言葉をはなしておきながら、いざ戦いの開始の時には部下をけしかけるという香港映画の典型的「馬鹿」悪役を想像してしまいました。

でも、最近出てくるべき大統領が出てきたなあと思ってしまうんですよね、彼を見ていると。事実上の世界帝国たる米国の幕開けを象徴する大統領なのか、黄昏時の最後の輝きを意味している大統領なのか、いまいち判断しづらいですけど。
ただこの人見ていると、かの「ベネット大統領」と重なっちゃうんだよなあ。
ベネットさんも強気のアメリカを象徴する大統領でしたが、こちらは、修羅場をくぐるとともに磨きをかけて、まさに「現場が人を育てる」を地でいったお方でしたが、現実世界の我らが大統領もある意味「磨き」がかかってきているからなあ。

ネオコンという名の、ある意味最強の革新系グループとそれに君臨する自責することをしらぬ強気の大統領。冷戦時代においては、一番恐れられていた性格の政権の登場。
時代が変わったのも事実なんでしょうが、場の雰囲気を読めない「ボス猿」ってとこかな、彼の場合は。

>香港の日本関連ニュースから
日本を誤解させるようなニュースが相次いでます。そのご紹介。

1.デモのたびに死者が出る日本!?
先日、7月1日、香港返還6周年を祝っての時のこと。
反政府派とか民主派とか呼ばれる香港の政党や団体がデモを開催。当初の予定では、せいぜい多くても10万人と予想されていたのを大幅に上回る35万人のデモに発展。
一人の怪我人も死傷者も出ず、終了した。この後が問題。
香港の新聞のインタビューを受けたある日本人。
「日本では、デモが出るたび、必ず死傷者が出る。暴動に発展しない方が少ない」と発言しちゃった。これが日本のある機関のお偉いさんだったから尚始末が悪い。
近々、外務省から厳重注意を受けることになるでしょう。チーン。

2.愛子さんに別のパパ!?
日本皇室のスキャンダル、とある大手の香港の新聞が報道してしまいました。
ご丁寧に一面ぶち抜き、カラー写真付き!
写真見たら判るでしょう、愛子ちゃんの顔が誰にそっくりかくらいは(笑。
情報源は、何と日本のとある大手掲示板とか。悪名高き●chを想像したのは、私だけではないでしょう。そんなの大手の新聞が情報源に使うなよ!!
近々、外務省から抗議声明が送られることでしょう。南無・・・。



#4158 
徹夜城(時事ネタは分けてみた管理人) 2003/07/04 00:43
各国首脳のご発言

>民本主義者さん
イタリアのベルルスコーニの「ナチ映画に出ろ」発言はかなりドイツで物議をかもしたようで、ドイツのシュレーダー首相が謝罪を要求する(正確には「期待する」)事態にまで発展しているようです。
ベルルスコーニって確かナベツネとナカソネが合体しているようなキャラだったような…

ブッシュ大統領の「かかってきなさい」発言(笑)ですが、マスコミによって「来るなら来てみろ」とも訳されてますね。オリジナル英語ではなんといってるんでしょうか。
そこまで挑発するならいっそご自身でイラクへ乗り込んだらいかがですかね、とこちらも挑発していたりする(笑)。



#4157 
徹夜城(仕事から帰って一杯飲んでから書き込んでる管理人) 2003/07/04 00:38
「パトリオット」やってましたね。

仕事から帰ってTVをつけたらテレビ東京の映画枠で「パトリオット」やってましたね。メル=ギブソン主演の独立戦争映画。監督は「インディペンデンス・デイ」で独立戦争づいているローランド=エメリッヒ。確か「GODZILLA」もこの監督でしたな。
すでにこの映画については「歴史映像名画座」にも入れてるんですけど、アメリカ人以外にはかなり辟易するUSA礼賛映画。途中まではかなり面白かったんですが、独立戦争描写に入っちゃってからはもうついていけません。アメリカ人はこういう調子で「正義の戦争」を続けているのだなと思うとますます…
それにしても改めてクライマックス見ましたけど、スローモーション多用しまくった演出にはかなり萎えました。先日見たナポレオンドラマもそうでして…

>民本主義者さん
あ、ゾルゲは「モスクワ大攻防戦」でしたか。そのうち確認しておきます。
「ヨーロッパの解放」シリーズとも言われる一連のソ連製第二次大戦映画はいずれもやたらに大部なのでなかなか手がつけられません。「レニングラード攻防戦」なんかもムチャクチャ長かったような…

ビデオ「キング・オブ・キングス」のことですが。僕はナポレオンの生涯についてはさほど詳しくは無いので民本主義者さんのお話はなかなか興味深く読みました。その点では確かにあのドラマは「従来の通説どおり」の描き方なのかな。
それにしては、主役のナポレオンが単なる誇大妄想の小男にしか見えてこず、権力の階段を登っていき、数々の勝利を挙げていく様子とまるでマッチしてこないんですね。「実は実像はこうだった」というテーマならともかく、描き方が中途半端。スペクタクルばかりではカネがかかるからでしょうが、妻のジョゼフィーヌや愛人らとのプライベートな話に妙に長く時間を割いているのも退屈させられるところです。

しかし考えてみるとタイトル改変もビデオ発売者が「こりゃーナポレオン伝と大々的に売っちゃまずいな」と判断して、わざと安っぽい感じにした可能性もありますね。
CM予告編が入っていた「ザ・パイレーツ」ってカリブ海の海賊映画がなにげにB級映画の面白さをかもし出してまして、海賊好きとしては手を出しちゃいそう(笑)。
そういや「パイレーツ・オブ・カリビアン」って映画の予告編を先日劇場で見たなぁ。



#4156 
民本主義者 2003/07/03 13:37
まとめて映画と戦争ネタになりました

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005G11E/ref%3Dpd%5Fsim%5Fdp%5F3/t/249-0980315-8761155
このアマゾンのサイトにあるカスタマー・レヴューによりますと、ゾルゲの出てくる「ヨーロッパの解放」シリーズのタイトルは「モスクワ大攻防戦」のようです。(私も観たのはだいぶ前なので、どのタイトルの奴だったは忘れてしまいました。)

「キング・オブ・キングス」。気にはなっていたんですよ、レンタル店で見かけてから。
タイトルについて言うと、皇帝のことを「諸王の王」と称することがあり、ナポレオンは皇帝になりましたから、完全に間違いというわけではありませんね。ゴスペルなんかに出てくる「キング・オブ・キングス」なんていう表現は、地上の皇帝の称号を神やイエスに当てはめたものと思われます。ま、たとえそうであっても、なぜ原題通りに「ナポレオン」としなかったのか不思議です。
ビデオのパッケージに、ダヴィドの絵を再現したかのような戴冠式のシーンが印刷されておりまして、「おいおい、こういう政治的意図があって形成された『ナポレオン神話』に無批判なナポレオン映画って、いまどき感覚が古すぎるぞ」と思ってましたが、やはりありましたか、「イタリア遠征での橋での激闘」のシーンが、しかも発端に。軍司令官だったナポレオンが軍旗を片手に先頭に立って敵軍に向かって突進していったという典型的なナポレオン神話ですね。山川出版『ナポレオン伝説とパリ』によると史実ではないそうです。「コミック・トム」に連載されていたマンガもこのエピソードを史実として描いていたなあ、そう言えば。

歴史+映画ネタで、歴史の比重の方が大きいのでこちらにご紹介する記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030703-00000014-kyodo-int
「ナチス映画に出たら」 伊首相、独議員を中傷
【パリ2日共同】7月から欧州連合(EU)議長国になったイタリアのベルルスコーニ首相は2日、フランス東部ストラスブールの欧州議会で就任演説した際、イタリア下院が贈賄裁判の凍結法を可決して同首相を救済したことを批判したドイツのシュルツ議員に対して「ナチスの映画に出てくる指導者役を勧める」と中傷発言した。議場から猛反発の声が沸き、コックス議長も「初歩的な礼儀を欠いている」と批判した。
 首相は「イタリアで、ある監督がナチスの強制収容所についての映画を撮影中だ」と切り出し、シュルツ議員を中傷した。議会後の記者会見で「皮肉で言っただけで、侮辱したわけではない」と弁明、謝罪を拒否した。
 シュルツ議員はベルルスコーニ首相の「冷静さを欠いた発言は受け入れられない。個人的に傷ついた」と非難した。(共同通信)」

ファシズムはイタリアが本家本元なんだから、イタリアの首相がこんなこと言ったらかえってヤブヘビなんだけどなあ?
で、ブッシュさんは相変わらずです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030703-00000046-kyodo-int
「「かかってこい」と大統領 イラク治安悪化にいら立ち
【ワシントン2日共同】ブッシュ米大統領は2日、イラクで相次ぐ米兵襲撃について「かかってこい、というのが私の答えだ。米国には対応できる十分な兵力がある」と述べた。ホワイトハウスで記者団に語った。
 悪化する一方のイラクの治安状況に強いいら立ちを示した異例の発言。特にイラク戦争に反対したフランスやドイツの兵力提供を求める可能性を質問されたため「過剰反応」したとの見方も出ている。発言に対しては「最高司令官のこのような言葉を聞いたことがない」(ローテンバーグ上院議員=民主党)と批判の声が上がっている。(以下略)」

「かかってこい」!そりゃ「聞いたことがない」だろう。



#4155 
徹夜城(ここ数日やたらに忙しくて書き込む気が起きなかった管理人) 2003/07/02 23:36
「キング・オブ・キングス」鑑賞

…と、こう書くとイエス=キリストを主役にしたあの映画だと思うでしょ。それが違うんだなぁ。
レンタルビデオ店の新作コーナーで見つけたのですが、まず「キング・オブ・キングス」のタイトルを見て「はて?」と思い手にとってみるとパッケージには砂漠を行軍している軍隊が。「聖書関係もの?」と一瞬思いましたが映っているのはナポレオン時代のフランス軍そのもの。「ありゃりゃ?」と思ってよく見ると「EPSODE1皇帝誕生」とあり、どうもナポレオンものの映画らしい。しかしなんなんだこのタイトルは。
ビデオ・DVDオンリーで出回るこうした作品に共通するいかにも安っぽい体裁に危険な匂いを感じはしましたが(笑)、歴史映像オタクとして見逃すわけにはいかん、と借りてみました。

デッキに突っ込んで再生が始まりますと(この手のビデオの定番で10分ほど他作品のCM入り)タイトルが出た…「NAPOLEON」じゃないか!なんでこんなストレートなタイトルを改変したのだ!?気が付かない人いっぱい出ちゃうぞ。
 前後編で4時間弱の大作のようですね(いまリリースされてるのは前編のみ)。ときおりCMタイムとしか思えないブラックアウトをするので、TV用に製作されたもののようです。フランス、カナダ、ドイツの共同制作らしくセリフは全て英語です。
 ナポレオンを演じているのはクリスチャン=クラヴィエ…って僕は全然知らないなぁ。似ているといえば似ているかもしれないが、残念ながらちっとも魅力的ではありません。身長が低いところだけ強調して選ばれたのかなぁ…このキャストがこの作品の最大のミスのような気がします。
 この手の歴史大作TVドラマは脇役に大物をちょこちょこと配する傾向がありまして、この作品でもジョン=マルコヴィッチ(タレーラン役)、ジェラール=ドパルデュー(フーシエ役)が出演してます。これにジェレミー=アイアンズが加われば「仮面の男」の三銃士そろいぶみだったんですが(笑)。しっかし、もともとフランス人のドパルデューはともかくとして、ジョン=マルコヴィッチはなんで次々とフランス史ものの仕事が来るんでしょうか(「ジャンヌ・ダルク」にも出てたでしょ)。

 作品のデキは…まぁあえて言っちゃいますが、よくない。歴史教科書をなぞってるみたいな部分とナポレオンのプライベート関係を交互に描いていくというものなんですが、どうも「歴史もの」という重みを感じないといいますか…薄っぺらな印象なんですね。なんとなく昨今のNHK大河ドラマを連想していたりしました(笑)
 内容はセント・ヘレナ島で幽閉されているナポレオンが回想するところから始まり、イタリア遠征での橋での激闘でドラマに入っていく形です。その後エジプト遠征、ブリュメール18日のクーデター、皇帝即位、アウステルリッツの戦い、ポーランド征服と実に淡々と描かれていきます。ここで前編が終わりで予告で入っていた後編は期待できるかなぁ…というところ。歴史的名場面の数々が見られるということでは、興味のある方はそれなりに楽しめます。

 「歴史映像名画座」に入れてありますが、フランス本国では二度ほど製作されています。今回見たビデオのようにナポレオンの生涯を「総集編」的につづったものも1954年に作られてます。あれと似ているなぁ…あれはタレーランが回想する形でしたが。
 有名なのは1927年製作のアベル=ガンス監督の無声映画版です。以前衛星放送でやってた「弁士入り」で見ましたが、確かに素晴らしい出来。残念ながらあまりの大構想であったため、「ナポレオン青春編」で話は終わってしまい、イタリア遠征に出陣するところまでしか製作されてないんです…そう考えると今回見た奴はその続きになってるともいえますな。
 ハリウッドも「ナポレオン」映画製作を狙っているとはよく聞くところですが(アレクサンドロスは作ってますしね)、やっぱり素材として大物過ぎるのかなぁ。なまじ史料も多いから3時間程度にはまとまってくれそうにないし。「指輪物語」なみに三部作ぐらいでやらないと無理じゃないかなぁ。

それにしても繰り返しになりますが、なんで「キング・オブ・キングス」なんだか(笑)。
邦題といえば、香港・中国版「鄭成功」…日本公開タイトル「国姓爺合戦」がDVDで出ているのを先日見かけました。なぜかタイトルが「英雄〜国姓爺合戦」となっておりました。劇場公開時は歴史大作ものという雰囲気で宣伝してましたが中身がアレだったもので大コケしたんでしょうね。DVD版ではカンフーアクション調のノリにしたようです(その方面でもイマイチなんだけど)。

>民本主義者さん
「ヨーロッパの解放」にゾルゲ出てましたか…DVDでこれから確認してみます。
なんせ8時間もある映画だから細かいところはあまり見てなくって(^^;)



#4154 
民本主義者 2003/07/02 15:20
「ブハ・スタ」を「スタ・ブハ」に訂正

『ブハーリン・スターリン選集』ではなくて『スターリン・ブハーリン著作集』でした。(恥
(国会図書館のサイトで検索した)
ブハーリンの方が論客としてスターリンよりも格が上だったというのは高杉一郎著『極光のかげに』(岩波文庫)にある話です。
ブハーリンの粛清については「ゴルバチョフへの手紙」なんて映画もありましたね。



#4153 
久保田七衛 2003/07/01 23:49
ありがとうございます。

>景虎様
 早速の丁寧なご返事ありがとうございました。大変不躾な内容で恐縮の限りではありますが、今後もなにとぞよろしくお願い申し上げます。

 



#4152 
民本主義者 2003/07/01 14:31
「スパイ・ゾルゲ」

>原田実さま。さすが、細かいところにお気づきで。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/jyoho/ipix/2/1/02.html
このサイトによりますと、昭和初期にはすでに電送写真が存在しました。電送写真は何段もの走査線の長さで画像を表示しますから、文字の斜めに書かれた部分がドット模様になります。推測するに、在米日本大使館が金属活字を用いた印字機によって作成した文書を日本政府あてに電送
した、という設定ではないでしょうか。とにかく、撮影に際して手抜きしてワープロを使ったとは思いたくないです(笑)。

「スパイ・ゾルゲ」観ました。いかにも、「本格的歴史大作」で、満足しました。管理人さまも言っておられましたが、CGによって再現された昭和初期の街並みだけでも観る価値あります。
ストーリーは奇を衒わず直球勝負でした。ま、ゾルゲ事件自体が十分に劇的だから、色々と史実をいじりまわす必要もなかったということでしょう。しかし、今の若い者にとってはなんで国際共産主義があれほどの、宗教的とまでいえる崇拝と献身の対象たりえたのか、理解できないんじゃないかな?「ブハーリンが粛清されたぞ。スターリンはやりすぎだ」とかね。昭和初期には『ブハーリン・スターリン選集』という書物があり、ブハーリンの名前が先に来ていることからもわかるように、論客としての地位はブハーリンの方がスターリンよりも上だったのです、なんて説明していると故老にでもなった気分。
ゾルゲ事件の映画と言えば、旧ソ連製作の『ヨーロッパの解放』シリーズの中に、ゾルゲが出てきます。ただしこの映画の日本描写が例によっておかしなもので、日本人は皆晴れ着を着ていて
街には街灯の代わりに提灯がともっているという。しかし日本の警察が電波探知機でゾルゲの居場所を突き止めるシーンなどはなかなか有能そうに描かれておりました。
逆に言うと「スパイ・ゾルゲ」のソ連描写がおかしいとロシア人に言われる可能性は高い。
「NKVDの逮捕は通常は夜やるものだ!」「アパートの住人を逮捕する時は、別の部屋の住人を無理やり連れてきて立会人に仕立てるんだ!」「逮捕する時にいちいち逮捕の理由を告げたりはしない!」とか。(以上はソルジェニーツィンの『収容所群島』第1部第1章「逮捕」参照)



#4151 
原田 実 2003/06/30 11:13
細かいことが気にかかり

先日愚痴りました『スパイ・ゾルゲ』の原稿、まだ落ち着き先が見つかりません。
おかげでじっくりと練り直す時間ができました・・・^^;
ところでどなたか技術史に詳しい方のご意見うかがいたいのですが、
あの映画の中で、アメリカからの帰国者リストを特高警察が調べる場面、
カナ書きのリストがワープロ世代には馴染み深いドット文字なんですね。
昭和初期の設定であの文字を打ち出すような印字機は
何が想定されているのか、気になります。
一応は映画というより歴史の話題だと思うのでこちらに書き込みますが、
どなたかご教示いただければ幸いです。



http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


#4150 
曲学の徒 2003/06/29 21:16
ご批判を

『大和王権成立の時』というHPで
次のような怪しげな説を展開してます。
ご批判を私の掲示板にも書き込んでいただければ幸いです。

神武東征は西暦100年ころの史実。
神功の新羅侵攻は363年4月のこと。
ホケノ山古墳築造は二世紀半ば。
畿内土器編年の弥生後期末年代観は70年から80年誤っている。



http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/


#4149 
景虎 2003/06/29 17:57
ちょっと修正

室町時代の文献と書きましたが、正確には慶長十六年に出版された『古今銘尽』です。
鑑定家の竹屋家の秘伝書で、一巻〜五巻までが古来の伝書で、これが足利義満に使えた人が書いたと考えられているようです。



#4148 
景虎 2003/06/29 17:44
暑くなりましたねえ

>久保田さん
鎌倉時代の刀剣の変化ですが、鎌倉中期の刀は刀の重ねが厚く、猪首切先という特徴があります。猪首切先とは、説明が難しいですが、切先が短く切先の幅が広い、猪の首のような切先のことです。この猪首切先だと、一度損傷すると研ぐのが難しく、刀全体が駄目になる可能性が高いとされています。
また、重ねが厚い刀は、硬い物を攻撃するには適していますが、柔らかい物に対しては効果が低いといいます。その為、元軍の革鎧に対して効果が低かったとされています。
その為、鎌倉後期になると猪首切先が廃れ、刀の重ねが薄くなり、幅が広くなります。
さらに、鎌倉中期の刀は弱い火加減で造っていたのに対して、後期になると強い火加減で急激に冷却して硬度を上げました。さらに硬軟鉄の組み合わせをした事によって、折れにくく曲がりにくい刀が造られるようになりました。
このような鎌倉後期の刀の形状、鍛刀法などを編み出したのが正宗とされていて、正宗をもって日本刀が完成したとする人も多いようです。

正宗が完成させた相州伝(刀工流派の一つ)は、非常に影響力が強く、相州伝の原型は山城伝と備前伝ですが、山城で長谷部と呼ばれる相州伝系の流派が出現、備前でも逆流があり、相伝備前という新しい流派が誕生しました。
正宗十哲という、正宗の十人の高弟とされている人達がいますが、彼ら全員が正宗の弟子という訳ではありません。ですが、正宗が完成させた相州伝を学んだ人達である事は間違いなく、正宗十哲と呼ばれる人達は東国から九州にまで存在していて、正宗の影響が全国的なものだったのは事実でしょう。

正宗の存命年代は正確には分かりませんが、弘長〜康永ごろの人といわれています。その根拠としては室町時代の文献(足利義満の時代)に、正宗の没年を康永二年、行年八十一歳と書いてあること。
大坂の陣で焼失した正宗の短刀に、嘉歴二年八月日と切ってあったこと、明歴の大火で焼失した徳川将軍家の正宗に、正和三年十一月と裏銘を切ってあったこと等があるようです。
これらの資料から考えると、正宗の生きた時代は、鎌倉後期〜南北朝初期くらい、正宗が若い頃(十代の頃?)に元寇があったと考えるのが妥当だと思われます。

>夜なべ紳士さん
>技術はすべからく進歩していくという信仰
そいう事って、結構あるような気がしますね。
日本刀でも、江戸時代以後より以前の方が優れていたといいますし、備前焼も安土桃山時代が最盛期だという話を聞いたことがあります。

>モーグリさん
ああ、モーグリさんでしたか。
そういえば、確かに小銃の話を書かれていましたね。



#4147 
久保田七衛 2003/06/28 23:09
型式学

>ななさま
 ちょっと待って下さいね、西洋でも「ボイルの法則」のボイルが、馬糞を使った治療法についてコメントしていますね、出典を後日出しましょう(プラセボ療法についての著作です;著者は否定的に取り扱っていましたが)。ウシと違って反芻胃を持たない馬は腸内発酵に不明な部分が多く(『ウマの動物学』東京大学出版会)、ひょっとしたら変なものでも作ってるのかな、、、(笑)?

>景虎様
 確かに本当のところはどうなのか、議論するのはなかなか困難なところがあるでしょうね。さて、白兵戦のコメントのところで鎌倉前期から後期までの刀剣の型式的変化を元寇と結びつけて、語っておられましたが、素朴な疑問がありお尋ねいたしたいと存じます。

 1980年代に旋風を巻き起こしたポストプロセス考古学(ホッダーやシャンクス、ティリら)の登場以後、考古学一般において型式が変化する要因としては@伝播論的モデル、A機能論的モデル、B象徴論的モデルの3つがしばしば挙げられるところです。他国と形態の大きく異なる「刀」の変化を伝播論的要因で説明する(すなわち、他国の刀の形態変化の影響と考える)は困難として、Aで説明する(景虎さまの説明はこれにあたるとおもいますが)か、Bで説明する(美観とか好みとか、主観が大きく関与してきて難しいところです;説明の一般化を企図してホッダーが導入したのが構造主義モデルです)かはなかなか誰でも評価が難しいところです。

 鎌倉後期の型式変化は陶器でも認められ、馬渕和雄氏は変化の隔期を得宗専制の確立と関係付けて議論を進めます(『鎌倉大仏の中世史』新人物往来社、だったかな?)元寇と刀剣の形態変化を結びつける議論は傍目には理解しやすいですが、年代的な根拠がどの程度明瞭なのでしょうか?武具の中世前期における形態変化には近藤好和氏も定説(確かに機能的な理由で説明することが多いですよね)に疑義を呈しておられる昨今、前提を疑うことはあながち無駄なことではないようにも思われます。



#4146 
モーグリ 2003/06/27 16:07
ええと

最近忙しくてなかなか来るひまがありませんでした。

景虎さんへ
>そういえば誰かがこの掲示板で、鈴木氏の近代戦に関する知識が間違っていることを
>指摘していましたが、あれは誰だったか・・・。
ええと、それは私だと思います。
鈴木氏が「第一次大戦後、欧米列強は自動小銃の開発を進めたが、日本は旧式の三八式小銃に固執していた」という部分です。

第二次大戦で自動小銃を配備したのはアメリカ、ソ連、ドイツだけで、他の列強諸国(イギリス・フランス・イタリアなど)は手動式のボルトアクション小銃でした。しかも全軍に配備できたのはアメリカ軍だけで、ドイツやソ連では依然としてボルトアクション小銃が主力でした。

また三八式小銃は列強の小銃と比較して取り立てて旧式というわけではありません。
第二次大戦で使用されたイギリスのリー・エンフィールド小銃、イタリアのカルカーノ小銃、ソ連のモシン・ナガン小銃などはどれも三八式小銃(1905年採用)以前に採用されています。



#4145 
なな 2003/06/27 00:38
病は気から?

まわりに水がない場所にいるとき、「液体」の方を水の代用にしますよね。
山で蜂にさされた時や、戦場で傷口を洗う時。アフリカの乾燥地帯に住む部族は家畜の…で洗顔していた。しかし「固形物」の方ねえ…。(沈黙)
と思って調べたらありました(笑。どのコラムも面白いですよ。↓
http://www30.tok2.com/home/abaraya/babou/babou.htm

↑読んでいて思ったんですが、どうも当時の人々にとっても"勇気のいる"行動だったみたいですね。気力の衰えた怪我人に今一度「渇を入れる」効用はあったんじゃないかと。
「日頃は滅多に口にしないが、だからこそこれを飲めばきっと治るんだ!!」という強い自己暗示にかかる…かなあ?
「市販のビタミン剤を特効薬と思わせて与えていたら重病患者に快復がみられた」という話を聞いたことがあるので。
ちなみに徳川時代、将軍吉宗が取り寄せた「象」ですが、やはりその…が薬として売られたそうです。木乃伊も薬でしたね。



#4144 
夜なべ紳士 2003/06/27 00:22
小銃の技術的展開

西洋における小銃の発展ですが
15世紀から16世紀にかけて飛躍的に発展したが、16世紀後半から18世紀にかけては停滞していたといえるでしょう。銃火器の発展により生じた軍事革命が、軍隊の巨大化をもたらし、質的な点よりも量的な点にニーズがありました。その結果、より安くより多くより作りやすい銃の生産に向かったという次第です。生産性を重視するあまり、質的には「退歩」したとみなされるじれいもあるくらいです。技術はすべからく進歩していくという信仰に仕掛けられた陥穽といえるんではないでしょうか

http://home.owari.ne.jp/~ouka/


#4143 
景虎 2003/06/26 16:21
話長くてすみません

>尾鳩さん
>鈴木氏の言いたいポイントがいまいちわかんないなあ。
そうなんですよね。
私は鈴木氏の文章は三つくらい読みましたが、「あれ?これは前に言っていた事と矛盾するのでは?」と思える部分があったりして、私にもよく分からない部分があります。

>史料不足
そうですね。
尾鳩さんの先生のおっしゃる事は真理だと思います。

>兵と兵が肉薄して「激しく」戦うというイメージ
確かに言葉のイメージって大きいですね。
白兵戦と表現するのと、接近戦と書くのでは、実態が同じであったとしても、違うものをイメージすることが多いような気がしますね。

>マッドクラウンさん
初めまして、よろしくお願します。

>鉄砲買占め
これについては知識がないので分かりませんが、信長が上洛前に制圧した美濃は刀剣王国であり、槍、刀、薙刀などを製作する刀工達が大勢いました。当時、美濃の関に匹敵するのは備前長船のみという状況で、長船の祐定一門の刀は、昼夜の別なく駄馬を使って全国に発送していたそうですから、恐らく美濃の関も似たような状況だったと思われます。
信長に制圧されてから、輸出が衰えたという話は聞いた事がないですから、鉄砲の場合も極端に他家への供給量が減ったとは考えにくいような気もしますが、鉄砲の方が数が少ないので、影響が大きかったような気もしますね。
すみません、結局よく分からないです。

>+αさん
初めまして。

>弓
なるほど。
そうするとやはり、命中率を求めるか弾幕(昔は矢衾といったようですが)を重視するかが重要かもしれませんね。

武士隊が白兵戦部隊(決戦部隊)かもしれないという話を書きましたが、武士のパーセンテージを調べて見ればなにか分かるかもしれない、と思って調べて見ました。
当時の編制を調べる時によく使用される『上杉家軍役帳』というのがあります。これに載っていない武将もいますし、通常の足軽とは別に、一般の農民を臨時に動員する事もあったようなので、上杉家の全軍ではありませんが、戦国時代にしては比較的まとまった史料ではないかと考えられます。

これによると、武士(馬に乗った兵)は全軍の10%にすぎませんでした。
小豪族などはともかく、大名であれば恐らく、他家でも大差ないのではないかと思います。
謙信時代の上杉家は、他家に比べて飛道具がやや少ない軍隊なので、弓、鉄砲隊より数が多いですが、他家であれば同数か、弓、鉄砲の方がやや数が多くなるのではないかと考えられます。

ほぼ同数なのに何故白兵戦の負傷者が少ないのか?という疑問が出てきますが、当時の戦いは城攻めが多かった為ではないでしょうか。
説話のたぐいにしても、野戦よりも城攻めが多く、野戦も城攻めと連動して発生している場合が多いです。第二次川中島合戦で、武田家は旭山城に兵3000、弓800、鉄砲300が篭ったという話があるようです。実際にはもっと少なかったのではないか、という説もあるようですが、飛道具が多かったのは恐らく事実でしょう。竹内・杉山一族の場合も、篭城戦では鉄砲を重視していることを考えてみると、城攻めは野戦よりも遠戦が多くなりそうな気がします。
もう一つ考えられるのは、尾鳩さんが指摘されているように、白兵戦でも激戦はすくなかったり、睨み合いだけで終わったりしたという事も影響しているのではないかと思います。

今のところ私に考えられる説の中で、一番矛盾が少なそうなのがこれですね。
他にもっとよい説があるかもしれませんが、もうネタがないです。



#4142 
2003/06/26 12:08
白兵戦の回避法の修正

 昨日「軽装歩兵が重装歩兵の突撃を回避し続け、遠距離から投擲兵器で攻撃し続け、最終的に重装歩兵を壊滅させたケースは、確か、古代ギリシャで、アルゴスがスパルタを破ったヒュシアイの戦いなどがそうだったはずです。」
 と書きましたがこれは間違いでした。

 正しくは、紀元前390年、コリント付近を移動中のスパルタの重装歩兵600にコリントの軽装歩兵が攻撃をかけ壊滅させたケースでした。(出典:アシモフ選集歴史編2「ギリシア人」
 お詫びして訂正します。


http://homepage1.nifty.com/SENSHI/


#4141 
尾鳩 2003/06/26 11:36
たばこで一休みよりも伝言板で一休み

>管理人様
自宅謹慎って・・・おいおい(^^;。
自慢ですが、これでも一応個室で仕事してますので。
時間も結構自由に使えるんですが、その分仕事時間が長く、長〜〜〜くなってしまうというジレンマがあるんですな、これが。

>白兵戦
白兵戦というのは、兵と兵が肉薄して「激しく」戦うというイメージがどうしても強いんですが、単純に接近戦という意味合いが強いならば、結構行われていたのかな、やはり。
1対1の個人戦の場合は、武器や格闘術に応じた間合いというものがあり、如何にして自分に都合の良い間合いを保つかということが非常に大事になるのですけど、軍団同士のぶつかり合いの場合、なるべく遠くから相手に甚大な被害を与える、或いは戦意を喪失させることが大事なんだろうなあ。
結局槍は長ければ長い方が効果が出て、密集してグループを編成する方がさらに効果が出るということになるんでしょうね。
いずれにせよ、白兵戦が起こった場合に置いても、被害が甚大になるまで戦い続け、相当な被害が出た方が退却戦を開始するのではなく、被害が大きくなりそうな見込みの場合、早々に後退するか、戦意を喪失した方が、勝手に後退を始めてしまう方がやはり多かったのではないのでしょうか。或いは、にらみ合いの末、矛を実際に交えることなく、どちらかが後退を始めるパターンも案外多いような気もします。
まあ、「天下」というものが箱庭のように閉鎖された概念でもって語られていた日本と、「天下」がそのまま世界の広がりを語る概念である中国、さらには戦の進退が城壁で囲まれた都市の運命そのものを決めかねないユーラシア大陸での白兵戦を、同様に語ること自体が所詮無理なんでしょうけども。



#4140 
久保田七衛 2003/06/26 05:18
お、クスリネタですか?

>マッドクラウン様
馬糞を使う話ですね、手元に今史料がないですが、たしか武州松山城の攻防などが出典だったのではないかと思います。漢方医学に限らず世界の民族医学ではしばしば排泄物・汚物などが治療に使われるところで、馬糞もその1バージョンではないでしょうか(現代の中医学でもシャチュウといってゴキブリの1種を生薬に使う場合があります;日本国内の病院では現在使用されていませんが)。根拠といわれると困りますが、中に含まれる雑菌のことを考えると、とりあえず私は自分の患者に飲ませるつもりはありません(笑)。



#4136 
+α 2003/06/26 01:06
白兵戦の回避法

 頭が回らないので、切れ切れな書き込みをご容赦ください。

 白兵戦を回避する方法は二つあります。
 一つは、突撃してくる相手より速く後退すること。
 軽装歩兵が重装歩兵の突撃を回避し続け、遠距離から投擲兵器で攻撃し続け、最終的に重装歩兵を壊滅させたケースは、確か、古代ギリシャで、アルゴスがスパルタを破ったヒュシアイの戦いなどがそうだったはずです。
 軽装騎兵が重装騎兵の突撃を回避し続け、遠距離から投擲兵器で攻撃し続け、疲弊させる戦法はモンゴル軍が得意としたものだったはずです。
 もう一つは、突撃してくる敵を撃退すること。
 これは、防御側が攻撃側より数的に相当程度優勢であり、相応の装備を備えているか、攻撃側に戦意が乏しい場合に限定されます。
 攻防双方の数及び装備に大きな差が無く、攻撃側が戦意旺盛で、防御側が後退しない場合は、白兵戦にはなります。
 この状況は機関銃が発明されるまで続きました。
 機関銃が戦場に登場してからは、機関銃が機能している限り、白兵戦は起こらなくなりました。


http://homepage1.nifty.com/SENSHI/


#4135 
+α 2003/06/26 00:27
日本の弓のこと

 忙しいのと体調不良とで大変お久しぶりです、+αです。

 専門家ではありませんが、日本の弓について簡単に述べさせて頂きます。
 諸外国の弓は、矢をつがえる場所は、弓の真ん中にあります。
 これに対して、日本の弓は、矢をつがえる部分が弓の真ん中の部分に無く、だいたい、下から1/3ぐらいの位置にあるところに特徴があります。
 この弓の下部を短くする構造を採用したため、日本の弓は、全体のサイズを大きくすることが可能になり、その分威力を増すことができました。
 しかし、その反面、弓のもっとも安定する位置である中央に矢をつがえることができないため、命中率は非常に悪く、武器として使うためには相当期間の訓練が必要になります。
 そういう意味で、日本の弓は、高度に訓練した専門家しか扱えない兵器です。
 それに比べれば、鉄砲は遙かに簡単に扱える兵器でしょう。

http://homepage1.nifty.com/SENSHI/


#4134 
マッドクラウン 2003/06/25 23:22
はじめまして

はじめまして、今まで興味深く拝見しておりました。
戦国に鉄砲の普及とその流通に興味がありまして、お邪魔します。
信長が堺その後に国友を制圧した後、他の大名の鉄砲の購入に影響はあったのでしょうか?信長が堺の商人達に織田が鉄砲を買い占めると申し付けていたような気がしたんですが。
信長が完全に独占できなくても、他家への供給量が減って鉄砲が値上がりしたとか。
その辺の研究や史料があったら是非教えていただきたいのですが、よろしくお願いします。

>治療のお話
戦国時代の傷の治療に馬の排泄物を使用したと聞いたことがあるのですが、現代医学の観点からその治療方法に有効性は認められるのでしょうか?昔の人の知恵を軽視するわけではありませんが・・・。

管理人様、戦国話をしつこく引っ張ってすいません。いずれまた。



#4133 
徹夜城(書いている史点が長文化して分割を考えている管理人) 2003/06/25 23:04
ヒマじゃなかったのか(笑)

>尾鳩さん
あまりに連日の書き込みなので、「ひょっとしてSARSの影響で自宅待機にでもなってるのかな」などと思っておりましたが、多忙からの現実逃避だったのですね(笑)。

>白兵戦
ぜーんぜん歴史的でないネタ投下。
「機動戦士ガンダム」の世界では「白兵」という言葉は人間同士の銃撃戦の意味で使っておりますね。モビルスーツ同士の戦いの方がよっぽど「白兵戦」に見えるのですが…(笑)

>えっ、そうだったのか!
「史点」ネタっぽいんだけど小ネタなのでこちらに。
ロシアのプーチン大統領がイギリスを公式訪問しているそうですが、ロシアの「元首」がイギリスを公式訪問するのは「129年ぶり」なんだそーな。
前に公式訪問したのは誰だ!?と思ったら、なんとあのアレクサンドル2世なのだそうで(^^;)。

>そのイギリスでは
その一方の当事者のイギリスではトマス=モアも務めた「大法官」(上院議長と最高裁長官兼任)の制度を廃止する方針をブレア首相が発表しております。なんと1400年も前からあるポストだそうで。「まだそんなことやってたんかいなー!」と思ってしまう制度が残っているところが、なまじ議会政治発祥の地であるイギリスというお国。貴族院である上院の大削減も今頃やってる国ですしねぇ。



#4132 
尾鳩 2003/06/25 11:18
忙しければ、忙しいほど・・・

書き込みが日課になってきた今日この頃です。現実逃避・・・。

>景虎さん
>鈴木氏が極端というのは、自説に都合がよい史料は信憑性が低いものも引用するのに、都合が悪い史料はほとんど引用しないという部分にも、極端さを感じてしまいます。

なるほど。私は逆に最近の鈴木氏の文章は、ほとんどというかまるっきり接する機会がないもんで。しかし、都合の悪い史料はほとんど引用しないというのは、確かに史学に限らず、結構いろんな人がその傾向に陥りがちのような気がしますね。特に、歴史問題とか・・・。

>鉄砲は簡単
これは本当でしょうか?

最初にもたらされた火縄銃の性能は、かなり粗悪なものだったようですが、日本は当時から技術を真似るのみならず、性能向上を遂げるのが上手だったなんて話を聞いたことがあります。
しかし、実際は、日本では大量生産の方向に走り、性能の向上と言うよりは簡素化を目指した一方、西洋では命中率の向上を図り、結果として新型銃開発をもたらしたというところでしょうか。

>鈴木氏は、「歴史群像」で死者の多くは白兵戦によるものではないか?という説に対して、白兵戦になって致死率が高くなるわけではない、飛道具による死者は相当いた、と反論しています。

鈴木氏の言いたいポイントがいまいちわかんないなあ。白兵戦での致死率が高くないことを言たいのか、結局は飛び道具主体だったということを言いたいのか・・・。

>近代は白兵戦主体ではないのではないですか?激しい白兵戦が行われたり、白兵戦に失敗したり、白兵戦で著しい効果をあげた例もありますが、それは局地的な場合でしょう。

実際に白兵戦がどの程度行われたかというよりも、19世紀頃の欧米では戦術的に白兵戦に重点を置いていたのでは、という意味で書いたんです。但し、第1次世界大戦での白兵突撃の完敗とも言える事態により、白兵重視傾向はほどなく消えてはいきますが。

>結局、この問題に限らず、まじめに考えれば考えるほど、分からないことが増えてくるような気がします。

やはり、史料不足なのかな。
史料がないと、憶測で何でも書ける反面、論議の範囲が際限なく広がっていきますからね。かつて、史学の恩師が史料がほとんどなく、中国の文献に頼らざるを得ない日本の古代史に関して、「あれは史料がないから、誰でも参加できて、何でも言える、だから面白いんだ。但し、決着がつくことがまずない」なんてことをゼミで言ってました。
結局、その通りなんだよなあ。



#4131 
なな 2003/06/25 00:53
怪我したら痛そう

>徹夜城さん
それほどにボンヤリした実態の連中なんですか…。(^^;)
あんまり考え込んでも答えは出ないってことですね。さてさてどうしましょ。
とりあえず、お手数ですが4119の記事は削除していただけませんか?
前後の記事とつながりはないから消しても支障ないと思いますし。
ここの伝言板と過去ログって、いろんなジャンルのキーワードで検索していてもけっこうヒットしてくるんですよね。
自分の過去の投稿なんかがヒットした時は恥ずかしいったらありゃしない(笑。

>武器のお話
麻酔はないし、怪我したあとはさぞや痛くて大変だったろうなぁ…。
子どもの頃に見た時代劇(たぶん大河)のワンシーンをよく覚えてるんですが。
ある武将がふくらはぎを撃たれ、応急処置として酒に細い縄を浸し、弾が貫通した傷口に通して(!)グォシグォシ左右にしごいていました。…妙にリアルで痛そうでした。



#4130 
景虎 2003/06/25 00:49
最近の鈴木氏

>尾鳩さん
初めまして。

鈴木氏というのは鈴木眞哉氏のことなのですが、極端というのは、「鉄砲と日本人」、「謎解き日本合戦史」などではなく、もっと最近の「歴史群像」などの鈴木氏のことです。
私は「鉄砲と日本人」などは読んでいないのですが、前に読んでいる人と議論したところ、その当時はまだそれほど極端ではなかったようです。最近の鈴木氏の文章を引用したら、相手が当時の鈴木氏の本にはそういう事は書いていなかったと言ってましたから。
それと、鈴木氏が極端というのは、自説に都合がよい史料は信憑性が低いものも引用するのに、都合が悪い史料はほとんど引用しないという部分にも、極端さを感じてしまいます。まあ、これは鈴木氏に限ったことではないような気もしますが。
だれだったか、白兵戦が中心だという人は、鈴木氏と同じ史料を使いながら、鉄砲の効果が低い部分のみを引用していましたし(逆に鈴木氏は都合が悪い部分を無視したとも考えられますが)。最近、鈴木氏の文章を読む機会が多かったので、そういう部分が気になってしまいました。

>鉄砲は簡単
これは本当でしょうか?
砲術流派が幾つか残っていますが、火薬の調合、弾道、狙点、姿勢など色々な教えが伝わっているといいますし、誰だったかこの掲示板で紹介していたナポレオン時代のサイトによるとhttp://kodaman-empire.kir.jp/Napoleon/weapon/weapon1.html、
マスケット銃ですが、暴発での自滅がフランス軍の軍医の報告だと、1813年だけで3千件以上もあったという話もあります。戦国時代の記録だと、火薬の調合などにより威力が極端に変化したようで、当たったが無傷ですんだという話もあれば、即死という例もあるようです。

現代の火縄銃の実験にしても、実験する人によって極端に結果が違うようです。
有効射程200m、最大射程500mという人もいれば、上野氏の実験だと100mでは弾がとどかなかったとか、名和氏によると、至近距離なら腕が吹っ飛ぶくらいの威力があるが、少し離れたら極端に威力が落ちるともいいます。
そして、遠戦重視の人はよい結果を採用し、白兵戦重視の人は、悪い結果を採用しているような気がしてしまうんです。

戦国時代には、ナポレオン時代のような詳細な鉄砲のデータがないので、戦国時代の史料に加えて、諸外国の例を参考にしつつ、弓術と砲術流派を綿密に調査しないかぎり、結論はでないのではないか?と思ってしまうのです(そこまでやっても、でないかもしれませんが)。

また、戦国時代の鉄砲の普及に関しては、篭城した場合、弓は大きな隙間がないと使えないのに対して、鉄砲はわずかな隙間から撃てるから、つまり鉄砲は身体を隠して撃てるから普及したという説もあるようです。

>死傷者が多くなりやすい白兵戦
鈴木氏は、「歴史群像」で死者の多くは白兵戦によるものではないか?という説に対して、白兵戦になって致死率が高くなるわけではない、飛道具による死者は相当いた、と反論しています。

>日本で白兵戦が主体になったのは、氏の言うように近代ナショナリズム
近代は白兵戦主体ではないのではないですか?
激しい白兵戦が行われたり、白兵戦に失敗したり、白兵戦で著しい効果をあげた例もありますが、それは局地的な場合でしょう。そういえば誰かがこの掲示板で、鈴木氏の近代戦に関する知識が間違っていることを指摘していましたが、あれは誰だったか・・・。

結局、この問題に限らず、まじめに考えれば考えるほど、分からないことが増えてくるような気がします。



#4129 
徹夜城(明日は給料日で嬉しい管理人) 2003/06/24 23:57
現在だって「倭寇」はいるようなもんですよ。

>尾鳩さん
香港に続き、北京もSARSの勧告を解除されたようです。イラク戦争同様に騒いでいたわりにはあっさり終わったといいますか…いや、まだ油断できない点もおんなじなのかもしれませんが。イラクだってブッシュさんの「大規模戦闘終結宣言」から50人以上米兵が「戦死(事故死含む)」しているそうですしね。
不気味なのが「イランとの開戦に賛成か否か」というワシントン・ポストのアンケートで56%が賛成、38%が反対というデータが出ていることですが…なんだか先日のデモ騒動も扇動工作の疑いがささやかれてますしねぇ。

尖閣諸島の件ですが、まぁ確かに露骨なもんです。ただこの件に関してはむしろ香港や台湾での「愛国運動家」が勝手に盛り上がってしまうという現象があるから面白い。香港組は追い返されたようですが、来週ぐらいに台湾組も実行する構えのようです。
国境問題といえば中国はインドとも構えているんですが、パジパイ首相が中国を訪問して「とりあえずその件はおいといて」という形で協力関係宣言をしてるみたいですね。明記したかどうか未確認ですが、「チベットは中国領」と明確に認めたとかなんとかいう報道も。

>ななさん
倭寇の大勢力の件ですが、まぁわかりませんよ、結局のところ(^^;)。歴史小説的な部分ではなんとでも推理できるところだと思います。
ただ倭寇と言いましても松浦や対馬ばかりでなく天草とか大隅とか南九州勢力もかなり朝鮮半島へ出かけていたみたいなんですね。今川了俊が幕府から大隅の海賊たちの対策を命じられていましたから、これらと島津氏などの動きが関連していた可能性もありましょう。



#4128 
尾鳩 2003/06/24 11:32
祝!SARS解除>香港

>景虎様

はじめまして。
鈴木氏というのは、鈴木眞哉氏のことですか。「戦国合戦の虚実」とか「鉄砲と日本人」、「謎解き日本合戦史」とか書いてらっしゃるあの方のことでしょうか。

鈴木氏の説は、極端だという風に申されてますが、そんなに極端ではないように思いますよ。氏は白兵戦が無かった言っているわけではなくて、追撃などに「限定される」と言っているわけですから。
弓には、ある程度の技量が必要なのは当然だと思います。
鎌倉期などの場合、兵員を構成していたのはほとんどが一族か何かしらの縁のある人達ですし、室町後期になって出現してくる「足軽」などとは、そもそも素性の違うんでしょうね。
ある程度の技量が必要な弓と比べると、鉄砲はハイテクのイメージが強く使用が難しいように見えて、実際は誰でも比較的軽く扱えるところから普及したんじゃないでしょうかね。

また、刀傷よりは鉄砲や弓などの飛び道具による傷が多い以上、白兵戦は限定されていたとする鈴木氏の説は決して「極端」ではないと思いますよ。死傷者が多くなりやすい白兵戦よりは、飛び道具によって決着をはかる方が豪族や戦国大名からすれば、兵員温存という点では、遙かに有意義なわけですし。
日本で白兵戦が主体になったのは、氏の言うように近代ナショナリズムの確立により、大量動員が可能になって以降であるように思います。まあ、日本史は専門ではない自分ですから、ここはもっと専門家の意見を聞きたいところですが。

>SARS
WHOもようやく香港を感染地域から外しました。
香港の六本木とも言われる繁華街「ランカイフォン」にLord Q氏と早速飛び出しお祝いをしてきました。やはり、メディアが客以上に(笑)来てまして、我々もカメラの前でポーズを撮ったりしたんですが、やはりニュースには映ってませんでした(^^;。
とにかく、これで一時休戦。さあ、SARS研究をがんばりましょう、久保田様。

>領土問題
昨日、尖閣諸島(中国名:釣魚台)を中国領と主張する抗議運動が香港であり、運動家の船が尖閣諸島に接近したみたいですね。運動をしている当事者はともかく中国のナショナリズムって計算が見え見えなところが、何というか・・・、韓国の熱狂的なやつと比べるとついつい見ていて笑ってしまうんですよねえ(^^;。
尖閣諸島領有を主張したのも1967年(だったかな)の国際調査による海底資源調査の結果が出た後ですから。大量の石油埋蔵の可能性ありとの報告後に、突然の領有宣言ですから、もうあからさまと言うか、もう直球を放ってきたという感じで微笑ましいですね(←どこが!!。
倭寇が跋扈していた頃と比べると、海も随分と住みづらいところになってしまったみたいですね、管理人様。



#4127 
景虎 2003/06/23 15:03
戦の話

>ひでさん
なるほど、ロングボウの場合大変だったのですね。
ただ、日本の弓の場合はどうか?という疑問があるんですよね。
源義経は非力で弱い弓を使っていたとか、源平合戦の時代になると、野武士のような人々が動員され、その結果それ以前と比べて騎射が減少したが、それでもまだまだ弓矢が戦闘の中心だっとか言いますし。

また、肉体の変形は武術では珍しいことではなかったりします。
剣術の示現流の場合、特殊な走り方をするので足が外反母趾になるといいますし、居合の場合は、趣味のレベルならともかく本格的に長時間やると、居合肩といって右肩が上がり左肩が下がる事があります。空手の場合は、拳を打ち付けて鍛えるので手の骨が変形します。
どんな武術も戦闘で十分な効果をあげるレベルになるには、肉体の変化はある程度さけられないでしょう。

そう考えてみると、戦国時代の弓足軽に求められる技術レベルがどの程度であったか?という事が問題なのかもしれませんね。
大鎧の隙間を狙って射るという、平安時代の武士のレベルを要求するのは大変な事だと思いますが、弾幕をはる程度ならそれほど難しくないような気もしますし。

そういえば、孫引きですが17世紀前半の兵法書に、長柄(足軽槍隊)は危なくなった個所を持ちこたえ、敗走する敵への深追いを押えると書かれているようです。
また、豊臣、徳川時代になると、長柄が前衛(武士隊の前)から後衛(武士隊の後ろ)に変化したといいますが、長柄が前衛であった時代にしても、集団で敵を城に追い込む、などといった記録があるようで、敵を撃破するというより、行動制限が目的のようです。弓、鉄砲隊も前衛であり、野戦では行動制限や、敵陣を崩し、突破口をつくる事が主な目的だったのかもしれません。
現代戦では、銃砲撃は敵の殺傷よりも、弾幕による行動制限の方が主な目的だと言われていますが、それと同じ様なものかもしれませんね。
そうすると、やはり本格的な白兵戦部隊は、前衛の後にいる武士隊という事になるのでしょうか。状況にもよるでしょうが、基本的には足軽よりも武士の方が数が少ない事を考えてみると、
白兵戦の負傷者が遠戦より少ないことも、これで説明できるかもしれません。
ボクシングで言えば、相手を崩すジャブが足軽隊で、相手を倒すストレートが武士隊といった感じでしょうか。



#4126 
ひで 2003/06/22 00:09
弓兵育成

久保田さんが取り上げているロングボウの事例ですが、ヨーロッパで長弓(ロングボウ)がイングランド以外で広まらずに消えた理由としてしばしば育成コストの問題があげられます。数週間・数ヶ月で使い方を学び、わずかな練習で必要最低限の習熟度に達することができるボウガンや火砲と異なり、戦闘で十分効果を上げるレベルにまで鍛えるには長期間の訓練が必要であったようです。その結果左の前腕、背骨の上部、右手の指三本が変形してしまうほどだったというのだから、決して弓兵を戦闘で使えるレベルに育てるのは簡単なことではなかったようです。



#4125 
景虎 2003/06/21 23:34
昔の事は謎が多い

>久保田さん
初めまして、よろしくお願い致します。

弓兵育成に手間がかかるという事ですが、これについては弓の素人なのでなんとも言えません。
ただ、高校の弓道部などをみていると、特に手間がかかるようには見えません。源平時代の騎射は時間がかかりそうな気がしますが。

白兵戦については鈴木氏の説が極端なので、私もちょっと白兵戦を強調しすぎたきらいがありますが、白兵戦主体とまでは考えていません。戦国時代の場合は遠戦と白兵戦、どちらが主体というよりも、状況により変化が大きかったと考えています。
例えば城攻めの場合だと、城方が出撃したり、攻方が城内に突入したりすれば、白兵戦主体になったと思われますが、篭城している状態だと遠戦主体になったのではないかと考えています。
また、数千、数万の大軍の戦いをイメージしてしまう場合が多いですが、戦国時代の場合は、動員兵力数百人程度の小豪族が多かったことを考えると、大軍の戦いよりも、小人数での小戦の方が回数としては多かったのではないかと思われます。

例えば、郷土史家の方が書かれた本を読んで見ると、竹内・杉山一族という動員兵力数百人程度の、山国の豪族の戦いについて書かれていました。
竹内・杉山一族は毛利方であったので、毛利家からの感状などを使って当時の戦いを説明してありますが、それによると、「兵糧輸送中の敵を襲い合戦となり、一人を討ち取り首を持ちかえる」、「備前衆との戦いで一人討ち取る」、「夜襲をかけ多大な損害を与える」などとあります。当時、竹内・杉山一族には、高城、高土城、鶴田城の三つの城があり、一族の総兵力で戦ったとも思われませんから、多くても数百人、少なければ十数人くらいでゲリラ的に奇襲する事もあったのではないでしょうか。大名同士が平野で大軍を率いて戦うのとは、随分印象が違います。
恐らくこのような戦いの場合、遠戦だけで終わる場合もあれば、飛道具を一切使用せず白兵戦だけをしかける事もあったのではないか、と思います。

この時代は中国地方の天正兵乱、つまり毛利対宇喜多、織田の戦いであり、毛利と宇喜多の国境地帯では、竹内・杉山一族のように大国の代理戦争が多発していた時代です。
このような代理戦争も状況によってはかなり重要だったらしく、毛利輝元が鉄砲衆21人を派遣したという文書が竹内家に伝わっています。当時の毛利家は、数百丁しか鉄砲を持っていなかったという説がある事を考えてみると、毛利家にとって重要な戦いだったのでしょう。

因みに、当時の軍記、説話などに、竹内・杉山一族の城を攻めた時の、宇喜多家の家臣馬場重介の逸話があります。それによると、城方は鉄砲隊五段構えで(白兵戦部隊も付けられていたと思いますが)、馬場は鉄砲を1、2回交代させてから(発砲してから)、槍をもって突撃、三段まで破った時、右股に銃弾が当たり軽傷、四段目も突破、その後、もう一発銃弾を受け重傷。この弾は肘のあたりに抜け、竹槍で布袋を突き通すような感覚を覚え、目の前一面、朝顔の花の色に見えたといい、このような心理的、生理的証言は、戦国期においては他に類を見ず、貴重な史料といえる、と著者は主張しています。
その後、鉄砲を撃ってから、他の武将が槍で突撃するという、馬場の場合と同じ事をしています。
この頃に、毛利家から鉄砲衆の派遣があった事を考えてみると、自前の鉄砲と毛利の鉄砲衆を使えば、鉄砲と白兵戦部隊を組み合わせて、五段構えも可能だったのでしょう。
それはともかく、この戦いだと遠戦と白兵戦、どちらが主体とも言い難いような気がします。
強いて言えば、城方は遠戦主体、攻め方は白兵戦主体、又は武士は白兵戦主体といった感じでしょうか。



#4124 
ホリ−・ハンタ− 2003/06/20 23:42
撃たれた人が多ければ普及してたんじゃ?

戦国時代末期の日本、鉄砲が普及していたのは
戦闘での戦傷、致命傷の種類の統計からも見てとれる
〜というのを聞いたことがあります、
鉄砲の威力がまだまだな時代は、刀傷、槍傷、矢傷が
3大致命傷だったのが、豊臣時代ころには撃たれて致命
あるいは重傷となるのがトップ3に食い込んでたそうです。
火縄鉄砲隊は、一般の刀槍歩兵部隊のように機動力がないですし
敵の首級を挙げる機会が一般歩兵ほどないと思われ
敵の首級を挙げるのが最高の誉れの一般侍より
足軽階層が多く鉄砲を扱った傾向にあったのではと思います。
足軽は、参戦費を貰い、手柄にはボ−ナスが出て
合戦に負ければボ−ナスはおろか命も取られかねませんが
一般侍ほど大将からの事後保証のない足軽らは、
敵陣を斬り抜くような仕事より、陣地に籠もって鉄砲を構えている
仕事の方が、無難だと思っていた者が多かったとか。
一般侍・足軽の個々の性格にもよりますが
一般的な傾向として侍は白兵戦で手柄を挙げるのが理想
足軽は、白兵戦には拘らなかったって感じします。
足軽と一般侍、どこがどう違うか?
派遣社員と正社員の違いみたいなもんですかねぇ?(苦笑





#4123 
尾鳩 2003/06/20 11:38
刀と刀が火花を散らす白兵戦 夢幻?

>白兵戦
日本の合戦において、白兵戦は主流であったのか。
非常に興味のあるテーマで、さらに皆さんの見解をお聞きしたいと思ってます。
私自身、今のところ白兵戦が主流であったとは考えづらいと思ってます。
アール・ケイ氏の言葉をお借りすれば、「おらが戦争」というイメージが濃くて(^^;。
軍勢中、ほとんどは体勢を見守っているだけで、形勢が見えたとの見極めがついたとき、戦は一方的な展開になるというのが私にとっての近代以前の戦のイメージなんですよ。
弓や鉄砲の撃ち合いで決着がついたり、それこそ本格的な戦闘が始まる前に、陣立てや地勢的な優劣で決着がついてしまったり。
逆に言えば、軍勢が丸ごと本気になって攻め込んでくるとその軍勢は非常な強さを発揮するわけで、大阪夏の陣の真田なんかが好例ではないかと。

堺屋太一氏なんかが、「農民兵は村社会の中でお互い監視しあっているわけで、戦闘の最中に逃亡したり臆病さを見せたり等で軍勢を窮地に陥れるような行為を示した場合、村八分を食らう恐れがあった。だから、農民兵は強さを発揮した。逆に、織田信長などの傭兵などはそのような社会的しがらみがなかったので、すぐに逃亡することができた。だから農民兵に対して傭兵は恒常的に弱かった」なんて趣旨のことを書いてますけど、本当かなあと疑問に思うんですよ。それは、近代国家の徴兵制以降の農民兵と混同しているのではないかなあ。
近代以前では、緩やかな組織が主流であったからこそ、単純に言えば結局大軍を揃えた方があっさりと優勢に立てるわけですし、また例外的に厳格な組織を構築したものが強くなったのではないかと考えてます、はい。統制取れてる方が強いのは当然でしょう。
オスマン・トルコ然り、全民皆兵制を採用していた遊牧騎馬民族然り。
一般的に、農民兵が強くなるのは、やはり近代以降なのではないかなあ。本格的な白兵が主流になるのも、やはり近代以降なのでは。

>長篠合戦における鉄砲の数
誤解させてすいません。織田、武田の鉄砲の数が同数というのは、筆が走りすぎたことを認めます。「鉄砲の織田、騎馬の武田」というイメージの払拭と武田も非常に鉄砲を重用していたということを耳にしたことがあるので、そのことを書きたいが余り、大げさな書き方をしてしまいました。お許しを。
足塚さんだけでなく、うちの大学時代の後輩からもメールを通じて反論が来ましたので、それをここに載せることにしましょう。
「長篠の合戦についてはその最近の研究とやらで織田の鉄砲二千あるかないかで、それを二分し主戦場ではその千丁を分散して配置していたと、しかし武田がその同数の鉄砲を実戦に配備していたということはないんじゃないですか。当時の軍制については断片的な史料しか残っていないようですし、家や戦場の地形、年によっても変化がみられるようです。
ただ武田の主な部隊は長篠では徒歩で戦ってますよ。騎馬突撃を行った連中もいますが、自他共に認める扶桑随一の軍団の強みはやはり白兵戦で、彼らにとって鉄砲とは「鳥威し」程度のものでしかなかったらしいです。長篠についての全貌は、最近の研究を含め断片的な情報を組み合わせれば結構わかりますよ。」
OSくん、史劇的伝言板デビューを期待!自称甲斐武田氏の流れを汲む男よ!!!




#4122 
久保田七衛 2003/06/20 03:45
「白兵戦」論

>景虎様
 初めまして。大変興味深い議論ですので、ご迷惑でなければゆっくり参加致したく存じます。まず、昨年8月に某掲示板に掲載した内容から;

『「Sword world」の掲示板の方では景虎氏が、軍役に着目して、当時の兵種の構成で鉄砲や弓兵の占める割合はかなり少ないことを根拠として、当時は白兵戦が主体であったとの論を展開しています。

 さて、軍忠状から加害に使われた利器の主体が何であったか議論するのと、軍役内容
を検討して兵種の主体について議論するのは、当時の戦争を分析するのに、そのインプ
ット側から解析を試みるのか、アウトプット側から解析してみるかという点で、きわめ
て対照的なアプローチではないかと考えます。

 軍役において鉄砲兵や弓兵が少ないのはある意味むべなるかな、という結果ですが
(鉄砲についてはいうまでもない事でしょうが、弓については西欧のロングボウの議論
をみていると、扱う人を育てるのに手間がかかるのではないかと思われます)、当時の
戦争の実態を考える上で無視することはできない視点でしょう。軍忠状において遠戦兵
器が主体にみえるのもそれと等価に扱わなければいけない視点ではないかと考えます
(久保田自身の鈴木氏の意見に対する考えは(中略)たしかに遠戦一辺倒で議論を展開するのには問題があると思います)。

 どちらが本当であった(どちらも数値的には実態に近いと考えます)というよりは、
両視点を組み合わせて、当時の歴史的現象のひとつである「戦争」をより豊かに描き出
すことが重要なのかもしれません(ある歴史的事象を扱おうとする時、そのアプローチ
の仕方でみえかたが異なる良い例ではないでしょうか?)。

 下手なたとえを試みるならば、癌に対する抗癌剤の治療効果を判定する時、レントゲ
ンやCTといった画像で評価するのと、腫瘍マーカーなどの血液学的なデータで評価す
るのではしばしば(すくなくとも一時的には)相反する結果がでたりするわけですが、
その時にそれぞれの分析方法の長短や分析原理について一定度の考察がなされるなら
ば、はたしてどちらを強調して考えるべきかについての理解が得られる、そのようなも
のでしょうか。』

 私からみると鈴木氏の挙げるデータはそれなりに真っ正面から考えなければならないもののように考えています。以前より景虎様の論考は興味深く拝読させていただいております、私の立論に関しましては改めて時間をかけていたしたく存じます。



#4121 
景虎 2003/06/20 02:01
捕捉

集団訓練に関する捕捉です。
郷土史家の本を読んでいたら、法明寺の落書について書かれていましたが、これは、天正9年に毛利家の飯山城の将兵157人の名前を書いた物で、著者は飯山の毛利軍が訓練中に書いた物ではないか?と推測しています。



#4120 
景虎 2003/06/20 01:46
合戦

以前にもここで議論がありましたが、日本の合戦で白兵戦が殆どなかったという説には、どうしても納得できないんですよね。

軍忠状の負傷者数から白兵戦が殆どなかったと鈴木氏が主張していますが、現代戦の場合、銃弾が当たる確率は0.数パーセント以下と言われています。つまり銃撃戦になっても銃による負傷者の数は少ないわけで、ある特定の武器による負傷者が少ない=その武器が殆ど使われなかった、と決めること自体にかなり無理があります。
また、鈴木氏によると、戦国時代よりも白兵戦が少なかったという、南北朝時代の軍忠状のデータ(547例)では、白兵戦の負傷者は9.2%となっています。孫引きではありますが、トーマス氏の研究では(721例)27%であり3倍近く差があります。研究者によって、3倍も違うものを絶対視する鈴木説を信用する気にはなれません。
因みに、鈴木氏によると戦国後期は白兵戦の負傷者が32%となっていて、3倍違っていたら、90%を超えてしまいます。戦国後期は以外と白兵戦の負傷者が多い為か、鈴木氏は『首を取られた者の大半は弓矢、鉄砲で負傷したと想像がつく』と苦しい事を主張していますが。

戦国時代の場合、飛道具を持った兵の数は全体の数%〜10数%というのが多いようです。大坂の陣で鉄砲を大量装備した大名がいましたが、大規模な城攻めという例外的状況だったからだと思われます。元和2年の福島氏で鉄砲12%、元禄年間の酒井氏で鉄砲31%ですから。

さらに刀剣学や武術史との矛盾という問題があります。
鎌倉初期は、平安時代的な優美な姿であった刀が、中期にはかなりゴツくなります。所が元寇により、鎌倉中期の刀の欠点が露呈すると直に改良されて、鎌倉後期にはまた変化しています。という事は、当時は弓矢が重視されていたとはいえ、白兵戦がある程度発生していたという事になります。
南北朝時代は、日本史上最も長大な刀が流行した時代であり、この時代に騎兵が弓矢を主力装備としなくなった事、鎧が白兵戦重視タイプに変化した事、南北朝〜室町にかけて流儀武術が誕生した事とも一致します。
戦国時代にもかなりの変化が見られますが、この時代には組討用の短刀が増えていて、実際この時代に組討を重視する武術が流派として成立していますし、白兵戦の逸話も多く残されています。

白兵戦が殆どなかったとすると辻褄が合わない事が多く、定説通り平安、鎌倉は弓矢中心、南北朝から本格的な白兵戦の増加、と考えた方が矛盾が少ないと考えられます。鈴木氏は最近『歴史群像』などで、盛んに定説は間違っていると主張していますが。

>軍制
源平合戦で、魚鱗の陣などが使用されていたとか、八幡太郎義家が孫氏を学んでいたとか言いますし、持統天皇の時代に陣法博士を諸国に派遣して、陣法を教えたという話もあるようです。
その他、元寇の時に両翼で敵を包囲、攻撃した日本の武将とかがいますから、近代的な軍制はなくても、集団訓練くらいはある程度やっていたのではないか?と思うのですが。
また、戦国時代になると、個人的な武勇を重視していた武士はある程度好みの武器を持っていたのに対して(素槍でも十文字槍でも薙刀でも好きな物でよいとか)、集団で長柄奉行の指揮にしたがって戦う足軽の場合、槍の長さを指定している場合が多いというのも気になる話ではありますね。
軍記や当時の日記を読むと、武士は一人、又は数人単位での白兵戦の話が多いのに対して、足軽の場合、隊形を組んで集団で戦うという記述が多く、前衛である足軽部隊で敵陣を崩し、もっとも打撃力がある武士隊が突撃、突撃後は個人的に戦うという説があるのも、分かるような気がします。



#4118 
徹夜城(映画と歴史の伝言板を行ったり来たりする管理人) 2003/06/19 23:34
「ゾルゲ」感想補足

>みーむさん
ご指摘どうも。ちょっと僕も書き方が悪かったようです。
もちろん映画中でも「2.26」は外せない要素にはもともとなってまして、ゾルゲがそれを機にドイツ大使館内で信用を得ていく展開もちゃんとありますし、日本軍の研究を論文で書くシーンも入っていました。
ただ、映画自体としてはそうした主人公ゾルゲや尾崎の視点から離れた部分、事件自体の裏舞台まで描いていく傾向があるんですね。昭和天皇のシーンなんてのはまさにそれで。ほかにもいくつか「面白いシーンなんだけど、ストーリー展開からは外れてないか?」と思える場面は多いんです。だからやっぱり「昭和史」をやりたかったんだろうな、ということでして。

>ひのきさん
お久しぶりです。
上記のみーむさんへのレスにも書いたことですが、確かに篠田監督、やや欲張りすぎちゃってあれもこれもといろんな場面をぶちこんじゃったフシも感じますね。いや、それはそれで面白いんですけど、映画全体としてはどうなのかなぁ、と思うところもあります。3時間という長尺にする必然性はあったのかなぁ、と。こうした欲張りぶりは「写楽」にもありました(そこが僕的には面白かったりするんですが)。



#4117 
足塚玉虫 2003/06/19 23:12
装備率?

>長篠合戦、鉄砲数は織田も武田も大差なし?
そうゆう説もあるんですか?
総勢、織田軍3万数千VS武田一万数千〜
織田軍の約三千丁の鉄砲隊〜を信じるとすれば
単純に考えれば織田がたは10人に1人の銃手とゆうことに
なるでしょうか?もし武田も同数の鉄砲隊となれば
3人に1人の銃手?こんな装備率は同時代では
雑賀衆ぐらいじゃないかな?
両陣営、鉄砲構えてにらみ合ってても決着は
つきませんから、先に仕掛けてきた方が不利
なのでしょうか?武田にしびれ切らさせ先攻
させた心理戦みたいものを織田側が仕掛けたので
ありましょうか? そこらが長篠の合戦の謎
なんでしょうか。
武田は織田と対峙した直前まで長篠城を包囲して
陥落寸前のところを茶々入れられたわけで、
前面と背面に敵がいて敵(織田)の方が兵力多く
なかなか最初から不利だったようにも思いますが。



#4116 
ひのき(ウチはとりあえずサイト営業中ですので大丈夫です^^;) 2003/06/19 20:37
「スパイ・ゾルゲ」

管理人さま、こんばんは。こちらに書き込みさせていただくのは久しぶりですが、いつも拝見しております。
遅ればせながら室町太平記の完結、おめでとうございます。最後まで楽しませていただきました。いつかNHKこれ原案に大河やってくれませんかねぇ。
そして続く海上史事件簿の更新も嬉々と拝見いたしました。大変わかりやすい説明の数々ありがたや。

「スパイ・ゾルゲ」私も昨日見てきました。私は入試用の日本史の暗記項目としてしかゾルゲ事件というのを知らない人間ですが、それでもなかなか面白く観れた作品でした。
3時間もあったんですね。気がつきませんでした(マトリックスリローデッドとザ・コアとこれと連ちゃんしたので時間間隔が消えてたかも^^;)。
ゾルゲがいろんなところに情報網を広げていく過程や、尾崎さんが入り込んでいくのもわかりやすく描かれていたように思います。2.26事件やロシア〜ドイツ〜日本〜アメリカ、の国の動きも資料のなまだしナレーションでなくキャラをつかっての説明で映画に入り込んだまま受け取れました。
知らない人でもわかりやすいように、一生懸命工夫されてるなぁ、と感じました(でも詳しい方がごらんになったらいろいろあるんでしょうね)。
でもラストの一連とくに葉月ちゃん話はないほうが、余韻を感じたり、自力でモノを考えるのによいのではと思ったりもしましたが(^^;)。

スターリン。そっくりでしたね。主人とカレが映った時顔を見合わせて「似てる・・・・!」と驚いてしまいました。大写しのサインももしかしてそっくりなのかな?(現物しらないのでわかりませんが)。竹中さんも一瞬なのにインパクト大有りでした。

なかなかよい映画だったと思います。お話、という点では丁寧なお話でしたv
ただ主題というか「一番書きたいシーンはどれ」というのが、書きたいシーンらしきところが多すぎてわかりにくいのがナンといえばナンかなぁ、という感想です。
それでは・・・・奇遇なタイミングでしたので、ついつい長々と。失礼しました管理人さま(ぺこり)。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/3814/


#4115 
みーむ 2003/06/19 01:48
ゾルゲと 2.26 事件

最近、ディーキンとストーリィという人の「ゾルゲ追跡」という本を読みました。この本によると、ゾルゲは、ナチスの理論誌「ツァイトシュリフト フゥア ゲアポリティーク」に2.26事件に関する論説を発表して、日本の専門家としての名声を獲得したようです。そしてこのことが、ゾルゲがドイツ大使館の信任を得る切っ掛けになっているとしています。ゾルゲは 2.26 のあと陸軍が政治の中心に踊り出ることを読んでいたようです。

こんな訳で 2.26 事件とゾルゲは関係大ありみたいです。ちょっと古い本なのでどこまで正確かは分かりませんが。



#4114 
徹夜城(いっつも1、2個ほど用件を書き忘れる管理人) 2003/06/19 01:20
追加

さっき書き忘れたことを。

永澤俊夫さんがゾルゲスパイ団の一味の画家・宮城与徳を演じてるんですが、北斎の浮世絵を見てゾルゲとしゃべるシーンには「篠田監督、意外にお茶目な」などとツッコミを入れてしまってました。永澤さん、篠田監督の「写楽」で若き日の北斎を演じてたんですよ。もーワザとやってるとしか思えない、歴史映像オタク向け(?)のサービスシーンでした(笑)。



#4113 
徹夜城(歴史映像探索を続ける管理人) 2003/06/19 00:50
スパイ・ゾルゲ

いちおう投稿は分けまして、と。
昨日、篠田正浩監督最終作品「スパイ・ゾルゲ」を見てまいりました。こちらでは歴史ものとしての観点からの話になるべく絞って…と。

3時間、日本映画としては異例の大作になったと思います。また昭和史ものとしてもいろいろと見どころの多い映画だったかと。ちょいと話のまとが絞りきれないフシもありましたが(特に後半)、「ゾルゲを狂言回しにした昭和前期もの」として作っているようなので、それはそれで良いかと。僕自身、このところ昭和史関係の本を読み漁っていたということもあり、3時間の長尺をまったく退屈せずに過ごせましたね。疲れる人は早めに疲れそうですが(笑)。

 ゾルゲ事件については白状すれば「アドルフに告ぐ」ぐらいでしか知識を得てないんですが(あと尾崎秀実の弟・秀樹氏の少年向け自伝をむかし読んだことがありました)ゾルゲと尾崎秀実が出てくるのは当然として、スメドレーがこの二人にそんなに絡んでいたとは全然知らなかったなぁ。
 歴史的有名人としては、近衛文麿(榎木孝明がチョビ髭で演じてます)、西園寺公望(下に書いていた『影武者』のころから爺さん役の大滝秀治)、そして昭和天皇(花柳錦之輔)がよく出てきます。特に過去の昭和史映画・ドラマからすると昭和天皇の描かれ方が結構踏み込んだといいますか、セリフが多い(笑)。2.26事件で重臣達が殺されたことに激怒して鎮圧を命じたり、仏印進駐を決定するに当たってあれこれ言うあたりなどがありましたが、そこまでやるなら玉音放送をやってもよかったはずでやや不徹底ですな。もっとも主役のゾルゲたちとあんまり関係の無い部分での登場なので、これは篠田監督が「昭和」を描く上で外せない、と挿入したのかも。2.26事件じたい、ずいぶん力を入れたシーンになってたけどゾルゲたちとはあんまり関係ないですしね。

 ついつい笑ってしまったのが…ワンシーンだけ登場するある有名人物。その人物が登場するとわかり「おお、誰がやってるんだ?」と見ていたら、竹中直人さんが「地」のまんま?で演じて登場しまして、ついつい笑ってしまって(^^;)。誰の役かヒントを言いますと、過去には丹波哲郎や津川雅彦に演じられた役でございます。

 ワンシーンだけといえばスターリンも出て来るんだよな。しかしなぜかこの映画、ドイツだろうがロシアだろうが、日本以外の外国シーンで白人がしゃべるのはすべて「英語」。主役のイアン=グレンがスコットランド人だったからでしょうけど。



#4112 
徹夜城(リンク先チェックを怠りがちな管理人) 2003/06/19 00:29
南北朝の「軍制」…?

>ななさん
どうもすいません、リンク先チェックを怠っていたのは事実でして…この件に関してはどのコーナーでも特に怠惰でしてお叱りを受けたこともございます。
スズメ♂さんのサイトが他所に移動されていたのは気づいてましたが、ついつい更新してなくって…

 さてと、南北朝の「軍制」というものについてですが。
 すでに尾鳩さんも書いてますけど、しっかりした「軍制」なんてものは全くといっていいほど無かったんじゃないかなぁ。もちろん軍評定はするからだいたいの作戦計画、命令系統はあるとは思うんですが、結局のところ武士たちがめいめい勝手に行動している印象が「太平記」などの戦記を読んでいると感じられますね。抜け駆けもアリ、一つ敵の首を取ったら仕事は済んだと戦線離脱なんてこともあったみたいだし。だから勝ってるとやたらに大軍に急成長しますが、負け始めると一気に少数敗残部隊になってしまう(笑)。尊氏なんか関東から九州、そして湊川と列島横断でそれを体験してますしねぇ。
 少なくとも「足軽」は南北朝ではまだ出現していません。応仁の乱などでは傭兵的足軽集団が活動していたようですが、これには騎馬武者も歩兵で倒せる「槍」の普及が大きかったとの見方もあったはずです。南北朝時代では足利vs新田の「箱根・竹之下の戦い」で菊池軍が初めて「槍」を使用したとしている書物もありますけどね。
 雑兵、というのもどこからが雑兵なのかもう一つわからないですねぇ。騎馬武者がいて、それに仕える「中間(ちゅうげん)」だの「小者(こもの)」だのと呼ばれる従者がいて騎馬の主君のサポートをしていた、というところのようですね。楠木軍なんかはどうもこの手の歩兵連中が主力の部隊ではなかったかと思われます。これがこの後の「足軽」時代のさきがけだったんじゃないかと。

>アール・ケイさん
戦国時代の農民の「徴兵」については「雑兵たちの戦場」という本が面白いですよ。上杉謙信が農閑期に関東出兵をやっていたのは実は略奪やら人身売買やらによる「冬場の出稼ぎ」だった、という観点が見えてきます。
それで思ったのが、南北朝時代の戦乱では農民(?)レベルが兵隊にかり出されるってことはあったのかなぁという疑問でしたね。「太平記」なんか読んでる印象としてはそういうのはあまりないみたいなんですけど…

>尾鳩さん
黒澤明「影武者」のあのラストシーンは、もともと「集団自殺」として意図的に描いた映画的フィクションとでもいうべきものですから、アレでいいんです(当時も賛否激論あったようですが)。ただ「三段撃ち」にはもう疑問があがっていた時期だったのか、それは出てこないですね。信長が「まず馬を撃て」と命令を出すだけで。
タイの映画で「勇者の道」という変り種の時代劇がありまして、ラストシーンが騎馬で突進する「勇者」が火縄銃であっさり倒されるというものなんですよ(16世紀ごろがの設定)。これ、監督が「『影武者』へのオマージュ」と明白に言っているそうです。実は結構影響力が強いんだよな、この映画。まぁ僕も結構好きで繰り返し見てますけど(笑)。音楽と映像のマッチが絶妙のシーンには中毒気味でして(笑)。



#4111 
Lord Q 2003/06/18 16:01
Mr. AKASHI

民本主義者さん、秦太さん、ありがとうございます。
教えていただいた資料等見てみようと思います。



#4110 
アール・ケイ 2003/06/18 16:00
おらが戦争

管理人さま、「三種の神器」についてお答え頂きありがとうございます。
しかし、どうにも分からないことが多いですよねえ。昔のいきさつが不明瞭なのは仕方がないと思いますが、
いま現在も“あえて伝説にくるんで、仕舞っておく”という態度は
○○天皇稜を巡る宮内庁の方針と同じですよね。
引き続き、心に留め置きたいと思います。

徳川の治世が落ちつきいわゆる士農工商(今やこの云い方も差別表現だそうで)体制が固まって
普段地方公務員−有事のときは武将/兵隊という「職業としての武士」が誕生するまでは、
その地方の支配者やその側近、一部の武将ら以外は、いくさのたびに農民が徴兵されていたわけですよね。
だから農繁期は普通は自然停戦になっちゃってたわけで。
そうやって強制的?に徴兵された農民であっても、たぶん生きていくための最低限の武術というか
身を守る術は身につけていたんでしょう(自分の部落を守らないといけないわけで)。
ただ、日頃から組織立てて機敏に動けるようなそういう訓練を受けていたとは思えません
(武田信玄あたりは平時の訓練をやってたんじゃないかな、と想像したり…)。
昔の戦争って基本的には素人同士の肉弾戦だったんでしょうね。斬り合いというより
押し合いへしあいしながら槍でつくか刀や棒で叩くというイメージ。
ラグビーやアメフトの戦法が兵法に似ているというのもむべなるかな。


http://homepage1.nifty.com/arukei/index.htm


#4109 
尾鳩 2003/06/18 11:19
厳格に統制された組織を作るのは、今でも大変ですから

>ななさん
いえいえ、私も聞きかじりにすぎないので(^^;。
それなりの指揮系統は、もちろん必要だと思いますが、兵隊一人一人が「個性」を発揮するのをなるべく抑制し、組織の一員としてデータ通りに動くというような確固とした指揮系統が近代以前に存在したのは希なんだろうなあ、と。
もちろん、近代以前にそのような思想が存在しなかったかと言えばそうではなく、実現できた方が希だという意味です。組織として動くことの重要性を説いた「戦略・戦術思想」としては、「孫子」(もともとのものではなく曹操が注を入れた方です)等が有名どころではないかと思います。三国志の曹操が強くなったのも、青州黄巾賊30万を自軍に組み入れることにより、自らの手足となる軍隊を入手したことに加え、それを徹底訓練させて組織性を重んじる自らの「戦略・戦術思想」を実現させるだけの高度な軍隊に仕上げたことにある、と解説する文章を読んだことがあります。
戦国武田氏の強さも組織性の発揮にあるとする見解も存在するようで、勝海舟なども武田氏の軍勢の統制のとれたところは、近代西洋に通ずるものがあるとか何とか言ってたようですね。但し、近代以前の軍隊における組織性というのは、やはり近代以降の組織性と比べると、諸々の事情で緩やかなものにならざるを得なかったのではないかという気がします。
軍制に関する著作等については、実家に置いてあるのですぐには書けないのですが、判明次第記述します。

ところで、武田氏と言えば、ここでも依然話題になっていたような気がしますが、長篠の合戦に対する認識というのも結構変わったようですね。以前は、三千丁の組織された鉄砲隊が武田氏の騎馬隊を打ち破ったのだとする論調真っ盛りでしたけど、あり得ないとする論調の方が今は強いみたいですね。NHKの歴史番組でも以前特集組んでましたっけ。
鉄砲というのは、攻城戦の場合、攻撃する時よりは、防御する際において随分と威力を発揮するようですね。当時は、武田氏も随分と鉄砲を保持していたようですし、数では五分五分だったんじゃないですかね。結局、陣地を城塞化し、鉄砲の威力を発揮することに成功したことに織田方が勝利した理由の一つがあるんじゃないでしょうか。
関ヶ原も裏切りという政治戦を除けば、自陣を城塞化し、防御に有効に鉄砲を使うことに成功した西軍の方が随分と優勢だったようですし。
「三段打ち」というのは、余程組織化された軍隊じゃないとまず不可能ということ、及び当時の設楽が原という湿地帯で重い鉄砲を担いだ組織的行動は不可能ということからほぼ否定されているみたいですね。
今のところ、長篠の合戦の全貌像というのは、どのようになっているんですか。
結局、「影武者」の最後の突撃場面は、幻だったのか・・・。確かにあれじゃ、史上最大級の集団自殺だもんな。実利を尊ぶ戦国武将が、そんな簡単にまざまざと死ぬはずもないし。



#4107 
なな 2003/06/18 01:27
ああ…難しい

私も「南北朝時代の軍制」についてはどこのBBSに質問したらいいのかしばし迷いまして、
こちらと相互リンクしている南北朝関連のサイトを見ようとしたのですが、南北朝サイトに限らずけっこうリンクが切れてしまっているようですよ?>徹夜城さん
すずめ♂さんのリンクがいつのまにか切れててちょっとびっくり。
で、やはりここの伝言板が一番レスをもらえる確率高そうということで(笑。

>尾鳩さん
ていねいに解説してくださってありがとうございます。(^^)
どうしても近現代の軍隊像が頭から離れなくて、中世の戦についても「厳格な指揮命令系統」や「前線部隊と後方支援」といったを枠組みをあてはめて捉えようとしたんですね(笑。
想像以上にゆるい規律で動いていたんですね…。もともとの身分や職業や出身地は様々な「悪党とその下僕」を雇い入れるわけですから、いわば傭兵集団だったと見る方がいいのかな?



#4106 
秦太 2003/06/18 00:12
ムッシュAKASHI

>Lord Qさん
もうご存知かもしれませんが、明石については、この掲示板でこのあいだ少し話題になりました。#4012から#4016あたりです。

また、下記のサイトでは明石を主人公としたマンガが無料で閲覧できます。かなり自由に創作しているので、明石の伝記作品を期待すると肩透かしを食らいます。残念ながら、未完のまま中断しているようです。

http://www.mitsuiwacc.com/index.html



#4105 
徹夜城(このところなぜか質問メールがよく来る管理人) 2003/06/17 23:47
まずは「三種の神器」について

このところメールでもいろいろとご質問が来るんですよねー。それも実に多岐に渡る。歴史だけならまだしも映画とかゲームに関する質問もありまして、2日間ほど間をおいてネットに入るとこうしたものが山のように…とまでは申しませんがチラホラとつもっておりまして、回答するのが大変だったりします。中にはタイトルも書かず一行ぐらいで質問をポンと投げ込んでくる方もおりますしねー(^^;)。
この伝言板でもいくつか質問事項が出てますね。伝言板に書くからにはもちろん来訪者全体に対するご質問でございましょうが、やはり管理者として可能な限りお答えを…

 まずは「三種の神器」の件から。
 僕も明確に知らないことが多くて、ちょこちょこと調べてみました。自宅の百科事典で引いたら「さんしゅのしんき」になってましたねぇ。「神器なき戦い」ってギャグができないんじゃないか(笑)。
 「三種の神器」はご存じ「鏡」「勾玉」「剣」でありまして、それぞれ神話に由来話がのっております。剣なんてヤマタノオロチのシッポから出てきたりするわけですが、誰が埋めて置いたんだかというツッコミをした人は少なくないはず(笑)。
 さてなにせ話は古いし謎だらけの皇室のことですので判然としない話が多いのですが、「鏡」と「剣」はそれぞれ伊勢神宮・熱田神宮のご神体とされており、宮中にあるやつはその「形代(かたしろ)」つまり代理品であるということに早い段階(崇神天皇とか…って初代天皇説のある人だな)でなっていたようです。これとてもどこまでホントだかよく分からないんだけど。
 「鏡」については平安時代までに宮中の火災などですでにかなりの破損があるようです。剣はご存じのとおり壇ノ浦合戦で安徳天皇と一緒に海に沈んでしまい(この直前に即位した後鳥羽天皇は神器なしで即位した最初の天皇になっちゃった)、剣は新たに伊勢神宮から献上されてます。「鏡」は御所の賢所に保管され剣と勾玉(璽、とされるのはこっちらしい?)は常に天皇が携帯することになっていたようです(十日以上動くときは鏡も持っていく)。そういえば大河ドラマ「太平記」でも後醍醐天皇が比叡山へ動座、と決めるシーンで阿野廉子が剣らしいものを持ってましたね。
 南北朝時代はこれの争奪戦という面もあるわけですが、尊氏が建武政権を倒していったん後醍醐天皇と和睦した際、後醍醐は三種の神器を尊氏側、建前的には北朝の光明天皇側に引き渡します。しかしその後後醍醐は吉野に脱出して「あのとき渡したのは偽物」と主張し自らが依然として正統天皇であると言い出すわけですね。後醍醐の死後、足利側の内紛「観応の擾乱」から尊氏がいったん南朝に降参した際(正平の一統)、南朝は北朝から「偽の神器」をしっかり接収してまして、真相はウヤムヤにされています(笑)。
 それで義満による南北朝合体で神器は南朝から北朝に渡されるわけですね。しかししっかりと南朝の交互即位要求は踏みにじられ、後南朝などと呼ばれる旧南朝勢力による反乱活動が散発的ではありますが続いたわけです。中でも有名なのが嘉吉3年に発生した「禁闕の変」でして、旧南朝の皇族や日野一族などの公家その他の数百人(!)が徒党を組んで宮中に乱入、剣と勾玉を持ち去ってしまったものです。剣は間もなく取り返したようですが勾玉(神璽)の奪還にはしばらくかかることになります…大河ドラマ「花の乱」の冒頭がこの神璽を持った男が村に来る場面でしたよね。
 神璽が奪還されるのは「禁闕の変」から15年後。嘉吉の乱で滅ぼされた赤松家の旧臣たちがお家再興を図って将軍義政の密命を受け、奪還作戦を実行、南朝皇胤を殺害して神璽を京へ持ち帰っています。
 その後の三種の神器についてはよく分からないですねぇ。一応いまでもあることにはなっていて、宮中に保管されているはず。明治以後、天皇の代替わり(もちろん天皇の死去にともなう)の際にはただちに神剣と神璽の引き渡し作業が行われているそうです。
 その一方で伊勢と熱田に「ホンモノ」があるという話にもなっているようで、昭和天皇の独白録でしたっけ、昭和天皇は「神器の保持」のためにポツダム宣言受諾を決めたとかなんとか言ってるようです。まぁ近ごろ昭和天皇関係でいろいろ読んでると、この人なかなかクセモノなので何とも言えないんですが…

 ところで「アエラ」の今週号の見出しで「明仁天皇」という表記に目を引かれました。珍しいですよね、実際ああいう書き方は。一瞬いつの天皇だと思ってしまうという(笑)。海外なんかでは「アキヒト」で報じられているようですが、昭和天皇はいまだに「ヒロヒト」呼ばわりされているようでなかなかややこしい。

 その他の話題については後日。



#4104 
ブッチャ−3世 2003/06/17 23:01
アリババ たちの去った後

TBS報道特集で、国士舘大学のイラク発掘の教授が
現地の状況が心配になりイラクへ向かった特集を
やっておりました、不憫にも教授が発掘しイラク国立
博物館に納められた品々も紛失していて、
高価なものは持ち出し、高価でないものやレプリカは
壊して行った〜とゆう悪質さ。
教授は急ぎ、地方の国士舘大学・発掘チ−ムの拠点へ。
そこは、やはり賊が押し寄せたようですが、
番人の陽気なイラク人が「奴ら手榴弾もって来やがった
が追っ払ってやったぜ」そこで保管の発掘品は無事
だったようで。



#4103 
ケセラン 2003/06/17 21:46
FBI極秘操作資料

徹夜城さま、ならびに掲示板のみなさまはじめまして。ケセランと申します。

イラクでの文化財盗難についての話題を読みまして、以前見たサイトのことを
思い出しましたので、紹介させていただきます。
http://www.fbi.gov/hq/cid/arttheft/arttheft.htm
FBIのArt Theft Programというサイトなのですが、FBIが関係している美術品
盗難事件について公開してます。美術品の売買にかかわってる人たちは盗品売買に
かかわらないように、このサイトなどをチェックするようにとの趣旨で公開されて
いるものです。(だから、タイトルはまるでウソです・・・てへへ)

ここで日本の盗難美術品を見てみますと、
http://www.fbi.gov/hq/cid/arttheft/asia/japan/japanart.htm
藤原為家の掛け軸と並んで公開されているのは、琉球王朝の文化遺産では
ありませんか。解説を読むと第二次世界大戦中に盗まれたものだそうで。
昔も今も戦争にともなってこういうことがおこるのですね。

イラクでの盗難品についてはインターポールのサイトで情報が公開されつつある
ようです。
http://www.interpol.int/Public/WorkOfArt/Default.asp




#4102 
民本主義者 2003/06/17 17:02
明石元次郎については、

司馬遼太郎の『坂の上の雲』(文春文庫)が、まず基本でしょう。
稲葉千晴著『明石工作―謀略の日露戦争』(丸善ライブラリー)は一般に流布している「明石神話」を厳密に検証しようという趣旨の新書本です。
横浜みなとみらい21地区にある「放送ライブラリー」に行って、NHKテレビドラマ『ポーツマスの旗』を観るという方法もあります。




#4101 
Lord Q 2003/06/17 15:20
質問

徹夜城さん、皆さん、お久しぶりです。久々のカキコです。
私、出張が終わり香港に戻ってきました。また宜しくお願いします。

ところで質問があります。
明石元二郎(字を間違えてたらすみません)に関して色々と知りたいと
思っているのですが、何か参考になるような本とかHPとかご存じないでしょうか?



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