☆歴史のトップページに戻る
<<<過去ログ4800〜4900
過去ログ4601〜4700>>>

#4800 
徹夜城(なぜか昔から国際交流史ネタが好きな管理人) 2004/04/06 21:46
江戸時代の対馬

 いきなりなんですが、ここ数日電車の中でむさぼるように読んでいた本があります。

 田代和生著『倭館・鎖国時代の日本人町』(文春新書、2002)
 
 うかつだったなぁ、これ結構前に出てたんだなぁ、と思うばかり。江戸時代にあって唯一「国外」に日本人が居住する場所、それが朝鮮は釜山にあった「倭館」。言ってみりゃ対馬の「大使館」ですな。ここをめぐる江戸時代中期までの歴史をまとめた、大変面白い内容です。たまたまなんですが、つい先日中世対馬の歴史を書いた専門書の書評論文を単位取得のために書いていたこともあり、ちょうどその続きで面白かったです。
 とにかく「対馬」という土地は魏志倭人伝の昔から日本と朝鮮半島の間にあって、まさに「境界の島」でありまして、かなり両属的なポジションにいるんですよね。中世において対馬は日本の幕府・守護両国体制に組み込まれつつ、朝鮮王朝に対する「朝貢国(外藩)」という立場でもありでした。僕は実際に行った事があるんで実感しましたが、対馬って朝鮮半島に依存しないと生活ができませんよ、ホント。依存しない場合は「倭寇」化するしかないわけで(笑)。

 前フリが長くなりましたが、この本では江戸時代の対馬藩の、対朝鮮外交・貿易関係がつづられてまして、外交・貿易ネタがなぜか大好きな僕にはムチャクチャ面白い内容でした。鎖国下日本にあっても長崎貿易・琉球貿易などいくつか交易ルートがあったことは近ごろじゃ中学校の教科書でも教えるようになりましたが、対馬ルートというのはまだまだ注目度が甘いな、と思い知らされたものです。
 なかでも京都-対馬-朝鮮-清と日本から中国へ「銀」が流れ、逆に清から日本へ「高級絹糸」が流れ込んでくる、というダイナミックさには息を飲みました。ここで面白いのが日本から流れる「銀」ってのは慶長丁銀という幕府発行の銀含有率80%以上の良質銀貨だったこと。新井白石の集計によるとこの慶長銀の9割は海外に流出しちゃったんだとか。要するに「国際通貨」になっちゃってたわけですな。
 それこそ中学校の歴史でも習いますが、徳川綱吉が「貨幣改鋳」をやりますよね。金貨・銀貨で含有率を下げて「悪貨」にすることで財政難を切り抜けようとしたアレ。結果はインフレを招くわけですけど一時的にせよ幕府に大金が転がり込むんで、やめられなくなった幕府は改鋳を繰り返し、しまいにゃ銀含有率20%というとんでもない「銀貨」を発行してしまいます。
 そこで困ったのが対朝鮮貿易で銀貨を代金としていた対馬藩。すったもんだの挙句(この辺もいろいろドラマがありましたが、割愛)幕府を脅迫します(笑)。「ちゃんとした銀貨を作らないと医薬品である朝鮮人参が手に入らなくなるぞ!」と脅すのです!これで幕府が動いて慶長銀と同じ良質の貿易専用銀貨(人参銀)を発行しちゃったというから凄い。いやはや、中世以来あの手この手のことをやってきた対馬藩の底力を見た気がしちゃいますね。

 その後、さきごろ復活を果たした暴れん坊将軍(笑)こと徳川吉宗の御代。薬物学に並々ならぬ関心を持っていた吉宗は対馬経由で朝鮮からとりよせた薬学書(当時、朝鮮は東アジア的にも医学先進国だった)に熱中するんですが、そこにハングルが書いてあるもんだからもう大変(笑)。幕府御用学者連中は読めるわけもなく、対馬藩が献上したハングル教科書(僕も対馬いった際に資料館で見た事があります)を見ても発音がわかるだけで読めっこない。そこで吉宗は対馬藩に「この本に出てくる朝鮮の動植物を徹底調査せよ!」との御命令を下すのですな。対馬藩は「倭館」のスタッフおよび朝鮮側通訳らの協力を得て一大博物調査大作戦を展開するのです!いやー、もう面白いったらありゃしない展開で。さすがは吉宗、ただ者ではありません。
 しかーし、単なる興味だけでないところがさすが政治家。朝鮮人参の苗を入手して国産化を図ろうとするのですな。その狙いは人参の代金として日本銀が流出するのを食い止めようとの狙いがあったりします。

 この本、ほかにも「倭館」を舞台とした日本・朝鮮の文化交流にも話が及んでいて、食事(韓国焼肉料理の元祖的な話とか、和菓子があちらで好評だったとか)や酒の違い(このころからやはり朝鮮人の方がやたらに酒に強かった)やらケンカの仕方の違いやら、今なお共通する話題が豊富です。


>「日本書紀」と「古事記」
 「古事記」は全部読破して、「日本書紀」は3分の1ぐらいしか読んでないんですが、印象としては「古事記」はネイティブ日本的といいますか、感覚的に古代日本人のありのままを出している、一方で「日本書紀」はガチガチに硬くて政治的でもあり、またかなり中国的価値観も持ち込んだ編集がなされている、という感じでした。でも神話部分では「日本書紀」は「異説」をいろいろ併記するなど、史書として結構誠実な姿勢を見せてもいますね。注釈で外国史料との突合せをちゃんとやっておいたりしてますし。まぁやはり「日本書紀」は国家的「正史」であり、「古事記」はいわば個人編集の歴史本ということなんでしょう。

 「神話」と申せば、アニメ「火の鳥」始まりましたねぇ。「黎明編」は何回ぐらいでやる気なんだか、思ったより忠実にアニメ化した第一回&次回予告でした。ニニギ=神武天皇をどういう形で出してくるか、騎馬民族説はそのまんまなのか、に注目してはいますが。
 それにしても30分枠でやるもんじゃない、ってのは痛感。「太陽編」も壬申の乱はカットして未来部分に絞る気配を感じますしね。



#4799 
原田 実 2004/04/05 16:14
ひょっとして故・鹿島f氏の説ですか

くれど様、
「ある説の受け売り」などというあいまいな言い方をされるより、
参考になった説は明記した方が他の研究者にとってはありがたいです。
私が思うに鹿島説を参考にされたと思うのですが、
いかがでしょうか。
ちなみに『日本書紀』の記述の出典となった漢籍探しについては
すでに膨大な先行業績がありますよ。
代表的なものには小島憲之の下記の書籍があげられます。
http://bookweb2.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9890299445

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


#4798 
新参右衛門 2004/04/05 14:19
ディレクタ−ズカット

一般には日本書紀は720年、古事記は712年に
完成、と通っておりますね。両書は内容が重複していて
日本書紀は正史、古事記はオクラ入り文書な感があり、
古事記は試作版で日本書紀が其の完全版ということ
でしょうか。両書とも客観的な見方が薄い史書なので
しょうが、古事記の方が日本書紀より官僚のチェックが
入って無いってことかな。





#4797 
くれど 2004/04/05 12:33
あくまでも仮説 というか ある説の受け売りなんで

言語学まで出されると、まいりましたとしか言えませんが。

無理を承知で 文体を真似たというのは どうでしょうか?だめかな?





#4796 
相良義陽 2004/04/05 11:19
ええと……

もっとちゃんと書くべきだったかな、と反省。

私が証明しようとしたのは、「記紀の編纂は奈良以前」ということであって、「その内容が事実」ということではないです。
著者がおり、本を書く以上、そこに何らかの意図が絡むのは当然です。
記紀の場合は大和朝廷による歴史・伝説の理解・整理という意図があったのであり、それを無視して内容を鵜呑みにするのは馬鹿馬鹿しいことです。
記紀が重要性を持つのは、それが神話時代の事実を書いているからではなく、大和朝廷が呈示しようとした神話・伝説・歴史を(言い換えれば大和朝廷の政策を)知ることが出来るからではないでしょうか。
例えば、記紀には朝鮮半島が何度も登場します。このことは、(事実として神功皇后が朝鮮征伐を行ったかどうかではなく、)大和朝廷が朝鮮半島をその勢力圏の周辺部として位置づけてようとしたことを意味するのかもしれません。
一方で、記紀は大和朝廷の正統性を示そうとしているにもかかわらず、中国の歴史書のスタイルに則っています。その正統性は日本独自の神話や伝説で作られるのでしょうか、それとも中国文化圏の盟主によって承認されるものなのでしょうか。この二つの「正統性」を混在させているのは興味深いことです。

そして、言語学的研究から、記紀が奈良時代のものであることは明らかであり、従って、大和朝廷によるものだと考えられる。イコール、大和朝廷の政策研究に使用できる史料である、ということが言えます。
これに対して、奈良時代に作られたものではない古史古伝は、大和朝廷の政策研究に使えない。それを研究してみても、大和朝廷の意図は全く見えてこないのです。
この点で、古史古伝と記紀は根本的に別物だと思います。

近現代史に興味があるものとしては、古史古伝はそれが捏造された時代の人々の「古代史観」をかいま見ることの出来る一線級の史料だと思いますけどね。



#4795 
くれど 2004/04/04 21:11
某所よりの 引用  吉田神道の当主の裏の顔

増川宏一著「碁打ち・将棋指しの誕生」を読了。信憑性の高い公家や僧侶の日記類を丹念にあたり,中世において特殊な遊戯を扱う博打者に過ぎなかった碁打ち・将棋指しが,いかにして専業の遊芸師としてその地位を確立していったのかを探る労作である。
 いやしかし,囲碁も将棋も双六だの連歌だのもみんな賭博としてやってたんだな。こりゃ「ヒカルの碁」に出て来る藤原佐為の人物設定はかなりヘンだということである。そうそう,オレは市井の碁会所というのに行ったことがないのだが,確か「ヒカルの碁」の3巻だったか,三谷とヒカルが最初に出会う碁会所の席亭が「席亭は賭けちゃいけないんだが」とか言ってるんだが,実際のところはどうなんだろう。あのセリフはもしかして少年誌だからだったのかな?
 私が興味深く読んだのは,天正年間,神道家の吉田兼見と織田信長の重臣村井長門守貞勝との将棋を通した付き合いの分析。増川氏によれば兼見が貞勝の元に「将棋を指しに」行ったあとに必ず,時の権力者である信長,その部下である貞勝が下す政治的な決定が兼見の属する一派にとって好都合なものになっているそうな。これは遊芸が権力を握った武家に普及して行った一つの形態であり,兼見の行動はまるで西欧王室における道化師,とまでは行かなくても芸を持って権力に取り入るロビイストめいて見える。




#4794 
ブッチャ−3世 2004/04/04 19:53
「紀」

持参している百科事典で「日本書紀」と検索すると
下記のような評価をしていました。

「日本書紀」の編纂は朝廷支配の正当性を歴史によって説明
しようとする意図が働いていたようで、
暦の知識の無かった時代まで編年体の輪にはめ込もうとして
文章を潤色していることが、うかがわれ、
年代が遡る程、史料としての信頼性は少ない。

「紀」が歴史の潤色をやっていた箇所は、まず、
645年中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我を飛鳥板葺宮の
大極殿で討ったと「紀」には記述されているが、
当時、大極殿は無かった。
隋の煬帝を挑発する内容の聖徳太子の書を持った
遣隋使は第2回目のもので、第1回・遣隋使は、
国書も持たず隋の文帝に謁見にうかがったが
文帝が日本の国情を質問したのに対し
小野妹子は満足な答弁が出来ず隋側に理解して
もらえず、なすすべも無く帰国。
「紀」は第1回目の遣隋使の失敗を記述してい無い。




#4793 
くれど 2004/04/04 17:50
正直 自信はあるわけじゃございません。

日本書紀ならすとも、明らかに 漢籍からの剽窃だろうという部分が いわゆる 日本史の中にはあります。剽窃を 思いもせずに 議論をしているのを見ると オイオイといいたくなるのは 私だけではないと思いますが、いかに



#4792 
相良義陽 2004/04/04 16:06
重投稿失礼します

↓の話は、おおむね橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』、岩波文庫 青151−1の受け売りです。



#4791 
相良義陽 2004/04/04 16:02
ご無沙汰しております。

お久しぶりです、相良です。時々覗いているのですが、なかなか話題に入りづらくて(笑
旅行から帰ってきて覗いてみたら、なにやらついて行けそうな話をしておられるので、ちょびっと書き込みさせていただきます。

・『日本書紀』の真贋について。
言語学の方面からは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』等はまず間違いなく奈良時代の著作である、と断定されています。
それは、これらの書の万葉仮名の研究から、奈良時代以前は日本語の母音が8つあったらしい、ということが分かったからです。平安時代には母音の数が5つになってしまったらしく、平安以降の書物と奈良以前の書物では万葉仮名の使い方が違うのです。
例えば、「子」「彦」の「こ」には、古、故、固、枯、孤、庫、という万葉仮名を当てますが、
「心」の「こ」には、許、己、去、巨、拠、居、という万葉仮名を当てます。
同じ「こ」という音を表すのに、「子」「彦」の「こ」に許などを使うことはありませんし、「心」の「こ」に古などを使う例もありません。
このことは奈良時代以前には「古」と「許」の2種類の音が区別されており、その後この2種類の音が「こ」という1種類の音だと認識されるようになったのだ、と説明されています。

奈良時代以前の書物のうち、原本が残っているものがあるのかどうか、私は知りませんが、この証拠を覆すためには、『古事記』『日本書紀』『万葉集』それから『風土記』などが全て偽書であり、しかもその作り手はなぜか8母音制の万葉仮名を発明し、使用したことを証明しなければなりません。しかも平安期以降日本語はずっと5母音制であったにもかかわらずです。かなり難しいのではないでしょうか。




#4790 
新参右衛門 2004/04/04 13:06
世界最古の腕?それとも世界最古の前足?

これは、人間の歴史ネタというか生物の歴史ネタなんでしょうけど。(汗

米ペンシルバニア州でデボン紀後期の地層から、魚の前ヒレが両生類の上腕
に進化する過程にある「世界最古の腕」の骨の化石が発見。
化石は四足動物の上腕とデボン紀の魚類の前ヒレとの中間にあたる構造を
していた。
発掘と分析にあたる米シカゴ大学研究班によると、この最古の前足というか
腕は、歩行可能なほど柔軟な動きは無理だが関節を回すことはできたようだ
としている。



#4789 
徹夜城(日本書紀は途中まで読んで放置してある管理人) 2004/04/04 11:10
史料とのおつきあい

 「日本書紀」の話題が出ておりますが…
 最古の写本が鎌倉時代、とのことなんですが、確か「古事記」も南北朝時代の写本が最古でして、それもあって過去に「古事記偽書説」が時おり噴出した経緯があります。
 まぁそもそもこうした紙に書かれた文献史料ってなかなか残りにくいものであるのは確かなんですよ。中国だって「史記」などの最古の版本は北宋時代(つまりだいたい日本の鎌倉時代と言えるわけで)ぐらいからですし、写本の過程で宋・元代の版本により食い違いが生じています(ついでに日本に残る写本との食い違いもある)。「正史」ですらこの有様ですから今となっては貴重な文献の多くが失われているのだと思うと歴史屋としては悔しい限りです。

 僕自身は中国の明清代の史料を追い回してますから、印刷技術・出版体制もととのった時代のありがたさに溺れてしまっておりますが(その代わり量が多いので苦労しますが)、中国史にせよ日本史にせよ古代史は極少の史料の中の一字一句の解釈で歴史研究を進めていくというストイックな世界であります。僕も中国古代史、ことに「史記」の史料読解授業を受けた事がありますが明代史やってる人間からすると「こんな一字一句の違いにこだわらなきゃならんのか」と驚かされた覚えがあります。いや、もちろんそれしか文字資料としては材料がないから仕方ないんですけどね。
 といって、まっとうな研究者であれば少なくとも対象となる資料を「盲信」することはないと思います。版本による異同、執筆者の意図、執筆時の政治状況など、いろいろ考慮して史料批判を行いつつ読解していくのが歴史屋の基本作業で、こればっかりは古代史・近現代史を問いません。

 「日本書紀」については以前森博達「日本書紀の謎を解く」(中公新書)というのを読んだ事があります。「日本書紀」の執筆者を推理、最後には「断定」するという内容で、いささか著者の「名探偵風断定調」が気になるところではありましたが、「日本書紀」という史料をめぐるさまざまなミステリーが提示されていて面白く読めます。



#4788 
くれど@受け売りの私なりの解釈です。 2004/04/04 10:09
追記です。

1 盛んに講義されてはいても 完全本が 鎌倉時代からという点に 疑問があります。
  なんで 昔の完全本がないのだろう?

2 中国に 主張するために、べつに向こうに持ち出す必要はないと思いますが?また 日本書紀も 異名はあります。

3 焚書について そうですね。なんでも 焚書して なくなったという言い方は好きじゃないですが、焚書して 新しいものができたとする考えも、間違いはないのでは・(うまく言い返せないですが)

4 古史古伝が正しいとは おもいませんが、それじゃ 日本書紀の今残る 完全な写本が すべてを 正しく再現しているのか?自信はないけど 訓古学的な 古代史を思うたびに そう感じるのですが。





#4787 
原田 実 2004/04/04 09:23
いえ、こちらの掲示板で「先生」と呼ばれても・・・

くれど様
残念ながらその想定にはいくつも無理があるように思われます。
『日本書紀』が倭国と大陸との関係を隠蔽するような構造なのは
確かですが、その中では「日本」こそ「中国」であるという主張がなされており、
かえって唐朝に見せるわけにはいかない内容になっています。
実際、『日本書紀』はながらく中国に持ち出された形跡がありません。
『新唐書』の日本伝では「日本国王年代記」という日本側に現存しない文献が主な資料となっています(『宋史日本伝』をごらんください)。
平安時代の初期に正史編纂の方針とあわない文献が焚書されたという伝承もありますが、それが事実としても、もちろん正史たる『日本書紀』が対象になったはずはありません。『日本書紀』は平安時代に盛んに講義されたおり、その普及は奨励されていたといってよいくらいです。
写本・刊本間での異同の存在は『日本書紀』だけに限った問題ではありませんし、むしろ写本の多様性は普及の広さを示すものです。
『日本書紀』にイデオロギーが反映されているということは、かえって古代思想史の史料としての価値を示すことに他なりません。
少なくとも古代史に関しては、最初から「史料」としての性格を持たない古史古伝と、『日本書紀』とを混同して論じるわけにはいきませんよ。


http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


#4786 
くれど 2004/04/03 16:47
原田先生 質問があります 日本書紀の解釈について

こんな解釈は無理なんでしょうか?

1 まず 各豪族の墓碑などの 資料を没収した。

2 昔から 天皇は万世一家 大陸から 独立していたという編集方針があった。

3 2の方針の元に 漢籍を目いっぱい使い、大陸に、説明ができる 史書がこしらえられた。

4 桓武天皇の頃に 何らかの理由で焚書があった。

5 このころの 写本で完成版がないのは 4のため?

6 吉田神道の手で 完全本ができるも、果たして 古代からのものが そのまま残っているか

7 いくつかの版が 幕末まで刊行されれるも、最終的には 現在の国史大系版がメインになる。

8 1から7までの ポイントがわからないと、記紀を盲信するのも 不可 中途半端に利用するのも 不可 

9 古史古伝については 当然 創作部分があるも、意外と 日本書紀の写本レベルも そんなものかもしれません。

問題は 百も承知だけど いかがでしょうか



#4785 
足塚玉虫 2004/04/03 11:18
平安と名の通り平和であったかどうか

>猟奇的死刑
日本の伝奇で聞くノコギリ曳きの刑とか串刺しの刑とかは
其の方法は平安時代に考えられたそうだと聞きます、もっとも
考案されたからといって、それらの処刑が平安の世にじゃんじゃん
執行されたわけでは無いのでしょうけど。で、こういう猟奇的な
処刑は、今の感覚でも当時の感覚でも執行人は尋常な神経の人には
務まらないなぁとは思います、極楽と地獄という通念の発生も
平安時代後期であるし、お伽草紙の地獄の閻魔に仕える鬼たちは
猟奇的死刑執行人を揶揄したものかなぁと勝手に思い込ん
でおります。(汗
日本の文官だけの平安貴族という存在は一種、世界的には独特なの
ではないでしょうか?武家が登場するまでは、それでも平安貴族は
文武どちらも担当してたはずでしょうし、平安貴族の世が死刑の
無い平和な世の中だったかは分かりません。



#4784 
gallery 2004/04/02 13:37
どうもありがとうございます

  徹夜城様、景虎様
 上流階級は制度としての死刑がなくても、民間ではどうなんだろう?……と思っていたのですが、やはり私刑としての死刑は(←む、洒落ちまった)、あったことは十分考えられますね。 あと、異(?)民族という視点を忘れてました。どうもありがとうございました。感謝です。

 大昔(2〜3年前)の過去ログに出てたのですが、諸星大二郎『マンハッタンの黒船』は、『失楽園(集英社)』か、元版『徐福伝説(集英社)』に収録されております。「ええじゃないか」が「ドンマイ・ダンス」だそうです。
 星野宣之の『エル・アラメインの神殿(幻冬社)』収録の『国辱漫画』『国辱漫画2 G.H.Q.』も同系統で、面白いです。 東京(トンキン)大学から大蔵省に繋がる地下洞に、無数の官僚の卵があるんだそうです。『エイリアン』のような。
 既出なら、どうも失礼しました。ROMに戻ります。



#4783 
景虎 2004/04/02 00:52
源平討魔伝って昔あったなあ・・・

>阿祥さん
>小説家的な想像力を働かせないと説明がつかないのかもしれませんね。
そうかもしれないですね。
小西行長の洗礼名はアゴスチイノというらしいですが、行長の研究をしている人が、アゴスチイノとサインしているのを見たことが無いので、この名前が嫌いだったのでは?と想像していたのを思い出しました。想像に片寄るのは問題ですが、こうやって色々と想像するのが楽しいんでしょうね。

>原田さん
竹内巨麿って、竹内家まで利用しようとしてたんですか。それは知りませんでした。
巨麿さんとしては、武術なんかやるよりキリストの墓とか探してる方が楽しかったんでしょうかねえ。まあ、考えて見れば、江戸時代と違って武術なんか金にも権力にも名誉にもならない近・現代では、そっちの方が賢い生き方かもしれないですね。
ピラミッドといえば、今から20年ほど前だったか、テレビで日本にピラミッドがあるとか騒がれていたことがあったような・・・。日本ピラミッド、神々の指紋、沖縄の海底遺跡・・・次ぎは何が来ることか・・・実は楽しみにしてます。

>平安時代の死刑
源平合戦以前にも、前九年合戦の時、源頼義は捕らえた藤原経清を鈍刀でノコギリ引きにして時間をかけて斬首したと言いますね(頼義って怖い性格してますね)。平安時代も後半になると、地方で武士による私戦が結構あったようですが、このような状況での処刑は公式な死刑とはみなされないという事でしょうか。
でも、源頼義は官軍ですから、京の貴族にとっては植民地的感覚の奥州での坂東武者の蛮行など関係ないという事なのでしょうかね。



#4782 
徹夜城(珍しく更新作業に没頭してる管理人) 2004/04/01 22:49
一気読みは体に毒です(笑)

>galleryさん
 どうも、初めまして。
 ここの伝言板は皆様のおかげでディープで長文傾向でしかも題材も幅広く、なおかつ大量ですからねぇ…ホントに「イッキ読み」すると酔いますので注意してください(笑)。僕自身もいったん読み返し始めると中毒になるところがあります。
 「平安時代に死刑制度はなかった」の事ですが、あれをアップしたあと指摘されたことがありまして、あながち根拠のないことでもないのだそうです。少なくとも上流階級の人に関しては怨霊が怖いとかいろいろありまして、死刑は避けていたもののようです。記録で見る限り一定期間死刑が無いというのも確かみたい。でも記録に残らない部分で盗賊だとかは死刑になってた可能性はありますし、「平安時代四百年」の中には末期の源平合戦期も含まれますから「死刑がまったくなかった」というのは誤りでしょう。杉山さん、「江戸時代の“切り捨て御免”はほとんど無かった」というのも同じ文脈上で語ろうとしちゃってますしね。またある時期の死刑制度の少なさをもって「日本人」のなにを美徳にしたいのか、杉山氏をはじめこの手の言説はよく分からないところがあります(恐らくですけど杉山氏みたいな人は死刑推進論者じゃないかと思う(笑))。

 イッキ読みは毒とか言いつつ、先ほど勢いで昨年の「史点」を編集して過去ログに追加しました。昨年一年間は「史点」はほとんど休業状態で、お恥ずかしい限りなんですが、編集しながら読み返していて「ああ、こんなこともあったなぁ」などと面白がってました(書いた当人も結構忘れているものです)。
 そこで、というわけではありませんが、今日付けで「史点」を更新しております。


>原田さん
 竹内巨麿と「竹内文書」のことはちょこちょこ本で調べてはいたんですが(いつ書けるか分かりませんが「ヘンテコ歴史本」コーナーの次回予定作がこれに少々関与するためです)、「竹内流」という武芸との絡みは知りませんでした。

 僕がよく出入りしている大河ドラマの歴史BBS(この伝言板にもそこの常駐組がかなりおりますが)で、先日この「竹内」の話題がちょこっと出てきたんですよね。山岡荘八原作の大河「徳川家康」に石坂浩二演じる「竹之内波太郎」という狂言回しと言うか神出鬼没の万能キャラが出てくるのですが、これがどうやら「竹内文書」から名前をとってるという話なんです。
 えー、情報源はこの伝言板にも時々顔を出されている「のよりん」さんなんで原作を読破したことのない僕は正確を期せないのですけど、原作ではこのキャラクターは南朝の子孫で南朝復興を目指して活動しているという設定だそうで…よろしかったら「のよりん」さま、フォローしておいてください(笑)。
 「竹内文書」関係にもそれが見えるのですが、どーも「南朝」というアイテムは歴史オカルト系と相性がいいようで、僕などは「南朝オカルト」とまとめて読んでしまっているほどあれこれとブツが出ております。なんでだろうな、と思ってるんですけど、その南朝の始まりである後醍醐天皇自身が相当なオカルトマニアだったしなぁ…などと勝手に納得してます(笑)。 



#4781 
gallery 2004/04/01 21:13
平安時代の死刑制度について

 たまにROMしておりましたが、ちょっとお聞きしたい事がありまして、初カキコさせていただきました。
 こちら、ド田舎で細々と古本屋をやっておるのですが、常連さんとの会話の中で、「平安時代に死刑制度がなかった」との話題が出ました。ん?どこかで聞いたことある話だな、と思ったら、トンデモ中国史本、杉山氏の『侵略と戦慄・中国4000年の真実』に書いてあることですね。その方、『ゲーム脳の恐怖』とかにもハマっていらっしゃるようで、ジャンルの異なるトンデモにハマったのかと、少々不安です。
 とりあえず「平安時代」「死刑制度」で検索かけてみたら、法律サイトで「日本では平安時代の数百年を除き、死刑制度がなくなったことがない……」と書かれておりました。ただ、法律サイトなので、歴史的な検証をどの程度していたか分からりません。他のサイトでも「祟りを恐れたため……」とか書かれており、ホンマかいな??? と思うこともしばしば。

 実際、死刑制度の有無は、どうだったんでしょうか?

 史劇的伝言版過去ログを、500番台から読み続けて、少々気分が悪いです(いや、内容が悪いわけではなくて、長時間読み過ぎて、気持ちが悪くなっただけです)。次は「史点」をぶっ通しで……(笑)。

http://www.chukai.ne.jp/~gallery/


#4780 
ブッチャ−3世 2004/04/01 11:52
誇大妄想

>竹内文書
どこかで聞いた事ある名前だなと思いましたが、
去年末にヴォイニッチ文書の分析結果の発表がちょっと話題と
なりましたけど、世界には未だ解読できてない文書があるもんだね
他にどんなもんがあるんだろ?って話しが盛り上がりまして
知人の自称雑学博士がインダス文明の文書なんて解読できて
ないし、中国の殷以前の文書なんてのもそうだしマヤ関連もまた
しかり、日本では竹内文書がそうなんじゃないかって事でした。
漢字を使う前の日本の神代文字を現在の日本史研究界全般が
毛嫌いしてるらしいとか言ってましたが。
まぁヴォイニッチ文書の濃厚さと複雑さとは、15世紀の
錬金術本収集家のルドルフ公に高値で売り付ける為に
当時の有名な山師が精魂込めて作った傑作本だろうという説が
去年末の説らしいですが。偽書といっても金持ちを一杯食わせ
られれば芸術的?なんでしょうねぇ。




#4779 
原田 実 2004/04/01 11:19
竹内流といえば

景虎様
偽書・奇書として一部で知られる『竹内文献』、あれを世に出した
竹内巨麿も、大正時代に武芸の達人として売り出すために、自分の出自を
竹内家と関連つけるような系図を作ろうとしたのが、
文献・神宝偽作に手を染めるきっかけだったようです(拙著『幻想の超古代史』)。
で、それが暴走して今知られるような『竹内文献』ができ、
肝心の竹内流との関連は見失われたのですね。
まあ、竹内流古武術の由緒から、青森県にキリストの墓があるだの、
石川県にモーゼの墓があるだの、広島県に世界最古のピラミッドがあるだの、
という話が出てくるとはふつう思いませんから、
そのへんの関係がわからなくなるのもしかたないところなのですが。

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


#4778 
阿祥 2004/04/01 01:20
小西行長の政権構想

>影虎さん
遠藤周作の小西行長の評伝「鉄の首枷」に、この件についての氏の解釈が出ていますので紹介します。ただし、かなり思い込みの強い推論なので、注意したほうがいいとは思いますが。

朝鮮の役に出陣した行長は、その初めからこの戦争の失敗に終わることを予想しており。常に朝鮮軍に対して和平の交渉を申し入れていた。また行長の実家の小西家は朝鮮で薬草の仕入れもしており、将来的に交易の利を得ることを目標にしていた。一方、国内政治的には三成をはじめとする秀吉の奉行たちは、秀吉亡き後の勢力をどうやって保持していくかを考えるようになる。
そういった事情の中で、明朝に対し示されたのがこの名簿だと言うわけです。
ポイントとしては、影虎さんのおっしゃるとおり、実力のある大名をひとつ格下に置いて、明からお墨付きをもらう最高の立場に奉行たちの名を連ねているというところですね。もしこのあと明との国交が回復し、交易が順調に行くとしたならば、こういった肩書きは非常に意味を持つだろうという読みだったということです。そして、すでにこの時点で関が原の戦いの図式は明確にできていたということです。
後から考えると、何を夢のようなことをと思いますが、秀吉と言うバックアップが無くなることへの奉行たちの恐れがそれだけ強かったという事なのでしょう。

朝鮮の役に関する行長の動きには確かに不可解なところが少なくありません。しかしながら資料が少なく、この件についても小説家的な想像力を働かせないと説明がつかないのかもしれませんね。

>徹夜城さん

今谷さんのその本のことも知りませんでした。必読ですね。いろいろ教えていただきありがとうございます。



#4777 
徹夜城(ちょっと休みがとれたので映画三昧の管理人) 2004/04/01 00:05
京橋で

春期講習に突入していたもんで、帰宅するとバタンキューのため書き込みがストップしておりました。でもまぁ管理人が書かなくても話題豊富で議論があれこれ出ているので助かります(^^)。

 本日、講習もちょこっと中休みになったので東京は京橋なんぞへ進撃しておりました。「ははん」とお気づきの方も多いでしょう。そう、映画「女王フアナ」を見に行ったんです。
 白状しますが、映画見るまでこの女性の存在は全く知りませんでした(^^;)。しかし見ていたら大変なポジションの人なんだなぁ。カスティリヤ女王イザベラ(コロンブスのスポンサーでもあったんで、「1492」にも出てきますね)の娘であり、スペイン王カルロス1世=神聖ローマ皇帝カール5世の母であり、つまりあのフェリペ2世の祖母にあたるという女性なんですな。「狂女」ということで16世紀の前半約半世紀を幽閉されて過ごしたというお人なんだそうで。
 さっき映画のネタばれ掲示板にちょこっと書いたのですけど、そのうち「歴史映像名画座」にも入れときますし、映画評も書いておこうと思います。
 まぁそれにしても「王妃マルゴ」とか「エリザベス」とかと同様、石造りのお城の中の暗がりで展開される王室ドロドロ劇、にどっぷりと浸かってしまいました(笑)。

 「フアナ」はまだ入れてませんが、「歴史映像名画座」は告知も無く更新しております。先ごろNHK衛星で再放送されていた「ポーツマスの旗」も早速いれちゃいましたし、ついでに忘れていた「ラスト・サムライ」なんかも(これ、ちょっと迷ったんですけど、すでに「将軍」なんかが入れてありましたので)。それからやはりNHK衛星でひょっこりやっていた「ルムンバの叫び」も入れてあります。コンゴ独立運動の悲劇の指導者ルムンバを描いた映画です。
 「ルムンバ」は日本公開時はまったくノーチェックでしたねぇ(^^;)。自分で「史点」ネタに何度かしてたのに。これで「アフリカ」枠に正真正銘のアフリカ史映画が入ったなぁ、というところです。「カーツーム」とか「サハラに舞う羽根」は「イスラム圏史」枠との関係でちょっとためらいもありましたし。そうそう、「アルジェの戦い」なかもこっそり入っております。こういうのを立て続けに見ていると、気分が横暴な欧米諸国に抗するテロリスト側に寄ってくる自分がちょっと怖い。

 んで、今日その映画館に行く途中で銀座線京橋駅そばに「警察博物館」なる小さな建物(四階建てだが決して大きくは無い)があることに気がつき、フラリと入ってみました。入場は無料でございます。
 明治時代の警察創設以来の「警察史」が概観できる展示で、ちょっとした時間つぶしにはもったいない、なかなか有益な内容でした。戦後の殉職者の写真と遺品が展示されている部屋などはなかり厳粛なムード。もちろん「浅間山荘事件」の殉職者のものもありました。銃弾を受けたジェラルミン盾とか。
 警察官の殉職数についてもデータが掲示されておりまして、明治以来1600人に上るそうです。「げぇっ、多い!」と驚いていたら、よく見ると明治時代だけで1000人が殉職している。「はて?」と思いさらに見れば、「西南の役で980名ほどが殉職」していたという事実に「ああ、そうか」と合点。士族反乱には警視庁抜刀隊なんかが政府軍の一翼として参加しており、殉職というか戦死者が結構いたんですよね。また警察官は薩摩人が多く(警察官の隠語(死語?)「マッポ」は「薩摩っぽ」からきてるとか)、知り合い同士の殺し合いになるケースもあったことが紹介されてました。
 そうそう、展示されていた当時の錦絵(の拡大写真)の中に「西郷首実検の図」なんてのがあったりしました。やっぱりやったんですかね、こういうの。西郷の生首を有栖川宮熾仁が見定める絵になっておりました。

>アール・ケイさん
 いろいろ御指摘どうも。そうですか、ちゃんといかりやさんと首相のお子さんは共演もしているんですな。身元引受人の話は聞いてはいたんですが。
 それにしても実際、駅や電車内での警戒が厳しくなりましたよねぇ。僕が利用する東武鉄道なんて全駅のゴミ箱をふさいじゃいましたよ。「家庭のゴミは捨てないでください」とか口実にしてますが(笑)。取手駅も快速の終着駅のせいか、防弾チョッキつけた鉄道警察官がウロウロしていて、結構ものものしい雰囲気です。

>阿祥さん
 正親町天皇については僕も全然知らないというところなんですが…
 以前にも書きましたが今谷さん説によりますと、義満以後で天皇家に取って代わる可能性があったのは徳川家、とくに家光だったろうとのことでした。しかしなぜ実行しなかったのかについて今谷さんはあくまで仮説と断りつつ「キリスト教禁令」の問題と絡んでいたかもしれない、との指摘をしています。つまりキリスト教禁止を正当化する材料として日本の皇室が必要だった、という説明です(「室町の王権」の末尾にあったと思います)。ここで天皇家とキリスト教の関係がチラリと出てくるわけですが…



#4776 
景虎 2004/03/29 18:33
朝廷と幕府

朝廷と幕府の二重政府?をどう考えるかというのは難しいですね。
『経略復刻要編』という文献に、小西行長が考案した日本国王府とでもいうべきものが記載されているそうですが、それによると、

日本国王  豊臣秀吉
妃     豊臣氏
世子    嫡子(秀頼)
大都督   小西行長 石田三成 増田長盛 大谷吉継 宇喜多秀家 
都督兼関白 養子 豊臣秀次
亜都督   徳川家康 前田利家 毛利輝元 有馬晴信 宗義智・・・ほか略

これをどう解釈すればいいんでしょうか?
天皇とは別のもの?それとも天皇を超えるもの?私には分からないです。
五人の大都督候補は関ヶ原で全員西軍になり、幕府を開く徳川と戦って敗れています。
日本国王府構想の頃から関ヶ原の戦いは始まっていたという事なのでしょうかねえ。

>キリシタンと天皇
そういえば、小西行長もキリシタンですね。

>天皇の権威と将軍の権威
戦国の武芸者は天皇と将軍の権威を利用していますね。
宮本武蔵の養父である宮本無二之助は足利義昭に演武を上覧し、『日下無双』の称号を得たといいますし、新陰流の開祖上泉伊勢守は剣豪将軍足利義輝の師匠の一人であり、正親町天皇の御前で天覧演武してます。新陰流を受け継いだ柳生家が徳川将軍家に取り入ったというのは有名ですね。

竹内流の場合は将軍とは接触せず、朝廷重視なのが面白いです。
竹内久勝は京に道場を構えていたそうですが、1620年の春、息子と共に後水尾天皇の行列の前に飛び出して『日頃練磨の技を天子様に御覧いれたく御無礼ながら推参仕った』と叫んだと言いますから型破りなことです。御供の人々が排除しようとしても動かなかったそうですが、籠の中から『許す』との声があり、演武したとか。翌日関白近衛家から使者がきて宮中に来いという。宮中で再び演武したところ、関白から後水尾天皇に進言し『日下捕手開山』の称号を得たとか。
竹内久勝には公家の門人がいたという話があるので、事前に打ち合わせがあったのかもしれませんが、打ち合わせなしでいきなり飛び出した方が面白いですね。
息子の久吉も霊元天皇から『日下捕手開山』の称号を受けたそうですが、後水尾天皇にしても霊元天皇にしても、この時代にはすでに徳川幕府が成立していたわけで、それでも将軍ではなく天皇を重視するのが興味深いです。

さらに竹内家は豊臣とも関係があったりします。
関白豊臣秀次が竹内久勝を常陸介に任じたという話があり、恐らく秀次に武芸指南として仕えたのでは?という説があるとか。これ以前に蒲生氏郷、熊谷直澄などを門人としたと言われているのでその人脈によるもの?でしょうか。その後、宇喜多秀家の従兄弟の宇喜多左京亮も弟子になっています。竹内久勝の兄である竹内久治は竹内新流とか竹内畝流という別派を創始、賤ヶ岳七本槍の1人糟谷武則や、福島正則の家臣、伊藤武蔵守のことと思われる伊藤武蔵俊久を門人としています。
竹内久勝が京に道場を開いていた時に公家の門人達がいたと言われているので、竹内久勝は豊臣、朝廷の権威を利用したという事なのでしょう。という事は、豊臣秀吉や小西行長の本心がどうであれ回りの人達からみれば、豊臣の権威は朝廷を超えるものではなかったという事なのでしょうか。

竹内家の出自については、美作の地侍というのが定説のようです。
京の公家である竹内家と同族という説は、江戸時代に作られたのであろうと考えるのが妥当だとか。ただ、竹内久勝が京に道場を開いていた時に、公家の竹内家と接触があったのかもしれません。公家の竹内家の方は、元亀元年(1570)に竹内季治が『信長の勢力および地位は既に極に達したれば、熟した無花果の如く、木から地上に落つるの他なし』と言った為に信長に殺されたそうですが、毛利の安国寺に限らず当時は同じような事を考える人が意外に多かったのかもしれませんね。



#4775 
足塚玉虫 2004/03/29 11:09
マッハ7の刑

NASAが無人飛行機でマッハ7の記録を作ったそうですね、
重爆撃機の腹から無人試験機を発進させる形式で。2025年には
有人でこれをやる予定だそうですが、パイロット志願者が出るのか?
或いは志願者が無かった場合、白羽の矢を立てるのかと要らぬ
心配を(苦笑)マッハ7では普通、遠慮したいですね、いくら
人類の進歩のためとはいえ(笑)

>ヤシン暗殺に抗議
長官のコメントとは裏腹に国連のイスラエル非難勧告の採決は
日本は投票を棄権したそうですが。

>織田信長の3択、将軍・関白・太政大臣
織田信長は足利義昭を追放しましたが将軍職の解任は為され無かったとか、
信長が将軍になりたければ、義昭が死ぬか将軍を解任させねばならぬのか
いずれも信長の生前には無かったから信長は将軍になろうとは考えて無かった
とは思うのですが。
信長は公家との付き合いをあまりしたく無かったという説は聞いた事があり
ます、家臣ら、光秀や秀吉などに公家との折衝を一任してたとか、といって
別段、公家を弾圧したわけでもなく、荘園は当知行は安堵するのが信長の
基本方針で光秀や秀吉が荘園を押領して苦情が出たのが信長の耳に入り
信長が光秀や秀吉に返却せよと命じた例があるそうです。





#4774 
アール・ケイ 2004/03/29 00:42
東京の爆弾テロの夢をみた…(マジ)

どうかどうか、正夢にならないように…。
「一国平和主義者」と云われても、その一国の一市民の平和を脅かすようなことを
露骨に言いまくるバカ長官よりは遥かにマシだと思う昨今でありんす。

いかりや長介さんは小泉孝太郎クンの芸能界での身元引受人といった役割だったのです。
また、『壁ぎわ税務官』(CX=フジテレビ)シリーズではがっぷり組んで共演してました
(もとは筒井道隆クン+いかりやさん主演のドラマだったのが、
2作目からはいかりやさん+孝太郎クン主演になっていた(笑))。

今回のヤシン師暗殺事件に於いて我が政府が公式にイスラエルを非難したのは、
日本政府が東京にPLOの事務所設置を認めていた(いまもなのかな?)という経緯を
踏まえてのことなのでしょうが(外交姿勢の一貫性)、
この辺でアラブ受けのすることを一つやっておこう(多少はテロよけ効果あり?)という遠慮?を
微かに感じますね。

http://homepage1.nifty.com/arukei/index.htm


#4773 
ひで 2004/03/28 20:34
来年も100周年

つい最近になって、日露戦争研究会という研究会があって、結構盛んに活動していたということを知りました。研究会の開催場所をみると淡路島いったり松山いったり、東京でやったりと、ずいぶんといろいろなところで通常の研究会を開いているなあ・・・。会員の方も研究会に参加するのは結構大変そうな気がするのですが。
(サイト)
http://www.urban.meijo-u.ac.jp/zchiharu/rjw/top-j.htm

上記サイトのニュースを見てみたところ、2005年に日露戦争百周年記念シンポジウムを行う予定のようですね。気合いと根性とある程度のお金の用意をしたうえで宮崎までいってみようという方がいたらご参考までに。今年は日露戦争開戦100周年ということで、書籍がいろいろと出ていますが、特に行事らしいものはあまりないようですね(何かあったのでしたらごめんなさい)。何となくですが、日露戦争100周年に関連する事柄は今年よりもむしろ来年にいろいろあるような感じがします。


>新参右衛門様
本能寺の変の直前に朝廷が信長を太政大臣か関白か将軍に推任したという話は実際にあったようです。武家伝奏・観修寺晴豊の日記にのみ記された事項ですが、三職推任を誰が提案したのかを巡っては議論がいろいろあるようです。で、信長がこれに対してどのように答えたのかについて不明ですが、朝廷でこの件が話題になった形跡がないことや、上洛後の信長と朝廷の間でこの件に関する動きがないことから、三職推任にたいする信長の答えがNoであり、信長上洛の時点でこの話はもう過去のことになっていたと考える立場で書かれた概説書(吉川弘文館・日本の時代史13巻「天下統一と朝鮮侵略」)があります。ただ、この見方に関してもあくまで一つの説にすぎませんが・・・・。
ちなみに三職のうちの将軍職に関しては、足利尊氏以降は源氏の将軍が続いていますが鎌倉時代には藤原氏の将軍もいれば宮家の将軍もいました。一方で鎌倉幕府の御家人の間には源氏将軍という理想があったようで、藤原氏の藤原頼経が将軍に就任する際に藤原から源に姓を変えるべきではないかという議論が幕府内で起こったり、宗尊親王の後に将軍になった惟康王が一時源惟康として臣籍降下し、その後17年間源姓を名乗り続けたということがありました。このように、足利尊氏が将軍になるまで、源氏将軍というのは武家の理想ではあっても現実にはそうでない歴史があったわけです。

>阿祥様
日本海海戦において丁字戦法が行われなかったとする著作は阿祥様が紹介されている半藤・戸高両氏の対談集のほかにもちらほらとみられます。丁字戦法は虚像であるという立場で叙述を行っている人には日本近現代史の研究者で「日露戦争の軍事史的研究」の著者である大江志乃夫氏もいます。大江氏の「バルチック艦隊」(中公新書)、「世界史としての日露戦争」(立風書房)では丁字戦法は実際には行われなかったというようなことがかかれています。たしか「バルチック艦隊」のほうで戸高氏の論文を参照していたように記憶しています。その一方で野村實氏の「日本海海戦の真実」(講談社現代新書)のように丁字戦法が実査に行われたとする立場でかかれている本もあります。大江氏、野村氏、戸高氏のいずれも同じ史料を使っていますが結論が180度違っているところは史料の読み取り方の違いがいろいろあるのでしょう。


http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/


#4772 
くれど 2004/03/28 17:02
立花京子センセイの新作のことなど

お初でもないですが、書き込みです。

立花京子センセイの新作の話がでてきたようですが、私は面白いとおもうけど、八切センセイのパクリじゃないという気もしていますし、本人もわかっていると思うのですが、脚色や 我田引水の進め方もあると思います。

それから 倭寇のことを 徹底的に調べれば あの当時の東シナ海はまさに 中国の海であり、
ポルトガルの日本侵略?何 それ?という思いもしますが。



#4771 
新参右衛門 2004/03/28 14:45
辞退

>天皇と信長
1578年、織田信長は正二位右大臣兼右近衛大将の
顕官にのぼったが、彼はこれらを辞退。
信長の辞官の奏達状からは、全国平定が途上ゆえ今は
辞退、平定が成ったら新規に登用して頂きたいという
主旨であったそうで。
その後も何度か推任があったが信長は辞退し、ついに
本能寺の変となるのですが、彼が奏達状で書いた通り
に考えていた場合、あらためてどんな官職を望んでいた
のか?というのが興味ありますが、
朝廷は征夷大将軍か関白か太政大臣のうちの3つを
選ぶよう信長に申し入れていた〜という説もありますね。
関白になるには摂関家でなければならないそうですから
秀吉のように近衛前久の猶子となるような事が果たして
信長のような性格の人間にできるかどうかですが。
将軍は、源氏の棟梁がなるものですから一応平氏の織田
がこれに就くというのは凄い抵抗が予想されますね。
太政大臣、平清盛の先例を踏むと考えれば3つのうちで
一番妥当な気がします、じっさい、当時、太政大臣の
地位が空席であったそうで、朝廷としてもこれを
望んでいたのでしょうか?



#4770 
阿祥 2004/03/28 12:16
久しぶりの本屋巡りで

>徹夜城さん

「信長と天皇」も購入しました。徹夜城さんの言う通り、正親町天皇をクローズアップしていますね。これまで一度もこの天皇の事を聞いた事もありませんでした。ざっと読むと、信長の政権はそれほど安定したものではなく、本能寺の乱に表れているように、いつ寝首をかかれるか分からない、非常に不安定なものであった。その為に天皇にとってかわるなどと考えるどころではなかった。「信長の晩年の構想は、あくまで幕府の開設であり、天皇は不可欠の装置である」とまとめています。

ついでに、日本史のコーナーをパラパラ見ていたら、「天皇とキリシタン禁制」(村井早苗著)という本が目に付きました。帯には「権力確立期にキリシタンに直面した信長・秀吉・家康らと国家の主権掌握をめぐる緊張と確執のなかで、神仏の教えの擁護者である天皇・朝廷は、キリシタンを敵対者として位置づける事で自らの立場と権力を明確にしていった。」とあります。で、ここにも最初にキリシタン追放の綸旨を出したのは、正親町天皇だと書いてあるんです。信長はキリシタンを擁護したとして有名ですから、この点で対立するのはもっともです。
それにしてもこの正親町天皇というのは、どんな人物なんでしょう。今谷氏の本では「後白川法王に匹敵する巨大な存在であったといえるのではないか」とありますが、徹夜城さんは何かご存知ですか?

ところで、キリシタンと天皇という視点はあまり語られてこなかったので、非常に興味深いと思うのです。よくよく考えると、天皇というのは日本神道の大元で、更に仏教の導入では先頭に立ってきたわけで、キリシタンに反対する仏教徒たちの後ろ盾となるのは十分に考えられます。
日本に来る前から、ザビエルは天皇の事を知っていたそうです。そして、天皇を日本全土をを統べる“王”と認識していたようです。それが、日本にきた後、天皇に拝謁しキリスト教布教の許可をもらおうとしたけれども、京都御所の荒れ果てた様子を見てこれを断念し、大内氏などの大名にその庇護を求めたと言われています。実はその荒れ果てた館の中に、信長にさえも屈しない政治的存在がいたという事になります。そして、それはキリスト教に敵対せざるをえない宗教的存在でもあったというわけです。
正親町天皇の綸旨が出た事に対し、信長は問題にするなと彼らの在京を保証したのですが、キリシタンはそのあくまでその撤回を天皇に対して求めるそうで、その辺からも、天皇の権威を正統的なものと考える感覚がうかがえます。

まだ、考えがまとまっていないのですが、とにかくこの戦国末期の天皇と朝廷の力というのは侮る事ができないものだったらしい、と思い始めています。

>尾鳩さん

今谷氏の著書には、足利義満の政権は非常に安定したものであって、それに比べ信長はいまだ天下統一の途上にあり不安定でありそれが、天皇に対する態度の違いとなっているとあります。その点から言うと、秀吉の時期にはすでに統一は半ば成立しており、義満と同じように天皇の権威に歯向かうといった姿勢が見えてもいいように思います。ですが、そこで秀吉は関白という称号を受け、それで満足しているように思うのですがどうでしょう。秀吉が中華皇帝になろうとしていたとしても、それはごまぞうさん言うところの“治天の王権”の延長だという気がします。天皇を中国に移すという事を秀吉が言っていたとしても、だからといって天皇の権威を否定していたわけではないように思います。

時代が下って明治になると、日本は植民地をもち、天皇制を台湾や朝鮮に輸出します。秀吉が仮に中国で覇者になったとしても、同じような事になったような気がするのです。

>奥野さん

日露戦争記念なのか、半藤利一氏、戸高一成氏共著の「日本海海戦かく勝てり」という本が出ていました。つい先日、吉村昭氏の「海の史劇」というやはり日本海海戦についての小説を読んだばかりだったので、表紙の帯に「丁字戦法は使われなかった」とあったのにひかれ、なにが書いてあるのだろうと思ってぱらぱらめくってみました。
この日本海海戦については、日露戦争時に行われた発表にすでに丁字戦法を用いたという事が述べられており、本当にそれでもって勝ったならば、そんなに早く公にしないだろうと述べられています。丁字戦法は黄海の海戦で用い失敗しているという事です。
また、公的戦史に述べられているものと他に、150冊にわたるこの海戦に関する記録が残されており、これを十分に研究すると、違った形の海戦像が浮かび上がってくるとの事。
で、どういうことだったかは、興味のある人のために書かないでおきます。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9978117431

に紀伊国屋の紹介文があります。

しかし、そうだとすると、これまで100年間にわたって、さまざまに且つ膨大に書かれてきたであろう日本海海戦についての著作は全て真実ではなかったと言う事になりますね。歴史的真実とは何かという事を考えてしまいました。



#4769 
奥野 2004/03/26 06:26
ドリフターズ40年

「史点」拝読しました。「全員集合」を実際に見に行ったというのは本当に羨ましいです。今となっては「歴史的な体験」になってしまいましたが…
いかりや長介の自伝『だめだこりゃ』、お読みになった方も多いかと思いますが、本当に面白いです。芸人としての歩みもさることながら、昔の日本の世相もかいま見えたりして。戦争中に田舎に疎開したときの体験とか、若いころ米軍の兵士を相手に公演した話とか、テレビ時代最初期の芸能界の様子とか。父親に「堅気の仕事じゃない」という理由で芸人になるのを反対されたなんてのも、今となっては時代を感じさせられる話です。ドリフ世代はもちろん、そうでない人にもお薦めの一冊。
しかしほんと、昭和は遠くなりにけりという感じですね。もちろんいかりやさんは平成になってからも各方面で活躍していたわけですが、やっぱり僕の中では「全員集合」時代の思い出が強いもので。

話題を変えて日露戦争の話ですが、24日付の「イズヴェスチヤ」紙に、日本海海戦で戦った東郷・ロジェストヴェンスキー両提督の曾孫同士が対面したという話題が大きく報じられていました。この対面は「イズヴェスチヤ」自身がプロデュースしたそうで、日本のマスコミも取材に来てたようだから、あるいはそちらでも報じられているかもしれません。会場はサンクトペテルブルクの海軍博物館であった由。
記事を読むと、対面そのものよりは、海戦後の2人の提督の生涯とその子孫の運命の方が大きく取り上げられていました。そこで初めて知ったのですが、ロジェストヴェンスキー提督の一族は様々な波乱を経験しているようですね。孫にあたる女性は長らくパリで暮らしていた(おそらく、貴族の一員として革命後に亡命したのでしょう)のですが、戦後すぐにソ連への帰国を望み、夫に連れ戻されるという騒ぎを起こしたそうです。おかげで彼女はフランスの当局に睨まれるようになり、子供たち(今回、東郷提督の曾孫と対面した世代です)も学校で「ソ連のスパイ」としていじめられたとか。しかし最終的に、彼らは60年代の初め頃にソ連帰国を果たしています。こうした亡命者の帰国が、どれほど一般的な現象だったかはよく分かりません。
それにしても、日本海海戦は今から99年も前の出来事ですが、2人の曾孫にとって曾祖父の存在というのはいまだ大きなものであるように書かれていました。ロジェストヴェンスキー提督の曾孫であるジノーヴィー・スペチンスキーさんは、若い頃は船乗りになって日本を自分の目で見るのが夢だったと言っています。一族にとって、やはりロジェストヴェンスキー提督と日本海海戦は特別なドラマなんだそうで。僕なんか、ひいじいさんがどういう人だったかなどと考えることはあまりありませんが、やはり「歴史的人物」の子孫になってしまうと特別な感慨が生じるものでしょうか。



#4768 
パパゲーノ 2004/03/24 20:50
バスク人

はじめまして。
最近話題のスペイン&フランスに住むバスク民族、NHKのラジオで言っていたの
ですが、ジンギスカンがヨーロッパ遠征の時に取り残された人々が先祖だそうです。
言語・文化とも非ヨーロッパ的とか。
なんと壮大な話ではありませんか。
なんだか、もっと知りたいです。現地は実際はのんびりしていているらしいですね。




#4767 
尾鳩 2004/03/24 11:55
「天下」と「日本国王」と天皇と中華皇帝

>阿祥さん
おっ、「源氏と日本国王」、早速買われましたか。さすがですねえ。
そうなんです、おっしゃるとおりこの本のキーワードの一つは間違いなく「源氏長者」です。「源氏長者」というのは、簡単に言えば全ての源氏(公家源氏も武家源氏も含めて)を統べるものと言えばいいのかな。
この本によれば、足利義満の「日本国王」の概念とは、「日本国王」イコール「征夷大将軍」なのではなく、征夷大将軍と「源氏長者」の地位を兼ねることにより実現できるものであったこと。義満以降、征夷大将軍の地位に就く源氏は、ほぼ必ず「源氏長者」の地位に就いていることに注目しています。そして、この地位に「准三后」(皇后、太上皇后(あと一つど忘れ)に匹敵する身分)を加えることにより、彼は「治天の君」たる地位を事実上確立したのだということでした。つまり、義満は天皇になる、ならない以前に既に日本を事実上統べる立場に就いていたのだと。義満死去の際に、既に征夷大将軍の地位を譲っているのにもかかわらず「後継者」のことが問題になったのは、征夷大将軍の後継者ではなく、義満の確立した「治天の君」たる「日本国王」の地位を誰が継ぐのかといったことなのでは、との仮説を提示しておったのは、征夷大将軍ばかりをいつの間にか注目していた自分としては、結構斬新な視点であるように思います。

その点からすれば、秀吉の統治の仕方も実に義満の「発明した」統治の仕方に似ているわけですね。自らを「豊臣長者」の地位とし、全国の有力大名に「豊臣」姓を与える、このことにより「豊臣」を統べるものとしての地位を確立し、全国支配の正統性の確立に役立てたという。
「中華皇帝」というのは、阿祥さんのおっしゃる通り、中国の皇帝ではなく当時の観念における「世界」の皇帝というのは、当然のことです。ここでいう「中華」というのは、「世界」における中心という意味ですし、「中華」と相対峙するときの「世界」とは、「天下」という言葉に置き換えることも可能であり、「天下」とはまさに「世界」のことなのですから。
但し、日本における「天下」の概念とは、「中華」の「天下」観の模倣、もっと言うなら「中華」の「天下」観に対抗する形で登場したものであり、最初から限定的な性格を持っているわけです。敢えて言うなら日本の「天下」とは、日本国土に限定されているわけです。その「天下」を治めるのが天皇であり、「中華皇帝」を中心とした冊封体制からは一種独立した世界の王なわけです。
ですから、例え秀吉が「中華皇帝」になったとしても、秀吉が天皇を越えた存在になったわけでは決してないと思うのですが、日本の国土から出たというところが味噌なのかなと思います。少なくとも天皇に匹敵する存在が臣下から出現したことを意味していますし、さらには「天下」の概念を巡ってはむしろ対立する関係に発展しかねないですからね。

まあ、きりがないのでこの辺にしておきましょう。
しかし、中国と日本のこの「天下」観の違いが後年「近代国家」の形成に大きな影響を与えたことを考えると、何が幸いするかわからないものですね。「文明」という言葉を何か「普遍的」なものを兼ね備えた世界観そのものと考えるのなら、中国の「天下」観とはまさに「文明」そのものであったわけであり、それ故に「文明」レベルでいわゆるウォーラー・ステインの言葉を借りるなら「世界システム」たる「西洋文明」と退治するしかなかったわけですから。逆に日本の場合、その「天下」観をそのまま使用してナショナリズムに転換することが容易だったということになるわけですね。

日本史において、私の好みが古代史か室町時代なのは、何か「世界観」の混沌としたところ、だからこそある種の開放性が感じられるからのような気がします。



#4766 
阿祥 2004/03/23 22:48
多士済済

>尾鳩さん

「源氏と日本国王」買ってきました。まだ、全部は読んでいませんが、まさに天皇とその権威を正面からテーマにした本ですね。“源氏長者”など新しいキーワードが目に付きます。
豊臣秀吉に限って言うと、尾鳩さんの書いた通りに信長と秀吉は征夷大将軍になる積りはなかった。中華皇帝が彼らの最終目標だったと書いています。ただし、この“中華皇帝”中国の皇帝と言うよりは当時の世界観での世界帝国の王、実質的には東アジア全域を統治する帝王というような意味合いだと感じられます。
論拠としてはそんなに深くは書いてなく、おそらく別のところで詳しく述べているのでしょう。一つ目は「秀吉が天皇をあたかも大名に国替えを命ずるかのように、自由に動かせる立場に立っている」、2つ目は秀吉を描いた肖像画や彫刻は、そのほとんどが「唐冠」と呼ばれる大陸風の冠をかぶった姿で描かれている。中でも「豊公吉野花見図屏風」に描かれた秀吉は唐冠をかぶりインドの担ぎ籠と思しき輿に乗っている。これだけですね。そして、「天下という言葉で表現されることの多い彼らの国家構想、それは「日本」という、7世紀以来「天皇」の支配する国として定められてきた版図を大きく越え、最終的には「中華皇帝」の地位を目指すものであった。」としています。
言わんとするところは分かりますが、説得させるには材料不足ですね。ここで挙げられているその他の論文も参考にしたいと思います。

>徹夜城さん

今谷明氏の著作について何も知識がありませんでした。「信長と天皇」も氏の本だったのですね。今度読んでみます。それにしても、上記の本の内容とは正反対の信長像を描いているのじゃないかと思われるのですが、どうなんでしょう。

>ごまぞうさん

HPを拝見したところ、中世の日本史については造詣が深いようにお見受けします。よろしくお願いします。
>「義満しかり信長しかり、彼らが手にいれたのは「治天の王権」部分であって、「律令的天皇=太政官」を越えるまでには至っていなかった。」
“律令的天皇=太政官”という言葉の示すところに注意する必要があると思いますが、実質的な権力と、象徴的な権威とで二つの異なる政治的実態と考えるべきだということでしょうか。この場合どちらが上でどちらが下ということはないのでしょうね。
ふと思い出したのは、ナポレオンだったかドイツ皇帝だったかの戴冠式の絵です。ローマ教皇から王冠を受けているのですよね。ローマ教皇もルネサンス期には実質的な政治権力を持とうとしていたこともあるようですが、最終的には政教分離で精神世界の領袖となるわけです。天皇の立場もこのローマ教皇に近いものがあるのかなと思ったりしました。

それにしても、さまざまな人から有益なコメントを得られて、助かります。こんなに充実したコメントを得られる場所は他にはないでしょうね。



#4765 
ひで 2004/03/22 19:12
少しずつ見えてきた

ちょっと下界から離れていたので台湾総統選挙の状況とかいかりや長介死去といったニュースを知ったのはつい最近のことです・・・。台湾総統選は30万の無効票とか銃撃ヤラセ疑惑とか、もうしばらくの間は色々騒がれることになるのでしょう。いかりや長介さんというと、大河ドラマ「独眼竜政宗」に伊達家重臣の役として出演しているをみて、当時子供だった私はドリフのコントとの違いにかなりとまどった記憶があります。

ハルウララが106連敗になったというニュースを見ましたが、果たしていつまでこのブームが続くのか・・・。馬が偉いんじゃなくてそんな馬でも今まで出走させ続けた馬主が偉いんじゃないかという気がするのですが。

話は変わりますが、オリバー・ストーン監督作品"Alexander"の写真がネット上でも少しずつ見られるようになってきました(例えばhttp://www.alexander-the-great.co.uk/ 。他にも写真が掲載されているサイトはいくつかみかけています)。コリン・ファレルのアレクサンドロスは思っていたよりも様になってるかな、と言う感じです。

http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/


#4763 
ブッチャ−3世 2004/03/22 11:53
ダ・ヴィンチのミステリ−

先週土曜日のTVでレオナルド・ダ・ヴィンチのスペシャルを
やっていたのを見ました、自分はイタリアンルネサンス史は
詳しく無いので番組が指摘してた点が新発見なのかどうかは
分かりませんでしたけど。
ダ・ヴィンチの設計図に基づいて落下傘や戦車を復元してましたが
四角錘形の落下傘を使ってスカイダイビングを試みた場面では
ちょっと自殺行為じゃないかと思いましたが無事着地。(汗
ダ・ヴィンチ考案の木製円盤形戦車はイギリス陸軍の協力で
復元、手動クランクで一応動いてというか徐行してて、
何か構造が雑賀衆の ろくろ戦車と似てました。

>台湾総統選挙
無効票の中に、投票欄の丸の書き間違えが無効になってるという
指摘、あと銃撃は自作自演疑惑?盛り上がってますねぇ(苦笑

>長さん永眠
落としの長さん、だみだこりゃ〜がもう見られない、残念ですね。
小泉総理の談話が入ってましたが長さん とどういう繋がり?って
思いましたが小泉首相の息子さんの預かり人になってたか〜と
思い出しました。





#4762 
景虎 2004/03/21 18:50
何と・・・

いかりやさんが逝ってしまうとは・・・ショックです。
毛利の三本の矢のコント好きだったなあ。



#4761 
徹夜城(全員集合世代?の管理人) 2004/03/21 00:08
なんて日だい、今日は。

イラク戦争一周年、台湾総統選挙、そして地下鉄サリン事件発生のこの日。
いかりや長介さん死去までくるとは…嗚呼、合掌。実のところ今日最大のニュースだなぁ…。



#4760 
徹夜城(史点を書いている管理人) 2004/03/20 23:16
台湾総統戦決着

いやー、凄い大接戦でしたね。台湾総統戦。そりゃまぁ負けたほうは数えなおしも言いたくなるでしょ。しかも例の銃撃が微妙に響いたのは事実でしょうし。ただ、なんというかこの連戦さんと言う方、どことなくめぐり合わせの悪そうな人の雰囲気がありまして…この点で僕がブッシュさんから受ける印象とどこか通じてるんですな、こっちは負けたほうですけど(笑)。
 前の総統戦のときも当選確実みたいに一部で言われてて、「次の台湾総統」ってことで伝記本まで日本で出てたんですぜ。長谷川慶太郎氏が物凄くヨイショした前書き書いてて、図書館で見つけたときは大笑い。この人、これで毎年「今年はこうなる」って本を出してるんですからな(笑)

>足塚さん
モーツァルトには確か「音楽の冗談」というのがあったはず。当時の他の作曲家のクセや悪い点などをからかう意図で作曲したというやつで…戯曲・映画の「アマデウス」みたいなキャラが想像されるのもすういう妙な曲を作ってるからでもあるんでしょうね。



#4759 
足塚玉虫 2004/03/20 12:40
コミック・クラシック

ちょっと前に、モ−ツァルトが「俺の尻を舐めろ」という題の
歌を創作したというのをトリビアの泉で放映してたと書きましたが
その後、かの作曲家のスコア・リストのサイトを数種、検索したら
他にもモ−ツァルトは変なタイトルと歌詞の歌を世に残してるようです、
その怪曲のタイトルをちょっと並べますと

「男たちはいつでもツマミ食いしたがる」
「おやすみ、本当の のろまサン」
「この野郎」
「見てくれのバカ娘」
「わたしゃマルスとイオニア人になるのは難しい」
「私は行ってしまうわ、でも何処へ?」

とてもクラシックの題とは思えない、コミックバンドの
アルバムのタイトルに使っても通りそうな怪曲の数々
なんですが一応、楽譜があるところからも、
かの巨匠は一体どんな場所で、これらの迷曲を演奏
してたのか興味があるところです。




#4758 
徹夜城(調べてみるもんだと思った管理人) 2004/03/20 11:51
ちょっと検索かけたら

…いやぁ、いい時代になったなぁと思うのがネット検索で調べものをするとき。百科事典よりも情報量が多い(もちろんアテにならないものも多いが)。みんなこんなに情報を発信したがっていたんだなぁと思うことも。

いきなり何の話かと言えば、下の投稿の我が母校の校歌に関して検索かけて調べたんですよ。するとなかなか詳しいサイトにぶつかりまして。
http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/kike.html
これによればこの曲はもともと旧東大記念寮歌「アムール川の流血」なんですね。「アムール川」ということは生徒手帳にも出てましたが、まさか「流血」がついているとはおもわなんだ(汗)。なるほど、歌詞を読みますと日清戦争後、日露戦争直前の世相を見事に繁栄していると言わざるを得ません。僕の母校の創立時期を考えあわせるとメーデー歌になる前にこの「アムール川の流血」を拝借して校歌を作ったことになるみたい。実際歌詞の一部が流用されていました。
これがなんでメーデーの歌に化けたんだか…(^^;)



#4757 
徹夜城(中学時代に「項羽と劉邦」にハマっていた管理人) 2004/03/20 11:40
本日で一周年

本日でイラク戦争開戦から一周年。当初言われていたことですが、戦争そのものより後始末に苦労しているようですな。かえってややこしくなったことも多いし。しかしポーランド大統領の「米英にだまされた」発言は別の意味で呆れましたな。そういう調子だから…などとこの国のたどった過去の歴史経緯をふまえて思ってしまうところがあります。
「史点」がストップ状態になったのもイラク戦争が一因だったりもします(書いてて展開に間に合わないうちに忙しくなったというのが正確ですが)。ぼちぼち書かないとなぁと思っているうちにその有力ネタである台湾総統選が思わぬ展開になっちゃっておりますし、歴史という奴はなかなかどうして、観客(兼登場人物)を飽きさせないものであります。


>神楽さん
「鴻門の会」マニアですか…まぁいろんなものにマニアがいるものだと思っちゃったりもしまして。さすがに「倭寇マニア」というのはもっと少ないようですが(笑)。
 樊カイの「生肉ガブリ」はあまりにも有名で、なぜそれが勇気を示すことになるのかってぇと神楽さんもお書きのように生の豚肉は寄生虫がいるから、なんですよね(ユダヤ教やイスラム教が豚肉食を禁じている理由ももともとはそれだったのかも)。樊カイさんはもともと肉屋さんだったという話もあるようなので、何か安全策を知っていたのかも、って推理はどうでしょうか(笑)。
 「鴻門の会」はあまりにも有名な名場面で(あまりにも劇的に出来ているのでお芝居用の創作を予想する声もあるわけですが)、数々の小説や映画などで定番のように描かれてきてますね。僕はこのあたりの話を最初に読んだのは司馬遼太郎「項羽と劉邦」でした。その後高校の漢文でもこのくだりを習いましたね。
 本宮ひろ志のコミック「赤龍王」ではこの場面なぜかいじっておりまして、劉邦をかばって剣舞を舞う役は張良に変更されておりました。


>ブッチャー3世さん
面白く読ませていただきましたー。他にもいろいろと外国の作者不明の歌などが歌詞を全く変えて歌われているというケースは多いようですね。「雪山賛歌」(おれたちゃ町には住めないからに〜)はアメリカの「我が愛しのクレメンタイン」だったりしますし(映画「荒野の決闘」のタイトル&テーマ曲がこれ)、「タンタンタヌキの…」って歌もヨハネ黙示録の聖歌が元ネタだそうです。
 明治以後、しばらく日本には作曲家不足および曲不足があったようで、いろんな曲がほかの歌に使い回されてます。例えば僕の身近な例として、1900年創立の僕の母校の高校の校歌は「聞け万国の労働者〜とどろきわたるメーデーの〜」のメーデーの歌そのまんまです(笑)。僕の母なんか入学式でいきなりこの曲が流れてビックリしてました。我が母校の野球部はたまに甲子園に出て勝利してますので、全国のみなさんにもその校歌にビックリしていただいたのではないかと思います。
 高校時代の生徒手帳には、どこぞの旧制高校(東北大の前身だったかな?)の寮歌や「アムール川」という歌と同じ曲、と書かれておりました。



#4755 
神楽 2004/03/19 02:30
「史記」鴻門の会

鴻門の会の有名なシーンで「はんかい」が豚の肩の肉を生で食べてしまう所はすごいですよね〜^^;普通は豚って生だと寄生虫とか菌とか危なそうですし^^;なおかつあの時代じゃあ現代よりも寄生虫とかの危険性がありそうなのに・・・・「はんかい」恐るべし!ですね〜。皆さんで鴻門の会が好きだという人はいませんか?いたら好きな理由や意見などを語ってくれませんか?むしろ我こそ鴻門の会マニアだという人がいたら語りまくっちゃってください^^



#4754 
ブッチャ−3世 2004/03/18 19:42
童謡の原曲

この前、TV世界不思議発見で、ちょっと、へぇ〜な事をやっており
ました、我々日本人が「猫踏んじゃった」という題で慣れ親しんでる
あのピアノ遊び弾き曲は、世界各国で、題と歌詞が違うそうです、
アメリカで「猫のマ−チ」って題のを日本は準じたようですが
フランスでは「カツレツ」、スペインでは「チョコレ−ト」
中南米では「アヒルの子」という題だそうです、他にも「子豚の踊り」
とかあり、原曲と作曲者は不明なようです、どうも曲先な作品で、
あの独特の旋律に各国てんで勝手に感じた歌詞を当てはめたようです。

最近、久々に映画「戦争の はらわた」を見る機会がありました、
この作品のオ−プニングBGM、曲は日本の童謡「蝶々」なんですが
歌詞は♪ハンスが戦争に行った♪云々〜といった歌詞で、
童謡「蝶々」の原曲はドイツの童謡で歌詞も違うのか?とその時は
思ったんですが、検索をかけてみたところ、
スペイン民謡で歌詞を英訳した曲で題がLightly Rowを明治7年
に小林愛雄が紹介したのを野村秋足が「蝶々」の歌詞にし其れが
その後、日本で定着したようです。Lightly Rowの英訳歌詞は下記

Lightly row! lightly row! O'er the glassy waves we go
Smoothly glide! smoothly glide! On the silent tide.
Let the winds and waters be mingled with our melody,
Sing and float! sing and float! In our little boat.

うまく和訳できませんが、どうも舟歌みたいですね、この歌。




#4753 
民本主義者 2004/03/18 11:53
皇族の学問、皇族の読み方

皇太子がテムズ川の水運を英国留学の研究テーマに選んだと聞いて、
「産業革命から鉄道の発達までの間、英国の国内輸送の主流は運河だった。これが発達したことが英国の国家的統一という観念の発達を促したと考えられる。さすが日本国民統合の象徴の第一候補たるにふさわしい」と思ってましたが、案外、日本史上の事柄に対する興味からの延長かもしれないのですね。

三笠宮の『帝王と墓と民衆』(カッパブックス)に収められた文章によりますと、戦時中に中国に派遣された三笠宮は、当時の「聖戦」宣伝とは懸け離れた戦場の実態に衝撃を受け、「社会正義」に関する問題意識を持ち、旧約聖書の預言者達の「社会正義」に対する言説に興味をいだいて、古代オリエント史研究を専門に選んだのだそうです。滅びの預言を聞かされる帝王の立場が身につまされたのでしょうか?



#4752 
徹夜城(歴史映像作業も続けている管理人) 2004/03/18 00:11
論文タイトル

ふと先日の書き込みで気になりまして、皇太子の学習院史学科での卒論題目を調べてみました。ネット検索であっさり判明しましたが…

卒業論文…「中世瀬戸内海水運の一考察」
修士論文…「中世の兵庫と瀬戸内海水運」
(ちなみにロンドン留学時の研究テーマはテムズ川水運)

 うーん、意外に僕と近いことをやってらっしゃいませんか、殿下?(笑)。いやまぁこちらはアウトロー方面でありまして、そんなお行儀のいいテーマではないのですけど(僕の卒論タイトルは確か「十六世紀後期倭寇における人的結合」)。でも水運と海賊なんざ紙一重です、ホント。
 なお、皇太子妃雅子さんの卒論題目は「オイル・ショック後の日本の対外収支の調整過程について」。ああ、この辺から一般人とやることが違う(笑)。
 さらになお(笑)、吉永小百合さんの早大における卒論タイトルは「アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』におけるアテネの民主制」だそうな(唐沢俊一「トンデモ一行知識の世界」より)。


>ごまぞうさん
 古代以来の天皇制の問題を考えてくると、つまるところ「太政官制」を完全にくつがえすようなものが出てこなかったのはなぜなのか?ということになるのでしょうか。日本において中国風の官僚システムがとうとう根付かなかったことなども考え合わせると興味深いところなんですよね。

 義満が年号問題に介入しようとした一件は、僕も「室町太平記」の第49回で挿入してみました(自己宣伝すいません)。明の「洪武」があるから「洪」の字を入れようと義満が運動するんですよね。結局「洪水につながる」とかなんとかイチャモンがついて(むろん本音は異国に倣おうとはけしからんという意見もあった)ボツになってしまうわけですが。それで「応永」に決定すると今度は延々と改元せずに35年も続けさせたのは(明治以前では最長記録)逆の意味での「嫌がらせ」だったのでは、ってのは今谷明さんが言ってたかな。
 もっとも異国年号に倣うといえば、後醍醐天皇の「建武」なんか「異国の年号」そのものなんですけどね(漢を復活させた光武帝の年号に倣っている)。



#4751 
ごまぞう 2004/03/17 11:26
なんちゅうか本中華

中華皇帝との下りなかなか面白いですねえ(笑)
それはさておき、挨拶以外で初カキコしてみよう!

>阿祥さん
中世の天皇制については色々見解がありますが、富田正弘氏はいわゆる公家権門の権威と権力を分けて考え、まずは実質的権力については、寺社本所々領所職の安堵・処分・裁判権・国家租税の徴収・免除権・京都の市政警察・商業課税統制権など「治天の王権」と位置付けた。
さらに、残された部分を「公家の政務」すなわち律令的天皇=太政官として「治天の王権」部分と明確に分けた。律令的天皇は、改元・朔旦冬至祝詞・摂政関白補任・非常大赦・摂関への賜随身兵仗・内親王准后への賜封戸・大師禅師国師の賜号・天皇の譲位践祚即位・立坊立后・任大臣・諸節会・叙位・除目・贈官位・天台座主補任・諸社山陵への告文奉幣などがあげられ、一方、太政官が発するものは諸司別当補任・氏長者諸院家別当補任・諸寺社長吏別当補任・一座・輦車牛車・禁色雑袍・勅授帯剣・除服出仕・列本座などがあげられる。

つまり長々と何が言いたいかというと、義満しかり信長(信長は詳しくないので当てはまるか解らない・・)しかり、彼らが手にいれたのは「治天の王権」部分であって、「律令的天皇=太政官」を越えるまでには至っていなかった。
日本の王朝交替が見られないのは、この太政官制を越える勢力がなかったからという説が妥当なのではないでしょうか。

>ブッチャ−3世さん
義満期の改元の場合は、改元の時期については殆ど口を出していないが、改元の年号名についての介入は見られます。勘者がいちいち年号候補を義満の所に持っていきお伺いを立てているシーンが史料で目に付きます。
今谷氏は、「応永」年間がなかなか改元されなかったのは、「応永」改元の時に義満希望の年号が通らなかったから嫌がらせで改元させなかったとも述べておられますが。
応仁の乱以降になると、武家側の意向により改元することが時々見られます。
これは改元により弱体化した武家権門に何らかの補完があったのかもしれませんね。
信長もこのような室町将軍に従っただけで「天正」改元もさして問題にすることではないのでは。。
何しろ改元費用は武家が負担しているのだから、少しくらい意見言わしてくれよ!という感じなんでしょう(笑)まあ、金は出しても口ださずが理想的でしょうが。。

http://www1.cts.ne.jp/~djruien/index.htm


#4750 
ブッチャ−3世 2004/03/15 18:10
援軍は来たらず

>本能寺の変の背後にカトリック勢力?
工藤かずや=原作、池上遼一=作画の漫画「信長」では
明智光秀へ内密にカトリック勢力から織田体制の転覆計画
が打診され最初、光秀は固辞するのですが、結局、光秀は
旧教側艦隊の援軍を期待して信長に謀反する〜といった感じ
だったと記憶してますが、うろおぼえで。(笑

>天皇に屈服した織田信長
えぇと信長って確か、年号を強引に変えた事があったんじゃ
なかったですか?理由は戦乱が多くて不吉だとかいって。
これって、かなり朝廷をないがしろにするような感じも
しますが足利義満もそれくらいはやってるかな?
この間、TV何でも鑑定団で、足利義輝が朝廷へ送った
書状が鑑定に出されてました、どうやら本物なようで
結構へり下った丁寧な義輝の文面に意外な感じがしました、
凄まじい剣豪将軍の最期を知ってるだけに。



#4749 
徹夜城(昔の記憶はいい加減な管理人) 2004/03/15 11:42
おしゃべり人物伝の配役

アール・ケイさんの書き込みでハタと思い出し…
のよりんさんのサイトにばっちり載ってたんですね、「おしゃべり人物伝」の配役。
そーかー、「ライト兄弟」は岸部一徳・岸部シローのお二人だったんですね。当時は芸能人関係については知識がなかったなぁと改めて思うばかり(^^;)。一緒に横山やすしが出ていたようですが、何をやったんだったか…?

>ひでさん
「本能寺の黒幕」リストにイエズス会も加わるわけですか…もう、なんでもアリだなぁ(笑)。
むかし立ち読みした、かなりアダルトな内容の信長コミックではあの「弥助」と名づけられて傍に仕えていた黒人が信長を殺すことになってましたっけ。男色の相手をさせられて…という設定になっておりました(もっとも本能寺の変のドサクサに殺すんですが)。そういえばこの黒人も「おしゃべり人物伝」に出てましたね、小林克也が黒塗りで演じておりました。


>新参右衛門さん
 「○○守」という役職とその実際の地域との関わりについてはいろいろと議論がありまして、まるっきり無関係(もしくは実質性がない)という見方とかなり実効性があったとの見方との意見がそれぞれ出てますね。そういえば大河ドラマ「琉球の風」の第一回冒頭で秀吉が亀井茲矩を「琉球守」に任じる事を約束するシーンがあったりしました。このこともその後の秀吉の対外姿勢の表れと見る意見もありますね。
 急激に成長した織豊政権が家臣たちに与える領地の不足から大陸へ侵攻した、との見方も古くからあり一定の支持を受けてはいますね。ただやはりそれだけでは説明できないと思える要素が多々あります。いや、それこそ国際事情に疎い誇大妄想…と感じるところもありまして(なんせ秀吉は朝鮮が対馬宗氏に服属していると思っていたフシがありますからな)。その一方でよく分かっていてやったのではとの意見も上がっておりまして、まだまだこの辺も議論が定まらないようです。


>アール・ケイさん
 故・網野善彦氏ではありませんけれど、「日本」と「天皇」って実は相当に深い根っこで結びついているのかもしれない…と思うこともありますね。平安四百年を経過したあたりでもう誰かが取って代われるようなものじゃなくなってたのかもしれませんねぇ…宋の皇帝が日本人から天皇家の「万世一系」を聞いてうらやましがったりしていたようですから、その時点で日本国内でもそうした意識が出来上がっていたとは言えそうです。
 今谷明氏は当然ながら、他の歴史家でも天皇家最大の危機はやはり義満の時だったろうとは認識している人は多いようです。鎌倉後期の皇統分裂、そして南北朝という過程は天皇の存在理由じたいをかなり脆弱なものにしたはず(というか、そもそも後醍醐があんな行動を起こしたのもそうした危機感があったからとの指摘あり)。義満が「簒奪」をどこまで考えていたかについては議論がありますが、少なくとも天皇を越えた新たな権威になろうとした可能性は高いでしょうね。
 今谷説ではその後天皇家はジワジワと権威を回復してゆき、そのまま戦国、安土桃山、江戸にいたるということになってます。天皇家に取って代わる可能性があったのは信長・秀吉よりも家光の方が高かったんじゃないか、ってことを書いておられましたがその根拠については僕は知りません。

 昨年脚本家・笠原和夫氏の「昭和の劇」を大変興味深く読んだんですけど、笠原さん、昭和天皇をボロクソに叩き、天皇制についても徹底的に敵視していてその廃止を主張しておりますが(「二百三高地」「大日本帝国」で組んだ舛田利雄監督ともその線で意見の一致を確認していたことなんかはかなり意外な暴露でありました)、その一方で「日本は天皇がいなくなるとゴチャゴチャに混乱した状態になるかもしれない」との予想もしてるんですね。このあたり、なんとなく網野善彦の話とつながるなぁ、と僕などは思ったものです。

 まぁなんにせよ「日本史最大のミステリー」はやはり「天皇家」なんでしょうなぁ。このあたり、史学科出身であられる皇太子殿下の御意見をうかがいたいところなんですが(笑)。いや、実際「歴史家」として自分の立場をどう認識しているかぜひ聞きたいんですよね、ホント。僕が大学で習った日本史の先生も言ってましたが、「将来の天皇が、よく歴史専攻を選んだよなぁ」と思うことがあります。周囲の反対とかあったんじゃなかろうか、と(三笠宮は別として、みんな生物学系だもんね)。



#4748 
アール・ケイ 2004/03/15 00:54
誰も知らない『バラエティ 世界史漫遊』

『おしゃべり人物伝』の元ネタ(というかオリジナル)なんですよね、これって。
詳しくは(あんまり詳しくないけど)のよりん氏のサイトのページ(下記)を参照されたし。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/5784/sakuhin/sekaisimanyu.html

コント形式で古今東西の偉人(でもないひとも含まれる)伝が語られるのですが、
その回の主人公を演じたタレントが主題歌を歌うという趣向も生きていて
情感たっぷりだったことを記憶しています。
「シルエット」というのがもとは人名だということもこの番組で知りました
(このネタぐらいなら、トリビアで採用されるかな(笑))。

ほんと、信長に対しては好き嫌いが激しいですな、素人も玄人も。

こう書くと危険分子かと思われかねないかなとも思うのですが、
日本の短くない歴史で、(時の帝1人ではなく)朝廷を完全に滅ぼしてしまおうとした
独裁者、殺掠者が登場しなかったということが時たま不思議に感じることがあります。

http://homepage1.nifty.com/arukei/index.htm


#4747 
新参右衛門 2004/03/14 01:34
皇帝ですか

>信長や秀吉は中国皇帝のようになりたかった〜
こおいう誇大妄想は眉唾なんですけども、まぁ国内統一
したら家臣らに給地できる土地が不足して大陸に進出って感じ
の説明でも私のような素人には成る程と思えてきますが。
信長が長生きしたらどうしてたか?って問いかけはよくあるの
ですが、家臣らに筑前守だの日向守だのと未だ制圧して無かった
九州の地名の官位を受けさせた点で、信長も秀吉と似たような
事をしただろうぐらいのことは想像するのですが。
秀吉が毛利攻めを命じられたのは秀吉が信長に熱心に工作して
そうし向け得たという描写は多くある太閤記小説の定番となって
おりますが、秀吉は、毛利攻めで、援軍を要請すれば光秀が
京洛の兵を集めて来るわけで当然そうなると信長の警護の数は
手薄になることは分かるはずだし、案外、秀吉は本能寺の変を
予想してたのではないかな?と勘ぐるのでして。



#4746 
ひで 2004/03/14 00:13
むぅ

胸に手を当てて思い出してみると、当掲示板にて、あさっての方向に話を飛ばしていて、なおかつ話が続いていない乗って私が一番多いのではないかと、ちょっと自己批判したくなる今日この頃です^^;;

それはさておき、信長と秀吉がどのような政権構想を持っていたのかということに関しては、「日本の時代史」(吉川弘文館)13巻を見ると結構まとまっていたような記憶があります。やはりそこでも幕府や征夷大将軍には興味がなかったような描き方になっていたかな・・・。

最近見つけて読んでいない本のなかに「信長と十字架」(集英社新書)という本がありパラパラと眺めてみたところ、結論としては信長はイエズス会のために立ち上がり、イエズス会によって消されたという話になっていました。その本によると本能寺の変の黒幕はイエズス会だそうで・・・。要するに信長、そしてその跡を継いだ秀吉はイエズス会やスペイン、ポルトガルの先兵だったということのようです、はい・・・。ちょっと目次を見ただけで頭がくらっときてしまってまじめに読んでいないのですが、はたしてどうなってるんだろう、とちょっと心配になってきます。

http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/


#4745 
徹夜城(今ごろギムリ役がレイダースに出てた人と気づいた管理人) 2004/03/13 21:19
ここは歴史の雑談掲示板です(^^;)

>足塚さん
 ははは…そんなに久々なんでしょうか、歴史ばなしで盛り上がるのって(笑)。まぁ管理人自らいろいろ脱線した話をしとりますしねぇ。

>信長と天皇
 信長と天皇についてはそれこそ今谷明さんが「信長と天皇」という本を書かれてましたよ。それで読んだのか、他ので読んだのかは忘れましたけど、今谷さんの主張は目にしています。
 足利義満の「簒奪計画」説を強くとなえる今谷さんですが、信長についてはかなり辛い点をつけてますよね。巷では妙に信長が革命児的にもてはやされ人気もあるが、本当にそうかい…?という意見を強くとなえておられました。今谷さんに言わせれば信長はむしろ天皇権威に屈した武将であり、信長を屈服させた正親町天皇の存在をかなり大きくとりあげています。今谷さんによると戦後歴史学界でも信長は妙に人気があり、こうした信長評は学界でも不評の様子だったとか(義満簒奪説は結構好意的にうけとめられたそうですが)。
 信長→秀吉のラインが「中国皇帝」的なポジションを得ようとしていたかも、というのは面白い見解ですしある程度の現実性はありますね。あるいは義満みたいな構想で天皇権威を乗り越えようということもあったかもしれません。そのころ女真族をまとめつつあったヌルハチの構想なんかもちょっと似たところがあるように感じまして。
 そういえばつい先日、書店で「本能寺の変の真相」本の新しいやつが新書で出ていたような(講談社学術新書?)。


>おやかたさん
 僕も「おしゃべり人物伝」の最初のころ(一人芝居状態)を覚えてます。柴田恭平が「イソップ」をやった回なんかは特に印象的に覚えてますね。この状態が半年かそこら続いて、いきなり小林克也乱入(笑)でバラエティー色が強い番組に変更されたはず。その第一回は裸足のランナー「アベベ」でした。まぁ結果的にはこれが当たったようですけどね。確かに最初の頃のシンプルな雰囲気も捨てがたい味がありましたが。柴田恭平さんは番組イメチェン後もしばしば登場してましたよね。
 小林克也さんは番組DJと言いますか、進行役兼脇役役者という位置づけで、これまたいろんな役をやっていたと思いますが、最終回ではとうとう自ら主役になってしまいました。なんと「西郷隆盛」で(笑)。


>尾鳩さん
 石がすする雑炊…うん、確かにうまそうですよねぇ。ただあのシーン、柳葉敏郎さんが急いで食ったためにむせちゃってますよね。あれ、何度見ても「演技」じゃない気がするんですが…金八正成の「ゆっくり、ゆっくり」ってセリフもどうもアドリブに見えるんです(笑)。



#4744 
足塚玉虫 2004/03/13 09:01
すごく歴史の伝言板らしい展開

久々に歴史のネタで盛り上がってますね、当たり前か、歴史の
伝言板ですもんね、ここ。(笑

>信長の天皇擁立
織田信長という題の本は多くあれども、信長と天皇との関係を書いてる
本はあんまりない気がするのですが。中公新書の「織田信長」には
天皇との関係を書いている章がありました、信長は足利側と不和になる
につれ天皇を立てるようになったとか、信長が義昭と仲が良かった頃は
幕府を介して朝廷と関係できましたが、義昭と不仲になるにつれ信長側は
直接、朝廷に働きかけるようになったとか。具体例でいうと、姉川の戦い後
浅井朝倉連合軍が比叡山に篭もり織田と対峙した頃、信長は天皇に働きかけ
朝廷の仲介という形で両軍の休戦を成し、織田は武田の西進に備える事が
でき、朝倉は補給路の不備で近畿で苦境にあったので無事本国へ撤退できた。
織田の側で朝廷との交渉連絡は、明智光秀が近畿方面の与力の職務上、
彼独特のコネで其れを行っていたようで、それをもってして
本能寺の変の黒幕=朝廷というトンデモ説もあるわけですが、
信長と朝廷の関係は興味深いと思います。




#4743 
阿祥 2004/03/13 02:09
歴史として語るのは難しい

>尾鳩さん

面白そうな本を紹介してもらいありがとうございます。秀吉が中華皇帝を目指していたというのが、どのような資料から語られるのか興味津々です。

ここで、個人的に関心があるのは、この皇帝の立場と天皇の関係はどうなるのかというところですね。皇帝は天皇と対立するのか、それとも天皇はあくまで象徴であって、実際の政治権力を代表する皇帝とは衝突しないですむのかどうか。
「戦国大名と天皇」(今谷明著)という本では、戦国期を通して、大名たちは次第に天皇の権威を必要としていったということを述べています。足利義満の時代が天皇の権威の最低になったおり、それ以降時代が不安定になるにつれて、大名たちは自らの正義を保証する天皇によるお墨付きを必要としていったと、資料にあたって分析しています。この本では織田信長までしか書かれていませんが、信長は京に入り天皇を擁立するということで、天皇の権威を利用するという分析をしています。

>徹夜城さん

なるほど、中国的なにおいを感じたとは言っても、それを資料にあたって史実ですと証明するのは難しいのでしょうね。
先日読んだ「万暦十五年」(黄仁宇著)という本に戚継光に関する一章があって、そこに明における常備軍の質のひどさが描かれていました。倭寇になって中国に行った日本人たちが、明の軍隊ってあんなものだよと、日本に帰ってきて言いふらしていたら、武士たちの正規軍が行けば一たまりもないだろうと考えてもおかしくはないと考えたりしました。でも、これも想像でしかないですよね。それを歴史として語るのは難しい。



#4742 
おやかた 2004/03/12 22:03
おしゃべり人仏伝 続き・・

 管理人様
 私も竹中義経の「静ちゃんのおうちへレッツゴー!」覚えてます。
 当時は「ありえない」と思ったのですが、京都でちやほやされて白拍子に
熱をあげてしまう辺り、意外と史実に近かったのかなと今では思えます。
(永井史観の影響大ですが・・)
 ライト兄弟は思い出せないです。

 この「おしゃべり人物伝」、放送当初は桃井かおり、浜畑賢吉、柴田恭平の3人が交代で偉人を演じるというスタイルだったんですよね。この3人以外に俳優は登場しないというシンプルな構成で。
 途中でスタイルが変わりまして、小林克也と毎回のゲスト(竹中直人や壇ふみなど)がパロディー調で演じるようになって。

 正直、私は最初の構成のほうが好きだったんですが、行き詰ってしまったのかなあ・・・。この、構成の変化についてご存知の方が居たらぜひ教えていただきたいです。



#4741 
徹夜城(たまにはアカデミック?なこともしてみる管理人) 2004/03/12 12:05
海上史論文室に追加しました

 スペイン・マドリードのテロはかなりひどいことになっております…地下鉄サリン事件も可愛いものに思えてくるから恐ろしい。犯人についてはまだあれこれ言われており断定はできないのですけど、バスク独立運動のETAって線は僕も考えにくいと思っているんですが…アル・カイダの犯行声明やらコーランのある盗難車があったとか、こちらの線も疑われ始めてますけど、こっちはこっちで出来すぎ、って気もしなくはないですし。
 なんかタガが外れてきてる、っていうのかなぁ。「史点」が事実上ストップ状態のこの一年、あれこれとネタのメモ見ながら思い返すとそんな気になってきます。やはり世界のためにも再開しなきゃいけないんでしょうな(←おいおい)。

 発表した大学院紀要も発行になったので、こちらにも論文「16世紀『嘉靖大倭寇』を構成する諸勢力について」を掲載しました。「俺たちゃ海賊!」コーナー内「海上史論文室」から読む事ができますので、関心のある方、お暇な方はよろしく(^^)。
 それにしても似たタイトルの論文ばかり書いてるなぁ、とこの作業をして今さら気づかされました(笑)。内容ですが、解題をつけた以外はほぼ発表した論文そのままとなっていますので学術論文に慣れてない方にはすこぶる読みにくい文章かと思います(まぁ僕の書く文はそれでもくだけてる方らしいのですが)。漢文書き下しの原資料引用部分などは難解なので読み飛ばして結構ですので。そもそも漢字で表記できないものが一部あるので(文字化けを起こす)ブザマにカタカナで書いてそのあとに漢字の説明をつけたりしていますから読みにくい事このうえない。
 さらにいえば論文中に出てくる地名も地図なしじゃ全然わかりませんよねぇ…これについては近く更新予定の「海上史事件簿」コーナーでフォローさせていただく予定ではいます。


>景虎さん
ほう、ウッチャンナンチャンでそんなのがあったんですか。「また川中島やるの!?」には文字で読んでいてもウケてしまいました(笑)。
 ちょっと連想で思い出したのですが、以前TV朝日系で所ジョージ司会の歴史番組が半年ぐらいだったかな、やっていたのですが、その中で「レキシーホラーショー」というコーナーが面白かったなぁ。「常識」と思われている歴史「事実」が実はホラ話だった、というのを暴露していくコーナーでして、出演している二人組(誰だったか…)があれこれ実演するのが面白くて。特によく覚えているのが「忍者」を検証する回でして、「忍術書」に載る忍法を実際にやってみると全然できない(笑)。ほら、「水蜘蛛」という水上を歩く円盤ゲタみたいのがあるじゃないですか、あれを実際にはいて水面に上がってみたらそのままズブズブ…と沈んでいくのが爆笑ものでした。
 「岐阜」の件ですが、その刀剣関係の文章の該当部分、読んでみました。それだけではなんともいえないなぁ、という感想でしたが、ちょっとネット検索で調べてみると信長による改名以前に、京都から戦乱を逃れてきた禅僧らがこの町に住んでいて、井ノ口という町の「雅称」として「岐阜」などの名前を使っていたらしい…ってな話がチラッとありました。そういうことなら考えられるのかも。


>おやかたさん
 「おしゃべり人物伝」、僕も好きでしたねぇ。紫式部も面白かったですが、清少納言の回も相当なものでした。夫に離婚届にハンコ押させたり、TVで政治情勢(道長さんの娘彰子さんが…などと読み上げられてる)のニュースやってたり、現代風おふざけ調が満載でした。
 竹中直人の源義経、って回もありましたよね。衣川でカッコ良く自害しようとしている義経がイザというところで「どうしてアタシが死ななきゃいけないの!?」と態度豹変(笑)ってあたりは竹中さんならではの怪演でした。京都駅に降りた義経がタクシーに乗って「静ちゃんのところへ!」っていうシーンもあったなぁ(笑)。
 誰が演じていたか忘れましたが、兄弟の漫才師か何かの二人組が「ライト兄弟」をやっていた回もありましたね。関西弁をしゃべるライト兄弟、というのがえらく新鮮、かつ妙にリアルで…(笑)。



#4740 
尾鳩 2004/03/12 11:46
さんまのものまねは、ときにツボをついている

>ひょうきん族の大河パロディ
ずばり「たけし信玄」ですな。懐かしい・・・。
さすがに本家「武田信玄」のオープニング・テーマは使えなかったのか、オープニング・テーマは、「影武者」のテーマを使っていたように覚えてますが。
さんまが板垣信方役をやっていた菅原文太のものまねをやってたんですが、これが妙にツボにはまってて、大笑いさせて頂きました。

歴史ものの番組といえば、原田大二郎司会でフジ系列でなにかやってたような気がするなあ。番組名が思い出せない・・・。

話しはがらっと変わるんですが、大河なんかで登場人物が食べる質素なもの、にぎり飯やら湯漬けやら、あれ何故か食欲をそそるんですよねえ。「太平記」で楠木正成がはじめて登場したとき、石がすすっていた菜っぱ雑炊?とか。
ああ、腹が減ってきた・・・。




#4739 
おやかた 2004/03/11 21:40
歴史パロディー

 NHKで金曜夜にやってた「おしゃべり人物伝」の一時期は現代に置き換えた
ミニドラマっぽくて好きでした。
 紫式部と清少納言の回は特に。清少納言=壇ふみというキャスティングが出色でした。

 あとは、ひょうきん族とか笑う犬の「大河パロディ」も結構好きでした。意外とツボ突かれます。

 



#4738 
景虎 2004/03/10 20:38
春風

>歴史教育
ウッチャンナンチャンの『突撃!お笑い風林火山』が続いていたらなあ、と思ってしまいますね。歴史系番組ってNHKの真面目な番組くらいしかないですが、お笑い芸人が出演するバラエティ歴史番組というのは貴重でした。
番組の最後でウッチャンが歴史上の人物になってインタビューをうけるというコーナーがありましたが、上杉謙信をやったときは武田信玄から電話がかかってきて、「えっ?もう1回川中島やるの?俺もう嫌だよ」とか言ってたのが笑えました。
その他には、宮本武蔵が巌流島で使った木刀と本能寺で信長を刺した槍が九州にあったので、ナンチャンが「伝説の武器は九州にある」と言ったらウッチャンが「まってください、別に九州人は嘘吐きというわけじゃないんです」とか言ってましたが、何で私はこういうどうでもいい事ばかり覚えてるかな・・・。

>「岐阜」
岐阜と言えばこちらの刀剣学の論文の最後に
http://www.h3.dion.ne.jp/~nbthk-gf/ronbun01.htm
信長が岐阜と改称する46年前(大永元年八月)に岐阜という地名がすでにあったのではないか?という疑問が書かれています。はっきりと書かれていないので推測になりますが、刀という物は中心(柄の中に入っている部分)に年号や地名などを書いている物が多いので、大永元年八月、岐阜と書かれた刀がある、又はあったという事なのでしょう。
これが定説を覆すほどの発見となるのかどうか分かりませんが、刀剣学などというマイナー過ぎる分野は歴史学者には殆ど知られていないと思われるので、様々な分野の専門家が交流できればそこから新たな発見が生れるのかもしれませんね。

>マックスウェーバーの支配の正当性
伝統と法と道徳ではなく、伝統と法とカリスマだったと思います。
カリスマの例としてウェーバーはモーゼを挙げているとか何とか・・・まあ、私も詳しくは知らないので間違ってるかもしれませんが。

どうでもいい事ですが、個人的にはモーゼというと映画『十戒』のイメージが強いです。



#4737 
徹夜城(どうも記憶があいまいになっていた管理人) 2004/03/09 23:43
そうか、映画でした

>のよりんさん
 御指摘どうもー、っとそれから少々御無沙汰しております(^^)
 そうか、僕も記憶違いをしていたようです。「鉄砲伝来記」の存在は知ってるが、何で見たかなーとあれこれ頭の中をひっくり返していたのですが、そうか、映画の情報で見たんです。ほう、こんな映画があったのか、ということでして。小説もあった、ということなんですね。
 「鉄砲伝来」をめぐるミステリーはこれまでにもいろいろな研究が出ているのですけど、少なくともピント氏の証言はアテにならないのは確かでして(これがホントのピント外れ)。昔はヨーロッパ系の史料を信用する傾向が強かったのでピントの「東洋遍歴記」もその記述をめぐってかなり大真面目に考えて「鉄砲記」との矛盾を処理しようとした方もいるのですけど、ピントが鉄砲伝来の現場に居たとはおよそ思えないんですよね。この人、他にも他人のしたことを自分のことにしちゃってるケースが確認できまして、彼の死後間もなくの段階で「偽りの多い書」呼ばわりされてます。

>「ポーツマスの旗」ちょこっと補足。
「ポーツマスの旗」第一回を見ていてついつい歴史映像オタクとしてはニヤッとしてしまった場面があります。ドラマでは原田芳雄演じる明石元二郎がヨーロッパ各地でスパイ大作戦なことをやるわけですが(笑)、その中で「オデッサでの戦艦ポチョムキンの反乱」の話がからんでくるわけです。そう、もちろんあのエイゼンシュテイン監督の古典的名作「戦艦ポチョムキン」で描かれたアレです。
 明石元二郎は来るNHKスペシャル大河「坂の上の雲」でも重要な登場人物として出てくる事になると思うのですが…過去には東宝映画「日本海大海戦」で仲代達矢が演じておりまして、まさにスパイ大作戦…っていうより露骨に「007」やっちゃっておりまして(笑)。もっとも猫を抱いて撫でているあたりは007の敵方のボスみたいでしたが。



#4736 
のよりん 2004/03/09 19:14
「鉄砲伝来記」

これ本が出る一年前に映画になっているんだよね。
主役のピントを演じたのは東宝映画で外国人を演じつづけていたリック・ジェイソン。
原案が現在岩波ホールの支配人の高野悦子女史なんですよねえ。



#4735 
徹夜城(なぜか火曜日が休日態勢の管理人) 2004/03/09 11:43
ポーツマスのハタ迷惑(笑)

さて、毎度のダジャレタイトルですが(笑)。

>「ポーツマスの旗」
 先日も書きましたがNHKのBS2で昭和56年(1981)放送の4回連続ドラマ「ポーツマスの旗」が「BS思い出館」で毎週土曜に放送されています。石坂浩二の小村寿太郎、原田芳雄の明石元二郎を軸に日露講和交渉を描くドラマです…と言いつつ今回が初見なので正確な内容および感想は最後まで見ないと言えないんですけどね。第1回は1時間半かけて小村寿太郎が横浜を出航するところまででした。日本側の外交電文の暗号が解読されていたことがわかりスッタモンダするあたりが興味深かった、というところですか。
 面白かったのが冒頭に1980年現在のポーツマスが5分間ほど紹介されること。NHKのスタッフが市民にマイクを向けてまわり、「この町で日露講和交渉が行われたことを知ってますか?」などと聞いていくニュース番組みたいな映像が流れてます。「日露戦争はどっちが勝ちましたか?」との質問に「ロシア!」と即答する二人組が出てきたのには笑った(笑)。もっと凄かったのは日露講和交渉当時を記憶している当年98歳の老人が登場したこと(当然もうお亡くなりのはずですけど、何歳まで生きておられたか知りたいですねぇ)。「小村さんは小柄だったな」とか証言をしてました。
 細かいことですが、原田芳雄の明石元二郎がパリに入る部分で映った「現在のパリ」の映像には「獅子の時代」のオープニング映像がそのまま流用されておりました。それと一昨年やはりリバイバル放送され僕もなかなか関心して見たドラマ「男子の本懐」(浜口雄幸と井上準之助のドラマ)と同じ年の放送なんですね、これ。両作ともプロデューサーと演出が同じ方でした。うーむ、この当時のNHKの骨太ドラマ連発には感心しちゃうよなぁ。


>阿祥さん
 あれ、ほんれんそうさんではなくこちらからご質問が…(^^;)
 まず豊臣秀吉の件ですが、僕もこのあたり日本史の専攻研究者の方がどういう議論をしているかについては専門外なので紹介できません…っと逃げておいて(笑)。ただ織田信長→豊臣秀吉の政権に「中国的」な匂いを感じ取る意見はわりと昔から少なくないような気がします。歴史家ではありませんが、作家の田中芳樹氏も何かでそんなことを書いていたような…確か特に秀吉が秀次を殺した時の残酷さなどについてだったかな。信長・秀吉の全国統一過程は急激な進展のせいもあってか、各所で「非日本的」な性格(これも定義が難しいものではありますが)を示すように思えます。豊臣政権の官僚的な機構は急激にのしあがったがゆえ、という見方もできますが。
 前にも書いたような気がしますが、信長→秀吉の流れは「岐阜」って命名の件もそうですがどこか「中国的」な香りを漂わしているように中国史やってる人間からは思えちゃうんですよね。なんでそうなのかと言われると説明できないですけど。信長・秀吉ともに将来的に明の征服まで計画していたのもその辺から説明できるかも…と思うこともありますが、想像の域を出ませんしね。そういや秀吉は「明を征服したら『いろは』を習わせる」と豪語していたと伝えられる一方で北京語の練習をしていたことを示す扇子(「なちゅうらい=酒もってこい」と書かれたものがある)があったり、明からの「冊封」使節を実は喜んでいた可能性や勘合貿易復活に意欲があったという側面もありますし…実は足利義満みたいな感じなのかも。

 もう一つ、「鉄砲伝来記」という小説の件ですが存在自体は知ってます。確かネット上の本の紹介で見たのかな。直接中身を読んだことはありません。ピントの「東洋遍歴記」の鉄砲伝来の記述を真に受けてしまうのはかなり危ないところですが…でもNHKも歴史番組で同じことしてましたしね。


>+αさん
お久しぶりですー(^^)
「歴史に年号記憶はいらない」の件ですが、実は僕はだいたい歴史の授業の最初にハッキリ言っておきます。いちおう何世紀かという感覚はつかめ、とは言っておきますが(近代史はさすがに10年単位ぐらいまでは押さえさせますけど)。
 ただですねー。これは社会科講師の間では議論になるのですけれど、「年号でしか時代感覚がつかめない」というタイプの生徒もやっぱりいるのですよ。よく「流れをつかめ!」と歴史を教える講師は言うのですが、やはり興味の有無というのが生徒ごとにありまして、どうしても興味の持てない生徒は流れ自体がつかめないのです。僕の知るケースでは「漫画日本の歴史」などを読ませてストーリー展開を頭に入れさせようとしても、受け入れられない生徒はやはり受け入れられないのです。そういう生徒には結局のところ「暗記によるつめこみ」しか方法が無くなってしまうのですね。
 社会科、ことに歴史というジャンルはつくづく差がつきやすいと思います。好きな生徒は放っておいても勝手にどんどん覚えるのですが、ダメな生徒はいつまでたっても…ということがしばしばあるのです。



#4734 
尾鳩 2004/03/09 11:27
ほうれんそうさんって、阿祥さんのことなんですか

久々です。

先週、日本へ帰国してました。今回は、所用が朝から晩まで詰まっており、徹夜城さんはじめ日本の友人連中誰にも会う機会が無かったです(泣。

>「源氏と日本国王」
上記の本、日本史関連の書籍では、久々のヒット作です。飛行機の中で一気にダーーーっと読んでしまいました。それ程、引き込むものがありましたねえ。
源氏の意義、征夷大将軍の意義から最後に「日本」、天皇へと話しが収斂していくあたり、引きづりこまれました。
ちなみにこの本では、秀吉は征夷大将軍になろうとしていたのではなく、征夷大将軍就任の話しを断っていることを指摘してました。彼の目指していたもの、それは「中華皇帝」の地位に他ならないのだと。「日本」の最大の危機とは、元寇などの外征による危機以外に、内から「日本」を凌駕してしまうことを企んでいた信長、秀吉の野望であるという指摘は説得力ありました。
このように書くと「とんでも」の類の本と間違える方もいるかもしれませんが、本書は実に論旨も明快な学術書であると思います。一度ご一読してみては、如何?ここの住民の方達なら、すでに読んでいる可能性が高いかな。

>真珠湾攻撃後、1時間後の宣戦布告の謎
宣戦布告に関連して。
文藝春秋だったと思うんですが、最近までその特集を組んでいたという風に記憶してます。東京や他の大使館、領事館から送られてくるという「来電」などの機密文書を当日まで読んでなかったこと、前日に主な大使館員がパーティーに出席、当日は勤務時間に遅れて大使が出勤してきたこと、ワープロ担当の館員が休暇を取っていたことなどから、外務省の危機意識の欠如を示す好例として使われてきたように思います。
しかし、文藝春秋のその特集記事では、1時間後どころか、当日既に宣戦布告文書は完成していたこと、東条内閣の方針は、宣戦布告文書を「故意」に遅らせることであったこと、事情によりやむを得ず遅れたという状況を作り出す必要があったことを指摘してました。ルールは守りたかったが、やむを得ず「ルール違反」をしてしまった、という言い訳が欲しかったということでしょう。その方針は、結果的には米国国民の怒りを引き出してしまい、戦略的には全くの誤りだったということになるわけですが。
戦争は、古来から「力」、あるいはパワーが顕示される場所ですから、勝敗を決する方法としては一番わかりやすいという側面を持つ一方、「外交の延長」という側面もあったのは事実ですから。「力」でねじ伏せるだけの「大義」なり「正統性」を持たないと、それは「暴力」として認知されるだけに終わってしまいますからね。
「正統性」の獲得を巡る戦争の場合は、勝者が「正統性」を主張するというまさに「勝てば官軍」状態になりますが、結局のところ、パワー戦と情報戦、或いはPR戦双方で勝利する必要があるというこの「常識」は、近現代になるほど、明確になってきているのではないでしょうか。
マックスウェーバーだったか、3つの支配(伝統と法と道徳でしたっけ)形式を挙げてますが、「暴力」はそこに含まれていないはずですから。
「正統性」の主張と確立は、やはり政治支配の核なんですよ。その確立に必死になっている例としては、今の中国の共産党政権などが挙げられます。社会主義を代表する政権標榜から、中国を代表する政権標榜へと変貌を遂げていくあたり、政治支配の何たるかを如実に示していると思います。
今も昔も、力が強い奴よりも、声がでかい奴の方が強いんですよ、はい。



#4733 
ひで 2004/03/08 22:05
詳しくは別の方お願いしますm(_ _)m

秀吉については足利義昭に猶子にしてくれと頼んで断られて、それで結局関白になったという逸話が語られますが、どうもこれに関しては、林羅山あたりが作った話だとも言われています。また、秀吉に関しては将軍になれなかったのではなく、なろうともしなかったというとらえ方もあるようですね。

http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/


#4732 
ブッチャ−3世 2004/03/08 17:59
宣戦布告?

おぉ、忘れてました、宣戦布告話しがズバズバ回答されてますね。
その調子でアメリカのグラナダ、パナマ侵攻の際、宣戦布告は
どうだったか書いていただけませんか、図々しい?(笑

>イギリス長者番付
アブラモビッチ氏が首位だとか聞きましたが、ロシア出身?




#4731 
報道官 2004/03/08 12:02
古い話題を引き続き

>+α さん
1907年のハーグ条約以前の戦争は、宣戦布告無しでも国際法上問題ないという点、確かに法律的見地からはその通りなのかもしれないのですが、各国の為政者、及び世論は戦争の合法・違法性ではなく、その意義・妥当性をもって、戦闘行為及びその歴史を論じているというのが当方の見解なのですが、いかがでしょうか。実際、ヨーロッパでは国際法など確立していなかったルネッサンス期においても、外交手段、また臣民を戦いに駆り出す方便として、宣戦布告という行為が利用されていたようですし。ハーグ条約にしても、突然そこでパラダイムが転換したわけではなく、文献を紐解いてみれば古代ローマ時代より行われていた宣戦布告という行為を、国際法上のルールとして、一応明文化したわけですよね。

+α さんも書いてらっしゃるとおり、「宣戦布告なき戦い」は現代まで引き続いて行われているわけですが、これは結局、宣戦布告を行うメリットがあればそうするし、そうでなければやらない、という態度の表れではないでしょうか。世論・選挙民を味方につける勝算さえあれば、国際法など法律上の解釈でどうにでもなる、という論理で人類の歴史は動いてきたのではないかと思います。一方的であっても、最後通牒などを渡しておけば、「不意打ち」「卑怯者」などのそしりを受けることは免れる場合も多いですしね。

例えば、「大規模な先制攻撃は自衛権の行使に当たらない」、つまり「攻撃するなら宣戦布告が必要だ」という国際法学者がどれほどマスコミに登場しても、アメリカはアフガニスタンを相手に宣戦布告することなく戦争を始めました。9・11以降の情勢を考えれば、ブッシュ政権にとっては当然だといえるかもしれません。国内ではブッシュ大統領の支持率はあきれるほど高くなりましたし、対外的にも、あくまで自衛権を主張するか、タリバン政権の非合法性を逆手にとって、国家を相手にしているのではなく、アフガニスタンにいる一部のテロリストグループを攻撃しているのだと主張すれば、言い逃れできましたから。通告も繰り返し行ってましたし。(ところで、例のタリバンと9・11を結び付けたという証拠、戦争前はやたらと騒がれていましたが、今は何も聞きませんね。小泉首相もそれを読んだと発言していましたが、あれ、いずれは公表されるのですかね)。

さて、そのアメリカですが、太平洋戦争では、真珠湾を攻撃された後、自衛戦争を主張するのではなく、日本相手に宣戦布告を行いました。ベトナム戦争でも、トンキン湾事件の後、即座に宣戦布告をしようという声は国内にはあったようですが、前述の通り、アメリカの憲法では上下院両議会が合同でこれを発することになり手間がかかりますし、合意に達しない可能性もありましたので、いわゆる「トンキン湾決議」を上院が採択するという妥協案で、大統領に大規模な武力の投入をする権限を与えました。このあたりも、国際法の遵守ではなく、国内での世論の動向、政治的駆け引きが、宣戦布告をするかしないかの要因になっていることが見受けられます。

最後にコソボですが、爆撃を行ったのは、EUではなく、アメリカ主導のNATO軍です。各国の主張がもめたりして、最終的には国連決議なしで爆撃を始めたはずです。
当時住んでいたミズーリ州に空軍の基地がありまして、そこから爆撃機が勇ましく飛んでいくのを、地元のテレビで何度も目にしました。アメリカ国内の保守派などは、コソボ、アフガニスタンなど、戦いには参加せず、戦争の後になってしゃしゃり出て来る国連に対する不信感を根強く抱いてますし、当然国際法を守ろうなどという意思も薄いのではないでしょうか。抜け目ないというより、どうにでもなると思っているんですよね、きっと。



#4730 
+α 2004/03/08 00:18
古い話題色々

徹夜城さん、掲示板の皆さん、ご無沙汰しております。+αです。
今回はタイトル通り、少し古い話題を色々とさせていただきます。

>徹夜城さん

 歴史嫌いの生徒に歴史を教える場合、まず「年号を覚える必要はない」と言ってやれば、だいぶ状況が変わるのではないでしょうか。
 「歴史」=「年号の暗記」という固定観念を取っ払ってやれば、少しは興味を持ってくれるでしょうし、何より覚える量が激減するわけですから、歓迎されることは間違いありません。
 実際、年号なんかは覚えていなくても、歴史の流れさえ掴んでいれば、試験には対応できます。個人的な経験では、試験問題で、ストレートに年号を聞いてくるものはあまりありませんでした。
 自慢にもなりませんが、学生時代に、暗記していた年号なんか片手で足りる位でした。(今でも同じようなものです。)それでも、共通一次試験では、世界史を2回受け、2回とも9割程度は正解できました。
 もっとも、私は、年号の暗記はしませんでしたが、歴史そのものは好きでしたので(中央公論社の「日本の歴史」を2回は通読していたし、「世界の歴史」も4、5回通読していた。)歴史の流れは頭に入っていたという特殊な面があったことは否めません。
 歴史嫌いの生徒には、前提条件である、歴史の流れを掴むこと自体が難しいかもしれませんので、誰にでも当てはまるやり方ではないでしょうが、こういうやり方もあるというご参考まで。
 

>ブッチャ−3世さん
>報道官さん

 宣戦布告について、「理由ヲ附シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告」なしに敵対行為を開始してはならない、と定めた「開戦ニ関スル条約」が成立したのは、1907年のことで、それ以前は、宣戦布告なしに武力行動に出ても、国際法違反にはなりませんでした。(1894年の日清戦争や1904年の日露戦争はこの条約の適用を受けませんので、たとえ、宣戦布告の前に武力行使を行っても国際法上問題はありません。)
 その後に起こった、第一次世界大戦では、各国は宣戦布告を行ってから武力行使をしております。
 しかし、第一次世界大戦後の1920年代なると、戦争を禁止・制限する傾向が強まり、1928年には国際紛争の解決手段としての武力の使用、すなわち戦争を禁止する「戦争放棄に関する条約(ケロッグ=ブリアン条約)」がパリで調印されると、先に宣戦布告を行って、違法な侵略戦争の烙印を押されるのを避けるため、宣戦ないし戦意の表明のない敵対行為つまり事実上の戦争が行われるようになりました。
 満州事変、エチオピア紛争、北支事変、日華事変(日中戦争)等は全て、この手の宣戦布告なき戦いとなっています。
 第二次世界大戦の欧州戦役においては、宣戦布告が行われておりますが、太平洋戦争においては、行われていないようです。
 もともと、日本の軍部はアメリカにも宣戦布告をしない(攻撃の成功確率を上げるため、欺瞞目的で外交交渉を続けたまま奇襲を行う)積もりでしたが、東郷外務大臣の強硬な反対で宣戦布告をすることに変更したという経緯がありますから、イギリス、オランダに宣戦布告していないのは、端からその積もりだったのでしょう。
 第二次世界大戦後は、国連憲章の下で武力行使は禁止され、例外としての自衛権行使の場合、宣戦布告は必要ではないとされています。参考文献「日本大百科全書」他
 
 さて、アメリカの事例ですが、私の記憶する限りでは、朝鮮戦争:北朝鮮が先に侵攻、自衛戦争なので宣戦布告は必要ない。ベトナム戦争:トンキン湾でアメリカの駆逐艦が北ベトナムの攻撃を受けた(とアメリカは主張)ことに対する自衛戦争なので宣戦布告は必要ない、湾岸戦争:国連主導で、期限付きの最後通告を出したから、国際法上問題なし、ソマリア:国連の要請に基づくものなので国際法上問題なし、コソボ(これはEUで、アメリカは関係なかったのでは?):国連決議を踏まえ、期限付きの最後通告を出していましたから、国際法上問題なし、アフガニスタン、イラク:共に、アメリカは、自衛戦争を主張し、期限付きの最後通告も出していましたから、ぎりぎりのところで国際法上問題なし。(但し、イラクから大量破壊兵器が見つからなければ、それでなくとも牽強付会である「自衛」の前提が崩れますから、国際法上問題になるでしょう。)
 まあ、非常に胡散臭いことは胡散臭いのですが、一応、国際法上問題にならないような手順を踏んでいます。(そういう点ではあの国は抜け目はない。)
 ソ連のアフガン侵攻は、政府(共産党系)から出兵要請があったから出兵したという形式をとっていた筈です。


>モーグリさん

 夜間雷撃の話ですが、まず『歴史群像』55号の林譲治氏の「艦攻と艦爆」に出てくる、艦攻の夜間雷撃における命中率データは、恐らく1939年の「戦技」の結果でしょう。(確認した訳ではありませんが、他に該当するようなデータが有りませんので、恐らくこれでしょう。)
 「戦技」というのは、比較的優秀な搭乗員を、充分に訓練した後に、事故等をさけるため、様々な制約を施して行うものです。
 従って、海軍航空隊の実力を判断する目安にはなりますが、その結果をそのまま海軍航空隊全体に当てはめることはできません。実際、海軍自身が、実戦においては、能力の劣る者が戦列に加わり、訓練も不十分になることから、命中率は「戦技」の1/3以下に落ちると判断していました。
 また、1939年の「戦技」については、最終成績の記録は残っておりますが、実施計画は残っておりません。従って、どういう状況で、艦攻隊が命中率60%という好成績を出したのかは不明です。(ちなみに陸攻隊の夜間雷撃の命中率は7.1%)「夜間警戒航行中の艦艇に対する攻撃」といっても、彼我の偵察活動の有無、目標艦艇の種類や数、艦隊の組み方、航行速度、回避行動の程度などは判らない訳です。それ以前に、艦攻は何機参加したのか、照明隊と攻撃隊の区分けはどうなっていたのかも判りません。
 昼間雷撃には30機の艦攻しか参加していませんので、夜間雷撃に参加したのは、多くて昼間雷撃と同じ30機か、それより少なかったと考えられます、しかも、そのうち、何機かは照明隊にまわりますから、攻撃隊はその分減ります。
 こういった、少数の事例から、海軍航空隊全体が夜間雷撃能力を持っていた判断するのは無理があります。
 参考文献「戦史叢書 海軍航空慨史」(143〜144)

 また『歴史群像』39号の三木原慧一氏の「海軍漸減邀撃構想の成否」に書かれている漸減作戦は、本文中にも書かれているように、あくまでも数ある漸減作戦の一例をシミュレートしたに過ぎません。
 シュミレーションですから、実際には、夜戦部隊である第二艦隊に、空母は所属していないにも関わらず、航空隊による夜間雷撃が行われていますし、実際には、昼間戦闘を行う第一艦隊に所属していた金剛級の戦艦も、夜戦に参加しています。つまり、あれは、あくまでも、三木原氏の考えた仮想戦記に過ぎずません。
 三木原氏も書いているように、漸減作戦には様々な案があり、結局、最終的なものは作られなかったか、作られたとしても、処分されて残っておりません。
 そういう、有象無象の案の中には航空隊による夜間雷撃もあったのでしょうが、それが漸減作戦主流になった形跡は見当たりません。
 夜間雷撃の訓練が主流でなかった証拠としては、1941年5月に行われた珊瑚海海戦が挙げられます。
 第五航空戦隊では、夜間攻撃や夜間飛行が可能な者は一部に限られ、夜間飛行が可能であるとされて、薄暮攻撃(帰路が夜間になる)に参加した機体はわずか27機(作戦開始時総数117機)に過ぎませんでした。
 
 以上のことから、「太平洋戦争初期の練度の高い時期の日本海軍には、夜間雷撃を行えるだけの技術が存在していた」というよりも、「日本海軍航空隊の一部には、夜間攻撃可能なレベルの者もいたが、全体的にはそのレベルには達していなかった」という方が正しいと思われます。
 参考文献「戦史叢書 南東方面海軍作戦1」(291、305)

http://homepage1.nifty.com/SENSHI/


#4729 
若水 2004/03/07 22:49
相互リンクありがとうございます。

徹夜城さん、相互リンクありがとうございます。
掲示板常連の皆さんお久しぶりでございます。
この史劇的伝言板の変わらず盛況に議論が交えられていご様子は流石ですね。

さて、実はこの掲示板で網野先生が亡くなられたことを知りました。
自分は不勉強の為、先生の業績をあまり知らないのですが、著書を一冊所持しております。
「海の国の中世」(平凡社 1997年)です。若狭(福井県)の中世の姿を、当時若狭に点在した荘園に関係する資料等を基に表しております。
理解したとはとてもいえませんが、私の郷土がこのような形で注目する点を持っていることが、なんとなく嬉しかったものです。

謹んで先生のご冥福をお祈りします。


http://zyakusui.web.infoseek.co.jp/index.html


#4728 
阿祥 2004/03/07 16:28
「鉄砲伝来記」

追伸

東京八重洲の古本屋さんで、「鉄砲伝来記」なる本を見つけました。著者は平山武章氏、1969年の本です。後書きなどを見ると,著者は種子島の人で、かなり資料にあたってこの本を書いているようです。文献目録には100本近くの鉄砲関係のものが記載されています。紹介文にはポルトガルの政府関係の人の名前なども出ています。4500円もしたので買うのは控えましたが。

内容は、さらっと見たところでは件のピント氏を主人公にした小説のようです。中国で密輸の罪で捕まって、そこから脱走する時に五峰に知り合って…という筋立てのようです。ご存知でした?



#4727 
阿祥 2004/03/07 13:39
お言葉にあまえていくつかの質問

最近、秀吉関係の本を何冊か読んで疑問に思ったことがあるので、ちょっとうかがいたいと思い投稿します。

遠藤周作氏の「鉄の首枷−小西行長伝」に、行長や三成らの豊臣政権内の官僚的な人物が、朝鮮戦役後の生き残りの為にと、さまざまに策を弄す姿が描かれています。後の関ヶ原で家康らと対立する構図がここに現れているというわけです。この官僚的な武将のあり方というのが、他の一国一城的な大名の姿と対照的に描かれていて説得力がありました。
また、田中義成著「豊臣時代史」、岡本良知著「豊臣秀吉」などには、中央政権として、諸大名や民衆からかなりの搾取をしている豊臣政権の姿が描かれています。大土木工事を催し、その城下であえいでいる一般民衆の姿が、当時の南蛮資料に残されているようです。

徳川政権が全国の大名を統治した手法は、各地の大名にかなりな程度に独自性を許した、名主的なあり方としてのものだったと理解しています。それにくらべて、上記の豊臣秀吉の政策は、どちらかというと中国的な中央集権のあり方を示しているように思えます。田中義成氏などは、武器没収政策や二代皇帝で帝国が滅んだことなどから、直接に秦の始皇帝の事績に似ていると述べています。
一方、家康が征夷大将軍を拝するのに対し、秀吉は関白になるわけですが、その方向性の違いについても疑問があります。高橋富雄著の「征夷大将軍」では、その違いを、公家的権威を求めた信長−秀吉ラインに対し、武家政治の頭領を目指した家康と位置付けています。
中国の歴史書や小説を読んでいると、同じ封建時代とは言っても、中国の官僚政治と日本の戦国から江戸時代にかけての、政治のあり方は全くといって異なっているように思えます。
そんな中で、信長−秀吉はかなり異色で、中国の皇帝のような、全くの絶対的な権力を持った政権を目指したのではないかと感じられます。中国で言うと、秦の始皇帝が初めて全中国の統一を果たし、中央集権を行おうとしたのが、現実は諸国の王族に反乱を起こされ、最終的には劉邦による緩やかな統治に落ち着いたのと図式的には良く似ているのではないでしょうか。
このような、豊臣政権の位置づけは妥当なものでしょうか?征夷大将軍と関白という位置づけから見えてくる、両者の政策の違いとはどんなものなのでしょうか。

もう一つ、秀吉の太閤検地政策についてです。
徹夜城さんは以前、江戸時代の諸政策には明朝のそれと良く似ているものがあるとおっしゃっていましたね。士農工商という身分制とか、鎖国制度や、朱子学を統治の理念としたこととか。張居正の諸政策を調べているうちに、彼の税制改革に、秀吉の検地と同じような理念があるのに気がつきました。
張居正は、それまでのさまざまに錯綜した利権を実際にあわせて整理し、収税の根拠とするために、全国の農地の測量を進めています。それに従い税を課すことで大幅な収益を得て、国庫は非常に豊かになったということです。この政策を実施したのは、万暦6年(1578年)彼が首輔大学士になってからのことです。一方、秀吉の検地政策は、手元に正確な資料が無いのですが、だいたい1590年ごろからでしょうか。時間的には非常に近いものです。
この二つの政策の間に影響関係はあるのでしょうか。もしあるとしたら、秀吉は中国のことをかなり研究していたと言えると思います。

歴史を専門に勉強する人から見れば、基礎的な問題かもしれませんが、素人ということでよろしくお願いします。



#4726 
徹夜城(少しアルコールが入っている管理人) 2004/03/06 20:03
どうぞどうぞ

>ほうれんそう様
広く歴史に関する御質問であれば、どうぞお書き込みになってください。ここを覗いているどなたかがお答えできるかもしれません。

>リンク先追加
先ほど「若水」さんが立ち上げられたHP「白銀の牧場」をリンク先に追加させていただきました。リンク分類をどうしようか迷ったのですが、一応イスラム圏史に分類させていただきました。16世紀エジプトを舞台としたオリジナル小説を公開開始されてます。
…僕もいろいろとやるやると言っているのですが、なかなか手が回らない状況です。いったん走り出せば「ムロタイ」の時みたいに突っ走れたりもするのですけど。思い返すとこの一年ほどかなり更新度が落ちておりますね…それでもお客様数があまり変わってないのは掲示板のおかげでしょうか。

>今夜のTV
よそでは書いたのですけど、今夜10時半からNHK衛星第二でドラマ「ポーツマスの旗」4回シリーズを再放送しております。見逃している方は要チェック。って、僕もその見逃している者の一人なんですけど(^^;



#4725 
ほうれんそう 2004/03/06 11:22
はじめまして

みなさん、こんにちわ。

去年の終りごろにここを発見して以来、たびたび覗かせていただいています。私は歴史の専門
ではありませんし、歴史に興味があると言い切れるほどでもありません。しかしながら、この
掲示板を楽しく読ませていただいています。

みなさんに、お聞きしたいことがあるのですが、それを書き込ませていただいてよろしいで
しょうか?





#4724 
徹夜城(昨日は久々に東京で映画を見ていた管理人) 2004/03/04 11:38
今度は「天地英雄」

昨日は有楽町まで進出してフー・ピン監督作品「ヘブン・アンド・アース」(原題「天地英雄」。英題だと「Worriers of Heaven and Earth」)を見てきました。中井貴一が出てることが日本的には話題の時代劇アクションですね。

 …時は西暦700年の唐の時代。「無敵の李」と呼ばれる李隊長(姜文)が征服地での捕虜の虐殺の軍令に背いて反乱を起こして逃亡。激怒した皇帝は皇帝密使の来栖旅人(中井貴一)に李の暗殺を命じる。来栖は13歳の時に遣唐使で唐に渡った日本人で、武術を学んで皇帝直属の暗殺密使(お尋ね者を探し出して暗殺する)となりすでに25年を過ごしていて熱い望郷の念にかられている。李を殺せばそれが最後の仕事となり日本に帰国できるのだが…
 李は西域の砂漠をさまよううち、偶然砂漠で遭難した経典を運ぶ朝廷の隊商の生き残りと合流。成り行きで李は自分を慕う元部下たちと共に隊商を長安まで送ることになるが、この隊商には何か重大なものがあるらしく、突厥(字が難しいとみたか、映画字幕では一貫して「トルコ兵」。まぁ確かに同じことなんですけど)の軍隊が襲ってくる。このくそ忙しい時に(笑)刺客・来栖が李を見つけ出して決闘に。「三太刀で勝負がつかなければ長安までは行かせろ」という李との約束の上で勝負しケリがつかなかったので、来栖は律儀に約束を守り李を長安までは生かすことに。またそのために李に助太刀して突厥兵と戦ったりもする。これに突厥に協力する地元ボスで剣の達人の「安」も加わって、乱戦、乱戦、また乱戦、という展開に。最後には一行は砂漠の砦に立てこもって突厥の大軍を相手に大激戦に…

 …とまぁネタばれのない程度の宣伝的紹介をさせていただきました(笑)。設定が込み入ってる話なのは事実で、わかりにくいかと。日本での予告編や宣伝では中井貴一主演と大々的にうたっておりますが、ストーリー的にはあくまでサブ主人公ですな。もちろんかなり美味しい役には違いない。だけど、映画を見終えた感想としてはこの役、日本人である必然性はほとんど無いような…(汗)。チャンバラシーンでちょっと日本風(刀を鞘におさめる所作は完全に日本時代劇のそれです)なあたりにそれがうかがえる程度でして。
 ストーリー全体はよくある「宝物争奪戦」です。ちょいと「インディ・ジョーンズ」を意識しているフシもありますね(この点はネタばれになるのでここでは深入りしません)。音楽はなぜか「ムトゥ・踊るマハラジャ」のインドの作曲家がつけていて異国情緒を強調してます。
 それにしても昨年個人的にはかなりのヒットだった韓国映画「MUSA」と構造的にソックリなんだよなぁ、これ。追いかけてくる騎馬民族、逃げるは漢民族を含む民族混成集団、砂漠を舞台に展開するウェスタン調アクション。クライマックスは砦に立てこもって大軍と戦うアラモ的大スペクタクル、というところまでクリソツであります。それもあって僕としては点が辛いな、この映画には。映像的には「HERO」の方が面白かったし。
 ヒロインで妙に可愛いどこか見覚えのある子が出てる、と思ったら「少林サッカー」に出ていた人(ヴィッキー・チャオ)でした。その一方でヒーローの姜文はひたすら男臭いオッサンです。この二人が一目ぼれっぽいところが謎なんですが(笑)、なぜか中国歴史映画の主役たちはおよそ「美形」とは程遠いオッサン風の人が多い。韓国の「MUSA」がイケメン二人でチャン・ツイイーと三角関係を演じていたのと対照を成しますね。



#4723 
徹夜城(やっといささか時間が取れた管理人) 2004/03/02 21:55
「キング・オブ・キングス」

そーいえば「ベン・ハー」「タイタニック」とタイ記録のアカデミー賞部門数を制覇した「ロード・オブ・ザ・リング」のピーター=ジャクソン監督の次回作は「キング・コング」のリメイクなんですよね(笑)。それが片付いたら次は「ホビット」をやる気らしい。
それにしても今年のアカデミー賞はほとんど全部門にわたって波乱らしい波乱の無い受賞リストでした。

 さて、「キング・オブ・キングス」。先日書いていたナポレオン伝記ものの邦題ではなく、「本物」のほうね(笑)。1961年公開のイエス・キリストの伝記映画です。メル=ギブソンの「パッション」の話題関連で始めて鑑賞しました。
 「ベン・ハー」では後姿でしか描かれなかったイエスをジェフリー=ハンターという俳優が演じ、顔も見せセリフも話すイエスが出てきた最初の映画となりました。170分もある超大作で、イエスの生涯を新約聖書に沿ってだいたい忠実に描きつつ、ローマ帝国軍団出動の大戦闘シーンなんかも入って割と娯楽映画なつくりにもなってます。

 面白いのがイエスの代わりに処刑を許されたことだけで聖書に名が残る盗賊バラバを反ローマ・ユダヤ独立運動のレジスタンス戦士として設定し、話にひとひねりを加えていること。そしてあのユダがそのバラバの友人であったという設定を創作し、ユダがバラバの武力闘争=ローマからの政治的独立と、イエスの言う「神の王国」との間で複雑に葛藤するというドラマが描かれるんですね。ユダが最終的にイエスを「裏切る」のは、イエスに失望するレジスタンスたちにイエスの奇跡を見せようとしての行動だった、というかなり思い切った解釈をしていて「ほう」と展開に見入ってしまいました。イエスがとうとう奇跡も起こさず磔刑にされるのを見届けて絶望して自殺するユダが哀れで仕方が無いのですが…新約聖書にもよく読むと出てくるんですけど、イエスは分かっていてユダに「裏切り」をさせた、あるいは二人で示し合わせていたととれる描写もあり(問題になる、最後の晩餐でイエスがユダに「早く行け」という場面がそのまんま出てきてました)、こうしたユダ描写はなかなか興味深いところでした。それに比べて他の弟子達はまるっきり没個性で(笑)。
 あと、生身の俳優さんがそのまんま演じているせいか、イエスがかなり人間的。まぁ聖書のとおりなのでありましょうが、捕縛を前にして死の恐怖におののいたり、死ぬ直前に「父よ、なぜ私を見捨てたまうか」というセリフなどは実に「神の子」らしからぬイエスさんだなぁと思ったりもするのでした。
 それと仕方ない事ですけど、イエスは英語では「ジーザス」。そのため全編にわたってやたらと「ジーザス!」「ジーザス!」というセリフが乱発され、なんか可笑しい(笑)。
 大筋にあんまり関係ないんですけど、冒頭でユダヤを征服しに来たポンペイウスが登場したりしてますね。

 さてと、次は「偉大な生涯の物語」かな。



#4722 
ひで 2004/03/01 21:15
独り占めはよくないなぁ(笑)

といってもべつにジャイ*ンみたいな人に出くわしたわけではなく、今年のアカデミー賞の結果を見てのものです。なにもノミネートされた11部門すべてを独占せずとも、ちょっとは他の映画にも分けてあげてもいいのに(笑)。「ロードオブザリング」が俳優関係の賞以外はみんな持って行ってしまいましたので、何となくそんなことを思ってしまいました。

マケドニアで大統領が墜落死し、ハイチは内乱状態で大統領の辞任出国という事態が起きている中でなんとなくこのようなお祭り騒ぎのほうにはしってしまった・・・。ま、たまにはいいのか。話を強引にハイチのほうに引っ張ると、結局アリスティド大統領は中央アフリカ共和国に亡命したようです。どういう関係で中央アメリカが選ばれたのかはよくわかりませんが。
しかし、ハイチの問題は調べれば調べるほどこんがらがってきて訳がわからなくなってきます。ハイチの歴史なども調べるといろいろ出てくるため、世界史関係のネタとしてはなかなかおもしろそうだと思って自分の所のネタに使おうかとしたもののどう整理したらよいものやら思案に暮れております。なんかいきなり新巻鮭を一匹もらって調理に困ってるような気分です。

http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/


#4721 
徹夜城(いろいろと本を読んでる管理人) 2004/02/29 22:15
リンク先に追加してあります。

>右大弁宰相さん
ようこそ、はじめまして。
貴サイトの「駄事類苑」は昨日付けでリンク先に追加させていただきました。お互い専門研究と一般歴史ファンとの架け橋を目指す存在として、今後ともよろしくお願いします。貴サイトの各種コーナーには大変楽しませていただいております。


>新参右衛門さん
「しょしょしょしょーこー」とかやっていたころは「なんかアブないけど妙な団体」って程度の感覚だったんですけどね(それでも坂本弁護士の件ではすでに疑われてましたが…)。その後はどんどん突き進んでいっちゃいまして。
再現ドラマは見なかったですけど、この辺も早くも「歴史」化してきているところもあります。映画では松本サリン事件をモデルにした熊井啓監督の「日本の黒い夏・冤罪」があります。オウム事件というよりは被害者の河野義行さんが犯人にされかかった経緯をめぐる映画でした。クライマックスで松本サリン事件の背筋が寒くなるような完全再現映像が流れてましたが、力が入っている迫真の場面であることは認めつつ「冤罪」のテーマからするとややポイントがズレちゃっていたような気もしなくは無かったです。

>ちょっと網野氏関係。
いまナベツネ伝記本「渡邉恒雄・メディアと権力」を読んでるんですが、網野善彦氏がちょっと出てくるんですよ。東大付属の高校で網野氏はナベツネ氏の一年後輩、かつナベツネ氏と共に読売グループの支配者となる氏家氏と同級生なんですよ。それでナベツネ氏の青年時代のエピソードをつづる過程で取材を受けた網野氏の述懐が何箇所か出てきます。終戦直後の東大における共産党下部組織の活動でもナベツネ・網野氏は関わりを持っていたりしまして、まぁなんだかんだで天下の東大にはいろいろいるよなぁと思わされつつ読んでました(他にもいろいろ有名人の若き日の姿が出てくるんですね)。



#4720 
新参右衛門 2004/02/28 19:36
♪しょしょしょしょ−こう♪

先日、日本TVで、麻原しょうこう逮捕の再現ドラマスペシャルを
見てしまいました(汗)これって一応、歴史ううむ現代史ドラマ?(冷汗
逮捕されたオウム信者および警察関係者の証言に基づくものって売り
でしたけど、最後に麻原が隠し部屋から発見された時、刑事が麻原に拳を
振り上げ殴ろうとしたら麻原は刑事のパンチを よけましたんで、ビックリ、
おっさん見えてんのかい?(笑
♪中野のしょうこう杉並しょうこう、消費税、廃止だぁ♪(オウム選挙出馬の頃)
♪私は、や〜って〜な〜い、潔白だぁ♪(サリン事件後の一斉検挙の頃)
当時の報道映像で麻原が唄う変な歌の数々に失笑の嵐でした。



#4719 
右大弁宰相 2004/02/28 11:08
はじめまして

はじめまして!

ここは、レベルの高い活発な議論がなされていて、
不勉強な私には、ついてゆくのがやっとの状態ですが、
がんばって付いてゆきたいと思います。。。
まあ、お役に立てないとは思いますが、よろしくお願いします。

http://www1.cts.ne.jp/~djruien/index.htm


#4718 
徹夜城(そういえば今年はまだ史点を更新してない管理人) 2004/02/27 23:48
ドイツのベスト10

>ジョン・ディーさん
ドイツの「歴史上影響のあった人物ベスト10」の記事は、昨年12月3日の「史点」ネタでした。「史点」コーナーに入って12月7日の記事の上からお入りください。

>網野氏補足
その後各マスコミの記事を読んでましたら、網野氏の遺志によりご遺体は献体にされたそうです。改めて深く合掌。
それにしても「麻原判決」の日とかちあったためにややかすんでしまった印象も。

>ひでさん
ハイチ動乱、このままだと「反乱軍」がいよいよ首都攻撃だとか…勝手に一部の独立を宣言したりもしているらしいし。アメリカ・ブッシュ政権は「アメリカへの難民は追い返す」と宣言し海上警備を強化しているそうですな。
これもこれまでの経緯を調べるとなかなかややこしい…



#4717 
ひで 2004/02/27 23:20
ハイチ争乱

ハイチというとフランス革命の頃に独立運動を展開して独立を達成したということやデュバリエ独裁政権の圧政、ゾンビ伝説などで有名な国ですが、今年独立200周年を迎えたハイチが今大変なことになっています。1994年に政権に復帰したアリスティド大統領に対して反政府武装勢力が活動を活発化させて北部を制圧、一方南部においては大統領派民兵が一部暴徒化してきているらしく、そのような状況下で首都ポルトーフランスは無政府状態に陥っています。アリスティドが大統領に復帰したときに軍を解散してしまい、5000人弱の警官隊しか存在しないという国なので、国内で何か起きたときにそれを独力では押さえきれなくなるのでしょう。大統領派民兵というのも犯罪者や貧民を金でかき集めた連中で防衛のために働くよりも自分たちが略奪に走りそうな連中のようですし。軍隊がいないというのも、アリスティド自身がかつて経験したように軍部のクーデターがおこり独裁体制ができるという歴史がしばしばみられたからそういう状態を作ったのでしょうが、さすがにそろそろこちらの情勢を何とかしたほうが良さそうですが、アメリカはあまり積極的ではないようです。まぁ、石油はなさそうだし・・・。

http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/


#4716 
ジョン・ディー 2004/02/27 22:10
質問

まえにニュースな史点で「有名なドイツ人ランキング」みたいな記事(ヒトラーが入ってなかったやつです)を読んだ記憶があるのですがいつの記事だったか思い出せません、教えていただけませんか?



#4715 
15番 2004/02/27 21:59
ご冥福をお祈りします

網野氏の「歴史を考えるヒント」が学科専門科目の教科書だったんですよ、そこからこの人有名なんだなあと知って注目し始めていたところだったのに・・
著書から大きな影響を受けて日本史を見る目が変わって、これからもっと学ぼうという気にさせてくれた方だったのに・・残念です。



#4714 
徹夜城(偉大な歴史家のご冥福を祈る管理人) 2004/02/27 19:57
こんな研究したくても〜♪無理?

 …網野式…ってすいません、不謹慎で(^^;)

 アール・ケイさんもお書きになってますが、日本中世史では多大な影響を学界そして一般向けにも与えた網野善彦さんが亡くなられました。ガンだという話は聞いていたのですが…
 「網野史学」などと呼ばれることもある、この方の歴史観のキモは「陸上・農耕中心史観」と「一国史観」からの脱却というところにありますかね。それまでの日本中世史、いや中世史にとどまらない日本史全体に対して、まさに「歴史を読み直す」視点を提示したことが大きな業績であったと思います。
 ま、細かいことを言いますと、そのスケールの大きさと面白さ(?)を優先するあまり実証性に欠ける部分がなかったわけではありません。ですが、日本史全体を一回バラバラにして汲み上げ直したと言ってもいいぐらいの影響があったと思います。そして忘れてはいけないのは決して「象牙の塔」にこもることなく、一般向けに多くの優れた歴史読み物を書き続けたこと。僕も常日頃から言っておりこのサイトの看板にも掲げている「専門研究者と一般歴史ファンの隔絶」の問題に正面から取り組んだ方でもありました。宮崎駿の「もののけ姫」なんてのは、まさにその「成果」の一つの表れではありました。

 僕はあくまで倭寇研究をやってる人間で日本中世史に専門的に首を突っ込んだことは無いんですけど、「網野史学」とは長い付き合いです。はじめ南北朝時代史に頸を突っ込んだとき(あくまでマニアとしてですが)、網野さんがこの方面で怒涛のように著作をものされていまして、そのあたりからハマっていきました。「南北朝は日本史上の大転換期であった」という網野さんの観点は大河ドラマ「太平記」でもその冒頭に使われてました。
 その後「倭寇」に首を突っ込んでいったわけですが、ここでも網野さん(だけではないんですが)が主張した観点である一国史の枠から飛び出した「地域史」の観点、陸上ではなく海上に活動する人々の歴史への注目といったものが絡んできました。まぁとにかくなんだかんだで網野史学にはあちこちで接して来たのですよねぇ。
 最近では歴史家として歴史論議ばかりにとどまらない「日本」をめぐる様々な発言を積極的に行っておられましたし、つくづく惜しい方を亡くしたものだと思います。
 …合掌。



#4713 
アール・ケイ 2004/02/27 17:30
網野善彦氏逝去

管理人さま、返信メールをどうも。

さてかねてよりお体が悪いとは耳にしていましたが
(それをおして、執筆活動をされていた)、
網野善彦氏が亡くなられてしまいました。
私なんざにわかファンに過ぎませんが、それでもけっこうショックですねえ。
歴史をどう見るかという点でずいぶんと影響を受けている気がします。
ご冥福をお祈りします。

http://homepage1.nifty.com/arukei/index.htm


#4712 
ひで 2004/02/26 23:49
入試問題

ネット上にも大学入試問題の速報がぼちぼち載せられ始めていますね。東大に関してはすでに問題・解答が出されていました。で、世界史の所をみているのですが、16〜18世紀の世界経済の一体化を銀の流通に注目しながら書かせる問題がでていたり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に関する論述がでたりと最近の世界史の傾向を反映した問題や、何となく最近の世界情勢に触発されたような問題が出ていました。

http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/


#4711 
徹夜城(まだなんだかんだと忙しい管理人) 2004/02/26 12:58
映画見に行けないよ〜

受験シーズンも一応終わり(というかもう人事を尽くして天命を待つ)なのですが、まだなんだかんだで忙しい管理人です。なにか更新できるのはいつの日やら。
なお、大学院の紀要に書きました論文(というより研究ノートかな)「16世紀『嘉靖大倭寇』を構成する諸勢力について」は、紀要が先日発行されたこともあり、遠慮なくこのサイトで近日公開させていただきます。

>歴史モノ映画
うーん、結構豊作なんですよねぇ。「マスター・アンド・コマンダー」に「ヘブン・アンド・アース」、さらには珍しいスペイン直送のスペイン史劇「女王フアナ」なんてのも来てますよ。さっさと見に行かないと見逃しちゃいそう。
 「ヘブン・アンド・アース」については先日TVで中井貴一さんが撮影時の苦労などを語っているのを目撃しました。なんだか韓国の「MUSA」の設定を日本がらみに変えて作っちゃったような話なんだけど、ここんとこアジア連合型・多国籍の映画制作が目に付くような。こりゃそのうち倭寇映画も作るかも知れんなぁ。

 さて、歴史映画といえば昨年から一部で物議をかもしていたメル=ギブソンのキリスト受難映画「パッション」が全米公開されました。キリスト受難の過程を徹底した時代考証で作り全編アラム語が飛び交うという映画なんですが、ギブソンが「キリスト刑死はユダヤ人の責任」と依然主張する保守系宗派の信徒ということもあってユダヤ人団体から抗議の声が上がってました。さすがにメルちゃん自身は気を使ってローマ法王に見せてお墨付きを得ようとしたり(これでローマ法王がOKを出したとの報道があったが、その後否定されていたような?)そこそこクリアできそうなレベルにはしたみたい。それでも公開時にはユダヤ人団体の抗議デモが行われているようですな。
 聞くところによるとメルちゃんのお父ちゃんがインタビューでやっぱりユダヤ人差別的な発言をしちゃったそうで(ホロコーストもデッチ上げと言ったらしい)、それも物議を醸す一因となっているようです。
 それとは別に、キリスト磔刑シーンがあまりに生々しく残酷だとの批判もあるようで…今日のニュースによると公開直後に劇場で心臓マヒで死亡した女性がいたとか報じられております。ホラー映画もビックリ。
 なお、こんな映画、日本では公開しないだろうと思っていたら、五月に公開予定だそうで…



#4710 
原田 実 2004/02/25 23:14
すみません、宣伝です。

現在発売中の『新潮45』3月号に「”山田長政”伝説を作った侠」、
『別冊歴史読本77・古史古伝と偽書の謎』にも私が参加した
鼎談1本と論文1本、掲載されています。
特に後者、いままで「古史古伝」と名がつく本に書いたことがないような
国文学・国史学・東洋史学の俊才が執筆者にそろっていて、
正直言って私は浮いております(^^’)。
「偽書」というキーワードだけで幅広いテーマを扱った企画ですので、
読者を選ぶ内容の誌面ではありますが、この掲示板の常連なら
楽しめるものと思ってご案内する次第、本屋でみかけたら
ご高覧願います。

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


#4709 
足塚玉虫 2004/02/24 11:27
中井貴一は

>阿部仲麻呂
この人の詩が沢山紹介されてるのを見るにつけ、唐に優遇された
といっても、武官としてというより文官としてではなかったでしょうか?
暗殺命を受けた遣唐使出身の日本人ですか、〜ちょっと前に読売新聞で
連載していた「翔べ麒麟」は阿部仲麻呂モノ小説でしたが、
フィクションキャラか不明ですが藤原真幸という遣唐使・護衛士が登場。
今度やる中井貴一・中国歴史映画のチャンバラな宣伝場面を見てたら
この小説を思いだしました。




#4708 
ひで 2004/02/23 21:59
歴史映画、その他色々

最近はロードオブザリング先行上映を見て以来とんとご無沙汰になっていますが、暇になったら映画に行こうか思案中。で、最近「ヘブンアンドアース」、「マスターアンドコマンダー」と歴史を題材にした映画がいくつかありますが何となく微妙な雰囲気がするのでなかなか・・・・。しかし、マスターアンドコマンダーって、どっかで「師匠ぉぉぉぉ、隊長ぉぉぉ」なんて邦題をつけて遊んでいた人がいたなぁ。何かドリフのコントのワンシーンのようですね。

んで、「ヘブンアンドアース」って遣唐使が唐の皇帝の元で仕えていて、ある人物の暗殺を命じられるってお話のようですが、この遣唐使ってやっぱり阿倍仲麻呂あたりをベースに作ったんでしょうか?まぁ、映画の中では始皇帝だってワイヤーアクションで戦うのが現代の映画だから遣唐使が戦ってもいいんだろうけど・・・。


http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/


#4707 
モーグリ 2004/02/21 23:39
日本海軍の夜間雷撃について・補足

今までの掲示板の流れから突然話題を変えてしますが、ここで書いておきたかったことがあるので書き込みをします。

以前(一ヶ月半ほど前に)ここの掲示板で「日本海軍の夜間雷撃」についての話題がありました。あの後で自分でも気になって色々と資料を調べてみたところ、かなり意外な事実が分かってきました。それは「戦前の日本海軍は夜間雷撃を重視していた」という事実です。
かなり遅くなりましたがここに書かせていただきます。

『歴史群像』39号に三木原慧一氏の漸減作戦(日本海軍が想定していた艦隊決戦の方法です。まず襲来する米艦隊を潜水艦や水雷戦隊などの攻撃で徐々に消耗させてから、最後に艦隊決戦を行って倒す作戦です)の記事が載っていました。
それによると日本海軍は1930年代後半から漸減作戦の一環として夜間雷撃を取り入れていたそうです。その計画では、艦隊決戦前に行われる夜戦で、夜戦部隊に属する第2艦隊の97艦攻が敵艦隊に夜間雷撃を行う予定でした。なぜ夜間雷撃を採用したのかというと、夜間雷撃でできるだけ多くの敵艦艇にダメージを与えて、翌日の艦隊決戦を優位に進める狙いがあったそうです。

以前も書きましたが『歴史群像』55号の林譲治氏の記事によると、日本海軍の97艦攻が1939年の海軍演習での夜間雷撃を行い、命中率60パーセントの記録あげています。しかもこのときの夜間雷撃演習は「夜間警戒航行中の艦艇に対する攻撃」(英軍のタラント攻撃はあくまでも停泊中の艦艇に対する攻撃)という演習とはいえもっとも困難な状況を想定しての結果です。

このことから、太平洋戦争初期の練度の高い時期の日本海軍には、夜間雷撃を行えるだけの技術が存在していたと推定されます。太平洋戦争初期に日本軍の夜間雷撃がほとんど行われなかったのは、戦前に予想された漸減作戦が発生しなかったためだと思われます。



#4706 
通行人X 2004/02/21 22:37
確信犯の宣戦布告

小耳に挟んだ話しでは、ナチスドイツがポ−ランドに侵攻した日は
あらかじめドイツの戦艦がポ−ランドを訪問する予定があったとかで
宣戦布告と同時にドイツ戦艦がポ−ランド陣地へ砲撃、
ドイツの電撃戦で最初に攻撃地点に到達したのは、その戦艦の砲弾の雨
だったとかいうことで。

朝鮮戦争は北側から侵攻したのが定説となっておりまして、
その前に済州島の虐殺などの、韓国軍と米軍による南朝鮮における
赤狩り・共産狩りがあり、北朝鮮は建前ではありますが
「南朝鮮を解放し軍政打倒」を布告して侵攻したわけで。
開戦直前、李政権は米軍に撤退を要請、米軍も了承し撤退中だったとかで
朝鮮戦争の最初の北の大進撃には、南朝鮮に、さほど米軍は駐屯していなかった
各国軍も監視軍程度の規模だったらしく、そこを北に勝機ありと判断されたか
どうか、米英および多国籍軍の本格投入は仁川の逆上陸からなのは言うまでもありません。




#4705 
報道官 2004/02/21 18:58
宣戦布告は有名無実

>ブッチャ−3世さん
宣戦布告について、依然少し調べたことがあるので、その時の記憶を元にお話すれば(ひょっとして記憶違いがあるかもしれません)、国際法にのっとった宣戦布告という行為と、各国政府、メディアや我々一般人が言う宣戦布告とは、明らかに次元の異なるものです。国際法上、二国間の戦争に必要とされる宣戦布告という行為は、歴史上ほとんど守られたことはないようです。時に外交上の話題になったりしていますが、それは道具として利用されているだけに過ぎないようで、結局は当事者の都合のよいように「解釈」されてしまいます。例えば、日清戦争では宣戦布告の前にすでに「衝突」がありましたし、太平洋戦争では日本は真珠湾より先にマレー半島(イギリス)を攻撃してますが、こちらの方は米英まとめて(奇襲後に)宣戦の詔書にその旨を記したに過ぎないようですし。

個人的な見解ですが、宣戦布告のない戦争は違法か合法かというのは、今後の国際法の整備という意味では考えなければいけない課題だと思いますが、すでに行われた戦争が違法であったか合法であったかというのを国際法の視点から論じても、それがほとんど守られてこなかったという経緯を考えれば、あまり意味はないかと。ある戦争に対する社会、国民の感情というものは、それが違法か合法かという点にはなく、戦争行為そのものに「正当な」理由がるのか、という点にあるような気がします。「大義名分」「自国の正義」といったうたい文句に対して国内世論、あるいは国際社会が味方につけば、その合法性はあまり問題視されないともいえます。

例えば、アメリカは国の誕生後、宣戦布告をしたことはあまりなく(確か、5、6回だけのはずです)、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、ソマリア、コソボ、アフガニスタン、イラク、いずれも宣戦布告していません。それでも、国内で国際法上それらの戦争が違法か否かという疑問を呈する声が上がることはほとんどなく、争点となるのは、攻撃することが国として(感情的、倫理的に)正しいのかどうかという点です。アメリカの憲法では宣戦布告は議会が行わなければならず、民主、共和党が戦争に対し同じ考えを持っていない限り、宣戦布告することはかなり難しいので、実際は大統領が「武力の行使」を発令し、これを議会が承認する(確か三分の二の賛成で可決されるはず)という形をとっています。言い換えれば、国際法を守る気など頭からないという事です。

結局、宣戦布告をすれば戦争が正当化されるのではなく、そこにある大義名分が大衆、世論、国際社会に受け入れられるのかどうかという点が、大事なようです。戦争が行われている当時のメディア戦略やプロパガンダが、現在の歴史学、歴史の解釈にどういった影響を及ぼしているのか研究するなんてのも、面白いかもしれません。



#4704 
新参右衛門 2004/02/19 15:08
歴史好きが増えてるのでは?

わたしも昨夜、トリビア視聴してました、モ−ツァルトの尻舐め歌
以外でも、
>遠山の金さん は痔だった(昨夜は尻の話しばっかりやね)
という歴史ネタがあり、最近、世間では歴史好きが増えてるのかなぁ
と思ったりもしました、金さん の痔については遠山金四郎が書いたと
される起請文に、私は痔になって馬に乗れないので治るまでカゴに乗る事
を許可下さい〜と書いたものを紹介しておりました。

>柴田恭兵の太閤記
ありましたね、昔そんなのが、明智光秀の役は千葉真一さん じゃなかったですか
大筋がトンでも大河ドラマなのはともかく、光秀=インテリ説を忠実に踏む従来の太閤記
モノの印象を打ち破った千葉さんの豪快な明智光秀でしたねぇ。





#4703 
足塚玉虫 2004/02/19 12:24
怪作

>モ−ツァルトの作詞作曲の歌に「俺の尻を舐めろ」という題の曲があった

きのうのトリビアの泉でやってたネタです、歌詞を日本語訳して実演してましたが
いきなり♪俺の尻、舐めろ〜♪で始まり、随所に♪尻舐めろ〜♪を輪唱していく
壮絶な合唱曲でした(苦笑
モ−ツァルトがどういう意図で創作したのか?と、当曲が宮廷で演じられてたかは
不明だそうで、当人はクラシックの巨匠には違いないわけですが又、お堅い曲ばかり
でなく当時のエンタ−ティメントとして怪作も随所にあるとのことで。




#4702 
徹夜城(相変わらずプリントつくりに精を出す管理人) 2004/02/19 10:05
キャスト発表になりましたねぇ…

来年1月放送予定の古代史ドラマ「大化改新」。キャストがとうとう発表になっちまいました。

中臣鎌足…岡田准一(よー知らん…V6だそうだが)
蘇我入鹿…渡部篤郎
車持与志古…木村佳乃
蘇我毛人…原田芳雄
南淵請安…仲代達矢

 現時点でこれだけ判明。渡部篤郎に木村佳乃が来ると「時宗」の悪夢がチラと頭を掠めますが(笑)。まー、どうやらお話は鎌足を主役に入鹿との愛憎(?)を描く形になりそう。入鹿は「屈折役」の多い篤郎さんですから、なんとなく雰囲気は予想できます。仲代達矢さんの役は特別出演っぽいなぁ。
 にしても、ここんとこのNHKのジャニーズの蜜月ぶりってなんなんですかねぇ。未発表の大役、中大兄皇子にもジャニーズアイドルが来るんじゃないかとの憶測も飛び交い…鎌足よりも若いんだもんな。入鹿はともかく鎌足の配役もいくらなんでも若すぎやしませんかね。このあたり不安要因。
 脚本は「太平記」「聖徳太子」と前例のない歴史劇を次々手がけた池端俊策さんなので期待はしてるんですが(もっとも民放のほうじゃ「義経と弁慶」なんてベタベタの素材をやっておられますが)、あとは演出など現場スタッフがいいかどうか。「聖徳太子」のパターンからするとやはり「太平記」を手がけていた佐藤幹夫さんが演出につくような気がするんだけど。


>ひでさん
歴史の痛い点は確かに「昔の話」であって地理や公民のようにニュースなど教科書以外で接することがないということもあるのですよね。その代わりとして歴史ドラマや時代劇、マンガや小説などがあったりするわけですが。歴史というのはお話の集合体、ドキュメントとしてとらえられると興味がもてるわけなんですが、教科書でのお勉強だと無味乾燥そのものですもんね。

>おやかたさん
 草なぎ剛「太閤記」は僕は見る気すら起こりませんでしたが(設定は一応聞いたからで)、中学生ぐらいで興味をもつきっかけとしては良かったんじゃないかと思います。
 過去に膨大な数作られている「太閤記」ですが、僕が見た中で一番「凄かった」のは柴田恭平主演のTBS正月ドラマですかねぇ(笑)。明智光秀が足利義昭を射殺し、本能寺の炎の中に斬り込んで直接信長を切り殺し、山崎の戦いで秀吉と一騎打ちして敗れ見事に腹を切って死ぬ、というトンデモないドラマでした(笑)。あれ、全部光秀がらみだ(笑)。それでいてこのドラマ、わりと光秀に好意的だった印象も。柴田恭平の秀吉もそう理想化もされていなかったのでそのハチャメチャぶりには呆れつつもドラマとしては好印象だった記憶があります。もちろんその数日後の新聞TV面の視聴者投稿欄には「史実と違う」との社会科教師からのお怒りの声が載ってました。

>尾鳩さん
 歴史人物の裏話などは時間が許す限りはやるんですけどねー。なんだかんだであんまり時間が無い。それと中学生相手にはちとやりにくいネタも多い(笑)。せいぜい紫式部が日記に清少納言の悪口を書いていた、とか最澄と空海は弟子の取り合いをして険悪になったとか、せいぜいそんなもん(これを知っていると同時代の感覚がつかめる)。あまりに情報過多でもいかんわけだし。
 予備校で世界史を教えたこともありますが、こちらはさらにネタの宝庫ですから、ついつい暴走していろんなことを話しすぎ、時間がますます足りなくなった経験もあります(笑)。「マルクスはあまりにも悪筆で、エンゲルスと妻しかそれを解読できなかった」というトリビアもございます(笑)。



#4701 
ひで 2004/02/18 23:16
ぁ、結局見るのを忘れた・・

ワールドカップ予選があるのをすっかり忘れてました。しかし色々なところに言って情報を拾ってみた限りではかなりダメダメな試合内容だったようです。相手は年代的にはオリンピック代表みたいなものなんだけどねぇ・・・。これから後も心配な日々が続きます。

http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/


☆歴史のトップページに戻る
<<<過去ログ4800〜4900
過去ログ4601〜4700>>>