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#6500 
民本主義者 2006/03/01 00:33
「ああ、やっぱり」尽くし

イレギュラー満タン様へ。
やっぱり、はまったか…。睡眠不足にお気をつけください。
それから私のハンドルネームは「民本主義者」です。「民主主義者」ではありませぬ。「主権がどこにあるかといえば、どこにもないというのが答えである」(オルデガ・イ・ガゼット)「欽定憲法によってデモクラシーを運営するのは可能だ」(吉野作造)が信条ですからね。…ウソです。この掲示板で「米騒動」という焼酎が話題になったときが初書き込みで、ふと思いついてつけただけです。

そういえば、私の近所の公園に、完成予定として「昭和八十五年」と書いてあったような記憶がある。荒俣宏の『帝都物語』には近未来の昭和末期に、「昭和を終わらせるために」を合言葉に活躍する政治グループが登場します。この「昭和を終わらせる」という表現に異様な衝撃をうけたものです。(この辺の感覚は、もう今の若いモノには分からないだろうなあ)
その後、東日流外三郡誌批判本で、この掲示板の常連・原田実氏のかつてのお師匠(原田さん、ご容赦!)武田崇元氏が年賀状に「今年こそ、昭和が終わるように祈りましょう」と書いていたと知り、その本の著者は「許しがたい」と糾弾していましたが、私は『帝都物語』のあの表現の元ネタはこれか!と、人脈のつながりを想像して深く納得してしまったことがあります。
『ケロロ軍曹』の「平成は本日よりケロロ元年であります」も、これが元ネタなのかなあ?



#6499 
徹夜城(とりあえず受験前の仕事は終わった管理人) 2006/02/28 23:50
蝦夷イメージの変遷

>原田実さん
 「蝦夷=騎馬民族説」ってフレーズ聞いちゃうと、思い出すのが東映映画「紅顔の密使」(笑)。映画のところにひょっこりレビュー入れたりしておりますが。
 あの映画に出てくる悪路王(=アテルイ)率いる「蝦夷(えぞ)」像ってモンゴル騎馬軍団にアラブ人やロシア人とおぼしき連中までが加わっているというメチャクチャな集団に描かれてましたが、案外その辺にイメージの原型があるのかもしれませんね。
 出羽・津軽の「蝦夷大乱」の折に北条高時が蒙古襲来の時と同じような調伏祈願の願文を納めたりしているそうで、案外鎌倉人もそのぐらいの感覚だったかもしれませんが…「日本の北の方は大陸とつながっている」というイメージも長らくあったという指摘もありますしね。

 小学校の時に読んだ子供向けの日本歴史本では坂上田村麻呂のくだりの挿絵に羽飾りを頭につけたインディアンみたいな「蝦夷」が描かれていたもんです。集英社旧版の「漫画・日本の歴史」では毛皮を身にまとった「山賊」風味で完全に「侵略者」として描かれてました。アテルイ自体は田村麻呂との交流もあるんでカッコよくも見える描かれ方でしたが、アテルイの処刑を聞いた田村麻呂が「蝦夷に生まれたばかりに」とか言って涙を流すのには「?」と思うところもありました。
 今も版を重ねている小学館の「漫画日本の歴史」では弥生時代人風な描かれ方で…と、この話、絶対前にも書いてるんだよな。


>イレギュラー満タンさん
 「勘合」というのは身分の証明というより、「この船に乗ってるのは政府が派遣した正式の使節ですよ」ということの証明です。日本と明の間では「日字勘合」を明側が、「本字勘合」を日本側が持つことでお互いの国に行ったとき証明に使うわけです。
 で、よく「倭寇と区別するために使用した」と社会科の教科書やテストで定番で説明されますが、実態は「持ってない奴は非政府=私的な貿易船であり非合法=つまり倭寇と同じ」という論法で扱われる、というのが正確です。僕は前から教科書的な説明はいい加減改めたほうがいいと思ってるんですが…

 勘合とはこういう国家間レベルの公的な性格のものなので勘合自体の海賊への「横流し」は本来不可能です。しかも日本は明への貿易は「十年に一度」と決められましたので(そうしないと毎年やって来て明側の赤字がひどいから)、勘合自体もそうホイホイと発行されるものではないんです。確か毎年一通しか発行されずその年の年号もちゃんと書いてあるから使いまわしも利きません。
 ただし…ご存知のように明って一世一元つまり皇帝在位中は元号を変えず亡くなるとその元号を皇帝の名前として贈るという仕組み(つまり明治以後の日本と同じ)を作ったでしょ。だから皇帝の長寿を祈って一つの元号の勘合を百通ぐらい発行しちゃうんです(笑。まぁ日本でも「昭和百年」とか公文書に書く場合があったみたいですが)。
 それで大量に余った前の元号の勘合が室町幕府から流出するケースが出てきます。それを入手した大内氏やら細川氏やらの貿易船が、本来期限切れの勘合を持って明に行き、「正式のものは海賊にとられた」とかいろいろ言い訳してなんとかごまかしちゃったりするんですね(賄賂も使います)。そうこうしているうちに「正式の日本使節」を名乗る船が同時に寧波に入港して「寧波の乱」と呼ばれる大騒ぎが起こったりするわけです。
 室町時代には明だけではなく朝鮮に対しても偽使節がいっぱい出現しておりまして…向こうも薄々分かってて貿易してやるんですよね。



#6498 
イレギュラー満タン 2006/02/28 23:06
2ch歴史フラッシュにハマってます

>民主主義者様
劉禅フラッシュ拝見しました。もう面白くて上から順に片っ端から観てます♪
良いものをご紹介していただいて、ありがとうございました。

>管理人様
そうなんですか、だんだん江南の方がえらくなったんですか。
ともあれ、ノドの魚の小骨が取れた様にスッキリしました。ありがとうございます。

P.S. 勘合貿易って、身分を証明する為にあのフダを使ったそうですが、
それって以前に、海賊とかが「あ、オレオレ。」などと言って
堂々と横流しされるようなことがあったからなんでしょうか?
毎度ながらしょーもない想像してスミマセンf^^;; 




#6497 
孟きょう 2006/02/28 16:01



>巫俊様
>「周代に剣文化の定着したことが日本のサムライ精神の遠因になっているはず」ですが、
私もその説にしびれるほど同意ですね!。ぼんやりとした感覚なんですが。



#6496 
孟きょう 2006/02/28 15:22
幕府か・・


 >巫俊様
 あ、いや私の場合、かなり幼い頃からの思いつきというか素朴な感想が結構ありますので(苦笑)根拠が危うい危うい。どうか、「B先輩」を大きく見守って下さい(笑)。
 >「東国の王権、幕府」についてのヒントというか、「范陽節度使」ですが、私も大に賛成です。ひいてはのちの河朔の鎮につながりいくというか・・
 >「マサカリ」の問題もモロに古代日本の軍権にかかわってきそうな感じがしてワクワクしますね。
 >「信長レス」ですが、信長といえば上洛→上洛といえば洛陽→東アジア全体に共通する権力問題、と連想がキリなく、奥深く面白いテーマではあるんですよねえ・・
 >「節度使」 そうなんですよ、朝鮮側の記録でも日本の各地域の有力者を「節度使」と呼んだり記述したりする事が多々あるのですが(一番の有名どころは、やっぱり今川家でしょうか)
。つくづく思うのが、(唐制というクラシックな面があるにせよ)節度使という言葉は日韓中に広く共通して通用する制というかイメージしやすい言葉だったんだなあという感想ですね(これは「源姓」も絡んでかかわってくるのですが)。



#6495 
 原田 実 2006/02/28 13:55
「蝦夷」は世につれ

>蝦夷=騎馬民族説(なんてものあるか知らないけど(笑))<

実はあるんですな、これが。というか、戦前までは東北の郷土史家の間ではよくそういう話が広まっていたようで、私は五所川原の福士貞蔵文庫で、福士氏による蝦夷ダッタン説の論文を読みました。
 これだと、坂上田村麻呂は東北への侵略者ではなく、大陸渡来の騎馬民族に蹂躙されている東北民衆を救った英雄になるわけですね。

 戦後の古代史ブームでは、古代史論に天皇制批判の観点を導入するのが当たり前になり、また江上波夫説の流行もあって、以降、大陸からの侵略者は蝦夷ではなく、古代天皇家だったということになりました。それで、田村麻呂も解放者から侵略者になってしまったわけです。

http://www8.ocn.ne.jp/~douji/


#6494 
流星くん 2006/02/28 07:40
板東

>征夷大将軍
わたしは、いままで「板東」というのは、どこから
どこまでの範囲を指すのか分からなかったんですが
語源関係の説では「板」という字は朝廷が統治する
地域の境界である砦の外壁のことを「板」と暗喩して
いて、「板東」とは防壁の東側、朝廷の
支配が及ばなかった東の地域という漠然とした
意味らしいですね。
平安時代で2大防衛重鎮といえば征夷大将軍と並ぶのは
南の守りの要・防人の太宰府、南のほうの国防は
専守防衛って感じがするのに対し、東北方面の国防は
未踏の地域を獲得できる可能性も多かったから
攻めの要職、武の棟梁って印象がかたまっていった
のではないかという気がします。
これは、あまり注目されないことですが、鎌倉時代は
日本史で初めて関東に政権の本拠ができたわけですが
これは源平合戦での総合戦の結果、いがいでも
農業生産面で関西は凶作、関東が豊作が続いた
時期であったそうです、たぶんに天候が大きく
影響したらしいのですが
関西に基盤があった平氏勢力は兵糧の面で
関東源氏勢力(北条は平氏ですが、あえて示しません)
に対し劣勢だったという話を聞きました。



#6493 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/28 05:18
イエヤス・タイプ

であって、信長オリジナルではない江戸幕府ともいえるかな



#6492 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/28 05:11
ということで

今度は中国史(近世)のレスが滞ってしまいました(^^;
管理人さまにはもっとお話を拝聴したいところなので、後日を期して...
信長レスは戦国期レスに移行するとします。
それと信長の変革というものは、戦国期の流れの中で考えるということと、信長の「制度」改革としては未完に終わりましたが、
秀吉・家康と受け継がれて、信長の理想はイエヤス・タイプに変容しながら、「武家諸法度」「元和エン武」と至ったということになるでしょうか。
信長勢力内の司令官たちの構造に、変革のさきがけがあるような気もしなくもなく...
ここら辺はもっと煮詰めないといけないですね。
それでは♪



#6491 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/28 05:06
立喰師(ファーストフード中毒者)騎馬民族説

http://www.tachiguishi.com/trailer.html
2006年4月に公開する押井守監督の実写映画「立喰師列伝」(たちぐいしれつでん)の理念的背景として登場するらしいファーストフードの騎馬民族説...
何それ(笑)

>騎射
蝦夷に言及する歴史書の内容は、『史記』の匈奴列伝の模倣ですから、そこから蝦夷=騎馬民族説(なんてものあるか知らないけど(笑))と呼べるようなステレオタイプな印象がエミシにはありますよね。
とはいえ、匈奴に擬せられるだけ蝦夷の印象は強烈だったようで、平安の朝廷を震撼させただけに以後の影響はあったと思いますよ。
もともと刀剣というのは、古代オリエントの由来起源で、シルクロードを経由してスキタイに連なる牧畜民が中国(殷周時代)にもたらしたものですし。
殷代は刀の中国に普及した時代で、周代が剣文化の定着した時代です。
中国でも刀が先行したということになりますね。(なお牧畜民は中国とは呼ばないという定義での話しです)
周代に剣文化の定着したことが日本のサムライ精神の遠因になってるはずです。

>推古〜天智・天武で統一が完成
ここら辺は、和文だらけの『日本書紀』が中国風の漢文になれた私にとって障害になるので(笑)
さっきリンクした裏辺研究所というところで考古学を研究してる人の話を拝聴してるついでに、観念したものです。
中国を例とするとすると「領域国家」というようなものと、宗教的権威による「霊的威圧」を政治力に変換していたということが参考になるでしょうか。

例えば武士の「士」という言葉の起源ですが、
中国でも最初は文人「士大夫」を意味していたのではないのでして、
士大夫の揃ったのが「漢」という時代としますと、それから一千年ほど遡る「殷」の時代の「士」は貴族戦士の身分標識でありました。
殷の甲骨文字によると、「士」という字は「斧鉞」(ふえつ、おの)を象ったものとされていまして、マサカリというものは王者や貴族の象徴となっていた権威でした。
なんせ冒頭にも書きましたが、殷には剣の文化が欠けているのです。
殷の「士」と呼ばれる貴族戦士は、馬車に弓・戈を積載して戦場にのぞみ、軍事的権威の象徴であるマサカリを振るって戦闘の指揮をとったのです。
「王」という漢字はもっと巨大なマサカリを象ったものであります。
あと、春秋期には「士」に裁判官という意味をもたせることがありまして、「士」は戦闘の職だけでなく裁判権にも関係しているようですね。
そうして、武士という言葉の起源になっているのですよ。3000年前の殷の文化は。



#6490 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/28 04:16
新刀と古刀だったら

私の奇遇してるサイトに、
http://www.uraken.net/museum/milt/indexmlt.html
なものがあります。
http://www.uraken.net/
裏辺研究所
歴史掲示板もあったりして。

>戦国地域経済
江戸期に入ると経済がグルグル回りだすってことは分かってたつもりだったんですが、
戦国期の大名の勢力図のことは頭に入っていても、まさか京に米を敷き詰めると言われるほどとは・・・
戦国北条氏を見誤っていたようです。
1/30くらいに過少評価していました(笑)
(ルウム戦役気分ですよ!いやなにかってサイド3(ジオン公国)の農業生産力はあなどってはいけないそうです・・・(笑))

戦国期の勢力図って図説を見るだけで分かりそーなものなのに、かくも壮大な交易経済がバックグラウンドにあったということですね!!
これはもう見落とせなくなってしまいました。
いや、いささか私が出遅れてる感がありますが、おそらく戦国期の史料でははっきりしたことがあと一歩で、そうあと一歩で証拠に逃げられる!!
ということが多発していたりするのでしょうか。
『中国の歴史09』の戦国版というか、中国の「五代十国」の地域経済ももっと知りたいところなのですが、とにかく日本の戦国期の交易を題材にした書籍はクジラの群れのように、もっと浅い海に回遊してきて私たちに豊作をもたらしてほしいところです。

>征夷大将軍
講談社現代新書『源氏と日本国王』は、源氏と軍事貴族のことから征夷大将軍のことまで、おそらくはこの分野のアクセスポイントになってくれることでしょう。
これお薦めです。
北条高時得宗時代の「蝦夷大乱」については、北の交易史からもアクセスできそうですね。

「東国の王権」とも呼称される幕府については、盛唐の玄宗皇帝から自立して、
中国を傾けた戦乱・安氏の乱を起こした安禄山の「大燕」政府(とくに現在のペキンにあった范陽節度使の存在理由)が参考になるかもしれないですね。
東国政府という点と、「令外官」の節度使自体が中国東北地方への備えとして成立したような気がします。
節度使といえば、日本にも節度使が存在したようですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%AE%98%E5%88%B6
“732年(天平4)東海・東山・山陰・西海道に節度使(せつどし)を任命”

道単位で節度使が置かれたということは、日本では地方勢力として定着しなかったとはいえ、
鎌倉時代の征夷大将軍を支える「先例」というようなものは節度使に求められるんじゃないでしょうか?
節度使だけじゃないかもしれませんし、理念を支える背景として将軍職はそういうものと結びついているような気がします。
将軍の執務遂行に支障をきたすということになれば、代役として誰かに交替するという政権交代が予想されてくるところです。



#6489 
景虎 2006/02/28 01:51
甘えん坊将軍なんて言葉もあった(笑)。

>巫俊(ふしゅん)さん
>江戸時代の商品経済
そういえば、刀剣学では慶長以前を古刀期、慶長からは新刀期とされていますが、これも江戸時代の商品経済の影響があるようですね。
古刀期は、刀工が自ら鉄を作っていましたが、新刀期になると、大規模な製鉄業が発達し(当然、流通業も発達)、刀工は鉄を購入して刀作りをするようになります。このような鉄の変化が、新刀の条件の一つとされているようです。

>徹夜城さん
>「なぜ武士の棟梁が、「臨時の方面軍司令官」ともいえる征夷大将軍なのか」
よく分かりませんが、征夷戦が後世の武士に与えた影響が大きかった事が関係しているのかな?という気がします。
奈良時代末期〜平安時代初期の征夷戦で、官軍が大敗した時に、桓武天皇は次の戦いの為、騎兵を導入したという話があるようです(詳しくは知りませんが)。これについては、恐らく蝦夷の騎兵に対抗する為ではないか?という説があるようです。初期の武士が騎射を重視した事を考えると、何か関係があるかも知れませんね。

騎射以外では、蕨手刀という物があります。これは、蝦夷と戦う官軍の武器だとか、蝦夷の武器だとか諸説あるようですが、岩手県でもっとも多く発見される(西国では僅かしかない)事を考えると、蝦夷の武器とするのが自然かな?と考えたりします。
問題は、この蕨手刀が日本刀の原型の一つとされている事ですね。
厳密には、朝廷の武官が使用していた刀と、蕨手刀を組み合わせて改良した結果が日本刀では?と考えられます。本当にそうだとすれば、武士の武器、戦闘法というものは、
朝廷の戦闘文化と、蝦夷の戦闘文化の混合、発展系という事になるのかもしれませんね。

その他には、蝦夷を他国へ強制移住させたりしたようですが、その理由として、群盗などの鎮圧に、蝦夷の武力を利用するという事が、考えられたりしたらしいです。この場合、逆に蝦夷が群盗になる事もあり、そう上手くは行かなかったようですが、興味深いのは、蝦夷の利用法と後世の武士の利用法が、似ているという事ですね。



#6488 
徹夜城(人事を尽くして天命を待つ気分の管理人) 2006/02/27 23:43
誠意大将軍なんて言葉もあった(笑)。

 それにしてもここ数日凄まじく濃くなってるなぁ…(笑)。話題もいろいろでどれからレスしてよいのやら(^^;)。

>「太平記」における「三国志」
 NFさんが紹介されたサイト、僕も時々覗いてたんですよ…というより、「ゲームで南北朝!」武将リスト作成時に「えーと、こいつは何したんだっけ」とネット検索をかけるとこの太平記全訳(現代語風抄訳というべきか)のサイトのページがよく引っかかったんです。実は僕も以前「太平記」現代語訳にアタックして鎌倉幕府滅亡までは書いたことがあったりしますが(笑)、このサイトも労作ですよねぇ。
 というわけでそのページを見れば一目瞭然ですが、「太平記」における「三国志」、簡単に紹介しますと…

 新田義貞が北陸にあって勢力回復を図っていた頃、義貞が不思議な夢を見るわけです。で、その夢解きをする中で「諸葛孔明」の故事が延々と語られます。こうした中国古典の長々しい引用は「太平記」ではしばしば見られ、「呉越の戦い」「楚漢の戦い」の引用はもはや引用を通り越して脱線としか思えない状態になっています。「諸葛孔明」の話もそうした一例なのですが、展開が思いっきり史実とことなるのです。

 まずいきなり三国鼎立状態から話が始まり、曹操・劉備・孫権が魏・蜀・呉の王となっている。それから劉備が蜀国内で諸葛孔明を発掘し「三顧の礼」でこれを迎える。やがて曹操が司馬仲達を派遣して蜀を攻めさせ、これと戦った孔明は五丈原に死ぬ。その後魏軍が蜀に乱入してこれを滅ぼし、やがて魏が天下を統一したのでした…という展開になってるんですね。

 呉越や楚漢のくだりでは「史記」から延々と、まぁまぁ正確な引用をする「太平記」ですが、作者が「三国志」(もちろん正史)を読んでいないのは明らか。そもそもこの時点の日本には「三国志」が全く輸入されていなかったのではないかという気もしてきます(「太平記」作者集団にはかなりの学僧が含まれる可能性があるため)。「太平記」作者は「三顧の礼」や「死せる孔明生ける仲達を走らす」といった故事成語の知識だけをもとにこの話を書いちゃったものと思われるわけです。

 で、この話の引用が「太平記」の中においてどういう意味があるかというと、一応京の足利・吉野の南朝・北陸の義貞という「三者鼎立」の状態があるとなぞらえているらしい(無理がありすぎ)。そして諸葛孔明が陣中に死んでしまった話が義貞のこの直後のあっけない死を暗示するつもりらしい(例えがわかりにくい)。まぁ要するに話をこじつけて読者に中国古典教養を教え込むという狙いなんでしょうけどね。


>中国の南と北
 いろいろ話題が出ましたが、僕が扱ってる明代では経済の中心地が南にあり、そこに「倭寇」らの密貿易によって世界の銀が流れ込んでくる。それが北方のモンゴルに対する軍事費として北へと運ばれる…という「銀の流れ」で明後期の社会変動を説明する見解があります(岸本美緒氏など)。そして北方の人参貿易などで商業的・軍事的に力をつけてきた満州族と、南方で倭寇の流れを汲む海洋貿易で商業的・軍事的に力をつけてきた鄭氏集団(芝竜・成功ら)の「南北対決」という構図になっていく…というスケール雄大な説明にはゾクゾクしちゃうものがあります。

 方国珍の話がチラリと出ましたが、元末から活動していた浙江海域の海上集団ですね。これの残党の活動を阻止するために明の洪武帝は諸島部の住民を内陸に移住させたり海禁政策をとったりしていくわけです。で、この方国珍集団というのが朝鮮・日本までつながりを持ち、いわゆる「倭寇」とかなり密接な関係があったかもしれない…と僕なんかも感じてるんですよね(間接的な証拠しかないですが)。
 元寇なんて戦争があったから日本・元間の交流はなかったかのように思いがちですが、なかなかどうして交易・交流は活発に行われていたようなんですよね。クビライも日本商人が来たら交易を許可してますし、鎌倉末期から室町まで双方の禅僧の往来は驚くほど頻繁でした。のちの「寧波の乱」を髣髴とさせる日本商人の騒乱事件も起こってますし、両国の海賊海商的な集団の間ではつながりはあったと見るのが自然じゃないかな、と思うところ。


>武士と征夷大将軍
 「武士」といえば韓国歴史アクション映画の傑作「MUSA(武士)」をGYAOで放映してました。未見の方はぜひ(^^)。
 「武士」という用語もその「発生」当時どのように使われたのか、気をつける必要もあるでしょうね。「侍」という言葉も同様に。また、ひとくちに「武士」といってもその「軍事貴族」的なものから東国の開拓農場主みたいなもの、はたまた海賊・水軍のたぐいまでいろんなのがいたということも言えるでしょう。

 それと、実は僕も最近「征夷大将軍」ということについて気になっていたんです。ここんとこ北方史に首を突っ込んでおりましたら、蝦夷(エゾ・エミシ)問題の専門家の方でも「なぜ武士の棟梁が、「臨時の方面軍司令官」ともいえる征夷大将軍なのか」という問題提起をされていて「そういやそうだよなぁ」と改めて考えちゃったわけです。
 出羽や津軽の「蝦夷大乱」の処理問題がなぜ鎌倉幕府の権威を失墜させたのか、という問題ともつながってくる気もします。



#6487 
NF 2006/02/27 23:21
やっぱり古代史をもう一遍やり直した方が良さそうだなあ(溜息)

>巫俊様
仰るとおりです。関東が曲がりなりにも東日本の中心的位置に来たのって、確かに贔屓目に遡っても中世、更に言えば鎌倉政権からでしたよね。で、足利政権時代にも東日本の中心的地位を持ち、戦国で生産力を飛躍させる(米で京までの道が敷き詰められると言われる農業生産力があったと聞きます)。で、西国でも交易を通じて中国地方が巨大経済圏となりました(こちらは銀で京までの道が敷き詰められると言われたとか)が徳川時代の交易管理で前ほどの力は持たなくなる。
古代は確かに畿内の一人勝ち状態でしたね。名目上だけにしろ一王家によって盟主の地位が受け継がれてきたのもそのせいでしょう。邪馬台国から初期大和政権が都市国家連合、5世紀頃は各地域で領域国家が成立し最有力の畿内が盟主として他の国家を服属させた(中国の戦国における連衡のような感じ)、やがて各地の直接統治が進行し推古〜天智・天武で統一が完成という理解でいいんでしょうか?政治権力が介在して貢納という形で初めて物流が生じていた古代→各地の自給自足的体制な中世→各地の生産力増加に伴う民衆の手による物流が生じる近世以降、と考えると分かりやすいですね。ま、各時期の境目が非常に曖昧なんですけど(特に中世と近世の過渡期は日本は中国などと比較して長い)。
>武士
考えてみれば、武士の定義がもともと非常に曖昧なんですよね。古代帝国崩壊期から近代前夜にかけて軍事を担当すると考えられた階層の総称、ということになりましょうか。最近は可能な限り意識して武士と言う言葉は使わず、軍事貴族(中世において中央政府から支配階級として公認され政府防衛に携わる階層、という定義になりましょうか)とか地域豪族といった豹変で逃げております(苦笑)。武士、という分類自体が適切なものか再検討する必要があるかもしれませんね。



#6486 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/27 22:39
孟きょうさま

A子いわく:軍事貴族って何のことですか〜?
B先輩いわく:武士のことだよ。最近はそう呼ぶんだ。
って説明してしまいそうな気が(笑)
孟きょうさまのセクションと参入の概念は「B先輩」にとって後輩への威信回復の大きな助けになるでしょう(笑)

そんで私も孟きょうさまの考え方に賛成です。
そいで今までの武士像って、軍事貴族という説明が追加された今、修正を迫られているような気がします。
そういうものの、今までの武士像の中のどこに「軍事貴族」を当てはめたらいいか、整理しきれていないようなものを感じるんですよ。
あるいはもう回答はされてて、私に見えるところまで浮上してきていない、ということだったりするのかもしれません。
とりあえず新しい概説書の『日本の時代史』シリーズくらいが、私の守備範囲なんですが、これが読むのに時間かかっちゃって、読もうにも読むのが追いついてない感じです。



#6485 
孟きょう 2006/02/27 16:46
武士かァ・・


 >流星くん様
 「武士というより、貴族のようなおもむき」ですが、そうですね、私も同じ考えです。私も、日本列島内における初期の本来の「武士」は貴族のおもむきがあり、というより貴族だったと思うのです。もしくは軍事貴族といいましょうか・・。朝廷の貴族達の中に武門というか武人所といいますか軍事をつかさどるセクションがあり、その中で「軍事もやる貴族達」が出てきて、源平藤等、臣下となった皇族達がそのジャンルに参入したのではと。→長い年月が経ち、やがてあまりにも圧倒的多数である周辺、地方の土豪達まで既成事実の形で武士を名乗り→江戸時代になり、武士の「士」を士農工商、中国の士大夫の「士」にあてはめてみたり、刀、日本差が身分標識証のようなイメージになり、長屋住まいの浪人まで武士のカテゴリーにはめられてきたのかなあ? などと私は考えています。 
 「武士」という言葉自体はそもそも中国において「武人、軍人」のニュアンスで使われていた言葉を日本でも採用したものであるし、「騎士」も中国において騎兵の意味で使われていた言葉を近代日本が西洋史の「ナイト」を日本語訳にするにおよんで使用され、ついにはイメージさえ奪ってしまった感じがあるのですが(あ!脱線した!)。そんな「武士」の概念を日本の近代史学の泰斗の方々がいろいろな研究の結果、様々な学問的成果で学説を残してくださっているわけなのですが、私には今イチ、ドンピシャというか、完全には理解する事ができないのですよ・・頭の中で処理しきれないというか。ここ20年ほどの間で「武士」を新たな視点で研究する方々が幾人か出てこられたのですが、「とらえ所がなかなか無く、融通むげ、ものすごく曖昧なのが武士の概念だ」みたいな事を誰かが述べていたような記憶があるんですよ。
 征夷大将軍の問題ですが、う〜ん、そうですね〜。私としては「武人や源平藤橘の皇族を含め、何らかの形で朝廷とかかわりがあり、朝廷関連の仕事をした者」に征夷大将軍になる資格がある、みたいな常識が当時はあったのではと・・。むしろ、これは源氏長者の問題にもいえる事なのですが、そういう正統性と常識を武力と政治力でねじ曲げたのは、やはり徳川政権も広い範囲では含む「織豊政権」だったのではないかと思います。
そして織豊政権がつくりあげた「新しい常識」と「空気」の延長上に我々近代、現代人も生活しているわけですから、変な話、織豊政権にはどうしても甘い点をつけてしまうというか、違和感をもちにくいんですよね。
 武士については、まだまだコメントしたい事があるのですが、文が長くなるのでまた今度という事で・・・



#6484 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/27 16:33
武士の登場

武士の登場は、マルクス主義戦後歴史学によって基層部分がつくられてますからね。
在地領主が封建的武士階級に発展したもの、とするような土地(生産)的な考え方に終始するマルクス主義の歴史学では、
受領(地方国司)として任国に赴き、物資を集めて京に帰ってくる河内源氏―とくに源頼光―のような才気溢れる中小貴族の像が見えてこないんでしょう。

流星さま(とお呼びしていいでしょうか?)
劉姓と変換されたし(^^;
がおっしゃっていますように、貴族と武士というように二分する考え方も便宜上のものと思ったほうがいいのかもしれないですね。
貴族というのは、高位の官位のあるもの(それと家格もあるもの)というような定義で、そういう意味では源頼朝は貴族と呼べますし、
そこを忘れてしまいますと、鎌倉幕府の親王将軍や摂家将軍にお飾り以上の意味が取れなくなってしまいます。



#6483 
流星くん 2006/02/27 07:37
武士と貴族

武士は、いきなり、ずばっと発生したもんではない
のじゃないでしょうか。
大江山の鬼退治で登場する嵯峨野の源氏は実在の氏族で
藤原氏の傘下で藤原氏に経済支援も、できたくらいの
権勢があったそうで、武士というより貴族のような
おもむきがあったそうです。
源氏は板東武者〜という印象を定着させたのは
河内の源氏が東北の安部氏の征伐を担当するように
なった後だそうですね。
征夷大将軍は源氏という了解を最初に定着させた
のは河内の源氏が安部氏など東北の征伐が長期化
朝廷は河内の源氏に東北征伐の職から外そうと
したが、ひきつづき東北征伐を源氏が担当したく
京洛に運動、圧力をかけて、そういう
仕組みに無理矢理してしまった、という話で。



#6482 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/27 06:35
ついでに忘れないうちに

夏殷〜三国くらいを小説にしてる作家・宮城谷昌光氏がエッセイに書いてるんですが、
故・司馬遼太郎氏のおっしゃったこととして、
「中国は最初が大きくて、あとはそのまま」
といったような内容を、司馬氏が手振りを交えて話したそうです。

それを聞くと、私のような古代史の人間は、
「さもありなん」
と勝手に納得してしまったりするのですが(お恥ずかしいですが高校のときのことです)、
それを克服するのに時間がかかったような気がします。



#6481 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/27 05:50
自由交易となると

近世以降の繁栄する華中・華南地域って、食料から特産品まで何でも揃ってしまうことから、
自由交易にしたら華北に物資が回らないそうですね。
税として物資を転送しないと、華中・華南地域の物産の消費先が消えてしまい、経済が活性化しなくなるそうです。
(『中国の歴史09 海と帝国 明清時代』(上田信、講談社、2005)。)

そうして、中国の帝政は経済を統制することで拡大再生産されていったと考えると、近世中国(五代と宋から明清まで)の流れが分かるような気がしてきました。
私の本業は古代の範囲で、夏殷交替〜楚漢抗争の地域史ということにしてますので、ここに書いてみて、はじめて近世を整理して理解する方法が引っかかったような気がします。なんか貴重な経験のような気が^^



#6480 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/27 05:25
それから荘園と元朝と..

荘園制って説明するのが大変で、すんなり次の時代に進めませんね。。。
武士ばかりに人気が集まる中世ですが、実際は「X」状に貴族の権利が傾き、武士の権利が向上するという、交差した時代だということを忘れない方がいいでしょう。
(というか私がついつい忘れてしまいそうです(^^;守護大名の名前は知ってても、荘園領主の名前って知らないから。院政の説明とか書く紙幅がなかったし)

そうして、安土桃山時代〜江戸時代と、戦国期に登場した地域経済が、日本全国の商品経済に組み込まれて、未曾有の繁栄の時代が日本を「眠れるアジアの大国」に仕立てていきます。
(ここらへん中国の近世の五代〜宋に近くて分かりやすいですね。)
その実力は文明開化によって開放されて、日本は五大国のひとつに成り、アジアに旋風を起こして太平洋戦争という猛火の竜巻を巻き起こして敗北、日本は経済立国に移行します。
(ここらへん、南宋〜元朝治下の中国にそっくりなような・・・元朝治下の中国こと現代日本はアメリカという消費先(大元の大都(カムバリク))を失うと、おそらくは江南の物資を大都に輸送していた方国珍の海上勢力のように、明帝国に潰されてしまうのではないでしょうか?ここらへんから先は管理人さんの領域でしたよね。)
方国珍って掲示板的には説明しないと読んでくれるロムする人たちに分からないかも。
フォローしてくれる人いたら、お願いします。

>宋代の長安
北宋の西京(せいけい)のことですね。
(北宋の首都・開封は東京(とうけい)と呼びます。)
宋の西京は、モンゴル時代には「キンジャンフ」(京兆府)と呼ばれ、クビライが開平府(のちの上都。ついでに英語で上都はザナドゥ)で帝位に就くまでは、大モンゴル国の首都になる可能性があったとされています。

それと、元朝では大運河の交通に支障をきたしたために、江南から海路で山東半島を経由して大都に経済物資が運ばれていました。そこで方国珍という海上の運送勢力が登場するようです。

>世界史フラッシュ
鉄十字の騎士、だったかな?異教徒のキリスト教改宗を任務とするドイツ騎士団と、中世ヨーロッパの北方拡大。これがとにかく好きです。

信長にレスするのは次の機会で(^^;



#6479 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/27 05:24
NFさんにレスする形で

>太平記と三国志
劉備が存命中に諸葛亮が北伐するそうですね。

>関東と関西
長期統一とすると、徳川関東移封〜現関東圏と区分されて、そんなに長くないと思いますよ。
縄文時代は東日本を中心に人口が分布し、弥生時代の西方からの民族移動を経て、
古墳時代に「近畿」の名前のもとになる朝廷に貢納が集中する仕組みが成立、
それが倭王武(雄略)のときに一応の完成を見たようですが、
九州とか関東とかの日本の地域の王権って、『日本書紀』に拠る限りは単独で近畿の朝廷に対抗できるような対抗勢力の結集が見あたらないような気がしません?
九州磐井の乱とか、日本の地域勢力は成長してたにしろ、日本全国か日本半国から貢納を集めるような、軍事的背景や社会的権威って、古墳時代以降は近畿の朝廷以外に見つけにくいと思います。
もっとも、日本の1/6くらいから貢納を集める地域勢力でも、状況しだいでは近畿と対抗関係にあったと考えていいんでしょうね。
弥生時代の邪馬台国が九州にあったにしろ、日本半国を支配していたとは呼べないような気がするので。

何が言いたいかといいますと、江戸時代のような廻船による商品経済が整うまでは、関西と関東は経済圏として一体化してるとは考え難く、
小さなサイズの経済圏が地域ごとにあったと想像した方が分かりやすいように思っていいます。
例えば、関東が凶作になったからといって、関西の米が関東に廻るということは、江戸時代以降の話です。
(例;大塩平八郎の乱)

律令時代の延喜式の、例えば陸奥国から40日かけて歩いて税を中央に納める、というようなことは、「自由交易」では起こったりするはずもなく、王朝による「貢納」と再分配という概念が不可欠です。
新石器時代の玉や黒曜石の「遠距離交易」は、人から人へ、村から村へ、とバケツリレー
で「威信財」を交換し続けることで成立していました。
それが王権や王朝が登場すると「貢納」に切り替わっていきます。
これが弥生〜律令時代までの趨勢です。

律令時代が変質すると、荘園制の時代に移行し、荘園からの収入が近畿の荘園領主のもとに入るように変わっていきます。
これも「貢納」なのですが、中国のように「強力な国家権力で庶民をねじ伏せる」というより、
高位の貴族・寺社の荘園領主が、下層身分の荘園の荘官(これが武士)に荘園の管理を任せてやることで、武士はせっせと荘園領主に仕え、荘園の全収入から荘園領主に納めた分を抜いた分を武士の収入にする、という方式になっていました。

鎌倉時代になると鎌倉に幕府が登場し、室町時代になると守護大名→戦国大名と成長して、荘園領主が落ちぶれてしまいますが、
戦国期以前〜鎌倉期というのは、一面では武士の時代でありながら、一面ではなお貴族の時代であるという、ひとつの荘園に武士と貴族の権利が重複するという、「職(しき)の大系」の時代であったといえます。
(職(しき)は荘園の権利のこと。)



#6478 
NF 2006/02/27 01:57
「あ、あれは…」「知っているのか斉藤道献?」

↑ってな感じの三国志話ですね。民明書房刊「中国故事から学ぶ夢占い」みたいな。
>太平記と三国志
義貞が夢の中で大蛇になって敵が驚いて逃げ去ったのを見て…というお話ですな。
詳細は記憶が曖昧だったのでネットで調べなおしてみました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~katakori/e02/e20s07.html
理屈が無茶だし夢と故事の関連が不明瞭だし、事実関係が間違ってるし…。
ま、語り物としてノリと勢いで色々付け加えたり物知りぶってみたりした結果こうなったんでしょうねえ。80年代ジャンプ漫画の原型を見たような気がしてしまった(笑)。
>北京と上海、関東と関西
日本における関東と関西、中国における河北と江南はそれぞれ昔から二大中心地ではあったと思います。ただ時代と共に日本では東が、中国では南が力を付けていく関係にあって。日本の場合、軍事的に東が優位の形で長期統一され徳川時代に関東の開発が促進された、近代にも国家の統一を優先したためそれが引き継がれた。近代後期に国家主導で管理経済が取られたため経済の中心も関東に移った、ということになるんでしょう。しかし、今の日本は政治も経済も関東に集中と言うのはあまりよろしくないなあ、と思います。中国は政治が北、経済が南となっているのを思うと…。ま、中枢の地位から追われた関西人の僻みと言われるとそれまでなんですが(苦笑)。
古代の中国中心都市は、江南が経済の中心となり、輸送路として大運河の存在価値が高まることによって運河沿岸が重視されるのに反比例して相対的に地位を低下させたという事でしょう。長安も記憶違いでなければ宋代にも名目上の首都の一つではあったらしいですが。
>若水様
僕は、世界史フラッシュを知ったのは割りに最近なんですよ。元々は「アフガン航空相撲」「ペンタごん」といったネタフラッシュばっかり追いかけてたもんで(汗)。それが何かの拍子に出会ったと言うわけで。と言うわけで今後とも宜しくお願いいたします。



#6477 
徹夜城(二日酔いがようやく治った管理人) 2006/02/27 00:51
都市も歴史とともに

>イレギュラー満タンさん
 いやいや、西安も洛陽も、今でも地方の中心都市としてかなりの大都会なのではあります。ただ、全国政治の中心地ではなくなったというだけのことで、日本のニュースに出てくる機会が少ないだけです。この点は日本の京都や奈良だって同じことでしょう。
 現在の首都である北京なんて中国政治の中心地になったのはずいぶん後のことになります。そりゃまぁ戦国時代からその地方の中心ではありましたし、劉備さんもその辺の出身だったりしたわけですが。
 北京を全国の「首都」としたのは一応モンゴル王朝である元が最初ということになりますね。その元を北に追った明は最初は南京に都を置きましたが(これも全国政権としては初めてになる)永楽帝が北京に都を移してしまい、その次の清までひきつがれます。で、その清を倒した中華民国は南京に首都を置きますが、それを倒した中華人民共和国は北京に都を置くと。単純化すると元以降って北京と南京の変わりばんこになってるような(笑)。

 上海のほうはもっと歴史が浅いですね。もちろん昔から規模は小さいですが県城自体は存在していて、明代には数百人程度の倭寇の攻撃を受けて陥落したりしていたもんです。当時の江南地方は蘇州・松江・杭州といったあたりが大都会で、上海なんて寒村…とまではいいませんが小さい町だったのです。それが大都会に発展するのは近代の開港以後で、これは我が国の横浜のパターンと似ています。

 かつての中国史の中心的舞台であった「中原」の相対的な地位低下、という傾向は唐宋ごろからぼちぼちと出てきていたようです。政治的中心地というのはどこの文明でもだいたい経済的に豊かだからそうなったと思うんですが、秦・漢帝国の中心地となった後では次第に環境が変わってきて生産力も落ちてきていたという見解もあります。
 隋・唐時代には経済力は中国南部のほうが増してきて、そのために大運河が作られたという経緯もあります。南宋時代にさらに開発が進んで経済の南部優位は決定的になり、明の勃興が南からおこって南京を都とするという説明もできるかと。
 以前も書いた気がしますが、こうした話はヨーロッパ史における「文明の中心地が周辺に移動していく」という説ともリンクします。日本史でも関東地方が政治経済の中心地になっていった過程をこれで説明しちゃえるかも…?


 ところでたまには三国志話で盛り上がるのもいいもんです(笑)。そのうち無理やり話をつなげて知る人ぞ知るネタ、「『太平記』における『三国志』」の話でもやりましょうかね。これなんか例の「アニメ三国志」級の話だったりするんですが(笑)。



#6476 
三国志ならどーにか話題をつなげられるイレギュラー満タン 2006/02/26 23:48
業βといえば

官渡の大戦以降、曹操の実質的な拠点となったようですが、なんで業βだったんでしょうか?
行政だったら許昌の方がやり易かったでしょうし、
勝手を知るという意味では陳留の方が良かっただろうし、
呉蜀を視点に入れるなら、長安か襄陽あたりを拠点にした方がいいのではないかって、
素人考えでは、そう思うんですが・・・
大体、あんな所が拠点だったらやりにくくてしょうがない!三国志]・・
あわわ、今の発言は無かった事に;;

さらに言うなら、この当時の州都が、現在の中国ではほとんどナリを潜めてしまっているのはどうしたことなんでしょうか?
西安・洛陽がどうしたこうしたなんてニュース聞きゃしないし、それに比べたら
北京・上海・香港の方が何倍もの知名度をもっているでしょう。
やはり、「諸行無常」ということなのでしょうか。



#6475 
若水 2006/02/26 23:29
差し出がましい指摘でした

>新参右衛門さん
申し訳ありません。

>朝倉関係は、これ以上の事
>書くのは控えます
それは寂しい。

>民本主義者さん NFさん
>世界史フラッシュのこと

結構こちらの方も見て下さっているのですね。
私は数にも入らぬ身ですが、
製作者の端くれとして日頃のご閲覧に感謝いたします。

http://zyakusui.web.infoseek.co.jp/


#6474 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/26 20:41
同様のパターンとして

魏王・曹操の本拠地、業βがあります(笑)



#6473 
孟きょう 2006/02/26 14:25
いや〜


>巫俊様
 そうです、ありがとうございます(笑)。あの武将、大好きなんですよ(笑)。



#6472 
新参右衛門 2006/02/26 07:09
鏡でしたか

>若狭さん
指摘ありがとうございます、鏡の字だったんですか
わたしは「かげあき」と打ち込んで変換して適当な
字にしてまして、すいません。
わたしは朝倉景鏡のことを詳しく調べたわけではない
ので、全然くわしくないので朝倉関係は、これ以上の事
書くのは控えます、はい。
それほど有名でもなさそうな朝倉景鏡という人物を
どこで知ったかというと池上遼一さん作画の漫画
「信長」に出てきて強烈な印象だったんで覚えてたんで
あの漫画は描写がオ−バ−アクションで結構おもしろ
かったのですが、妙なところで設定が細かかったです。



#6471 
NF 2006/02/26 01:44
とりあえず色々言いたい放題

>十一郎様
ああ、やっぱり御存知でしたか。投稿後に知ったかぶりな口調で書いちゃったなあと少し気にしてはいましたが…。これがいわゆる「ネタにマジレスカコワルイ」という奴なんでしょうな。しかし、暦と言うのが宗教・政治の権威と密接に関わるものだと言うのがよく分かりますよね。

>信長と朝廷
僕も、基本的には新参右衛門様や巫俊様、流星くん様と同様に信長が上手く朝廷を利用していたと考えます。信長は、自身が成上者であるという自覚はあったでしょうから天下取りにあたって朝廷の権威は有用であったでしょうし。で、朝廷も信長は軍事的守護者として利用価値があるし、皇居造営など経済的な面でも有難味があったでしょうから基本的に相互依存関係だったといえると思います。ただ、自らを第六天魔王と名乗っていたことから、朝廷を凌いでやろうという気持ちは持っていた可能性は大いにあります。「太平記」にも出てくる話なのですが、天照大神は仏敵である第六天魔王と契約して守られたため、日本は仏国でなく神国なのだという考えが14世紀から見られるようになったようで。皇室の祖先である天照大神の上に立つ第六天魔王を名乗ることで、名実共にNo.1を志向することを仄めかしたと考えられなくもありません。そういったことも考えると、晩年には朝廷との摩擦もありえたとは思うのですが、言うほど深刻な対立だったかは疑問。朝廷も自らの権威を利用する実力者との付き合いは慣れていたでしょうし…。
信長の荘園などへの接し方…。新参右衛門様の仰った越前の興福寺荘園の話を見ている限り、表立っては一応伝統権威の顔を立てているけれど実質的には上手く骨抜きにして自分の手中に収めていく、そんな感じを受けます。

>巫俊様
始めまして。いきなりレベルの高い書き込みをされる方がこられて、大変勉強になります。宜しくお願い申し上げます。信長ですが、個人的には変革者と言うよりも(南北朝に始まり戦国で推進される傾向の)「完成者その1」という気がします(当然、その2・その3がいるわけで)。信長のやってきたことは、多かれ少なかれ他の戦国武将たちも行っていたわけですが、畿内を押さえてより徹底的に広い範囲で行うようになった、そういうことになると思います。

>孟きょう様
劉備は、十分に大物だと言っていいと僕も思いますよ。一流浪軍団の長に過ぎなかった時代に曹操から「袁紹よりも君の方が恐ろしい」と言われているし、何よりあの曹操を相手にしてついに彼の生存中は決定的な勝利を許さなかっただけでも十分評価に値するでしょう。曹操のような政治史・軍事史・文化史のいずれにも巨大な足跡を残した人物(中国史全体でもそれほどはいないのでは)にライバルと認定され、実際にある程度張り合えたのですから、曹操に及ばないにしても十分に巨人だと思います。因みに、三国志で政治・軍事・文化のどれにも足跡を残した人物としては曹丕(軍事が微妙ですが)と諸葛亮(これも軍事が微妙)でしょうかねえ…。

>イレギュラー満タン様
お褒めに預かり、面映いです。実は、孫皓に関しては後輩の受け売りなんですけどね(笑)。また、何かネタがあればぜひお願いします。

>民本主義者様
世界史フラッシュ…。確かにレベル高い作品が多いですよね。僕自身は「カナル・グランデ」「内戦」「進めデリーへ」とかが好みですが、一番のお気に入りは「米国皇帝」だったりします。あ、ネタとして「新党誕生」も捨てがたい(笑)。



#6470 
十一郎 2006/02/26 00:12
どうもどうも

色々教えていただいたのに、書き込みが遅れてすみませんでした。
元の話題であった下克上と暦の関係は、コメンテーターの拡大解釈と考えるべきですか。

>織田信長
さまざまな方に教えていただいて感謝します。前回突っ込んだ文春の該当部分は間違っていたとは言い切れないようですね。
そして「軽視していた」という自分の解釈の方が、むしろ誤りらしいかも、と。
該当部分をコメントしていた人に、ここで謝っておきます。

>バサラ大名
これまで続いていた話とはあまり関係ありませんが、個人的に室町時代で物語を作る時、最も面白くなりうる素材だと思っています。アクション娯楽として考えると敵味方関係がぐだぐだになりがちな室町の中で、良くも悪くも一本筋が通っているのではないかな、と。昔から、痛快なキャラクターとして描写する事すら可能と思っているのですが・・・
もちろん、たとえば一般的に人気で、自分も普通に好きな楠木正成等も筋が通っている方でしょうが・・・しかし、謎の出自から中盤の活躍、中間管理職の悲哀すら感じる不本意な最期まで、フィクション的ヒーローとして出来過ぎ。その割りに活躍期間が短く定まりすぎていて、あまり色々な妄想がしにくい(義経のようにモンゴルまで逃げたなんてヨタも無理)。しかも高名ゆえに何度もネタにされていて扱いにくいですし。



#6469 
民本主義者 2006/02/25 23:34
イレギュラー満タン様へ

劉禅に関しては、こんなフラッシュがあります。「なるほどこういう見方があったか!」と思っていただけるのでは?
http://web.archive.org/web/20030409134630/big.freett.com/simenawa21/LiuShanVer2.swf
興味を持たれたら、こちらの、2ちゃんねる・世界史板・フラッシュ スレへそうぞ。
(力作ぞろいのため、睡眠不足になるおそれがあります。自己責任でどうぞ)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1140349005/l50



#6468 
イレギュラー満タン 2006/02/25 23:23
ありがとうございます〜♪

>景虎様
ご返答ありがとうございます。早速、近所のレンタル屋で調べてみます。

>NF様
ただの思いつきの「劉禅・孫皓名君説」に、ここまで具体的に色をつけていただいて恐れ入ります。
本当はもっと処理していただきたい核弾頭があるのですが、それはまたの機会に・・・;;



#6467 
若狭にして若水 2006/02/25 23:00


最近若水のハンドル使ってないしなあ。
失礼しました。

あと
×郷土史か→郷土史家

またやってしまった(笑)


#6466 
若狭 2006/02/25 22:44
若狭の歴史なら郷土史かより網野さん

お久しぶりです。

>新参右衛門さん
細かい話で恐縮ですが、義景に自身を強要したのは同名衆の筆頭朝倉景鏡です。

以前もここで紹介しましたが、朝倉氏についてはこちらのサイトが詳しいのでよろしければご参考までに。
http://okhome.hp.infoseek.co.jp/


相変らずの遅いレスで申し訳ありませんが徹夜城さんが話題にされた網野さんの「蒙古襲来」について。
私もその本を呼んだことがあるのですが、
以前は網野さんの論ずるところの、。
代々先祖から受け継いだ田畑を持っている農民などというのはせいぜい江戸時代からの話で、
中世の農村では農民は多くの場合耕作する土地への権利をなんら持たず、
社会や自然増強に応じて流動的に活動していた農民の姿は、中々イメージしにくいものでした。

しかし最近実生活の関係で、若狭地方の明治時代からの地籍図や土地台帳を見る機会に恵まれ分かったことがあります。
現在若狭地方を流れる河川は、明治どころかたった3,40年前でその流れが全く変わっているのです。
現在はコンクリートで護岸され、1ミリも動くことは無い各河川は、
以前はとんでもない蛇行した流れをしており、しかも頻繁に流れを変えていました。

明治でさえこんな状況ですから、鎌倉時代の農村は押して知るべしかと。
恐らく現在より遥かに「田畑の寿命」は短かったのはないかと。。
田畑はとても安定した不動産にはならなかったのでしょうねえ・

社会的、自然的要因で農民が簡単に村を捨て、新しい耕作地を提供してくれる場所に流れていく、
網野さんの説明される中世の農民の姿が少し理解できた気がします。


http://zyakusui.web.infoseek.co.jp/


#6465 
流星くん 2006/02/25 12:07
天皇と天下布武

>信長は天皇に屈服した
信長は、結構、弱音をみせかけて人を欺くのが
上手かったという話ですから、上杉謙信や武田信玄へ
宛てた手紙も、すんごい、へりくだった感じで
極力、刺激しないようつとめていたみたいですね。
信長が朝廷と上手くやっていかなかったら、たぶん
信長勢力は包囲されてヤラれていた、と思いますよ。
朝廷は中立した勢力として信長陣営と反信長陣営の
停戦の仲立ちを何度もやった、というのは聞いたこと
あります、こういうことは朝廷が信長と距離を
置きつつも関係は決して悪くはなかったことを
物語るのじゃないですかね?ところで
本能寺の変の異説のなかには朝廷黒幕説も聞きますが
たしか、明智勢は二条城も包囲していて信長の
息子・信忠の申し出で、やっと、朝廷の人間の避難を
してから決戦するのを明智勢は了承した、という
話でしたね。




#6464 
徹夜城(ビデオデッキが壊れてどうしようか考えてる管理人) 2006/02/25 11:09
道誉と正儀、元号とか

>道誉と正儀
 佐々木道誉と楠木正儀の一件、僕も大好きなエピソードでしてね〜。これが書きたいために「室町太平記」を書いたというのは過言ですが(笑)動機の4分の1ぐらいはこのエピソードにあった気もします。
 大河「太平記」で佐々木道誉を「快(怪)演」した陣内孝則さんもキャラ作りの参考にこのエピソードを聞かされて気に入っていたらしく、何年か前のスタジオパーク出演時にこの話題をしていたそうで。もっともこのエピソードは尊氏死後のことなので大河ドラマでは描かれませんでしたが…その無念を「ムロタイ」で晴らしたわけです(笑)。
 NFさんもお書きのように、この話、古典「太平記」では道誉の策略にお人よしの正儀がまんまとひっかかった…という調子で書いているのですが、「太平記」作者ってバサラ連中には反感しか持っていなかったようですし、楠木正成・正行を持ち上げたあまり正儀には評価が辛い(のんびりした奴、とか書いてる)という傾向があるんですよね。僕はこの逸話、素直に読むと危機に際してもシャレっ気を忘れない道誉と、そのシャレっ気を受け止めて綺麗に返した正儀の、乱世の中にキラリと光る「粋(いき)」を感じるのであります。
 手前味噌…というより史実がそうなのでありますが、南北朝後半史のこのくだり、細川清氏の謀反〜南朝軍京都突入〜細川頼之VS細川清氏宿命の対決までの展開は、息もつかせぬ面白さだと思いますよ。


>元号
 巫俊さんがお書きの江戸時代の中国商人の間の「元号問題」は面白い話ですね。そちらまでは手が回ってなかったですが、商売がたきを攻撃する素材としてはうまく利用できたでしょうね。
 本来「元号」というやつは全世界の支配者(という建前)の中華皇帝が「時間」を支配するというやつでして、中国との冊封関係が出来た国は中国の元号と暦を授けられるという仕組みがあります。まぁこれも時代によって違いはあって、うるさく仕組みが整ったのは明以降じゃないかと思いますが…

 日本は飛鳥時代以来、独自の元号を持って公式には冊封は受けずに「小中華」をつくって対抗するという形をとって来ました。もっとも遣唐使なんかは建前と外交で使い分けをしていたフシもありますが。
 日本の元号史で面白くなるのはやはり南北朝時代。後醍醐天皇が挙兵して一時敗れた際に「元弘」から改元が行われましたが後醍醐復帰で元に戻り、その後の「建武」も足利尊氏の挙兵以後朝廷側が改元したのに尊氏側が「建武」を使い続ける。その後の南北朝分裂でさらにややこしくなり、観応の擾乱では尊氏が一時南朝に降伏して「正平」に統一したり、その後直冬党が第三の元号を使ったりしてさらに大混乱に(笑)。全国の武士たちはそのときそのとき属する勢力によって文書内の元号をコロコロ変える。「今年って何年だったっけ?」と文書を書きながら頭を抱える南北朝時代人たちの様子が頭に浮かんで楽しいです(笑)。
 とまぁ、こういう具合に日本でも中国のそれと同様、元号というのは時間を支配する「権威」そのものの象徴であり重要視されてるんですね。さらに言えば後醍醐は中国の後漢初の元号「建武」をそのまんま導入するという異例を行ってますし(意図するところは明白)、足利義満は同時期の明の「洪武」元号の「洪」の字を入れようとしきりに運動した(で、失敗した腹いせか「応永」元号が34年も続くことになっちゃった)…という具合に「中国的なもの」への強い意識も感じられます。どうもこういうあたりにも後醍醐と義満の共通性を感じてしまうんですな。


>信長と天皇
 これについてはいろいろ書いてる方がおられますが…義満の皇位簒奪説で有名な今谷明さんは信長についてはむしろ「天皇権威に屈服した(敗れた)」と低評価なんですよね。今谷さんによれば戦後歴史学界では信長の評価が高い傾向があるのでこの見解には批判が多かったらしいですが。


>文字化け
 トウ小平とか、唐家センとか、新聞サイトでも中国人・韓国人の表記では苦労してますよね。第二水準の文字は機種依存で出ないものがあったりするとか、いろいろあるようで…東アジア共通の漢字システムを作ってほしいものです。
 タウ.ミューさん、ご指摘ありがとうございます。このCGIもこのサイト開設以来使っているもので、長い付き合いなのですが、文字変換については今もよくわからんのです(汗)。古いCGIで使い勝手は必ずしもよくありませんが「軽い」「監理がしやすい」「宣伝書き込みがまず来ない」というメリットはあります。第二水準漢字の文字化けについては報道サイトなどでもああいう処理をしている以上、しょうがないかな…と思っております。



#6462 
タウ.ミュー 2006/02/25 08:18
文字化けのことですが・・・

はじめまして、歴史は門外漢ながら楽しく拝見しております。

さて、お使いの伝言板のシステムがわかりませんので、具体的な解決策はわかりませんが、文字化けの件で、思うところがあります。

徹夜城さんのお書きになっているところでの文字化けは、
阿輩&#38622;弥  (以下すべて&は全角ですが、実際は半角)
と表示されていますが、この部分は、HTMLソースでは、
阿輩&amp;#38622;弥
になっています。これが本来HTMLソース上
阿輩&#38622;弥
である必要があります。ユニコードの文字を掲示板入力のプログラムが、変換する際に、プログラムミスでうまくいかないのだろうと考えられます。
ユニコードを文字コードに変換した後、さらに&を&amp;に変換しているのが、原因だと思われます。

処理の順序を変更すれば、うまくいくのではないでしょうか?

歴史に関する話題でなくてごめんなさい。




#6461 
新参右衛門 2006/02/25 06:42
越前・朝倉の最期は

世間では信長が朝倉義景を直接、倒した、という感じが
なじんでる気がします、たぶん、義景と浅井長政の首の
はく製を酒宴に並べた、なんて逸話があるからだと思う
けど、わたしが聞いた話しでは、朝倉義景の最期は、
織田の軍勢を越前の奥地で迎撃しようと手勢を率いて
ある寺に本陣を構えた朝倉義景を同族の朝倉景暁が
武装蜂起して寺を包囲、義景は朝倉景暁に切腹を強要
されて自害した、ということです。
信長は、この朝倉景暁を越前の暫定体制の代表に認め
撤退したが、朝倉景暁は一向一揆を弾圧したため
戦争となり朝倉景暁は倒された、その後、織田が
本格的に越前一向一揆を掃討していったみたいで。

信長が越前征伐の陣頭指揮をとっていた時期に
京都諸司代へ送った手紙の中に一揆掃討戦の
生々しい記述があるのが前回引用しました
「府中は一円死骸で〜」は、どこそこでは数百人
殺した、あそこでは千人殺した〜と淡々とした
文ながら殺した人数を明らかにしてる凄惨な
文ですね。
言い伝えでは興福寺?の越前荘園の住職は信長から
荘園を一揆勢から奪回、返したいので引き渡しのため
訪れては?との申し出により戦の傷跡生々しい越前へ
参上、住職は恐る恐る信長に面会したが信長は意外と
愛想が良く対応、だが、織田が荘園の住人で一揆に
加担した者は皆殺しにしていたので荘園の管理は
困難で織田の息の掛かった代官に荘園を委任する
しかなかったみたいです。




#6460 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/25 05:07
信長って

変革者って言葉の意味するところは複雑でして、小泉宰相のように

変えたような・・・
何も変わってないような・・・

という印象のある宰相もいます。
さて、提起するのは小泉宰相のことではなく、小泉宰相が尊敬しているという、織田宰相信長公のことです。
(信長は参議になってるはずなので、宰相と呼んでいいはず、、、)
信長は正二位右大臣右近衛大将の在職中に本能寺の変を受けたようです。
信長は大正時代に太政大臣を追贈されたとココ(↓)に書いてあったり。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%A4%A7%E8%87%A3
ウィキぺディア「太政大臣」

信長公は変革者なのかと答えを問うと、人によって肯定・否定分かれるところかと思います。
私自身も信長を変革者と呼ぶことに無条件で賛成はしないようにしてます。
それでは質問を変えます。
信長は戦国期の制度を変えたのでしょうか?
変革者の条件の大前提は「制度を変える」ということだったように思います。
制度の仕組みを少しも変えない変革者というのも変ですし、
信長の時期に変わってしまったことを題材にすると、信長が何を変えた(変えてしまった)か分かるような気がします。

>越前
私、越前朝倉氏と一乗谷が好きなもので、そんな手紙を引用して頂けると何やらうれしいです。
その興福寺?が代官を派遣するということになるのでしょうか。



#6459 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/25 00:51
張合β

ですね(笑)



#6458 
孟きょう 2006/02/25 00:13


あ〜、やっぱり文字化けしちゃうんですね・・。何というか、張コウというか、表現しづらいな・・。ご容赦下さい。



#6457 
孟きょう 2006/02/25 00:06
金曜ロードショー


 >徹夜城様。NF様。景虎様。イレギュラー満点様。
 そうなんですよね、返す言葉もないというか(笑)・・正にそのとうりで。しかし私も皆様とまったく同じで、この作品が大金かけてあの時代つくられた理由がさっぱりわからないんですよね。う〜ん。
 私は横山三国志を見るのは少し後でして、先にこの作品を見てしまっているんですよ。当時の金曜ロードショーの最後の解説者のコメントの際、背後に並べられた横山三国志が映像に写っていまして「なるほど、これがその原作だな」と思い早速購読してみたんですね。ところが10巻を過ぎ11巻を過ぎ、行けども行けどもアニメーション版に雰囲気が似たシーンやエッセンスは出てこない(笑)「なんじゃこりゃ!?」と驚愕した記憶があります(あ、曹操が夜空を見上げ「俺もあの星の一つだ」と言うシーンはあったな)。記憶ついでだと、放送時流されたCMはマンション、ユーミンが出るカセットか何かのやつ、柳生博氏が出てくる眼鏡のCM、コン・リーによく似た女性が出てくるCM等だったような記憶がありますね。
 「2」のエンディング曲、本当に良かったですよね(でもカラオケやアルバムでもなかなか見つからないんだよなー(泣))。1の中村氏の曲も良かったんですけど、2は曲が孔明を中心とするエンディングの画面にモロにマッチしていまして。私自身、架空物語であるにもかかわらず、軟弱にも一度うすら涙を浮かべてしまいまして(笑)。私の祖父も秋風五丈原とか詠うのが少し好きだったらしく・・その・・孫の代に極端に矮小化されたと受け止めていただければと(笑)。でも2のエンディング演出はメンタル面でなんとなく、そこに「愛」はありそう(笑)。
>劉備ばなし
 何かコテコテな話題ですが、いやー私としては彼の配下の軍が定軍山で夏候淵を討ち取った事それ自体でもうそれで十分高評価ですよ(笑)。同時代に曹操なんて化け物が産まれ落ちてしまった以上、どうにもならんというか(横山先生の定軍山では夏候淵を討ち取った大大金星の感動が伝わってこないんだよなァ)・・。
 私も幼少時より人並みに劉備が大好きだったんですが(今は曹操派ですが)、陳寿を含めて彼の語録は結構カッコ良いのが多いんですよね。矢の中での法正との談話や夏候淵を仕留め、張&#37059;を逃がした際「一番の大物を逃がした」とか、けっこう口で言うとこ言うとるやんて感じで・・どこが凄いってあの広い大陸を転戦しまくった点と長年の経験からくる動物的カンと言いましょう(曹丕にこきおろされたとしても)か。戦争関連の記述になると、とたんに「こいつ、何げに抜け目ない奴だな」という、したたかなシーンが途切れ途切れに出てくるんですよね。



#6456 
新参右衛門 2006/02/24 22:17
信長が荘園を安堵した例が

有名な「府中は死骸で一円空きどころ無く候、見せたく候」と
(意味は、越前府中は一向一揆の戦死体だらけで空き地も無い
ほどで、見せたいくらいの絶景だ)
京都諸司代・村井貞勝に書いた手紙の文句の舞台、越前の
一向一揆を大粛清して失地回復した信長は、越前の荘園を
元の持ち主・興福寺?だったかへ返却したそうです。
むろん、一向一揆よりは奈良の由緒ある寺社が管理した方が
自分側に都合が良かろう、という信長の考えでしょうが
この例は、信長が既成権力と権益に対して、どう考え
どうするつもりだったかを少し示していた事象だった
のではないかと思います。




#6455 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/24 20:03
新参右衛門さん

私も信長が朝廷の解体をもくろんでいたと考えているわけではないですし、
戦前の日本国は信長を勤皇の人として扱っていたような気がします。
さっき例に挙がっていた下克上が何やらという話は、信長の暦の改正を拡大解釈していって成立してしまった風聞なんじゃないかと思いましたので。
信長が朝廷に圧力を加えたり、あるいは朝廷の貴族たちと複雑な関係にあったらしいことは、本能寺の変に朝廷が関係してると考える人の説明するところになっていますよね。

普通に考えると、本能寺の変はともかくとしまして、近畿圏を自己の配下の司令官たちに分割統治させる信長という存在は、鎌倉・室町時代から変容しつつも存続してきた守護・地頭の制度や、朝廷・貴族・寺社といった勢力に、「更なる変容」を迫ったもののはずです。
そこで朝廷・貴族たちの選択肢としては、
1,信長勢力を受け容れて自己の勢力回復を図る
2,信長に抵抗する構えをとるか、それができなければ信長から距離を置いたスタンスを取る
といった両極か、せの折衷かの選択ということになると考えるのですが、どうでしょうか?

それと守護・地頭っていつまでありましたっけ?
地頭については信長がとどめをさしたとは限らないかもしれないです。



#6454 
新参右衛門 2006/02/24 18:28
信長と天皇

信長は朝廷を うまく操作したのはいえるかな、と思います。
何に利用したかというと、和平の仲介役として、で
元亀の争乱の冬季、浅井と朝倉の軍勢は比叡山に陣取り、
近畿南部では一向一揆と三好の蜂起があり織田は南北に
挟みうちの状態、信長は絶対絶命でした、この危機を
信長は朝廷に停戦の仲介役を頼み、朝倉は停戦を飲んで
本国へ帰還しました、朝倉勢が兵糧に不安があったのも
あったのですが、信長は、こういう、停戦の調停に
何回か朝廷を操作して時間稼ぎをよくやったようで。
こういう利用価値が朝廷にあったのなら、私は
信長が朝廷を排除しようとしていた、という説には
懐疑的です。




#6453 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/24 16:55
・・・

交易許可証をもらってることが、日本の元号を奉じることになる理由を書いてなかった・・・
忘れてしまうんですよ、説明するの。
交易許可証って呼んでるけど、割符でしたでしょうか?
半分に割らないタイプの許可証は割符ではないような・・・
その許可証の発行年を日本の元号で書いてるので、中国で問題になるそうです。
正朔を奉じる、とも言いますよね。
暦は帝権の象徴のようなものだと理解すると、説明しやすいですね。

帝権といえば、大学生向けの近世中国史の概説書『中国の歴史【下】−近世・近現代』(愛宕元・森田憲司編、昭和堂、2005)に、
五代十国時代(10世紀)を概観して(8ページ)、
―中国の伝統的政体すなわち帝政を廃棄することなく、誰もが皇帝になることをめざしてしのぎを削った―
って書かれてるのがすごく新鮮に感じられまして、
中国史の分野でも「帝政」というローマ風の名前が普及してることと、それを素直に受容できる自分に驚いております。
管理人さんは明清時代の海域世界に関心があられるそうでありますか。
(新刊なんで歴史関係の充実した本屋さんにあったりします。白色の表紙です)



#6452 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/24 14:17
誤字・・

×年号
○元号
で統一して読んでください(苦笑)



#6451 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/24 14:16
十一郎さん

>天皇、暦、取って代わる
近畿に勢力圏をつくった織田信長は、うるう月の置き方を理由に朝廷の使う暦をやめさせて三島大社の暦を使ったそうですよ。
暦は元号なんかとも密接に結びついていまして、
年号は王者の証のような意味があると思っていいと思います。
明清時代の中国商人が、江戸幕府の支給した交易許可証を巡って争うということがありまして、
福建商人と江蘇や浙江の商人の抗争だったと記憶してますが、
貴金属の国外流出を懸念した江戸幕府が交易許可証の発行枚数を限定したことから、
交易許可証を巡っての中国商人間の抗争に発展し、
交易許可証をもらいそこねた商人が、「あの日本と交易してる商人は日本の元号を奉じています、これは大逆です」と中傷すると、中国王朝を巻き込んで闘争がヒートアップするということがあったそうです。



#6450 
十一郎 2006/02/24 08:00
暴君話にも入りたいのですが、ちょっと時間なくて

用事で古本屋に行ったのでバックナンバー確認してみました。さすがにこのネタのためだけには買わず。
前回の書き込みでは確実な記憶では無かったので書き込みませんでしたが、他の部分にも色々と歴史に関するボケが並んでいます。

例えば明石散人コメントに繋がる、歴史上で天皇がいかに敬われていたかという話。
征夷大将軍は天皇の権威で意味があったという話をして、次に織田信長も天皇には敬意を払っていたという某教授の発言が引かれていました。
織田信長って、正直な話わざわざ倒しはせずとも軽視していたとしか思えない。だいたい天皇の権威による征夷大将軍(と直前で記事自体が語ったばかり)を利用して捨てた男なのに(笑)。

さらには地の文章で小泉首相の現状を評し、喩えたのが「驕れる平家」。
ええと、少なくとも織田信長よりは天皇の権威を重視していたんでは(苦笑)。同時代で比べても、三種の神器を代替物で済ませたりした源氏がいるのに・・・
そもそも平家は思いきり男系皇統であり、むしろ旧宮家より天皇家との血縁関係が濃い(笑)。
まだ高師直の方が比喩として正確なのではないでしょうか(読者の何%が判るかは責任持てませんが)。

>NFさん
たしかに女系反対者を保守・右派と一くくりにするのは間違いですね。話題の中心にいる1人、小泉首相も基本的には保守派に入るでしょうし。
逆に革新系・左派Webサイトに行くと、あまり話題になってなかったりして。神武天皇のY遺伝子がどうのこうのという話は時々お笑いネタにしつつも「どっちでもいい」という感触で。

最近はさすがに自粛しているようですが、「神武天皇のY遺伝子」なんて不敬の最たるものですよね。生物学でとらえるなんて、数式で天皇制度を考えるよりよほどどうかと。
だいたい、記事で問題にされている数式というのは、名も明かされてない一委員のコメントで委員長にそういうフシが感じられるというだけの話なんですから(笑)。

>2665年
一応、皇紀に神話的な根拠があるとは知っているのです。以前に仮想戦記小説を自作した時、調べた事もありますから(小説は恥ずかしい出来でしたが)。
前回そこに突っ込んだのは、近年決まったような暦を元にして、そこから“逆方向”に長期間の伝統があるという主張を導き出したのがウケてしまったからです。

逆に、ありえない古さに関しては、もともと宗教の一種だからこちらに押しつけてこなければ良いかな、と。
たとえば西暦(キリスト暦)も事情は似たようなもので、キリストの誕生年は紀元前4〜6年という説もあります。さらに、ノストラダムス関連の話で知ったのですが、西暦の使用が広がった際に数年ずれて伝わった国もあるとか。だから「1999年は数年前に過ぎていた」なんて話が『TVタックル超常現象バトル』で放送された事もありました(笑)。

>徹夜城さん
自分は左派なので、現天皇家にはさほど敬意を持っていないのですが、懐妊自体は人間の行いとしてめでたい事だな、と思っていました。
しかし現在の一部狂乱(男女産み別けなんて事を堂々と雑誌に書いたり)を見て、女児が産まれた時にどうなるのか、成長してからどう思うのか、と思う事もありまして。逆に、女児が産まれて欲しいと考えている人もいるだろうなとも考えたり。
とりあえずは健やかな子が育てばよいですね、と後継がどうのといった話題は切り分けて考える事にしています。・・・とはいえ、それに関わる女系反対論者の言動には相変わらず笑ってしまう事が多いのですが(もちろん正しいと感じる発言も時々あります)。

>下剋上ってのは倒すことじゃなくて下の身分のものが上のものを倒してのしあがっていく、ってこってすよね。天皇家にとってかわるという意味で使ったつもりなんだろうけど…

明石散人氏によれば、「下克上」とは「暦が変わる」すなわち「天皇を討つ」という意味であったそうで。
堂々と書いていたので、何らかの根拠もあるとは思うのですが、ネットを軽く検索した程度ではよくわかりませんでした。
ちなみに前回書いた記憶通り「天皇を討った日本人は歴史上一人もいない」とはっきりコメントしていました(笑)。



#6449 
りん子 2006/02/24 01:17
はや・・・!

>NFさま
さっそくのお返事ありがとうございました!
そういえば、思い出しました。佐々木道誉のエピソード。その当時退去する時には屋敷に火をかけて、というのが常識だったという感じですね。なんか、20年ローンかけてマイホームを買う現代の感覚で考えられないことですが。いやあ、NFさまの考察、とても参考になりました。ほんとにありがとうございます。最近、応仁の乱辺りがとても面白くって。またへんな疑問が出てきたらよろしくお願いします。
それにしても前後の会話をぶった切る書き込み、お邪魔しました。




#6448 
景虎 2006/02/24 00:29
その歌は

>イレギュラー満タンさん
三国志2の主題歌は、杉山清貴の『miss.dreamer』ですね。
私もこの歌は好きです。エンディングが、孔明の回想シーンというのもよかったです。

三国志ではなく、普通のアニメとして観れば、よく出来ていたんでしょうね。
画は綺麗でも、無茶苦茶な動きをする最近のアニメと違って、ちゃんと動かしてましたし、大量の人馬を止め画でごまかさずに動かしていたのは、大したものです。
でも三国志としては、『オイオイちょっとまて』と言いたくなるあたりが、伝説となっている所以なんでしょうね。

>酷い人、素晴しい人
何だか暴君が目立ちますが、善い人より悪い人の方が、歴史に残りやすいのかも?しれませんね。



#6447 
NF 2006/02/23 23:48
ファイアー!って何か違う

>りん子様
はじめまして。とりあえず、僕も突っ込んで調べたわけではないのですが思いつく範囲で述べてみます。僕の守備範囲の時代ですし、避けるわけにはいかんでしょうから(笑)。ただまあ、しっかりと裏を取ったわけではないので話半分に読んでいただければ。
一番考えられるのは、後から乗り込んでくる敵を利するのを避けるということでしょう。蓄えた食糧・武器や財宝といった物資をそのまま敵に明け渡すくらいなら持っていけない文はそういう形で確実に処分する。また、敵に明け渡せないものとしては機密文書などもあったでしょうね。あと、14世紀以降の戦いの性格を考えると、乗り込んできた敵兵によって結局は狼藉の末に焼き払われるのが殆どと思われるので、そのくらいなら自分たちでということでしょう。
もう一つは、日本と西洋の違いと言うことになるのですが、建造物が石ではなく木造であるため比較的短期間で立てられるが燃えたり地震があったりで壊れやすい。一定の割合で屋敷が失われることへの覚悟は常時持っていたでしょうから、割合に退去の際に火をつけることに抵抗がなかったのではないでしょうか。
こういった話題でふと思い出すのは何度目かの南朝軍京都占領の際の佐々木道誉の話。細川清氏らの手によって南朝軍が京に侵入した際、殆どの武将は屋敷に火をかけたのに対し道誉は屋敷を飾り立てて侵入者のための饗応の準備をした上で退去していました。南朝軍の楠木正儀はこれをみて感嘆し、退去する際には彼もまたその屋敷に火をかけず家宝の鎧と太刀を置いていく。京童は「楠木は佐々木に謀られた」と嘲弄したそうですが、楠木・佐々木は両軍の和平推進派の重鎮同士。敵味方を超えた感情の交流があっても不思議はないと個人的には思います。…そういえば、徹夜城様の「室町太平記」でも交流説になってますね(21回)。とりあえず、思いつくままに書いてみましたが、御参考になれば幸いです。




#6446 
NF 2006/02/23 23:28
南北朝やら三国志やら、好きな話は長くなる

>マナ様
北条氏の場合、皇位継承を両統迭立にしたのは、積極的に介入しようとしたというより朝廷内の争いの調停(別に洒落じゃありません)を持ち込まれたからということのようです。特に持明院統の後深草院が自らの系統に皇位がめぐって来るため幕府に支援を仰いだ節がある。その後、色々あって幕府の裁定が恒例になった(実質的な力関係は幕府>>朝廷でしたしね)。幕府としてはどちらの顔も立つようにということだったようですね。で、後醍醐天皇なんですが、実は後宇多天皇の次男に当たり、父から見ても早世した後二条天皇の皇子が成人するまでのピンチヒッターにすぎなかった。幕府は当然、これまでの路線を継承するであろうから大覚寺統も後二条系統を嫡流と扱う、となると後醍醐の子孫は「なかなか」どころか永久に皇位につけなくなるわけです(後宇多はそう遺言しています)。後醍醐が自分の子を皇位につけるためには幕府を倒し統一的な権力を手に入れるしかなかった(朝廷が分裂し幕府の介入を受けることで更に弱体化を進めていることに危機感を抱いていたという一面もあったと思われます)。というわけで、両統迭立に関しては、北条氏は巻き込まれた感が結構強いのです。
暴君…。後醍醐天皇も結構いい素質(笑)はもってそうな気がします。
>イレギュラー満タン様
とりあえず、お察ししますと申し上げます。全て知った後で見ると結構割り切って楽しめるかもしれませんよ。主題歌…、「♪夢の国を〜、胸に抱いて〜」ってやつでしたっけ。
劉禅は…、取り立てて業績もない代わりに、これといった悪行や悪政・失政もありませんでした。酒色に溺れたとは言われるものの、後世の暴君と言われる皇帝たちに比べると常識的な範囲に治まっている気がします(少なくとも正気とは思えないようなエピソードはない)。ま、「可もなく不可もなく」な凡君というのが彼の妥当な評価ではないかと思います。一般的に先代の寵臣、中でも一世代前のうるさ型の臣下や強い権力を与えられた家臣は煙たがられ時には追放されるのが普通です(魏の呉起、燕の楽毅、醍醐朝の菅原道真など)が、劉禅はともかくも父の代からの宰相である孔明への信任は最後までゆるがせなかった、これは評価していいことではないでしょうか。
孫皓…。残虐行為が伝えられていたり、滅亡時に進んで戦おうとするものが殆どいなかった(一方で蜀の滅亡時には前線の兵士たちが無念の余り石に斬り付けて剣を折った話があるのは有名ですね)りといったマイナス面が結構目立つんですよね、この人は。ただ、好意的に見るとすれば、蜀が滅亡して長江上流が敵になるという危機的状況において強い君主が求められていた中で先代の重臣によって擁立された。しかし彼は重臣たちの傀儡に甘んじるのをよしとせず彼等を粛清。そして傍流である彼は血縁者の援助が期待できず低い身分の寵臣を取り立てることで専制体制を固めようとする。また配下の有力豪族に圧迫を加えることで彼等を制御しようとしたり、魏の体制交代に伴う混乱に乗じて軍事的成果を挙げようと試みたり(不発に終わりましたが)していたとみることもできるようです。結局、傍流で血縁者に有力者のいないにもかかわらず政治的状況により正統性の薄い形で即位したために権威に不安があり、何とか権威を高めようとあがいた結果なのかもしれませんな。しかし、酒乱は弁護し切れん…。



#6445 
りん子 2006/02/23 22:46
はじめまして

こんばんわ。はじめて書き込みさせていただきます。
さっそくなんですがいままでの討論をよませていただいて、いろいろ物知りな方達が多
いなあと見込みまして、質問をしたいのですがよろしいでしょうか。
歴史の小説やら資料やらを読んでていつも疑問に思っているのですが、よく武士なんかが多いですけど、今まで住んでいた所から引き払う時に家屋敷に自ら火を放ってるんですよね。例として、古くは平家の都落ちの際、あるいは室町の三代将軍義満の初期の管領、細川頼之が失脚して守護として領していた四国に退転した時(康暦の政変)。あるいは応永34(1427)赤松満祐が相続問題で時の将軍足利義持に不満を持って、播磨に下国した時。ちなみにこの方、嘉吉の乱で義教を殺害した後同じく播磨に下国するのですが、また屋敷に火をかけてます。最後に、応仁の乱で畠山政長が管領を罷免され進退窮まり、上御霊神社に出陣してますが、この時自邸を焼き払ってます。あと、他の時代にもあると思うのですが、今までは読み流してました。最近たびたびこういった記述に出くわすことがあって、改めてこのことに定説なんかがあるのかなと、気になった次第です。自身、浅学で調べが甘いせいかこれといった理由がよく分かりません。
もしご存知の方がいらしたら、教えて頂きたいなと。ずうずうしいですが、よろしくお願いいたします。




#6444 
イレギュラー満タン 2006/02/23 20:18
アレに刷り込まれた僕はトラウマどころじゃあ(号泣)

>金曜ロードショー三国志
僕はアレで三国志という物語を初めて知ったものですから、「張飛は(曹操が直接手を下したんじゃないにしても)魏と戦って死んだ」と、それはそれは長い間カン違いしておりましたとさ(泣)さらに「部下に殺された」という事実を知ったときには、そのギャップがまた・・・(泣)
まぁ内容に大いに問題アリとは言え、僕はアレのお陰で三国志に興味を持つことができたのだから、それはそれで良い思い出です。
それよりも、「2」の時の主題歌が秀逸!すごく切なくて、これからの蜀の行方を憂うような、いい曲でした。題名は・・・・知らない。
「知らんのやったら言うなーーー!!」ゴメンなさい、ご随意にお調べ下さいf><;;

>歴史は勝者が作る
あぁなるほど、そう考えれば、歴史の見方がまた変わってきますね。
劉禅も孫皓も「酒色に溺れた暗君」と伝えられているけれど、ひょっとしたら意外に名君だったのかも・・この辺りに歴史物語の解釈の変化の余地があるのかな。





#6443 
ブッチャ−3世 2006/02/23 18:38
開祖はノウタッチ

>ヨ−ロッパ、ロシアではジンギスカン=悪
これは何か誤解されてますよね、ジンギスカンは
モンゴルが西洋へ攻め始めるまえに亡くなってるはずで
細かくみるならバトゥが悪の大親玉?
バトゥという人も評価が両極端ですよね、戦術の天才
という人もいれば、征服地域で虐殺をやった冷血漢て
話もあるし。




#6442 
マナ 2006/02/23 09:51
鎌倉の北条氏

天皇家が南北朝の二系統に分裂してしばらく両朝相互に皇位継承することを提唱したのは、鎌倉の北条氏ですよね。これでは、息子がなかなか皇位に就けないと幕府を倒したのが後醍醐天皇だったわけで。最近気にかかることが、皇位継承問題なので北条氏も気になる存在に思えてきたり。この辺足利尊氏も絡んでくるので鎌倉〜室町にかけて興味が尽きないところ。
やっぱり日本人で暴君は思い浮かばないな、織田信長ぐらいしか・・・



#6441 
徹夜城(録画だめした映画を次々見ている管理人) 2006/02/22 23:29
チンギスハーン役者の歴史がまた1ページ…

 反町隆史に決まったそうで。織田信長もやりましたが、ある意味似たところがあるかも。
 過去にはジョン=ウェイン(白人)、オマー=シャリフ(アラブ人)、加藤剛(日本人)などなどが演じた役。他にも中国で数本作られてますね(NHK大河「時宗」でクビライやった人も演じたはず)。本場モンゴルではとりあえずアグワンツェレーギン=エンフタイワン主演の1作が。まぁ見比べると、やっぱり現地の人で作るのがベストなんだろうな。
 
 こうした映画群はいずれもチンギスハーン=英雄として高く評価して扱うわけですが、ロシアやヨーロッパでは依然としてジンギスカン=モンゴルは巨悪の最たるもの、というイメージが強いようです。いまチャーチルの「第二次世界大戦史」を読んでるんですが、ヒトラーが出てくるくだりでジンギスカンを引き合いにしたりしてましたし。

 いま話題の暴君・名君ばなしにつなげますが、暴君と名君ってのも実は紙一重なんですよねぇ。信長や秀吉だってずいぶん暴君的な逸話を残しておりますし…いまNHK大河「黄金の日日」の総集編を見てますが、信長の虐殺ばなしが次から次へと出てきますね。


>三国志ばなし
 「金曜ロードショーアニメ三国志」ですが、怒るというよりも、「どうしてこんなギャグとしか思えない作品が大金かけて作られたんだ!?」という疑問がまずあるんですよね。三国志ファンにはもう冗談としか思えない内容で…(笑)。この内容で「横山光輝三国志」が原作であると看板に銘打たれていたんだから。
 一個のアニメ作品として見れば出来は悪くは無いでしょう。続編も作られたところを見ると好評ではあったようで。まぁ三国志ファンがネタとして楽しんだのかもしれませんが…

 劉備についてですが、ご先祖と言われる劉邦も「どうしてこういう人が」と思っちゃう人でした。三国演義における劉備は理想化されすぎてる嫌いもありますけど、よく読むと結構えげつない奴と思える描写もあったりします。
 そういえばNFさんもお書きのように、足利尊氏ってのもどこがどう有能なのかわかんない人なんですよね。僕も「太平記大全」でさんざ書きましたが、言動がいろいろとヘンで理解不能な人で…(笑)、でも人気は確かにあったようで、単に大盤振る舞いしただけではない魅力があったんだろうと思ってます。


>十一郎さん
 はじめまして〜よろしくおねがいします。
 週刊文春のその記事は見逃しましたが、そのブチ上げも紀子妃懐妊で空振りになっちゃった観もありますね。
 有識者会議のメンバーについてどうのこうの言ってる声はあちこちで目にしますが、ありゃもう結論が最初から決まった「儀式」だってことは攻撃してる側も知ってるはずで。むしろ興味深いのはその結論で持っていこうと宮内庁自体が推進していたフシがある、ということでしょう。それはつまるところ「旧宮家の復帰だけは阻止」というのが最大眼目だったのではないかと思ってます。
 明石散人氏にコメントとったのは、最初からヘンな事を言わせるためだったとしか(笑)。下剋上ってのは倒すことじゃなくて下の身分のものが上のものを倒してのしあがっていく、ってこってすよね。天皇家にとってかわるという意味で使ったつもりなんだろうけど…



#6440 
NF 2006/02/22 23:25
アイタタタ…

>十一郎様
はじめまして。なかなか味な(苦笑)特集があったようで。
内容については大体同意見なのですが、「皇紀2665年」というのは暦の関係上で六十年(還暦)が二十一回巡る1260年毎に大革命が起きる辛酉に固定されたそうなので、固定自体には意味があるそうです。古代国家の基礎が作られた推古天皇時代の辛酉から1260年さかのぼった年が神武即位とされたわけで。突っ込むとすれば素直に年数の非常識な長さを突っ込んでおけばOKかと。「日本人で天皇を倒した例」…、倒したはずだが天皇がしぶとかった足利尊氏もお忘れなく。皇位継承順位を云々したのはいくらでも例があります、というか女系反対派も立派に臣下の分際で正当性を云々している怪しからぬ輩と見ることは十分可能だと思うのですが(僕は半分本気でそう思っています)(苦笑)。
保守派とか言う以前に、困ったものです。
とりあえず、今後とも宜しくお願いいたします。



#6439 
NF 2006/02/22 22:46
「ゲーッ、女の于禁!!」

↑ゆでたまご風と見るか、横山光輝風と見るか意見が分かれそう。
>孟きょう様
いや、別に怒ってはいないのです(苦笑)、ただ開いた口が塞がらないと言いましょうか…(笑)。正直、三国志としてみると無茶苦茶ですし、横山三国志から入った人間としては何だかなあとは思います。でもまあ、頭痛がすると言っておいてなんですが、こういうものと割り切って「三国志」へのこだわりを捨てれば、この手のバカアニメは結構楽しめたりします(ツッコミ入れながらも感情移入して燃えたり)。ま、この程度のハチャメチャさで怒っていては「キン肉マン」も「男塾」も「Gガンダム」も見れませんので(笑)。死んだはずの人物が何の説明もなく「友情パワー」とか「中国医術の真髄」で生き返ってきた、なんて事がないだけまっとうなのではないかと(笑)。
横山先生は御自身の作品がアニメ化される際に、その内容には寛容というかノータッチというかだったそうで、ノリでいじり放題になって原作の面影を止めないものも多いそうです(ジャイアントロボとか)。



#6438 
孟きょう 2006/02/22 21:09
懐かしいですよね!


>徹夜城様。 NF様
 いや〜懐かしい、ここの伝言板でも話題が時々出てくる「金曜ロードショー、三国志」ですね。いや、本当に懐かしい。
 まあ、色々憤慨とされている作品ですし皆様のおっしゃっておられる事もまったくもってそのとうりで正しいと思うのですよ。お怒りは察するに余りあります・・。しかし恥ずかしながら私はこの作品が昔から大大大好きでわすれえぬものがあるんですよ(笑)。なんというか私自身演義でも正史でも三国志そのものも大大大好きなんですが、それはそれとしてなんていうのかなあ・・何か、これ、好きなんですよねえ(笑)
絵柄が「一休さん」というのはまあいいとして、絵柄がモロ私好みでして、映像美というか絵の質がいいというか。テレビ漫画化された三国志作品の中では動きといい、私の中の三国志作品の中ではもう当分こういう作品(考証はまったく度外視して)はでないだろうなあという思いがあるんですよね・・何の根拠も説得力もない・・あはは(苦笑)。    まあ、こういうSF歴史漫画がででんと民放のゴールデンで放送された、あの時代をうらやましいと見るか、懐が広いというか(おいおいおい!)。と。何のフォローもできてないんですが、う〜ん、あれはあれで中国史にそれなりに愛を感じるわけで。というより私自身がトラウマを受けた作品であるだけに(笑)。つまりその、私自信しどろもどろなわけで(笑) 



#6437 
不肖デルタ 2006/02/22 12:37
暴君というと

去年の衆議院総選挙で郵政民営反対派の自民党に除名
された候補の人で妙なことを言っていた人がいましたね。
「身内の刺客を送ったり、まるでロ−マ皇帝のコロシアム
みたい暴君のような仕打ちだ」
ロ−マ皇帝というと暴君が多かったような印象が確かに
ありますが、殺害された歴代ロ−マ皇帝たちの下手人で
ある場合が多いのは、皇帝親衛隊、親衛隊に
殺されてしまう皇帝が多くて、外敵、非ロ−マ人に
殺される皇帝は少なかったみたいです。
ロ−マ皇帝は世襲で続いた地位ではなかったみたいで
競売で皇帝職をせりおとした例もあったようで
親衛隊の機嫌を損ねたら皇帝も安泰では無かった感じ
財政を立て直した倹約な皇帝が親衛隊の給与もカット
したばっかりに親衛隊に反乱され皇帝が殺されてしまった
ことがあったみたいで、ロ−マ皇帝は根回しが上手く
なかったら、すぐに身内にヤラれてしまう不安定なもの
だったみたいですね。
たぶん歴代ロ−マ皇帝で一番暴君は?と聞いたら
コンモドゥス帝が多かろうと思いますが、この人も
何回も暗殺されかかったり、政務を一任した側近が
ことごとく私腹を肥やしてった、そういう側近を
3回ほど処刑したので、本人の資質いがいの不運な
ところもあった気がしますね、ただ、剣闘士の試合に
本当に出場して勝った皇帝は、この人ぐらいらしかった
から、やはり、いかれ権力者には違い無さそう(笑




#6436 
十一郎@歴史に関しては詳しくありませんが 2006/02/22 07:58
はじめまして

以前からちょくちょく覗かせてもらっていました。
映画もそこそこ好きなので、映画サイドのページも楽しませてもらっています。特に『郡上一揆』をレビューしているサイトは珍しいので、何度も検索でたどりついています。

さて、すでに旬を過ぎたかもしれない話題ですが、待合室で読んでいてつい吹き出してしまったので、挨拶がてらにご紹介。
『週刊文春』2/16号に、寛仁朝日新聞社説に対する批判を目玉にした特集がありました。
「万世一系」「皇統2665年」といった単語が一般週刊誌に普通に載っているのには頭がクラクラしましたが、まだそこは文春ですから予想範囲内。
数学者が会議をしている事を指して「天皇家を数学で割り切るような真似をしてはならない」(大意)という話も、宗教や文化が関わる事なのでわからないではないです。

※ただ、皇紀で「2665年」という表記には“「この遺跡は2000年前に作られた」と3年前に教えられたガイドが旅行客に説明した。「この遺跡は2003年前に作られました」”
・・・という冗談を思い出します。

自分が気になったのは、「下克上」について歴史作家が行った説明とコメント。
「下克上の元々の意味は時の天皇を倒す事である。だが、歴史上で日本人が天皇を倒した事はない。そうすると、小泉純一郎が真の最初の下克上を起こすかもしれない」(記憶による大意です)

・・・ええと、蘇我馬子は(笑)? 祟峻天皇は、1000年以上たった後も自身に存在感が無いと嘆かなければならないのですか(苦笑)?

そもそも皇室典範改正程度なら、それ以上に天皇を軽視したり追い落とした者が歴史上いくらでも存在するでしょう。
譲歩して「日本人」が近代に成立した物だと考えても、ならば日本人がどうの天皇家がどうのといった記事全体の主張が意味不明に。
短いコメントなので編集側のミスな可能性もありますが、さすがにこれはまずいでしょう。

ちなみに、このコメントをした“歴史作家”とは、明石散人です(笑)。
雑誌記事の末尾における簡単なコメントには、専門家と言いがたい人が使われる事はよくありますが、他にもっとまともなコメンテーターを呼べなかったものでしょうか。

※明石散人は鳥玄坊シリーズという伝奇小説も書いていますが、多くの伝奇小説が主人公を正史に記されない辺縁の人物と設定するのに対し、鳥玄坊は超人的かつ権力にも密接に関わり、虐げられている者にさほど目を向けない珍しいキャラクターです。
それが念頭にあったので、今回の女系天皇騒動で保守側に立っているかのようなコメントで登場したのは感覚的に納得できました。
井沢元彦との類似性もちょっと興味深く感じるところです。



#6435 
NF 2006/02/22 01:34
もうひとつ

「先頭レベル」じゃなくて「戦闘レベル」です(涙)。



#6434 
NF 2006/02/22 01:19
あ、またやった

「与えられるものとしての姓」って、「氏」だっての。情けないです。古代史を勉強しなおした方がよさそうです。



#6433 
NF 2006/02/22 01:09
悪逆非道なまでの長文(苦笑)

>徹夜城様
そういえば、佐々木氏もそうでしたね。やっぱり、後醍醐が名を与えたのは、巨大な功労を挙げた者への特例としてだったのでしょうか。賞は弾まないといけないが、領地や地位を与えすぎるわけにはいけない危険な相手に対し、名誉でごまかそうという。となると、他のものにはおいそれと許すわけにはいかなかったんでしょうね。
「アニメ三国志」…。これのことでしょうか?
http://sawadaspecial.com/mt/log/000075.html
女于禁、忠義の死を遂げたはずが生き延びて卑怯キャラに成り下がった悪来、立ち往生する関羽…。思い出すだけで頭痛が。
「暴君」というのは結果的に倒されちゃった人というのはまったく同感です。日本で言えば他に蘇我入鹿やら、戦国の武田信虎・徳川信康・豊臣秀次…。入鹿は政敵を倒しただけだし、戦国の皆さんの「乱行」は実はあの当時では彼らに限らず日常茶飯事だったという話もあるし…。

>新参右衛門様
まあ、ルネサンスの傭兵隊長たちは狼藉の限りを尽くしたのは確かですが、記録を残したのが保守的な教会の聖職者などであったため実際以上に悪くかかれる面があったようです。僧侶や公家によって足軽や悪党が悪く書かれていたのとダブってしまいますね。ルターの場合は、あくまで信仰の世界のありようを問題にしていたようで、俗世間の秩序については寧ろ保守的だったためそういった言動になったようです。民衆の支持を得た新しい信仰を生みそれまでの伝統教団と対立した点といい、支配秩序に関しては保守的だった点といい、本人は妻帯したりと破戒的だったりといい、蓮如との共通点が指摘されます。

>イレギュラー満タン様
「劉備って、もしかして、結構酷い人??」…そうなんですよ、よく考えると。呂布に「こいつこそ一番の食わせ者」なんて言われたりしてますし(笑)。確かに何が凄かったのか分からない、だが流浪兵団の長に過ぎなかった頃からなぜか人望があり有力者からも一目置かれていた、不思議な人物です。ただまあ、各地で転戦敗走しながらも死なず、寧ろ部下の数を徐々に増やし、しかも行く先々で厚遇され…。傭兵隊長として、先頭レベルではそれなりに優秀だったのかもしれませんな。しかし、偉人と当時からも後世からも言われる割にどう凄かったのか分からない人は結構多いんですよ。西郷隆盛とか足利尊氏とか…。
悪逆非道とは少し違うかもしれませんが、中国南北朝の北斉の皇帝で、戦争の天才ではあったけれど、人の血を見ないと心が休まらないため大臣が必要があればいつでも皇帝が殺せるように死刑囚を特別に用意していた、というのがいたようです。ま、北斉の皇室には才能はあるが人格が破綻しているケースが多かったようで、こうしたのを見ていると信長などは意外にまともだったのだなと思ってしまいます。え、比べる対象が悪すぎる?ごもっともです。

>船頭の孫様
なるほど、氏と姓、与えるものとしての姓…。恥ずかしながらその視点には気づきませんでした。



#6432 
徹夜城(ようやく多少ヒマになった管理人) 2006/02/21 23:18
HDDレコーダーフル稼働

 NHK衛星映画劇場がアカデミー賞特集とかやるもんだから、2月中はHDDレコーダーがフル稼働。さしもの100時間超録画も残り少なくなる事態に。ようやく仕事が一段落ついてきたので、ちょこちょこと溜め込んだのを見て消化しております。
 先日「十戒」やったと思ったら今夜も「隊長ブーリバ」で歴史映画マニアとしてはたまりませんね(笑)。

 米アカデミー賞関係の放映作品では、第一回アカデミー賞作品賞作品「つばさ」(1927年)を初めて今日鑑賞することになりました。もちろんまだ無声映画で、弁士の解説がついております。しかし映画とは無声白黒だろうが最先端CGバリバリだろうが質には関係ないということを思い知らされます。むしろ映像でしか勝負できない分、この時期の映画の映像作品としての完成度は高いとすら思えますね。
 「つばさ」は第一次世界大戦に参加した米軍飛行士たちの物語で、基本線は今もよくある四角関係ラブコメ(笑)で面白くはあるが安っぽい。しかしこの時代の複葉戦闘機が乱舞する空戦シーン(「特撮」もあるとは思われるが、かなりリアル)、大量のエキストラや戦車を動員した(陸軍が協力したらしい)大規模な陸上戦闘シーンなど、カネと手間がかかった戦争映画大作として出色の出来ですね。名作「西部戦線異状なし」以前にこんな大作があったのか…と驚き。そのうち「歴史映像名画座」に加えておきます。
 1927年というとアメリカはまさに絶頂期。世界恐慌前の一時の平和を謳歌していた時期で、敵であるドイツの描き方にも余裕というかヒューマニズムが感じられ、後半ではそこそこ反戦テーマも出てきます。オープニングであの大西洋横断飛行で当時国民的英雄だったリンドバーグのコメントが掲げられているところも「時代」を感じるところです。
 見ていて「映像の世紀」を想い出してました。第一次世界大戦の場面も記録映像も混じってるんじゃないかな…という気もしましたが、どうなんでしょうね。


>NFさん
 確かに足利家当主は代々北条得宗から一字を与えられておりますね。泰氏、家時、貞氏、高氏…と。足利氏は確か「徒然草」でも言及されて、北条氏からかなり丁重な扱いを受けていたことがうかがえるんですよね。
 もっとも北条得宗の独裁体制が強まってくると、特に貞時・高時の二代では各地の有力御家人の当主に「貞」「高」の字がつくものが目立ってくるんですよね。太平記ゲームの武将リストつくっていてもそれは感じました。佐々木道誉も「高氏」ですし、兄弟に「貞氏」もおります。
 後醍醐天皇が「尊」の一字を与えたのにはそういう北条体制からひきついだ部分もあるのかも。そもそもこの人、朝廷の伝統破りまくってますからね。そういや道誉は後醍醐さんから字はもらわなかったな。隠岐に流す時の護送役だから縁はあるんですが。


>船頭の孫さん
 オオキミが姓を与える、っていう問題は大和朝廷のなりたちそのものにも関わってきますね。
 この話を読んでいて思い出したのが、中国の南北朝時代、北方民族系の北朝において家臣への「賜姓」という現象が見られる…という研究です。専門的にはつっこんでないんで正確なことが書けないのですが、以前大学院の同じゼミでこの問題を研究していた人がいたもので…って、かなりの間姿が見えないになっている「柱国大将軍」さんの専門なんで、読んでいたら書いておいてくださいな。
 こういう方向で話が進むと、故・江上波夫大喜びな展開かも(笑)。

>巫俊さん
 はじめまして。管理人でございます。いやぁ、それにしてもマニアックなところからHNをひねりだされたもので。よろしくお願いします。


>イレギュラー満タンさん
 三国志ネタといえば、いよいよジョン=ウー監督の「バトル・オブ・レッド・クリフ(赤壁の戦い)」は今年中にもクランクインらしいですね。チョウ=ユンファの劉備、トニー=レオンの孔明あたりは確かなようですが、渡辺謙の曹操役が確定なのか早く知りたいところです。それにしてもチョウ=ユンファ劉備にウー監督では、二丁拳銃を二刀流に変えただけのアクション映画になっちゃいそうな危惧が(^^;)…日テレ系「金曜ロードショー」のアニメ三国志の悪夢を思い起こしてしまいます。
 
 董卓の暴虐…ということについては一応正史を参照してください。
 ただ、これは船頭の孫さんがお書きになっていたことにも通じますが、歴史というのはともすれば「史料を残したモン勝ち」でありまして、史料に書いてあるからといって事実だとは限りませんし、史料に書かれていないことが即「なかった」ことを意味しない、という点に注意をしなければなりません。洋の東西を問わず、「暴君」というのは結果的に倒されちゃった人が多いので、倒した側が自らを正当化する資料を残す、という現象があるからです。

 と、いうあたりを念頭に暴君を日本代表で挙げておくと武烈天皇あたりでしょうか(笑)。だから継体革命説があったりするわけですが。



#6431 
新参右衛門 2006/02/21 21:04
「我、慈悲の敵なり」

極悪非道ですか、思いつくメジャ−暴君が一杯でそうですね。
そういう人物はルネサンスのイタリアの戦乱時期の武将に
たくさん、いますね、チェ−ザレ・ボルジアを筆頭に。
ボルジア公は有名すぎるにしても、個性的なんでは
シギムンスト・マラセッタだったかな?、鎧に
「我、慈悲の敵なり」と書いて、その通りに行動する武将で
なんか、反教皇派だったんで、この武将は聖職者を見たら
必ず殺害せずにはおかなかった凶暴な人だったとか。
ルタ−もドイツ農民反乱戦争では諸侯の側に回ったので
反乱農民の虐殺を諸侯に説いたそうです、この宗教改革者は
言ったとか「諸君、今は祈っている時ではない、剣を持って
立ち、反逆者らを皆殺しにする時だ。」
まぁ、ルタ−は暴飲暴食を常として売春婦に説教して妾に
しちゃったりと、かなり破戒的聖職者だったらしいですね。




#6430 
イレギュラー満タン 2006/02/21 20:48
酷い事って、どこまで酷いのか・・・

調子にのって、また質問ですf><
三国志の中では、董卓がぶっちぎりで悪逆非道の限りを尽くしていますが、
歴史上で酷い事した人って、一体どれだけ酷い事をしでかしたのか、気になりまして・・
僕は世界史がさっぱりなので、特に海外の人で挙げていただけると幸いです。
ただ、たくさん挙がりすぎて、ここがブルーなHPになってしまったら申し訳が無いので、
反対に素晴らしい事をした人も同時募集ということでf><;;

P.S. 三国志の中で英雄といえば、真っ先に劉備玄徳が浮かぶのですが、
いざ具体的にどこが素晴らしかったのかを考えると・・・・
「思いつかない@@」
ありとあらゆる勢力に降ったと思ったら赤壁で荊州をかすめ盗り、
挙句は蜀を強奪・・・・って、あれ?
劉備って、もしかして、結構酷い人??



#6429 
巫俊(ふしゅん) 2006/02/21 01:41
船頭の孫さんのお導きで(?)

召喚されたようです。はじめまして。
中国史を中心に研究してたりします。“一応”を付けた方がいい感じですが(笑)
『山海経』大荒東経の帝俊から名前をとって、巫俊ってハンドルです。

「サイバー・ユーゴスラヴィア歴史研究省」さんのサイトからリンクを辿っていたら、船頭の孫さんがこちらに定住されておられるようなので、それも中国史の姓の話題らしく、少し気になっております。



#6428 
船頭の孫 2006/02/20 16:13
姓と苗字

やっぱり、中国の姓・氏と、日本の姓(ウヂ)・氏(苗字)は無条件に等号で結ばれないし、姓⇔氏、姓(ウヂ)⇔氏(苗字)の二重構造にも注目せんといかんでしょう。今の日本では近代戸籍名の制度の浸透によって、こうした東洋の人名構成要素の複雑な構造が、ほとんど忘れ去られています。

中国の姓は、やっぱり漢族が形成される以前の古代的な族構造を背景に、族長層が名乗った種族名だし、それぞれの種族を統合する超越者は秦の始皇帝以前には出現していません。史記や儒学典籍では商や周の王が中原の盟主として君臨したかに描かれていますが、どうも最近の平勢さんあたりの論考を読むと、彼らが文字を独占したが故にそういう形の記録を残せてしまった要素が強いみたいで、他に彼らと張り合っていて完全に服属したという意識をもった勢力も少なくなかったみたいです。また、氏のほうは戦国時代になって社会の流動性が高くなって、古代的な族構造を離れて新たに形成された血縁共同体から生まれたもののようですね。いずれにしろ、それぞれの集団が自律的に名乗ったもので、上位者からの承認体系とは無縁のように思えます。

ところが、日本の姓(ウヂ)や氏(苗字)はそうではない。姓(ウヂ)は、先行する自立的なプロトタイプは存在したでしょうが、安定的な形態のものが確立したのは大和朝廷の連合政権が、オオキミから承認、認定するという形で政治的にまとまりを持つ諸集団に与えた性格が強いようです。また、氏(苗字)にいたっては、どうしても職の体系との関係が非常に濃厚ですよね。領主にしても、名主百姓にしても、自らが職の体系内で権利義務を有する知行地の名を苗字にするのが基本で、どうしてもその職の体系の承認機構を前提としている。つまり、どちらも広域の権威秩序が成立した下で、その権威秩序から諸集団が位置づけを承認されるときに確定される構造を持っているんですよ。中国の姓や氏のように自律的に名乗った性格はかなり薄いと考えざるを得ない。

そうすると、やっぱり言い古された説ではあるんですが、与える存在である天皇には姓はないとする説が妥当なんじゃないでしょうか。こうした構造を氏(苗字)の承認で踏襲しようとした源頼朝が、将軍家は氏(苗字)を持たず、御家人は氏(苗字)名乗りとする構造を作ろうとした例もあることですし。



#6427 
NF 2006/02/19 04:49
ありゃ

>「仁」
読み直してみれば、いつから増えてきたかも含めて徹夜城様がすでに述べられてますね。ま、具体的に名を挙げていったということで勘弁してください。
>民本主義者様
丸谷氏の発想は中々面白いですね。ただ、女系なら女系で女系としての姓がありそうな気はするのです。下々の家計を例に出すもんじゃないのかも知れませんが(笑)、僕の実家も少なくとも最近数世代は女系で来ていますから。後、なぜ皇室「だけ」がそうなったかという問題が残ったままな気も。結局、共通の先祖(天照大神とか神武天皇)を持つと認識する(生物学的にどうかはここでは問わない)人間たちによってのみNo.1の地位が受け継がれ、他の家系に代わられたことがなかったため「始めはあったけど必要とされなくなり忘れられた」というのが自然かな、と個人的には思ってます。他との比較対照があって初めて姓は意味を成すわけですし、(直接接する)周囲の人間に姓があれば「無姓」も姓を持っているのと同様に立派な識別性を持ちますしね。いわば「退化」みたいなもんで。って、こんな事言ったら右翼に睨まれるのかな、僕自身は右のつもりなのに(苦笑)。



#6426 
NF 2006/02/19 01:25
「仁」について追加

ついでに調べてみたら、どうやら南北に分かれる前からも多かったみたいですね、諱に「仁」のつく天皇。摂関全盛から院政にかけての辺りから増えてくるようです。
一条:懐仁、後冷泉:親仁、後三条:尊仁、白河:貞仁、堀河:善仁、鳥羽:宗仁、崇徳:顕仁、近衛:体仁、後白河:雅仁、二条:守仁、六条:順仁、高倉:憲仁、安徳:言仁、土御門:為仁、後堀河:茂仁、四条:秀仁、後嵯峨:邦仁となっており、一条から後嵯峨までは23人中で17人。因みに一条以前には清和:惟仁、醍醐:敦仁の二人のようで清和から花山までは10人中2人です。そういえば、後鳥羽・順徳も「仁」ではないですね。後醍醐とは我が強くて武を好み多才・好学な辺りが共通点かも?



#6425 
NF 2006/02/19 01:00
ちょっと意外

>民本主義者様
平泉澄…。好みだったんですか…。いや、昔あの人の「物語日本史」を使い物になるかどうか立ち読みしたことがあるんですが、個人的には合わなかったもので。
どうも、事実を積み重ねての検証をおいて善悪やら道徳やら思想やらを振り回したがる人は、僕は好みに合わないようです、左右問わず(苦笑)。
因みに僕の好みは…。右なら石原莞爾・大川周明の著作が結構お気に入りで皇国史観系でも中村直勝はいいですね。左だと松本新八郎あたりでしょうか。
要は、柔軟さとバランス感覚、あるいは何やらと紙一重な突き抜けた勘の鋭さ。これが僕のツボみたいですね(笑)。その上でキャラが濃ければ言うことなしで。平泉氏はキャラは濃いし戦後も変節しなかった点は評価できなくもないんだけど、前提条件を満たしてないからなあ…(苦笑)。

>皇室の姓
皆様が書きつくしてしまわれたようで。流石にここはレベル高いですね。船頭の孫様から「今上天皇のちょっといい話」(笑)も出てきましたし、ホント勉強になります。

>徹夜城様
そういえば…。持明院統は「仁」が多いのに南朝は「良」が目立ちますね。大部分は後醍醐のせいなんでしょうが(笑)。因みに、持明院統は後深草:久仁、伏見:熈仁、後伏見:胤仁、花園:富仁、光厳:量仁、光明:豊仁、崇光:益仁、後光厳:弥仁、後円融:緒仁、後小松:幹仁だそうです。見事に「仁」ですね。大覚寺統も亀山が「恒仁」で後宇多は「世仁」だったそうですが(笑)。
因みに天皇から名をもらった武将も珍しければ、名を与えた天皇も珍しい気がします。「尊氏」の名を与えたのは、功労が大きいが力を持たせるわけには行かない尊氏への賞としての苦心の一環とか、これまで足利氏は代々北条氏から名を貰っていたのを踏まえて今後は天皇が嘗ての北条氏の役割をするという意味がこもっているとか色々言われるようですね。



#6424 
民本主義者 2006/02/18 23:17
右翼が怖いので「高氏」と表記

戦時中に日本史学会で全盛を極めた平泉澄東京帝国大学教授の授業では、答案に「足利尊氏」と書くと無条件にペケを食らったそうです。逆賊だから、後醍醐天皇からの与え字を書いてはいけないのだそうで、「高氏」と表記しなければいけなかったのです。
「歴史とは畢竟信仰である」「百姓に歴史がありますか!ブタに歴史がありますか!」の名台詞でも有名で、こういうオッサン、けっこう私のタイプです。著書持ってます。

さすがにこういう風潮は戦後地を払った、と思いきや、一部業界ではまだまだ健在。
神道の防衛者「思想的戦闘者」葦津珍彦(あしづ・うづひこ)の著作集を読んでいたら、確か禁門の変に際して薩摩・会津と戦って切腹した長州藩士のことを(記憶曖昧)
「その形は高氏にして、心根は正成」と賞賛していまして、仰天しました。
戦後もだいぶたってからの文章です。この人は90年代まで生きていて湾岸戦争に関する評論も書いてる「現代人」なんですが。この人もタイプで、著書持ってます。
久米邦武が「太平記は史学に益なし」を書いてから何十年たっているやら。まあ、いまでも「歴史とは国民の物語だ」という人はいますけどね。「階級の物語だ」という見解が間違っているのが明らかだとしても「国民の物語」説が自動的に正しくなるわけではありません。



#6423 
徹夜城(受験追い込みでヘトヘトの管理人) 2006/02/18 22:42
仁明天皇ってのはいましたけどねぇ。

>民本主義者さん、船頭の孫さん
いや〜またまたお二人そろって面白いお話をどうも。そうですか、肩書きなしで「明仁」と表示してるんですか。一瞬誰だかわかりませんね。「中国の人かな?」とか思われそう。
「明仁天皇」はともかく「天皇明仁」と書くわけにもいかないんでしょうかねぇ。

 ところで天皇の名前に「○仁」とつくのは平安時代から例が見られるのですが、代々つくことが確定したのは持明院統、すなわち北朝系統においてです。南朝を作った後醍醐天皇の名は「尊治(たかはる)」という、現在でもみかけそうななかなかカッコいいお名前でした。
 「足利尊氏」がこの一字をもらったものであることはこちらの常連の皆様には周知の事実でしょうが、考えてみると天皇の名前をもらった武将と言うのも珍しい。大河ドラマでも「これよりは「そんし」と書いて「たかうじ」と名乗るがよい」と言い渡すシーンがありました。
 いろいろ政治的な意味もある「与え字」ではあるのでしょうが、後醍醐と尊氏が個人的には結構仲がよかったんじゃなかろうかという指摘もありますね。佐藤進一氏は尊氏を「躁鬱質」とし、好奇心の強い後醍醐には面白いキャラに見えたんじゃないか、ってな指摘をしておりましたが。


>タラシヒコの謎
 民本主義者さんがお書きでしたが、昔からいろいろと憶測を読んでる史料なんですよね。当時の大王は推古女帝だったはずで、「ヒコ」とされていることについては「聖徳太子のことを指した」「女性が王だと知られるのを恐れた」とかいろいろ言われております。僕は通訳の不備(?)で倭国の使者は大王の一般呼称を述べたもので、それを隋側が勝手に固有名詞と勘違いしたんじゃなかろうかと感じますね。



#6422 
民本主義者 2006/02/18 22:28
皇室がらみの訂正は右翼が怖いので「謹んで」付き

「なぜ后の養子になるのかといふ理由になるのかといふ理由としては」

「なぜ后の養子になるのかといふ理由としては」
に謹んで訂正いたします。



#6421 
民本主義者 2006/02/18 22:25
イレギュラー満タンさまへ

喜んでいただけてうれしいです。
エッセイですが、丸谷才一の「養子の研究」(『絵具屋の女房』文藝春秋 所収)は、なぜ天皇家に姓がないかという疑問に対して、古代女系制の名残という観点から回答を与えています。それによると、明治天皇も大正天皇も養子だった(!)というのですね。どういうことかというと、このお二方とも側室からお生まれになったのですが、いづれも皇太子に定められた際に皇后の実子であるとされたのです。つまり養子です。
以下上掲書145ページから引用します。
「 なぜ后の養子になるのかといふ理由になるのかといふ理由としては、正室の子でないと格好が悪いからと考へられたさうです。しかしわたしとしては、これは一夫一妻制への遠慮ではなく、やはり女系家族制の名残りだと思ふ。帝は后の家へ婿入りしたといふのが建前なのであるから、そこで后によつて皇子が生まれず、側室による皇子を皇太子として立てるときには、后の養子になる形をとつたのでせう。
 そしてこの考え方でゆけば、よく問題になる、天皇家になぜ家名がないか、といふこともあつさりと答が出る。なぜあの家には家名がないか。そもそもそういふ家がないからです。
 天子の系図を皇統譜などといふけれど、それは、妃たちの家々(有力氏族)に婿入りした入り婿たちを観念の上で結びつけて作つた系図にすぎない。後世はともかく、本来は、天皇家といふ家が実際にあつたわけではないのです。」(引用終了)

 まことに丸谷氏らしい、該博な知識に裏打ちされた斬新・大胆・明快で、頭の固い保守派をからかう、ちょっと反体制的な、そのくせ柄が大きくておっとりとした見解。初めて読んだときにはうなっちゃいました。「后」と「妃」の字の使い分けも藝が細かい!引用して初めて気が付きました。
もしこの考えが正しいとすると、昨今話題の女系天皇が容認されると「姓がない」という皇室の特色を支える基盤がどのように変化してしまうのか…、は各自への宿題といたします(笑い)。



#6420 
イレギュラー満タン 2006/02/18 21:44
お返事ありがとうございます

 そうですか、日本の皇族は姓が無いのも同然なんですね。
それにしても、ここまで深い回答をいただけるとは・・・
ご回答をいただいた皆様に感謝します^^




#6419 
船頭の孫 2006/02/18 00:32
即位後の玉稿

欧州の共通歴史教科書の件は、ちょっと親戚に不幸があって実家に戻っているので、後回しにさせてください。

で、表題の件ですが、東海大学出版会から『日本産魚類検索 全種の同定』という、日本列島周辺で分布が確認されている全魚類を図入りの絵解き検索で全種同定できる大部の専門書が出版されています。この本は元はというと、編集責任者になっている中坊徹次さんという魚類学者が、『海洋と生物』という学術誌に、ご専門のネズッポ類(江戸前の天麩羅で有名なメゴチの仲間)の同定に関する連載をされていたときに考案した図入り検索表を、あまりにも便利なもので日本産の全魚類に拡張して本にしてしまおうという声が大きくなって編まれたものなんですね。

で、この編集会議のときに、日本産の魚類の全分類群に関して、それぞれのもっとも先端部分を把握している分類学者をリストアップして原稿依頼を出すことを決めたのですよ。そうなると、ハゼ科のチチブ類に関しては、やっぱり先端部分を日本で一番把握しているのは「あの方」だよね、という話になったらしい。で、誰かが、もう即位もされていて公務も多忙だし、皇太子時代のようなわけにはいかないから多分だめだろうね、でもだめもとで一応原稿依頼は出してみるかということになったというんですよ。

ところが、手紙を出してみたら、快諾の返事。原稿も完成度の高い立派なものがちゃんと送られてきたものですから、この書籍の著者の一人に陛下も名前を連ねることがとんとん拍子に決定。

そういうわけで、この書籍の著者リストには、「明仁」の諱が肩書きなしに、しっかりと載っているのであります。



#6418 
民本主義者 2006/02/17 23:12
ひっかきまわし屋か?

http://www.kunaicho.go.jp/ronbun/26ronbun.html
こちらの宮内庁のサイトによりますと、天皇陛下の皇太子時代の論文(「玉稿」といふべきか?)の著者名は、和文論文の場合は「明仁親王」(一篇だけ「明仁」)、英文論文の場合は「Prince Akihito」です。もし天皇に即位された後に論文をお書きになっておられたら著者名は英文の場合は「Emperor Akihito」になったでしょうが、和文の場合「明仁天皇」になったかなあ?かなり微妙な感じがいたします。貴人の本名を呼ぶのは恐れ多いという東アジア的感情と、近代科学のタテマエとの衝突となったことでありましょう。しっかし、和文で著者名を「明仁」と記した「魚類学雑誌」(36巻 1号)の編集者は勇気が要っただろうなあ。

「タラシヒコ」って誰にあてた名前なんでしょうね?宮崎市定はアッサリ「太子の名を聞き誤ったのであろう」で済ましていてオイオイ!と思いました。あれは『隋の煬帝』(中公文庫)だったかな。「タラシヒコ」と「ウマヤドノミコ」じゃ全然違うでしょ。さらに当時の日本のオオキミはヒコじゃなくてヒメ(推古天皇)だったし。あれはやっぱり、蘇我馬子のことだったのではないかなあ?日本書紀の記述自体、聖徳太子信仰の産物だし。
と、初学者への配慮に満ちた管理人さまの回答をブチ壊し。すみません。しかし、年来の疑問だったのです。




#6417 
徹夜城(専門柄ネット上の漢字の扱いに困る管理人) 2006/02/15 23:23
文字化け説明&お知らせ

 下の書き込みで、「阿輩○弥」の○の部分が完全に文字化けしてしまいました。表示できないんだなぁ、こんなのも。「雉」の左側を「渓」の右側ととりかえてください、と説明するしかないか。

 ついでといってはナンですが、書き忘れた更新告知を。
 リンク先に「ニューヨークの歴史」というサイトを追加させていただきました。あちらの大学でニューヨーク史を専攻された方がまとめられた、ニューヨークという都市の歴史サイトです。



#6416 
徹夜城(HDDレコーダーの中身のDVD化にいそしむ管理人) 2006/02/15 23:16
漫画でみる「王直」

 いま駅のキオスクなんかに置いてある再利用安価コミック本で、さいとう・たかを「大航海時代」というのが出ています。鉄砲伝来から南蛮貿易、天正少年使節、山田長政などいろいろととりそろえた内容でした(ぱらぱらと立ち読みしただけですが)。
 で、やっぱり注目は「鉄砲伝来」で…やはり種子島についた船に乗っていた中国人は「後に和寇の首領として知られる五峯王直」ということで断定されておりますね。さいとうプロで王直を描くとこんな感じか…と。
 有名な砂の上での筆談シーンがあるために、「王直」はしばしば漫画で描かれております。王直と名指しするもの、そうでないものといろいろあるのですが…最近ではすっかり「王直」と断定・名指しすることになっているようです。
 まぁヘソ曲がりな倭寇専門家(笑)としては、「いや、断定はできないでしょ」と言っちゃうんですけどね。「鉄砲記」に出てくるのはあくまで「五峯」であって、その時代に「五峯」を号とする倭寇王・王直が活躍していた…という実に状況証拠的なものです。「鉄砲記」じたいもだいぶ後になってから編さんされた史料なのでもそっと慎重にありたいな、と思うのですけど、まぁ僕自身もあれは王直だったろうと思ってます(笑)。

 と、そんなことを考えていたら「漫画で南北朝!」とかやると面白いかもなぁ…なんてことも思いついてしまいました。各種歴史漫画・学習漫画で出てきた南北朝キャラたちを集めて品評会とか(笑)。手間がかかりすぎるか。
 「学習漫画日本の歴史」ではもっとも完成度が高いといえる小学館版(あおむら純作画)の足利尊氏は完全に例の「騎馬武者像」をもとにデザインされてましたね。直義は王貞治みたいでしたが(笑)。もっと古い集英社版ですと、尊氏がかなり悪役の顔(それも光厳上皇の院宣を得ようとするあたりから急に悪くなる)でした。


>イレギュラー満タンさん
 はじめまして。なかなか面白いところに目をつけられましたね。
 「性」というのはもちろん「姓」の誤変換ですよね。その上で話を進めますが。
 まず天皇家には確認される限りでは「姓」はないはずです。そもそもいつからオオキミになってたかもわからん家系でありますし。
 天皇家の「姓」について唯一の史料は「隋書倭国伝」でしょう。西暦600年に隋に来た倭国の使者が自国の王について「姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩&#38622;弥」と述べたとあります。「阿毎」は「アメ(天)」であろうと言われており、これが「姓」だと、少なくとも中国側は認識したと思われますが、使者は全く別のつもりだったかもしれません。なお「字」とされる「多利思比孤」は「タリシヒコ=タラシヒコ」で、あわせると「アメタラシヒコ(天の下を治める人?)」ということになり、これが当時の倭国におけるオオキミの呼び方だったと思われます。「阿輩&#38622;弥」は「オホキミ」だろうといわれており、なかなか正確な史料であると言えるのです。
 ともあれ、天皇家に「姓」はないわけですが、考えてみると日本人の大半に「姓」なんて近代までなかったとも言えるわけで。この辺は中国的な姓の考え方と大きく異なる感覚である、ということは気をつけなきゃならないでしょうね。

 天皇家の預金通帳はともかくとして、論文を書く場合はありますね。皇太子は中世の水運を専攻する歴史学者でもありますが(意外と僕も近い立場だったりする)、論文は「徳仁親王」で書いているとか聞いています(さすがに直接確認はしてませんが)。天皇の場合はどうするのか…全く不明です。
 僕の弟はスポーツ観戦マニアなのでありますが、「皇族にスポーツマンが出た場合、場内アナウンスとかどうするんだろうね」などと言っておりました(笑)。
 先日書いた話にちょっと関連しますが、戦前、天皇の詔勅を人前で読み上げる場合、実際に書いてる名前を読むようなことはせず「御名御璽」と読んでいたために、「ギョメイギョジ」というお名前だと勘違いしていた人もすくなくなかった…という話もあります(笑)。だいたい今だって、天皇一家の名前を正確に言える日本国民はごくごく少数派でしょう。


>不食の瞑想少年
 うさんくささ爆発ですな(笑)。どうもインドあたりからは周期的にこの手のネタが来るような。どう考えてもものを食わずに生きていくのは不可能でしょう…点滴とかしてるなら別ですが。



#6415 
パパゲーノ川崎 2006/02/15 11:14
菩提樹の下で瞑想ということだったので 汗)

ネパールでしたね。ブッダガヤではありませんでした。すみません。

ただ、”不食”ということが出来る人は存在している
らしく、奇跡ではないようです。
現在にも過去にも、食べなくても行き続ける人は存在していて、
そのメカニズムは現在研究中なんだそうです。
(昔のヨーロッパの修道女もいたらしい。)

だから、食べないで瞑想している=ブッダ と言ってしまうのは
ちょっと違うことになります。



#6414 
イレギュラー満タン 2006/02/15 03:00
素朴な質問なんですが

 はじめまして、イレギュラー満タンと申します。
最近、「蒼天航路」という曹操が主人公のマンガの影響で、中国の歴史のことに
いろいろ興味を持ちつつあります。
そこで浮かんだ疑問なのですが・・・
漢帝国は、高祖・劉邦が開いたので、当然その血族、劉氏=皇族ということになるのですが、
日本の皇族って、何ていう性なんでしょうか、というか、そもそも性なんてあるんでしょうか?
(あり得ないシチュエーションだけど)銀行で通帳を作る時なんて、何て記入しているんでしょうね?
三国志から百万光年遠ざかった、ぶっ飛んだ連想からの疑問なんですが、何気に気になって仕方がありません。
ご存知の方、よろしければお答えください。




#6413 
民本主義者 2006/02/14 23:30
またまた書いていて気づいたこと

「穀糞聖」と同じ結末になるんじゃないかな。
http://ww22.tiki.ne.jp/~kanemasa/data4/heki.htm
「「宇治拾遺物語」巻十二の九にある話である。」

「昔、久しく行ふ上人ありけり。五穀を断ちて年来になりぬ。帝聞し召して、神泉に崇め据えて、殊に貴み給ふ。木の葉をのみ食いける。物笑いする若公達集まりて、「この聖の心みん」とて、行き向ひて見るに、いと貴げに見ゆれば、「穀断幾年ばかりになり給ふ」と問われければ、「若きより断ち侍れば、五十余年にまかりなりぬ」といふを聞きて、一人の殿上人の曰く、「穀断ちの糞はいかようにかあるらん。
例の人には変わりたるらん。いで行きて見ん」といへば、二三人連れて行きて見れば穀糞を多く痢り置きたり。
怪しと思ひて、上人の出でたる隙に、「居たる下を見ん」といひて、畳の下を引きあけて見れば、土を少し掘りて、布袋に米を入れて置きたり。公達見て、手を叩きて、「穀糞聖、穀糞聖」と呼ばはりて、ののしり笑ひければ、逃げ去りにけり。その後は行方も知らず、長く失せにけりとなん。」(引用終了)

しかし、この物語を引用した上記のサイトは不食による不老不死を半ば本気で信じていらっしゃるようでして、いやはやなんともはや。




#6412 
民本主義者 2006/02/14 23:20
ウソを言っては困ります。生まれ変わらないのが〜(略)

タイトルの元ネタは管理人様の世代ならおわかりのはず。
漫画の件ではお褒めにあづかり恐縮です。
ブッダガヤではありませんが、お釈迦様の生まれ変わりについてはこんなブログがあります。
http://ameblo.jp/reportage/entry-10006522532.html
「ネパールの地方当局は日曜日、6ヶ月間飲まず食わずで瞑想中だという10代の少年の謎を解明するよう、宗教委員会や科学者に要請した。一部の人々は少年がブッダの生まれ変わりだと信じている。

ここ数週間で、瞑想する15歳の少年ラム・バハダー・バンジャン を見ようとネパールと隣国のインドから少なくとも10万人が南東ネパールの深い森に集まっている。関係者によれば、彼は水も食べ物もとらずにすでに6ヶ月のあいだ瞑想しているという。」

苦行の価値を否定したブッダが聞いたら泣くぞ、このニュース。
「ラム・バハダー・バンジャン」で検索すると、いろいろなサイトが引っかかります。
写真もでてきますよ。



#6411 
ブッチャ−3世 2006/02/14 18:27
標的は11人

上のタイトルは、ずいぶん前に読んだサスペンス小説の邦題です。
いや、私は最初、フィクションだと思って読んでいたんですが
後書きで、作者は作中のイスラエル諜報機関の暗殺団の隊長だ
と告白していて、まじ?と思ったものです。この手の国際謀略
フィクションは多くて、他にも、やはり元モサドのスパイ小説作家が
数人、見受けられ、みな、イスラエル当局から脅迫されていた
そうです。
「標的は11人」は、ミュンヘン・オリンピックでイスラエル選手団を
虐殺したPLOに対する報復にイスラエルが「死して屍拾う者無し」の
暗殺団を結成してPLO幹部トップ11の首をマトかけるという話です。
こういう事実はイスラエルは絶対、認めないし、暗殺団が残した形跡は
ほとんど報道には残らなかったようですが、
作中の主人公であり作者の暗殺部隊とは別にイスラエル当局は暗殺隊を
動かしていて、この別働隊が誤ってPLOと無関係の人間を殺害し
イスラエルが、こういうことをヨ−ロッパでやっていると当時の世論に
感づかれ問題になったそうです。



#6410 
孟きょう 2006/02/14 01:08
鄭和はイケメンが演じてほしいなあ


 >徹夜城様
 「鄭和特番」ほんとうに楽しみですよね。地上波でやって欲しいのにほんと(泣)。ボヤっとしてると2話もあるし録画しそこねるから気になるな〜。
 鄭和艦隊の描き方もさる事ながら、私自身の密かな下心としましては雲南平定戦に関わる明の将軍、兵卒達の鎧姿を少しでもいいので見たい、というものがありまして・・その辺の考証や、あとは傳友徳とか、チョイ役でもいいので藍玉とかの映像化された姿を見たいなあ・・などと浅ましい想いがあったりするんですよ。 
 「関門海峡、瀬戸内海」。有名ですよねー!その話は。イメージしやすいというか何というか。 とても昔四国まで旅行した事があるのですが、香川に渡る際、瀬戸内海が広く感じましたねえ。向かい側の島影が見えたか見えないか、記憶が曖昧なのですよ。
その話題でふと、徹夜城様の「倭人襲来絵詞(さても南京墓参り)」を思い出してしまいました(江南に旅行だなんて素敵に羨ましいな〜、明州や杭州だ〜)。書かれているとうり比較的川幅の感覚が短いとこや島の連なりに橋がたてられるのでしょうけど、長江かあ・・川の向かい岸が見えないというのはどんな気分なんでしょうね。 海と川とを見間違えるといえば私自身、子供の頃、三国志関連の映像で生まれて初めて赤壁の戦いを描いた画像を見た際、長江での海戦を「とても広い海での戦い」としばらく勘違いしてしまった事がありまして(笑)。だからああいう系列の勘違いは本当に気持ちがわかるんですよ。
 



#6409 
徹夜城(風刺漫画を描くこともある管理人) 2006/02/14 00:07
あ、北斎漫画。

 苦し紛れのタイトルです。深い意味はありません(笑)。

 僕も何度か「史点」でシャロンさんあたりをネタにさせてもらいましたんで、ことによってはモサドの暗殺部隊を送り込まれたりして(笑)。そういやまだシャロンさん存命のようですね。もしかしてこちらが史点書ける時まで持ちこたえるのでしょうか。
 他にも山本五十六原理主義者でも存在していたら暗殺されそうなネタも描いたことがあるし(汗)。
 もちろん宗教の預言者レベルとは比較にならんでしょうけど、本音のところ、イスラムネタも軽く風刺してもいい空気というのは欲しいものです。
 今度の騒動ですが、どうも最初にデンマークの新聞に一連の戯画が載ったのは9月のことで、それに対する国内イスラム教徒の抗議にデンマーク政府がまともに応じなかったことで年明けから彼らが国際的に騒ぎを拡大していった、という展開であったようですね。
 どうしても世界のイスラム教徒はキリスト教圏=欧米(さらにはそれをバックとする形になるイスラエル)に抑圧されているという意識が強いですから、こういうことがあるとパッと火がつきやすいところがあるんでしょう。イスラム圏が政治的・経済的・文化的に欧米に対してコンプレックスをもたないぐらいの余裕があれば、こういうことにも気分的には余裕をもって応対できるんじゃないかと思ってます。


>船頭の孫さん、民本主義者さん
 いや〜実に勉強になります。こうして画像も確認でき、解説をしていただけるなんて、マスコミのサイトだとかえって出来ない。ネット時代の凄いところはこういう辺りに感じてしまいます。
 自爆した殉教者(?)に処女ウンヌンという話は、後に「同時多発テロを予言した」と言われた「マーシャル・ロー」(原題「THE SHIGE」、1998年公開)でも登場人物のセリフで出てきていました。

>アール・ケイさん
 網野さん、「蒙古襲来」では時宗に対してかなり手厳しい(あるいは低評価)ですからね〜監修なんぞできなかったでしょう。モンゴル史の側の杉山正明さんもグチっぽいことは書かれていたようですが(笑)。
 「太平記」は歴史家としては故・永原慶二さんが監修をされていたのですけど、とくにどうという話は聞こえてこないんですよね。佐藤進一さんあたりが監修されていたらそれこそ直義像が大幅に違ったことでしょう(笑)。
 裁判員制度については僕も同様のことを連想しました(笑)。もっともこれ、選ばれたら選ばれたで面倒そうなのは確かで…社会科講師としてはよくネタでしゃべってるんで体験してみたくもありますがね。「十二人のイカれた日本人」になったら困りますが(笑)。

>パパゲーノ川崎さん
>3.ブッダガヤのお釈迦さん生まれ変わり
↑このネタ、詳細希望。



#6408 
民本主義者 2006/02/13 23:30
すみません。

下の投稿。改行をミスしました。



#6407 
民本主義者 2006/02/13 23:26
一挙に説明!といくかどうか…

船頭の孫さま、再びありがとうございます。上から順番に説明します。
1・ロバを連れてサンダルを履いたターバンの男。何を風刺しているか不明。
2・後光が悪魔の角になっているムハンマド。
3・緑の三日月と星(いづれもイスラムの象徴)が顔に組み込まれているムハンマド。
4・チャドルをかぶった二人の女性の前で短剣を抜いているムハンマド。ご丁寧に目に  黒線が入っています。女性を抑圧するテロリストのイメージです。深読みすれば、  イスラム圏の女性たちは俺たちヨーロッパ男がアラブ男を打倒して自分たちを解放
  してくれるのを待っている、というメッセージが込められているのかも。
5・「処女は品切れだよ」というムハンマド(既説)。
6・「Jyllands-Postenのジャーナリスト達は反動的な挑発者の集団だ」とペルシャ語で
  (なぜ!?)黒板に書き込んで授業をしている、サッカーのユニフォーム姿(?)  のムハンマド。
7・夜中にこっそりムハンマドの風刺画を描いている西洋人漫画家。これはイスラム世  界からの反発を恐れて自主規制している欧米のメディアを批判しているのでしょ   う。
8・タイプの異なる7人のターバン男の映っている画面を見てなにかつぶやいている西  洋人。左からヒッピー・不明・キリスト・仏教徒・ヒンドゥー教徒・インド人・ビ  ル・ゲイツ風。
9・口が三日月、目がダビデの星のチャドルをかぶった女性たち。
10・激昂して半月刀と爆弾を運んでいる部下に「者ども静まれ!これは南西デンマーク  のデンマーク人が描いたスケッチに過ぎん」と説明しているムハンマド。
11・ターバンの頭が爆弾になっているムハンマド。
12・ムハンマドの漫画を描いた西洋人の頭のターバンに「PR-stunt」(宣伝の妙技)と  書かれたオレンジが落ちてくる。

う〜ん。玉石混交。初めから騒動が起こるのを予期していた確信犯みたいなのもありますな。



#6406 
船頭の孫 2006/02/13 19:24
拡大版

>民本主義者様

ウィキペディアの英語版の事件解説記事に、
外部サイトの拡大版のリンクが張ってありました。

http://www.faithfreedom.org.nyud.net:8090/Gallery/Mo_Cartoons.jpg

ウィキペディア自体は著作権の問題をシビアに扱っているので、
外部で参照するように記事を書いた方がいらしたんですね。



#6405 
民本主義者 2006/02/13 14:42
惜しい!

>船頭の孫様。
ありがとうございます。しかしそのウィキのサイトも、直リンク貼ってあるデンマークの新聞のサイトも縮小された画像だけで、拡大ができない。ウィキのサイトにこうあります。
"it is a low-resolution image; the full details of the drawings cannot be seen, nor can the text of the article be read (and thus should not inhibit Jyllands-Posten from selling their newspaper) "
縮小画像で、風刺画の細かいところや記事の文章は読めませんから元の新聞の販売を妨害するものではありません、てことでしょう。
だから、文字通り、細かいことはわからないのですが、ムハンマドのターバンの後ろに差している後光が悪魔の角の形をしている漫画があるのはわかりました。
著作権の壁は厚い…。




#6404 
アール・ケイ 2006/02/13 14:30
中国には強面の文芸春秋も、泣く子とユダヤ組織には勝てず

>船頭の孫さま
>確か蔵書に、EUの共通歴史教科書の和訳版があったはずなので、イスラーム関係の記述をチェックしてみます。

よろしくお願いします。

不肖デルタさまのお書きのことと繋がってくるわけですが、
EUの共通歴史教科書って一番の問題はやっぱりナチスドイツの扱いであり、またそれとリンクする形で
(ナチスの台頭を許す土壌となった)永年に渡り続けられてきたユダヤ人差別(への反省)に
かなりページを割いているのではないかと想像します。
うがった言い方になりますが、隣同士決して仲がいいはずもないヨーロッパに於いてEUを成立せしめたものは
USAへの対抗意識なんでしょうが、実は悲劇を繰り返さないためのユダヤ社会の圧力があった、と書くと、
皆様にはおなじみのユダヤ陰謀説っぽく聞こえましょうか(笑)。
フリーメーソンが…!などと書くと実に尤もらしい(笑)。
で、ヨーロッパでの「いじめられっ子」だった在欧ユダヤ人の代わりに移民ムスリムが大衆の憎しみの対象として
浮かび上がっていったのではないか、そんな気もするのです
(おー、テキトーに書いたのに尤もらしいなあ(笑))。
よくもわるくもユダヤ人とイスラエルのある勢力は
(別に彼らが一枚岩というわけではない。ムスリムが全部過激派でないのと同じ)、
ホロコーストに至る被差別の歴史を最大限に利用しているわけであります。だから、イスラエルが公然と核保有していても
(英米はともかく)EU諸国も後ろめたい罪の意識の伝承から黙認してるんですよね。





#6403 
不肖デルタ 2006/02/13 12:23


なんか、また兵器利用機器・輸出禁止に引っかかった日本企業が
出ましたね、ヤマハのラジコンヘリの件は
「化学兵器の散布に使われる」って何か、ちょっと大袈裟な
気もしたけど、今度は何かと騒がれる核兵器関連。
三次元測定機って、すげぇエンジニア系のマニアックなブツで
馴染みないんですけど、社名を よく聞いたら、
けっこう身近な商品も売っている会社、ノギスやマイクロメ−タ−
の大手メ−カ−、三次元測定機とかいう特殊な機械は、やっぱ
なかなか売れなくて、少々うさんくさい客でも売ってしまう
のかなぁ(笑
核兵器というと、このところイランが強気で、例のムハマド風刺画
騒動まで利用してますけど、核兵器って、よく考えたら
イスラエルも所有してますよね。イスラエルの核兵器保有は何故
あまり問題視されないんですかねぇ。



#6402 
船頭の孫 2006/02/13 09:43
12のカリカチュア

>民本主義者様

12の風刺画全部が入った画像を見つけました。ウィキペディアの英語版の画像ファイルとして登録されています。

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Jyllands-Posten_Muhammad_drawings.jpg

>アール・ケイ様

確か蔵書に、EUの共通歴史教科書の和訳版があったはずなので、ちょっと探してイスラーム関係の記述をチェックしてみます。





#6401 
民本主義者 2006/02/13 01:15
「説明さえはばかられる絵」ってコレかなあ?

毎日新聞の本日の社説「預言者風刺画 憎悪と暴力の連鎖を断て」には以下のようにあります。
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20060212k0000m070136000c.html
「だが、デンマーク紙が昨年9月に掲載した風刺画の多くは、日本人が見ても悪趣味と思えるものだった。預言者の頭を爆弾として描いた絵はまだしも、説明さえはばかられる絵もある。イスラム教徒の不快感は理解できる。」

「説明さえはばかられる絵」ってナンだ?と血眼になって(笑)探しましたが、コレなのかなあ?
http://www.vnn.org/world/WD0602/WD03-8907.html
黒焦げになった自爆テロ犯たちが天国でムハンマドに
「止まれ、止まれ。処女はもうタネ切れだよ」と告げられて
しょんぼりしています。
ジハードの戦死者は天国で(正確には「天国」じゃなくて「緑園(楽園)」だけど)複数の美人の処女と結婚できるというイスラームの教義と自爆テロの多発を茶化しています。実際に、コーランの描写はかなりエロチックかつ具体的でして、「楽園の具体的な情景は明らかにしない」という作戦をパウロ以来一貫してとっている新約聖書を奉ずるキリスト教徒にとっては格好の突っ込み所だったのでしょう。
『現代アラブの社会思想』(池内恵 講談社現代新書)より引用します。
「側に侍る「美女」たちに課せられた条件も厳しい。「眼差しもしとやかな乙女ら。眼ぱっちとした美人ぞろいで、身体はまるで砂に隠れた卵さながら」(第三七章第四八−四九節)であり、「我ら(アッラー)が特に新しく創っておいたもの、この女たちは。特に作った処女ばかり。愛情こまやかに、年齢も頃合い」(第五六章第三五−三七節)で、「これまで人間にも妖霊(ジン)にも身体を触れられたことがなく」(第五五章五六節)、つつましさのあまり「眼差し抑えた」まま傅く。」(194−195ページ)

「しかしこのような天国に女性の入る余地はあるのか、あるとすればどのような形でなのか、といった疑問は、現代的観点からは当然でてくる。」(195−196ページ)

『女性に天国はあるのか』(ナワル・エル サーダウィ著 未来社)にそんな話があったと記憶しております。

書いてて気が付いたのですが、天国で与えられる処女が、アッラーが特に新しく創ったものであるとコーランが保証しているのですから、それが不足するという描写はアッラーの「全能性」を否定しているわけで、これは預言者ムハンマドだけではなく、イスラームの唯一神アッラー自体にたいする冒涜ととられるおそれがありますな。

ほかにも「説明さえはばかられる」絵があるのだろうか。どこかにまとめて12個の絵を置いているサイトはないだろうか?教えていただけたら、私が逐一解説しますよ。
(なんて安請け合いして大丈夫だろうか?ま、説明不可能なのもあるかもしれません(逃))



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