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2007年3月31日

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★おことわり
当初2月中の更新を目指して書いていたのですが、いろいろとあってズルズル伸びてしまいました。そのため2月〜3月にかけての話題をとりあげる形になってます。



◆今週の記事

◆400年目の「福者」認定

 カトリックの総本山バチカンが過去の殉教者や模範的信者を「福者」、さらに上級の「聖者」に認定することがある、という話は以前にも書いたことがある。確か前法王ヨハネ=パウロ2世がメキシコを訪問した際に初めてインディオの信徒が「福者」認定されたという話題だった。
 このたびそのバチカンが日本の江戸時代初期の弾圧による殉教者188名をいっぺんに「福者」認定することになりそうだと報じられている。法王による正式決定は復活祭の前後になるそうだが、まぁここまで来て否決されることはないだろう。
 この「福者」認定の話は前法王の来日時(1981年)に持ちあがり、1996年に申請、その後10年の厳しい審査を経てようやく実現に持ちこんだとのこと。時間がかかるなぁと思うばかりだが、「福者」に認定される当事者たちは400年近くも前の人たちだ。あのジャンヌ=ダルクだって福者認定は1909年で、やはり死後400年以上経ってからのことだったのだ。

 今回福者に列せられた日本人殉教者の中にはそこそこ有名人もいる。一番の有名人は天正少年使節の一人・中浦ジュリアンだろう。「天正少年使節」とは1582年に九州キリシタン大名たちの名代として伊東マンショ原マルチノ千々石ミゲル中浦ジュリアンの4人の少年がローマに派遣されたもので、3年がかりで1585年3月にローマに到達し、ローマ教皇に謁見している。ただしこの中浦ジュリアンだけは謁見当日に高熱を発したため欠席し、後日非公式に教皇との対面を実現するというアクシデントに見舞われている。卒業記念写真の撮影時に欠席した時に隅に大きく顔写真を貼ってもらえるパターンだろうか(笑)。
 1590年に帰国した4人の少年たちの運命はくっきりと分かれた。帰国後の日本はキリスト教弾圧が強まるばかりで、伊東マンショは弾圧が強まった1612年に病死、原マルチノは1614年に国外追放され1629年にマカオで病死、千々石ミゲルは早い段階でキリスト教信仰を捨て、1632年ごろに亡くなっている(2003年に千々石ミゲルの墓が発見され、そこには寛永9年没とある)。そして中浦ジュリアンは4人の中でもっとも長生きはしたのだが、追放令に応じず潜伏して九州各地で宣教活動を続け、1633年に捕らえられて「穴づりの刑」により殉教した。この「穴づりの刑」とは地面に穴をほり、そこに逆さ吊りにして死に至らしめるもので(鬱血死。つまりかなり時間がかかり苦痛なのだ)、ジュリアンは4日目に至って死んだとされる。最期に「私はローマに赴いた中浦ジュリアンである」と言い残したとも伝えられる。

 中浦ジュリアンのほかにもう一名有名人がいた。少年使節たちと同時期に生き、ローマにも赴いたペトロ=カスイ=岐部だ。少年使節ほど有名ではないが、その旅程は少年使節を大きく上回り、当時もっとも広く世界を見聞した日本人だと言えるだろう。
 1587年にキリスト教徒の子として豊後の岐部に生まれたペトロが国外に出たのは1614年のキリシタン追放令によってだった。マカオに入ったペトロは司祭になるべく勉強したが、マカオでは人種的偏見から日本人が司祭になることはできないため直接ローマに赴くことを決意、仲間の日本人数人とインドのゴアまで行き、そこからペトロのみ陸路でローマを目指すことになる。インドから現在のイラン、イラクを通過したペトロは日本人として初めて聖地エルサレムの訪問も果たしている。
 ようやく1620年にローマに入ったペトロは無事司祭として認められる。そして今度は海路、アフリカ南端を回るコースでインドに戻った。そして日本への渡航を計画して東南アジア各地で船便を探し、ついに1630年にフィリピンのマニラからの船で日本へ帰国することに成功する。ペトロは九州から東北地方まで、各地の隠れキリシタンにかくまわれながら布教活動を続けたが、ついに1639年に捕らえられ、江戸で信仰を捨てるよう拷問を受けるが屈せず、最終的に斬首という形で殉教した。

 今回「福者」に内定した188人のうち、この中浦ジュリアン・ペトロ岐部を含む「司祭」は4人にとどまり、他は一般信者である。しかもこれまでは男性信者が圧倒的に多かったが今回は3分の1を女性が占めているとのこと。これは江戸時代初期の弾圧では一度に大量に、家族もろとも処刑されるケースが多かったからだ。今回の福者内定者の中でも山形県米沢で同日に53人が処刑されたもの、京都で同日に52人が処刑された例があるという。
 今回一挙に188人の列福だが、過去にも1867年に205人が列福された例がある。そして福者より上の「聖者」に列せられた日本人も20人いる。1597年に豊臣秀吉の命で長崎で処刑された「日本二十六聖人」のうち20人が日本人なのだ。
 
 ところでこの話を書いていて気になったのが、いわゆる「島原の乱(最近の教科書では「島原・天草一揆」となってることが多い)の指導者となった天草四郎時貞の存在だ。彼の場合も一種の殉教じゃないかと思うのだが、調べたかぎりでは聖者はおろか福者にも認定されて無いらしい。確かにこれも認定にはいろいろと難しい点がありそうな…
 先ごろ報じられていた話題だが、アメリカのある大学の日本史講座の期末テストで「島原の乱」について学生たちに書かせたところ、20数人の学生が共通して「島原の乱にイエズス会が支援した」という記述をしたという。不思議に思った教授が調べたところ原因はアメリカ版「ウィキペディア」にそういう記述があったからだと判明したのだ。
 ご存知の方も多いだろうが「ウィキペディア」は誰でも書きこむことができるネット百科事典。大勢で記事を書くから一応間違いや虚偽は削除される(あるいは荒らし状態を阻止するために管理者が書きこみ禁止にする)ため、そこそこ信用できる内容になる仕組み。それでも完全というわけではなく、このケースのように間違い(虚偽)に誰も気づかなければ放置状態だ。もしかすると海外にはそういう説を唱えている人が一部にいるのかも知れないが、とりあえずこの発覚により米版「ウィキペディア」の「島原の乱」の記事から問題の部分は削除されたという。

 この事件は多くの学生たちが「ウィキペディア」をかなり信用して使っていることも浮かび上がらせた。実際僕もいろんな分野の調べごとに「ウィキペディア」を使うのが日常的になっており、「ウィキペディアサーフィン」で日々新たな発見をして喜んだりしている。それでも何事も100%信用はしてはいけない、複数ソースから検証しましょう、ということですな(と言いつつこの文も日本版「ウィキペディア」を参照しまくってます)



◆「清水一家」が復活

 海賊史なんてものを専攻したせいもあり、アメリカのシチリア系マフィアの歴史とか、日本のヤクザの歴史にも興味をもって時々首を突っ込んでいる。広島代理戦争をモデルにヤクザからの戦後史を描いた「仁義なき戦い」シリーズを「歴史映像名画座」現代史に加えるかどうかいまだに考えてるぐらいだし(笑)。
 あの「山一戦争」以後、日本ヤクザ社会では世間が大騒ぎするほどの大抗争はしばらく起きていないが、先ごろも東京都内の六本木で発生した住吉会系小林会の幹部の射殺、その報復と見られる山口組系国粋会関係先への銃撃、山口・住吉直接会談による和解成立、その直後の国粋会会長のピストル自殺と続いた騒ぎがあったように、細かい抗争はなんだかんだで続発している。この騒ぎもヤクザ史の中に位置づけると戦後一貫して拡大を続けている山口組の東京進出の強化という面も見られる。言ってみりゃヤクザ界の自民党ですな(笑)。

 さてその山口組の傘下にあり、静岡県清水区に拠点をおく「二代目美尾組」が2月28日に「六代目清水一家」を継承する儀式を行い、注目を集めた。「清水一家」とは21世紀の今もなおTVドラマ化されるほど有名な幕末のヤクザ・清水の次郎長に由来する、いわば「ヤクザ界の名ブランド」で、1966年に五代目清水一家が解散して以来の復活となる。いちおう今度の継承はその五代目清水一家元会長の「公認」を得たものだというが、歴史的つながりよりもまずそのブランドを狙ったものだと見られている。

 さてここで知ってるようで知らない「清水の次郎長」なる人物について簡単にまとめてみよう。
 「清水の次郎長」は1820年(文政3年)に清水港の船もち船頭の三男として生まれている。次郎長は本名は「長五郎」というのだが、母方の叔父・次郎八の養子となったこと、仲間に「長(ちょう)」という紛らわしいあだ名の男がいたことから「次郎八のところの長」をつづめて「次郎長」という通名になったといわれている。1843年に傷害事件を起こした次郎長は逃亡して渡世人となり、やがて清水に一家を構えた。その後の活躍は子分の森の石松の金毘羅代参だの甲州の大親分・黒駒勝蔵との荒神山の対決だの、芝居やドラマや映画で繰り返し繰り返し語られるほど盛りだくさんなのであるが、それらは実のところ明治以後に次郎長の養子である天田五郎の『東海遊侠伝』をはじめとして、次郎長の周辺から出た情報をもとにした講談・浪曲のたぐいで大幅に増幅されたもので史実とはだいぶかけ離れているらしい。
 たとえば次郎長ものでしばしば最大の悪役(敵役)とされる黒駒勝蔵は幕末の尊王攘夷志士の一人でもあり東上する新政府軍に協力、その後文字通り切り捨てられ斬首の憂き目を見た「悲劇の志士」でもあることはあまり知られていない。ヤクザばなしに史実と離れたフィクションが多く混じるのはよくあることで、佐原の「天保水滸伝」やら赤城の国定忠治やら、幕末に多数発生した渡世人・侠客話の大半がそれ。さらに余談だが世界的時代劇ヒーローで盲目の居合い達人・座頭市も天保水滸伝から派生したフィクションキャラで、シリーズ中では国定忠治に会う場面もあったりした。
 日本が近世から近代へと移行する幕末期にこうしたアウトロー・ヒーロー伝説が多数発生したのは世界史的にみても偶然ではないらしい。この問題については東欧史研究者で、とくにハンガリー近代の義賊「ベチャール」の研究で知られる南塚信吾氏の『アウトローの世界史』(日本放送出版協会、1999)という本をお読みいただきたい。洋の東西の近代(あるいは近代直前)のアウトローたちを一堂に集めて論じた非常に面白い本である。僕はこの南塚先生の西洋史授業をとってレポートで不可を食らったいい思い出があるが、別に恨んでませんので宣伝しておきます(爆)。

 話を次郎長に戻すと、次郎長は黒駒勝蔵ほど政治的な深入りはせず清水に根を張ることにつとめていたようで、幕末動乱期で旗幟を鮮明にしたふしはない。ただあの咸臨丸が清水港で新政府軍と交戦した折には水死した幕府側の武士たちの遺体を回収・埋葬して、山岡鉄舟ら旧幕臣と人脈ができたりはしている。また明治に入ると博打うちからは足を洗い、囚人を使っての富士山麓の開拓事業や英語塾の経営など、新時代の清水港発展に貢献した事実はある。講談や浪曲、さらには映画やTVで繰り返し(下手すると忠臣蔵並みに繰り返されてる)物語られたため「全国区」になっちゃった清水の次郎長だが、それを抜きにしても地元ではそれなりに人気を集める部分はあったようだ。

 次郎長の地元・清水市も2003年の静岡市との合併により静岡市清水区となった。「清水」という地名もJリーグの清水エスパルスぐらいでしか表面的には見えなくなってしまった。そんな清水港では「清水といえば次郎長」ということで、以前から次郎長一家を観光の目玉にしており、次郎長の生家や晩年を過ごした船宿などで「清水一家」と冠した次郎長グッズを販売し、「次郎長道中」なる仮装行列の行事もやっていたという。
 で、ここでヤクザが「清水一家」を継承して看板を掲げてしまったために話が厄介になってくる。現役のヤクザ団体の名前を観光の目玉に使えるのか、というわけで「清水一家グッズ」の撤去やら祭りの「切った張った」の自粛ららという事態になったのだが、考えてみると次郎長だって明白なヤクザのはずなんだよな(笑)。昔の話ならいいのか、いいヤクザ・悪いヤクザの線引きをするのか、という問題も生じてくるように思うのだが…

 そんな事情を反映してか、警察が動いた。3月19日に静岡県警は浜松市内の女性を脅迫した容疑で「清水一家」傘下の暴力団組長を逮捕した。組長自身は容疑を否認しているが、マスコミは待ってましたとばかり「清水一家、初“お縄”」と報じた(笑)。さらに28日にはこの件に関して「清水一家」本部に県警が100人体制の家宅捜索に入ったりしている。これまた「次郎長ゆかりの「清水一家」本部を家宅捜索」などといった見出しで報道されちゃっているのだが、警察も話題を呼んでしまったからとりあえず動いてます、って感じがアリアリなんだよねぇ。
 


◆CIAが明かす戦後秘史

 僕が敬愛してやまない漫画家の一人、四コマの巨匠いしいひさいち氏はその素材にニュース、歴史、ミステリと僕の趣味によくあうものをかなりマニアックに使っていることがある。国際情勢ネタを集めた四コマ集ではブッシュ米大統領とそのスタッフ(とくにライスさんの出番が多い)がしばしばネタにされているのだが、その中にこんなのがある。
 イラク戦争の理由とされた「大量破壊兵器」を探す米軍。ところが全然見つからず、「どうでもいいものはいっぱい出てきました」とライスさん(当時は特別補佐官)がイラクの地図を見せてブッシュ大統領に説明する。イラクの地図には確かにどうでもいいような発見物がいっぱい書き込まれているのだが、その中に「辻政信の墓」がさりげなく混じっているのだ(笑)。気づいた人だけ、分かった人だけ笑ってくださいと言わんばかりに(実際4コマのオチには何の関係もない)

 辻政信は歴史の教科書にこそ載っていないが、知る人ぞ知る有名な日本軍人である。もっともかなり「悪評」の方で有名な人物になっているのだが。
 1902年に生まれた辻は、陸軍幼年学校、陸軍士官学校をそれぞれ首席で卒業、陸軍大学校も成績3位で卒業して「恩賜の軍刀」を受けるなど、まさに軍人のエリートコースを突っ走っている。しかし単なるお勉強エリートにとどまらず早くから謎めいた「暗躍」を見せており、1934年(昭和9年)の陸軍青年将校と士官学校生徒らによるクーデター未遂「陸軍士官学校事件」では、当時生徒隊中隊長であった辻は計画を報告した候補生を逆にスパイとして利用し、集めた情報をもとに独自の政治的判断で行動・告発してクーデター首謀者ら(いわゆる「皇道派」になる)を逮捕させている。辻自身も誣告罪(ぶこくざい)で告発されたが軽い処分で済んでおり、この時のしこりが後の「ニ・ニ六事件」にまでつながっていったりする。
 その後満州の関東軍に転任した辻は、あの「ノモンハン事件」を引き起こすことになる。もちろんソ連・モンゴルと日本・満州の国境紛争の発生自体は彼の責任とは言い切れないが、その紛争を東京の指示に逆らってまでの独断専行により全面戦争に発展させ多大な被害を出した張本人であることは間違いない。困ったことにこれだけのことをしておいてまたまた辻は軽い処分で済まされ、むしろ出世して陸軍参謀本部に配属され、日本の戦争の指導に関わることになる。
 太平洋戦争が開始されるとシンガポール攻略でまたまた独断専行の指揮を執り、司令官の山下奉文がその日記に「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と書いてしまうほどだった。このシンガポール陥落の際に起こった華僑虐殺も辻の指示だったとの説もある。その後辻はフィリピンに渡り、ここでも「バターン死の行進」との深い関与の可能性が指摘されている。
 太平洋戦争において辻の悪名を高めているのはガダルカナルの戦いだ。辻は現地の実情を無視した無茶な作戦を立案して現地に乗り込み、対立した現地指揮官を職権を利用して罷免し、威勢のいい報告ばかりをする一方で作戦は壊滅的なまでの失敗に終わり、多大な犠牲を出すことになった。またしても困ったことに辻はこの件の責任を全て自らが罷免した現地指揮官におっかぶせており、その後もビルマ戦線などで無茶な作戦を展開してはトラブルを続けている。
 辻は敗戦をタイのバンコクで迎えるが、僧侶に変装してしばし逃亡生活を送ることになる(この時期にタイ国王ラーマ8世の怪死事件への関与までささやかれていたりするそうで…)。敗戦のほとぼりが冷めたころに日本に帰国し、逃亡中の体験を記した著作をベストセラーにし、1952年には衆議院議員に当選、自由党から自由民主党に所属し、1959年からは参議院議員に転じた。この時期に議員会館で彼に取材したことがある作家の半藤一利(当時は文芸春秋の編集者)は著作『ノモンハンの夏』のあとがきに彼の印象を「絶対悪が背広を着て座っている」などと表現している。
 ところが1961年。東南アジアの視察旅行と称して40日間の休暇をとった辻はそのまま帰国せず、完全に消息を絶った。判明している最後の消息は、またもや僧侶に変装してラオスに入っていた、というもので、その後彼がどうなったかは全く分かっていない。1969年に裁判所が死亡宣告を行っているが、もし死なないで生きているとすれば今年で105歳というわけで、まぁ不可能なことではない。「実は生きていてエジプトのナセルの顧問をしている」との噂も流れたとかで、上述のいしいひさいちのネタもその辺からの連想なのだろう。

 さてここまでは前フリ。
 2月の末、アメリカの国立公文書館で閲覧解禁となった戦後直後の日本に関するCIA極秘文書の内容が大きく報じられた。大きく二つの話題で、そのどちらにも辻政信の名前が出てくるのだ。
 
 一つはCIAが日本における反共工作のために日本の右翼勢力を利用する計画に関するものだった。日本占領後はじめのうちは元軍人や右翼など戦争推進者らを排除していたアメリカだったが、朝鮮戦争が始まる1950年ごろから占領政策を転換し「反共」のためにこうした連中の利用を考えるようになる(こういうコロコロとご都合なあたりは今のアメリカもおんなじだな)。そこでCIAが接近したのが右翼の大物・児玉誉士夫であり、戦犯にならずに済んでいた(今日的な用法からすればまさに「戦犯」そのもののはずの)辻政信だったというわけだ。
 しかし、児玉と辻はCIAの「期待」を見事に裏切ってしまう。今回公開された文書によれば「彼らは自らの威信や利益のために情報をたびたび捏造した」「日本の戦後は、驚くべき数の、役立たずの情報提供者を生み出した」と散々な評価が書かれているそうな。CIAの工作資金を持ち逃げしたり同じ情報を複数の情報機関に売るなど、目に余るものがあったようだ。特に児玉に関しては「情報要員としての価値は無きに等しい。彼はプロのうそつき、ギャング、ペテン師、大泥棒だ。もうけることにしか関心がない」と物凄い「評価」(笑)。そりゃー「東の児玉、西の田岡」と山口組組長と並び称せられ、後にロッキード事件に関わって逮捕されるような人ですからね。情報要員を期待するのはそもそも間違っていたんでは。
 一応大本営の参謀でもあった辻についてはもうちょっと評価していたのか、CIAは対中国工作を彼にやらせようとしていたらしい。しかし辻の真意がアメリカを利用した日本の再軍備にあると分析され、「第3次世界大戦さえ起こしかねない男」と、ある意味「高い評価」を下して警戒していたという。どこまでのアブナイ人だったわけですな。ただ辻の謎の失踪についてはアメリカの意を受けた中国潜入に失敗したとか、逆に辻が勝手に工作をしそうになったのでアメリカに消されたとかの説もあったりする。

 もう一つ公開され、僕なんかには驚きつつも「やはりあったか」と思わされたのが「戦後のクーデター未遂事件」だ。
 1952年10月31日付のCIA文書によれば、やはり元大本営参謀の服部卓四郎ら旧軍人を中心とする6人のグループが、同年7月に当時の吉田茂首相を暗殺して鳩山一郎を新首相に担ぎ出すクーデターを計画していたという。彼らは当時の吉田首相が戦争協力のために公職追放されていた者や右翼勢力に対して敵対的であるとみなし、自らも公職追放者で憲法改正を掲げていた「右派」であるところの鳩山に政権をとらせようともくろんだらしいのだ。今からすれば何とムチャなと思う話だが、東アジアでも冷戦構造が緊迫していた時期でもあり、韓国の政治史を想起すればアメリカの暗黙の了解のもとにクーデターに反共軍事政権が成立した可能性だってないとは言い切れない。
 もっともこのグループの表向きの代表であった衆議院議員・辻政信(服部とはノモンハンや太平洋戦争を共に指揮して失敗し責任もとらなかった“盟友”であった)は「敵は保守の吉田ではなく社会党だ」と説得してこの計画を思いとどまらせたという。この未遂事件がなんでCIA文書に記録されているのか、その点にかなり興味があるのだが、やはり辻の線からCIAに話が流れていたんだろうな。もしかすると辻を通して計画を知ったCIAが止めさせたのかもしれない。

 結果的にこの計画は実行されず、戦後日本はそれなりに安定した政治体制のもとで平和を謳歌することになるのだが、時々こういうヒヤリとする場面があったんじゃないか、と思わされる。また戦中と戦後の見落としがちな連続性、「戦争責任」のあやふやさなど、いろいろと考えさせられる報道だった。
 「昭和史の闇」はまだまだ隠されているのかもしれない…



◆コツコツやって、ご苦労さん!

 このところ集まった訃報ネタを並べてみたい。

 3月22日、作家の城山三郎さんが79歳で亡くなった。経済小説のパイオニア、というのがよくある紹介だが、僕自身は歴史小説しか読んでいない。それもドラマを先に見て…というパターンだったのだが。

 そのドラマとは『男子の本懐』。1981年にNHKが放映した硬派の長時間ドラマで、北大路欣也浜口雄幸首相を、近藤正臣井上準之助蔵相を演じ、昭和初期のこの二人が進めた「金解禁・緊縮財政による経済改革」と「軍備縮小の平和外交」が台頭する軍部・右翼によって文字通り「抹殺」され、その後の日本の突き進んだ破滅への道を止めることができなかった…というのを描くドラマだった。なかなかいい出来だったので原作小説をそれから読んでみた次第。ドラマは原作にかなり脚色を加え架空人物も登場させるなどドラマとしての工夫が多いが(タイトルの「男子の本懐」の意味合いも異なっている)、原作はほとんど「遊び」のない、ほとんど実録に従って展開していく硬い伝記小説だ。ドラマも小説もともに、ちかごろどうしても昭和前期(特に一桁台)に関心を持っていた僕にはかなりのヒットとなった。なお、このドラマは数年前にNHKで再放送されており、その際に城山氏自身が浜口・井上の二人を語るインタビュー映像がおまけでついていて、これはこれで貴重な映像資料となっている。

 僕が読んだ小説『男子の本懐』は城山三郎全集のもので、同じく昭和前期をテーマとする小説『落日燃ゆ』も併録されていた。これもドラマ化した過去があるそうだが残念ながら未見で、小説で初めて接することになった。こちらは戦前に首相をつとめ、東京裁判においてA級戦犯として処刑された唯一の文民である広田弘毅を主人公としている。
 A級戦犯を主人公としたといっても広田はむしろ一緒に処刑された戦争推進者たちに翻弄された被害者というべき存在に描かれ、裁判においてもむしろ自ら死を望んでいたという解釈を提示している。城山氏は広田弘毅の遺族にも取材しており、この小説の解釈はかなり「定説」となってきているのではないかと思う。なお広田弘毅も他のA級戦犯ともどもあの靖国神社に合祀されているのだが、遺族は毎年戦死者の追悼のために神社に参拝しつつも広田弘毅自身がそこに祭られていることを認めていない。「私はそこにいません〜♪」ってわけです(笑)。それにしても上の記事で書いた辻政信なんかのことも考え合わせると戦争責任の処理って問題だらけですな。
 というわけで、実は僕がちゃんと読んでいる城山作品はこの2作だけ。他に大河ドラマの“原作”ということになる『黄金の日日』(ルソン助左衛門が主人公)とか『秀吉と武吉』(村上武吉が主人公)とか、何か僕の専攻テーマとかぶる小説もあるのだが、まだ読んではいない。しかし城山氏の歴史小説というとやはり「男子の本懐」「落日燃ゆ」が代表作としてすぐ挙げられているのは事実で、今度の訃報記事でも大半がそうだった。

 この世代、青春期に戦争体験をした世代の創作者に多くあることだが、城山氏も「戦争に行かなければ小説家にはならなかったでしょう。あのような戦争を二度と起こさないためにはどうしたらよいか、絶えず考えながら書いてきました」(東京新聞に載っていた追悼記事より)と、自身の戦争体験を作家活動の大きな動機と語っている。1945年に17歳で海軍特別幹部候補生に志願して海兵団に入隊、ここで上官らのすさまじい暴力が飛び交う軍隊の非人間的実態を体験し、「あのころは人間の値段が一番安かった。戦争を繰り返さないために、教育の根本から考え直し、一番大切なのは人間の命なのだと教えなければだめですね」(同記事より)と語った、その言葉は実に重い。


 3月23日、中国は北京市内で毛岸青さんという人が84歳で亡くなった。誰よそれ?とお思いだろうが、実は中華人民共和国の建国者・毛沢東の次男である。毛沢東は生涯に5回結婚しているが、毛岸青さんの母親は1920年に結婚した2度目の妻の楊開慧で、毛沢東の恩師の娘だった。2度目の、といっても最初の結婚は毛沢東がまだ14歳の時ですぐ死別したというからこれが本格的な最初の妻といっていいようだ。毛沢東は彼女との間に長男の岸英と次男の岸青、三男の岸竜をもうけているが、楊開慧は1930年に蒋介石率いる国民党の共産党狩りによって捕らえられ、処刑されてしまっている。まだ幼かった岸青さんは上海の国民党の収容所に押し込まれ、このために生涯病弱となったと言われている(三男の岸竜は病死している)
 その後、毛沢東の次の妻となった賀子珍にひきとられて一緒にパリやモスクワに逃亡生活を送っている。中国に帰国したのは第二次大戦が終わった1947年で、父親と再会したのも共産党が内戦に勝利した1949年になってからだったそうだ。毛沢東の息子といっても特に特別扱いされることはなかったようで(毛沢東の5番目の妻となる江青が煙たがったんじゃないか、って気もするんだが)、大連で静養生活を送って体調を回復させたのち軍事科学院で研究の仕事についていた、というほかは特に行動は伝えられていない。なお、兄の毛岸英は1950年の朝鮮戦争に中国義勇軍の兵士として参加し、戦死してしまっている。この時の義勇軍司令官の彭徳懐が後に文革で粛清された一因に、毛沢東が息子の戦死を恨んでいたことがあるという説もある。
 ともあれ岸青氏、聞く限りでは権力とはほとんど関わりを持っておらず、そのためにその後の文革の動乱も江青ら四人組の失脚も特に関係なく、比較的平穏な人生を歩めたようだ。蒋介石や金日成が「世襲」を実行した中で毛沢東だけがそれをやらなかったのは東アジア的には奇跡に近い気もするが、国のためにもこの人個人のためにもそれが幸せだったということかな。
 ところで大学時代の先輩で中国に留学していた方が、「北京では毛沢東の孫と同級だったよ。特に目立たず冴えないやつだったな」と話していたのだが、この岸青さんの息子さんなのかな…1960年に結婚とあったので、不自然ではない気がする。
 

 この「史点」では珍しい芸能関係の話題も。3月27日に歌手・俳優の植木等さんが80歳で亡くなった。クレージーキャッツが一世を風靡したなんて時代は、ドリフ世代の僕の生まれるずっと前の話であるから実体験としては知らないわけだが、戦後文化史を語る上で高度成長期の明るさを象徴する「無責任男」「スーダラ節」は絶対にはずされないため知識としては知っている。なお世界映画史的にも植木さんは重要で、「世界初のワイヤーアクション俳優」だったとも言われている(映画のほうは見てないから未確認なんだけど)

 この人の「等」という名前は、差別解消運動にたずさわっていたお父上・徹誠さんが「人間平等」の意味を込めて命名したものであったという。このお父上というのがなかなかすごい人で、もとキリスト教徒の浄土真宗大谷派の住職で戦前に反差別、さらには出征兵士に対して「人を殺すな、お前も生きて帰れ」と呼びかける反戦運動を展開し治安維持法違反容疑でたびたびしょっぴかれていた、という人なのだ。戦中の宗教者でもここまでやった人はめったにいないはず(逆に「敵は殺すのが功徳」とポア思想並みのことを言っていた僧侶もいる)
 植木さんが「スーダラ節」の歌詞を見て深刻に悩み、このお父上に相談したところ「わかっちゃいるけどやめられない♪」という一節は親鸞聖人の教えにかなう」と勧められたというのは有名なエピソード。具体的にどういうことなのか気になったので調べたところ、ちゃんと浄土宗のお寺のホームページで紹介されていた(こちら)。なんでも親鸞が経典を捨てて念仏のみに専念したはずなのに、高熱の折に経典が一字一句出てくる夢にうなされ、このときに「人間はわかったつもりでも、やめることができない。自らの計らいを捨てきれない。あるがままで一切を仏に任せるしかないのだ」と述べた…というのですな。魚も食い、妻帯もして子もなした親鸞らしい人間くさいエピソードではある。
 

 たまたまこの昭和の無責任男と同じ命日になってしまったのが、僕の母方の祖母だ。「千代」というその名にふさわしく95歳となかなか長命だった。葬儀で真言宗の坊さんが言ってた享年で言うと96歳ということになるのか。実は僕自身は喜寿の祝い以来会ってなかったりするのだが…ともあれ、先日行われた葬儀は親戚一同が久々に集まり、当人の長寿ということもあり「めでたい」ぐらいの感じで終始明るいお祭りムードであった。性格もかなりのお祭りな人だった故人にふさわしいとも思えた。

 祖母の生まれは1911年9月である。年表で調べてみると、この年は小村寿太郎外相が関税自主権回復に成功して年内に死去し、中国では辛亥革命が勃発している。うーむ、こうして調べてみるとこういう遠い昔の歴史のように思ってる話もかなり近い時代のことだったのですな。同じ年の生まれの有名人で存命のを探したら、元大本営参謀で戦後は商社マンとして活躍(暗躍?)、さらに中曽根内閣の「参謀」となった瀬島龍三氏がいたりした。

 祖母は福島の出身だが、早くから東京に出ていた祖父(実は母親同士が姉妹の「いとこ」であった)と結婚したため都会暮らしが長い。また大正〜昭和期の比較的自由な空気の中で青春を送ったためか祖父ともども割とリベラルで、太平洋戦争中も日本敗戦を家庭内では公言していたそうだ。戦時中故郷の親戚をたよって福島に疎開したが、親戚のあまりのいじめに耐えかね、むしろ赤の他人がずっと親切だったとか、玉音放送を聴いてすぐに内容を把握したが周囲の人が「もっと頑張れとおっしゃっているのだ」と言っているのを内心バカにしていたとか、まぁそんな話を母親経由で聞いている。ちなみに五人の子供を生み、僕の母はその末っ子だ。食事の時に家族を呼ぶときは「早く来ないとなくなるぞ〜」だったとか。家庭内でも食料の奪い合いだった時代の話である。
 晩年は長かったが、踊りを趣味としており、体が利かなくなるまで人に教えるのを続けていた。そのためか位牌に書かれた戒名は「光寿千大姉」だった。

 以上、有名無名、さらには身内までいろんな人が人生の幕を閉じた。それぞれにその生を受けた時代をそれぞれにコツコツ懸命に生きて来たのである。そうした皆様全員に声をかけたい。「ご苦労さん!」と。


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