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2007年5月11日

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◆今週の記事

◆ロシアより哀をこめて

 さて、結局4月バカ更新から一ヶ月も間があいてしまいました。あれから自宅の引越しもあり、新年度であれこれと忙しく、なんだかんだでゴールデンウィークも明けてからの執筆となってます。「週刊」の看板もいちおう掲げ続けてはいるのですが、実質「月刊」状態になっていて恐縮です。

 さてこの一ヶ月の間に起こった世界史的事件といえば、なんと言ってもロシアのエリツィン前大統領の死去だろう。去る4月23日に76歳でその生涯を閉じた。76というと日本では「早死に」と認識されることも少なくない数字だが、この人は在任中から深刻な健康不安を抱えており、いつ死ぬかと騒がれ続けていたこともあって「意外に長生きしたな」というのが正直な感想。日本訪問時に伊豆の川奈で会談した当時の日本首相・橋本龍太郎のほうが先に亡くなってしまうとは、あのときは誰も予想しなかったんじゃないかと。そのせいかどうかは知らないが、エリツィンの葬儀に日本は駐露大使をよこすのみにとどまった(間に合う便がなかったと言い訳しているのだが…)
 ボリス=エリツィンというロシアの指導者の評価は、その前の指導者であるゴルバチョフ氏ともどもなかなか定めにくい。現代史の登場人物の誰もがそうだともいえるが、ああいう激しい変化が短期間に起こった場合は特にその評価は難しい。これからの歴史の展開の中で二人ともあれこれと評価がうつろいゆく気もする。

 エリツィン氏は1931年にスヴェルドロフスクに生まれた。この「スヴェルドロフスク」という町の名前はスヴェルドロフという革命家の名前にちなむものだが、革命前は「エカテリンブルク」という名前だった。「ああ、女帝エカテリーナか」と思いがちだが、あの有名な「2世」ではなく、ピョートル大帝の皇后でもある「1世」のほうにちなんでいる。なお、その町の出身のエリツィンがソビエト連邦を崩壊させたことにより、1991年以降この町の名前はまた「エカテリンブルク」に戻っている。
 政治家・エリツィンとしての歩みは30歳のときにソ連共産党に入党したところから始まる。彼は建築行政を専門としてスヴェルドロフスク州の共産党内で次第に頭角を現し、1976年に州の党第一書記に、1981年にはソ連共産党中央委員会のメンバーに、1985年にはソ連共産党モスクワ市委員会第一書記に、と、それなりに順調に出世している。のちに大統領となってから酒グセが悪いとか言動がヘンだとか、世界中でギャグの種にされた人だが(日本だといしいひさいちがやたらにネタにしていた)、こうしてみるとあのソ連共産党の中で出世していくぐらい、官僚としても優秀な人物だったんだろうなと思える。

 エリツィンが中央政界に登場した当時のソ連は、あとから思えば末期状態だったわけなんだけど、ゴルバチョフによる大改革「ペレストロイカ」の真っ最中。行き詰まった社会主義大国ソ連の建て直しが進められていたが、その中でエリツィンは改革強硬派として目立った存在になってくる。過激な言動で政敵を多く作り、保守派からは敵視され、穏健改革派からもにらまれ、ということで1987年にモスクワ市第一書記を解任、翌年には党の要職から完全に追われていったんは政治生命を絶たれてしまう。
 しかし1989年のモスクワ人民代議員選挙で圧倒的な得票率で当選し、多くの市民の支持を集める「民主改革派」のリーダーとしてかえって政界での存在感を増す。1990年にはソ連邦を構成する最大の共和国であるロシア共和国の最高会議議長(のち大統領)となり、さらにはソ連共産党からも離党を表明して、ペレストロイカを行き詰まらせていたゴルバチョフを改革派の側から突き上げることになった。

 そして1991年8月19日。あの「ソ連8月クーデタ」が発生する。各共和国の権限を拡大する条約締結を阻止し、ソ連の解体に歯止めをかけようとソ連共産党内の保守派が起こしたクーデターだ。このクーデターの当事者たちの証言を集めたドキュメンタリー番組(2006年制作)がエリツィン追悼番組として放送されていたので見たのだが、このクーデターもなかなか単純には割り切れないところが多いようだ。当時クーデター勢力によって別荘に軟禁されていたとされるゴルバチョフ大統領も実はそれほど徹底した拘束ではなかった上に(当人はそうは認めてないが)、クーデター首謀者たちは実はなんとかゴルバチョフを看板に担ぎ出せないかと期待していたというのが真相らしい。今から聞くと驚いたことに、彼らにとっては最大の敵ともいえるエリツィンにさえも一時協力するよう話し合いをもちかけていたようだ。それだけリーダーがはっきりせず、行き当たりバッタリでやってしまったクーデターだったんだろう。
 このクーデターのとき、エリツィンとその側近たちもいろいろ迷いはあったらしい。だが結局は、政敵であるゴルバチョフを支持してクーデター派を「反逆者」として対決姿勢を示すことが得策、と判断する。そしてロシア共和国最高会議ビルに立てこもり、反クーデターの市民を結集して一戦も辞さずの構えをとる。そしてあの「戦車上の演説」の名場面にいたるわけだ。
 歴史はときどき時代を象徴する「名場面」というのを作ってしまう。このクーデターで誰もが思い浮かべるのが戦車の上で演説するエリツィンだろう。この名場面、かなりの政治的計算の上で周囲がお膳立て(演出)してやったんじゃないかなぁと僕は長年思っていたのだが、くだんのドキュメンタリー番組でエリツィン側近が証言するところでは、とくに計算もないほとんど偶然の産物だったようだ。建物の外で市民と戦車兵たちが対話しているのを見たエリツィン自身が「外に出る」と言い出し、側近たちは狙撃による暗殺の危険もあると止めたが、ポピュリスト・エリツィン一流の「政治的嗅覚」が強引にそれを実行させた。戦車の上に乗ったのは単に高いところに登る必要があったからなのだろうが、結果的に「戦車」は「ソ連」そのものを象徴し、それを踏んづけて民主主義を訴えるエリツィン、という見事な構図を生むことになっちゃった…というわけだ。下の写真がその場面の歴史的一枚…って、どうも記憶が混線しているかな?だから四月バカは一ヶ月前に終わってるって(笑)。

歴史的一枚 もともと明確な計画性がなかったクーデターは「三日天下」で失敗に終わり、エリツィンがこのクーデターを破った最大の功労者として称えられる。クーデター失敗直後にゴルバチョフはモスクワに急いで戻ってきたが(余談だけどこのとき発売週刊誌で落合信彦氏が「ゴルバチョフを二度と見ることはないだろう」と書いてしまい、不可抗力とはいえあまりの間の悪さに失笑を買った)、すでに国家の指導者の地位はエリツィンに移っていた。エリツィンは議会にゴルバチョフを呼び出して、さんざんコケにする場面さえ世界に流して「主役交代」を印象付けた。先日のエリツィンの訃報にゴルバチョフ氏は形式どおりに悼むコメントは出していたが、やはりソ連解体などを痛烈に批判することも忘れず、やっぱこのときのウラミがあったかなぁ…。
 そしてこのあとエリツィンはソ連共産党の解体、ソ連邦の解体を推し進め、ソ連を引き継いだロシアの指導者として1999年の大晦日までスッタモンダの政権運営を続けていくわけである(彼が急に辞任した時、すでに史点書いてますんで、過去記事から探してみてね)。その後の彼を見ているとなんとなく大国の政権を「たなぼた」で得ちゃった人という印象がぬぐえず、ゴルバチョフ=信長、ヤナーエフ=光秀、エリツィン=秀吉、ってな例えが頭に浮かんだりしたものだ。

 じゃあプーチン現大統領は家康か!?ってな話はともかく、そのプーチンさんもぼちぼち終わりで、その次の指導者は誰なのかが注目される。当時の「史点」を見てもわかるが、今でこそ「強くて豊かなロシア」の顔になっちゃったプーチンさんだって急になった時点では「どこの誰?」ってなノーマークの人だったのだ。
 とりあえずロシアの「ハゲ・フサフサ」の法則によると、次はフサフサ頭でなければならない(笑)。



◆女王陛下の1776

 先日、米アカデミーの主演女優賞までとっちゃった「クイーン」という映画がある。ダイアナ元皇太子妃がパリで事故死したときの英国王室一家の模様を描いた劇映画という、登場人物がみんな今もその地位にいる状況で作っちゃうとはよくやるよなぁ、と思うばかりの企画だ。内容的には女王エリザベス2世の覚えもめでたいそうで、抗議どころか主演女優ヘレン=ミレンをお茶会に招待したりしている(多忙のためキャンセルになったが)。なお、ヘレン=ミレンはエリザベス1世の方もつい最近TVシリーズで演じているそうで。

 さてそのエリザベス2世が、5月3日から16年ぶりにアメリカを訪問した。訪問にあたっての最大のイベントは、1607年に米バージニア州ジェームズタウンにイギリス人による最初の定住植民地が建設されてから400周年を記念する行事への出席だ。州名「バージニア」は「バージン・クイーン(処女王)」であることになっていたエリザベス1世に由来し、町の名「ジェームズタウン」はその後にスコットランド王からイングランド王になったジェームズ1世にちなんでいる。
 この1607年の入植の半世紀前にもイギリスからの北米大陸入植が試みられているがそれは全滅し、その後のアメリカ合衆国につながるイギリス人植民地の建設はここから始まることになる。このときの入植は108人で行われたがその年の内に6割が伝染病などで死んでしまったというから、かなり過酷なものだったようだ。それを乗り越えてその後も入植者が続き、13植民地が建設され、それは18世紀後半にいたって本国イギリスに反抗して独立しアメリカ合衆国へつながっていくわけだが、とりあえずここ100年ばかりは英米は仲良しこよし。1976年に行われた「建国200周年」の行事の折にもエリザベス女王は訪米している。

 その折のことに触れようとして、ブッシュ大統領が久々にポカをやらかしてくれた(いや、イラク戦争とか大勢の命に関わる大ポカはずっと続けてるわけですが)。歓迎式典の演説でブッシュさん、1976年のイギリス女王の訪問について「17…」といいかけてしまったのだ。まぁブッシュさんにかぎらずやりそうなミスではあるが。230年前に訪問したことがあることにされかけた女王さまは、訪米日程の最後の夕食会で「乾杯のあいさつを、『私が1776年に当地を訪れました時には…』と始めようかしら」とジョークを飛ばして大いにウケていたそうである(笑)。
 それはそれとして、ブッシュ大統領の歓迎演説、予想はされたことだが「対テロ戦争」での英米の結束を強調し、やたらに「自由を守るための戦い」のフレーズを連発しているのには辟易…彼の口から「自由」って言葉が乱発されると、この言葉の価値がドンドン下がっていくような気がするのだが。

 ところでイギリス女王の訪米に対しては歓迎者ばかりだったというわけでもない。イギリス人の北米植民地建設は先住民(インディアン)への迫害の歴史の始まりであり、労働力としてアフリカから黒人奴隷を大量につれてきた歴史の始まりでもある。小規模ではあるが、先住民や黒人の団体で英女王の訪米にあわせた抗議活動も行われたようだ。それに配慮してであろう、訪米初日のバージニア州議会での演説でエリザベス女王は「50年前に訪問した時は入植者の見方から350周年を祝った。しかし私たちは今、もっと率直に過去を省みることができる。犠牲を伴わずに人間が進歩することはめったにない」と述べて、入植による犠牲者が存在することに言及はしている。

 「史点」ネタとして注目はしていたが書く機会を逸していたニュースが3月末にあった。3月27日にロンドンのウェストミンスター寺院(懐かしいなぁ、行ったことあるんですよ)で「イギリスの奴隷貿易廃止200周年」を記念する式典が開かれ、エリザベス女王やブレア首相も参列したのだが、そこで一人の黒人の参加者が「式典は我々にとって侮辱だ!」と叫び、女王からわずか数mの場所で女王と首相に謝罪を求めるという騒ぎがあったのだ。確かにイギリスは1807年に奴隷貿易廃止法を制定し、奴隷貿易船を攻撃する「反奴隷船」なんて人道的活動も行ってはいるのだが、それを称える一方でそれまでやってた奴隷貿易についての反省がこの式典にはないじゃないか、という声はある。
 その二日前には奴隷の供給元であったガーナで奴隷貿易廃止200周年の式典が行われているが、ブレア首相はビデオメッセージで「奴隷貿易は英国の歴史で最も恥ずべき行為だった。この機会に英国は奴隷貿易で耐え難い苦しみを与えたことに深い悲しみと遺憾の意を表したい」と述べている。なんかどっかで聞いたようなフレーズ…とも思えてしまうが、歴史における「反省と謝罪」の問題は何も日本ばかりではないんだよな。エリザベス女王の演説にもあったが、そういう発想や動きが出てきたこと自体、ここ半世紀の間のことという気もする。


 ほかにもイギリスの歴史関係のニュースがいくつか集まった。
 4月2日にアルゼンチンでは1982年に起こった「フォークランド紛争」の25周年を記念する式典が行われている。「フォークランド紛争」とは、当時軍事政権であったアルゼンチンが、かねて領有権を主張していたイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチンでは「マルビナス諸島)を軍事占領したことに始まり、「鉄の女」サッチャー首相(今度こちらも映画化されるそうで)ひきいるイギリスが軍隊を派遣して同諸島を奪回した73日間の戦争である。この戦争でアルゼンチン側が649名、イギリス側が258名の戦死者を出している。
 あれから四半世紀ということでイギリス政府は1日に両国兵士への追悼の声明を出しているが、その翌日に開かれたこのアルゼンチン側の行事ではシオリ副大統領が「マルビナス諸島はアルゼンチンの領土だ」と演説、退役軍人や戦死者の遺族ら出席者の拍手を浴びていたという。ただしあくまで平和的な対話による領土問題解決を目指しているとは言っているし、当初出席して演説するはずだったキルチネル大統領(中道左派)が出席を見合わせるなど、イギリスへのそれなりの配慮はしている。

 かつて大英帝国が植民地化した最大の国といえば、インドである。そのインドでは5月10日にいわゆる「シパーヒー(セポイ)の反乱」から150周年の節目を迎えるということで、5月7日から11日にかけ全国で大規模なイベントが行われるそうだ。
 この「大反乱」は、きっかけがイギリス東インド会社のインド人傭兵(シパーヒー)の反乱であったため長らく「シパーヒー(セポイ)の反乱」の反乱と呼ばれてきたが、最近では日本の世界史の本でも「セポイの蜂起」あるいは「インド大反乱」などさまざまな表現が使われている。「反乱」というと「支配者に逆らう」意味合いがあるというんで、最近では日本史でも「蜂起」を好む傾向があるし(中国の「起義」みたいだ)、またシパーヒーからインド国民全体の蜂起につながったというんで、インドでの表現をかりて「インド大反乱」だの「第一次インド独立戦争(ガンジーの運動を第2次とする)だのといった呼称も出てきてややこしい。ま、こういう歴史用語の変遷もそのまま歴史観の変遷でもあるわけで。
 結局はこの「反乱」の鎮圧によってイギリスはインドを完全に植民地化するわけなのだが、インド人にとってはこの蜂起はその後のイギリスからの独立につながる栄光の歴史という位置づけである(こういうあたり、韓国はじめ植民地化された国々の歴史観に共通する)。だから国民的大イベントになるのは無理もないのだが、多宗教が入り混じり、ことにヒンズーとイスラムの対立がともすると火を噴くこの国にあって「インド人」の一体感を演出する機会ととらえる政府が音頭をとっているという見方もある。

 「イギリス」は日本の勝手な呼称で、正式には「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」であるというのは、最近では子供でもよく知っている話。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国が同じ君主のもとに連合しているというのが建前で、サッカーやラグビーのチームまでがその「国」ごとに分かれている。2012年のロンドン五輪ではサッカーの「連合王国統一チーム」が実現化ともささやかれているそうだが、ウェールズの監督が難色を示していたりした。ウェールズなんて13世紀には国家としての独立を失っているんだけど(イギリス皇太子は形式的には「ウェールズ大公」となる)、その独立気分が相変わらず強いのには驚かされる。
 連合王国を構成するイングランドにつぐ「大国」であるスコットランドも伝統的に独立気分が旺盛だが(ショーン=コネリーが独立派、って話は何度か書いてますね)、5月3日に議会選挙が行われ、イギリスからの独立を主張する「スコットランド民族党」が改選前を20議席も上回る躍進で、1議席差ではあるが第1党の地位を獲得した。それでも単独過半数はとれなかったため「自由民主党」との連立を協議するそうだが、「民族党」が主張する独立の是非を問う住民投票に関して意見の対立があるとかで、協議の難航も予想されるという。

 そして長年プロテスタント・カトリック両派による対立が続いてイギリスにとって大きな火種のもととなっていた「北アイルランド」。それでも1998年になんとか和平合意にこぎつけたのだが、その後もゴチャゴチャあって「北アイルランド自治政府」は2002年からしばし機能を停止してイギリス政府の直轄統治を受けていた。そしてようやく両宗派の合意でこの5月8日から自治政府が復活する。プロテスタント強硬派政党の党首が自治政府首相、カトリック過激派政党の実力者が副首相となり、「正・副」といえども実質的には上下関係がない「二頭体制」で自治政府が運営されることになるとのこと。その他の閣僚は両宗派の穏健派政党から構成されたそうだ。
 これを「花道」にする形で、就任以来10年と、ここ最近のイギリス首相としては比較的長く続いたブレア首相も退陣を表明した。労働党の新党首が決まる6月までは首相の地位にありつづけるが、次のサミットが最後となる。思えば「史点」毎年恒例の贋作サミットも今年から来年にかけて顔ぶれが大きく変わっていくなぁ。



◆ユア・合図・オンリー

 ここまで来ると今回のタイトルの法則がもうお分かりですね(笑)。「Your EyesOnly」とは直訳すれば「あなたの目にだけ」ということだが、要するに文書などが「極秘」ということ。同名の映画タイトルはその意味を二重にかけた粋なエンディングになっている。

 と、こんなタイトルを持ってきておいて何だが、ここでとりあげるのは特に「極秘」だったわけではない史料の話。そう、今年からその誕生日が「昭和の日」になった、昭和天皇の発言記録がまたまだ出てきたのだ。
 昨年「史点」ネタと思いつつも多忙で書き逃したのだが、昨年日本経済新聞が元宮内庁長官・富田朝彦氏の残したいわゆる「富田メモ」の内容を公表、その1988年4月28日付のメモに、昭和天皇がA級戦犯の靖国神社への合祀について不快感を示し、「だから 私あれ以来、参拝していない それが私の心だ」と気持ちを述べてことが記されていたとスクープした。このニュースがある方面の人々にいかに痛かったかは、強引な反論難癖やヒステリー(日経本社に放火しようとしたやつまでいた)を引き起こしたことでもよく分かる。もっとも昭和天皇が靖国に行かなくなったのは以前からA級戦犯合祀が原因だろうという説が有力だったので、それを裏付ける具体的史料が出てきたというわけで、実のところとくに驚くべきスクープというわけでもなかった。

 で、今度は朝日新聞のスクープ(というか、日経と同じでずいぶん前に本人から託されて公表の準備をしていたわけだけど)で、昭和天皇の侍従をつとめた卜部亮吾氏の日記に、やはり昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀問題について発言した記録があることが明らかとなった。
 富田メモで注目されたのと同じ日である1988年4月28日の卜部氏の日記には「お召しがあったので吹上へ 
長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」という記述があったという。ここでいう「長官」とは当時の宮内庁長官・富田氏のことで、彼と会って「私の心」を語ったあとに卜部氏に対しても靖国問題に言及していたことになる。またここで出てくる「奥野発言」とは当時の国土庁長官・奥野誠亮氏が日中戦争を正当化する発言して大問題となり、まもなく辞任に追い込まれた件を指している。富田メモでもこの件が出てくるが、昭和天皇がこうした発言に不快感(少なくとも良くは思ってない)を持っていたことが再確認できる。
 この4月28日の記述だけでは本人の気持ちははっきりしないとも見えるが、昭和天皇没後かなりたってからの2001年7月の31日の日記には「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」との記述があり、これでもう確定的。それでも時間差があることでゴチャゴチャ言う人は出てくるだろうが、昭和天皇の忠実な侍従である卜部氏が個人の日記にわざわざこんなことを書いているのは、天皇の心情を後世に伝えておこうという意図もあったのではないかと思う。

 天皇という非常に特殊な立場にある人の心のうちというのは分かりにくいが、僕などが勝手に想像するところでは当人としては「臣下どもが暴走して戦争に巻き込まれ、危うく責任者にされかけた」という気分であり、戦争の話が出てくること自体に警戒感があったのではないかと思う。A級戦犯とされ処刑された人々個人個人についてはまたそれぞれに違った感情があった可能性は否定しないが、彼らをいわば「人身御供」とすることで天皇自身の責任を免れているという部分も大きく、寝覚めが悪かったに違いない。これまでに分かっている昭和天皇の言動からすれば「A級」が合祀されることに不快感を持った(あるいは戦争責任論が再噴出することを恐れた)というのは自然な流れだと思うんだよね。
 また昭和天皇は戦後においてもあの好々爺じみた表面露出とは裏腹に、かなり政治的関心を内外に抱いていたことがいくつか明らかになってきている。政治権力を持とうとしたわけではないだろうが、日本という国の千ウン百年続いた王朝の君主としてあれこれ考えるところはあっただろう。その1988年の4月28日の発言でも、わざわざ複数の人間に繰り返している(そして恐らく書き残すよう命じている)あたりは、やはり今後書かれる「歴史」を強く意識していた可能性を感じる。中国の皇帝制度における「起居注」(皇帝の日々の言行を記録したもので「実録」の原資料となる)の伝統が明治以降の天皇にもあったんじゃないかと思われ、こういうこともあと何十年もすれば日本版の実録である「昭和天皇紀」が刊行されて具体的に分かってくるのかもしれない。そもそも…宮内庁は公式には認めていないが、昭和天皇自身が書いた、あるいは侍従が書いた日記的なものが存在するのでは…とも噂されている。

 この報道の直後の5月1日に、日経新聞社がつくった「富田メモ」の検証委員会からも最終報告が出て、「不快感以外の解釈はありえない」との結論が発表された。これまで公開していなかった部分に「(合祀を実行した)松平宮司になって 参拝をやめた」との記述も見つかったことも付け加えられている。
 これと歩調をあわせるかのように、日本遺族会が初めて「A級分祀」について研究会を開いたことも注目される。もっともこれまでの経緯が経緯だけにそうは簡単にいかないだろうし、だいたい神社側が頑強に抵抗するだろう。それに今さら分祀したところで、ここまでイメージがついちゃった靖国に誰が参拝しようと問題視されるのは確実で。そう思うと確かに合祀しちゃったことに「不快感」を持つ人も出てきますわな(笑)。今になっていろいろ出てくる発言は、後世の動きに仕掛けた「合図」なのかもしれない。ああ、強引過ぎるオチですいません。



◆火事とロワイヤル

 あまりにもベタなタイトルになってしまった(笑)。

 今年は世界的な選挙イヤー。アメリカの大統領選は来年だがもう始まっているも同然。クリントン前大統領夫人のヒラリー=クリントン候補がアメリカ初の女性大統領になるかとの話題もあるが、それより先に初の黒人大統領の可能性があるオバマ候補もけっこう有力で台風の目になっている。しかし仮にヒラリーさんが大統領になっちゃった場合、20世紀末から21世紀初頭のアメリカはブッシュ家とクリントン家の「両統並立時代」だった、なんて後世言われちゃうのではなかろうか。そのうち正統性をめぐる南北朝時代になったりして(笑)、などと南北朝ファンはちょっと血が騒ぐのである。ブッシュの弟さんのフロリダ州知事もいずれ大統領選に…なんて話もあるから、笑い事じゃないかもしれない。

 おっと本題はフランス大統領選だった。もう結果はご存知の通り、決選投票の結果、右派のサルコジ氏が次期フランス大統領に決まり、初の女性大統領をめざした左派のロワイヤル氏はその夢を果たせなかった。終始サルコジ氏がリードする展開で、結局その差は縮まらず、いやむしろ決選投票では若干開いてしまう形の結果。ロワイヤルさん、注目はされるんだけどやや発言にオッチョコチョイなところもあって票を失ったところもあるようだ。日本に関して言うと日本の漫画・アニメを暴力的として批判する発言が目を引いたが、まぁ欧米では「良識派」が定番で言っちゃうものではある。
 しかしサルコジさんのほうもフランス大統領としては異例の出自だ。ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ・ボクサという凄いフルネームは、その父親の出自がハンガリー下級貴族であるため。ハンガリー名「ナジ・ボウチャ・サルコジ・パル(ハンガリーでは姓→名の順である)」という父親はソ連占領期にハンガリーからフランスにやって来た移民そのものであり、サルコジ新大統領の母親は祖父の代にカトリックに改宗したギリシャ系ユダヤ人であるという。移民2世が大統領になってしまうんだから、フランスも移民大国になったんだなぁと改めて思わされる。あの移民国アメリカだってWASP以外はなかなか大統領にならないというのに。

 ただその移民2世のサルコジさん、2005年の移民の若者を中心とする暴動のおりには彼らを「社会のクズ」と呼んで物議をかもしたことがある。もっともそういう強気な言動が人気を得ているのも確かで、また移民排斥をとなえる極右のルペン氏と比較して「彼とは同じではない。この国には優秀な移民が必要」と発言して自らも「優秀な移民系」であることをアピールすることで中間層の票もかせいだフシがある。
 少年時代にはかなり貧しい生活もおくったといい、政治家としてはそうエリートコースをひた走ったわけでもなく(そのためかなりのコンプレックスも持ってるらしい)、いわば移民の下克上勝ち組といえる。彼のキャッチフレーズ「より働き、より稼ごう」というアメリカ的競争原理の主張もそういう経験に裏打ちされているのかもしれない。その「成り上がり根性」が災いしたか、当選直後に家族で地中海の豪華クルージングを楽しんでいることが報じられて(しかもそれが投資会社およびメディア事業の大物社長のお膳立てだった)強い批判をあび、一日早く切り上げる羽目にもなっている(それでも「何が悪い」と相変わらず発言は強気らしいが)
 日本に関しては過去に相撲を揶揄する発言をして注目されたことがあるが、あれは強度の日本&相撲通シラク大統領を揶揄する意味合いが強かったとされる。ま、どっちにしても日本についてはよく知らないでしょうな。

 これを書いている時点でぼつぼつ下火だとは思うが、サルコジ当選直後から極左政党支持者を中心とする反サルコジ暴動が各地で起こっており、火炎瓶投げたり車を焼いたりという事態も発生した。というわけで、「火事」と「ロワイヤル」がムリヤリ結びついたところでお開き(笑)。


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