ニュースな史点2007年5月19日
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◆金ざん・銀ざん・銅ざん
そのむかし、百歳の双子「きんさん」「ぎんさん」が国民的アイドルであったとき、東京新聞は「ブラジルに移民していた三番目の姉妹・“どうさん”を発見」と4月1日に報じたことがあるそうな(笑)。
さて受験産業に関わり、とくに社会の授業を長年教えてきた僕にとって最近やっかいな問題がある。生徒にものを教える以上、こちらもそれをだいたい暗記しなくてはならないわけだが、覚えても覚えてもドンドン増えて困る、というものもある。それは「世界遺産」だ。
すっかり有名になったので説明するまでもない話だが、「世界遺産」とはユネスコ(国連教育科学文化機関)が「後世の人類に残すべき文化財や自然」を登録し、その保護を行うというもの。「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(いわゆる「世界遺産条約」)」で定められたものだが、この条約がユネスコで採択されたのは意外に古く1972年のこと。それにしては最近になって聞くような…と思っていたら、それは日本の同条約の批准がなぜか20年も後の1992年になって行われていたためだった。加盟国としては126番目であったという。
批准の翌年の1993年に日本初の世界遺産登録が行われ、「法隆寺地域の仏教建造物」「姫路城」が世界文化遺産に、「屋久島」「白神山地」が世界自然遺産に登録された。その後ほとんど毎年のようにどこかが世界遺産に登録されており、各種入試でも出題率が急上昇、社会科で覚えなければならない必須事項になっていったのだ。
ラインナップを見ると文化遺産で「古都京都」「古都奈良」「白川郷合掌造」「原爆ドーム」「厳島神社」「日光」「琉球王国遺跡」と、日本の有名どころで外国人観光客も多いところがおおむね選ばれている。世界遺産はその登録要件として世界的に普遍的価値があることを前提としているから当然といえば当然なのだ。「白川郷がそうか?」という声も上がりそうだが、あの合掌造の集落って海外じゃ日本イメージの代表としてよく紹介されるらしいのだ。中国からの留学生に聞いたらやっぱり「日本」というと合掌造の集落がよくTVで流れてたらしい。日本でも中国イメージというと桂林の奇観がやたらに使われたから(あれは中国でもかなり南の端で、しかも非常に珍しい風景だから有名なのだ)お互い様とも思えるけど。また「原爆ドーム」は人類史上の「負の遺産」として重大な価値があるのは万人の認めるところだろう。
ところがさすがに僕も2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界文化遺産登録された時は首をかしげた。いや、もちろん紀伊山地の各種文化財には大いに価値があるとは思う。だが、他の登録地と同等に世界人類的普遍性があるか…?となるとやっぱり考えちゃうのだ。つーか、これを認めたら何だって世界遺産になっちゃうと思うのだが。
他の登録地にもそうした面は当然あるのだが、特にこの「紀伊山地」の場合、観光地として地域おこしをしよう、という姿勢が目に付いた気がする。林業を行う地元地権者との話し合いもせずに大急ぎで申請、登録にいたったために林業を妨害する結果になってトラブルになっているし、観光地化によって参詣道の保護どころかかえって破壊が進んでいるとの指摘もある。
ともかくこの紀伊山地登録の辺りから全国の自治体から「世界遺産」への申請が一挙に行われるようになったのは事実。日本では文化庁がこれを受けてユネスコに登録を推薦する候補をまとめるのだが、現時点で「平泉」「石見(いわみ)銀山」の2つが昨年のうちに推薦済み。さらに推薦がほぼ決定しているのが「古都鎌倉」「彦根城」「富岡製糸場」「富士山」「飛鳥・藤原」「長崎の教会群」の4つ。さらに自治体から提案され「継続審議」となっているのが「青森の縄文遺跡」「ストーンサークル(秋田)」「出羽三山」「佐渡金山」「高岡の近世文化遺産」「金沢の文化遺産」「白山」「若狭の社寺」「善光寺」「松本城」「妻籠宿・中山道」「飛騨高山」「三徳山(鳥取)」「萩」「錦帯橋」「四国遍路道」「九州・山口の近代化産業群」「沖ノ島」「宇佐・国東八幡」「竹富島・波照間島」…の20件。なお、それぞれの正式名称は実に長ったらしいのでここでは簡略化したが、いずれも大層で露骨に大仰な名前で売り込んでいるものもあり、ランナップを見つつ僕は苦笑を禁じえなかったことを白状しておく。詳しくはこちらをごらんいただきたい。もう何でもアリだよな、という状況は良く分かると思う。
去る5月12日、佐渡市で「金・銀・銅サミットin佐渡」という催しが開かれた。「佐渡金山」がある新潟県佐渡市、「石見銀山」がある島根県大田(おおだ)市、「別子銅山」のある愛媛県新居浜市の3市長が集まり、鉱山遺跡をかかえる自治体共同で講演やパネルディスカッションなどが行われたのだ。基調講演で新潟県知事は「多くの人に佐渡島を知ってもらう一つの手段として世界遺産登録がある」と述べ、すでに世界遺産への登録の推薦も済んでほぼ内定と信じている大田市長は「登録は一つの過程であり、今後も遺跡を守りながら、魅力ある地域づくりを進めていかなければならない」と話したという。
ところが、そのまさに同日。ユネスコの「国際記念物遺跡会議」(ICOMOS)が、日本から推薦のあった「石見銀山遺跡とその文化的景観」について、「登録延期を勧告する」との報告書を出したことが日本の文化庁から発表された。あくまで「延期」ということなのだが、ともかく今回は登録見送りである。日本政府の推薦を受けて蹴られたケースはこれが初めてで、内定と信じていた石見銀山関係者は愕然とすることになった。
さて、ここで「石見銀山って何?」と思う皆さんに解説をしておこう。実は16世紀の倭寇世界を専門とする僕にはかなり深いかかわりをもつ鉱山なのだ。
伝承によれば石見銀山の開発は1526年に博多商人・神谷寿禎(かみや・じゅてい)により始められたという。初めのうちは石見銀山で銀鉱石を採掘、それを博多に運んでそこで精錬をしていたが、やがて精錬も石見で行うことが可能となって1540年前後から飛躍的に生産量が増大した。それがどのくらい飛躍的だったかといえば、それ以前の日朝貿易では銀はむしろ朝鮮から日本への輸出品だったのが、突然その時期から日本から朝鮮への銀輸出が急増するという逆転現象が起こってしまったぐらい(あまりに急だったので朝鮮側史料に記述が多々ある)。
この突然の逆転の背景には技術的な理由もあり、「灰吹法」という最新の銀精錬技術の導入が大きい。これは銀鉱石と鉛と溶解させて銀と鉛の合金をつくり、それを灰に吸わせることで融点の低い鉛を分離して純銀を取り出すという技術で、当時日本にはなく朝鮮で行われていた。ところがちょうどこの時期に朝鮮側から「灰吹法」の技術が日本に伝わり、朝鮮貿易に従事していた博多商人がその技術をもって石見銀山を開発した、ということになるようだ。
やがて大量の石見銀は凄まじい銀需要が起きていた中国(明)に吸い込まれるように流れてゆき、これを運んでいたのが中国人を主力とする密貿易集団であり、彼らがもたらした銀による密貿易活動の拡大と混乱が、いわゆる「後期倭寇」「嘉靖大倭寇」と呼ばれる事態を招くことになる。まぁ、この辺は当サイトの「俺たちゃ海賊!」コーナーを参照されたい(途中までしか書いてないけど)。またこの巨大な石見銀山の利権をめぐって大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名の争奪戦が行われたという歴史もある。
当時の世界の共通通貨は銀だった、と言っちゃっていいほどの銀需要があり、その需要を満たしたのがスペイン植民地のメキシコやペルーで採掘された「新大陸」の銀で、もう一つはその大半が石見銀山から出た日本銀であったと言われる。その量たるや、なんと世界の銀の3分の1が石見銀であったという試算もあるほどなのだ。従来「新大陸銀」の大量採掘がヨーロッパに価格革命を引き起こした、というのが世界史で定番のように語られていたが、それだけではなく石見銀の影響力もかなりあったのではないかとも言われる。もっともその銀の多くはヨーロッパよりも中国に流れ込んだようで、その大量の銀は明の社会変動を引き起こし、ひいては明から清への交代の影の立役者となった…という見解もある。
しかしその石見銀山も江戸時代前期には産出量が激減しやがて消滅(それまで日本で大量に産出した金・銀はだいたいこの時期に掘り尽くしている)、近代になって何度か再開発の試みが行われているがどれも失敗に終わっている。
というわけで、石見銀山は確かにある時期、世界史的な影響を与えた歴史的存在であるのは間違いないのだ。僕なんかは少なくとも「紀伊山地の霊場」よりは世界的普遍性を認める。調べたところ同時期に大量の銀を産出して世界史的影響を与えた、現在のボリビア領内にある「ポトシ銀山」は1987年に世界遺産に指定されている。もっともこちらは過酷な強制労働により多くの奴隷の死者を出した「負の遺産」という意味合いもあるようだが。
石見銀山の知名度自体は日本国内でも鎌倉はもちろんのこと平泉よりも低いだろう。しかし鎌倉をさしおいて日本政府の推薦を先に受けられたのはこのポトシの例もあったからかもしれない。もっともうがった見方をすると選考にあたって何か政治的配慮があった気配も感じなくはないが…
ICOMOSは今回の石見銀山登録見送りについて「『東西文明交流の歴史に多大な影響を与えた』とする日本の主張については、普遍的価値の証明がされていない」と報告書で述べているという。まぁ実態はともかくとして、ポトシに比べて産出の正確なデータがあるわけでもなく、産出された銀に「メイドイン石見」と書いてあるわけでもなく、その影響の度合いを証明して見せるのは至難の技だと思う。また鉱山跡という性格上、石見銀山の遺跡自体に目立った建造物がないというのも痛い。平泉については蹴られてないもんな。
また、ユネスコの方でも世界遺産の数があまりに多くなっちゃったんで、選考基準を厳しくしようとしているようだ。現在世界遺産の数は全世界で830件に及び、「ありがたみ」がかなり薄れているし(笑)。ICOMOSは昨年から年間の審査件数を昨年から45件に限定してるそうで、その代わり今回のように報告書を審査前に公表し、推薦国に反論する機会を与える形になっている。日本の文化庁も「結論が変更された例もあるから、理解を得られるよう説明したい」と表明していた。
こう結論が先延ばしされては石見銀山の現地・大田市の関係者も胃が痛くなっていることであろう。そこで「大田イサン」…って、おあとがよろしいようで。おお、退散。
◆あの有名人の墓発見
退散したくせに(笑)そのまま世界遺産の話題に続けると、イスラエルにある世界文化遺産に「マサダ要塞」というのがある。本来は「マサダ」だけで現地語の「要塞」を意味し、死海のほとりの絶壁の上という要害の地に建設された大要塞だ。紀元前1世紀に造られ、紀元後70年から始まったユダヤ戦争で、ローマ帝国の支配に頑強に抵抗するユダヤ人たちの最後の砦となったが73年に陥落。以後ユダヤ人は政治的独立を失うわけで、20世紀になって建国されたイスラエルで「マサダを繰り返すな」と国防軍の入隊指揮をマサダ遺跡で行うそうである。
この「マサダ」を建設(正確には「大改修」らしい)したのが紀元前1世紀のユダヤの王・ヘロデだ。5月8日、このヘロデ王の墓が発見されたとのニュースが世界に流れた。
「有名人」と書いたが、日本人の大半はヘロデと聞いても「誰それ?」ってなもんだろう。しかしキリスト教徒の世界では大変な有名人。なぜならイエス=キリストが生まれたその時のユダヤの王であり、そのため新約聖書中にもちゃんと登場するからだ。
ヘロデはもともと当時のユダヤ王国ハスモン朝の武将の一人で、父の代からローマと深い関係をもち、紀元前1世紀のハスモン朝末期の混乱の中で台頭した。混乱の中で自らに危険が及ぶとローマを頼って亡命し、あのエジプトの女王クレオパトラのもとにいたアントニウスを頼ったりもしている。ヘロデの要請を受けたローマ軍がユダヤに侵攻し、エルサレムを陥落させて紀元前37年にハスモン朝は滅亡。ヘロデはローマの支配を受け入れた半独立国ではあるが「ユダヤ王」の地位を得ることになる。
それから間もない前31年にローマ内乱世紀の天下分け目の戦い「アクティウムの海戦」があり、この戦いでクレオパトラとアントニウスを破ったオクタヴィアヌスがローマの支配者の地位を確立、「帝政ローマ」への道を開く。こうした情勢を見てヘロデはしっかりとオクタヴィアヌスに忠誠を誓い、「ローマ帝国支配下でのユダヤ王国」体制を維持した。
ヘロデは大の建築マニアであったらしく、前述のマサダ要塞やエルサレム神殿を初めとする巨大建築物を次々と造ったが、それも彼の権力の強さの現われと見ていい。その一方で彼は自分が「簒奪」した前王朝であるハスモン朝を根絶やしにすることに執念を燃やし、ハスモン朝出身であった自分の妻の母や弟、はては自分と妻の間に生まれた息子二人まで殺害したと言われている。
さてそんなヘロデ王が新約聖書に現れるのはキリスト生誕時の有名な伝承の中だ。「マタイによる福音書」によれば、占星術師(いわゆる「東方三博士」)から「新しい王」がベツレヘムに現れると聞かされたヘロデ王は自分の地位をおびやかす者が現れると恐れ、ベツレヘムにいる二歳以下の男児をすべて殺すよう命じたとあるのだ。ヘロデは真意を隠して占星術師たちには問題の幼子に会ったら報告するよう命じたが、イエス誕生に立ち会った占星術師たちは夢のお告げを受けてヘロデ王のもとへは戻らず立ち去り、イエスの両親のヨセフとマリアもお告げでエジプトへ逃れて危機を脱した、というエピソードである。このエピソードはイエス降誕を神秘化する有名な話ではあるのだが、他の福音書には書かれておらず、まず歴史的事実ではあるまいと考えられている。ローマに忠実で身内をも殺すヘロデへの反感がユダヤ人の間にあったこともこのエピソードが生まれた原因と考えられる。
ただしこの逸話から、イエスがヘロデ王在位時に生まれたのは確かではないか、との推測ができる。ところがヘロデ王は紀元前4年に死去していることが確認でき、イエスが、キリスト教暦(西暦)が本来そう定めたように「紀元元年」に生まれていてはツジツマが合わないことになる。そのため現在でも多くの世界史年表ではイエスの誕生年を「紀元前4年?」と微妙な表記にするようになっているのだ。
その紀元前4年のヘロデの死後、ユダヤ王国の領土は息子たちに分割相続されたが、彼らは「王」を称することは認められず次々と追放の憂き目にもあい、やがてユダヤは完全にローマの属州とされていく。なお、イエスの先輩である洗礼者ヨハネの首を求めたことで有名なサロメ(という名前だったとは聖書には書いてないそうだが)の養父も「ヘロデ」だが、これはヘロデ王の息子の一人、ヘロデ=アンティパスのことだ。
このヘロデ王の墓がどこにあるのか、長らくユダヤ史の謎の一つだったという。ただ有力候補はあり、ヘロデ自身がベツレヘム付近の山に造った要塞兼宮殿、その名も「ヘロディオン」にあるのではないかと昔から言われてはいたという。しかしその確認がなかなか出来なかったというのだ。今回の発見はまさにその「ヘロディオン」の地中においてであったという。
発見者はヘブライ大学考古学研究所のエフド=ネツェル教授。1972年から発掘を進めていたそうで、実に30年以上かかっての発見ということになる。同教授によると「約350mにおよぶ墓への階段」「王と見られる高位の人物の石棺の装飾細工」などが見つかり、それで「ヘロデ王の墓と断定した」のだという。ただヘロデの石棺自体はローマに抵抗したユダヤ人たによって破壊されているらしく、「骨は残っていない」とも言ったという。
報道もまだ細かいところが出てないせいもあるけど、この程度でヘロデ王の墓と断定しちゃっていいのかどうか。
◆「政教分離」のせめぎあい
日本もそうだが、ヨーロッパ経由の「近代国家」では政治と宗教の癒着を禁じる「政教分離」が一般的。それでいてアメリカみたいにキリスト教右派がいろいろと幅を利かせて政治的影響力を持つ場合もあるし、日本みたいにどっかに神社に執拗にこだわったり事実上の宗教政党が政権に参与している場合もある。
イスラム圏ではイスラム教自体がその成立・拡大の経緯で政治と密接に結びつくことが多く、今でも世界のイスラム国家では「政教分離」してないところが多い。もちろんイスラム圏でも政教分離をしている国もあり、その代表がトルコだ。このトルコがこのところ政治と宗教をめぐって大きな騒ぎになっている。
騒がしくなったきっかけは4月末に行われた大統領選挙。トルコの国家元首である大統領は全国民による選挙ではなく国会議員による選挙で選ばれるのだが、第1回の投票で全議員の3分の2以上の得票をした候補が大統領に選出される仕組み。第1回で決まらなければ同じ条件で第2回投票が行われ、それでも決まらなければ第3回以降の投票では過半数を獲得した者が当選、というルールになっている。
そして4月27日に行われた第1回投票で与党「公正発展党」(AKP)の候補であるギュル外相(元首相でもある)が、全議員550名のうち357票を獲得した。当選規定の3分の2を越す367票にはわずかに届かなかったとはいえ、圧倒的な得票。3回目以降の投票で大統領に選出されることが確実となった。しかしこの投そのもの票を野党がボイコットするなど、国内の一部から強烈な反発も呼んでいる。なぜかといえば、この「公正発展党」というのが2002年にトルコで初めて単独政権を獲得したイスラム系政党であるからだ。
トルコ共和国は国民の90%以上がイスラム教徒という国だ。共和国建国前にあったオスマン=トルコ帝国は政治・宗教の指導者を一人で兼ねるスルタン=カリフ制(日本で言えば将軍と天皇の兼任みたいなもん)をとっていたが、これを打倒して共和国を建国した一代の英傑ケマル=アタチュルクは徹底した政教分離、政治の世俗主義の原則を打ち立てた。この人物がどれだけカリスマ指導者であったか詳しい話は当サイトの「しりとり人物館」コーナーをお読みいただくとして、ほとんどケマル一人によって打ち立てられたと言っちゃってもいいトルコ共和国はケマルの死後も、トルコ民族主義とヨーロッパ志向、男女同権(これは当時の欧米より早かった)、そして宗教を国家の統制下において管理しつつ政治は徹底した世俗主義をとる国家としてすでに80年続いている。
それでもイスラム教徒が圧倒的に多い国であるのは事実で、過去にも何度かイスラム系政党が政権をとったことはある。しかしそのたびに「ケマル主義の守護者」を任じる軍部がクーデタを起こし、その政権をつぶしてきた歴史がある。軍部というとどこの国でも保守的傾向があるものだが、トルコにおいてはその「保守」は世俗主義・政教分離の「保守」に向かう。軍部だけでなく司法界も同様の「保守性」で、イスラム系政党が出来るたびに裁判所がそれを非合法化し、つぶしてきている。しかし民主主義国家としては国民に選ばれた政党・政権を軍部や司法界が勝手につぶしてしまうことが大問題であることは言うまでもない。
圧倒的な得票により「公正発展党(AKP)」の単独政権が成立したのは2002年のことだが、このとき党首のエルドアン氏(現首相)は公民権を停止されていたため副党首のギュル氏が首相となった。軍部は当然このイスラム系政党の政権獲得に警戒心をもったが動かなかった。EU加盟を国是とするトルコは欧米諸国に政治の「後進性」をつつかれるのを嫌っていたし、AKPの政権側も軍部とは適度に折り合いをつけて特に宗教的な政策を推し進めようとはせず穏健な路線をとった。またAKP政権自体、アメリカのイラク戦争に一定の協力はしたし(それでもクルド国家だけは絶対に阻止しようという動きもした)、EU加盟のために死刑廃止など「進歩的改革」も進めた。
その一方で、姦通罪の制定や酒類販売の制限、イスラム学校卒業者の高等教育進学の緩和(つまり制限があるわけだな)といった「イスラム的政策」が国会を通過すると、拒否権をもつ大統領がこれを阻止し続けた。現在のセゼル大統領は裁判官の出身で、イスラム政党に対してはやはり警戒感を持っているとされ、「イスラム的政策」の歯止めの役割を果たしてきた。しかしその歯止め役の大統領の地位にAKPの幹部がつくとなると、さすがに軍部は沈黙を守れなくなってしまったようだ。
第1回大統領選の結果が出た4月27日の夜、トルコ軍の参謀本部が声明を発表した。その声明とは「軍は懸念を持って情勢を注視している」というもの。「大統領選の過程で前面に出てきた問題は、世俗主義を脅かすものだ。必要ならば軍ははっきりと自らの立場を示す」ともあり、ハッキリ言って脅しである。
エルドアン首相はこの声明に対して「民主国家として受け入れがたい」と至極もっともな反応を示した。トルコの人権団体「人権連盟」も「わが国の民主主義と法治を傷つけた」と軍の声明を批判している。内心ではトルコの「イスラム化傾向」を警戒しているであろうEU諸国やアメリカも、軍の声明には「民主主義を尊重せよ」と警告するコメントを出している。
しかしトルコ国内の世論も単純ではない。イスラム政党への支持が集まる一方で、ケマル以来の政治の世俗主義を断固守るべしとする大規模デモも繰り返し行われ、5月13日には西部の都市イズミルで100万人も集めた世俗派の巨大デモが実施されるなど、こちらはこちらでかなり根強いものがあるようだ。
結局4月27日に行われた大統領選第1回投票は、投票をボイコットした世俗派の野党の訴えを入れた憲法裁判所が「無効」と判断した。6日にやり直しの投票が行われたがこれも野党がボイコット、出席議員数が定足数の3分の2に及ばなかったとして不成立となった。この事態にギュル外相は大統領選出馬を辞退すると伝えられている。
しかしAKPのエルドアン政権側もただでは引っ込まない。秋に予定されていた解散総選挙を6月か7月に行い、それと同時に大統領選挙に国民による直接投票制を導入するなどの憲法改正の是非を問う国民投票を行いたいと提案したのだ。国民の多数派はこっち、と見ての勝負に出ようとしているわけだが、どうなりますやら。
個人的には宗教がかった政党は大嫌いだし、AKPが進めているという公立教育での宗教的要素の導入なんかは日本でも一部に狙ってる人たちがいることも連想しちゃってそれこそやめてほしいところなのだが、軍部がそれをつぶして回るというのもおよそ民主主義とはいえないわけで…。
◆ミクロネシアに日系大統領
で、続けても大統領の話。
「ミクロネシア連邦」と言われて、世界地図のどこにあるのかイメージするのはなかなか難しい。太平洋のどっかだとは分かるのだが、太平洋の真ん中は細かい島々ばかりである上に、地域名ではポリネシア・メラネシアとか紛らわしいものがあるため、ちゃんと地図で調べないと位置が分かりにくいのだ。さらに「ミクロネシア」という地域と「ミクロネシア連邦」という国家は、重なっているとはいえ別のものだったりする。
ミクロネシア連邦は国土面積702平方km(世界第175位)、人口10万人ちょっと(世界第179位)という、日本だと中規模の「市」ぐらいの国家だ。ただかなり広い海域に散らばる小さい島々(カロリン諸島という)が集まって構成される国であるため、周辺の海も含めて地図上にぬりつぶすと、日本列島と結構いい勝負の広さになる。首都はポンペイ島にあるバリキールで、首都といっても人口は1万人にも満たない。
こんなミニ国家であるが、4つの州が連合した「連邦」である。一院制の連邦議会があって、各州から1人ずつ選ばれた4年任期の議員が4人、各州から人口比に合わせて選出される2年任期の議員が10名の、計14名の議員で構成されているという。日本だとほとんど町村議会並みの規模であるが、このうち4年任期議員4名の中から互選の輪番制により任期4年の国家元首「大統領」が選ばれるという仕組みだ。う〜ん、なんか書いていてジュール=ベルヌの「二年間の休暇(十五少年漂流記)」を思い出してしまうぞ(笑)。
この「ミクロネシア連邦」の第7代大統領にイマニュエル(マニー)=モリ氏(58)が選出されたとの報道が5月16日にあった。モリ氏はこの連邦を構成する州のひとつチューク州の出身で、モリ家はこの地域の酋長の流れを汲むその州でも有力な家であり、州の要職の多くをこの家の出身者が占めているという。そしてこの「モリ」という姓は、日本の姓の「森」のことであり、ご先祖様は正真正銘、高知県出身の日本人なのである。
そのご先祖、正確にはこのたび大統領となったマニーさんの曽祖父は森小弁さんという。記事ではサラッと触れていた程度だったが、調べてみるとなかなか波乱万丈で面白い。
森小弁は1869年(明治2年)生まれ。1889年に上京して東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学、高知県出身ということで同郷の後藤正二郎や大江卓といった政治家たちの知遇を得たというが、いかにも当時の若者らしく自由民権運動に関わり「大阪事件」に連座して投獄された経験もある。やがて民権運動の挫折に失望して今度は海外雄飛を志したようで大学を中退して1891年に南洋貿易の商社「一屋商会」に入社。翌1892年(明治25)に同商会の船「天裕丸」に乗って当時はまだスペイン領(といっても布教以外のことはあまりしてなかったらしい)であったカロリン諸島にやってくることになる。
調べてみたら日本商社の南洋進出は1885年からと意外に早い。深読みすると帝国主義時代の当時のことだけに単に商売だけでなく植民地がらみの政治的背景(そもそも植民地経営だって商売の延長線上にある)があったかな、とも思える。ちょうどそのころこの地域にはドイツが深い関心を示して貿易拠点を作って進出、スペインが対抗して軍隊を送るという騒ぎが起きていたりする。結局スペインは1889年にアメリカとの「米西戦争」に敗れてフィリピンを奪われ、面倒になったのかカロリン諸島をドイツに売却する。森小弁らがこの地域で貿易事業を始めたのがそういう時期だったということは無視できない。
まもなく森小弁は現在のチューク州にあたる「トラック諸島」のモエン島にやってきて、ここでヤシの実からとれる油を日本に輸出する事業を進めるようになる。そして島の酋長に気に入られ、その娘イサベラと結婚し、やがて酋長の地位も継いでこの地域に移住した日本人第一号となった。二人は6男5女もの子をもうけ、地域では21世紀の今なお力をもつ酋長の家系ということもあって(この地域は母系社会なのだそうで)、その子孫はどんどん増えて現在では数百から千人を超えるぐらいいるんじゃないかという。何があったのか知らないがトラックですごした青年時代の間に彼は右手を失っており(どうも島民同士の紛争に参加した際のことらしいが)、後年「左拳」と号することがあったという。
その後ここに住みながら日本の南洋貿易会社のトラック支店主任をつとめ、1899年にはドイツの国策商社とも商売を行うなど、なかなか手広くやっていたようだ。そして1914年に第一次世界大戦が勃発するとドイツの敵陣営で参戦した日本は手近なドイツ領であるこの南洋諸島地域に軍隊を派遣して占領、森もこの占領に協力して軍と現地人の間をとりもつ活動をしたため「勲八等瑞宝章」「従軍徽章」を受賞している。本人が最初からそのつもりだったかどうかはともかく、戦争による占領とか植民地化といった場面では、こうした「先に入っている同国人」の協力というパターンは良く見られるものだ。
で、ベルサイユ条約により旧ドイツ領の南洋諸島は国際連盟から「委任統治領」として日本に与えられ、日本は「南洋庁」を設置してこの地域の統治を始める。そしてこの地域への日本人(沖縄人も多かったし、当時日本領であった朝鮮・台湾人も含む)の移住も多くなり、この地域の多くの日系人のルーツとなった。森小弁もこうした中で独立して貿易事業を進め、公立学校建設など地域貢献もずいぶんしたらしい。
その後南洋諸島は1941年から始まった太平洋戦争の舞台となり、トラック諸島も戦場となった。ただ基地への空襲などはあったものの、このあたりでは島民までが巻き込まれるような悲惨は事態は起こらなかったようで、日本劣勢の情勢のなか取り残されるようにして1945年の日本敗戦を迎える。森小弁の没年はその1945年となっていたが、彼が日本の敗北を知って死んだかどうかは未確認(伝記本があるそうなんだが、取り寄せが間に合わない)。
ところでこの森小弁が島田啓三作の戦前の大ヒット漫画「冒険ダン吉」のモデルだ、という説があるそうな。日本人少年ダン吉が南洋の島に行って王様になるという、まぁ他愛がないといえば他愛ない冒険ばなしだが、現地の住民(土人)を文明人として指導するという内容は今となっては問題視されちゃうだろう。当時の日本人が少なからずそういう感覚であったことは先日話題にした辻正信の「これさえ読めば戦に勝てる」って冊子でも濃厚に出ていることでもうかがえる(読んだせいで勝てなかった、ってオチか)。それとは別に、この森小弁=冒険ダン吉モデル説はほとんどアテにならない俗説というのが有力のようだ。小弁自身は何事も現地の島民と同じように生活するというのをモットーにしていたそうだし。
戦後、この地域はアメリカの信託統治領となり、1970年代から独立へ向けての交渉が始まる。当初ミクロネシアの全6地区をまとめて独立国に、という計画だったのだが、マーシャル諸島とパラオは分離独立することになり、残り4つの地区が「ミクロネシア連邦」として独立することになる。1986年にミクロネシア連邦が独立したとき、その初代大統領になったのはトシオ=ナカヤマ(今年3月末に死去)という、その名前のとおりバリバリの日系人だった。ついでにいえばマーシャル諸島の初代大統領アマタ=カブア、パラオの前大統領クニオ=ナカムラも日系人だ。
さらに調べていったら、1950年代に活躍したプロ野球投手・相沢進氏は日本人の父とミクロネシア人の酋長の娘との間に生まれたパラオ出身者で、現役引退後はミクロネシアに帰り、チューク諸島のトゥルク島の酋長になった、なんて話まで知ることになった。この人も去年の5月に亡くなっていた。
う〜む、最初は4つネタをそろえるための小ネタと思って書き出したのだが、ネットで調べてたらズルズルといろんな話が出てきて実に面白く、結局長くなってしまったぞ。
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